富士日記 2.1

Oct.31 fri. 「十月の終わりに」

下北沢で

毎週、授業の準備でせっぱつまる水曜日あたりからこのノートが書けなくなる。そんな日、津野海太郎さんからメールをいただいた。
それはあとでまた詳しく書くとして、まず、はじめに書いておかなければと思ったのは、アップルから出ているプレゼンテーションソフトWindowsだったら、PowerPointにあたる)Keynoteが、iPhoneからリモート操作できるっていうか、つまり、iPhoneをリモコンがわりに使えると知って驚いたことだ。iPhoneでできることが少しずつわかり、これ、けっこういけると思いはじめたところだったので、また新たなiPhoneの可能性に気がついた。家で試してみたらたしかに使える。デフォルトだとWi-Fiがある場所でなければ使えないが、ちょっとした設定でWi-Fiがなくてもできる。詳しくはこちらへ。ところがだ。Mac側のOS10.5以上じゃないと使えなかったので大学に置きっぱなしにしてあって授業で使うPower Book G410.47が入っている)では使えなかった。使えるようにするための策を練ったが、こういった策を練り、あれこれ考えるときの愉楽はなんだろう。そんな時間があったら授業の準備のためにもっと本にあたるべきだ。
で、今週はなにより、木曜日(30日)が長かった。爆笑問題がやっているNHKの番組の収録があって朝10時45分に集合。収録やもろもろあって終わったのが午後4時半ぐらいなっており、それから授業の準備をし、夕方六時から「戯曲を読む」。そのあとの七限が「サブカルチャー論」。終わったのは夜の九時十分過ぎ。ものすごく長い一日だった。朝が早くていつもの僕の生活時間と少し異なるからもう収録の途中から眠くなっていた。しかも、田原総一郎さんがだ、しゃべるしゃべる、僕が発言している途中ですら割り込んでくる。「朝まで生テレビ」かと思ったよ。あと、いろいろ考えることがあったものの、爆笑問題の二人には好感を持ったな、むかしの僕の舞台を観ていたというし。

繰り返しになるが、津野さんからメールをいただいた。本の雑誌社の方に教えられこのノートを読んでいただいたとのこと。とてもうれしかった。
ネットはこういったところがすごい。もちろん、雑誌をはじめ紙媒体に書評が出たらそれを読むといったことはあたりまえにあり、僕も、小説評など、編集者に教えられて読むことはある。ただ、そこで評者に手紙を書くといった手続きには時間がかかるものの、ネットでは、読んだそばからメールで返信するといった手続きの簡便さがあると感じる。もちろん、いいこともあれば、わるい部分もきっとあるだろうけど、いいことのほうが多いと僕には思える。メールを受け取る喜びとはなんだろう。独特な感触だ。津野さんは、このあいだ僕が引用した、「いまの演劇はデザイナーも編集者も必要としない」の部分について、「うっかりそう書いてしまったわけですが、いまはいまで異質なやり方があると指摘いただき、ハッとしました」とおっしゃられる。むしろ僕のほうが恐縮した。なにしろ先駆的なことを次々とやってこられた方である。
たとえば六〇年代から、七〇年代のはじめを面白そうな時代だったと憧憬し、まだ子どもだったからそこに間に合わなかったと感じる。津野さんをはじめ、演劇の世界や、出版の世界で活動していた人たちの仕事やその時代全体が、面白そうだったと、遠い場所から思いを寄せる。だけど、いまはいまで面白いのにちがいない。見つめるこちら側の問題だ。「00年代」と呼ばれるこの時代も、なにかふつふつ沸き立っているのではないか。大学で、「都市空間論」という授業をやっている。それを語りだすために読む、建築家たち、あるいはさまざまな研究者の文章に刺激されることが多い。「都市空間論」を語るのに、僕はまだ、たどたどしく語ることしかできなくてむつかしいが、でも、いま現象するストリートのなにかに目をこらさなくてと思うのだ。津野さんが、先の言葉に続けてメールに、「むかしのオレなら、あんなことは書かなかったのに、と、くやしくも暗然とした次第です」と書いてらっしゃるのは、僕にとっても切実な問題になる。まわりの動きが見えなくなっているかもしれない。どうしたらそれに鋭敏でいられるのか。

