富士日記 2.1

May. 15 thurs. 「カメラの話など」

よくわからない牛の置物

つい先日、うちに早稲田の岡室さん、坂内さんが、カメラを携えてやって来たのだった。毎年、表象メディア論系の紹介をかねたパンフレットを作ることになっている。ポートレートと「わたしの一品」的な写真が添えられ教員がそれぞれ紹介される。で、僕は「うちにある牛の数々」を紹介することになったが、好きで集めているというより、『牛への道』が出版されて以来、いろいろな人から、なにかと牛のグッズをもらうのだった。だから仕事場にごちゃごちゃと牛がいる。左の写真もそのひとつで、岡室さんが撮ってくれた。とてもいい。二人が写真をばしばし撮っているのを見ていたら僕もカメラがほしくなったけれど、うーん、こういうことをしはじめると、つい凝って散財してしまいそうだし、道具をあれこれ揃えたあげく、揃ったところで飽きるような気がする。飽きるんだよ、俺は。
でも、この牛の写真は対象にかなり接近してマクロレンズで撮ったのだと思うけど、やはり簡単なデジカメとはわけがちがう。レンズがね、いろいろ取り替えることでまた写真も変わる面白さを感じる。いいな。ただ、デジタルの一眼レフカメラはかなり重そうだ。問題はそこである。まずカメラを持ち歩くだけで疲れる。肩がこる。かばんにしまってあるとして、なにかを見つけたとき、さっと取り出そうと思った途端、下に落としてしまわないだろうか。カメラの魅力はつきない。写真ができたときのこともそうだけど、機械としての面白さがある。あと、岡室さんと坂内さんが、しばらく撮影したあと、撮ったものを確認するのにカメラに付属するディスプレイを見ている姿勢が、不思議なのである。最初、じーっとうつむいているからなにかと思ったよ。デジタルカメラが人のからだをまた異なるものにする。面白かったな。
この牛は古道具屋にあったものだ。古びているが鋳物で作られており、持つとずっしりと重い。しかも、台座になっているところに刻まれた文字を読むと結婚式の記念に作られたのがわかる。いったいどんな結婚式だったんだ。不思議な牛だ。あ、そういえば、重量のことでいったら、白水社のW君がMac Book Airを持っていたので触らせてもらったら、これがまた軽い。薄い。これならどこにでも持ち運びができるだろう。さまざまなものが進化してゆくなか、重さといったものに人は支配される。カメラもそうだし、コンピュータも。しかし、あの重い、PowerBookを持って俺は全国いたるところに行ったものだとつくづく思う。ニューヨークにも行ったしな。重かった。なんという重さかと思いつつも、便利には勝てないというか、デジタルなデータには勝てないというか。なにしろ複製や加工が簡単だし、そのことを思うと文章もまた、いきなりキーボードを使って書くことの便利さに負けるのだ。

といったわけで、「サブカルチャー論」のための素材を作るのが面白くてそれに夢中になっていたのだ。きょうで第六回目になった「サブカルチャー論」だが、この授業でなにを語るかといった概論のような話をしたという、それ、第一回目にやるべきだったんじゃないかってことを、いきなりやりたくなったのである。行き当たりばったりの授業。でも、だいぶ授業にも慣れ、話したいことがいくらでもある。素材を集め、それをプレゼンテーションソフトでまとめる作業の、その構成のようなものを考えるのは、いまや私にとっての愉楽になった。で、KeyNoteを手探りで使っていると、こんなことができるのかといろいろ発見があってそれも楽しい。講義をするために学ぶことも多く、せっせとノートにまとめてゆくと、それが講義だけではなく創作にも反映するだろうと思え、読むべき本はまだ数多くある。私は研究者でも、批評家でもないが、しかし、そうして考えていることが創作への刺激になるはずだ。いまやっている「サブカルチャー論」で、中学生のときにはじめて耳にした、ジミ・ヘンドリックスやニール・ヤングをあらためて聴き返すだけで、なにか喚起されるし、あるいは、ボブ・ディランの詩を読み直すと、それがまたべつの視界を開かせてくれるように思える。
そのことのすべてが創作に反映する。あれは中学生のときの、ラジオから流れてくる音楽だけで意識のどこかが覚醒したような、なにか沸き立つものがからだのなかに生まれたときのように、いまあらためて新鮮な気分になっている。

