富士日記 2.1

May. 30 sun. 「ジャパニーズ・スリーピング・当日パンフの文章」

もう五月が終わります。なにか書かなくてはと思うものの、忙しくてなかなか更新ができないまま、ブログはほったらかしになっているし、ツイッターもそれほどつぶやかなくなっていました。まあ、舞台のことばかり考えていたからですが。
そこで、『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』の当日パンフに載せた文章を、劇場に来られなかった方のために記録しておきます。いま、ふと、こういう手があったと、気がついたわけで、当日パンフの原稿って、考えてみればものすごく書いてきたけれど、まとめてなかったし、たしかに、当日劇場に来ていただいた方に読んでもらうのが主旨ですから、それでいいのですが、たまたま、まあ、たまたまですね、来られない方もいらっしゃるだろうと思えば、記録しておくのもいいことかと、そう思ったわけで、舞台について考えていることの一端を少しでも理解してもらえればと思って、ここに再録します。

 
【当日パンフの文章】 気がついたら2010年になっていたことの驚きは、ようやく言葉として定着した感のある「ゼロ年代」が終わっていることに気づいた動揺のことです。それは不意の出来事です。なにしろ、「ゼロ年代」と呼ばれる十年のあいだに〈遊園地再生事業団〉は、『トーキョー・ボディ』『トーキョー/不在/ハムレット』『モーターサイクル・ドン・キホーテ』『ニュータウン入口』の、たった四本しか公演をしなかったのですから。活発な集団なら一年で上演するほどの数でしょう。あっというまに時間は過ぎていました。なにをしていたのかよく思い出せません。記憶にあるのは、そのあいだずっと、うつむいてなにか考えごとをしていたことです。
 顔を上げるとあたりの光景はずいぶん変化しています。
 見知らぬ人たちがさまざまなスタイルを発見し、新しく、きわめて興味深い表現のそれを手に、次の時代に向け、ゆっくり準備しているように見えます。それはとても刺激的な姿です。手によくなじんだ、それは万年筆かもしれないし、キーボードかもしれないし、まあ、筆記具に限らず、携帯電話やiPhoneでもいいのですが、なんにせよ使い心地のいいものから遠ざかり、またべつの〈それら〉を手にしたい。見つけだすのは容易ではないでしょう。かつてなら、よく動き、大声を上げ、走り、転び、壁に頭をぶつけ、人と言い争ってそれを見つけようとがむしゃらになったけれど、いまはやはり、腕を組んで、うつむき、ただ考えるしかありません。そんなふうにしかできないからです。うつむき、ゆっくり、そしてたまに顔を上げたい。そのとき見えるものが楽しみです。また新しい光景に出会えるかもしれません。というのも、きっと私も、また変化しているからで、それはこの二十年同じ繰り返しでした。
 そうだ。忘れていましたが、〈遊園地再生事業団〉は活動をはじめて今年で二十年になります。なんとなくだらだらやってまいりました。よくやってられたと不思議でなりませんが、新しい制作体制になり、これからもさらに、というか、これまで以上に活動を続けてゆくつもりです。
 うつむきながら、なにか考えごとをしている者など、はたから見てもたいして面白くはないでしょうが、ぶつぶつなにか口にしている言葉を聞いてもらえたら幸いです。それが表現ですから。考えることそのものが、〈遊園地再生事業団〉ですから。

 以上です。リーディング公演いらっしゃれなかった方も、どうぞ、10月の本公演に足をお運びください。いやもちろん、リーディングを観られた方もぜひ。リーディングとはまた異なる舞台になっているでしょう。

(11:29 May. 31 2010)

May. 12 wed. 「伊藤整文学賞をいただく」

まったく予想していなかったことが起きたのである。
「伊藤整文学賞」の評論部門を『時間のかかる読書 ─横光利一『機械』をめぐる素晴らしきぐずぐず』で受賞した。
しかし、刊行された去年の11月、もっというならゲラを直していた夏にも、いわんや連載をはじめた12年ほど前にそんなことなど想像もしていなかった。するわけがないけど。本が出たときは、これが刊行されること自体うれしかった。河出書房新社のT君に感謝したものの、まあ、書店に並び、人の目に触れ、読んでもらえるだけでうれしかったのだ。いくつかの書評も出た。朝日、読売、毎日に書評が出たときは、T君が「三大紙制覇です」とメールを送ってくれ、それもまた素直にうれしかった。なにしろ、原稿用紙にしたら50枚程度の小説『機械』を11年と少し、長い時間をかけて読むという、きわめて愚かな読書を黙々と続けていただけで(もちろん、連載を続けさせてくれた朝日新聞出版の「一冊の本」の編集部と担当のOさんに感謝しているが)、いったいこんなことをしてなんになるのかとすら考えていた時期もあったのだ。

