富士日記 2.1

Oct.14 tue. 「サブカルチャー論へのノート」

世界の映画作家6・大島渚

夜、家を出ると細かい雨が降っていた。歩くのがめんどくさいな。そんなに遠くないだろうと思ってタクシーで四谷まで行った。映画監督の富永君と会った。富永君がずっとバイトしていたという四谷の「ジャズ喫茶いーぐる」という店で対談だ。ずっと大音量でジャズが流れている。このあいだ恵比寿で、いとうせいこう君に会ったのと同じ、雑誌「BRUTUS」の企画だ。リレー対談。大島渚をメインのテーマにそこから話をはじめ、松竹ヌーベルヴァーグ、あるいは本家のヌーベルヴァーグやジャズについて話せればいいという内容である。
席に着いたら、富永君が二冊の本を持参してきており、机の上に並んでいるのに気がついた。それ、僕も持ってきてたよ。青土社から出ている二冊の大島渚に関する、『大島渚1960』と『大島渚1968』だ。聞けば「1960」のほうを富永君は、本屋で立ち読みして読了し、引っ越して町を出てゆくにあたり、その本から離れるのがさびしくて買ったという。だから、同じ本が二冊ずつテーブルに並んでいた。それで対談。ほんとは僕は、高校時代に異常に読みこんだ『世界の映画作家6・大島渚』を持ってこようかと思ったが、なぜか家の書棚になかった。授業のおりかなにかに大学の研究室に持って行ったのだろうか(上の写真はあるところからお借りしたもの)
話は楽しく進行した。記事をまとめてくれる方から、「大島渚ベストを選ぶとしたら?」というむつかしい質問があり、富永君はリアルタイムで観たという意味で、『御法度』をあげていた。僕は『儀式』と『少年』でしょうか。『少年』は、父親役の渡辺文雄があんまりにだめなのが印象に残った映画だったし、そもそも、その「少年」が僕と同世代だったのだ。親が自分の子どもに「当たり屋」をやらせていたという事件をいまでも強く記憶している。『儀式』は、儀式が示す権力の行方と、儀式の表面から隠された性的な匂いを丹念に読み、いわば形而上と形而下から時間をたどることで戦後史を描いてゆくが、きわめてばかばばかしいナンセンスコメディーの側面があって、右翼青年のよくわからない演技や、「花嫁のいない結婚式」の場面など、大笑いだ。

対談で話すことはできなかったが、帰り道、僕が高校時代から大島渚について意識的に読むようになり、のちに映画を観るようになってずっと感じていたのは、「戦後」ということではなかったかと思う。現在を知るために歴史をたどろうとしても学校で教えてくれる歴史の授業はだいたい一九五〇年の朝鮮戦争ぐらいで終わっていた。それからを知りたかった。僕が生まれた、五〇年代の半ばから現在までをもっと知りたかった。それを大島映画から学んでいたのではないだろうか。
きうの触れた、『〈民主〉と〈愛国〉』のなかで小熊英二は、「戦後」を「第一の戦後」と「第二の戦後」にわけて考えている。「第一の戦後」について、それが「戦後民主主義」と言葉にされたのは、ずっとあとのことだ。たしかに、「戦後民主主義」と肯定的な響きをもたせてこの時代を語りたくなるような思想的な明るさが、終戦直後から十年ほどの時間を覆っていた印象を受ける。そして一九五五年に「五五年体制」が生まれてから、「第二の戦後」は出発し、ここで「第一」と「第二」において、たとえば「愛国」や「民主」、あるいは「民族」という言葉のどれをとっても、使われ方や意味もまた、変容する。小熊英二はそうした「変容」を分析し、変容の意味の論証を通じて「戦後」と「戦後思想史」をあらためて再構築しようとする。いま僕が興味を持っていた一九五〇年代の半ばに「第二の戦後」の切断があるのなら(単純に「五五年体制」だけじゃなくてね)、そこに想像を膨らませる歴史の余地があり、だからこそ、なにかが共時的に動いていたのだと、それまで(けっして日本では)存在しなかっただろう「サブカルチャー」(たしか一九三〇年代、シカゴ学派と呼ばれるアメリカの社会学者たちが作った言葉ではなかったか)という概念の萌芽を、五〇年代半ばという切断面に見いだすことができるのではないか。考えていたら面白くなってきた。