(8:32 May. 16 2008)

May. 14 wed. 「プレゼンテーションソフトのこと」

多摩美上野毛キャンパス

多摩美のキャンパスは環八沿いにあって教室の外がクルマの走行音でうるさいったらない。いちおう、「戯曲・シナリオの書き方」を教えることになっているが、この数回は戯曲を読んだ。二コマ連続の授業だが休み時間なし。ひたすら読んでは、途中、僕がいくつか、作家としての読みのアドヴァイスをする。そこから書くことへのヒントになるようなことを話して、それが授業の主な意味である。だが、学生からは「一人で読んだほうが集中する」とか、「家で読めばいいんじゃないですか」と、あたりまえのことを言われる。いちおう僕もプロなのですが、プロと一緒に戯曲を読むことについてわかっていただければと思うのだが。
それで授業の終わりにぜんぜん授業に出てこない学生が来て、「戯曲を読む授業に出る気がしない」と言われ、さらに単位の話になり、「父親が怖いから単位がほしい」というが、知らねえよ、そんなこたあ。こういうときの学生の雰囲気は、京都造形芸術大学の学生とよく似ており、早稲田とはかなり異なる。それはそれで面白いものの、めんどくさい。といったわけで、戯曲を読む授業に出席できなかった学生の救済措置として、「家で戯曲を読みレポートを書く」という課題を出そうと思う。なんでそんな親切にしなくちゃならないんだよ、大学で。

さて、プレゼンテーションソフトについて書いたところ、僕のワークショップに出たことがあるというS君という人からメールをもらった。

「富士日記2.1」でプレゼン用ソフトについて書かれていましたが、ニフティの「Daily Potal Z」というコンテンツに「どうでもいいことをプレゼン資料にする」という記事があり、ばかばかしくておもしろいです。

 あ、それは僕も考えていたことだった。図とか、表とかを使ってほんとにどうでもいいことをやると面白いだろうなと思っていたのだ。で、その「どうでもいいことをプレゼン資料にする」はこちらである。さらにS君はこう書いている。

ところで「Daily Potal Z」というコンテンツは、毎日ライターがばかばかしいけど興味を引く記事を配信していて、ビュー数は非常に大きいようです。個人的によく見ているコンテンツですが、かなりウェブマスターとライターの自由度が高いと感じています。ページ内に広告の掲載は殆どなく、ニフティのサービスへの導入口でもないようなので、営利企業であるニフティとしては表立った利益には結びついていないようです。一見、企業内にあって利益を無視して好き勝手に活動しているように見えるのですが、5/2に書かれていた「能動的なオルタナティブ」の一例と呼べるでしょうか?

 どうだろう。「Daily Potal Z」は僕もときどき読みにゆくのだけれど、その面白さはたいへん興味深いものの、「能動的なオルタナティブ」とは少しニュアンスが異なるかな。きわめて良質な「読み物」というコンテンツだとは思うが。そこらへんの線引きは少し厳密に考えないとよくわからないことになりそうだ。というか、はっきりした「能動的なオルタナティブ」の定義がまだないから、判断の基準が曖昧になる。それもまた、「サブカルチャー論」の授業を進行しながら考えてゆこう。

(7:59 May. 15 2008)

