Nov. 15 sat. 「あわただしい」
■あわただしい日々が続いていたのだった。火曜日(11日)、水曜日(12日)は授業の素材作りをしていたが、授業の準備をするというより、むしろ、Keynoteを操作するのが面白くてそれをしている感じになってきた。妙なところにこったりし、これもまた本末転倒である。
■木曜日(13日)は、持ち回りで半期に二度だけ授業をする「メディア論」、そして通常の「戯曲を読む」「サブカルチャー論」の三コマだった。「メディア論」はアウェーに来たような感じで、まあ、なにを話しても無反応だ。見れば学生がすごくよく寝ている。ぐっすりである。それがひとたび、「サブカルチャー論」になると、こちらはホームに戻ったような気分で話ができる。で、また、BRUTUSの取材が入って授業中、写真を撮影されたわけだけど、カメラマンさんがずっと教室をうろうろしながら撮影しているのを学生に説明していなかったので、いったいなにごとかという感じであったろう。今週は、「ビートニク」の二回目。なかなか「一九五〇年代論」が終わらない。体調を崩して、いま休学しているという学生が来てくれたので、授業後、編集者ら、みんなと一緒に研究室でいろいろ話をした。また、楽しいひととき。というか、この日は三コマも授業があって疲れたが、研究室でこうして話をするとすっかりなごむのだ。
■そして金曜日(14日)は、「都市空間論演習」と「サブカルチャー論演習」。授業後、今週は、「サブカルチャー論演習」の学生たちと飲み会があった。このクラスの女子が、いやはや、なんというか、きわめて「腐」なのである。「腐的なるもの」が漂っているのである。なんでこんなに集まっちゃったんだ。で、ことによったらこれが一般的なのかと錯角を起しそうになるし、ある現在的な先鋭と勘違いしそうだが、けっしてそうではないだろう、おそらくね。これはあきらかに特殊な傾向だ。というのは、次の日、横浜でニブロールの矢内原充志、礼子さんの結婚パーティがあってそれに参加したが、そこにはまた、まったく異なる文化的な空間が広がっていたからだ。異なる文脈。そのことはまた、あとで書くとして、はじめはそんなつもりはなかったものの、飲み会は朝まで続いた。結局、始発の出る朝五時まで話をした。楽しかったな。学生たちは始発で帰って行ったが僕はタクシーに乗った。ぐったりした。疲れた。かなり眠かった。また、幹事をしてくれた、AとGに助けられた。あと、こんなに話をすると、みんなのことがだいぶわかってくる。授業だけではわからない。ただ、みんなものすごくよく喋る。驚く。あと、俺、こいつらの親と同世代だからいやになる。
■さて、ニブロールの矢内原充志と礼子さんの結婚パーティが、横浜で開かれた。礼子さんというのは、もうかなり以前、あれはたしか、『Tokyo Body』のオーディションに来てくれたし、充志君は、『トーキョー/不在/ハムレット』の舞台で(それは僕とニブロールの矢内原美邦が共同演出をしたわけだが)衣裳をデザインしてくれたという縁である。横浜まで渋谷から東横線に乗った。かつて祐天寺に住んでいたこともあるが、久しぶりの東横線で、しかも「みなとみらい駅」にははじめて降りた。地下の駅構内から上に広がる建物のなかにあるホテルに向かったが、これがまた、ものすごく複雑な構造になっている。しかも建設されてあまり時間が経っていないのか、とてもきれいだし、異常な長さのエスカレーターなど驚かされることばかりだ。
■パーティはとても幸福な空気に包まれたものだった。まあ、結婚パーティだけに幸福じゃないとまずいとはいうものの、こちらも幸せな気分になる。なかでも、高木さんのダンスのなんともいえぬ華やかさと、彼女の持っている陽性な空気は人を幸福な気分にさせる。なんだ、あの明るさは。ぱーっとしてるんだ、踊っているあいだ、ずっと。で、なぜか新郎新婦が最後に歌を披露した。歌うのか。歌ってしまうのか。不思議な気分にさせるとはいえ、この歌がまた、よかったのだ。主に、新婦の礼子さんが歌ったが、かつて私が知っている結婚披露宴、パーティで聞いた歌で二番目によかった。一番は、山下達郎さんで、あっちはプロだからね、しょうがない。しかも山下さんはものすごかったんだ。礼子さんもよかった。あれはなんという歌なんだろう。
