Nov. 30 fri. 「京都に来ているのだ」
■京都清華大学の講演は、驚くべきことに予定の一時間半をはるかに超過し、質疑応答も含め、三時間になってしまった。声がかれた。だいたい作った素材用のDVDが一時間二〇分あったので、それを見せるだけでほとんど話をする時間がなくなるから、まあ、少しはしょったり、飛ばしたりしつつ話を進めたが、「一九九五年の切断問題」、かつて考えていた演劇論や身体論、そして最近考えている「ノイズ文化論」につながる話をしているうちに、休憩をはさんで三時間になった。大学の人にも喜んでもらってよかった。聴講に来た人たちも、ほとんど途中で帰る人もなく、熱心に聞いてくれうれしかった。それが29日(金)の話。
■ところで、僕をこの講演に呼ぶにあたって、清華大学の卒業生でいまは大学でバイトをしているというN君が今回は司会をしてくれたが、はじめ約束の時間に大学に到着して控室のような部屋で待っているあいだ、そのN君がずっと一緒にいてくれた。このN君がしゃべらないんだよ。気まずい沈黙が続くのでたまらず、「きみはいま、ここの職員なの?」と質問すると、「バイトです」と答えてそのあとの言葉が続かず、それからまた20分くらいは沈黙だ。また、仕方がないのでべつのことを質問すると、「はい」と端的な答えが返ってきて、さらに30分は沈黙だ。だんだん眠くなってしまった。
■講演が終わってから、大学の方たちと百万遍の近くにあるちょっといい感じの店で懇親会。学生なども参加して楽しい夜だったが、講演会で声がかれているところにもってきて、次々と質問されるので、それにまじめに答えているうちにさらに声はかれ、疲れた疲れた。酒を飲めたらこういったことももっと楽しめたかもしれないが、最近は体力がないせいか、ぐったりして夜12時にお開き。ホテルにチェックインした。かつて僕が住んでいたのは釜座通り姉小路だったが、その一本北、釜座通御池にホテルをとってもらった。すごく近いので驚く。懐かしい気分になった。それにしても楽しい夜だったし、講演会もまた、気持ちよく話をすることができた。
■翌日は、朝から「webちくま」の原稿を書き、あらためて眠ると、午後、そのゲラが自宅を経由してホテルに届き、チェック。さらに新潮社から出ている「考える人」の連載もまたゲラチェックをしてすぐに返送。仕事を終えた。一段落。それでべつに観光をする気がなかったので、ホテルから徒歩で三条を河原町の方向に歩いた。六曜社という喫茶店で珈琲を飲む。しばらくぼんやり考えごと。こんなふうに、一人でぼんやり考える時間をとったのも久しぶりだ。京都で考える。ぼんやり考えごとをする。とても大事な時間だ。京都がそれをうながしてくれるような気がする。やはり特別な町という感じがするのだ。
■久しぶりに新福菜館のラーメンが食べたくなったので河原町通りを歩いて探したが小さな路地を東に入るはずなのに、なぜか見つからないんだ。なくなってしまったのかと少し残念な気持ちになったが、あとでネットで検索したらまだある。探し方がまちがっていたのか。あと、今出川寺町にある「ほんやら洞」はなくなってしまったのだろうか。足を伸ばそうと思ってネットで検索したが、ホームページも閉鎖されたようだし、どうも店自体がなくなってしまったようだ。見に行けばよかった。探せばよかった。もしそうだとしたら、70年代から続く京都の「ある文化」が消えてしまった。いまの若い人にしたらどうだっていい話かもしれない。
■で、寺町二条まで歩き、「三月書房」に行き目に入った本を二冊ばかり買う。吉本隆明さんの現代詩に関する本など。その足で「コチ」という名前のむかしよく行っていたカフェで食事する。ああ、それにしても新福菜館のラーメンが食いたかった。コチを出るころにはもうすっかり暗くなっていた。ぶらぶら姉小路と御池通りを歩き、ホテルに戻る。一人になって考えごとをするのは大事だな。東京にいると仕事などで、落ち着く時間がない。ぼんやり考えごとをすることでいろいろ思いつく。あるいは、表現のこととか、演劇のこととか、考えがまとまってゆくし、まあ、そんなにシステム化された思考だけではなく、茫漠としたイメージとか、思考がそんな時間のなかで生まれてくるのを感じる。
■京都は紅葉シーズン。どこも人が多い。街路樹だけでももう色がすっかりかわってとてもきれいだ。たまには京都に来るのもいい。特別な時間がほしかったら京都に来るのは気分を変えてくれるには絶好の場所のような気がする。いろいろ考えるんだよな。「ほんやら洞」がなくなってしまったらしいとか、そんなことで、文化そのもについて考えるし、なんでいま僕はここにいるのかとか、そんな、人には話せないような、あーそうですかと言われるにちがいない感傷と、そのことによって現在に想いをいたし、さまざまな考えが意識をめぐる。
■そんな町のような気がする。この町は。でも、ずいぶん京都の市内中心部は変わった。かつて町家があった場所は、コインパークになっていたり、マンションが建っている。京都に対する幻想をもってもしょうがないとはいえ、さみしい気がするものの、それこそが資本の力だろう。資本主義なんだからしょうがない。あしたは大阪だ。
(6:32 Dec, 1 2007)
Nov. 27 wed. 「仕事日記」
