Aug. 30, 2018
1998年に神戸のニュータウンで14歳の少年による衝撃的な事件が起こった。
20年が経ったいま、事件の直後に書かれた『14歳の国』をあらためて上演することで20年の時間と作品が描き出す「14歳」の姿がまた異なった姿で浮かび上がるのではないか。世界は変わってしまった。私たちも変わった。そして、現在を構成する<モノ>や<コト>の変容が、あの時代、すでに萌芽していたのを知るにちがいない。
あるいは、学生を中心にした若い観客はなにを思うか。
登場するのは五人の教師だ。体育の授業中。生徒たちはグラウンドにいる。教師五人が誰もいない教室で「持ち物検査」をする。舞台に姿を見せない中学生たちが、こっそり「持ち物検査」をする教師たちの喜劇的な姿を通して描かれる。
私たちは、あの日のことを覚えているだろうか。
意識することのできる顕在化した記憶だけではない。いつもは息をひそめ、ひっそりたたずむように身体に刻まれた時間がある。
『14歳の国』をいま上演するのは深い場所にあるそうした記憶を呼び起こすためだ。あの記憶は私たちになにをもたらしたのか。
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いつも書くことですが遊園地再生事業団の公演サイクルは長い。また2年ぶりです。
『14歳の国』が上演されます。
初演は
1998年の青山演劇劇場。円形劇場の舞台は比較的広かった。それを今回は、「早稲田小劇場どらま館」の舞台です。どこをどう変えたらあれが可能か。とはいうものの、演出のことなど、ほとんど記憶がないし、記録されたビデオもあえて観ることをやめ、新しい舞台を創作つもりで取り組んでいます。そして、前回『子どもたちは未来のように笑う』はアゴラ劇場との共催でしたが、今回も、早稲田小劇場どらま館に協力してもらいました。私はこの劇場の芸術監督なので、遊園地再生事業団の主宰者なのかどうか、なんだか中途半端な感じもしないではないものの、稽古場にいればただの演出家です。
さて、『
14歳の国』は戯曲が単行本になってから
(といっても、初演の舞台の初日にはすでに白水社から発売されたその戯曲はあったのですが)多くの高校の演劇部から上演の問い合わせがありました。いまでもあります。ただ、高校演劇のルールとして
60分という制約があり、そのために、こんなふうに書き直しましたと戯曲を送ってもらいました。すべて許可しました。なにしろ上演してもらえることが嬉しかったですから。それに関しては、『
14歳の国』の単行本の戯曲とはべつに、「高校演劇必勝作戦」という、一見ふざけた、しかしながらほんとはまじめな気持ちで書いた手引を載せました。もちろん今回は
60分というわけにはいかないものの、少しは手がかりになるのではないかと書き直した部分がいくつかあります。
あるいは、高校の演劇部は女子が多い。それを考え、女優中心の舞台にしました。その試みも面白いと思ったのと、男たちの劇を書き、演出するのが私の得意技なので、そうではないことをやってみたかったのです。
だからこれは再演ではありません。まったく異なる舞台です。
九月。まだ残暑の季節かもしれない。けれど、もう秋になります。どうか、早稲田小劇場どらま館へ。
WORK SHOP
2011年の三月に実施した『春式』、そして、
2012年の九月に実施した『夏型』のようなワークショップはこれからも機会があったら開きたいと思っています。春はなにかを始めるのにはちょうどいいというものの、とはいうものの、最近の宮沢はどうかと思うほど忙しい。冬にやるなら、『冬物』
(仮)にしようと思っていたのですが、そのネーミングはどうも気分が晴れない。また考えます。まったく異なる種類のワークショップをやりたいものです。その方法も思案中。来年は3月の後半あたりに『春式』をやりたい気持ちにもなっています。そのときはまた報せます。
ヒネミの商人
2014年3月。遊園地再生事業団としては珍しかったのは、「再演」だったからである。演劇のひとつの大きな特徴は、「再演」という制度だ。これまであまり「再演」をしたことがなかったのは、ひとえに、宮沢が飽きるからである。けれど、『ヒネミの商人』は過去の作品のなかでもかなり愛着のある作品だったので、今回、ほぼ20年ぶりに再演した(初演2003年)。戯曲のテーマは時間に耐えていると思えたが、「方法」がどうもちがうように思ったのは、じつは再演にあたって「日本劇作家協会」にお願いして、リーディング公演をしたとき、観客が笑っているのに驚いたからだ。つまり、もう過去の方法は「あたりまえ」になっていたとおぼしい。ところで、その再演に際し、宮沢は次のようなノートを書いた。
