富士日記 2.1

Oct. 20 wed. 「公演も佳境、いや、あっというまに終わってしまう」

まったくもって、更新が滞っていたのである。これもみんな「ツイッター」がいけない(ちなみに僕のツイッターはこちらですが)。ついツイッターですませてしまい長い文章を書くのがおっくうになる。

だめだ、こんなことではいけない。日々を記録するというか、ブログのいいところはあとになって記録がしっかり残っているところだ。あのとき、どうだったんだっけと、これまでもなんどかこのノート「富士日記2.1」をさかのぼって読んでいたのだ。エッセイを書くときのアイデアをここから探したり、なにか調べものがあるときなど、こんなに便利なものはなかった。まあ、普通に日記をつけていればいいようなものだが、ブログだからこそ、書き続けることができたといっていいだろう。
そして、これは考えるための場である。まさにノート。演劇について、小説について、さまざまな表現活動について考えることの手がかりだ。書くことは、考えることだ。なにが考えているかと言えば、もっぱら「手」である。「手」という身体器官である。そして、「手の運動」だ。手が動かなければなにも思考活動が生まれない。いやもちろん、それは僕だけの場合か。ただ、ぼんやりしているときはあり、ただぼーっとしながらも人はなにか考える。妄想する。イメージする。しかし、それを定着させ、論理を組み立てるとき、どうしたって「手の運動」が必要になると思えてならない。それはときとして、文章だけではない。スケッチだってそうだ。建築の勉強しているとき「エスキース」という言葉があって、それは造形のアイデアを絵によって表現することだったがあれもまた「手の運動」だ。
手が動く。手が考える。そしてときとして、「手」はよけいなことをする。よけいな運動をするが、それはつまり、桜井圭介がダンスについて語った、ふつうにまっすぐ歩けばいいものを、なぜか変な動きをし、寄り道し、ある距離のあいだで無駄なことをしてしまうあの運動状態に近いとすれば、「書く」もまたダンスである。「書くという行為をする手のダンス」だ。だからブログは書かなければいけないのだな。書くことでからだのさまざまな部位が動きだす。少なくとも僕はそうだ。とはいっても、小説は進まないのだが。

そして、遊園地再生事業団『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』である。
みんなが眠ったと口にする。眠ったはずなのになぜか評判がいい。そして、連日、当日券がすごく出て、なかには申し訳ないがもうこれ以上、入れられないと帰っていただいた方もいた。申し訳ない。だから連日、満席。わたしも客席をひとつでも開けようと思って、上で、キャットウォークのほうで見ている。ほんとにうれしい。どうしてしまったんだ、とさえ思う。なにが起っているのかと。これもみんな制作の笠木と黄木のおかげだ。二人がいなかったら、公演自体、成り立たなかった。ありがとう。ほんとうに感謝している。って、まだ終わってなくてですね、二人とも、連日、チケットの整理、席の確保でてんてこまいになっている。わたしはじゃましている。申し訳ない。やついも制作の部屋に邪魔しに行っているが、とはいっても、それがねぎらいになっていて、やつい、ほんといいやつだな。
まず、今回は林巻子さんの美術が素晴らしかった。この空間があったからこそ成立したなにかがあったはずだ。ひとつずつの動き、俳優の身体が、美術のタイトな空気のなかでまた異なった魅力を放つ。ほんとうにすごかった。まだ見ていない方のために詳しく書けないがとにかくよかった。素晴らしかった。林さんに美術を依頼してほんとうによかった。
ところで、観客が眠ってしまうという件、人からいろいろ意見されるのは、もちろんテキストというか言葉の問題はまずあるが、たとえば音楽がミニマルだということもある。さらに、空間の心地よさもあったのではないだろうか。液晶モニタに映し出されるベタという魚が泳ぐさまに催眠効果があるとさえ言われたが、だったらそんなに気持ちのいいことはないじゃないか。青山真治さんは、半睡状態だったというが、べつに僕はそれを狙ったわけではなく、たくまずして「世界でいちばん眠い場所」というテーマにふさわしい空間、音楽がここに、出現したのだった。
でも、劇場に来て舞台を観、「ここが(劇場が)世界でいちばん眠い場所でしたね」と、まあ否定的な意味で、しかし「気のきいたこと」を言ったつもりになっている人たちがいるけれど、それ凡庸です。みんな言います。得意げに口にする。というか、このタイトルをつけたときにまっさきに僕自身が「劇場がそうなっちゃうんじゃないかな」と半年以上前に言ってたし。だから、それを聞くたびに、あるいはツイッターでつぶやかれるたびに、あはは、また凡庸なこと、つまらないこと言ってやがると、内心、笑っていたのですが。

