富士日記 2.1

Sep. 6 Thurs. 「あと1週間」

写真は、工事中の早稲田大学戸山キャンパスの様子。稽古はここでやっているのです。
この夏は『14歳の国』の稽古と、その他いろいろ、遊んでいる時間などなかったわけだが、遊べと言われてもそれが僕にはうまく理解できないので、「遊ぶ」ってなにをすることなのだろうと思う。むしろ、芝居の稽古が、誤解を招くのを承知で書けば遊びに近い。今回はいい俳優、いいスタッフに恵まれより、その時間が充実している。
とはいえ、いい作品にしようと細部にわたって丁寧に作っているつもりだ。あと、この戯曲の持っているばかばかしさ、人物の滑稽さが、少しずつできてきた。これは喜劇だ。愚かな人々の姿を描いた。それから、言葉、というか、台詞は90年代のぼくのテキスト。短い台詞をリズムよく応酬する。よく似た台詞がなんども出てきて、やっかいこのうえない。だけど、かつてもそうだったが、俳優たちはそれを見事に表現してくれる。

稽古のあいまに、僕としては珍しく、ちょっと話をしたのは、いとうせいこう君と「群像」で話した「今夜、笑いの数を数えましょう」について。いとう君が見事に言いあてたのは、八〇年代以降、僕の戯曲を俳優たちが少し高い位置にあるものとして、いわば(いやな言葉だけど)崇めるように読んでいるのではないかという。かつてはそうではなかった、いとう君たちと舞台をやっているときは、向かい合って読んでいた。だから僕がいくら笑いを戯曲に盛りこんでも、それがうまく表現できないのではないかと。その通りだ。そこからどう脱却するかなんだけどさ、あのですね、僕も役者たちよりずっと歳をとってしまったわけだよね。かつてのように、同じ位置で向かい合へって、役者に強制してもしょうがないし。
それはそうと、「今夜、笑いの数を数えましょう」は講談社から単行本として刊行されます。こんど、あとがきがわりというか、解説というか、そのために、いとう君とあらためて対談をします。下北沢のB&Bで、連載時のいとう君とのトークを聞いた人はしっているでしょうが、僕が、なにを話すか忘れていた。今度は準備をしっかりして対話にのぞむ。現在形の「笑い」についての本になるでしょう。タモリさんについてとか、道化とか、いとう君のこと、バカリズム君のこと、話すことはまだあるのだ。
さて、これから稽古です。

(13:24 Sep. 7 2018)

Sep. 1 sat. 「14歳の国と、夏の終わり」

気がついたら八月が終わっており、稽古も佳境である。初日まであと二週間。

そんな折、「富士日記2.1」を唐突に更新。いまや、SNSが一般化し、ブログを書くこと、読むこともほとんど習慣としてなくなっている。なぜ、ここで書こうと思ったのか。まずタグとか、そういう書き方を忘れたというのがあるので思い出そうとこれを書いているわけだが、ま、Webの世界の進化は早い。テクノロジーの変容も早い。これをですね、スマフォで読めるようにしなければだめらしい。考えてみればそうだ。どこでネットを見るかといえば、いまや電車の中でのスマフォであり、講義中にスマフォをいじる学生であり、スマフォがないと不安になる私たちだ。その技術を学ぶ時間がいまはない。
とはいえ、なによりも、まあ、14歳の国』の宣伝のためだ。914日より「早稲田小劇場どらま館」で上演がはじまる。Twitterでも毎日、ちょっとずつ稽古の話を書いているものの、少し長い文章を書いておこうと思ったのは、あのTwitter140文字では表現しきれないことがあるからだ。
さて、14歳の国』は1998年にいまはもうない青山円形劇場で上演された。創作の背景にあるのは、1997年に起った「神戸連続児童殺傷事件」であり、翌年の98年にいくつかの中学校で起こったバタフライナイフを使った殺傷事件だ。彼らは14歳だった。その後、「キレる14歳」と呼ばれた世代だ(もちろんその世代が皆、キレたわけではなく、「キレなかった14歳」もいる。たとえば、『バルパライソの長い坂をくだる話』で岸田戯曲賞を受賞した神里雄大くんがそうだ)。そして、ある日、新聞を読んでいたら中学校の教師が体育の時間に生徒の持ち物を調べていたという事件が報じられていた。『14歳の国』はほぼこの出来事が元になっている。きわめて演劇的な状況だと思ったからだ。