■ニューヨークから帰ってきたからといって休んでいる場合じゃなかったと思うのは、まず、CO2というところが主催する映画コンペの審査員を引き受けていたからだ。審査会があるのは12月1日。場所は大阪だ。候補作が15本あった。「短いですよ」と言われてそのつもりになっていたら、長いもので一時間以上あり、平均しても40分以上あったのではないか。観るのに一日がかりだった。観たなあ。ある意味、ひどく驚かされた映画もありました。あるいは、出ている俳優がほとんど知り合いという映画もあった。15本から5本を選ぶ。むつかしい。まだ悩んでいる。それにしてもみんなうまいよ。見事な出来映えである。
■それから、29日の京都清華大学での講演のためにDVDを作っていた。作業はきわめて楽しいのだがけっこう時間がかかってしまった。それから原稿がある。このノートの更新ができなかった。出発前、せっぱつまった気分でクルマで家を出た。荷物をがらがら運んで京都と大阪に行くのは疲れると思い、クルマにしたのだ。関西での滞在時間もけっこうある。クルマ移動が楽だと思ったのである。それで一気に京都に向かうのは疲れるので、いまは静岡の両親の家にいる。ここで一泊。あした朝早くここを出る。忙しいので書きたいことはいろいろあるが、またにしよう。ニューヨークの演劇事情について東大の内野さんからメールをもらってそれ引用したいと思ったんだけど、それも後日。なるほどなあ、という感想を持った。早く寝なければならない。あしたは東名を京都まで行き、その足で京都清華大学へ。すぐに講演がはじまる。京都で一日だけオフがある。久しぶりに観光するかなあ。あるいはまたカフェにでも行こうか。
■事故には気をつけて京都まで行こうと思う。意外と忙しい。
(0:58 Nov, 27 2007)
Nov. 23 fri. 「休む」
■帰ってきたらこちらは三連休だ。たしかニューヨークっていうか、アメリカも感謝祭かなにかで連休に入るのだと聞いた。三連休の夕方、食事をしに外に出たら新宿の高島屋はすごく混んでいて、上階のほうにあるレストラン街はほとんどの店に行列ができている。仕方がないのでクルマを走らせ下北沢に行った。すっかり疲れた、というより、風邪がなかなか治らない。喉が痛く、咳が出て、少し熱もある。腹立たしいなあ、風邪は。
■そういえば、ニューヨークに行っているあいだに、『ニュータウン入口』に出演した南波さんと佐藤が結婚式をあげたのだな。南波さんの日記にある写真がとてもいい。イスメネ役の上村が結婚の保証人だという。そしてアンティゴネ役だった鎮西は、俳優でありつつ、僧侶でもあって、この写真はべつにコスプレというわけではなく、鎮西によって式があげられたのだ。それから今野が記録のためにビデオを回したのだろう。みんないい顔をしている。『ニュータウン入口』の冒頭、鎮西と上村の二人が背中合せでせりふを発するが、式で二人があれをやると、南波さんからもらったメールにあったけれど、ほんとにやったのだろうか。やらなければ幸いだが。もう、台無しだよ、そんなことをしたら。
■とにかくきょうは休み。だんこ休む。からだの調子を元に戻さなければな。それからこのあいだ受けた癌検診の結果が届いた。おそるおそる封を開ける。まず検査レポートの冒頭にこうあった。
1)精査・治療が必要な所見
・ありません。
やったな。ぜんぜん大丈夫だ。いまのところ快調である。だいたいうちの家系で癌になった者がいないんだから不思議だ。そういう血筋なのだろうか。ただ、煙草をやめることが強調され、さらに腰について椎間板への言及があり、「重いものを持って急に立ちあがらないこと」と注意があった。そんなことは言われなくてもわかっているんだ。でも、うれしいものだね、こういうことは。ただ、「癌」のような大きな病気はとても深刻だが、風邪のように小さな病もまた、人をじくじくと苦しめる。いやだなあ、この微妙な苦しみ。しかし、微熱と喉の痛みでぼんやりとした意識のなか、ニューヨークの興奮がまだおさまらない。仕事をしなくてはな。やることはまだいっぱいある。クルマを運転したのは一週間ぶりぐらいだったが、シートベルトをするのを忘れたまま、しばらく走っていたのに自分で驚いた。忘れるかな、そんなことを。
(12:20 Nov, 24 2007)
Nov. 22 thurs. 「ニューヨークをあとにして」
■帰ってきた。13時間の飛行機は死ぬほど疲れる。行きはけっこう眠れたが帰りはずっと起きていて、本を読んだり、iPodで音楽を聴いたり、各シートに備え付けのモニターで映画を観ていたが、ブルース・ウィルスのダイハードを二度も観てしまった。それでも時間は余る。エコノミーの席は狭い。これだったらエコノミーの航空費はもっと安くすべきだ。片道六千円ぐらいでいいんじゃないかと思う。それほどの待遇である。成田から乗った「成田エクスプレス」のほうがよほど席に余裕がある。