それにしても、今回、エレキコミックのやついいちろう君と舞台をはじめてやったが、いろいろな意味で彼に助けられた。だいたい、芝居がうまいよ。俳優としてのやついにもかなり魅力がある。素直だしなあ。こここうしてくれというと、きちっとそれができるし、見事に再現する。彼とは、いろんな意味で運命的なものを感じずにはいられない。例の「キング・オブ・コント」で最下位になったとき、なぜ、俺の舞台に出ているのか。その翌日、午後1時から夜の10時まで稽古して、俺は思わず言ったね、「やついを胴上げしよう」。まったく意味はないのだ。意味はないが、やついを胴上げしたかったんだ。八位ったって、決勝だからね、4000組近くのなかの八位ってそれだけですごいわけじゃないか。しかも、なぜかその後、ダウンタウンに気に入られ、仕事に呼ばれたというし、よかったなあと、ほんとにそう思う。だってもう、二ヶ月以上、稽古して、なんだかわからないが身内のような気分になっている。このタイミングで彼らはひとつの「試練」を受けた。そして、それをばねにきっと飛躍するだろう。舞台のあと、高円寺で食事をしようと、やついを含め俳優たちと歩いていたら、クルマに乗った水道橋博士がやついに声をかけていた。それをすぐに博士はツイットしており、やついがいい顔していると書いていた。それもよかった。一緒に舞台をやってほんとによかったと思える瞬間だ。
ほかにも、俳優たちには助けられた。川口、岡野の男優二人は、この稽古でものすごく成長した。最初がどんなだったか見せたいよ。だって、岡野にいたってはなにをしゃべっているのかわからなかったし、そもそも、ものすごいへただった。こんなにへたな人がいるかなってくらい、芝居ができなかったのに、呼吸の仕方とか、たとえ話で芝居するってどんなことか教えているうちにどんどん成長してゆき、面白くてしょうがなかった。川口もそうだ。単に若者言葉を口にするだけの者で、まあ、それも悪くはないんだけど、うるさいほど、台詞の発し方を注意し、とにかくひとつひつと丁寧にやれとうるさく言ううち、川口もまたどんどんよくなった。
伊沢さんはもちろんいい。朗読でほとんど僕はダメ出しをしていない。そして、若い女優たちのそれぞれの魅力が出せたらそれでいいのだ。まあ、それは演出とはいえ、山村と田中がエロいともっぱらの評判。なかでも山村のたたずまいが評判よかった。だけど、俺は牛尾のよさが大好きだ。あのよさ。なんという面白さだ。牛尾は自信を持つことだけが課題だ。特別な身体なんだからな。
しかし、岡野がおかしかったなあ。楽屋でなんだかわからないクリームを塗ってていた。それで、べつの役者が、「それなんのクリーム?」と聞いたら、迷わず「わかんないんですよ」と岡野。わかんないもの顔に塗るなよ。どうなんだそれ。

ところでどうしても引用したいのは、「ユリイカ」のY編集長からのメールだ。とてもうれしかった。

 昨日は『ジャパニーズ・スリーピング』ご招待いただき有り難うございました。ご挨拶もせず辞去してしまってすみません。しかし、挨拶をしていたら、もうえんえん語ってしまって数十分は喋らないと満足できなかったでしょうから、むしろ挨拶しなかったのはよかったかもしれません(笑)。
 大傑作ですね、これは。

『トーキョー・ボディ』『トーキョー/不在/ハムレット』『鵺』(他にも当然ありますが、特にその3つの要素を色濃く感じました)で展開(模索)されていた要素が実に美しく統合され、そのことによって作品としてまた一段上のレベルに達していたと思います。まず、映像の使い方(と役者のポジショニング)が非常に厳密で、単に映像とかも使ってみました、という(ままありがちな)体裁ではなく、そのこと自体が作品の構成に大きく寄与していたことがすばらしかった。

 常に役者がいて、後の映像があり、またその奥に無限鏡のようにどこまでもフレームが映りつづける…これは言うまでもなく精神分析的な装置であり、かつ通常の精神分析が一個の「私」への再統合を果たす役割を持つのと違いむしろそれを拡散していく、「私」を「夢」をフォーカスさせなくするものでしょう・・(中略)現前する俳優をやはり置きながらもその複製をとめどなく乱舞させることで虚構の優位、少なくとも一義的に現実とも虚構ともつかない状態を作り出す。言ってみれば複数の(こわれた、失われた)夢の断片を収拾するなかから立ち上がってくるキメラ的な「夢」、「主体」の存在論を問うているわけで、全体に夢幻のような雰囲気をただよわせながらそれがほかならぬ現実であるというカフカ的な世界の日本的なトランスレートをこれまでにない完成度でなしとげたと言っていいと思います。

 ほめすぎですが、これはしかし。でも、うれしかった。ほんとうにうれしかった。佐々木敦さんがツイッター上で書いてくれた言葉にもとても感謝しました。

さて、まだ公演はつづきます。あと少しです。終わってしまうのが残念なくらい充実しております。やっぱ、やついだなあ。とにかく稽古場にしろ、劇場にしろ、彼が周囲を明るくしてくれる。さらに、制作の笠木の存在。笠木の明るさが、いい空気のなかで芝居を作る環境を生み出した。感謝。ほんとうに感謝。ときどき、僕に対して笠木が、「なにか困っていることはありませんか?」と声をかけてくれ、それだけで精神的に助けられたからな。いくら感謝しても感謝したりたない。笠木とは次は女優として一緒に仕事をしたい。そして、いま名前があがらなかった、俳優の上村や宮崎、スタッフの方たちにも感謝。繰り返すけど、まだ芝居は終わっていませんが。
あと演出部も充実してたなあ。演出助手たちがほんとによく働いた。みんな早稲田の卒業生と現役の学生。よくやった。ばかものたちだが、がんばった。ばかものなりに努力した。
まだ、舞台は続きます。24日まで。

2010年です。遊園地再生事業団は今年で20周年です。ほんとうにありがとうございます。よく続けられたよな。ほんと不思議でならない。では、劇場で会いましょう。

(9:44 Oct. 21 2010)

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