富士日記 2.1

Feb. 17 sun. 「静岡より」

いま、静岡の両親の住む町にいる。父親の調子はだいぶ悪そうだ。食事を受けつけない。終末医療をする病棟には老人しかいないが、看護士さんたちの趣味なのだろうか、食事の時間になると、ラジオからJポップのような音楽がずっと流れている。
16日(土)は、大阪から来た「France_pan」という劇団の『ジャン=アンリ・ファブルの一生』を観た。アフタートークに呼ばれたからだ。アゴラ劇場に行くと、評論家の佐々木敦さんに会った。あることで少し話をした。さて、舞台の感想としてはいろいろある。というか、観ながら考えていたことが。ファーブルを素材に書かれた作品は、「観察」ということについての劇になるだろうと想像していたが、まさにその通りで、これ自体が、ひとつの演劇論として読める。それというのも、客観化をつきつめてゆけば、作者はきまって「観察者」になるからで、それが有効かどうか、その意味を作品を通じて解いてゆくからだ。別役実さんに『虫たちの日』という七〇年代に書かれた作品がある。ものすごく面白い舞台だった。人間をきわめて客観化し、あたかも虫を観察したように書かれた戯曲は、その後、別役さん自身が語った「局部的リアリズム」そのものだ。それからもう、三十年以上が過ぎたとき、客観化する視線もまた問い直される。「局部的リアリズム」という方法の問題だけではなく、作家の姿勢としてそれがいま有効かどうか。そうした意味では、『ジャン=アンリ・ファブルの一生』は意欲的な作品だ。やりたいことはよくわかる。ただ、岡田利規君の方法を使っている場面など、それがべつのことのための「手段」になっているように感じる。あるいは、ゆっくり歩く俳優のからだがタイトではないのは、まだ成長過程ということか。教師役の俳優の第一声が……なあ、あれがなあ……、残念なことになっていた。
アゴラ劇場をあとにしてから、妹を連れて帰郷。深夜に東名に入ったのは、ETCだと高速料金が、午前0時以降、半額ぐらいだからだ。で、結局、半日は眠っていた。夕方、病院へ。父親を見舞ったあと、きのう(というのはつまり、土曜日の午後だが)バイク便で「新潮」から届いた小説のゲラの直しをする。だいぶ進む。ただ、どうしてもラスト付近で、大幅に書き足したい部分が出てきた。それから校閲さんの指摘ですごくもっともなことがあり、あ、そりゃあそうだと思い、それを忘れていた自分がおかしくて笑った。校閲さんの指摘はいつもすごいんだよな。ほかにも、編集部からの指摘がいくつもあり、たしかに、いらない部分が数多くある。くどいんだな。何度も同じようなことを書いている。どうして自分ではそれに気づけないのかと思う。あと、前回書いたBank Art Studio NYKの「カフェライブ」の選考のことだけど、なにより応募者に申し訳ないのである。どうなんだろう。すでに選考者として告知されているのに、参加できないとなると、それは問題だ。どうしたものかと思うね。もっと早く連絡してくれればと、やはり、つくづく。

(6:26 Feb, 18 2008)

Feb. 15 fri. 「ものすごく人と話をする」

植物

朝、寝ぼけて書いたのでだいぶまちがいがあった。これは修正版です。

それにしても驚いたのは、Bank Art Studio NYKである。
去年も審査をした、カフェライブという企画があり、公募したさまざまな表現を見て審査、それで選ばれた表現者がBank Art Studio NYKで発表することができる。去年の夏ぐらいだったか、来年の一月から二月ぐらいのスケジュールは空いていますかという問い合わせがあり、今回も審査を頼まれた。それで一月か二月に審査があるのかと思って連絡を待っていたが、その後、いっこうに連絡がなかった。審査を引き受けるかどうかの問い合わせのときも、宣伝のためのチラシの入稿が迫っているので早急に返事をくださいと、やぶからぼうなことを言われた。チラシのことはそっちの都合じゃないか。俺は知らないよ。それでむかっとしたわけさ。まあ、その腹立たしさを忘れて年が明け、ところが連絡がいっこうにない。いつ審査があるのかわからない。奇妙に思っていたところ、突然、いまごろになって、二月末から三月の初頭で空いている日はありませんかと、またも、やぶからぼうな連絡があったのだ。聞けば、担当者がかわり、引き継ぎがうまくいってなかったとのこと。それもそっちの都合だろう。いきなりそんなこと言われたって、そんなに急に余裕ができるわけないじゃないか。ばかもやすみやすみ言え。最初の問い合わせも、チラシの入稿があるとせっぱつまった連絡だったが、今回もせっぱつまっての連絡だ。どういうことなんだ。
審査はやりたかったが、97パーセントぐらい無理だ。あのですね、一ヶ月ぐらい前に連絡してくれればよかったのではないか。っていうか、問い合わせがあってから半年ぐらいあったんだから、もっと、余裕があるはずじゃないか。わけがわからない。審査はしたかったんだよ。だけど、いかんせん時間がないのだ。