(10:46 Oct. 14 2008)

Oct.13 mon. 「吉田喜重とか」

あした(14日)、『パビリオン山椒魚』の富永君と雑誌の対談をすることになっており、テーマは大島渚を中心におそらく松竹ヌーベルヴァーグとか、フランスのほうのヌーベルヴァーグとかになるだろうか、そんなふうに考えているとき、文芸誌『群像』には、蓮實重彦さんと青山真治さんによる「吉田喜重」についての対談が掲載されていた。読む。青山さんが外国にいるとき、日本から奥さん(とよた真帆さん)の電話があり、いますごい映画がこちらのテレビで放送されているから、あなたはこういう映画を撮るべきだと言ったという。それが、『戒厳令』だったのがすごいや。すごい奥さんだ。あれを勧めるか。
『戒厳令』は脚本を別役実さんが書いた一九七三年の、吉田喜重作品で、まだ田舎にいた僕は映画そのものを観ることができず、先に雑誌に載ったシナリオを読んだと記憶している。七五年に東京に出てから浴びるほど映画を観たころ、どこかの名画座で上映されていたと記憶するが、それがどこだったか、ほとんど思い出せない。『戒厳令』のような映画を撮るべきだという妻を持つ映画監督は次にどんな作品を用意しているのだろう。ところで別役さんのシナリオは、別役文体だった。いかにも別役さんの芝居の登場人物らしい言葉が発せられていた。
夜、また大学の授業の予習を少し。小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)再読。ヒントがここにあると、ふと思い出して棚から手にすると、大部で重い。これ大学に持ってゆこうか悩むね、こんだけ重いと。あるいは、秋葉原について「都市空間論」で話そうと思い大澤真幸さんの書かれたものなど読む。ただ、うまくまとまらない。ぐちゃぐちゃした思考している状態を、そのまま、授業で話そう。そういうことにしかできないのだし。

(4:09 Oct. 15 2008)

Oct.12 sun. 「カレーを食べる」

郵便局までぶらぶら歩いたのは、荷物が届けられたのに留守だったから、窓口でそれを受け取るためだ。あるコンピュータ関連機器。外国から届いた。身分証明のために自動車の免許証を出し荷物を受け取ったら、意外に小さな箱だった。
それからさらに少し歩き、リリーカフェという店に入る。広々としていい店だった。カレーを食べる。皿の上にカレーのルーと、白いご飯がレイアウトされており、このあいだ「サブカルチャー論演習」で学生が発表してくれた、左右、どちらにルーがあるかについての考察を思い出した。で、カレーを食べながら演習の授業について考えてしまった。たとえば、ワークショップという授業が以前はあったけれど、あれはあきらかに「演習」で、そもそも、からだを動かすからいやおうなしに「演習」にならざるをえなかった。「サブカルチャー論演習」と「都市空間論演習」はどう考えればいいのだろう。もっといい「演習」はないものかと思うのだ。画期的な「演習」があってもいいじゃないか、というか、単なる講義だけではなく、学生が主体的に関わりながらする授業としての演習の方法を考えていたけど、これまでも数多くの教員がそのことを考えたんじゃないかと想像する。なにかすごい演習はあったのだろうか。びっくりするような授業はあっただろうか。というわけで、カレーは美味しかった。
カフェを出てまた歩くと、山手通り沿いからバスに乗って家の近くまで帰ってきた。郵便局から、カフェへと、けっこう歩いたのである。帰りは坂道を上がることになるので断念してバスに乗った。電車もそうだが、このところバスにもよく乗る。バスをよく利用したのは京都に住んでいたときだ。数字がふられたバスの路線を熟知すると京都は移動がしやすかった。どこで、どう乗り換えればいいか、かなり覚えた。渋谷区には「ハチ公バス」という小さなバスが走っている。ものは、なにかっていうと、「かわいい」の方向に傾くのはどうしたものか。「ハチ公バス」は名前ばかりか、車体自体が小さくてかわいい。かわいいんだよ、このやろう。