■19日(月)のリーディング公演の興奮がおさまらず、みんなと別れてから、結局、明るくなるまで起きていたので少し寝不足のまま、20日は一日オフなので少し観光をする気分になったのだ。美術館に行こうとMoMAについて調べたらあいにく火曜日は休みだった。その時点で意気消沈する。仕方がないのでセントラルパークに行くことにした。あまり期待していなかったし、まあ、どうせ観光地だろうとたかをくくっていたら、紅葉がすごくきれいだし、リスがかわいいしで、たいへんなごむ。馬もいた。緑が多く、池もあり、ものすごく広い。歩いたらたいへんなことになると思い、少し散策しててその雰囲気を味わってから公園を出ると、5thアベニューをミッドタウンの方向に歩く。ここらは高級ブランドのショップがならび、さしずめ銀座のようだが、銀座がむしろまねしたんだろう思った。なにしろアップルストアーもあったし。こっちに来て感じたのは、日本のいろいろなことが、ニューヨークのまねだということだ。あ、あれは、これを模したのかと、そんなにみんなニューヨークに来てんのかよと驚きもする。
■トイレに行きたくなって通り沿いの格の高いデパートに入ったら、泊まっていたホテルの近くにあるニューヨークでいちばん古いと教えられたデパートに比べるとすごくものの値段が高い。しかも来ている客層がぜんぜんちがう。トイレもとてもきれいだし正装した係の人がトイレにいる。チップをあげなくちゃならないんだろうと想像するが、その、チップをあげるという習慣がない私にしてみれば、それをすることがなにか傲慢な気がして戸惑うのだ。ただ、「ありがとう」と声を掛けるつもりで渡せばいいのだろうか。エレベーターを待っていると降りてくるアフリカ系アメリカ人も、どう見たって裕福そうな人だ。いま僕が泊まってるホテルの周辺にいる、あれはヒスパニックなのだろうか、夜中に煙草をせびったり、なにかちょうだいと話しかけてくる彼らとはまったく種類の異なる人たちのいるデパートだった。
■腰の痛みはほとんどなくなったが、さすがにかなり歩いたせいか疲れた。疲れるとまず腰にくる。チェーン店みたいなピザ屋で休憩。向こうの人はものすごく食う。ちょっとそれ、一人で食べるのかって量をばくばく食ってやがる。どうなってんだおまえたちは。路上で、猫を寝かしている物乞いの人がいた。大人しくして愛嬌のある猫に思わず油断し、そばにあった缶に小銭を入れ立ち去ろうと歩き出し、もう一度、猫を振り返ったらさっきまで寝ていた猫が、飼い主らしき物乞いの男に、やったね、観光客はちょろいね、日本人は金があるね、とばかりに振り返ってなにか鳴いている。やるなこいつめ。ずいぶん歩いた。へとへとになった。地下鉄に乗ってホテルに戻り、ベッドに横になるとぐっすり眠ってしまった。眼が覚めたら夜の10時くらい。メールチェックをすると、アテンドをしてくれたKさんから、国際交流基金の松本さんのメールが転送されており、きょう夕方からある催しものを紹介してくれていた。もっと早くメールをたしかめるべきだった。
■夕方六時から舞踏家の田中泯さんのドキュメンタリー映画の試写会があったのだ。きのうも教えられていたのに昼間少し歩きすぎたのだろうか、ぐったりしてしまい、行くことができなかった。そして、今回のニューヨークの最後の夜、なんだか興奮して眠れなかったのか、朝の五時ぐらいまで起きていた。ホテルの館内は全面的に禁煙なので、たまに外に出て煙草を吸う。すると、煙草をせがむ人に何人にも会った。こちらはウイークデーの深夜だ。金曜、土曜の夜はにぎやかだった通りもずいぶん静かだ。黄色いタクシーが何台も止まっている。タクシーはほとんどがトヨタ。
■ほんの短い時間だったが、とてもいい時間を過ごさせてもらった。観光より、稽古場に行ったこと、リーディング公演があって、そのあとの懇親会でいろいろな人に会えたこと、それがなによりよかった。幸福な旅だった。めったにないことを経験させてもらった。また来よう。なにか機会があったらぜひともニューヨークに来たいし、用がなくても、こんどは自力で来ることにしよう。風邪で少し苦しんでいたとはいえ、少しずつまわりのものから刺激を受けるようになっていった。ところで、この旅のことも直島に行ったときのように「トキオン」という雑誌に写真入りで書くが、写真はニューヨークで働いている人の写真ばかり載せたいと思っている。当然ながら、ニューヨークでもみんな働いていた。労働者たちがいた。観光客も多いけれど、町の人はあたりまえに働いていて、その姿にまたべつのニューヨークのエネルギーを感じたのだ。
■『ニュータウン入口』に出た齊藤から来たメールを読んだのはまだニューヨークにいたときだ。齊藤はヒップホップのダンスをやっていたこともあって、かつてニューヨークにしばらく滞在していたという。回ってみると面白そうなところをいくつか紹介してくれるメールだった。だけど、ぜんぜんそういった場所に行く時間はなかった。次はもっと余裕をもとう。ニューヨークはホテルが高いらしいんだよな。長期滞在したいけれど、そうなるといろいろ考えねば。『ニュータウン入口』のリーディングの演出をしたジェイは、マサチューセッツ工科大学で教えている大学人でもあるのだった。それでボストンに帰って行ったが、ボストンにも行くと彼に約束したんだった。短くてもほんと楽しかったな。観光ができなかったけれど、それ以上のことに興奮した。
■そしてまた、日本に帰ってきたら仕事はまっている。またちがう気分で仕事ができそうに思える。
(10:02 Nov, 23 2007)
Nov. 19 mon. 「ニューヨークの『ニュータウン入口』」