この二日ばかり、打ち合せとか、その他のことで、何人の方にお会いし、久しぶりに長い会話をした。14(木)は、白夜書房の末井さん、Fさん、E君に会った。こんど白夜書房では、ライブラリーというシリーズを出すとのことでそれに『東京大学[80年代地下文化論]講義』を入れてくれるとの話。ありがたい。その打ち合せに取締役編集局長の末井さんがわざわざ足を運んでくれた。もちろん末井さんのことはさまざまなメディアで知っていたので、初対面とはいえ(といっても、去年の夏、紀伊國屋ホールで『東京大学[ノイズ文化論]講義』出版記念のイヴェントでお会いしていながらちゃんと挨拶していなかった)、わざわざ挨拶をしていただくのも恐縮した。それから、Fさんとは同世代なので、たとえば晶文社に代表されるような「七〇年代サブカルチャー」について話がはずむ。Fさんは小林信彦さんについての著作がある方だ。たいへん丁寧に白夜書房の方たちが応対してくれることにやはり恐縮するばかり。Bank Art Studio NYKとはおおちがいだ。
さて、きょうは昼間、桜新町に行った。以前、ある雑誌の取材をしてくれた、都立家政大学で建築を教えているYさんにお会いした。それというのも、このあいだ、雑誌「血と薔薇」が入手がむつかしくなっているという話をここに書いたら、メールで連絡があり貸してくれるというのだ。まったくもってこちらもありがたい話。桜新町のロイヤルホストで待ち合わせをして、話した話した、三時間以上、話しっぱなしである。話題は文学から、映画、政治、思想まで多岐にわたったが、とても楽しかった。それで「血と薔薇」のほか、いくつも雑誌類を貸していただいた。で、時間を忘れて話してこみ、この日、ことによると「新潮」から小説のゲラが出るかもしれないという予定をすっかり忘れていた。「新潮社」の編集者たちもいつもしっかり対応してくれる。Bank Art Studio NYKとはおおちがいだ。
慌てて家に戻ったが、ゲラは出ていませんでした。来週中には戻さなくちゃいけないんだろうけど、この週末から来週のあたまにかけて、帰郷するので、ゲラを直す時間があまりなくなった。またせっぱつまるのだろうな。家に帰ってから、笠木と映画のシナリオを書いている鈴木を誘い、夜、食事をしにいって、その後もまた長い時間話をした。しゃべったしゃべった。というわけで、しゃべりっぱなしの一日だ。私は、基本的に家にいるのが好きだし、稽古があるとき以外、あまり人と話をすることもないので少し疲れた。でも楽しかった。Bank Art Studio NYKのことで、ちょっと気分がふさいだけれど、話をすることで救われた。まあ、しょうがないよな、Bank Art Studio NYKは、Bank Art Studio NYKだけに。で、16日(というのは、つまり本日)、アゴラ劇場で公演のある「France_pan」という劇団(大阪の集団)の『ジャン=アンリ・ファブルの一生』の夜の回、僕はアフタートークに参加します。もし時間のある方はアゴラ劇場まで、ぜひ。その劇団のI君も丁寧に対応してくれる。Bank Art Studio NYKとはおおちがいだ。

(8:38 Feb, 16 2008)