夜、遅くなってから、郵便局で受け取ったコンピュータ周辺機器を使って作業する。なかなかうまくゆかない。映像関連の機器。詳しく書くとうんざりするほど長い話になるのでやめておく。本を少し読む。白水社のW君と話した「00年代のこと」について考えているが、この「こと」にはいろいろ含まれており、しかし、うまく解けない。整理できない。もっと参考資料を読まなくてはと。それで考える。

(10:55 Oct. 13 2008)

Oct.11 sat. 「吉祥寺へ」

いまは京都を活動の中心においている「地点」の舞台、『三人姉妹』を観、そのアフタートークに参加した。吉祥寺シアターでの公演。
生の舞台を観るのははじめてだ。あらかじめDVDで舞台の様子は知っていたし、人から話を聞くこともよくあった。だけど、想像していたのと異なるのは、ある表現の法則があって、それに則して舞台が組み立てられているのではなかったからだ。せりふのひとつひとつを、そのつど吟味し、考え、その言葉はどのように発せられるべきか、という細かい作業が積み上げられた印象だった。だから意外に、表現の彩りがさまざまだと感じ、「地点」の印象としてあるどこか硬直したイメージとは異なる舞台だと感じた。つまり、面白い。きわめて不自然に発せられるせりふの発話法が、しばしば芝居って、変なことをするといやな感触を受けるものなのに、それがないのも不思議で、むしろ音楽のリズムの心地よさを聴いている感触があった。そしてその上でなおかつ、チェーホフの本質が生み出されていると思え、これまで多くのチェーホフ上演によって描かれた「三人姉妹」とは異なる方法で、逆に、チェーホフらしさがより強調されていたのではないか。
終わった直後の感想としてて、「三人姉妹」をよく知っていればここで語られていることはよくわかるが、では、初めてチェーホフに触れた人は理解できるだろうか、といった疑問もなかったわけではないが、そんなことは関係ないかもしれない。というか、どうでもいいのかもしれず、いまここにある表現、目の前に出現する舞台が訴えてくるもの(それはあらゆる意味・表現のレベルが発するなにか)によって、人を動かすのではないかとあとで考えた。というか、たいていのものはそうなんだろう。べつに教養が求められてはいないし、チェーホフを知らなくたってべつに構わない。魅力に触れてあとで戯曲を読み返せばいいし、読み返せば、ほんとに面白いんだってわかるからそれでいいじゃないか。

「地点」には、集団のメンバーに京都造形芸術大学の卒業生が何人かいる。出演している一人の女優も僕が教えていたころの学生だった。ひさしぶりに、そのY君、M君、Yさんに会い、とてもうれしかった。なによりいまでも舞台を続けていることがうれしいじゃないか。というわけで入院してから三ヶ月、それ以前も居酒屋に行ってなかったから、すごく久しぶりに、見に来ていた『ニュータウン入口』にも出た杉浦さん、それからやはり、京都時代の学生だった今野らと居酒屋に行ったのだ。居酒屋の食べ物は塩分が高い。人を殺す気か。だからほとんど食べずにみんなと話をしそれがとても楽しかった。
吉祥寺までは新宿を経由して中央線で来たが、中央線が意外に速いのに驚かされた。吉祥寺まであったというまじゃないか。「都市空間論」の授業のためにいくつかの街を歩かなくてはと思っていたが、吉祥寺がこんなに近いなら、こんどまた来よう。高円寺をはじめ中央線沿線もゆっくり歩いてみたいと思っていたのだ。秋葉原も。やはり街を歩くのは大事だ。フィールドワークだ。それではじめて見えてくるものがあるはずだ。
ところで、「ロス疑惑事件」と呼ばれて二十年以上前に大騒ぎになった三浦和義氏が自殺したというニュースを聞いて過去を思い出した。当時、やたらマスコミは騒いでいた記憶はあるものの僕個人としてはまったく興味がなかった。だからむしろ、なにを自分はしていたのかとすら思うのだし、じゃあ、ほかになにに夢中になっていたかが気になる。たとえば、日航機の墜落事故にはきわめて注目しニュースを見るため早く家に戻ったほどだった。三浦はどうだってよかった。ただ、一度、その三浦和義氏に会ったことがある。誰かに紹介された。ライブかなにかの会場ではなかっただろうか。渦中の人が目の前に来たことに驚かされ、「殺人犯かもしれない人」に会ったというより、騒ぎで一躍有名になった人を紹介されるという奇妙なものを感じた。あれから二十年以上になる。もうずっと遠い。