金曜日の授業を二コマ終えた。今週も一段落。六限の授業を終えたあと、研究室で、学生のAとG,白水社のW君、卒業生のOと、やはり卒業生で僕の授業のTAもやってくれるKとで、しばらくおしゃべりし、とてもなごんだ。授業を終えたあとのこうした時間がとてもいい。大学で教えていてよかったことのひとつは、学生たちとこうして話ができることだ。外に出るとだいぶ冷えてきた。地下鉄を乗り継いで帰宅。

(16:07 Nov. 1 2008)

Oct.28 tue. 「急に冷えてきた」

下北沢で

といったわけできのうも書いたけれど(きのうの書き込みのほうはこちらに移動)、CO2の映画祭で「オープンコンペ部門優秀賞」を受賞した『お城が見える』の小出豊監督が新作映画の女優を探しています。映画に興味があって俳優を志望する方たちは応募してみたらいかがか。次のページを参照していただきたい。 → こちら

きのう(27日)の夕方、東京地方は突然、雹が降ってきた。雹と書いて「ヒョウ」。すごい音が外でしていた。そのすぐあと、ビデオを返しにバスで渋谷まで行った。渋谷のTSUTAYAの六階は書店とカフェがあるけれど、書店には女子高生がいっぱいだ。渋谷だなあ。高校のときから「東京」って場所にいるってのはどういった感覚なのだろう。
で、きょうは、「都市空間論」の授業で次に取り上げる予定の「下北沢」に行ったのだった。テーマは「都市の交通」である。白水社のW君と東京の地図をざっとながめ、二本の「交通」が交差して発展した町を探し、中でも面白そうなのはやはり「下北沢」ということになったのだった。だったら久しぶりに歩いてみようと思った。あと、以前から下北にある「気流舎」という古書店にも行きたかったのもあった。歩いたなあ。ぐるぐる下北沢の町を徘徊した。いや、もっと歩くべきだったかもしれないが、このフィールドワークは下北沢の「町」と「土地」だけではなく、「交通」にも着目していたので、小田急線で下北沢に行き、井の頭線で明大前へ、そこで京王線に乗り換えるということをしたかったし、写真を撮るのに暗くなる前に電車に乗らなければならなかった。
150枚ぐらい写真を撮ったらデジカメのメモリーカードが一杯になった。仕方がないので近くの電気屋でSDカードを買った。しまった。量販店より少し高めだ。まあ、しょうがねえ。しばらく歩いて、気流舎に行ったが店が開くのが午後二時だと知り、それで下北沢をさらに徘徊。駅周辺の開発はずいぶん進んでいるようだった。大きな道路ができるという話はどうなっているのだろう。反対する人たちの動きはどこまで行政に届いているのだろう。開発が進み、古い建物がなくなればこれまで下北沢を活気づけていた小さな店たちは撤退せざるをえないだろう。どこも賃料がきっと上がる。古いビルがあったからこそ存在する「小さな店」によって作られた町をいくつも僕は知っているが、たとえば、秋葉原だってきっとそうだ。