May. 13 tue. 「小説も少し進み」

早稲田の研究室の窓から

月曜日(12日)は、昼間、「新潮」のM君に会って、書けたところまでの小説を渡した。約三分の一。少しずつでも書かなくては。一八〇枚ぐらいの小説になる予定だ。そういえば、『返却』を発表した直後に朝日新聞出版社のOさんに会ったとき、「長ければ長いほどいい。長いものを読みたい」と言われたが、その根気が続かない。いつかこれでもかってくらいの長い小説を書こう。
小説で思い出したが、新聞によると、小林多喜二の『蟹工船』がいま、読まれているという。驚いた。だってプロレタリア文学だよ。新潮文庫はやけに売れるので五万部増刷したという。僕が読んだのは中学生くらいだったかな。ほかに多喜二の小説に『東倶知安行』という小説があるけれど、中学生のわたしにはこれが、「ヒガシクッチャン」と読めなかったのだ。まあ、それはともかく、いま書いている小説に集中だ。大学の授業のための準備は忙しいが、そのあいまをぬってこつこつ書くことにする。
その日の夜、講談社から出ている「KING」という雑誌の取材を受ける。サッカーの話をするのがテーマだったけれど、ヨーロッパのサッカーを中心にインタビューされ、そんなに詳しくないので、話が、弾まない弾まない。場所は恵比寿のサッカーバーだった。最初に撮影があったけれど、店の天井から吊されたモニターでサッカーを観ているわたしという図だが、小道具にビールを置かれ、それがまたね、知っている人が見たら嘘だってわかるような写真である。だって、アルコールがぜんぜんだめだし、俺。でも、ヨーロッパサッカーの話は盛り上がらなかったものの、なにか楽しかった。編集者の方たちも、ライターさんも、いい人たちだった。いい時間を過ごしたのだった。

で、早稲田の個人研究室に少しずつ本を運び込んだのだった。とにかく家の本棚がだな、いよいよ限界になってきたので、ずいぶん助かる。とても落ちつく部屋なので、授業のないときも研究室に行き仕事をしようかと考える。朝九時に研究室に行って夕方に戻ってくるっていう、これまで、わたしの生活においてなかったようなことをしたいと思ったのだ。大学の図書館も使えるし。早稲田の図書館は充実している。ただ部屋は禁煙である。そこがな、いろいろむつかしいところではあるのだが。
授業のために、アップルが出している「Keynote」というプレゼン用のソフトを最近になって使いはじめた。そもそも、マイクロソフトの「PowerPoint」だって使ったことがないし、プレゼン用ソフトの話題はちょくちょく聞くものの、どんなことになっているのかまったく知らなかった。で、手探りで操作を覚えたら、これがけっこういい。小説を書くのも大事だが、いま、「Keynote」で素材を作るのが面白い。これを含めての、実践としての「サブカルチャー論」だ。研究者とか、批評家ではないわたしとしては、こうしたことを通じて実践としての「サブカルチャー」というか、このあいだ書いた「能動的なオルタナティブ」に、少しでも近づきたいと思っているのだ。だからって学生におもねるのではなく、講義を通じて伝えることは伝えたい。これまでとは異なるサブカルチャーの視座を見つけたいのだ。そのためにも、授業の準備と学ぶことは大事になってくる。

(9:18 May. 14 2008)

May. 10 sat. 「Baby I Love You So」

また更新が一週間、滞ってしまった。大学は忙しい。というか、家に戻るとぐったりして、このノートを書く気にならないのだった。それでも少しずつ小説は進んでいる。「SHOP 99」の「店長」のニュースに驚愕したが、たとえば、その件についてネットで調べると、「それくらいの残業は普通だろ(引用者註:あきらかに普通じゃないが)」とか「自己責任で管理しろ」とか「マクドナルドの件があってそれに便乗した訴訟が増える」「就業時間の表を見て笑った」などと掲示板に事件を揶揄した書きこみがある。揶揄にしてもだ、本質からずれた揶揄なので、なにを事件から読み取っているのかといらいらする。
そして、「ミャンマー(=ビルマ)」の軍事政権は十万人の死者が予想されている惨憺たるサイクロン被害のなか国民投票を実施するという。軍事政権を承認している日本政府は、胡錦涛の来日にもべつになに食わぬ顔で応じているが(ビルマとチベットの問題は同じ文脈では語れないが)、ともに日本政府に異義を申し立てるべきだろう。とりあえずサイクロン被害に対して支援することが日本政府の急務。支援を軍事政権が拒否するというニュースはいよいよ腹立たしい。
そんな日々、こんどの月曜日に取材を受けるし、頭をさっぱりしようと思って、いつもの髪を切ってもらう店へ。そのとき店に、COLOUR BOXの『Baby I Love You So』が流れたので、「あ、この曲」と髪を切ってもらうムラオカさんに話をしたら、話が弾み、その元の曲になっているジャコブ・ミラーの同名曲が入っているCDを貸してもらった。そのCDは、オーガスタス・パブロなどの曲も入ったコンピレーションだった。パブロもとてもかっこいいが、とりあえず、ジャコブ・ミラーの『Baby I Love You So』を。

