富士日記 2.1

Dec. 27 sat. 「年末。急激な冷え」

墨田区押上で

26日は天気はよかったものの極寒だった。「都市空間論」で次に発表する学生が押上周辺の路地を歩くというので、墨田区の地下鉄「押上駅」、東武伊勢佐木線「業平橋駅」周辺を散策。だけど、時間が遅くなってしまったのですぐにあたりは暗くなったのと、やっぱり寒くて地獄のようななかを歩くのに耐えられず、しっかりフィールドワークはできなかった。デジカメで付近を撮ろうにも手がかじかむ。もっと見るべきだったし、もう一度、年明けにでも行ってみよう。
なにしろ、業平橋駅の、かつてはおそらく操車場跡じゃないかと想像する敷地にいま、新しい「東京タワー」、別名「東京スカイツリー」が建設の準備を進めているのである。よくあったなこんな土地と思っていたわけですよ、都内に、こんなものすごいタワーを建てるような場所が。地図で確認すると、業平橋駅の横にぽっかり空白の土地がある。これができて周辺はどうなるのだろうか。というのも、押上駅近くの路地を歩いたら、それはそれは、まあ、なにもないさびれた街だった。そうだ、次のフィールドワークの課題は「路地」だったのである。学生も漠然とした「路地」という言葉からどこを歩いたらいいかかなり悩んでいた。結局、下町のこのあたりを歩くことにしたようだ。
それで僕も歩いた。墨田区にはまったく縁がないし、浅草より東方向は、そこから少し南下して「森下」だったら、「森下スタジオ」もあってなじみがあるが、「押上」「業平橋」はまるで知らない。それだけでも興味深いが、だけどやっぱり寒さには勝てなかった。もっと気候のいいときにフィールドワークはするべきだった。しばらく付近を歩いたあと、からだを温めようと食事をしてスープを飲む。生き返った。繰り返しになるが、今回の課題は「路地」だ。六本木ヒルズはものすごく複雑な作りになっているが、その計画にも参加した建築家の隈研吾さんは、「路地」を作るというコンセプトだという意味のことを話していたけれど、「路地」は計画的に作られるものなのだろうか。自然発生的に生まれるものではないのか。っていうか、まあ、もともと自然発生的に「生まれて」しまった「路地」は、ではいま、これだけ整理され、統合された都市において(東京だけではなく地方でも)自然発生的に出現するわけがない。だとしたら、「路地的な魅力」は人工的に作り出すしかないのだろう。だが、まだ「路地」はどこかにあるのだ。そこに「街」と「人」との生き生きとした関係が存在する。下北沢だって、高円寺、秋葉原だってそうだろう。あるいは新宿西口中古レコードショップ街。先日取り上げた、『都市のドラマトゥルギー』にあったように、そこで生起する「出来事」のなかに「街の魅力」はあると想像する。それを見に行こう。もっと歩かなければ。寒いけどさ。

本日は、奥沢にある某所で「忘年会」があった。気心の知れた者たちとの楽しいひとときだったけれど、そのとき、僕の病気の快気祝と誕生日をかねて、あるものをプレゼントしてもらった。帰りに忘れてしまった。申し訳ない。ニブロールの矢内原も来ていたが相変わらずパワフルだった。いろいろ食べる。美味しかった。
冬休みのあいだに勉強をしておかなければと思いつつ、つい怠けており、だめだ。読むべき本がまだあるぞ。「サブカルチャー論」「都市空間論」、そして「演劇」について考えるべきこと、学ぶことはまだある。果てがない。

(8:24 Dec. 28 2008)

