富士日記 2.1

Dec. 15 mon. 「観覧車とはなにか」

あらかわ遊園

寒いなかを遊園地に行く。「あらかわ遊園」である。「都市空間論演習」のためのフィールドワーク。冬の遊園地はさみしい。かつて府中にあった長崎屋だったか、イトーヨーカ堂だったか、そんなスーパーの屋上に観覧車があったのである。まだなにもしていなかったころだから七〇年代の終わり、よくその観覧車に乗って茫然としていたことはかつてエッセイに書いた。府中だからすぐ近くに競馬場が見えた。
首都圏郊外に作られた遊園地はその役目を終えたと考えたのは、たとえば向ヶ丘遊園が廃園になったことが大きかったんだけど、でも、豊島園とか、西武園ゆうえんち、花やしき、後楽園など、けっこうまだ都心とその近郊に遊園地があると調べていたらわかって、役目を終えたかどうか微妙になった。でもかつて郊外だった土地に鉄道会社が遊園地を作り人を呼んでいた構造は、「郊外の拡大」によって、そこもう、ふつうに住宅地(ニュータウン)だよ、ってことは多い。それで微妙なのが「あらかわ遊園」だ。それというのも、下町のかなり人口が密集した地帯にありながら交通の便が悪く、行こうと思えばちょっとした郊外感を味わう。「あらかわ遊園」にも「観覧車」は存在する。
「観覧車」ってやつはいったいなんだろう。普通に考えると、遊園地とセットで存在するはずだが、お台場とか、横浜とか、大阪の梅田駅前にあるやつとか、独立して観覧車だけが存在する。なにか人は観覧車の魅力を勘違いしていないだろうか。こともあろうに気のきいたデートスポットだと思っていないか。あれは、茫然とする人間が乗るものだ。これからどうしたらいいか見当もつかぬまま、ただ眺めがいいからと、平日の午後に乗ってしまうような「なにか」だ。まあ、多分に個人的な体験がイメージを支配しているものの、っていうか、ふつう茫然としては乗らず、わーわーにぎやかに乗るものらしい。けれど、茫然として乗るからこそ本来の魅力も出現するのである。

なぜ、観覧車は遊園地と切り離されても存在できるケースが多いか。たとえば「コーヒーカップ」って乗り物があるけど、それだけ梅田駅前にあったらおかしいだろう。おかしくないか。しかし見たことないよ、単独の「コーヒーカップ」。パリだったかな、たしか、単独のメリーゴーランドが街中にあった。なにか移動遊園地のような姿で存在した。あ、考えてみれば、みんな回るな。「回転運動」だ。遊園地とは「回転運動」の空間だ。この意味をどう解いたらいいのか。
「観覧車再考」という小説を書こうと不意に思ったのだ。それで近場にある観覧車はすべて乗らなくてはならないと決意したが、小説の取材という意味があるものの、それとはべつにやはり「都市空間論」である。なぜ都市に観覧車は存在するか。ウィキでさっと調べて知ったのは、「現存するなかでは日本最古」だという「函館公園こどものくに」の観覧車で、それも乗らずにいられないとはいえ、遠いよ、函館。でもそれが(どこかに写真があったのだがわからなくなってしまった)かなりいい味を出しており、かつて府中のスーパーの屋上にあった観覧車とよく似た風情だ。デパートの屋上的な観覧車としては、以前、「演劇ぶっく」の取材のときに乗った蒲田のがある。あそこはちょっとした屋上の遊園地だったから、単独の観覧車ではない。「観覧」するなにかとして存在する、よくよく考えてみれば奇妙なこの構築物について、もっと考えてみたいのだ。
「あらかわ遊園」の近くにある酒屋さんには、「都電ウイスキー」というものがあった。近くを都電が走っているのでどうやら名物として売り出す目論見なのだろう。でも、ぱっとしないな、「都電ウイスキー」。誰か、飲んでもらいたい。遊園地の外に出るころにはもう日も暮れかかっており、少し腹がへったのでモスバーガーに入った。まばらな客。不思議な老婆がいた。派手な服装でどこかファンキーだった。トイレが二階にあるので階段を上がると、フロアーががらんとして怖いくらいだった。

(11:19 Dec. 16 2008)

Dec. 14 sun. 「横浜に行き、日本橋に行き」

都筑ふれあいの丘駅前

クルマを取りに横浜港北にあるディーラーまで行ったのである。なぜそんな遠くかというと、乗りたい中古車を探していたらここにたどりついたのだった。
それはまだ、八月だった。中目黒にある東京共済病院に入院しているとき、時間を持て余して庭に散歩に出たら、柵のすぐ外の道路に一台のクルマが現れた。外国車だった。後ろ姿にひかれ、それからしばらくどうしようか悩んでいたが、決断するときは意外に早い。決めた。資料を集め、中古車を探し、好条件のクルマが見つかった。横浜まで行き試乗。いろいろあって二週間ほど待つときょうが納車の日だったのである。納車と言っても自分で取りに行かなくてはならなかったけれど。東横線で日吉まで行き地下鉄に乗り換えて「都筑ふれあいの丘」という、あまり降りたくない名前の駅からディーラの店まで歩いた。寒かった。この冬いちばん冷えたのではなかろうか。「都筑ふれあいの丘」はニュータウンだった。風景は多摩ニュータウンとあまり変わらない。
手続をすませ、少し不具合があったので、直してもらうあいだコーヒーなど飲んで待っていた。待ったなあ。だからなおさら運転することができたときは感動的である。気持ちがいい。国道246号を都心に向かう。少しクセのあるクルマだ。マニュアル車ってのはそういったものだけど、坂道だと油断しているとずるずる後ろへ下がる。でも面白いなあ。運転する楽しさを感じる。