二時も過ぎたので、再び「気流舎」に行くとまだ店は開いていなかった。店の前に三人、店を訪ねて来たとおぼしき人たちがいた。仕方がないので近くのカフェで食事をして時間を潰す。カレーを食べた。あらためて「気流舎」へ。ようやく開店していた。さきほどの待っていた三人と店主とおぼしき人が打合せをしていた。店内はきわめて狭い。棚が少ないがいい本を並べている。好感を持った。で、水曜日(29日)「セイブ・ザ・下北沢」が主催する「下北沢再開発問題や運動について一歩踏み込んで研究する勉強会」がこの店で開かれるという。夜九時から。「都市空間論」のために参加しようと考えたものの、翌日、例のNHKの番組の収録があって集合時間が早いんだよ。悩むね。でも、学校教育ではない「勉強会」ってものに参加したいし(高校時代を思い出す。やったなあ、マルクスの読書会とか勉強会)、授業でそのことを報告するのは、かなりいいに決まっているのだ。
また歩く。北口、西口も徘徊。ぐるぐる回る。かなり歩いたが自分でも驚くほど体調がいい。西口から井の頭線に乗って明大前に向かった。明大前から京王線で初台へ。少し疲れたが、でも、手術前よりあきらかに体力が上向きだ。これはたいへんなことになってきた。階段を昇るのになんの苦もない。以前ならすぐに胸や背中の筋が痛くなったがまったくそれもない。むしろ気持ちがいい。
天気もいい一日だったので「下北沢徘徊」はとてもいい気分にさせられた。歩きながら考えることもいろいろあった。そして「交通」だ。「下北沢」と「明大前」はなぜ、こんなに違うのだろう。大学も近くにあって若者の町になってもいいはずなのにそうはならなかった「明大前」は、すぐそばに甲州街道が通っているのが町の広がりを妨げたということか。本質はそんなところにないような気もするが、これもまた、課題だ。「都市空間論」的な。

町は歩かないとだめだな。見えない都市を探すこと。それには地図も大事な要素になるが、実際に歩いて感じる空気がある。だから「町」なんだろう、と思って帰宅。古書店に頼んでおいた本が次々と届いていた。

(4:27 Oct. 28 2008)

Oct.26 sun. 「ロッカバイを観て」

神楽坂セッションハウスで、鴎座が主宰する「ベケット・カフェ」の公演として『ロッカバイ』が上演された。鴎座は黒テントの佐藤信さんの個人劇団だ。公演のアフタートークに呼ばれた。最近の私はアフタートークに呼ばれないと劇場に足を運ばないというていたらくだ。申し訳ない。劇評でも書こうかなと。どこか連載させてくれる雑誌はないだろうか。するといくらなんでも、観るだろう。自分の首を絞めるような話だけれど。「新潮」あたりはどうだろう。それより小説を書けと言われるだろうな。
ともあれ、『ロッカバイ』を観た。ふだんあまりそんなことはないが、自分だったらこれをどう演出するだろうと考えながら観ていた。戯曲には事細かにベケットの指示が書かれている。ベケットから逃れるのではなく、むしろ発展させ、「面白いベケット」「刺激的なベケット」は、どうしたら実現できるか。おそらくそれを考えること自体が、いま、演劇そのものについて考えることにもなるのではないか。まあ、ベケットだけではなく、ブレヒトもそうだし、ことによったらハイナ・ミュラーもそうかもしれないが、シェークスピアやチェーホフがあれほど活発に試されているほどには、それよりずっと「現在」に近い演劇が語り尽くされていない(上演され、議論され、ていない)印象を受けるのだ。だから、おそらく「ベケット・カフェ」はそのためにあり、まずはその舞台を観ながら考えていることに意味があると思えた。それぞれの立場で考える、とするなら、僕は実作者として。
アフタートークで一緒に話をしたのは、今回の『ロッカバイ』を翻訳した早稲田の岡室さんと、岡室さんのゼミ生である久米君だ。久米君は、僕が早稲田で教えはじめたころ文芸専修の授業に来ていた学部生だった。いまは院生である。京都出身。血液型は知らない。たとえ知っていても書く意味がわからないし。その久米君がきちんと話しているのは立派だった。そこへゆくと私は、なにか面白いことを話そうと思ってべつのことを考え、途中、久米君の話を聞いていなかった。「いまの久米君の話について、宮沢さんはどう思いますか?」と岡室さんに質問されて困った。