■会場では、ニブロールの舞台に参加していたことのあるダンス関係の方や俳優たち、いろいろな方にお会いした。学生たちと話をするのも、ある意味、刺激的だし、楽しかったが、また趣の異なる人たちとの交流はそれはそれでとても楽しい。帰り、東横線を各停の電車に乗って渋谷まで座って帰ってきた。意外に時間がかからない。渋谷から初台まではバス。よく動くこと。それがからだにはとてもいい。学生たちと朝五時まで過ごし、そして夕方からは横浜で結婚パーティに参加し、慌しかった。あ、横浜で崎陽軒のシウマイ(崎陽軒ではこう表記するらしい)を買ったのだった。家で食べる。うまいうまい。ちょっとした旅行気分になった。
(4:18 Nov. 16 2008)
Nov. 11 tue. 「若き映画監督の死」
■まだ、五反田の病院に入院していたころ、あれは九月の初頭だったか、記憶がはっきりしないが三坂が見舞いに来てくれた。そのとき、プロデュースしたという映画のことを話してくれてフライヤーも手渡してくれた。いろいろ苦労して、ようやく、渋谷のユーロスペースで上映が決まったという話だった。一卵性双生児の姉妹が主人公の話だった。そのことを忘れていたせいで、つい最近、もう数日前か、若い映画監督が急死した事件が結び付かなかった。その後、監督が初めての作品の公開中に亡くなられたこと、そして、その映画が三坂がプロデューサーをした『ブリュレ』だと知って、少なからず驚かされた。三坂の心中を想像すると(他人が想像することなど困難にちがいないが)、どう声を掛けてあげたらいいか戸惑う。 (11:26 Nov. 12 2008)
■今週も終わった。金曜日の授業が終わるとほっとする。で、今週は「都市空間論」のクラスで飲み会があり高田馬場で学生たち十数人とはじめてゆっくり話をした。前期もこういう会を計画したが僕が入院してしまったのでできなかったのだ(飲み会はあったが僕が不参加)。前期から同じ授業をとってくれたAとGが幹事をつとめすべてを準備してくれた。ふたりになにかと助けられる。ほんとにありがたい。そして学生たちといろいろ話ができて楽しかった。 (6:01 Nov. 8 2008)
■五反田のNTT関東病院に行った。定期的な診察である。順調に回復している。次の診察は三ヶ月後ということになった。で、三ヶ月分の薬を処方してもらったら、驚くべきことに薬代だけで二万円を越えていた。診察料は330円。この差はなんだろう。 (15:06 Nov. 5 2008)
■空気が乾燥している。そして社会は三連休だった。 (7:04 Nov. 1 2008) 10←「二〇〇八年十月後半」はこちら
■電話しようか、メールしようかと思ったが、映画も観ていないし、僕のような者が声をかけてもむしろ三坂を苦しめるだけになるかと思って躊躇した。ショックだったろうな。ようやく公開にこぎつけたというのに、この不幸をいったいなんだと考えたらいいのか。人が、どうにも抗えないなにかってのがきっとあって、それを「運命」と呼ぶことはしばあるが、「運命」だけでは、割り切れない。僕は幸運だった。心臓の病に早く気がついて手術も無事に終えることができそしていまはからだも復調している。しかも若い人の死は悲しい。若すぎる。今年は何人も人の訃報を聞かされた。人だから、いつかは死ぬ。それには抗えない。ただまだ活躍できるはずだった人、これからだった人の話を聞くたび、やりきれなくなる。
■そうして僕は、相変わらず大学の準備のために苦労していた。「メディア論」と「サブカルチャー論」はなんとかなりそうだ。「都市空間論」が、今週はかなりだめなことになりそうだが、先週の「下北沢」の話につなげ、都市における「路地」について、その魅力と、それが失われてゆく過程と、あらためて「路地」を復権しようとして、しかしながら人為的に生まれた路地のつまらなさについて考えてみたいと思ったのだ。中上健次の「路地」が発する、なにものかへの「抗い」、あるいは、出現したときにはすでに近代的な社会の規範から逃れべつの地平に走り出している姿は、この国のどこの「路地」にも、いまはもうまったく存在しないのだろうか。
Nov. 8 sat. 「伊武さんと、ブライアン・フェリーと……」