■画像がどうしてもアップできないのだ。それでテキストだけでもアップしようとこれを書いている。わからないなあ、部屋からネットにダイヤルアップでつなげられたのにそれができなくなったし(理由がわからないのだ)、かといって、ロビーで無線につなぐと画像がアップできない。腹立たしい。きょうはセントラルパークとかものすごく歩いてへとへとになった。へとへとのままホテルに戻り夕方から眠ってしまったら、眠っている途中、なんだかわからないやつらが来てドアの外で、わーっとなにか言っているかと思ったら、いきなり部屋に入ってくると水道を調べ、水が出るのをたしかめ、グッドとかなんとか言って嵐のように去っていった。なにがグッドなんだ。それより電話をどうにかしてくれ。その後、画像がアップできた。
■リーディング公演の本番の日だが、もうすでに何度も書いたCUNYには午後四時までに行けばいいことになっていたので、ホテルを出ると、地下鉄に乗ってどこかに行くことにした。外は小雨が降っていたし、今朝は雪もちらついたようで、相変わらずひどく寒い。聞くところによると僕がこちらに来てから急激に寒くなったという。ひとまずグランドゼロに行こうと地下鉄に乗る。乗り継ぎで戸惑いつつも、どうにか、かつてWorld Trade Centerのあった場所までたどりついた。もうすでに新しい建築の作業中なのか、あたりは工事用の壁に被われ、壁の向こうからは激しい機械音がするだけだ。隙間から少し覗く。なにもなかったかのように工事は進行している。すごい速度だな。すごい速度で過去は清算されてゆく。新しい建築によって記憶を塗り潰すかのような工事だ。
■適当な駅で降りてあたりをぶらぶらした。どこにいるのかよくわからない。スターバックスでトイレに入る。スターバックスはどこにでもある。コーヒーも同じ味だ。べつに美味くはない。知らない町を少しぶらぶらすればもっとなにかに出会ったかもしれないが、長い距離を歩くと腰が痛くなるのですぐにあきらめた。観光というものに興味はなくて、ガイドブックを見てもいないし、行きあたりばったりの旅は、適当に地下鉄に乗ってどこかにたどりつけば、それが面白く、わからなくなって迷ったら迷ったで愉快である。地下鉄の路線図を見ながら、とりあえず、約束の時間にCUNYに到着していればいいわけで、地下鉄のカードを買うのも楽しいし、いくつかの種類があって一日乗り放題のカードを買ったつもりがどこでどうまちがったか、三度ぐらい乗ったところで、「just used」と表示され、わかんねえよ、どうなってるのか。
■CUNYがあるのは、Fifth Avenueの34 Streetだ。地下鉄のどの線に乗っていたかよく記憶にないが、まあ、その近くで降りて少し歩いたら無事に到着。スターバックスではないべつのカフェに入って少し遅い昼食を食べたら、モッツェレラチーズのサンドウィッチが美味しかった。ところで、こっちの値段の付け方がよくわからず、たとえばデリで食べたいだけ容器に入れると、内容はどうあれ重さで値段が決まったり、これ、なぜこの値段かしっかり理解できないまま言われた通りに金を払っている。ちゃんと理解するのにどれだけ時間がかかるかな。ただ、一ヶ月でもここにいたらかなり俺は慣れると思う。地下鉄の乗り方も把握できるだろう。というか、それを覚えるのに興味がわいてきて、英語そのものもそうだけど、覚えるためにやはりニューヨークに住みたい気分はより高まってきた。なんだろう。あまりどこかに住みたいということをこれまで考えたことがなかったが、ここに住みたいというのもおかしな話で、じゃあ、なにがいいのかと言われてもこれといってない。ただ面白い気がするのだ。どこからやってきた人間でも受け入れてくれるような空気がこの町にはある。パリとはかなりちがう。たしかに、ホームレスもいるし、物乞いだっていて、いいところばかりじゃけっしてないし、民族的な差別も強いだろう。だけど、不思議な魅力をもっている。短い時間のあいだ、たとえば、煙草を吸いにホテルの外に出てぼんやり通りを見ながらそんなことを感じていた。
■四時から取材を受ける。演劇を専門にしている大学の先生なんだと思うけど、クラウディアさんからインタビューを受ける。取材をもとにクラウディアさんが原稿を書くというが、掲載される雑誌は、あとで知ったがこちらではもっともアカデミックなというのか、日本で言ったらなんでしょう「舞台芸術」みたいな専門家が読むような雑誌だとのこと。で、まず身体論を口にしたら、今回、僕も含めて日本から呼ばれた劇作家が、松田正隆にしろ、岡田利規にしろ、矢内原美邦にしろ、みんなプレイライターのくせに「からだ」のことを話すのはなぜかと質問された。こちらでは、ライターと、ディレクターは完全な分業だから、ライターはそんなことを考えずにドラマを書くのだろう。事情がかなり異なる。「からだ」から出発しているのは、演出も兼ねているケースが日本では多いというのもあるが、言葉を書くこともまた「からだ」から発していると劇作家も考えているのが日本だ。インタビューではゆっくり話ができた。うまくこちらの真意は伝わっただろうか。