夜は日本橋へ。といっても最寄りの駅は「茅場町」か「人形町」という位置にある。オフィスビルの八階にある小さなスペースだった。CETという文化的な催しの一環としてトークをする。「都市空間論」で話していることというか、いまもっとも「街」について語りたいことが、きのう書いた「港区的なるものに対抗する二つの不可解な土地」の話だったので、それを語る。数日前まで、べつのことを話そうと思っていたが、いま話したいことが、話すに価するに決まっているじゃないか。二〇人ほどの人が来てくれた。で、失敗したのはこのノートで告知をしなかったことだ。もっと多くの人にこういう催しがあることを知ってもらえばよかった。このところ、なにかあるのを伝えることを忘れる。大学が忙しくていろいろうっかりしているのだ。
僕をこのイベントに呼んでくれた、Iさんという方と終わってから少し話をし、あるいは、ネグリが来日する予定だったとき東京芸大で組まれたイベントに関わっていたという若い人(そのときワークショップを開いたとのことで、話を聞くと興味深かった)、あるいは、『ニュータウン入口』でパレスティナの映像を撮ってきた岸と知り合いで、なにしろパレスティナで岸と一緒に行動していたという人とも話をした。いろいろ刺激された。また異なる刺激を受けて、わけのわからないやる気が出てきたが、それというのも、Iさんはじめ、なにかいま行動しよう、そこから思考しようとする人たちに会うと、ふつふつ沸き立つ「運動状態」を感じとることができるからだ。動いているものは貴重である。
あ、そうだ、以前まで「ヨミヒトシラズ」というサイトを開いており、メールのやりとりや、なにかあると協力してくれたT君にものすごく久しぶりに会った。ただ、次の用事があるとT君は早々に帰っていったのであまり話ができなかったし、ほかにも、むかし僕のワークショップに参加してくれていた人が何人か足を運んでくれたが話ができなかったのは残念だった。

ということで、すこぶるいい日だった。クルマもそうなんだけど、Iさんたちの活動にも興味を持ったしな。あとIさんはノイズ・ミュージックのバンドをやっているという。で、ノイズ系音楽のライブができる空間が、なんと、「高円寺」と「秋葉原」にあるというのだ。この符合。これはなにかを予兆するものにちがいない。それもまた、私を興奮させた。「港区的なるもの」への対抗としての、「街とノイズ」だ。「都市空間論」の授業は、年内があと一回。年が明けて、あと二回だけど、もっとやりたかった。新しい視座を発見していよいよ面白くなるところだというのに残念だ。まあ、来年度ももちろんあるわけだが。
新しいクルマのエンジンを吹かせながら帰宅。食事をしたあと、疲れてすぐ眠る。

土曜日(12月13日)のこと。ジュビロ磐田が入れ替え戦で勝ちました。まだ十九歳の松浦が2得点。ほっとした。一時はJ2に落ちるかと思った。そんなところで戦ってる場合じゃないだろう。優勝にからめよ。エスパルスは最終的に五位になったんだから立派じゃないか。長谷川健太監督はえらい。すごいよ。NHKのサッカー中継で解説していた健太はまじめに話をしていたが、地元静岡のテレビ局のサッカー番組に出るとすごくばかになっていた健太である。すごいぞ健太。あと、セレッソの森島が引退。考えてみると、いまでこそ、静岡にあるチームを応援しているが、かつて日本リーグ時代、小学生だった僕はヤンマーを応援していたと考えれば、セレッソ(前身がヤンマーである)を応援してもおかしくなかった。ジュビロの名波も引退。中山はまだまだ引退しそうにもないから、それもすごい。

(8:01 Dec. 15 2008)

Dec. 12 fri. 「都市空間論について考えていた」

青山の路地裏から

ふと、「秋葉原」とその周辺における文化を評価しようと考えたのは、「都市空間論演習」の授業の準備でいろいろ考えているうち、「港区」における再開発とはまったく異なる文化の傾向が、ふたつの地域から出現しており、そのひとつが「秋葉原」だと思ったからだ。今週の学生の発表は、「自転車」による都心中心のフィールドワークだった。恵比寿からレンタサイクルを借りて出発し六本木方向に向かうと聞いていたので地図を見ながら考えていた。あるいは、すでに書いた吉見俊哉さんの『都市のドラマトゥルギー』(河出文庫)と、隈研吾さん、清野由美さんによる、『新・都市論TOKYO(集英社新書)を読んで気づかされたことがいくつかあった。(上の写真はこの建築である)
『都市のドラトゥルギー』は八〇年代の終わりに刊行されている。そこでは「盛り場」の変遷が、六〇年代、七〇年代半ばまでの「新宿的なもの」から、七〇年代の後半からはじまる「渋谷的なもの」への移り変わりとして論考される。