■今週の授業はいろいろあった。いろいろすぎた。木曜日の「戯曲を読む」の授業には、エジプトからの留学生が参加してくれた。演劇を勉強している人らしい。日本語が達者。エジプトには「実験演劇祭」がたしかあったと記憶している。それを切り出すと演劇祭の事務局で働いていたこともあるという。東大の内野さんが審査員で行っているはずなのでそれも話すと、「知ってます」という。さらに、知り合いの知り合いが、かつてエジプトに住んでいた話をなにげなくしたら、「なんていう名前ですか?」といきなりな質問をされた。名前を言ったら、「知ってます」と言う。ほんとうなのか。なんでも知ってるのか、この人は。まあ、おそらくエジプトにおける日本人社会は狭いだろうし、日本に留学するってことは、この国に興味があって来たのだろうし、日本人社会と関わりがあったにちがいないから、知っていてもおかしくはない。あと、彼女から授業に出ていいかというメールが数日前に来たが、名前の前に、「女」とあったので笑った。まあ、たしかに名前だけでは性別がわからないわけだけれど。
■「サブカルチャー論」には、雑誌「BRUTUS」の編集者が取材に来た。大学特集をやるという。授業が終わってから研究室で話をしたが、ライターのM君がびっしり授業のノートを取っていた。あ、そうだ、この日は「戯曲を読む」にも、「サブカルチャー論」にも、卒業生のM(とその友だち)がもぐっていたが、早稲田を出たあと就職し、そこをやめていまは京都で芝居を続けているという。話を聞くと、京都で一緒に舞台をやっているのが、京都造形芸術大学の卒業生で、僕が教えたこともある人だった。ここんところ、「サブカルチャー論」と「都市空間論」のことばかり考えているので、うっかりすると、演劇のことを忘れてしまう。みんな各地でがんばっているのだな。いつだったか、やはり京都のころに教えていた学生からメールをもらった。いま維新派で芝居をしているという。最初は映像コースにいたが、僕の授業を受けたあと演劇に転コースした学生だ。それがうれしかったのを思い出す。
■で、金曜日が「都市空間論演習」と「サブカルチャー論演習」だが、「サブカルチャー論演習」の学生による発表の中身が濃くて面白かった。「球体関節人形」と「コスプレ」について学生が話してくれた。通り一遍の発表じゃないのがいい。ひたすら好きな人が、好きなことについて語ってくれる。「コスプレ」の学生は、なにしろコスプレして発表だし、「球体関節人形」の学生は、「球体関節人形」が奇妙な発展と変容を遂げたともいうべきフィギュア的な「それ(=人形)」の実物を持ってやってきた。二人の話にはどこか共通したものがある。こういう人たちを目の当たりにしたことの驚きがあった。「サブカルチャー論演習」は、ときどき、ものすごく面白いときがある。というか、やはり、「驚き」といったほうが適切か。驚かされるなあ。理解できないことについて、それをどう理解しようとするか、あるいは、どう距離をはかるか、その計り方が微妙だ。むつかしいけど、だんだん興味深くなるから不思議である。
■こうして一週間が終わった。忙しいなかで、土曜日だけが、もっとも気持ちがゆったりする。そんな日、なぜか、「名古屋章」のことを思った。いい俳優だったなあ、と思い出していたのだが、では、代表作ともいうべき作品はなんだったのかよくわからない。僕の印象だと、テレビドラマの、食堂とかの店主だった印象しかないのである。いつも食堂の店主だったような気さえする。で、いつだったか、なにげなくテレビをつけたら、あの伊武雅刀さんがラーメン屋の店主をやっていて、伊武さんが名古屋章に見えたけれど、だけど、伊武さんといったらスネークマンショーの人だ。八〇年代の、あのかっこよさ、初めて仕事で会ったときのかっこよさといったらなかった。伊武さんのクルマに乗せてもらったことがあった。カーステレオでブライアン・フェリーをかけていたのをいまでも思い出すし、当時の伊武さんの姿が、ブライアン・フェリーとだぶって記憶がよみがえってくる。
■そんなことを考えていたら、スネークマンショーを聞きたくなったし、それから名古屋章の芝居が観たくなった。いったいなにを見ればいいんだ。
■筑紫哲也さんが亡くなられた。いろいろ考えることがあるが言葉にすると遠い人の死について語るのは陳腐な言葉になりそうなので書かない。ただ、ごく単純に残念だ。オバマ当選。小浜市の人の行動はいかがなものか。それにしても気になるのは、名古屋章だ。