(11:50 Oct. 12 2008)

Oct.10 fri. 「地点の舞台を観よう」

二日間、授業で話をしただけなのにやけに声が枯れた。べつに俳優じゃないんだし、マイクを使っているんだから声を張る必要はないが、なぜか必死に声を出していたようだ。「都市空間論」は演習の授業だが今期は僕の講義を中心にする。「秋葉原」について話そうと思うとどうしても「東京」という地域について、ある文化圏がどのように発達し、どう変遷して街が移動したか、それがいまなぜ、「秋葉原」になったかを解こうと思えば、「八〇年代地下文化論」や「ノイズ文化論」で考えたことの反復をまずしなくちゃならないが、また異なる切り口があるか悩みつつ、結局、反復になってしまった。終わったあと、白水社のW君から大澤真幸さんの新刊書を渡された。ぱらっと目を通したがとても示唆的だと思われる。
さらに、「サブカルチャー論演習」。「関心領域マッピング」を作りそれをもとに学生が、自身の「関心領域」についてプレゼンテーションするという授業だ。本日は、「カレーライス」と「w-inds」というアイドルグループだったが、カレーライスは僕の好物だし口を挟まずにいられないテーマなのだが、「w-inds」のことはまったく知らない。だいたいアイドルというものに縁がぜんぜんないのだ。ただ、「非ジャニーズ系アイドル」という存在に興味を抱き、だったらそのことを手がかりに「アイドル論」が考えられるのではないかと思った。本日の発表は前期もこの授業を受講していたTとGだ。それというのも要領がだいたいわかっていて、はじめて受講する学生のお手本になると思ったからだ。
ところがTのやつが、10分ぐらいで発表を終えたので予定が狂った。もっとカレーライスに対する愛情を語って欲しかった。デモ、カレーライスの皿における「ごはん」と「カレールー」の位置(左右どちらにそれがあるか)という考察は興味深い。逆にGは、いわゆるいまどきの若い連中が使いがちな言葉で言えば、聞いている者が「引く」ぐらい熱意がこもっており、なにしろかなり「w-inds」に本気だからである(関東近辺で開かれたステージに全部行っている)。それぞれ面白かった。とはいっても、まだ学生の発表だから拙い部分もどうしたってあるから、僕がもっと授業中にフォローしてやり、そこから、たとえば「アイドル論」を考えるヒントになるようなアドヴァイスが出せたらよかったと思うのだ。たしかに「関心領域に関する熱意」だけでもいいが、「サブカルチャー論演習」としての課題を獲得できればよかった。この授業はまだまだ試行中。もっと考えるべきことはあるな。授業が終わってから、Tにも、Gにも、そのことを話せばよかったか。気がついたら二人ともいなくなっていた。

授業が続いた。喉が渇いてやたら水を飲む。なによりこれが気になる。というのも、入院してからずっと水分の摂取量が決められており、利尿剤で体内の水分をできるだけ排出して「むくみ」をなくすとか、無駄な水がからだに貯まらないようにしていたが、いまはついごくごく水を飲んでしまう。油断している。この夏のあいだ、なにしろずっと、一日の水の摂取が700mlだったんだからすごかった。それでも尿は毎日、それ以上出て、どっから出てくんだと驚かされていたのだ。水は気をつけよう。中性脂肪も気をつけよう。運動をできるだけして体内の循環をよくしよう。
書くのを忘れていたが、五月に頼まれていたのが、三浦基君が演出している「地点」の舞台における、アフタートークだ。チェーホフの上演である。拙著『チェーホフの戦争』もあって僕に声がかかったのではないか。「地点」の舞台は生で観たことがないものの、たとえばDVDで観るとなにか勇気を与えられるのだ。いま演劇は、よくできたドラマとか、ある意味しっかりした近代劇的な構造と表現が支配的だが、三浦君は演劇に真摯に取り組みとことん試行している。こうした舞台が評価されていることが心強いのだ。まだまだ世の中、捨てたもんじゃないっていうか。僕がアフタートークに参加する「地点」の『三人姉妹』は十月十一日(土)午後七時半から開演です。って、これを書いているきょうだけど。失敗した。もっと早く書いておけばよかった。
授業を終えて家に帰った金曜日の夜はこころがなごむ。ニュースを見るとどこでも世界的な株価下落が報じられていた。株のことなんて、俺、関係ねえなあって思いつつ、しかしとんでもない経済的な沈滞がこれからやってくるとむしろ、株を動かしているような大資本家よりずっと、弱いところにその深刻な被害がやってくるのだろう。僕だって無縁ではない。演劇だって無縁ではない。文化にもなんらかの影響があるのはバブルが崩壊した九〇年代のはじめの時代を思い出せばいい。しかも、この状態を作り出したのはマネーロンダリングしていたようなわけのわからない山師みたいな連中なんだろ。腹立たしい。

