Jul. 27 sat. 「八月になったら夏も終りに向かってゆく」
■まずは宣伝。9月13日(金)から遊園地再生事業団新作『夏の終わりの妹』が公演されます。東池袋「あうるすぽっと」にて。詳しくは、ルアプルのサイトへ。よろしくお願いします。
■そして久しぶりの「富士日記2.1」更新。これからは、かつてのように毎日書こう。これは考えるためのノートである。
■さて七月だ(もう月末だが)。夏といえば、七月であり、雷が鳴って梅雨が明ける時期の気持ちよさはない。けれど今年の梅雨はあっけなく終わったし、そもそも、梅雨らしいうっとおしさがあまり感じられなかった。大雨の被害にあった地方の方にはお見舞い申し上げますが、東京でも雨は降り、厳しい暑さ、湿度の高さのうっとおしさはあったが、それほどのことでもなかった。気がついたら、七月になっていた。そして七月が終わろうとしている。私がもっとも好きなのが七月なんだよ。
■その直前、というのはつまり六月の末(6月24日から29日)、すでに梅雨が明けている沖縄に行ったのだった。これといって思い入れがあったわけではない。リゾート気分でもなければ、政治的な意味もさほどないが、九月の新作『夏の終わりの妹』がまったく書けなかったのだ。なにも思いつかなかった。だったら沖縄に行こうと思った。さしたる意味はない。けれど沖縄に行きたかった。ひとつ理由があったとするなら、今年のはじめに亡くなられた大島渚監督の『夏の妹』をモチーフのひとつにしようという、かすかな希望があったからだ。『夏の妹』はよくわからない映画だ。主演の栗田ひろみはかわいいが、ではほかになにか興味を引かれたことがあったかと言えば、1960年に松竹を退社した大島渚は何人かの仲間(小山明子、小松方正、戸浦六宏、田村孟、石堂淑朗)とともに設立した「創造社」をこの作品を最後に解散していること。あるいは、前作『儀式』、そして次作『愛のコリーダ』に挟まれ、2作の緊張感ある映像に比べ、『夏の妹』の、どこか弛緩した印象は否めず、それがなにか考えたかった。つまり、なんだかわからないのだ。
■それで『夏の妹』のロケ地訪問がいちばんの目的だった。さまざまなところを回った。とんでもなく歩いた。レンタカーを借りてさまざまな土地を訪れたし、もちろん南部の戦跡もいくつか見た。だが、そうした歴史を見ることも意味はあったが、なにか私はひどく興奮させられた。知らない土地だ。見たこともない風景だ。神秘性も漂わせる不思議な力をそこから感じざるを得なかった。
■さらに、沖縄に行く直前、知人に教えらえた、『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること―沖縄・米軍基地観光ガイド』(書籍情報社)を持参していったのが大きい。この本は沖縄にある米軍基地を見るポイントを教えてくれる、また異なる種類のガイドブックだ。手にしていったのはこのガイドブックだけだ。ほかのことはなにも知らない。美味しいものがある場所も知らない。きれいなビーチも知らない。ただ、米軍基地は見た。オスプレイが配備されている姿も見た。
■そして、沖縄北部ヤンバルにある高江にも行って、新しい米軍施設建設に反対している人たちにも会った。森のなかにあるとても環境のいい森の中にある「山甌(やまがめ) 」にも行った。このカフェはドキュメンタリー映画『標的の村』にも登場する。ただ、政治的なことは当然、この島に行けば直面されるのは、間近に米軍基地があることだし、町にはごく普通に「軍用地売ります買います」という看板があり、東京まで届かない米軍がらみの事件や出来事は数多くあると地元の人に教えられる。
■けれど、それらが僕の作品に直接的に描かれることはないだろう。というか、ではいま、そうした重いテーマをどのように劇にすればいいか僕にはよくわからないのだ。過去の方法では有効ではないと思う。そして、それを知っているか、そうでないか、いま私たちの住んでいる場所から遠い土地に「ある現実」があることを自覚しつつ、ものを作ること、だからこそ、作品からにじみだす空気が変化するにちがいない。宜野座基地の脇を車でずっと走った。どこまでも基地だ。とんでもない光景だ。それをこの目ではっきり見たことに意味があった。
■それから東京に戻り、しばらく沖縄のことばかり考えていた。そして「すばる」のための短編小説を書いた(九月号掲載『夏の終わりの妹』と舞台と同じタイトル)。沖縄と多少の関わりを持ちつつ、けれどあの島の話ではない。都市の話だ。それを元に『夏の終わりの妹』の戯曲を書き、リーディング公演をやった。そうやって七月は終わってゆく。八月には、僕が台本を書いた「ABKAI」の公演がシアターコクーンである(主演・市川海老蔵/演出・宮本亜門)。『疾風如白狗怒濤花咲翁物語。〜はなさかじいさん』。歌舞伎である。詳しくはこちら、「ABKAIオフィシャルサイト 市川海老蔵 自主公演 えびかい」。
■歌舞伎の台本を書くのもはじめてだが、その世界のこともほとんど知らない。戸惑いつつ冒険は続く。春に公演した「シティボーイズMIX」も久しぶりに彼らと舞台を一緒にやり、コントを書いてそれも冒険だったが、まあ、本公演もまた冒険。そして、秋にはさらなる「冒険」が控えている。
■とんでもない年になった。人生、先になにが待っているかわからないものです。まさか歌舞伎の台本を書くなんて思いもよらなかったのだ。市川海老蔵丈と仕事をするとは想像もしていなかった。これもなにかの縁だ。出会いだ。この俳優が、これからどんなふうに変化し、大きくなってゆくのか、ずっと見届けたいと思った。自分がどうなるのか、まったく見当がつかないが。
■で、まだ書いておきたいことはあるが、それはまた書くことにします。長いよ。書きはじめるとブログが長くなる。読むのも大変かと思いますが、なにより、「富士日記2.1」を持続できるかがなにより問題だ。大学の仕事もしばらくないでしょうし、ブログを書く時間はあると思います。早稲田の授業は準備するのに死ぬほどたいへんだったんだよ。知らないだろう。どんだけ時間を注いだか。だけどそれが、すごく楽しかった。授業をするのはほんとうに楽しかった。
(4:12 Jul. 28 2013)
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