■プログラムがはじまったのは六時半だ。最初に、今回の翻訳をしてくれたジョン・グレスピーさんから僕の紹介があって少し過去の作品をDVDで観る。さらに演劇の話。どれだけ伝わっているかわからないものの、いつも日本で話している内容を時間がないから短めにざっと話した。プログラム・ディレクターでCUNYの教授でもあるフランクさんから、きょうはリーディングが中心だからDVDは短めにしてくれと言われた。だから少ししか見せなかったのに、それはあとの話になるが、リーディングが終わったあとそのフランクさんが『ニュータウン入口』がどんなふうに上演されたかもっと映像を見せろと言う。よくわからない展開だったよ。
■さて、演出家のジェイと、ふだん舞台を一緒にやっているという俳優たちによるリーディング。会場に着いたとき、直前まで打合せをしていたのが面白かったんだけど、それというのも、床にごろごろしながらそれをしていたからだ。まあ、二時間以上あった作品を30分にするのは無理があるとはいうものの、でも、僕の意図していることをくんで読んでくれたのではないか。観客もところどころで笑っていた。終わってから、演出のジェイとディスカッションということになっていたが、あまりジェイと話ができなかったのは残念だった。というか、もっときょうのリーディングについて触れるべきだったが作品についての解説に終始した。彼らの表現についても語るべきことはまだあった。それから質疑応答。やはり大学院の教授をなさってる女性から、なぜアンティゴネの話をこの作品で参照したか質問されたが、親族の問題にギリシャ悲劇から現在にいたるまで、なおも続く普遍性があるからとかなんとか話したものの、結局、そのこともありつつ、ジュディス・バトラーのアンティゴネに関する本を読んでいたから、それで、なんとなく、といいかげんな答えをしてしまった。それにしても、こちらに在住し、芝居にかかわっている日本人の姿も多かった。あるいは若い演劇人たち。さらに、(それは翌日の話になるが)翌日(20日)ホテルの前で煙草を吸っていたら声をかけてくれた日本人の女性がいて、きのうリーディング公演を見たといい、たまたまニューヨークに来たらこれをやっていたので足を運んでくれたそうだ。しかも、その人、東京でも『ニュータウン入口』を観てるっていうだから驚かされた。
■プログラムがすべて終わって親睦会。国際交流基金の方たちにもお会いしたが、なかでも松本さんにお会いできてよかった。今回のことで松本さんにはずいぶんお世話になったのだ。こちらの演劇事情などいろいろ話をうかがう。さらに、そうした演劇シーンにおいて、実験的なシアターを運営している方や演出家にも紹介された。もっと時間があったらそういった劇場で舞台を観てみたかった。そのためにも、また来ることにしよう。数年前にパリに行ったとき、そこで出合った演劇人たちが、わりと、なんていうんですか、正統な感じがし、来ていた観客も年齢が高かったこともあり、もっとこう、若いパリの演劇人たちがいて実験的なことをしてるんじゃないかと想像したけどそうした人たちには会えなかった。今回はそうじゃない。ジェイもそうだと思うが、新しい試みをしている若い才能に出会えた気がする。そして彼らもやはり、舞台を続けることの困難を感じている。この日たまたま、ジェイの舞台の制作をしている(しかもこの日、人手がたりなかったのか女優としても出演していた)ソシャーナの誕生日だった。ソシャーナはアルゼンチンの出身だそうだけど、とても大らかで、笑うと声がでかいし、とても明るいかわいい人だった。その彼女が稽古の途中、ニューヨークで舞台を続ける困難を話していたのだ。
■燐光群で芝居をやっていたというアメリカ人もいた。その人、質問のときに僕の芝居についてやけに詳しく話すので、なんだこの人はと不思議でならなかったのだ。『モーターサイクル・ドン・キホーテ』に出てくれた下総君のことさえ口にするし、なにごとかと思ったら燐光群にいたと聞いてようやく合点がいった。あるいは、岡田君の『エンジョイ』を翻訳したというOさんという日本人の女性もいらしたが、この人のバイリンガルぶりはすごい。こちらでアメリカ人の俳優を相手に演出をしているという。タフだなあ。鼻にピアスを三つぐらいしていたけれど。
■少し疲れたものの、とても楽しい夜だった。僕の話をみんなが聞いてくれる。そんなことってさあ、ふつう想像できないじゃないか。だって、ここはアメリカだろ。アメリカ人が僕の話を聞いてくれているのだ。リーディングの公演を聞いてくれたばかりか、そのあとで僕の話にも関心を持ってくれるし、みんなが話をしようと集まってくれるのだ。うれしかったな。親睦会のあと、ジェイや俳優たち、それから翻訳のグレスピーさん、CUNYのフランクさんらと近くのバーに行ったけれど、とてもいい夜になり、みんなと別れてホテルに戻ったあともしばらく興奮して眠れなかった。それでいろいろ考えていた。ジェイをはじめ、新しい試みをする演劇人がニューヨークにいる。世界中にもっと数多くいるだろうけれど、そういった彼らを日本に呼べないのかな。それで演劇祭みたいなことができたらきっと面白いと思うのだ。利賀村とはまた異なる演劇祭のような催しができたらねえ。どこか金を出してくれないかな。そのためにも、ニューヨークで舞台をもっと観よう。野心的、実験的な試みをする演劇人がぜったいここにもいる。それは僕が刺激を受けたいからだ。こんなこと考えてんのかよって、こっちに悔しい思いをさせてほしい。そんな舞台に出会いたい。