『ヒネミの商人』のためのノート
あれから二十年以上になるかと思うと、とても不思議だ。ついこのあいだのような気がする。『ヒネミの商人』の初演は一九九三年の夏だった。
タイトルにある「ヒネミ」は町の名前だ。その年の一月、私は、その町の名前をタイトルにした、『ヒネミ』という戯曲で岸田戯曲賞を受賞した。架空の町だ。いまはもう存在しない。その存在しないヒネミについて、かつてその町に住んでいた人に会い、記憶を集め、その地図を書いている男の物語だ。男の行為に潜むのは奇妙で強い熱意だが、ちょっと見方を変えれば狂気にもとれる。男の物語であると同時に、町の物語であり、いや、町だけではなく、消えてしまったもの、忘れられたもの、失ってしまったものについて書いたのかもしれない。私にももちろん故郷はあるがしばらく帰っていなかった。記憶のなかに町はあった。消えてしまったかのように。ノスタルジーとか、懐古趣味だと言われても強く否定しようとは思わない。懐かしい気持ちはたしかにあるからだし、では、そのことをいかに書くか、どのように表現するかが、作家や演出家の仕事だと思っている。
そしてこれは、ヒネミを舞台にしたまたべつのお話だ。
ヒネミという町に赤心堂という名前の小さな印刷屋がある。
道から入ってすぐ、通りに面した部屋は赤心堂の事務所だ。奥に印刷工場がある。もう一方の奥がこの家の居間だ。階段の上には寝室。高校生の娘の部屋。ある午後の数時間だけの話だ。それほど劇的なことは起らないし、他人からすれば、どうでもいいようなことに人は悩み、どうでもいいことの積み重ねのなかで生きている。それはべつに、ヒネミの住人だけの話ではない。私だってそうだ。
そして何年か前、『資本論も読む』という本を書いたが、もちろんこれはマルクスの『資本論』を読むという、経済学の専門家でもない者による無謀な試みだった。なにをするにも、「資本」というやつが、前方に立ち塞がって人の気分を萎えさせる。かといって無視もできないし、それをばかにすれば生きていけない。どうでもいい日常と、その背後にある資本は、まるで人を翻弄する自然現象のように、ゆったり生活のなかににじんでいる。
自然の前で、私をふくめ人はひどく愚かだ。
ほんとうにばかだなあ。
ノスタルジーかもしれない。懐古趣味と言われてもいいから、消えてしまったものについて描きたいのだ。消えてしまったかつてあったはずのもの。それをどう描くかという試みのひとつがこの『ヒネミの商人』だ。
振り返ると懐かしい人がそこにいる。でも、それはよく知っている、あの日の、あの人とはちがう。いま気がついた、「再演」は私にしたら珍しいし、しかもこれが二十年以上前に上演した作品だとしたら、『ヒネミの商人』こそ懐かしい人だ。繰り返すが、けれどそれは、よく知っている、あの日の、あの人とはちがうのだ。
かつてヒネミという町があった。いまはもうない。
また時間が来たら、べつの俳優で再演したい舞台だ。それがいつになるかはわからない。
夏の終わりの妹
2013年9月。なにより、この舞台が特別なのは、林巻子による舞台美術が出来てから、本公演の(というのもその年の七月にリーディング公演を実施したからだ)演出が決まったことだ。リーディング公演と異なったのはそれとはべつに、そこで読まれた戯曲をどうアップロードするかのさまざまな試みだ。テキストレベルでは俳優たちに質問し、その反応をテキストに盛り込んだこと。
そして、写真で見ることができるように、林巻子の美術が特別なスタイルをしていたことで、このレーンのような空間をどう使うかを試した。俳優が、ひとつの場面でレーンを横切ることはない。つまり基本的に横移動がない。あるいは俳優は常に正面を見ている。俳優は献身的によく動いた。椅子は必ず乗り越える。つまり椅子を避けて移動することができない。さらによく歌った。映像を使わなかった。キャストも五人ときわめて少なかった。
これまでの方法とはまた異なることができた。
トータル・リビング 1986-2011
