May. 10 fri. 「レンダリング中にこれを書く」
■それにしてもものすごく重い映像ファイルだ。レンダリング中。あしたの授業で使おうと思っているが、なかなかに手ごわい、といったぐあいの日々、大学の授業の準備は続く。
■大教室で開講している「サブカルチャー論」の授業でコンピュータから映像を出そうと苦戦した。結局、ケーブルの不具合があったので、大学の係の方に手伝ってもらって、ま、ケーブルを交換したらあっさり映ったわけだが、30分ぐらい無駄にした。おかげで、見せたかった映像・画像の半分を見せられなかった。しょうがない。機材を使った授業は、特に、コンピュータのプレゼンテーションソフトを使うと、映像や画像を次々に出すことができていいものの、トラブルがあったときはお手上げだ。そもそも、コンピュータが壊れないとも限らない。
■そういえば、「破壊神」ともいうべき人がいますね。なにかっていうとものが壊れる。ほかの人にはそんなトラブルはないのに、その人が使っていると、なんでも壊れる。洗濯機がだめになったり、携帯がだめになったり、その不可思議な力の意味がよくわからない。「破壊神」だろう。僕は、めったに壊さないのだが、こないだも書いたけど、HDDが壊れた。かたっと倒れたと思ったら、そんなに強い衝撃ではなかったにも関わらず、まったくデータを読めなくなった。参った。困った。データが消えた。一瞬にしてデジタルは消える。
■でも、「サブカルチャー論」はもう、ここ数年やっているので、だいぶ落ち着いたし、僕のなかの新鮮さも薄れている。去年からはじまった「演劇文化論」が面白くなってきた。まず、毎週「新聞形式」のレジュメを作っているのが楽しいし、そもそも、ただ「演劇」について語るというより、「領域を越境して演劇を考える」というコンセプトだから、そこにほかの文化が影響すること、それはたとえば「都市」が演劇になにを与えたかといった話になり、またべつのときは「音楽」と、では、演劇において「音楽」を使うとはなんのことか、それを原理的に考える、あるいは、映画、美術、建築、ファッション、サブカルチャーといった他分野、領域を越境しながら、それでも「演劇についてアプローチする」ことに強い興味を感じている。というか、その方法、どう越境したらいいか、逸脱したらいいか、その方法を考えることが面白い。
■僕はそういう人間ですので。演劇についてまるで人ごとのように語る。青山真治監督が僕の『牛乳の作法』の文庫本の解説に書いてくれたのは、「まるで門外漢のように書く」という言葉だったが、まさにその通りだと思った。だから演劇の世界では、はぐれ者あつかいされているように感じる。ま、いいんだけど。あ、演劇のことについてすごく腹立たしいことがあって、雑誌で発言するならちゃんと調べてからそうしろよと、曖昧な根拠と憶測だけで、適当なこと言いやがって。まったくあたっていないよ。残念ながら。飲み屋で話すならいいさ。うわさ話のレベルでね。それをさ、演劇の雑誌で堂々と発言する者と、それを許してる者が、なんというか、まったく残念だ。残念な人たちだ。お気の毒。ばかだなあ。ばかでお気の毒です。
■いまは「都市」のことを考えている。本にするからだ。もっと勉強しなければと思いつつ、時間が足りない。読むべき本がまだ無数にある。
■しかし、演劇と小説、創作にこそ力をいれないとな。俺、ほんとはそっちの人間なのだから。舞台は、劇場を押えるのに苦労し、まあ、今年は無理だという結論になったが、小説は個人的な作業だし、文芸誌の編集者からも声をかけていただいている。なんて幸福なんだろう。こんなに書かないのにまだ気をかけてくれるのだ。いいものを書こう。できることといったら、そうしたことを、ただ愚鈍にやってゆくこと。期待にこたえること。あるいは、なにかのためではなく自分のために書くこと。書くことを通じて発見すること。自分を理解すること。そんなたいした者ではないのだが、それでも、なにかあるんじゃないかと、まだ可能性があるかもしれないと、書くことを通じて見つけられたと、地味に考えているのです。
■ところで、ソローの『森の生活』の、テン年代的な、というか、「3.11以後」の読解があると私は考えているのです。ホイットマン、エマーソン、南方熊楠、といった自然思想について。「都市」における『森の生活』の実践は、坂口恭平君の考え方にも通じないだろうか。70年代のある時期、僕は田舎に帰って、そこでなにかを始めようと考えた時期があるけれど、なぜか、都市にまみれて、東京でしか生きられなくなってしまった。いや、作家だからな、どこにいたって仕事はできるはずなんだ。だが、テクノロジーの進化は「70年代的な自然思想」、もっというならヒッピー文化の実践も、また異なる姿で実現されるにちがいない。むしろ、ネットによって地理的な距離は縮まった。だから、3.11を契機に、ここからなにかが始まらないだろうか。
■週末の目標、落ち着いてものを考える。
(8:11 May. 11 2012)
May. 7 mon. 「五月も朝を過ぎて、もう」