■そこまでが、19日の話。それでもう、20日も終わってしまったが、それはさらに次にする。話が長くなってしょうがない。しかも疲れているし、あしたはニューヨークを去るのだ。画像つきのページは東京に帰ってからアップすることにしよう。そんなわけで。
(15:07 Nov, 21 2007)
Nov. 18 sun. 「稽古につきあった二日間」
■昨夜(こちらの時間で16日の夜)はこのノートを更新しようと思って、ロビーで無線回線につなげたが、どうしても画像がアップできないのだった。通信がすごく遅い。しかも、金を取りやがって、最初につなげようとしたらクレジットカードの番号を求めてきた。それでなんとか画像のアップができないか格闘していると、僕が座っていたロビーのソファに、入れ墨の男がごろんと横になり、寝転がったまま携帯で誰かと電話している。なんども会話の最中に「ファッキン」という言葉が出てくるので、なにかまずいことになっているのじゃないかと気がきではない。ホテルはマジソンスクエアガーデンの真ん前にあるがロビーはやたらにぎやかだ。あと、どこかでコスプレ大会があるらしくて、SFっぽい、わけのわからないコスチュームの連中がいる。
■で、まあ、結局、無線回線で画像をアップするのをあきらめ部屋の電話線からやったらうまくいった。風邪でからだの具合がまだ悪い。この調子といい、ホテルの部屋の感じといい、マダガスカルのアンタナナリボの最初の夜のことを思い出した。あのときも風邪をひいて苦しんだんだった。あれからもう17年ぐらいになる。朝はきまって睡眠不足だ。朝食をとりに外に出る。カフェでコーヒーを飲んでからだをあたため、モーニングセットのようなパンケーキを食べたが量がいちいち多いよ。朝からそんなに食えないよ。食事のあとそのへんをぶらぶらした。午後、きのうも行った「マルティンE.シーガル演劇センター」へ。そこでリーディングの稽古がある。
■写真、上から二番目、左にいる長身の人が演出家のJay Schibさん。それから俳優たち。「マルティンE.シーガル演劇センター」のあるグラジュエーションセンターCUNYの建物の前だ。僕が着いたときにはすでに戯曲の読みあわせをしていたが、あらためて、最初からゆっくり読みをしつつ、演出のジェイさんがところどころで止め、わからない部分を僕に質問してくれる。なぜここはこうなのかと質問されても答えに窮する部分もいくつかあって、たとえば、ビデオショップで働く女たちがなぜ異なる言語で話すかとか、それはまあ、面白かったからとしか言いようがない。ただ、そこにはうっすらとした意味は生まれ、たとえば鄭が韓国語で話せば、その背景にある政治的なものはそれと気がつかない程度に出現するだろう。そのことは翻訳のしようがないと思う。なにと置き換えればいいかむつかしい。
■場面によっては読みながらみんなが笑ってくれるのはうれしかった。このことはやはりおかしいことだと通じるというか。たとえば、鳩男とイスメネのやりとりだ。「おまえほんとに鳩か?」とイスメネが質問すると、鳩男は「くーぽっぽぽ」と応答する。「ときどき思うんだ、おまえ人間じゃないのかって?」とイスメネがさらに言うと鳩は同様に、「くーぽっぽぽ」と繰り返す。それでイスメネが不意に、「あ、鳩だ」と驚いたように気がつく。そこで笑いが起る。あと、「スクールバス」のところとか。笑ってくれたらそれはうれしいが、「スクールバス」のところ、これ本来書こうと思った意味が通じてるのかな。でも、通じているというか、わかってもらえることに興味を持ち、戯曲の内容というより、そのこと自体が僕には面白くて俳優たちの読みを聞きながらつい笑ってしまった。もっとテーマのようなことを話すべきだろうか。『ニュータウン入口』にある政治的な背景について。だけど、どう説明していいか、うまくそれを語ることができないのがもどかしい。
■夕方になって稽古は終わり。俳優のひとりから今夜11時からあるパフォーマンスに誘われた。話を聞くと面白そうだったが、席がないということ、ダンシングアラウンドだと聞いて、腰のことを考えたらそれを観に行くのは自殺行為じゃないか。部屋に戻ったら旅の疲れか、それとも、一生懸命、英語を聞こうとひとときも緊張を緩められず疲れたせいか(おまけにちっとも聞き取れないし)、あるいはコミュニケーションがうまくとれずそのことでなにより疲れた。
■と、そこまでが17日のこと。きょう、というのはつまり18日だが、いったん風邪が治ってがぜん調子が出てきたが少し油断したらまた咽が痛い。呼吸が苦しくなる。調子があがらぬまま、ホテルで茫然としていた。3時から稽古がある。アテンドをしてくれるKさんがホテルまで迎えに来てくれたのでタクシーで稽古場に移動。きのうはホテルの近くの「マルティンE.シーガル演劇センター」だったが、きょうはブルックリンにある、「ブルックリン・アート・ミュージック」という芸術系の施設のなかにある稽古場。詳しいことはわからないが、「ブルックリン・アート・ミュージック」というのはどうやら大学らしいが、ちゃんと説明を聞いていなかったからよくわからない。入口を入ると映画館があり、ほかにもオペラの劇場があったりなど、100年ぐらい続く伝統的な建物らしい。