書評を頼まれている、津野海太郎さんの『おかしな時代 「ワンダーランド」と黒テントへの日々(本の雑誌社)を読み終えたので早速、原稿を書こうとするという、私としてはきわめて珍しい事態になっているが、『ロッカバイ』の打ち上げでは、その本に頻繁に登場する佐藤信さんと、佐伯隆幸さんと話し、「60年代演劇再考」のレセプションのときとよく似た状況になったわけだけど、これもなにかの縁なのか、津野さんの本の書評を頼まれたことといい、いろいろなことが不思議につながる。
書評を頼まれたのは「新潮」だが、そこに『返却』という小説を発表したのは今年の春になるころだった。『返却』は、三十年も前、八王子にあった都立図書館で借りてそのままになっていた二冊の本を返却しにゆくという話だ。その一冊が、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』だった。しかし、借りたままの本を返していないこと、返しに行こうと思ったのはほんとの話だが、ただ、『アメリカの鱒釣り』だったのはフィクションだ。その時代(七〇年代後半)のことを書こうと思ったときブローティガンについて触れたかった。しかも、八王子に取材に出かけたとき、途中、京王線を府中で降りて古本屋に入ったら、そこで藤本和子さんの『リチャード・ブローティガン』(新潮社)を偶然、見つけた。そういった偶然にあと押しされて小説が書けたと思っていたが、それからさらに偶然が重なったとすれば、きのう書いたようにデイヴィッド・グッドマンさんにお会いしたことだろうし、なぜかこの十日ほどのあいだに、佐藤さん、佐伯さんに三度もお会いし、黒テントの話を聞かせてもらえたことだ。
なんだかおかしい。あと、ぜんぜん関係ないけど、津野さんの本書における文体は、たとえば津野さんの演劇批評をまとめた『ペストと劇場』なんかとは、まったく異なる。どこかブログを彷彿とさせる文体なのである。津野さんが八〇年代に入ってからMacに入れ込んだのは有名な話だが、本書を読んでいると、かつて演劇について書いていた時代の文体が逆になんだったんだろうと思えてならない。読みやすいのは当然だが、だからって、かつての演劇書の文体のシャープさも捨てがたい気がするのだ。というか、津野さん、もう演劇については書かないのだろうか。

この二週間ばかりのあいだ、さまざまな人や、ことに出会い、それを契機に、また演劇への熱意が強くなってきたのを感じるし、もっともっと読まなくてはと、書物にあたらなければとあたりまえのことを考えた。でもいま、「サブカルチャー論」と「都市空間論」の資料ばかり集めている。これはこれで面白いんだよ。また思いつきが生まれた。「ひらめき」は人のからだを不可解な状態にする。

(9:42 Oct. 27 2008)

Oct.25 sat. 「さっぱりする」

表参道で

また坊主頭にしてもらうために青山の髪を切る店に行った。店のある周辺の土地の様子がすっかり変容しているのを見て驚かされた。表参道をまっすぐ南青山の方向に進み、その左手の路地には民家がまだ残っていたがそれらがすっかり建て替えられブランドのビルになってゆく。変化の早さに驚かされる。
木曜日(23日)と金曜日(24日)は大学。木曜日の「サブカルチャー論」にはNHKの取材が入った。このあいだ書いた爆笑問題の番組である。終わってから研究室でインタビュー。その前日、授業の素材を作るのも大変だったし、あまり眠っていなくてすっかり疲れていた。質問になんとか答えたものの、もうひとつシャープな応接になっていなかったのではないか。TAをしてくれる学生らが助けてくれる。なにかと心強い。
翌日金曜日の授業が終わったあとは白水社のW君と打ち合せ。いろいろ考えてくれるのと、参考文献を探してきてくれるのだが(『現代思想』の「ポストフォーディズム特集」など)、そうはいっても、読んでいる時間がなかなか取れないのだ。ただ、「交差点で見る東京」など、不意に思いついたことがあって、それを深めると都市についての面白い論考になるのではないかと考える。来年、この授業をもとに単行本を刊行する予定だ。じっくりねばっていい本を作りたい。