一九七〇年代の東京における盛り場の変化を一言で要約するなら、〈新宿的なるもの〉から〈渋谷的なるもの〉への移行ということができる。六〇年代まで新宿に渦巻いていた若者たちのエネルギーは、昭和四十八(一九七三)年のオイルショックのあたりを境に急速に色あせていく。新宿はその後、西口に巨大なオフィス群をかかえた「新都心」として発展し、かつてのような若者たちへの吸引力は失われてゆく。/そして、ちょうどこうした〈新宿的なるもの〉の衰えに代わるかのように、七〇年代半ば頃から若者の感性に強い影響を及ぼしていくのが公園通り界隈を中心とする渋谷である。それまでは区役所通りとか呼ばれ、途中のめぼしい建物といえば場末風の映画館、コンクリートの教会、喫茶店がまばらにあるだけのうら寂しい通りにファッション専門のテナントビル、パルコがオープンしたのが七三年、つづいてパルコ新館、東急ハンズ等の大型店舗の開設が続き、七〇年代末までに渋谷の人の流れの重心は道玄坂界隈から公園通り界隈へと移行する。その結果、六〇年代にはやや停滞気味で賑わいもターミナル周辺に限定されていた渋谷は、「明るく解放的でファッショナブルな街」として若者たちの支持を受けていく。(吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』P295)

 しかし、その変容を渋谷だけに一面化しているわけではなく、きちんと周辺にも目配りするのを論者は忘れてはいない。

とはいえ、一九七〇年代以降になって東京で抬頭してきた盛り場は、渋谷だけに限られるわけではない。渋谷とともに、原宿、青山、六本木といった一群の街々が、互いに作用しあいながら「東京で最もファッショナブルな空間」として浮上するのだ。/(中略)/本来ならば〈新宿的なるもの〉から〈渋谷的なるもの〉への移行ではなく、むしろ〈渋谷・原宿・青山・六本木的なるもの〉への移行を問題にすべきであろう。だが、このように分析対象を広げることは、議論を不要に煩雑化させる危険を伴う。

 そうした潮流として、吉見さんが書くような〈渋谷的なるもの〉は、その時期、確実にあり、たしかに「原宿・青山・六本木」はその圏域に含まれていた。〈新宿的なるもの〉と決定的に異なる性格の〈渋谷的なるもの〉の匂い、あるいは、それが醸す文化は、ある世代の人たち、世代だけではなく、ある文化的な志向を持った人たちからはひどく嫌悪された。吉見さんが論述する〈渋谷的なるもの〉の潮流は、九〇年代以降、〇〇年代のはじめまで続くが(それは渋谷系と呼ばれた)、また新たな傾向が出現したとすれば、「六本木ヒルズ」「東京ミッドタウン」「芝浦高層マンション群」、港区ではないが「表参道ヒルズ」などの建設によって、「港区的なもの」が台頭したことだ。けれどそれは、不自然な「再開発」によるきわめて人工的な作られかたに見える(まあ、東京がそもそも、その成立において不自然で人工的な再開発の繰り返しだったとはいえ)。それを動かしているさまざまな「力」に──その正体を一口ではいえない──どこか異和感を覚えるのだ。
 そして、「港区的なもの」とはまったく無縁に、先にあげた「秋葉原」が存在するのと同時に、「高円寺」を中心とした「中央線沿線」という文化圏があって、二つの方向から、「港区」を挟んでいるように「〇〇年代」の地図を読むことができる。そう考えると「現在」がいよいよ興味深く感じ、だから、「なんだかわからないもの」としての「秋葉原」と「高円寺を中心とした中央線沿線の文化圏」を評価したくなったのだ。なんだかわからないのだ。うまく把握できないもの、わけのわからないものがそこに「出来事」として存在する。

高円寺の住宅街のなかの公園

高円寺の入れ墨屋

正直なところ、「秋葉原」と「高円寺を中心とした中央線沿線の文化圏」にあるのは、得たいの知れない「貧しさ」のようなもの──それは「高円寺」では「素人の乱」を中心に「貧乏くささ」と言葉にされるかもしれないが──、「秋葉原」にいたっては「貧乏くささ」よりさらに激しく、「現在的な貧しさ」を感じる。それが「港区的なもの」への対抗になるのは、たとえば「渋谷」が「港区」に対抗しようとしても、同じような次元でしかそうできず、するとどうしたって「港区」に負けるからだ。負けるにきまっている。港区はすごいよ。どんなやつが住んでるんだと言いたい。六本木ヒルズのレジデンスの家賃は高い。だが、「秋葉原」と「高円寺を中心とした中央線沿線の文化圏」は、もうまったく、おかしいくらい異なる次元に存在するからこそ、対抗たりえるにちがいない。
そしてそれはパフォーマンスアーツにも反映される。からだのことへと響くだろう。表現することに結びつくだろう。なぜなら強く現在的なことだからであり、「80年代地下文化論」で語った「明治通り沿い文化大移動」がもう遠い過去のこと、ノスタルジックにさえ感じるのだ。「新宿」が思い出になってしまった。「渋谷」も九〇年代の懐かしい土地。だからまたべつの視座となるべき「都市の空間」を探しにゆくのが、いまやっているフィールドワークになる。
学生たちはレンタサイクル(朝から夕方までたったの200円)を使って恵比寿駅前を出発し、「恵比寿ガーデンプレイス」→「渋谷」→「青山通り」→「表参道」→「青山霊園」→「外苑東通り」→「六本木」→「六本木ヒルズ」→「有栖川宮公園」→「恵比寿」と走ったというが、参加したメンバーは六人だったのに、自転車が五台しかなかったという。仕方がないので、二人乗りで行こうと思ったらすぐに警官に見つかり、「ちょっと待て」と手首をつかまれた。かつて私も盛岡で七人でレンタサイクルを借りようと思ったら、自転車が六台しかなかった。レンタサイクルはきまって一台が足りないのだ。そういうものなのである。