 それでこちらが、COLOUR BOXの『Baby I Love You So』。

 ジャコブ・ミラーと言えば、映画『ロッカーズ』の主題曲も歌っている。二十年以上前に舞台で使った。

 その後も音楽のことなどで話が弾む。頭はさっぱりした。久しぶりにゆったりした気分になった。

大学の「都市空間論」で秋葉原をフィールド・ワークした学生たちの発表で(内容的に甘い部分があるものの)アニメーションを使っているのがよくできており、それがまた、「秋葉原らしさ」を醸し出していて面白かった。そして僕は、さらに「サブカルチャー」について考えている。今年のテーマはこれだ。「ストリート」だ。それがしいては創作になんらかの刺激になればと考える。「サブカルチャー論」の授業は、どうやって進めると、それ自体が、すでに書いた「能動的なオルタナティブ」になるかを考えている。コンピュータを駆使してもっとできることがあればと考える。もっとなにかあると創造性を、実作者が大学で教えることの意味がそこにあるだろうし、そうして考えていること自体が面白くてしょうがない。それこそが実践だ。作品だ。
また次の更新は一週間後だろうか。短めでもいいから持続したいと思うものの。

(8:45 May. 11 2008)

May. 2 sat. 「能動的なオルタナティブ」

「サブカルチャー論」でトーキング・ヘッズの話をしたのは木曜日(5月1日)のことだが、そこで、デヴィッド・バーンの次の映像を見ていたら、ボクデスの小浜とか、明和電機の土佐さんといった人のことを思い出した。なにか共通するものがある。体形が似ているのかもしれないけれど、それだけではなく、からだが内包しているもの、それを言葉にするのがむつかしいが「テイスト」といった種類の気配とでも言うか、ある傾向の趣味とでもいうか、あるいは思想かもしれないなにか。

 それはともかく、現在の「サブカルチャー」を考える上で基本的に了解しておくべきことは、『サブカルチャー真論』のあとがきに宮台真司さんが書いている次のことだ。

メインカルチャーの一枚岩ぶりが崩れ、メインとサブの対立に意味がなくなる。併せて、かつてのカウンター的なものが消費アイテム化し(ロック音楽など)、ハイカルチャー的なものも単なる消費ジャンルへと横並び化した(クラシック音楽など)。

 この「横並び化」のことを「二〇〇〇年代日本のサブカル状況」と呼ぶべきか。それに続けて宮台さんは、「八〇年代半ばまではそうではなかった。サブカルチャーの享受には、単なる娯楽や享楽を超えた『社会的現実についての認識の共有や交換』という側面が、一部とはいえ相当な規模の送り手や受け手において、根強く存在した。」 「その意味では、メインとサブの対立が明瞭だった時代、またはローブロウ(大衆文化)とハイブロウ(芸術)が明瞭だった時代の、文化的表現の授受をめぐる機能が、八〇年代半ばまでは、全てが横並び化したように見えても、辛うじて継承されていたのである。 」と書く。だからこそ、『八〇年代地下文化論講義』において、八〇年代の特色としてあらゆるものの「差異化」について語ることができたし、ヒエラルキーの構造を解きつつあの時代を考えることができたのだろう。すべては、「横並び」になってしまった。誰が、なにを好もうと、なにが好きだろうと、すべては「相対化」され、誰も問題にすらしない。
かつて「相対化」は「権威的なものを無化」するための強力な方法だったはずだ。だがすべてを「相対化」してしまった先に見えたのは、「打ち捨てられジャンクになった記号の堆積」という惨憺たる光景ではなかったか。それが僕には「廃墟となった遊園地」に感じられた(だから、「遊園地再生事業団」は、その廃墟を「再生」しようという意味においてある)。「相対化」によって、「権威的なるもの」ではなく、ものが内包するであろう「価値そのもの」もまた無化され、そこでは批評軸も、価値判断も、なんの意味もなくなったとしたら、「価値」とはなんだろう。「表現領域」における、語るべき「価値」はなにか。人がそれぞれに抱く趣味だけの主観的な基準だけが「価値」だとしたら、そこでは、なんの衝突も生まれず、ただ曖昧にされた「趣味集団」の、「内閉する連帯」だけが、それこそ「横並び」になっているとしか考えられない。
だから、またべつの「サブカルチャー」について語りたい。それは能動的なオルタナティブとも呼ぶべきものでありたい。『路上のエスノグラフィ』(吉見俊哉。北田暁大編 せりか書房)で引用されるハワード・ベッカーの次の言葉は示唆的である。