Feb. 13 wed. 「書く、読む、考える」

ここにきて、またスケジュールがぎちぎちになったのは、たいへん私事ながら、父親の容体が思わしくなく、週末に帰郷せねばならなくなったからだ。父が心配なのはもちろんだが、それと同時に、看病している母のことで、この半年ばかり老人医療問題というか、老人介護について考えざるをえず、それはとりもなおさず、将来の自身の問題でもある。
12日(火)は、早稲田で、「早稲田 表象・メディア学会」の設立準備会が開かれ、学部を問わず、「表象・メディア」に関わっている研究者が集まって今後、共同の研究をするための横の繋がりを作るための会合が開かれた。今後、どうなるかはまだ模索段階だ。でも、その後の親睦会でこれまで話をしたことのなかった教員の方と話ができ、それは有意義であり、刺激も受ける。
ところで、相馬のブログの2月8日付はたいへん読み応えがある。アントニオ・ネグリが来日するにあたって開かれる企画のひとつ「来日記念プレ企画『アントニオ・ネグリ 反逆する時代の知性』」のレポート。特に、閉会間近の質疑応答のなか、意見を語ってくれた年輩の方の発言は、相馬も書いているように泣かせる。もっと読まなければ。たまたまきょう、経堂の古書店に入ったが、岩波文庫の棚の前に立ち、読むべき古典小説が無数にあることにおののくが、少しでも死ぬ前に読みたい。読んでおかなければ死ねない思いがした。なにを買おうと悩みつつ、安部公房の初期の戯曲が収められた新潮文庫を一冊。戯曲で思い出したが、リージョナルシアターの熊本の劇団0相の河野君の戯曲が書き終わったので、読み終えて、感想を書かねばならないが、どこからどうアドヴァイスするかで悩む。書き出したら、戯曲の「書き方」の初歩から書かねばならず、テーマ、展開は面白いが、戯曲として、技術的にうまくないところが何カ所か見受けられ、それを、「俺だったら、こう書く」と手本を示したくもなる。その時間がない。どう教えればいいか悩んだ。そして、岸田戯曲賞の選評は、規定の文章量の倍になってしまった。ほかにも原稿がある。悩む。そして同時に、新しい小説を書くモチベーションがいま、やけに高まっている。書く、読む、考える。やることは無数。

(9:10 Feb, 14 2008)

Feb. 9 sat. 「少し余裕が出てきた」

小説の書き直しが終わって落ちついたとはいえ、連載はあるので、「東京人」のために、久保栄の『日本の気象』という戯曲を読む。タイトルがいい。戯曲が完成し、初演されたのは一九五三年だが時代を暗示するタイトルだ。きわめて深い取材が背景にあるのがよくわかる。ただ、だからって、それが戯曲のなかにある種の啓蒙のような姿で形象してしまうとしたら、それは過去の劇になってしまうが(つまり、その後の演劇が否定したものに)……。実際、これは過去の劇である。ただ、いま書かれている多くの戯曲がここまでの綿密な取材のうえに成立しているかと言えば、それは疑問で、この戯曲を書き上げるのに久保栄は二年ぐらいかけている。表現そのもの、というより、ここで読むべきは「劇作」という「態度」ではないか。いま、「劇作」は小さくなっていないか。余裕がなくなっていないか。って、これ以上続けると、連載の原稿に書くことがなくなるので省略。
映画など観て、それから本を読み、このあいだ買った大量の雑誌を少しずつ読み、小説が終わったあとの気分的に余裕のある時間を過ごしていた。そんなとき、桜上水のYさんからメールをもらい、Yさんもオペラシティのなかにある書店で、平積みされた僕の本を目撃したという。僕が初台に住んでいるからそうなんじゃないかとYさんは思ったそうだ。そんなことはないと思う。それにしても、オペラシティが、最近、道路標示のようなものによると「オペラパレス」になっている。それが不可解だ。いつから「パレス」になったんだ。あと、新宿西口界隈の、中央公園の裏手あたりに40数階建てのマンションが建設中だ。もう完成するらしい。朝日新聞のサイトのリンクを、ニュースのなにかかと思ってクリックしたらそのマンションを広告するサイトに飛びつい見てしまった。そこに「東京アッパーウエストという生き方」というふざけたコピーを見つけ、ひとこと、ばかやろうと言いたくなった。どんな生き方だ、それは。それを本気にして生きるやつがいるから、こんなコピーが書かれるんだろう。ともあれ、書いたほうも、真に受けるやつもどうかしてる。
えーと、それから、このあいだ書いた『虚業成れり──「呼び屋」神彰の生涯(岩波書店)における神彰や、あるいは、康芳夫といった「呼び屋」という人たちの生き方を興味深く読んでいたが、康芳夫が「呼び屋」の時代は終わり、その後「広告代理店」の時代になったと語る言葉から、「80年代地下文化論」で忘れていたことがわかった。八〇年代を準備した「七〇年代のこと」を考える上で重要な要素のひとつとは、そうした、「広告代理店」への「サブカルチャーの生成のシフト」があったことだ。だからこそ「サブカルチャー」は変質した。そこに八〇年代を考える上でのポイントがあるのではないか。それから、早稲田で「サブカルチャー論」をやるにあたって、というか、「ノイズ文化論」で取り上げるべきだったのに見落としていたのは「異端」というものの存在だ。するとどうしたって「澁澤龍彦」の名前が浮上してくるが、そこで神彰とつながってくるのは、六〇年代末に発行された「血と薔薇」という雑誌のことになる。責任編集が澁澤龍彦。その雑誌を発行した会社の社長が神彰だ(あと、神彰は驚くべきことに、いまの大衆的な居酒屋のさきがけ「北の家族」の創業者でもある)。つながるねえ、いろいろと。このへんも、早稲田の授業で話したいことのひとつになった。だけど、その「血と薔薇」がいま入手がむつかしい。古書店で高くなっている。復刊もされているのに、それも高価だ。まあ、しょうがない。