Dec. 25 thurs. 「大いなる反省と、奇妙な符合」

デパ地下ケーキ売り場

反省したが、それはあとで書くとして、白水社から分厚い郵便物が届いたのでなにかと思って封を開けたら、岸田戯曲賞の候補作だった。もうあれから一年が経ったのか。早いな。しっかり読まなくては。
来年の四月にはじまるという『キレなかった14歳りたーんず』という企画があり(何人かの若い演出家による連続上演)、その「キックオフ・パーティ」というものに参加した。トークのゲストに呼ばれたのである。企画のひとつに、京都の大学時代に僕の授業をとっていた杉原の演出で『14歳の国』が上演される。
で、夕方、会場に行ったわけである。クリスマスだった。演出家たちがみんなサンタの帽子をかぶってすっかり浮かれて迎えてくれた。なんて言っていいんでしょう、こういう場合、どういう立場で私は参加すればいいのか。最初にしっかり確認しておけばよかったのは、「まじめに14歳問題について話をするか」、それとも、「ふざけるか」だ。曖昧なまま、トークになってしまい、はじめ私は、すっかりふざけていた。だめである。話は終始、ぐだぐだだったが、年長の僕がなんとかするべきで、もっとも若い演出家が司会をしていたんだけど代わりに進行すればよかった。話をしているあいだに後悔の念がわいてきて、だめだったなあ、しっかり話を聞きに来てくれた人に申し訳なかった。話の途中、僕が「サービス精神」という言葉を使ったせいだろう、終わってから「ちゃんとした話を聞きに来てくれた人に申し訳なかったね」と全体を統括しているとおぼしき人や、演出家たちに話したが、すると「サービス精神があるんですね」と一人が言う。いや、そうじゃなく、ごく常識的な問題として.。
いやな気持ちになりながら帰る。

そうだ、話すべきことはもっとあったのだ。たとえば、『キレなかった14歳りたーんず』ということについて、演劇の問題として話すことはあり、たとえば、「キレる」という言葉ひとつにも身体論はある。あれはたしか、赤瀬川源平さんだったはずだが、「キレる」という言葉についてあの当時、というのはもう十年以上前、なにかにエッセイを書いていた。「怒り」という感情を言葉にするとき、元々は、「腹が立つ」というように、その感情の位置は下方にあったが、次に「むかつく」という言葉に変容し位置が胸まで上がる。さらに、「キレる」という言葉になって位置はさらに上に移動したという話だ。このことを演劇における身体論としてどう考えたらいいか。
ポツドールの三浦君の舞台で、若い男が二人、あきらかにキレ気味に、「キレてんのかよ」「キレてねーよ」「キレてんのかよ」「キレてねーよ」とやりあう場面があった。これが、たとえば、「腹立ててんのかよ」「立ててねーよ」「腹立ててんのかよ」「立ててねーよ」というやりとりになるかというと、そういう会話は成立しないと思う。単純にそれは、「怒ってるの」「怒ってないよ」「怒ってるの」「怒ってないよ」であって、ここには、その会話を成立させている「からだ」のちがいがある。三浦君にとっては「キレてんのかよ」「キレてねーよ」のほうが、ずっと現在性があり、戯曲を書くときそれを選択したとすれば、イメージされた「からだ」は「怒り」の感情がずっと上のほう、頭のあたりにある、つまり重心が不安定な「からだ」だったのだろう。それは具体的に「演劇的な身体」としてどのようにあるべきか。それを、若い演出家に質問すべきだったし、質問できるのは、僕しかいなかったではないか。
あるいは、神戸における14歳の少年による「事件」や、「キレる」という言葉、そして、「キレなかった14歳」(厳密に考えると「キレなかった17歳」かもしれないが)というコンセプトから、いまドラマツルギーについてどう考えるかという視点もあったろう。それというのも、たとえば別役さんが『ベケットと「いじめ」』で分析した「中野富士見中学」の事件からもう二十年以上が過ぎたいまとなっては、また異なるドラマツルギーについての視点が生まれなければおかしいからだ。あるいは、「ドラマツルギー」という枠組みがすでに現代演劇において有効性を失っているのかもしれない(ってことが、もしあったら、それ大変なことだけどさ)。ただ、「ドラマツルギー」って言葉は、いま、ちっとも語られない。使いたくはない言葉で表現したら、「流行らない」という感じだ。もう誰もそんなことは問題にしないのだろうか。むしろ、「からだ」へと演劇の中心は移動してしまったのだろうか。もちろん、「からだ」は重要だけど、ドラマという側面からも演劇は考えられるべきだし、それはなにも、過去のドラマではないからこそ、そこに「現在的な身体」、あるいは、「現在的なドラマツルギーが要求する身体」は求められる。