(10:55 Oct. 11 2008)

Oct.9 thurs. 「大学へ」

忙しかったので記録だけ。水曜日(8日)は「サブカルチャー論」の準備をしていた。「一九五〇年代論サブカルチャー黎明期」をテーマにするつもりだったが、突然、べつのことをやろうと思って素材を作り変えた。でも面白かったのでいいか。で、本日(9日)は、六限が「戯曲を読む」。イプセンの『人形の家』を読み、七限の「サブカルチャー論」で、「ズタ袋的思考の方法とはなにか。それこそれが、アカデミズムになりえないサブカルチャー的な方法論ではないか」といったことを話す。疲れた。
終わってから学生たちと缶珈琲など飲みながらなごむ。この時間がなかったら、ストレスだけためて、また、からだを壊しそうだ。煙草を吸わなくなってからどうやってストレスを解消すればいいか悩むが、授業で発散するのがいいのではないかと思っており、だからこそ、きちんと準備していこうと思うし、その準備が次への力になる、と考えるのは、アカデミズムとはまったく異なる「ズタ袋的思考の方法」によって、なんでも目についたもの、気になったものをズタ袋に入れてゆくことでそれが自分をある意味、豊かにするのなら、だからこそべつの側面から「サブカルチャー論」というカテゴリーを考えることに意味が出現するにちがいない。「ズタ袋的思考の方法」は、このあいだ書いた、いとうせいこう君との対話のなかで、彼にヒントを与えられその後、考えたことだった。
で、そんなことばかり書いていると「戯曲を読む」の、本来、わたしにとって専門の演劇がどうなっているかってことになるが、こちらはこちらで、きちんとやっているのだ。そういうつもりだ。しかも、戯曲を読みながら考え、また新しいことを発見することもあって、授業が自分にとっての勉強にもなっている。少しずつ冷えてきたな。秋である。気持ちがいい。からだもかなり回復し自分でも驚いている。と、心配していただいた方々への報告だ。

(7:30 Oct. 10 2008)

Oct.7 tue. 「電車に乗る都市的なスタイル」

京王新線の車内では

ずいぶん電車に乗るようになった、と書くと、まるで浮世離れしてしまったばかやろうな感じがするが、クルマの免許を取ってから(しかも、四五歳にして)自分が無類のクルマ好きではないかと気がついたのだった。若いときはクルマなんかぜんぜん興味がなかった。そんなことより、映画を観て、音楽を聴き、本を読むことのほうがずっと楽しかった。歳をとってから免許をとるとそれはそれで楽しいのだと知ったのは免許を取る過程の面白さもあるが車を運転して見える世界がまた新鮮だったからだ。だけど、もう三ヶ月ほとんどクルマの運転をせずにいるとそれもまた楽しい。公共の交通を乗り継ぐ楽しさがある。電車のなかで出会う人たちにも刺激される。
久しぶりにコンピュータをいじって映像の編集などをしていた。DVDのリッピングをし、それをあらためて新しいDVDに焼く方法を忘れてしまったので、ネットをたよりにやり方を探す。といっても、市販のDVDを焼こうとかそういったいわゆる「違法コピー」ではけっしてない。必要があってやる作業だった。あと、アップルから出ているDVD Studio Proの使い方もすっかり忘れていてDVD作りの作業よりそれを調べるのに手間がかかった。なぜ、忘れるかな、いろいろなやりかたは。
しかし、一週間なんて早いよ、もう次の授業だ。その準備にも焦る。なかでも「都市空間論」は後期、かなり講義系の授業をやろうと思っているのでしっかりノートを作ろうと思っているがうまく進まない。焦る。学生の前に立ったときの、あの自信がないときの話のだめさというやつは、ほんといやになる。自己嫌悪におちいる。そのために準備。