だけど、面白かったな、画像を見せてもらったが、六本木ヒルズに乗りこむ五台の自転車、そして一人は、ずっと自転車のあとについて走っていた。すごいよ。よくやったよ。感心した。泣けてくる。なにしろ走ったんだからすごい。で、「都市空間論演習」と、そのあとの「サブカルチャー論演習」を終えてから、自転車を追い掛けて走ったYも含め、学生多数で、研究室でたこ焼きを食べた。まあ、女子がにぎやかだ。授業がいろいろ面白くて、しかもたこ焼きも美味しくて、わーわーと楽しい夜になった。で、一週間の終わり。ほっとする。日曜日にはクルマが家に来る。

(3:35 Dec. 14 2008)

Dec. 9 tue. 「その日に」

新宿副都心の夜景

それから約一年後、ようやく仕事をすることになるが、僕はその日、二十四歳になったばかりで先のことなどまったくわからなかった。八〇年代の最初の年だ。なにか時代が変わる予感はあったけれど、僕個人に、ぱっとしたことはなく、金もなく、時間だけがやけにあった。人と会う約束の時間まで、夕方の吉祥寺の街をぶらぶらしていた。書店に入って気になる本を手にして立ち読みしていたし、レコードショップでジャケットを見ていたが、店でも、そして街のいたるところでビートルズがひっきりなしに流れている。なぜなのかしばらく気がつかなかった。その日、というのはつまり、日本時間で一九八〇年の十二月九日だ。午前十時過ぎ、ニューヨークでジョン・レノンが死んだ(アメリカ時間八日午後十一時過ぎ)。テレビニュースも見ていなかったし、新聞の夕刊も読んでいなかったので、なにがあったのか知らなかった。ただ、ビートルズの歌が流れるのを、むしろ、いやな気分で聞いていた。
その経験は、おそらく、九〇年代の終わりに、六本木のWAVEが閉店になったのを知って、八〇年代が完全に消えたと実感したのと同じような感触だったのではないだろうか。ジョン・レノンが死んだ。つまり、六〇年代が完全に終わったということ。七〇年代ではなく、あくまで、六〇年代が終わったと、いまだからそう考えられる。幼年期とだぶる六〇年代が自分のある部分を作り、それは記憶のなかにまだ残っていたし、手にした感触のように、いまでもあの時代はよみがえる。けれど、もし節目があり、記憶を捨てるべきだと教えられた瞬間があるとすれば、まさにそのときだった。八〇年の十二月九日。アメリカ時間で、十二月八日の午後十一時過ぎ。ジョン・レノンが死んだ日。
数日、街でも、ラジオでも、ビートルズの歌が頻繁に流れたけれど、ジョン・レノンは生前、ビートルズの楽曲のなかでは唯一、『HELP!』が好きだと発言していたはずだ。おかしいじゃないか。ソロになってからの曲を流すべきだと思い、できるだけビートルズを聞かないようにしていた。まだなにもできぬままの僕は、八〇年代になにかを期待していたのかもしれない。いとうせいこうにも、桑原茂一にも出会っていなかった。その後、彼らからたくさんのことを教えられるとはまったく想像していなかった。スネークマンショーをはじめて聴いたのはもう少し前のことだろうか。パンクやニューウェーブ、テクノミュージックはもちろん存在し、新しいことはすでにはじまっていたかもしれないが、自分には無縁の世界だと思っていた。だから、その日の夜、時間をつぶすためにただ歩いていた。歩くのもあてがなかったが、これからどうしようというあてなど、なにもなかった。

そんなふうに、ふと回想したのは、新潮社のN君が言ったように、「八〇年代」を論述ではない方法で書くとしたら、おそらくその日のことから書きはじめるのがいいと考えたからだ。
吉祥寺の町を歩いていたときの、まだなにもできず、なにも持たず、なにも未来が見えず、ただ茫然としていた気分がよみがえってくる。それが八〇年代のはじまりだと思うと、「八〇年代」という言葉が放つにぎやかさや華やかさとは裏腹に、寒ざむしい光景の記憶しか浮かんでこない。そして繰り返すようだが、ジョン・レノンが死んだ。「論述ではない方法」で書かれる「八〇年代」は、それでも、できるだけ客観的に、自分のことを書くより、「出来事」を記述しながら空気を伝えられるようにできればいい。というか、自分のことを書くのは、いま、こうして書いていてもやっぱりどこか恥ずかしいし、つい感傷的になる。
で、気がついたら五十二歳になっていた。あれから二十八年か。なにやってたんだろう。今年はいろいろなことがありすぎた。まさかね、手術をし、二ヶ月も入院するとは思ってもみなかったよ。四月ぐらいから調子が悪いと思っていたが、まあ、運がよかったのは、倒れる前に心臓の欠陥を見つけられたことだろう。あるいは優秀な医師たちに救われた。ただ、今年は夏がなかった。ずっと病院だった。来年の夏は満喫しよう。だらだら汗をかけたらいい。気持ちいいだろうな。