「岸田戯曲賞」の候補作が郵便で届けられた日に、『キレなかった14歳りたーんず』に参加して考えるべきことを示唆されたことの、不可解なこの符合がなにかのきっかけになるかもしれない。それにしても、トークはだめだった。もしこれを読んでいる方のなかで、あの場所に来てしまった人がいたら、申し訳ないとしか言いようがない。会場ではいろいろな方に会った。久しぶりに佐々木敦さんにもお会いしたが、そんなわけで、軽い挨拶だけして佐々木さんとは話ができなかった。聞きたいことがいっぱいあったのだ。

(8:29 Dec. 26 2008)

Dec. 24 wed. 「来年のことを考える」

二〇〇八年、年の瀬の早朝

年内の大学の授業が終わって(19日)少しほっとしたが、けれど来年の「サブカルチャー論」のことを考え、レゲエについてもっと知ろうと『ベースカルチャー』という本にあたったり(20日)M-1グランプリを観たり(21日)、小説のことを考えたり、ウェブでエッセイを連載することになってその打ち合せで演劇のサイトなどを運営しているMさんに会ったり(22日)、無駄にクルマを走らせたり(23日)といろいろだった。
観覧車について何人かの人からメールをもらった。長野に住んで、舞台を観に来てくれるたびに「雷鳥の里」を差し入れしてくれるMatatabi OnlineのO君のメールにはスケルトン観覧車に彼の友人が乗っている写真が添付されていた。ほかにも、神戸のKさんからは(これまでリングスでは「タンブリンノート」というサイトで繋がっていたが、いまはブログ「多聞日記」を書いている)、「絶叫マシンとしての観覧車の歴史」という標題のメールをもらった。それによると、観覧車の研究をしている人はけっこういるらしく、たとえば、観覧車通信「愛のくるま」というサイトや、「観覧車の誕生とその後」というページ(この「観覧車の総合サイト」ってのが、「観覧車を愛してやまない人のためのサイト」とあって、どうにもすごい)を教えてもらった。驚くべきことに、「観覧車は、かの有名な『エッフェル塔』に対抗するために生み出されました。」とそこにはある。ほかにもいろいろ教えてもらった。書きたいことはさまざまにあるが、べつのことに触れたいので、その話はまたにしよう。

少し前に録画した教育テレビのETV特集「水俣と向きあう~記録映画作家 土本典昭の43年~」を観て、「水俣」のこと以外にいろいろ考えた。つまりそれは、「語り継ぐ」ということだろう。やはり、ドキュメンタリー映画作家の佐藤真さんが亡くなられてもう一年以上になる。作家として苦悩していたことは痛いほどわかる。ものを作っている人間は誰だって苦しんでいるにちがいなく、苦しみとどう向き合ったらいいか、それ自体を考えることもまた困難な仕事だ。佐藤さんを責める気はまったくないが、ただ、やはり生きていてほしかったと思うのは、佐藤さんが大学で授業をすることはそれだけで、「語り継ぐ」ことだったからだ。もちろん創作によって語り継ぐことが作家にとってもっとも意味を持つにちがいないけれど、佐藤さんの授業で土本さんの作品をはじめ、多くの作品に触れることが学生にとってどれだけ意味のあることだったか。学生のなかの何人かが呼応し、触発され、喚起され、また新たな作り手として立ちあがる。
たとえば、『ニュータウン入口』でカメラマンをした今野がいる。あるいは、京都の「地点」という劇団に参加しているY君がいる。二人から聞いたことしか僕は佐藤さんの授業を知らないが、そこにはきっと、研究者とは異なる作家の「言葉」があったにちがいない。作家の言葉で語り継ぐことで、またべつの喚起する力がそこに生まれたと想像する。もちろん研究者の仕事を尊重するのは当然だが、研究者とは性質の異なる「力」があり、これから新たに創作に向かおうとする者を、その「力」が奮い立たせた。土本さんを取り上げた「ETV特集」で知ることになるのは、土本さんがそもそも、「語り継ぐ者」として「水俣」に関する映画の上映運動をし、それによって多くの人が「水俣病」を理解したことだ。いまでは、「公害」として存在し、あたりまえに知られた現象の多くは(中国のあれだってもちろんそうだ)、はじめから理解されていたのではない。病に冒された人がそもそも自身の病について無知だったけれど、それ以上に、「公害」そのものが一般化するのは土本さんをはじめとするアクティビストの大きな成果だ。
佐藤さんが亡くなられたことはそうした意味でも残念だった。「語り継がれる」べきこととは、土本さんの存在を伝えるだけではなく、たとえば、「挨拶の仕方」だけでも大きかったのではないか。対象となる人たちにカメラを向けるまでにどれだけ時間がかかるか。なにかの機会に佐藤さんは話してくれた。その気が遠くなるほどの長い時間はだからこそ映像に力を与えるだろう。僕もまた、「語り継ぐ」ことがあるかもしれない。さ来年あたりに舞台を作るために、こつこつ時間をかけて基礎を築きつつ学ぶこと、研究すべきことがいろいろある、というか、それがむしろ一番の興味の対象だが、それは同時に、若いスタッフとの作業であり、大学で教える仕事であり、つまり、語り継ぐことだ。来年こそは研究会とか、もっと単純に勉強会っていうか、そういったものをやろうと思うのだ。