さて、津野海太郎さんの『おかしな時代 「ワンダーランド」と黒テントへの日々(本の雑誌社)をさらに読んでいたがいよいよ黒テントの話になってその旅の模様ももちろん面白いが、このあいだ早稲田で開かれた「60年代演劇再考」の催しにアメリカから来た方のひとりにかつて黒テントとともに活動したデイビッド・グッドマンさんがいて、本書にもしばしば登場する。挨拶も交わしたグッドマンさんの奥さんが、リチャード・ブローディガンの『アメリカの鱒釣り』を翻訳した藤本和子さんだと知ってたまげた。たしか、僕と、平田君、岡田君が話をしたときも夫妻でいらしていたはずだ。知らなかった。黒テントの話には、そこにいたるまでの当時の状況が書かれ、「状況劇場」や「天井桟敷」、さらに瓜生良介の「発見の会」のことなども記されているし、津野さんがそもそも関わり演出もしていた「六月劇場」について、構成メンバーだった岸田森、悠木千帆(現、樹木希林)、草野大悟らについても詳述されそれもまた興味深い。あるいは、そうした運動と併走していた扇田昭彦さんのことが、「もし朝日新聞に扇田昭彦がいなかったら」と、いかに若き日の扇田さんがあの時代の演劇にとってジャーナリズムの側の大きな存在だったかが記されている。それは扇田さんの本でも読んだことだが、なにしろ、状況劇場も黒テントも扇田さん、旅公演に同行してテントで寝泊まりしてるんだからすごいよ。「60年代演劇再考」が開かれる前に読んでおけばよかったとつくづく。そして、津野さんは書く。

 いまの演劇には雑誌もB全判の華麗なポスターもない。横尾忠則や平野甲賀のようなデザイナーも、私みたいな編集者もいない。演劇がそういう存在を必要としなくなったのだ。(P291)

 そうなのだろうか。それはわからない。少し説明しておけば、天井桟敷が「季刊地下演劇」、黒テントが「季刊同時代演劇」という雑誌を刊行していた。津野さんは、それを「雑誌好き」といった意味で記し、なにかはじめたらとにかく雑誌を出すのがあたりまえだったように書いているが、それはもともと、津野さんが演出家である前に(学生演劇はのぞく)、「新日本文学」で雑誌の編集をはじめたことが大きいのではないか。「運動」と「雑誌」という構造を「新日本文学」で学んだのではなかったか。ただ、グラフィックの力に、僕はまだ魅了されるから、それが舞台を告知するフライヤーになるし、ウェブのデザインにもなる。メディアの形体は変わったかもしれないし、性質も多少変化したにちがいないが、いまだに演劇はヴィジュアルによる戦略を必要としているはずだ。デザイナーや編集者に助けられるに決まっている。映像作家もまた、そのなかに含まれるかもしれない。そんなことをいま僕は、遊園地再生事業団を再編するにあたって考えている。いまは思考中。もうすぐはじめる。かつての運動をお手本にしつつも、また異なる表現の方法があるはずだと考えている。

寝不足だったせいか、髪を切ってもらう店ではうつらうつらしていた。さっぱりした。ニット帽がほしくなる季節である。夜、少し冷えた。

(10:34 Oct. 26 2008)