朝、きわめて不思議な夢を見たので起きるなりノートにまとめた。これでなにか書けるのではないかと忘れないうちに大慌てで書いたのだ。あとで読むと、ひどく奇妙な話。なんだこれは。小説も書かなくては。創作も忘れているわけではないのだ。ただ、大学の授業のことを考えるのも面白いから困る。外はずっと雨。からだはだいぶ調子が上がっている。

(3:13 Oct. 8 2008)

Oct.6 mon. 「ぼろぼろのシャツを着て」

遊園地再生事業団のメンバーのひとり上村がやってきて、人生における大事な報告をしていったが、大事なことは重々承知しているつもりなのに、私はどうも、そうした形式的なことが苦手、というか、照れてしまい、ずっとふざけたことばかり口にしていた。なにかいいことを話したいがうまく話せない。申し訳ないことだった。黒澤明の『まあだだよ』における内田百間(ほんとは門構えに月)は、たしかに変わっているところがありながら、かなり重い言葉を語る教養人として描かれていた(百間はもちろん一流の知識人だったのだが)。あれは黒澤明が表現した百間だろう。もっとでたらめな人物にも描けたはずだし、いつもなにかにびくびくし、幻影におびえる不気味な人物に描けたかもしれない(しばらく前の青山真治さんの小説がびくびくする百間的な登場人物の話だったのはおもしろかった)。ともあれ、いい教師としての、いい師としての百間もまた、百間だったにちがいない。でなかったら、あんなに長いあいだかつての学生たちに慕われるわけがない。
手術の執刀をしてくれたN医師が、今後、からだにもっと注意し、かかりつけの医師を見つけるように、相談しながら生活するようにとアドヴァイスしてくれた。東京共済病院に研修医として来ていたM先生は、まだかなり若いが、だからこそ、今後のことをお願いしようかと思った。まだ先を生き、仕事をしてゆくのにお世話になろうという信頼だ。若いときから、特に仕事をはじめて以来、心を許せる人があまりいなかった。僕自身が人に信頼されるか自信がなかったからのように感じる。いいかげんだった。自分のことしか考えていなかった。だが、上村が家まで来て、自分の岐路について報告をしてくれ、信頼されるということは、こちらも信頼しなければということだ。そんなふうな言葉にするのもいままでだったら恥ずかしかった。いまは言葉にしなけれいけない。と、考える。
夜、NHKのKディレクターに会った。先日書いた爆笑問題の番組の打ち合せだ。とても感じのいい人だったのだが、なにがよかったって、僕が着ていた、ぼろぼろになったチェックのシャツを見、ニルヴァーナを思い出してくれ、そのぼろぼろさかげんを評価してくれたことだ。もう十数年前に古着屋で買ったデッドストックのシャツだが、ほんとうにすそがぼろぼろになっているばかりか、背中に大きな穴が空いている。いちばん好きなシャツ。それをカート・コバーンのようだと言ってくれるとはなんといい人だ。全面的に協力したくなったのである。それでいろいろ話す。そんなこんなでほんとにまたいい時間を過ごした。

それからさらに夜遅くなってから、授業で使おうと思う映画のビデオ、DVDを新宿のTSUTAYAまで行って借りた。目的のビデオ,DVDは何本かあったが、ないものもあるっていうか、なぜそれ借りてるやつがいるかねって、不思議な気持ちになる。
早稲田の岡室さんからメールがあって、たしか四月にあった、「表象・メディア学会」の会合のときにお会いしたことのある、やはり早稲田の教員であられた雲英先生が亡くなられたと教えられてひどく驚いた。あのとき、学会の集まりのあとに食事会があって少しお話させてもらったがもうお年を召していられたのにとても魅力的な方だった。芭蕉の俳画の目利きでコレクターとして有名だというのも、そのとき誰かから教えていただいた。合掌。

(7:18 Oct. 7 2008)