■ゴールデンウイークというわりと長い休暇は仕事と部屋の片づけて終わってしまったものの、ただ、やったことのなかにはPC環境を整えるという、仕事にとっては大事だけど、ま、趣味の領域の作業があって、それは正直、愉楽だ。ずっと私は、Appleから新しいMacProが出ないか待っているのだが、いっこうに出る気配がなくて、でもまあ、5年ほど前のMacProで、重いPhotoshopをはじめとしたアプリケーションをさほどストレスなく使っているので、ま、いいかなと、いまのままでまだいいかと待っている。
■で、その代わりというか、新しいWindowsマシンを一台組み立てた。そこに、ある特別なカードを差し、あれこれやっているわけですが、これはあくまで大学の授業で使う素材を用意するための作業の一環だ。学生にいろいろなものを見せたいんだ。少しグレーなゾーンにある案件。ただ、言っておきますけどね、というか言い訳めくが、アプリケーションはすべて正規ユーザーだ。Final Cut Proだってきちんと登録してあるんだ。あるとき、映像をやってる人がそれをコピーさせてくれと言ってきたが、断固、拒否。そんな貧乏くさいことじゃろくな作品ができない。借金してでも自前で用意したらいかがか。コンピュータを使いはじめたころ俺は借金して買った。20年前になる。可能性を感じたからだし、PCの面白さを直感で受け取ったからだ(いや、べつに予言とか先見とかではなく、ただただ、面白そうという愉楽の領域)。Macで使ってるアドビもすべて正規、ってあたりまえのことを書いている。
■あたりまえじゃないか、そんなこと。
■ただなあ、高いよ、アドビ。寡占状態だからな。あこぎな商売だ。みんなフリーにしろ。
■で、PCというか、Windowsマシンのほうはグレーな領域に踏み込んでいるもののソフトはだいたいがフリーですからね。なんでもあるね、Windowsは。驚く。ハード方面だって、べつに万引してきたわけじゃない。ただ、設定が大変だった。正常に動くためにはいろいろ工夫が必要だ。といったことで苦労するのが楽しいからいけない。本来やるべき仕事が滞る。作家だってことを忘れている。この趣味がなにか仕事に生かせるだろうか。ただ、授業ではものすごく役にたつ。いろいろな素材を見せるのにMacとPCを駆使してどれだけ、面白いものを見せることができたか。「内田裕也問題」と題したキーノートのプレゼンは力を入れました。こんどの水曜日(演劇文化論)もいろいろ見せます。森崎東監督の作品のなかの、ある「風景」だけを見せよう。これ「都市空間論」でも見せる予定。
■そんな日々だ。さっきまで、「演劇文化論新聞」を作っていた。まあ、いろいろアプリを立ち上げているとIllustraterが落ちること。文章を苦労してひねりだしたのに、そこで「落ちる」って、腹たつなあ。誰にこの憤懣をぶつけたらいいかわからないのだが。
■静岡新聞のTさんにお会いして、『素晴らしきテクの世界』の取材を受けた。ありがとうございました。取材らしい話はあっさり終わったが、静岡のことについて雑談が続いた。「第2東名」が開通した。だけど、インターがたいてい山のほうにあって自分の家から遠いのが難点。一度は走ってみたいものの。話は「原発」のことから、さまざまな方向に飛び、途中、少し眠くなってしまったけど楽しく話ができた。楽しかった。
■そして、Tさんと話しているうち、彼女とは郷里も近いことがあり、それはつまり、浜岡原発に近いという意味になる。どうしたってその話になる。もしなにかあったらうちの母(独り住まい)の生活はどうなるのか。20キロ圏内のぎりぎり外側か。なにか重大な事故が起これば掛川の大半は住めなくなるだろう。
■演劇にしろ、小説にしろ、自分が書けること、自分の資質に忠実に書けたらいちばんいいに決まっている。まだこの歳になって、それがよくわからないのだ。技術だけで書くのはごめんだ。発見がなければな。書くことでなにかが見つかるにちがいない。何人もの人を待たせています。申し訳ないです。がんばります。このせっぱつまったような日々のなか、「こつこつ」は無理なので、なにか時間を見つけて一気にゆきます。『サーチエンジン・システムクラッシュ』はものすごい勢いだった。夢中になって書いた。集中した。書いていて楽しくてしょうがなかった。だからよかったんだ。
■どっちのほうに歩け出せばいいかわからない。
■でも、美味しいものを食べて、誰かに会って、笑い、興味深い話を聞き、ときとして怒り、少し先のほうへ歩き、どこかで不思議なものを発見し、目撃し、深夜に新宿のTSUTSYAでなにかの映画を借りよう。もうこんな時間か。さすがに眠らないとまずい。
(11:08 May. 8 2012)
May. 1 tue. 「再開。そして、考えるためのノート」
■これだけ更新していないと「日記」の書き方を忘れてしまった。文章もどんな調子で書けばよかったか記憶が曖昧だが、ソースのほうをですね、画像をどんなふうに貼るんだったかとか、サイドバーにある(右側ですね)、月ごとの「5」と表示のある画像(五月の意味ですね)や、バックナンバーの表の変更の仕方とか、思い出すのに時間がかかる。まずはそこからだ。