Oct.22 wed. 「書評を頼まれた」

渋谷の街角で

「新潮」のKさんから頼まれた書評は、津野海太郎さんの『おかしな時代 「ワンダーランド」と黒テントへの日々(本の雑誌社)だ。依頼のメールが来たのは21日(火)の未明だったが、22日(水)の午後にはもう本が届いた。早い。すぐに読みはじめたらものすごく面白い。まだ津野さんが、「新日本文学」(と書いても、どれだけの人がこの文芸誌のことを知っているだろう)に勤めはじめた一九六〇年代はじめの時代を読んだところだがそこらがまた興味深いわけである。このあとさらに演劇活動へ、晶文社の時代になり、ほかに読まなくてはならない本が大量にあるのだがつい読んでしまう。とくに、大学の「都市空間論」についての勉強がなあ、ぜんぜん、進まないので困っているのだ。
話は前後するが、週のはじめは、歯科医の予約があったのを直前まで忘れていてあせった。iPhoneのカレンダーに記録しておいたから思い出せたのだ。それというのも、もうこの十年ぐらい、予定表のようなものを持ったことがなく、ほぼ勘で生きていた。それ以前のことを回顧すると、ヒューレッドパッカードという会社がかつて生産していた、「HP200LX」という小型コンピュータを使っていたのを思い出す。片手で持てるような小型機だ。まだ携帯電話のない時代で電話帳代わりのメモにもしていた。携帯電話でずいぶん変わった。パームとか、いろいろその手のガジェットがあったはずだが、その座を携帯電話に奪われたし、そして、iPhoneをはじめとするスマートフォンの時代がまた状況を変えるかもしれない。iPhoneになって私は予定をスケジュール帳に記入するようになった。ちょっとした環境の変化が人を変える。なかなかにばかにできないものだった。
そんな日々のなか、「サブカルチャー論」のために素材を用意していたが、それとは関係なくべつに使っていた、Windowsマシンが壊れてしまった。起動しなくなったんだよ、突然。データの復旧をしなければと思うが厄介な仕事が増えてしまった。なんということだ。コンピュータは安定して使えているのがいちばんであって、いま安定しているのなら、なにかパワーアップとか、新しい周辺機器をつけるとか、慎重にならないとだめだ。なにかあったらほんとに厄介だ。とくに僕の場合は自作機だから、リスクはぜんぶ自分でなんとかしなければならないからな。

写真は、渋谷にビデオを探しに行ったときTSUTAYAの前で携帯をいじっていた人の後ろ姿。また借りたいビデオがなかった。以前、同じようなことを書いたら高円寺のマニアックなビデオを置いているというレンタルショップをメールで教えてもらった。高円寺はなあ、きっといいんだろうけど、借りるのはともかく、返しに行くのが面倒な感じがする。ただ、高円寺には来年から縁ができるのだ。新しくできる劇場で講師のような仕事をする。その帰りにビデオ屋に寄ってみよう。

(10:34 Oct. 23 2008)

Oct.19 sun. 「この数日」

デイヴィッド・グッドマン氏と佐藤信氏

17日(金)は「国際研究集会 60年代演劇再考」のシンポジュウムに参加した。以前まで世田谷パブリックシアターにいた松井さんの司会で、平田オリザ、岡田利規、そして僕というメンバー。午後の授業を一コマやってから会場になっている小野記念講堂に白水社のW君と向かった。
僕が到着するまでに会場ではいろいろ混乱があったそうだ。それには僕も関係しているのではないかと、岡室さんや梅山さんをはじめこの研究集会を実行した方々に迷惑をかけたように思い、シンポジュウムがはじまってから緊張したものの、話をしているあいだは静かに進行することができた。逆に、いい意味での緊張感になっていたかもしれない。と、書いてもなんのことかわからないかと思いますが、当日、来場した方は、会場入口で「あれ」を目撃したのではないだろうか。「あれ」の論理が不明解で根本のところをしっかり、「あれ」をする当事者に質問すればよかった。早稲田での「ビラまき不当逮捕」の抗議運動は署名をするくらい僕はその活動に賛同しているつもりだが(あくまで不当逮捕の倫理的理不尽さに対する抗議の賛同である。活動そのものからは、思うところがあって距離を置いているものの)、会場入口で「国際研究集会 60年代演劇再考」の開催それ自体に抗議するのは、演劇の議論として筋違いに感じた。演劇における問いとしてまともに論議できるだろうか。文脈が異なる。「このイヴェントが大学に取り込まれているのはアングラの精神に反する」という意味の主張における、「アングラの精神」とはなにか。私はそんなものをまったく知らない。では、かつてのアングラの担い手たちがその後、公共劇場に活動の場を移したり、日生劇場の演出をしたり、あるいは、大学で教鞭をとるようになったことは、彼らのいう「精神」に反していないのか。仮に「精神」らしきものがあったとしたら、それこそ、今回のイヴェントで明らかになったのかもしれない「神話」でしかない。たしかに、すべて幻想だったとも安易に片付けられず、「アングラ」が生み出した財産は数多くある。その後の、現代演劇に与えた影響や反映は、さまざまな姿をして存在する。けれど、「精神」という抽象性ではなく、「演劇表現」という演劇人にとってもっとも顕在化すべき、そして切実な議論こそ再考する意味があるにちがいない。「演劇表現」について、それはたとえば「現在の身体」や「いま有効なドラマツルギー」になる。反対する彼らとそれを議論できるとは思えない。とはいっても、それもまたすべて、政治的な論議だが。
シンポジュウムが終わってから、参加したメンバーらと居酒屋で話をした。このメンバーがすごく楽しくもあり刺激もされる。そんなに遅くならない時間に、平田君があした朝が早いというのでお開き。もっと話をしていたかったな。ただ、大勢の人に会ったので(僕の舞台関係の俳優やら、編集者やら、朝日のYさん)、疲れたっていうか、風邪を引いたらしい。翌日、朝起きたら久しぶりに熱があった。