 社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人びとに適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。

 つまり「逸脱」は所与のものとして、あらかじめ前提としてあったのではく、「支配的な社会集団」によって「それが逸脱だ」とレッテルを貼られてはじめて、「逸脱」として存在させられたということだ。そして、本書(『路上のエスノグラフィー』)はそれを受け、「都市のサブカルチャーが、社会の適応の問題を抱えた逸脱集団の文化というよりも、『逸脱』のレッテルを貼る支配的な文化の諸価値に疑問を差し挟む可能性を孕んだ集団的実践として理解されている」と語る。たしかに、サブカルチャーによる、「支配への対抗」としてあったはずのロックもレゲェも、いまではすっかり「消費」の対象になっているが、そうした現象を後追いするだけではなく、現在をあらためて見つめて吟味すれば、「支配」の原理、その「支配層」によって「逸脱」のレッテルを貼られた者による、オルタナティブはそこかしこに生まれているし(たとえば、高円寺の「素人の乱」の文化的な活動など)、「二〇〇〇年代日本のサブカル状況」から、まさに「逸脱」した「サブカルチャー」もまた、存在しているにちがいない。
かといって、過去に戻るような硬直した文化状況とも異なる。能動的なオルタナティブには、それこそ、「グルーブ」がなければだめだ。それというのも、『八〇年代地下文化論』で引用した次の言葉、

 われわれが批判すべき相手は、なにかをつくりだそうとする欲望を資本の流れへとすべて回収し、還元しようとするあるおぞましい制度であり、その欲望そのものではない。そして、仮にその欲望が資本と微妙な共犯関係を結んでいるからといって、欲望そのものをすべて否定してしまうのは、やはりいきすぎである。われわれが求めているのは、ロックもレイブもアニメもマンガも存在しない、知的シニシズムだけが支配するような、退屈な世界ではないのだ。(上野俊哉/毛利嘉孝『実践カルチュラル・スタディーズ』 ちくま新書)

 それがここでも有効であり、能動的なオルタナティブを背景にした「サブカルチャー」は、「おそぞましき制度」や、「逸脱というレッテルを貼る者」らと同様に、「知的シニシズム」からも距離を置くべきものだからだ。で、「能動的なオルタナティブを背景にしたサブカルチャー」と書いたそれは、安易に「ポップカルチャー」を持ち上げることからも遠ざかりつつ、「知的シニシズム」とも距離を置き、旧来の「サブカルチャー」や「サブカル」とも異なる意味を持たせるために、なにかべつの言葉を必要とする。それを考えてゆくのが、いま早稲田でやっている「サブカルチャー論」になるだろう。そのための実践があの授業だ。というか、そこに興味があるから、俺はそれをやっている。きっと同じようなことを考えている人がどこかにいるのではないか。もしかしたら、どこかの街のストリートで、能動的なオルタナティブはすでに活動しているのではないか。

いよいよ本格的な連休に入ったらしい。このあいだも書いたけれどこちらには関係がない。小説も少しずつ進行しているけれど、「サブカルチャー論」と「都市空間論」について考えているのがいまは私の快楽だ。

(4:47 May. 3 2008)

4←「二〇〇八年四月後半」はこちら