(12:08 Dec. 10 2008)

Dec. 8 mon. 「出来事を記述するその行為を」

なぜか、グレイトフル・デッドのことばかり考えていた一日だった。
それでYouTubeにあるデッドの映像を探したが、あまりいいものがない。静止画に音楽がのっているものなど、それだったらCDがうちにあるし。とはいえ、YouTubeでまた無為な時間を費やしてしまった。仕事を少しして、次の「サブカルチャー論」の授業の構成をまとめたり、「考える人」のゲラを戻したり。メールのチェックをすると、むかし早川書房にいたM君から「自転車」についていろいろ教えてもらった。目黒から、六本木が意外に近いという話。
「恵比寿からのルートは、まず広尾に出て、それから有栖川公園を登っていき、中国大使館を抜けると、もう六本木ヒルズです。びっくりするほど近いですよ。」
 なるほど。渋谷や六本木通りを避けて走る道はかなりいい(広尾、有栖川公園って、かなりおしゃれな界隈ではないか)と想像した。そうだったのか。でも、坂はきつくないだろうか。たとえば、霞町や、広尾っていうか、あれは外苑西通り沿いだと思うけれど、たしか土地が低い。恵比寿あたりからそこまでは下りだと思うが、六本木に向かって上り坂がすごくないだろうか。自転車って地形を知る乗り物だ。歩いているより、なおさら知ることができる。それもまた、自転車の魅力のひとつ。いま地図を見たら、恵比寿、明治通り(あるいは平行して走る裏通り)、広尾、有栖川公園、ヒルズと、近いわ、こりゃあたしかに。

いまから20年ほど前に刊行された、吉見俊哉さんの『都市のドラマツルギー 東京・盛り場の社会史』が河出文庫から出たので早速読んだが、刊行されていたことも知らなかったので、たとえば、その帯にある言葉「浅草から銀座へ 新宿から渋谷へ」を目にすると、「80年代地下文化論」のとき、なぜこれを参照しなかったかと、なぜ知らなかったのかと、少し後悔した。で、最初のほうを読むと、「盛り場」というものは一般的に「都市のなかの商業的・文化的施設の集中した一地区」と規定されるが、それだけでは物足りないとして、「盛り場」の「盛(サカル)」という言葉に着目する。「基本的に『盛』は、エネルギーの高い、高揚した状態を指し、『サカリがつく』という言い方に示されるようにしばしば性的なコノテーションを含んでいる」ということを前提に、吉見さんは次のように書く。

つまり「盛り場」とは、もともと流動的で一時的な「盛り」を、他の場所よりも濃密に抱えた空間であり、したがってこの言葉の本来の重心は「容器」である商業施設や娯楽施設よりもまず、「中身」である「盛」そのものにある。/換言するなら、「盛り場」は、施設の集合や特定の機能をもった地域としてある以前にまず〈出来事〉としてあるのだ。

 これは刺激的な言葉だ。だから「町を見る/街を見る」とは、「出来事」を見に行くことであって、なにも「電気街」の「容器」であるところの、ショップなんかを見るのではなく、土曜日のノートに書いたような、そこで生起している「出来事」のなかに、「町/街」としての、「盛り場」としての「現象」が蠢き、その蠢きこそが本質だ。だから、見たことを丹念にノートすることは正しいにちがいない。もっともっと、記述してみよう。目撃した「出来事」を記述することが重要だ。
グレイトフル・デッドのことばかり考えている場合じゃなかったよ。とはいっても、「サブカルチャー論」的には大切なことだったのだが。あと、夜の食事をとりながら、テレビで芸人さんの出る番組を見ていたが、彼らの姿を見ながら、むかしのことを思い出してしまい、人をけ落としてでも生きてゆく残酷さや、でたらめにひどい現場で仕事をするみじめさを想像した。いやだなあ。水を張った洗面器に顔をつけて呼吸をがまんし、早く顔を上げた者が負けの世界だ。

(7:40 Dec. 9 2008)

Dec. 7 sun. 「十二月のある晴れた日に」

上村の結婚披露宴にて

なぜこの写真かと問われると困るがなんだかよかったのだ。右が相馬だ。左の方は申し訳ないがどなただったか失念。なぜこんなふうなになっているかというと、遊園地再生事業団のメンバー、上村が結婚したのである。めでたい。お相手の梨乃さんとはもう十年つきあっていたという。結婚するという話を聞いたのは二ヶ月ほど前になるだろうか。二人して、うちに来てくれ、それではじめて梨乃さんとはゆっくり話をしたのだと思う。
人前結婚式と披露宴には、上村と梨乃さんのご家族、友人や親戚の方々、そして、僕のテーブルには、鈴木謙一と鈴木将一郎、笠木、相馬、田中夢がいた。表参道にある青山ダイヤモンドホールだ。とても幸福な会だった。上村のお父さんとお会いするのは初めてだったが、よく似た親子だ。まあ、人のことは言えない。たいてい似るもので、歳をとるとそれがはっきりしてくるからいやになる。今年はわりと身近で何組かの結婚があった。みんなスタイルが異なり、それぞれの披露宴や、式や、パーティがあり、あるいは籍を入れたという報告もあって、それぞれの人柄が反映したり、それぞれの事情がある。あと、二〇〇〇年代に入ってから一緒に舞台を作ってきた俳優らが、ちょうどそうした年齢に達しているから結婚が重なる。
披露宴が終わって外に出るとやけに寒かった。鈴木、笠木らと近くのカフェに入ってしばらく話をする。