2011年10月、フェスティバル/トーキョー参加作品『TOTAL LIVING 1986-2011』を上演。それに先がけ、いつものようにワークイン・プログレスとしてリーディング公演を八月に上演した(書き上がったばかりの戯曲を、俳優がその「テキスト」を手にしてただ読むのがリーディング公演だ)。
東京という都市に偏在する「ことば」や「からだ」を一貫して見つめ、リサーチし、演劇の構造にダウンロードする宮沢。
「3.11後」に焦点を当てた新作は、バブル前夜、日本経済のにぎわいに浮かれていた〈1986年〉──それはチェルノブイリの原発事故を遠い出来事として私たちが見つめていた年でもあった──と、経済の下降にあえぐ〈2011年〉の現在とをパラレルに配置することから出発する。舞台上に現れるのは個人的で断片的な言葉──あるいは書物からの無作為な引用──。遠くで、ごく間近で、時間を越え、〈二つの出来事〉はいやおうなく人の意識に反映する。
その事象の重なりと分断からは、私たちの生活と世界の歪みが浮かび上がる。けれど、人は生きている。生活はごく具体的に営まれる。時間は小刻みに進行する。
1986-2011。歴史の集積と分断に見る私たちの生活、現在。
ジャパニーズ・スリーピング
2010年の10月、遊園地再生事業団は、2年ぶりの新作『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』を上演しました。連日、いっぱいのお客さんにお越しいただきたいへん感謝しております。テン年代に向け、また新しい一歩が踏み出せたようで勇気を与えられました。ほんとうにありがとうございました。
そして今後も旺盛な、といっても、それはたとえば三年おきとか、そういったペースになるかと思いますが、自分たちが納得のゆく制作体制ができ、さらに宮沢の創作意欲が高まったとき、次の作品が生まれるはずです。
遊園地再生事業団ラボ #002
作 カトリン・レグラ
翻訳 植松 なつみ
(『ドイツ現代戯曲選30』 論創社より刊行中)
演出 上村聡
出演 永井 秀樹 谷川 清美 町田 水城 牛尾 千聖
宮崎 晋太朗 田中 夢 宮沢 章夫(ト書き)
主催 GOETHE-INSTITUT TOKYO
東京ドイツ文化センター
遊園地再生事業団ラボ #001
取り上げた作品はドイツの劇作家ジョン・フォン・デュッフェルの『バルコニーの情景』(平田栄一朗訳)。テキストは論創社から刊行されています。
「パーティー会場の建物。会場脇の夜更けのバルコニー。やってくる人々によって語られる、かみ合わない独りよがりなスモールトーク。背後に見え隠れする過酷な現実と、過酷ゆえの苦い喜劇。いくつもの韻文によって構成された、ドイツのベストセラー作家による社会劇。」
とても面白い戯曲でした。また新しい言葉の世界を試すにふさわしい野心的な作品だというのが、上演をしてからわたしたちが感じた印象です。すのでどうかリーディングを聞きに来てください。ラボ公演は、さまざまな試みを今後も持続してゆくつもりですが、それを通して、またべつの視点から演劇を考え、それが本公演にも反映されればと考えていますし、そのことで集団創作の手がかりになればいいのですが。
ニュータウン入口
2007年の遊園地再生事業団は、前年の『モーターサイクル・ドンキホーテ』『鵺/NUE』といった方向から、『トーキョーボディ』『トーキョー/不在/ハムレット』の路線にあらためて戻った。若い俳優を中心とした出演者たちとの共同作業による、『ニュータウン入口でした。
もうあれから七年になろうとしている。
四月に「リーディング公演」、六月に「ワークインプログレス」。これは『トーキョー/不在/ハムレット』と同じ「作り方の試み」。けれど、同じことをやってもしょうがない。そこからまた異なる表現がなにかできないか。
考えることはまだあるはずだし、演劇の可能性をもっと拡大すること、演劇を通じて、作る側も、そして観客も意識を拡張するための舞台ができればと考える。本公演が上演された(三軒茶屋シアタートラム)九月の上演まで作業は続き、『トーキョー/不在/ハムレット』と同様、いくつかの試みとしてのプレ公演、ワークインプログレスを通じて作り上げた。