Nov. 4 tue. 「病院へ、早稲田へ、そして」
■その帰り、五反田から山手線に乗って高田馬場まで行く。バスで早稲田へ。天気がよくて気持ちがいい。早起きをしすぎたから眠かったがすっかり眼が覚めた。忘れた眼鏡を取りに研究室にきたのだった。ついでに本を二冊と、Power Book G4を家に持ち帰る。重い。タクシーに乗ってしまおうかと考えたが、がまんして地下鉄にした。早稲田から九段下へ。九段下から初台まで。重かった。久しぶりに重い荷物を持った。手術のあと、こんなことはしばらくできなかったが、ずいぶん調子が上がっている。
■あと、眼鏡があると快適だ。スーザン・ソンタグの『反解釈』は、いまでは筑摩文庫から出ているらしいけど、うちにあるのはそれ以前の竹内書店新社版で、これがまた、字が小さいんだよ。かつては気にならなかったはずだが、いまはもうお手上げである。ここに収められている「キャンプについてのノート」のことを授業で話そうと思って再読したのだ。あらためて読んだら、かつては読み取れなかったことがわかったように思える。
■さらにこれも誰かの役に立つかもしれないと思って記しておけば、Power Book G4を家に持ち帰ってきたのは、MacOS10.5をインストールしようと計画していたからだ。あっさりうまくゆくと想像していたがだめだった。まず、僕のPower Book G4はDVDドライブが壊れているということが話の前提になる。つまり、自力ではインストールできないマシンである。
■FireWireケーブルで、Mac Bookとつないで、Power Bookを「T」のキーを押しながら起動する。つまり、Power BookがHDDとして、Mac Bookに認識される。Mac Book側のDVDドライブからFireWire経由でインストールという面倒な作業だ。一時間ほどしてインストールは完了。で、これでいいだろうと思ってPower Bookを起動したが、起動ディスクがまったく認識されない。ここでかなり悩んだ。で、最初、Power BookのHDDを、ディスクユーティリティを使って初期化するとき(パーティションを切るとき)なにかメッセージが出て設定を変えたことを思いだした。あらためてメッセージを確認。ようやくわかった。intelのプロセッサが入ったMac Bookからだと、同じintelプロセッサの入ったマシンしか認識しない形式の初期化をするということだ。
■そこらあたり臨機応変にやってくれればいいじゃないか。考えた。起動オプションをあれこれ試す。ぜんぜん起動しない。このままだと、Power Book G4は、なんにも使えなくなって、ただの邪魔な箱になる。なにしろDVDが壊れているおんぼろのマシンだ。OSをインストールすることすらままならない。あきらめかけたとき、じゃあ、intel Macを使わなければいいんじゃないかと気がついた。こんなとき、ふだんは使っていない邪魔なマシンがどれだけ重宝するか。すぐにPower Mac G5で試す。うまくいった。時間はかかったがPower Book G4でMacOS10.5を無事に動かすことができた。動作が重くなるかと思ったがさほどでもない。
■疲れた。ここまでたどりつくのに六時間ぐらいかかってしまった。
■そんな苦労してなにをしようとしていたかっていうと、このあいだ書いたように、iPhoneを使って、Keynoteを操作したかったのだ。こちらもできるようになった。Keynote使って授業するのが楽しくなるだろう。だけど、いろいろやっているうちに授業の準備がぜんぜんできなかった。なんというか、本末転倒である。よくわらない気分になりつつ明け方に眠る。
Nov. 3 mon. 「苦しみの冬ははじまり」