相馬が「都市空間論演習」のサイトを作ってくれそうな話をしてくれた。ありがたい。ただ、「ホール・アース・カタログ」のことがわからないというので、今度、僕が持っている現物を見せようと思ったけれど、探したらバックナンバーが見られるようになっていた。しかも、いまもまだ脈々とその活動は持続されある一定の文化として根付いているのがわかる。もちろん、「都市文化論演習」のサイトと、「Whole Earth Catalog」では、取り上げようとしているものがぜんぜん異なるし、コンセプトもちがう。けれど、デザインもそうだが、情報へアクセスする方法、というより、アクセスする手つきを支える思想をお手本にできたらいい。
で、いまこれを書いている途中、ここに、「Whole Earth Catalog」を編集したスチュアート・ブランドのインタビューが載っているのを発見した。すごいなこの人の時間感覚のはるかに長いビジョンは。つまらないことでちまちま生きちゃあいけないとそのインタビューを読んで教えられる、というか、どうなってんだ、スチュアート・ブランド。おかしいぞ。あと、「Whole Earth Catalog」について、それをいまの若い者に説明するとしたらどうなるかという質問にこうこ応えている。

インターネットだ。インターネットがなかったから、本にした。グーグルとアマゾンとイーベイを組み合わせたようなものだ。そして、新たなパワーを与えてくれるツールに関心を持つ人々の、ある種のコミュニティーにもなった。そんな本だ──(アサヒコム「ネット最前線」より)

 しかしながら、ネットには情報が無数にあり、どれをどう選んでいいかわからないこともあるというのは、あたりまえすぎる話だ。「情報化社会」もいまにはじまったことじゃない。またべつのアクセスの方法がなにかあるんじゃないか。グーグルだけではないなにか。あるいは、この巨大な世界のなかで、どうやって自分の言葉を人に届けたらいいかを考える。メディアの複合的展開というか、使えるものはなんだって使ってゆくというか。それぞれの弱点を補いあって「効果」を高めること。けれど、うまく作られた「方法」はすぐに資本に奉仕するようにできているから、それをも乗り越え、ゲームを支配するルールの裏をかく戦術がきっとある。
そこだ。そこんところが肝心で、「なに」を「どう」と表現について考えたときの、「どう」は「方法」のことだが、「表現」にとって中心にあるべきは「方法」だというのは当然の話だった。けれど、この図式そのもの、「〈なに〉を〈どう〉」を問い直すことが必要ではないか。それというのも、「どう」はすぐに、「表現」そのものではない「さまざまななにか」に取り込まれてしまい、「資本」にとって都合のいい位置に据えられ、重宝がられるからだ。むつかしい。このよくできたシステムのなかではきわめて困難な問い。けれど、しつこいくらい問い直さなければ意味がない。
あと、きのうのノートで、ジョブスが「アップルの基調講演」で「Whole Earth Catalog」に触れていると書いたが、スタンフォード大学の卒業式でのスピーチだった。卒業生に贈る言葉として、「Whole Earth Catalog」の最終号にあった、「stay hungry stay foolish」をあげている。愚かさには自信があるんだけど。

(15:58 Dec. 8 2008)

Dec. 6 sat. 「神田川を渡って」

神田川

ハードディスクを買いに秋葉原まで行った。それというのも、1テラバイトが一万円を切っていたからだ。どんどん安くなっている。街を少し散策。土曜日の秋葉原はにぎわっている。どこの店も人がいっぱいで、人混みのせいで、その向こうがなんの店なのか、なにをしているのかわからない場所もある。
駅前で数人の男女が待ち合わせをしている様子。しばらくそれを黙って見ていた。それというのも、どこか奇妙なグループだったからだ。小太りの若い男がどうにもさえない。それから、その男と友だちにはけっして見えない若い女が二人ほどいて、さらに、全員を動かしているのが少し年長の、怪しい風情の男だ。なんのグループかしばらく想像していたが、そこにメイド風のコスチュームを身につけた女が来、さえない男と並び二人でグループを離れる。女は言った。「どこへ行きましょうか?」。なんだろう。いろいろ想像する。駅の下にあるごちゃごちゃした電気店が並ぶ一画では、インド人とおぼしき男と店の主人がやりとりしている。インド人はカーナビを買いに来たらしいが、いったん帰って友だちに相談するからと立ち去ろうとする。店主は怒って、「あんたが買うって言うから、値引きの値段を教えたんじゃないか」と声を荒らげた。店主の手には電卓。数字が見えた。「21000」。それ、カーナビとしてはめちゃくちゃ安いぞ。
買い物をすませたら秋葉原にもう用はないのでさっさと帰る。というか、いればいたでつい必要のないものを買ってしまう恐れがあるのだ。来るときは新宿から、中央線、総武線と乗り継いできたが、帰りは都営新宿線、京王新線(この二線は乗り入れしているわけだが)と乗り継いで初台まで戻ることにしたものの、久しぶりだったので、都営新宿線の最寄り駅「岩本町」がどこだったか迷った。少し歩いて神田川を渡る。日が暮れかかっていた。明るい時間が短い季節だ。