(5:55 Feb, 10 2008)

Feb. 8 fri. 「小説の直しが終わった」

やはり「締め切り」というやつは偉大である。締め切りがあると人は書くので、私はようやく、小説を書き上げたのだった。「新潮」で小説を頼まれてから、かれこれ、もう二十年になる。ようやく約束を果たすことができた。その二十年間、なにをしていたのかと思うけれど、なにかと忙しかった。忙しくしているうちにあっというまに過ぎていった。そんなものなのかな、人生は。
明け方、ようやく書き上げると、ほぼ125枚の、短めの小説になった。いったん三時間ほど眠る。眼が覚めてからあらためて推敲し、これでいいだろうと区切りをつけたところで「新潮」のM君とKさんにメールにファイルを添付して送った。それからまた読み返すと、おかしな箇所がいくつかあるし、もっとこういう書き方をすればよかったと後悔するものの、これからゲラが出るのでその段階で直すことにしよう。「webちくま」のゲラを直して送信。しばらくしたら、なぜか筑摩書房のIさんから、直してない段階のゲラがまたFAXで届いた。なにかのかげんで届いていないのかと思い、また送信。あとでメールが来たが、チェック済みのゲラを二回受け取ったとある。わからないことになっていた。
午後、あらためて眠ったが、そのあいだに、M君とKさんから携帯に連絡をもらっていたようだ。夜、二人と電話で話す。感想を聞いてとてもうれしかった。三月に発売の「新潮」四月号に掲載される。ぜひ読んでいただきたい。で、少し落ちついて今月の「新潮」を見ると、青山真治さんが小説を発表していた。これから読もう。

『ニュータウン入口』に出演した時田からメールが来たが、豪徳寺の美味しい餃子の店を教えてほしいという内容だった。豪徳寺駅を出て、商店街を梅ヶ丘方面に歩き、右手にある「代一元」という店だ。目の前に二台しか止められないコインパーク。駅からだと少し歩く(といっても歩けない距離ではない)。さらにその先を歩くと郵便局がある。近くにマンションがあるけれど、もう数年前、外務省だったか、官僚が機密費を使い込んで馬主になったり愛人にマンションを買ったという事件があったけれど、それがそのマンションだ。ある日、ニュースを見ていたらその映像が流れ、どっかで見たことあるな、これ、と思ったら豪徳寺だった。いい町だよ、豪徳寺は。というか、なにか美味しいものを食べたいと思うと、つい豪徳寺、経堂方面に行ってしまう。長かったからな住んでいた時間が。いま住んでいる初台にも美味しい店はあると思うが、開拓が進んでいないのだった。
少し仕事が落ちついたので、そろそろ大学の授業の予習もはじめなければな。用意した資料を読もう。そういえばこのあいだ、小説のためにどうしても必要になって新宿の紀伊國屋書店に行ったわけだよ。買おうと思ったのは時刻表だが、つい、棚にある雑誌を目に入るそばから手に取りレジに行くと、全部で八千円以上になっていた。雑誌だけで八千円というのに驚いて、見れば、なかに三千八百円の雑誌があった。「別冊・環」の「ジャック・デリダ」の特集号だ。初台のオペラシティのなかにある書店では、『東京大学[ノイズ文化論]講義』と、「ユリイカ」の僕を特集してくれた別冊号が平積みになっていた。それも驚く。