というわけで翌日は、佐藤信さんと、デイヴィッド・グッドマンさんのセッションだけに参加した。ためになった。刺激された。また演劇に対する意欲がわいてきたしもっと勉強しようとつくづく。というのも、このところ「サブカルチャー論」のことと、「都市空間論」のことしか考えてなかったのだ。面白いからだ。サブカルチャー論の映像素材を作るのなんて、もういくらやっていても飽きない。面白くてしょうがない。
だが、三日目(19日)は堕落した。だめだ。自分がいやになった。前日、先に書いた映像素材を作る作業をいろいろ試していたら、深夜を越え、朝の10時過ぎになっていたのだ。扇田さんが蜷川さんに話を聞くセッションの時間になっているじゃないか。もうこのまま眠らずに行こうと思ったが行っても眠ってしまうと思い、とにかく少し眠って、岡室さんが聞き手の、別役さんの話だけには足を運びたいと思っていたが眼が覚めたら夕方である。堕落した。あとで岡室さんに聞いたら、もちろん別役さんの話も面白かったのだろうと思うけれど、蜷川さんが、現代人劇場や櫻社の話をしてくれたとのことで、涙が出るほど感動的だったという。失敗した。映像なんか作ってる場合じゃなかった。
ところで、今月の26日は神楽坂セッションハウスで、ベケットの『ロッカバイ』の公演があり、僕はアフタートークで参加します。きわめて不可解な戯曲だけれど、早稲田のベケットゼミの人たちが翻訳した『ロッカバイ』には興味ありだ。また、ネットを探していたら、長島確さんの『ロッカバイ』に関する論文(これはどこに発表された原稿だろう。紀要だろうか)を見つけて読む。予習。ためになったっていうか、なるほどなあと思いつつ、自分なりの解釈を発見しなくてはとより強く思った。

ほとんどのセッションを聴講しなかったくせに、「国際研究集会 60年代演劇再考」のレセプションに図図しく参加。評論家の佐伯隆幸さん、佐藤信さんという、黒テントの二人とよく話をした。佐伯さんにつかまると大変なんだけど、人間、慣れるということがあるもので、佐伯さんと話しているとなんだか楽しいから不思議だ。あと若松武史さんがいらしていた。今回、来日したニューヨークのラ・ママの方に会うために足を運んだそうだ。ところで、からだのほうはだいぶ復調してきた。もう大丈夫だ。ご心配をおかけして申し訳ないです。胸の骨もほぼつながった。それから、手術前は少し坂道など歩くと背中から、胸のあたりの筋肉が激痛に襲われたが、それがなくなった。単なる筋肉痛とか、凝りとか安易に考えていたが、肺に水がたまっていたという循環器系の病気だったのだな。治った。画期的な進歩である。

(10:47 Oct. 20 2008)

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