まあ、その日、というのは五月十日ですが、いろいろあったとお考えください。いろいろあって、河出書房新社のT君と僕は日本料理屋で食事をしていた。美味しかった。T君はビールを飲んでいたし、会話もはずみとても楽しい会食だった。
一時間半は経っていたと思う。トイレに行くので僕は席を外していたが、戻ってくるとT君が携帯電話で誰かと話している。そして、右手で、OKサインのようなものを出している。これはいったいなにが起ったのかといささか奇妙な気持ちになっていると、T君が電話の向こうに、「はい、いまここにいます。出られます」とかなんとか言っている。なんのことかと思って電話に出ると北海道新聞の方だった。伊藤整文学賞は北海道新聞が後援しているというのはあとで知ったが、伊藤整文学賞を「評論部門」で受賞したとのこと。なんだって。「お受けいただきますか?」と問われ、「もちろんいただきます。もらえるものはなんでももらいます。くれないなら盗んででももらいます」とはもちろん言わなかったが、ありがたく受賞させていただいたのである。
まさかなあ、「評論」として『時間のかかる読書』が読まれるとは思わなかった。でも、うれしかったな。なにより、長いあいだ担当してくれた朝日のOさん、そしてあれを単行本にしようと考えたという、冒険家かおまえはと言いたくなるような、河出のT君に恩返しができた気分になったのだ。二人がいなければこんなことはそもそもありえなかった。

その後、「文學界」のM君、というのは、10年前のこと、『サーチ・エンジン・システムクラッシュ』で芥川賞の候補になったとき、賞の担当の仕事をしており落選者に電話する係として「残念でした」と僕に電話をくれたその人だ。今回はお祝いの言葉をいただいた。そして、「次は小説で」と声を掛けてくれた。すぐあとに、「新潮」の編集部からも電話をもらい、担当のKさん、M君と話をする。やはり話題は小説のことになって、もちろん小説を書くのはなにも賞を取るのが目的ではないものの、受賞の直後だったので、こちらもやはり長いあいだ待っていてくれたことに恩返しができればなと、まあ、ものすごく売れてですね、村上春樹ぐらい売れればそれも恩返しでしょうけど、それ、あまりに現実的とは思えない。そしていま書いてる小説の報告。あと少し。もうちょっとで書ける。
さらに母親にはこちらから電話した。まず「伊藤整」という人の説明からしなくてはならないのだ。岸田戯曲賞を受賞したときなんて、「へえ」って、なんにもわかってもらえなかったから、今回は丁寧な説明が必要である。あとで、ツイッターを読んだら、掛川に住む従兄弟が書き込みをしており、彼はすでに受賞を知っていた。母に送った『時間のかかる読書』を従兄弟は借りていたという。僕が母に電話したすぐあとだと思うが、「伯母さん(つまりうちの母)から本を返せと電話があった」とつぶやいている。笑ったなあ。
朝日のOさんにも電話した。よころんでくれてよかった。さらに、今回の舞台(10月本公演の『ジャパニーズ・スリーピング』)の制作をしてくれる笠木から電話があり、というのも、僕がすでにその段階でツイッターに受賞の報告をつぶやいていたからだが、お祝いの言葉をもらう。僕以上に、なんだかわからないが笠木が興奮している。ありがたい。

ツイッターやメールを通じて、お祝いの言葉をたくさんいただいた。ありがとうございます。青山真治さん、高橋源一郎さんからも、言葉をかけていただき、とても感謝した。しかも、このところ毎日読んでいる高橋さんの『「悪」とたたかう』メーキングでその夜、受賞のこと、『時間のかかる読書』の11年にわたる読みの愚かさとその意味に触れていただき、それもうれしかった。
こんなとき、僕が酒が飲めたら、T君とこのまま一晩中祝杯と称して、飲み明かすんだろうけど、意外にあっさり食事をすませ、そしてがっちり握手して別れたのだ。なんだかちょっと悪いことしちまったな。飲めなくてもいい、むしろ、T君が飲むのにつきあえばよかった。で、家に帰ったものの、なんだか落ち着かない。iPhoneをチェックするとツイッターでお祝いの言葉がどんどん送られてきた。ありがとうございました。ほんとうにうれしかったです。
そしてこのあと、さらに夜は続くのだが、それはまた書くことにしよう。久しぶりに「富士日記2.1」を更新しました。なかなか時間がないですし、必要なこと、公演情報など、なにか伝えたいことはツイッターに書きますのでそちらをチェックしてください。とはいえ、やっぱりここも書こう。ツイッターではぜったい伝えられないことがある。この長さだからこそいいことがある。

また近々、更新します。とりあえずですね、私はいま、小説と戯曲の執筆で必死です。そして大学の授業だ。あちらこちら命がけ。

(8:32 May. 13 2010)

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