(11:36 Feb, 9 2008)

Feb. 6 wed. 「餃子を食べる」

餃子のニュースを見ていたら、無性に餃子が食べたくなったので豪徳寺まで行った。以前、住んでいた豪徳寺の商店街のなかにある店の餃子が食べたかったのだ。久しぶりだったがやはりとても美味い。あの「餃子」と、この餃子は、形こそよく似ているし、名前も「餃子」とよく似ているものの、まったく異なる食べ物だ。あの「餃子」と呼ばれるものを不幸にも食べさせられた方には同情する。だけど、考えれば考えるほど、日中問題だけではない、政治的な出来事として、事件から浮かび上がってくる本質的なものにあらためておののくのだけれど、食品の安全性というより、流通や生産、自給できない産業構造など、どうなってんだ、これは。
その後も小説を書いていた。きのう(2月5日)は、NHKのNさんに家に来てもらい、芸術劇場版『ニュータウン入口』の打合せをしたが、話がさまざまな方向に飛び、とても楽しい時間を過ごした。気がついたら深夜の一時を過ぎていた。いくつか芸術劇場版のアイデアも浮かぶ。これはもう、映像作品として、舞台とは異なるものになるにちがいない。それはそれで作ることの悦楽がある。でないとねえ、やっていて面白くないものな。Nさんもそれを楽しみ、そして熱心に取り組んでくれる。とてもありがたい。厳しい条件のなかで、もっともいい『ニュータウン入口』にしたいのである。
とはいうものの、いま気持ちは小説である。締め切りは間近だ。「新潮」のKさんから様子伺いの電話をもらった。せっぱつまっているのには変りはないが、しかし、ここでもまた、書くことの愉楽がある。そんな日々だ。餃子を食べた。

(3:28 Feb, 7 2008)

Feb. 3 sun. 「せっぱつまっている」

せっぱつまってきた。というのも、今週の金曜日(2月8日)が小説の締め切りだからだ。思いついたことを、ばらばらなまま、ノートしてゆく。それを構成しつつ小説のリライト。そんな日、うれしかったのは、Wさんという方からのメールだった。きのうのノートに、「ほかにも、司会の上村のだめな様など、みどころはいろいろあったが、」とあるが、はじめ、その「みどころ」を私は、「みどろこ」と書いてしまったのだ。それでWさんは書いてくれた。

「みどろこ」2/2の富士日記、二段落目最初)はあまりに可愛らしいと思います。(たぶん、「みじんこ」とか「ちみどろ」とかと似てくるがゆえに、ではないでしょうか)わざとでしたら、たいへん失礼しました。以上が用件です。
せっかくなので
何年か前、『青空の方法』をうっかり立ち読みしてしまって、本屋で笑い声が出そうになってすごく困りました。それが私の、宮沢さんのご本との出会いでした。