白水社から戯曲が単行本されたのは、青山円形劇場の初演のときで、初日にはすでにロビーで売られていたのだから、どうしてそんなことが可能だったのか。どうやって作ったのかまったくわからない。白水社のW君のおかげである。その単行本の「あとがき」で私はこう書いている(ここでの「神戸のあの凄惨な事件」とは、先に触れた、「神戸連続児童殺傷事件」のことだ)

 神戸のあの凄惨な事件をニュースで聞いたとき、正直なところ、ずいぶん子どもっぽい犯罪だと思った。劇的な演出のあざとさにグロテスクなものを感じたし、犯行を知らしめたり、挑戦状を送るという手つきに、わざとらしい演技をする俳優を舞台に見るような恥ずかしさを感じた。犯人が十四歳だと知ってひどく驚いた。十四歳を子どもと表現していいかわからないが、「子どもっぽい犯罪を、子どもが犯した」ことにひどく驚いた。「子どもっぽい犯罪」はたいてい大人が犯すことになっており、「子どもじゃないんだから、このばかが」と人は報道に触れてそう感想を口にしカタルシスを感じる。だが、子どもが、「子どもっぽい犯罪」を犯してしまった。これはかなりまずいことになっているのではないか。社会のシステムが根底からゆがむ。子どもの犯した、「子どもっぽい犯罪」に大人の社会が翻弄され、犯人当てゲームが進行するやら、わけのわからない目撃証言が出現するやら、一連の事態の全体が、幼稚な劇のようであり、ことによると否応なく、私もまた劇に参加させられていたのかもしれないのだ。
 十四歳を劇にしようと思った。
 けれど、けっして十四歳の人物をそこに登場させてはいけない。十四歳についての大人の劇にしなければ、あの劇を再現してしまうことになるからだ。むしろ、一度、上演してしまった劇をあらためて表現し直すことでようやく、あの気持ち悪さから、私自身、脱け出せるのではないか。
 足もとがぐらぐらする。そこは、『14歳の国』。机と椅子。学校鞄。教科書。ノート。筆記具。部屋はひどくゆがんで見える。

 本公演に先だってリーディング(いわずもがなですが、戯曲を読む、つまり朗読劇ですね、テキストを試すという)を上演したとき、「けっこう自由に学校にものを持ってきているのになぜ持ち物検査をするのか」という意味の感想があった。つまり「神戸連続児童殺傷事件」も「キレる14歳」も忘れられ、「ナイフ」の重みが伝わらないのだと思った。それは事件をまったく知らない者ではなく、事件を知っている者もまた、あのときの「ナイフの重み」の感触が伝わらないということだろう。
それは仕方がないと思った。戯曲を書きかえたり、演出を変えてもしょうがない。もちろん今回は女優が中心なので、その部分で言葉を変えたが、その時代の生々しい事件の感触だけではなく、もっと普遍的な「14歳」と、「教室」が描ければいい。あるいは、正しいことをしていると考えていながら、こそこそしている大人たちの姿が描ければと。それは普遍的ではないだろうか。なにしろ学校の教室は変わっていないし、机のサイズもわたしが中学生の頃からほとんど変わっていない。
高校の演劇部から上演の許可を求める連絡がいまでも届く。とてもありがたい。いまもなにかが伝わることがうれしい。なにしろ、単行本の後半には、「高校演劇必勝作戦」という半ば冗談の手引もある。90分以上ある作品を、いかに、高校演劇の規定に沿って60分に収めたらいいか。そこで私は書いた。

「ものすごく早口でやる」

 確認していないのでなんとも言いようがないが、これはどこの高校でも採用されなかったと思う。採用した学校があったら教えてほしい。ものすごく早口なのだろうなあ。そして改変も許可した。高校の演劇部は女子が多いから、そこをどうしたらいいか考え、こんなふうにしましたと連絡をくれる。繰り返しになるが、今回の『14歳の国』は女優が中心だ。五人中、四人が女優である。それでもできる。それでもこの作品は可能だ。それを示したいという意図もあった。

「早稲田小劇場どらま館」にいらしてください。小さな空間です。客席数も限られていますが、そこでは俳優の呼吸も感じられるでしょう。劇場でお待ちしています。

(11:08 Sep. 2 2018)

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