授業のあるあいだ、せわしない時間が続いたので、ようやくぼんやり考える時間を作った。少しの休息。今年はいろいろあったなあ。まさか父親が死ぬとも思わなかった。心臓冠動脈の手術をするとは思ってもみなかった。これもひとつの転機か。たくさんの方にご心配をかけ、お世話にもなった。からだはもう大丈夫です。少し胸が痛むことがあって(どこが痛いのかよくわからない痛み)、ひどく不可解なのがいやな気持ちにさせるものの。

(8:17 Dec. 25 2008)

Dec. 18 thurs. 「だめな木曜日だ」

今日の驚き「眼を醒ましたら夕方の五時だった」

「新潮」のKさんから教えてもらった富士急ハイランドの観覧車だが、うっかり、名前が「スケルちゃんスクムちゃん」だということを見逃すところだった。なんという名前だ。観覧車らしさがちっともない。名前を聞くとどんなかわいいやつがいるのかと思ってしまうが、行ってみたら、観覧車という構築物だと知ってみんな驚くだろう。しかもスケルトンだ。やはり、乗ってみるべきか。
それはそうと、きょうの授業は午後六時からだったわけだが、眼を醒ましたら午後五時だったのでひどく驚いた。いつもは眠ってもすぐに起きてしまう。朝まで授業の準備をしていったん眠り、遅くても午後三時ぐらいには眼が覚めるだろうと思ったら、驚いたことに、午後五時になっていた。ぐっすり眠ってしまった。それからまだ準備が途中だったこと、きょう話すことをまとめたノートをプリントアウトしたが、プリントアウトってやつは時間がかかる。焦って家を出た。大学へはバスと電車を乗り継いで行くと決めたのに、時間がないので、仕方なしに自分のクルマで行く。道は混んでいたがなんとか時間通りに着いた。時計を見ると五時五〇分。研究室で必要なものを準備し慌てて「戯曲を読む」の授業へ。なんとかなった。
「戯曲を読む」の授業では、別役実さんの『マッチ売りの少女』を読む。もう何度この戯曲を読んだでしょう。きょう読んでいたら、なにかまた異なる感触があり、それは授業という形式で読むからこそではないかと思ったのだ。学生たちが戯曲を読むにあたって、あらかじめ、いろいろ調べてくれたことも手がかりになったかもしれない。七限は、「サブカルチャー論」。テーマは「アメリカン・ニューシネマ」だったので映像を次々と見せる。ぜんぜん時間が足りなかった。ひとつひとつの映画について丁寧に解説するつもりだったが、途中から時間がないと思い、映像ばかりを矢継ぎ早に見せた。だったら、もっと絞り込むべきでした。それにしても久しぶりに、っていうか二〇数年ぶりに観た、サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』は面白い。あとピーター・ボグダノビッチの『ラストショー』が泣ける。『ラストショー』についてはいくら話してもきりがないほどで、だったら、『M★A★S★H』とか流さなくてもよかった気がする。『ファイブ・イージー・ピーセス』のあの地味な映像は見せるべきだった。時間がなかったのだ。授業が終わったあと、研究室でまた、みんなと話をしていたら午後11時ぐらいになっていて、警備員さんに声をかけられて帰る。よく眠ってしまったせいで、快調な日だ。