■それでもなんとかトップページを更新したりなどするうち、少しづつ思い出してきた。かつて、あれほど熱心にブログを書いていたのが嘘のようだ。なんだったんだ、あの熱意は。いまやTwitterのあの「140文字単位」に慣れてしまったし、そもそも、技術的なことなど考えず、ただ指定の位置に文字を打ち込めばいいだけの、あの簡易さだからこそ、あれほど広範な人に利用されたのだろう。苦労してタグなど細かく記入するのは意味がわからないが(なにしろ俺はこう見えても作家だし)、ただ、これはこれで面白い。たとえば、文字ひとつひとつ指定することでレイアウトやデザインをする「愉楽」は捨てがたい。
■ところで、Twitterをはじめてしばらくしたころ、僕のフォロワーが意外に多かったので(とはいっても、たいした数ではないが)、ある人から、「ただ長いブログを書くだけの人だと思っていた」という意味のリプライをもらったときは、ま、そりゃしょうがないと思った。そんなに派手には生きておりませんので。こじんまりと商っております。ときどき本を出します。ときどき小さな場所で少ない人たちを相手にトークや講義をしています。
■で、まあ、こうして思うところあって、ブログを再開することにした。Twitterだけでは書ききれないことがあるからだ。去年の四月もそうしようとした。長続きしなかったのはやっぱりTwitterの手っ取り早さがよかったからだな。ただ、Twiterは、過去を遡るのがさほど得意ではない。ブログはこうして整理しておけば、「記録」として、あるいは思考を書きとめておく「ノート」として整理されて保存される。さらに、「その考えたこと」をできるだけ多くの人に伝えたい思うのだ。あまりサービスにはならない。つまらない話かもしれない。なにしろ「記録」だし、「ノート」だからな。
■さて、「都市空間論演習」という授業をいま、早稲田でやっているが、それを書籍化する打ち合せがあり、白水社のW君、N君、そして、早稲田の理工学部で建築を勉強しているK君たちに会うため秋葉原に行ったのである。ま、もともと目的としてパーツ屋で買いたいものがあったから秋葉原に行き、だったらと、そこで会うことにした。買い物は不調。ひとつだけどうしても必要なものを買い、まだ待ち合わせの時間まで少しあったので、周辺を散策。散策というか、フィールドワークというか、ま、ただ歩いたのだ。秋葉原はまた変容している印象だった。駅周辺に高層のビルが建った頃から変化は大きかったわけで、なにせ、かつて(秋葉原駅周辺が再開発される以前)は少し休もうとしたって、カフェを探すのに苦労するような街だった。それがまた変わったという印象だ。一時期は観光地のようだった。この街に無縁のような人たち(かつては見なかったようなカップルとか、手ぶらの人……なにせ、秋葉原の人たちはたいてい荷物が多い)が、物珍しさで集まるようなところがあった。変わったな。以前の状態に戻った気がする。男だけのグループが目立つのも秋葉原の特殊性。悪いわけではないのだ。
■とはいうものの、僕はここにどっぷりはまるようなこともなく、必要だから来ることはあっても、特別な感情はない。ただ、「都市空間論」について考えるとき、たとえば、「再開発後の六本木」という、「ゼロ年代以降に出現した文化圏」が、(そう簡単にまとめていいかわからないが)ネオリベの象徴とするなら、対抗する「街区」としての、「高円寺」と「秋葉原」には、好き嫌いとは関係なく興味を抱く。これも都市論として外したくないところだな。六本木ヒルズ、ミッドタウンの再開発でなにが消えたか。たとえば六本木のイメージを変えるために風俗店を立ち退かせたという話を聞いたことがある。そこらを資料的にはっきりさせたいと思う。というのも、都築響一さんの『東京右半分』の、あのディープな「街への介入」が人の興味をひくのは、そうして都市からノイジーなものが消されてゆくからこそ、なおさら特別なものとして見えてくるからで、六本木に限らず、「街」にはもっとあったはずなんだ、得体の知れない世界が。
■打ち合せは「アキバトリム」という阪急のビルに入っているレストランだった。この四月からはじまった授業は、もう四回が終り、最終回が「まとめ」で、都合、10回分の授業で話す内容を、W君がまとめてくれた腹案をもとに詰めて行く。今年中には刊行されるかもしれないが、それはまだ、まったくわからない。
■久しぶりに「富士日記2.1」の更新だ。そのあいだに、『トータル・リビング 1986-2011』という舞台をやり、そして僕の日々は、ほぼ大学の授業の準備だったけれど、それはそれで面白い。いまは授業で配布するレジュメを新聞形式にデザインするのが、ま、趣味になっているわけだが、日々はこうして過ぎてゆく。ほかにも書いておくことはあるがきょうはこのへんで。少しずつ書いてゆく。持続しないと意味がないからな。たった、3行ぐらいの日があってもいいはずだ。これは考えるためのノートだ。
(0:50 May. 3 2012)
4←「2011年4月後半」はこちら