■映画館をはじめいくつある施設のなかの、「ブルックリン・ミュージックスクール・アンド・プレイハウス」の最上階にある稽古場に集合。今回のリーディング公演は、全編の上演ではなく約30分のダイジェストをプレゼンテーションとして観客に見せるということらしい。本番当日(19日)のスケジュールとしては、はじめに僕の作品をDVDを見せながら解説をし、それからリーディング。さらに、演出家と僕とのディスカッションがある。全部で一時間半ほどのプログラムになる。
■といったわけで、30分のリーディングにするため、きょうはどこを演じるかについて演出家が構成してゆく。僕も意見をしたが、自分の作品だけにどこをどう切ればいいか、逆に、質問されても答えようがない。というか、まあ、全部やらなければいよいよわからない作品だ。でも、雰囲気だけを知ってもらえばいいのではないかと思い、翻訳者のジョンさんの意見も参考にしつつ、でも最終的には演出家が容赦なく切ってゆく。残念なのは、鳩男が出てこないことか。俳優たちも、鳩男が出てこないのを惜しんでいた。切っては、読み合わせ。さらに長いとわかると、さらにまとめ、細かく切り、それでまた読み合わせの繰り返し。英語の台本に目をやり、まあ、だいたいいまどこを読んでいるかわかるが、演出家と俳優たちのやりとりで、どうしてそこ、そう切ることになったか、相談がどうまとまったかよくわからない。短くなったのを耳で聞く。でも、自分で演出できないはがゆさがやはりあり、そこなあ、そのまま読んでも伝わるかと不安になりつつ、黙って聞いていた。「間」がないよ。みんなものすごい早口で演じる。ただ、英語で演じてもらっても笑えるところは笑えるし、ポリュネイケスの独白など、女優さんの声の美しさもあってとてもよかった。
■しかし、『ニュータウン入口』をアメリカで発表するのは、正直、その政治性ゆえに俺は怖かったんだ。みんなわかっていながら、そのことを口に出していないんじゃないだろうか。この戯曲でなにを表現しようとしたのですかと質問されたとき、もごもごと語り、はっきり口にしなかったことを後悔しているものの、あしたのディスカッションで、ぜんぶ話してしまおうと思うのだ。僕はべつにテロリストを擁護していないし、そのやり方や、戦いのために死ぬことを否定している。複雑な政治状況についての劇だと、話せばより理解してもらえるはずだし、ぜったいにこれは現在的で、普遍的なテーマになっていると信じているのだ。
■稽古が終わって稽古場を出たのはもう九時ぐらいになっていただろうか。演出家のジェイや、俳優たちともっと親交を深めたいと思ったものの、だいたい、僕は初めて会った人たちとは日本で会ってもうまく親交できなんだから、言葉のこともあるし、細かいニュアンスがわからない。こりゃどだい無理な話だ。アテンドのKさんとブルックリンにあるイタリアンレストランで食事をした。こっちに来てようやくちゃんとしたものを食べた気がする。ブルックリンはいいな。もしニューヨークに住むんだったら、この近くがいいと思ったのだ。
■ホテルに戻るともう、夜の11時を過ぎていた。メールチェック。白水社のW君から「激辛通選手権」についてメールが届いていた。結果は明記されていなかったが健闘したとのこと。ホテルは全館禁煙だから、煙草を吸うたびに外に出る。ひどく冷える。遠慮なく話し掛けてくるアメリカ人。煙草をくれとせがむ男。ホテルの入口から外を見ているといろいろな人が僕の前を通り過ぎ、それを見ていたら、ニューヨークに住みたい気分がより高まってきた。知らない町はどこだって面白いにきまっているからだ。アテンドのKさんから、ここに行ってみたらと何カ所かの場所をアドヴァイスされた。あしたは劇場に四時入りなのでそれまでどこかを歩いてみようと思う。こちらは19日の午前2時27分。リーディング公演がもうすぐはじまる。期待はしているが、不安だってないわけではない。どうなるのかな。
(16:30 Nov, 19 2007)
Nov. 16 fri. 「死にものぐるいでニューヨークに着き」
■いま、ニューヨークは、16日の夜十一時四十二分だ。外に出ると空気が冷たい。
■直前まで腰が動かないのでほんとに行けるのか心配していたが、成田に着いたころから歩けるようになったから不思議だ。それにしても、朝八時過ぎの成田エクスプレスに新宿から乗ったが、驚いたのは、同じ列車のひとつ前の席に、いまはなき「MAC POWER」のT元編集長がいたことだ。これからT元編集長は上海にゆくとのこと。そうえいば、ソウルに行ったときも同じ成田エクスプレスにむかし燐光群にいて、僕の舞台にもなんどか出た加地君が乗りこんできて驚いたんだな。
■それで成田から12時間だ。せまい席にぎゅうぎゅうになりつつ、同じ姿勢だと腰に負担がかかるので、ときどき意味なく立ちあがったりし、少し眠ったとはいえニューヨークに着いたときにはぐったりしていた。手続を終えて空港の外に出るのに時間がかかって迷惑をかけたのは、今回のアテンドをしてくれるKさんが外でずっと待っていてくれたからだ。ニューヨークはもちろん、アメリカに来るのもはじめてだったわけだが、それより眠い。風邪はひいたし、歩けるとはいえ腰はまだ少し痛い。ニューヨークに来たという感激が薄いのは、からだがこんなだからだろう。もっと万全の調子で来たかった。「新潮」のKさんが、こちらに来る直前、ニューヨークの美術館を特集した「芸術新潮」のバックナンバーを送ってくれたが、この調子では美術館めぐりをする気力が出てこない。残念だ。