夜、もうかなり以前、大阪のM君からもらったDVDをようやく見た。ヒッピー文化を、その源流とも言うべきビートジェネレーションから語り出すドキュメンタリーだった。ビートジェネレーションのことを「サブカルチャー論」でやっていたのに、なぜこれを見なかったのかと思うものの、授業の準備のために使った同じ素材がやはりここでもかなり使われている。アメリカでも残された映像は限られているんだろう。それからインタビューに応えている人たちも、僕が使った、映画『ビートニク』とかなり重なっている。ヒッピーについて語られるあたりはウッドストックからの引用が多い。でも、貴重な映像もかなりあった。
「都市空間論演習」は、次に発表する班が、恵比寿の駅前からレンタサイクルの自転車に乗って六本木、赤坂をフィールドワークすると計画していた。僕からの指示は「自転車」だけだが、自転車で走る「かなり都心」というのは面白いんじゃないだろうか。だいたい、グループで六本木ヒルズとかを自転車で走る者たちがいるわけで、それ、想像すると笑えるじゃないか。とてもいい。このあいだは学生たちが高円寺に行くというので(それで素人の乱の松本君にインタビューさえし、学生の一人は朝の四時まで松本君と話をしたらしい)、僕も高円寺を歩いたが、今回はさすがにむつかしい。自転車で恵比寿から六本木まで、って、うーん……。まあ、とりあえず六本木には行ってみよう。ヒルズ、ミッドタウン……、と、あのあたりを徘徊してみよう。なにかべつの発見があるかもしれない。あと、「ショッピングセンター」をテーマにしたグループは、「16号線に着目せよ」と指示したら、レンタカーを借りて16号線を走るという。面白いなあ。俺も走るよ、こうなったら。といったわけで、「都市空間論演習」が楽しくてしょうがない。
学生らの発表をもとに、ネット上にサイトを作ろうと計画している。お手本は、「ホール・アース・カタログ」だ。そのことをつらつら考え、きょう秋葉原に行く途中、電車のなかでいいネーミングを思いついたはずだが、忘れてしまった。ま、とりあえず「ホール・アース・カタログ」のようなデザインと構成のサイトを作ろう。スティーブ・ジョブスもアップルの基調講演で触れているのだし。

(11:18 Dec. 7 2008)

Dec. 5 fri. 「そんな一週間」

高円寺の片隅で

今週も終わった。
なぜか、今週はやけに疲れたが、いちばんは「サブカルチャー論」の授業で使う素材をぎりぎりまで作っていた水曜日から木曜日にかけてのせわしなさだ。くたくたになった。さらに木曜日の授業が終わって家に戻り「都市空間論演習」を受講する学生がフィールドワークを元に作った資料に目を通す。というのも、今週から「都市空間論演習」は学生の発表がはじまるからで、発表を受けて僕はなにを焦点に話せばいいか考える。あまり眠らないまま、きょうは大学に来た。でも、作業をしている時間はそんなに疲れたわけではなく、むしろ、週のはじめ、月曜と火曜あたりが精神的にきつくて、なにをどうまとめようか考えているのが苦しい、っていうか、なんか憂鬱になっていたのだった。でも、まあ、そんな苦労があるから学ぶわけで、そうして苦しんでいるあいだに考えがまとまってゆく。あとコンピュータで映像を編集する作業の楽しさは確実にある。Final Cut Proの使い方にもだいぶ精通してきた。あ、こうするとこうなるのかよと、使い方の発見が愉快である。
授業が終わったあと、研究室で学生らと話をするのはやっぱり楽しい。木曜日はなぜか横浜国大の学生が「戯曲を読む」の授業からもぐっていて、結局、七限の授業が終わったあと研究室に呼び、もう卒業しているはずのYがいたり、「BRUTUS」でライターをしているM君が今週も来てくれたので、TAの二人も交えてまたなごんだのだった。