若松武さんをお迎えしての本公演、さらにオーディションによって集まった俳優によって様々な試みをした。その試みが、また誰からも理解してもらえなかったかもしれないし、いまの演劇の潮流からはまったく外れたところで作品ができていたかもしれないが、それはそれで、まあいいかなとしか考えようがない。なにしろ、そんなふうにしかできないからだ。二〇〇〇年代になってからはじめた「遊園地再生事業団」の方法だ。つねに考えること、考え続けていること、その運動している状態自体が遊園地再生事業団と、宮沢の演劇へのアプローチだ。潮流から遠く離れ、だが、現在にコミットしつつ舞台を作ってゆこう。それは刺激的な試み。むしろ、作っている自分たちにとって作業それ自体が、刺激的な体験になることがもっとも必要とされる。
さらに、二〇〇八年の四月、NHKの芸術劇場で『ニュータウン入口』(芸術劇場版)が放映された。「映像作品」として、なにかを作ろうという野心があった。舞台をどのように映像化するか、映像として記録を残すかにはさまざまな方法があるだろう。いま、こういうことをやりたかったという、NHKのNディレクターと宮沢との共同作業だ。機会があったらどこかで観てもらいたい。
まだまだ、遊園地再生事業団の試行はつづく。
鵺/NUE
2006年の秋。世田谷パブリックシアターの主催により、野村萬斎企画「現代能楽集」のシリーズに宮沢が挑戦した作品。謡曲「鵺」を題材に、宮沢が書いたのは、『鵺/NUE』である。ヨーロッパ某国空港内になるトランジットルームを舞台に、ヨーロッパ公演を終えた演出家、俳優らが、かつて日本の小劇場で活躍し演出家と供に舞台を作っていた人物「黒ずくめの男」に出会うところから物語ははじまる。
過去の劇言語を現代によみがえらせることをコンセプトに、清水邦夫の戯曲を大胆に引用した作品。宮沢にとっては、はじめて仕事をさせてもらった若松武、上杉祥三らとの仕事で、またべつの刺激を受けた記念すべき作品になった。さらに清水邦夫さんが、現代人劇場、櫻社のために書いた七〇年代の作品を引用することで、ある過ぎ去った時代からいまに繋がるなにかを求める作品になった。
モーターサイクル・ドン・キホーテ
2010年の6月に上演。ハーバード大学のスティーブン・グリーンブラッド氏の立案によって、シェークスピアの失われた戯曲『カルデーニオ』をもとに世界数カ国で、それぞれの解釈によって創作された作品の日本における上演の実践として作られた舞台。横浜赤レンガ倉庫で2006年5月に上演された。赤レンガ倉庫の建物の構造を生かしバイクを走らせたが、『カルデーニオ』が、セルバンテスの『トン・キホーテ』を元にしていることから男二人の旅の物語であり、補助線となったのは、往年のアメリカ映画『イージーライダー』である。タイトルは、もちろん、チェ・ゲバラの青年時代を描いた『モーターサイクル・ダイアリー』からの引用。どちらの映画でもバイクで旅に出るとき登場人物たちは、「俺たちはドン・キホーテだ」と言う。男二人が旅をすれば、それは世界中どこに行ったって、「ドン・キホーテ」なのである。横浜市鶴見区のバイク屋を舞台にした、男と女の愛憎、そしてバイクの物語。ベースになっているのは、『カルデーニオ』。ここにグリーンブラッド氏の言う「文化の流動性」はあった。この舞台に関する詳しい話は、こちらのサイトで批評家の内野儀さんが解説してくださっているので参照していただきたい。
トーキョー/不在/ハムレット
2005年1月。上の写真は『トーキョー/不在/ハムレット』のフライヤーの写真である。あれからもうずいぶん時間が過ぎてしまった。過去の作品にいつまでもこだわっていてはしょうがないが、反省はいろいろある。そして、『トーキョー/不在/ハムレット』で試した方法をまた発展させ、あるいは、そこで考えたべつの方法や、いま、有効性を持った演劇として書くべきドラマをやはり模索しなければ、ひとつひとつの試みはただ、やりっぱなしで終わってしまう。また考える。『トーキョー/不在/ハムレット』で試した、「プレ公演方式」、あるいは、最近よく使われる、「ワークインプログレス」の連続上演の方法は、すでに書いたように、『ニュータウン入口』であらためて試してみるつもりです。けれど、『トーキョー・ボディ』と『トーキョー/不在/ハムレット』からはじまった遊園地再生事業団の新たな展開は、これからの舞台にどうつながってゆくか、それに期待していただきたいのです。