Oct.5 sun. 「大学がはじまった」

大学の授業が二日間で五コマあったので忙しかったものの、久しぶりに学生と接するのは楽しかった。ただ授業一コマにつき一時間以上連続で話をするとさすがにまだ疲れ、終わってから胸の骨かなにかが痛む。無理をするなとみんなから注意されるものの、話し出すと、なんだか夢中になる。むきになって話すような感じがし、ふと、客観的に我を見、どうしちゃったのかと考える。そんなふうに忙しい日々がまたはじまった。ノートが滞る。
水曜日(十月一日)は授業がなかったが大学に行った。この三ヶ月、研究室にまったく行ってなかったのでいくつか確認するためだ。帰り、地下鉄で高田馬場まで出ようとしたら反対方向の電車に乗ってしまった。仕方がないので九段下までそのまま乗り、都営新宿線に乗り換え初台まで一本で帰ってきた。むしろこのほうが便利だったのかもしれない。ただ、東京メトロ、都営地下鉄、京王線と乗り換えることになって(都営新宿線は、京王線に乗り入れ)そのたびに電車賃が発生するので割高だ。木曜日は、四限の「メディア論」、六限の「戯曲を読む」、七限の「サブカルチャー論」と三つの授業があった。「サブカルチャー論」の教室が変更になっておりDVDを見せようとしたら音にノイズがのって聞き取りづらい。TA(ティーチング・アシスタント)の、K君とT君の二人が苦労していた。あと、教室が以前より小さくなっていたせいもあり、学生がぎっしりで狭苦しそうだったが、見ればモグリの者が前のほうの席にけっこういる。なんという積極性だ、っていうか、少し気をつかったらどうか、というか、遠慮ってものがあってもいいじゃないか。積極性はたいへんうれしいが。
金曜日は「都市空間論演習」と「サブカルチャー論演習」の二コマ。話すのは問題がなかったが、「サブカルチャー論演習」で「関心領域マッピング」を黒板にチョークで書きつつ声を出すと、これがひどく疲れるというか、胸の骨が痛くなる。少し早めに授業を終えた。終わってから、前期から続けて受講しているAとGの二人と少し話をした。この授業のTAをしてくれるKがいたし、卒業生のOが来ていたから、みんなで研究室にでも行って話をすればよかった。授業を終えてから、学生やTAをしてくれる彼らと話をするとなにかなごむのである。

それとはべつに、金曜日は大学に行く前に、「BRUTUS」の対談の仕事があって、いとうせいこう君と恵比寿で会った。映画がテーマ。編集部からの注文として「喜劇映画」についての対話だが、話題はいろいろな方向に飛びとてもいい時間を過ごした。で、いとう君がしきりに、コントを書けと言う。かつては膨大な量のコント、スケッチを書いたが、長いあいだ書いていないのでへたになっているような気がする。コントやスケッチはきわめて研ぎ澄まされた技術を要求されるものだし、書くというのは身体的な行為なので、書いてなければ腕がなまる。むつかしいな。書くと約束してしまったけれど。
で、この対談はリレー方式ということになっており、僕は次にある若い人に頼みたいと編集部に伝えたが、それというのも、彼とは「大島渚」について話せると思ったからだ。そんなことを考えているところへ、『大島渚著作集 第1巻 (1)』(現代思潮新社)が家に届いていたので驚かされたが、おそらく青土社のMさんが、第二巻で解説を書いているから送ってくれたのだろう。アマゾンから紹介のメールが来ており注文するところだった。ありがたや。映画で思い出したが、朝日新聞に、新藤兼人監督の新作について、映画美術の木村威夫さんが初監督をしたという記事があった。新藤監督が九六歳、木村監督が九〇歳って、どうなってんだよ。しかも新藤さんは、「やり切ったという感じはしませんね」と話す。先は長いよ、ものを作るということは。
恵比寿から早稲田の戸山キャンパスに行くのに、高田馬場まで電車に乗った。高田馬場の駅前からバスに乗るとすごく便利じゃないか。バスが頻繁に出ている。知らなかった。週末は疲れてしまったせいか、よく眠った。メールに返事をしなくてはと思いつつ、すぐに眠り、だらだら過ごす。雨が降る。

(0:49 Oct. 6 2008)

9←「二〇〇八年九月後半」はこちら