味二番

「味二番」はなぜ、「一番」にしなかったのか。「二番」でいいのか。それはともかく、気がつけば12月。今年も授業があと二回になった。一段落。冬休みは年明けのために勉強しておこう。こんなことをしているあいだに、私は「サブカルチャー」の研究者になってゆくのではあるまいか。論文を書いてしまわんばかりの勢いだ。「サブカルチャー論演習」(あくまで少人数の「演習」の授業で、大教室で開講している「サブカルチャー論」とは異なる)でこのところ問題化しているのは、「オタク」の定義と、現在の「文化圏」の布置のような、分布図というか、イメージ図のようなものをどう作ったらいいか。先週はニコニコ動画を発表してくれた学生がいて、それがきっかけになったとはいうものの、僕はまったく興味がない。興味のないことはどうだっていいというか、ニコ動のことを話されてもめんどくさいだけなんだけど、ただ、ほかのことを考える「きっかけ」として「面白い現象」に感じる。演習の授業で学生たちと少し議論した。ここ、もっと煮詰めるべきか。
それとはまたべつに、白水社のW君と単行本化に向けて計画を練っている「都市空間論演習」の授業が、さらに面白くなってきて、先に述べたようにきょうは、学生による「高円寺」のフィールドワークをもとにした発表と、僕の補足の話だった。いろいろ考えているうちに「街はそこに住む者の空間であり、それを再開発という名のコミュニティの破壊をはじめとする公共空間解体から、いかに自分たちのものとしての権利を確保するか」という運動が、「素人の乱」の松本君をはじめとする彼らのやっていることであり、高円寺の現在的な意義とは、現在の再開発をはじめとする「住人から街を疎外する」ことへの抵抗の、街ぐるみの取組みに感じたことだ。W君ともよく話すがこれは都市をめぐる建築の方面からのアプローチにもなる。
それで「都市空間論」がやたら、面白くなってきたのは、また異なる視点からの「政治」に対するアプローチだというのもある。「大げさな政治課題」とか、「反○○」といったことではなく、もっと細分化された「政治課題」、かなり身体性のともなった政治について街を通じて学生たちと語れたら、まあ、それが「演習」のいいところで、人数の少ない受講者と直接話ができるよさは確実にある。

といったことで、大学のことばかり考えているので、なんかもっとほかにないのかといったことはどうしたってあり、私の興味はいま、14日ぐらいに納車されるクルマである。ああ、楽しみだ。楽しみで仕方がない。基本がマニュアル車なんだけど、AT車にも切り替えられる。だけど、マニュアルで乗ろう。クルマはやっぱりマニュアルである。楽しみだ楽しみだ。もうそのことばかり考えている。あと、MacProのハードディスクのスロットがもう一個空いているので、そこに1テラのハードディスクを入れることにもまた、夢中になっており、そうすると映像編集がかなり余裕をもってできる。金はかかるが、まあ、大学の授業のためであって、趣味じゃないからがんがんにコンピュータを使い倒そう。そんな一週間。

(10:02 Dec. 6 2008)

Dec. 2 mon. 「書かなければ」

渋谷の通りにて

先日紹介したJemapur氏からメールをいただきうれしかった。僕のページから彼のサイトに訪ねてくれた人が多かったとのこと。しかも、僕の出身の小さな町からほど近い土地に住んでるとメールにあって、いよいよ親近感をいだいた。

資料を探しに渋谷に行くと、たしか、書店が入っていたビルだったと記憶するが見事なほど解体されて新しいビルが建設中だった。スウェーデンだかの、まあ、言ってみればユニクロみたいなメーカーが入るファッションビルらしい。ここは、もともとそんなに古い建築ではなかったはずなのにまた新たに建て直されるというこの循環の「もったいなさ」について、みんながあれほど声高に語る「エコ」としてはいかがなものなのか。俺が考える範疇の政治問題ではないと思うけれど、気にはなる。
今年は授業のために(主にサブカルチャー論)ものすごい勢いでDVDをはじめとする資料を大学の個人研究費で購入していたらあっというまになくなってしまった。いい気になって使いすぎた。計画性というものが……あるわけがないじゃないか、このわたしに……もし計画性をもって生きていたらこんな人生を送っていなかったと思われる。
さて、先週の「サブカルチャー論」は、「赤塚不二夫論」として「60年代的に存在した漫画家として赤塚不二夫」を取り上げたが、その前回が「ジャック・ケルアックとニール・キャサディ(『オン・ザ・ロード』の主要登場人物ディーン・モリアーティのモデル)」を話し、ここに接続がないんじゃないか、なぜ、ケルアックの次がいきなり赤塚不二夫かということは疑問だが、僕のなかでは繋がっていた。あきらかに繋がっていたのだ。「繋がりの部分」、つまり「六〇年代的なる精神性」をなにも語らなかったのでわかりづらかったにちがいない。今週は、話が前後してしまったがそれについて語ろう。

夜、授業のためのノートをまとめる。それからKeyoteの作業。そういえば、「Keyoteのスライド順番問題」について、相馬がブログに書いてくれ、なるほどと思ったものの、授業用のノートがそこに組み込めるかだ。でも、やり方は工夫次第でなんとでもなるのではなかろうか。ともあれ、感謝。
記録としての「きのう(12月1日)」。天気があまりよくなかったのでほとんど家を出なかった。考えごとで一日が過ぎた。
資料を家の書棚で探しているとき、たとえば、ミハイル・バフチンの著作などが棚に目に入り、かつて熱心に読んでいたこと、文学について、小説のみならず理論書も面白くて夢中になって読んでいたのに、このところ、その熱が薄れてしまい、そうこうするうちこんな年齢になってるなんて、ああ、いやな気分になるけれど、人はどこかでそんなふうにして諦念を持つのかもしれず、しかし、もうひとふんばり、小説に取り組もうと本棚の、ほかにも後藤明生さんの本、まだまだ無数にある書物に触発される。創作。なにしろ僕は作家だからな。

(8:39 Dec. 3 2008)

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