■そんな11月、大学の研究室に眼鏡を忘れた。小さな字の本が読めなくていらいらする。「小さな字」という問題もあるけれど、「老眼」というやつは「暗さ」にも弱くて少し照明が弱いとそれだけでだめだ。カフェというやつがいけない。本が読めない。「戯曲を読む」の授業のとき(教室の照明が少し暗いのである)、たまに眼鏡を忘れることがあって、そうなるともうお手上げ。なんと表現していいか、七転八倒する。必死に読む。眼が痛くなる。あと、授業で戯曲を読んでいるあいだ眼鏡をかけていても、学生に話そうとして遠くを見ると眼がくらくらする。いやになる。近眼だけではなく老眼のレーシック手術があるんじゃなかったかな。かつてなら、あらゆる手術に二の足を踏んだが、心臓の手術をやってから考え方が変わった。手術はけっこういい。それというのも、手術後、からだが絶好調だからだ。やけによく歩ける。階段も苦じゃない。眼も治したくなったのは、まだまだ読みたい本があるからだ。
■白水社のW君に教えられ、「都市文化論」について考えるヒントになる本やサイトをあたっているが、たとえば「下北沢」にしても、「交差点で見る東京」にしても、もっと深められたんじゃないか。なにか鮮やかな切り口が見つかる気がしてならないっていうか。それを発見して、発見した自分が、すかーんと気分がよくなるような、そういった「なにか」である。もうちょっとで生まれるような予感がある。出てきそうで、そうは簡単にいかずひどくもどかしい。建築関連の本や、雑誌を読んでいると、その図版のデザインなどビジュアルが見る目を刺激してくれる。いいんだよなあ、こういった感じがさ。だからなにか出てくる予感があるのに、出てこなくて焦燥し、落ち込み、いらいらし、悪い連鎖だ。
■で、気分を変える。作業しなければと思いつつ忙しくてできなかったWindowsマシンの組み立てを土曜日(1日)にやった。それで久しぶりに必要なパーツを買いに秋葉原に行ったのだ。秋葉原は人が多かった。言葉がうまく出てこないがこの感じはいったいなんだろう。なんとも泥臭い町だ。かつてよりなおさらその印象が強まった気がする。ここでなにかが生まれているのだろうか。俗に言われる「オタク文化」にはどうしても理解しがたいことがあるが、一方で、なにか面白い部分もありそうに感じる。もっと見るべきなのか。それとも無視していいのか。よくわからない。
■さて、組み立てだが、眼鏡がないから、こっちの作業もかなりいらいらしながら進めたものの、いままでにないほど安定したマシンができた。べつに高価なパーツを使ったわけではないのになぜそうなったかわからない。なにごとも工夫しだい。組み立てもそんなに時間がかからなかったし、トラブルらしいトラブルもなかった。Windowsの場合、安定していないとまずOSのインストールからつまずくがそれもなくあっさりできた。だけどOSにしろ、アプリケーションにしろインストールは面倒だ。Windowsだけでなく、Macもそうだが、インストールに思いのほか時間がかかるときがある。たとえば、Final Cut Studioがそうだった。まあ、統合ソフトだからね。Final Cut Proだけじゃなく、DVD Studio Proとか、いくつかのソフトを同時に入れるし、膨大な量のファイルを導入しなくちゃならない。
■たしかに仕事をするのに便利だけれど、コンピュータはそれ自体に手を掛ける時間がかかりそれがやっかいだ。環境整備って、まあ、部屋の片付けみたいなものだろうし、人は仕事以外のきわめて具体的な生きるための仕事がいくらでもある。ゴミを出すとか、図書館に本を返すとか、宅急便を受け取るためにサインするとか、なにを食べればいいか考えるとか……面倒だなあ、生きることの大半は。でも、生きていればけっこういいこともある。だから、人は生きてるんだろう。けっこういいんだよな、こういう具体的な生活の積み重ねも。
■それでも、日曜日、月曜日と、やらなくてはいけないことに苦しめられながら焦っていたのだ。なにより眼鏡がないのが痛いよ。建築の雑誌の活字が小さいんだ。なんだと思ってるんだ、ちくしょうめ。考えようとしても思うように本が読めずそれでべつのことをする。NHKの人に頼まれラジカル・ガジベリビンバ・システム時代の舞台映像をDVDに焼いた。意外に手間がかかって腹立たしい。こんなことなら、フィールドワークに出かければよかった。町を見に行けばよかった。書を捨てよ町に出よう、か。書も捨てがたい。っていうか、「書を読んでいる」ことがあたりまえの前提としてあるよ、この言葉。どうなんだ、いまは。そんなこと考えてる場合じゃないんだ。苦しむ連休。いよいよ冷えてきた。