青空の方法

 ときとして人は書きまちがいをする。「言いまちがい」のなかに人の深い部分にある意識を分析したのはフロイトだが、だからってなあ、「みどころ」を「みどろこ」とまちがえたことで私の深層になにかあるとも思えない。あ、でもあれか、「言いまちがい」と「書きまちがい」はちがうのかもしれず、しかも、「キーボードによる打ちまちがい」はまた異なる状態ではなかろうか。だから逆に考えれば、「キーボードで書くこと」と「手で書くこと」のちがいは、このフロイトの考えを遡行して考えると、なにか見つかるのではないか。って、全部、推測だよ。それにしてもメールがうれしかった。ありがとうございます。ちなみに、『青空の方法』(朝日新聞社)は朝日の連載をまとめたものだ。あれも毎週だった。なにを書くかで毎週、苦しんでいた。それさえ出てくればあとはかなり早く書けたが、書き出すまでがもう、胃が痛くなる思いをしていたのだ。
早稲田のシラバスを書き上げた。これでだいぶ気が楽になったものの、ほかにも「リージョナルシアター」のアドバイザーという仕事がある。熊本の劇団0相の河野君の戯曲を読んで意見する仕事だ。さらに、四月に放送されるNHK教育テレビ芸術劇場用に『ニュータウン入口』を再構成しなければならない。これらを平行してやっている。そのあいだに細かい原稿を書く。せっぱつまっている。だけど本は読む。いま、『虚業成れり──「呼び屋」神彰の生涯(岩波書店)を読んでいるが、「呼び屋」と呼ばれる人たちが面白くてしょうがない。ほかにも、「オリバー君(チンパンジーと人間の中間にあたる未知の生物)」を日本に連れてきたり、「アントニオ猪木対モハメッド・アリ戦」をプロモートしたという、いま考えると、無茶なことを次々とやったことで有名な「康芳夫」という人物のことも調べると、それはもう、でたらめだ。そんなことに夢中になりつつ、ニュースも気になって見る。どこまでも仕事はつづく。

(14:05 Feb, 4 2008)

Feb. 2 sat. 「ちょっとした旅」

相模湖にて1

相模湖にて2

相模湖にて3

『ニュータウン入口』に出演した、佐藤と南波さんが家に来た。結婚の報告ということだったが、さらに、その結婚式をしきった(仏式の結婚式でそれをなんと呼ぶのか知らないが、つまりキリスト教の教会で結婚するときの神父さんのような役割の)鎮西と、結婚式の模様を撮影した今野も一緒にやってきた。いろいろ話ができて楽しかった。それで今野が撮影した映像をDVDで見せてもらった。式場にあてられたのは鎮西の叔父さんのお寺らしく、その叔父さんが頻繁にやってきては、意味なく、準備をしている佐藤や南波さんに、いろいろなもの(たとえば映画『大奥』のパンフレットとか)を見せている姿が面白い。
ほかにも、司会の上村のだめな様など、みどころはいろいろあったが、ささやかなドキュメンタリーとして面白いし、佐藤と南波さんにとっては、こんなにいい記念はないのではないか。将来、二人に子どもができたとしたら、このDVDを見せるのだろうか。それを見た子どもはまず最初に、「この変な人、誰?」と、上村のことを見て言うのではないだろうか。「あと、このおじさん誰?」と鎮西の叔父さんのことをさしてきっと言うだろう。その姿をさらに今野が、ドキュメンタリーとして記録するべきではないか。すると、孫にも見せることになるが、孫もきっと上村を見て、「こいつ、なんだよ?」と言う。代々それが続く。それを記録し続けけていったらどうなんだろう。
さて、4人が訪ねてくれた前日、というのはつまり、2月1日だが、私は取材のために相模湖に行ったのだった。左の写真はそのときのものだ。やけに天気がよく、暖かかった。冬の湖は活気がない。ほとんど人の気配はなく、湖に浮かぶボートに乗る人の姿もないし、ボートはさびしく水に浮かぶ。そのひなびた観光地という感じがきわめていい。土産物屋や射的屋があったが、それがいっそうさびしさを際立てる。ずっと演歌が流れていて、いやがうえにも、どこか遠い土地に来た気分を盛り上げる、というか、盛り下げるというか。さみしいなあ、冬の湖。だけど、景色はとてもきれいだった。日が湖面に反射してそれがまぶしい。相模湖駅はJR中央本線の高尾から一つ目だ。東京から神奈川に入ってすぐの位置になるけれど、そこにゆくには山をいくつか越えなければならない。相模湖駅のすぐ近くを国道20号線(甲州街道)が走っている。かつての街道沿いなのだろう、相模湖駅周辺の商店街もその寂れた風情がいよいよ人をさみしくさせる。よかったなあ、相模湖。東京からそんなに遠くはない。けれど、ここに来たら、ちょっとした旅をした気分になった。湖のほとり、そこにあるだめそうな食堂でラーメンを食べた。どこにでもあるような醤油ラーメンがここでは美味しく感じるのも奇妙である。

(12:30 Feb, 3 2008)

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