(10:56 Dec. 19 2008)

Dec. 17 wed. 「ベケットと、いろいろなメール」

サミュエル・ベケット証言録

白水社のW君からいただいた本は、左の画像のベケッの本と、もう一冊、『シェイクスピア伝』(ピーター・アクロイド・河合祥一郎、酒井もえ訳)だが、家で値段を確認して驚いた。すごく高価だった。申し訳ない気分になったのである。
ところで、うちにベケットの写真がある。アップルが「クレイジーな人たちへ」という広告をやっていたころのポスターだと思うが、大きなベケットの顔写真が使われている(シリーズにはほかにボブ・ディランもあったし、ピカソのほか、多くの「クレージーな人たち」のポスターが作られたのではないか)。本書の写真とかなり似ているので、同じなのかと見ると、どうもちがう。ただ、すごくよく似ている、というか、この角度からしか写真を撮らせないぞという決意のようなものをその姿から感じる。いわば、「決めの顔」ってやつなのだろうか。「ベケットの決め顔」ってことか。うーん、そういうことに神経を使うべきなのだろうか。だけど取材を受けたときなどに、カメラマンさんの前で「決め顔」のようなものを作るのは恥ずかしい。だから、いつもカメラの前では可能な限り力を抜くようにしている。それがむつかしくて、ときとして、力を入れなかったせいで眠そうな顔になったりする。そういうことを考えること自体が、恥ずかしい。
メールをいただいた。かつて府中に住んでいたという、こちらもWさんだが、観覧車についてだ。

私は89年から91年にかけて府中に住んでいましたが、確かに観覧車がありました。あれがあったのは確か、「忠実屋」という名前だったと思います。一階でフライパンを買った記憶があるので確かです。そのことを申し上げたくて、メールした次第です。当時、自分は上京したての学生でした。店名にインパクトを感じたのと同時に、なぜここに観覧車があるのか。そのこじんまりとした佇まいとともに、記憶に残っています。

 あ、そうだ、忠実屋だ。貴重な情報をありがとう。考えてみれば、すごい名前だが、いつのまにかなくなっていた。僕が茫然としたまま忠実屋の屋上で観覧車に乗っていたのは一九七九年ごろだったのではないか。記憶が明確ではない。その後、府中から引っ越したし、ほとんど縁がなくなったのと、府中の駅周辺が再開発されてかつての面影がほとんどないので思い出そうとしても不可能なのもある。古い地図を探せばいいのだろう。古い地図によって手に入れるものはいったいなんだろう。
「新潮」のKさんからもメールをいただいた。

わたしの観覧車経験として、特筆すべきものは、富士急ハイランドのスケルトン観覧車です。http://www.fujiq.jp/attraction/shining.html (写真の下の▲透明観覧車〜〜〜のところにポイントを移動すると、チョット様子がわかります) 床面を含め、完全に透明な車両であるため、高所恐怖症の気のあるわたしは、とてもぼんやりしてはおられず、どうしても下が気になって、すぐ近くの富士山どころではなかったことを覚えています。

 それは一度、体験しないではいられない。「絶叫観覧車」といった種類のアトラクションがあるのだろうか。そんなものを誰が求めているというのだ。わからない。行くかな、暖かくなったら、富士急ハイランド。
 で、ついでだから、少し前に来た例のやつも紹介しよう。『ニュータウン入口』に出た齊藤からのメールだ。とてもうれしかったが、よく読むと、どうなっているのかよくわからない文面である。なにが言いたいのかさっぱりわからない。たいへん楽しませてもらった。

宮沢さんの家の近くの、前にお話しした、めんきやしま、といううどん屋さんは混んでいます。それぞれ人の好みは違うので何とも言えないですが、でも体のことを考えるとうどんは成分的に健康にどうなのかわからないですが。ただの炭水化物かもしれないですが、塩分とか少々あるのでしょうか。

 なにが言いたいのだ。少し落ちついたらどうか。だけど、こりゃあすげえ。驚くべき文章だ。笑ったなあ。しばらく笑わせてもらった。

(9:58 Dec. 18 2008)

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