■タクシーでマンハッタンまで。そういえば、この旅も、このあいだの直島と同じようにトキオンという雑誌に紀行文を書くが、今回はこのあいだのように写真をたくさん撮る余裕があまりない。というのも、やはり腰が痛いからだ。エンパイアステートビルとか、マディソンスクエアガーテンなどのある、まあ、よく聞く名前の観光地らしいところにホテルはあった。今回のリーディング公演を企画してくれた「マルティンE.シーガル演劇センター」のある、ニューヨーク市立大学の大学院センターも歩いてすぐの場所だった。この公演全体のプログラム・ディレクターのフランクさんと会って短い時間だったが少し話をした。大学院センターの学食みたいなところに案内され軽い食事をしたら、天井がガラスばりで、そこからエンパイアステートビルが見えた。ホテルに戻る途中、薬局に寄って風邪薬を買う。僕がなにも考えず棚からこれでいいだろうとばかりにクスリを手にすると、Kさんが慎重に、ほかのクスリとの飲みあわせについて店の人に質問してくれた。
■ホテルに着いてすぐにネットが繋がるかたしかめたら、まあ、ダイヤルアップだけどあっさりつながる。泊まってるホテルが古いせいかネットの環境はわりと貧弱で、部屋から繋げるには電話線を抜いてコンピュータにつなぐしかない。まだたしかめていないが、一階のロビーはどうやらワイヤレスの電波を受信できるらしく、何人もの人がコンピュータを広げていた。ベッドに横になったら眠くなった。さすがに疲れたな。だいたい、時間の感覚がでたらめになっている。ずっと外は明るいままじゃないか。
■気がつくと眠っていたものの、あまり長い時間を眠ったわけではなく、眼が覚めても、まだ夜の八時過ぎだ。食事をしに外にでる。なにを食べたらいいかわからなかったが、とにかく、九月に来た松田さんや岡田君、矢内原たちが行ったコーリアンタウンには近づかないようにしようと思ったものの、そう考えるとなにも食べるものがない。というか、なにを食べていいかわからない。だいたい、ガイドブックとかそういったものをまったく持ってきていないじゃないか。旅行の前に下調べをする習慣がまったくないのは、直島のときと同じだし、パリに行ったときも同じだ。パリのときも松田正隆はガイドブックをすぐに開き凱旋門に行きたがっていた。僕はゆきあたりばったりだ。歩いているうちに、どこか見たこともないところに出て、もちろんどこを歩いたって知らない場所だから、その知らないことを楽しむ。そうやって生きてきたんだから、そればかりは変わらない。
■あしたの予定もまだ未定だ。こちらの俳優たちで演じられる『ニュータウン入口』のリーディング公演の稽古がある。稽古場に行きたいのは、それがどんな雰囲気なのか知りたいからだ。とにかく風邪をなおさなければ。空気が乾燥している。咽が痛くなる。腰はだいぶよくなった。まだ不安だがなんとかなるだろう。どんな写真を撮っても絵はがきみたいだが、ほんとは、もっとなにかあるんだろうな、歩いて見つかるなにかが。京都も住んだからはじめてわかったことがいくつもあった。ニューヨークにもいつか住みたいと思うけど、体力のことなど、万全にしておなかければだめだ。からだの具合が悪いと、受ける刺激にもにぶくなる。気がつかないところで発しているものにもっと敏感になれるからだを作っておかなければと、腰が痛いと、なおさらそう考える。下の更新時間は「日本時間」にしておこう。こちらはまだ、16日の夜である。
(13:47 Nov, 17 2007)
Nov. 15 thurs. 「ニューヨーク行き目前」
■あちらに行く前に原稿を五本ばかり書いた。DVDも準備が整った。もう大丈夫だと思ったところで、腰をやってしまった。14日は、東大の内野さんにお会いし、今回のプロジェクトについて詳しく話をきく予定になっていたが、歩けないので、代理の者にお願いして話を聞いてもらった。申し訳ないありさまだ。話を報告してもらっていろいろわかった。九月、僕は『ニュータウン入口』の公演があったので行けなかったが、すでに、松田正隆、岡田利規、矢内原美邦が行ってリーディング公演があった。僕だけ、こんな時期になってしまったわけで、まあ、みんなと一緒に行けたら楽しかっただろうが、三人は連日、ニューヨークの滞在先の近くにあるコーリアン街で焼肉を食べていたらしい。なぜ、ニューヨークにまで来て?
■それはともかく、あちらの演劇の関係者に会えるのはとても楽しみだ。リーディングがどんな感じになっているかもすごく楽しみだ。ただ、腰がだめなんだよ。ようやく、少し動けるようになったが油断がならない。果たして成田まで行くことができるのだろうか。ネットにつなげられ、このノートをニューヨークから更新できるだろうか。ソウルではできたんだがなあ。すべては腰である。なにか大事なことがあると、腰がだめになるような気がする。肝心なときに腰がだめになる。
■書きたいことはいろいろあるものの、腰があれなんで、きょうはこのぐらいにする。しかも、数時間後には僕は飛行機に乗っているだろう。12時間だよ、ニューヨークまで、この腰で。参ったね。
(3:25 Nov, 16 2007)
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