Apr.29
【コラム】
ノートのテーマとあまり関係のないことを書くので、ここはコラムということにする。『バッファロー '66』という映画に出てくる女のことだ。
かなり太っている。やけにセクシーな服を着ている。まだ高校生くらいに見える。ダンスを習っているらしい。だが、ストーリーのなかで女のことはなにも説明されない。女優はこの役を与えられ、「これはどういう人物なのでしょうか」と、旧来の演技体系で思考するなら監督に質問したのではないか。
だが、なにも説明されないことこそ、僕には面白かった。
なぜあの女は誘拐としか考えられない状態で主人公の男に連れ回されるのに素直についてくるのか。なぜあんなに主人公に親切なのか。家に帰らなくていいのか。そんなにスカートの裾を気にするくらいならもっと長いスカートをはけばいいのではないか。親は心配していないのか。仕事はなにをしているんだ。わからないことはいろいろあるが、「そういう女」としか考えられず、かといって、「謎の女」というような、「いかにも」な人物でもない。ごくふつうの女の子だ。説明のない、わけのわからないことがより女の魅力になっている。
そういう脚本である。
しかも、観客は想像する自由を与えられる。
では、女優はどうすればいいのか。「旧来の演技体系」なら、演技するための手がかりがないということになる。だが、「演技」にしろ、「役」とか、「脚本上の人物」なんてものが、俳優の外側に客観的に存在しているわけではないのだ。A地点に俳優がいて、B地点に「役」があるからそこに接近するということではない。
その、「接近」のことを僕は、「芝居する」と呼ぶのだろう。
旧来の演技体系には、「あて書き」という言葉が存在する。役者にあてて書くというやつ。それは、やはり、「役」が俳優と距離のある場所にあるという考え方が前提になっている。そんな前提はない。そんなものはない。だからそもそも、「あて書き」なんてものも存在しない。もし、俳優のことをそのまま書いた人物が脚本にあったとして、俳優は舞台上でそれを生きられるか? 無理に決まっている。いわゆる「素でやる」というやつになるが、「素」のままで観客の目にさらされる場所に存在できたら、そいつは天才か異常者である。
つまり、「役」があらかじめ身体の外側に存在するのではなく、「身体から存在させる」といってもいい。それを見事に女優は表現していたように見える(無自覚だったのかもしれないが)。だから魅力的に見えた。そういう演出だ。だが、問題は、そういった演出や脚本、これでいいという俳優の存在を成立させているものがなにかだ。
【桜井圭介君のメールのこと】
先に紹介した桜井君のメールのことで、その後、いろいろ考えた。ここに文章を書いてはみたのものの、だが、もうひとつはっきりせず、書いては消し、消しては書きとくりかえす。
どうもまとまらないのだ。
七〇年代以降のポストモダン状況と、その後の反動のことなど、なにか考えがまとまりそうでまとまらない。また異なる切り口が出そうで出ない。もう少しゆっくり考えようと思うのだった。
ただ、その状況のなか、「だから『この場所』での表現は『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』をこそ切り取らねばならない」としたらそれはどのような表現になるか、正直、それがわからないのだ。自分のやっていることが正しいのか。もっと、想像もしていなかったような表現がある気がしてならないと書いてもいい。「いまの身体」と書いたそれが、まだ僕が認識できる範囲にあるとすれば、完全に、「近代」と切れているとも思えず、ともすれば演出の段階で、「旧来の演技体系」の単なる変形に「いまの身体」をあてはめている気もする。
なんだか、近代はぶあつい。
「『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』を切り取る表現」
それはどんな姿をしているのか。「いまの身体」をきちっと理解できていないのかもしれない。
【ワークショップ、野口体操、リラクゼーション、そのほか】
北九州のTさんからもまたメールをもらった。それから、何日か前に僕が書いた、「プログラミングの技術をこそ教えるべきではないか」というアイデアに関して、Nさんは、「プログラミングできる者と、そうでない者がいるのではないか」と書いていた。さらに、Hさんは、「地域活性化と演劇」という大義名分はどうなのかという話を書いてくれた。
それらも検討したいが、かなり以前、どうやら劇団をやっているらしいSさんからいただいたメールを紹介したい。
「野口体操といえば、私も劇団の稽古でつかうのですが、『役者を床に寝かせて、力が抜けているかどうかかるーくゆすってみる』(野口用語で『寝にょろ』)をやろうとしたところ、なぜかマッサージタイムになってしまい、『あーきもちいい、あしのうら押してー』とか要求されるようになってしまいました。しかしながら身体のかたい役者(正確には役者志望の人)という存在は、芝居を上演するにあたって非常にやっかいな存在で、なんとかしてリラックスして、まっすぐに、舞台にたってほしいと願ってしまうのも現実です。で、もともと柔らかい人は、わざわざ自己解放とかする必要がないような人です。私の疑問はいつもここで迷宮入りになるのです」
そう。いくら訓練でリラックスしたところで、かたい者はかたい。むしろ、まじめに野口体操に取り組むような人、僕がしばしば書く、「できる人」は、なぜかかたくなるからやっかいで、そういうことがばかばかしいと思って「できない人」のほうが、「やわらかい」、つまり、Sさんの書く、「自己解放する必要のない人」だから、話は複雑になる。
ところで、大学時代の友人のN君のメールに、「できる人、できない人」のことを、モチベーションのちがいと理解しているような記述があったので、あらためてはっきりしておこうと思うが、たとえば、「あなたは水の上に浮かぶ木の葉です」が「できる人」とは、モチベーション、つまり、やる気があるからできるのではなく、「できない人」にやる気がないかといえば、そういうわけではない。
できる人も、できない人も、ともにモチベーションは高い。
モチベーションの低い人は問題にしていない。そんなやつはべつに俳優になる必要がない。義務教育じゃないんだから、さっさと稽古場から出て行けばいい。だから、「あなたは水の上に浮かぶ木の葉です」が、ばかばかしくてやってられないという感性はきっとある。僕はそうだ。で、問題は、そういう感性を許さないところが、演劇の教育や訓練にはあるところだ。その「感性」が、「いまの身体」のひとつの側面だろう。僕はそう感じる。
そこに、演劇のかかえる困難がある。
演劇はある一定の期間、同じ場所に全員が揃っていなければいけないという集団的な表現だ。そのことから規制される問題は様々にある。それができるかどうか。「いまの身体」はそのことに耐えられるのか。
わからない。
Apr.27
Aさんという方から、「内容はむつかしいが、ワークショップの意味がわかっただけでもよかった」といった意味のことが書かれたメールをいただいた。それまでAさんはワークショップが、なにかのグッズを売る店のことだと漠然とイメージしていたらしい。そうだ、いきなりワークショップと書かれてもなんのことかよくわからない人もいるにちがいない。
僕もあたりまえのようにワークショップという言葉を使っているが、正確な意味や、定義を知らない。そもそも、今回、こうしてノートを書いているあいだ、たくさんいただいたメールを通じて様々な種類のワークショップを知ったのだった。
アトピーという病気は、まったく新しい皮膚の疾患だったのではなく、「アトピー」という言葉が出現したからアトピーという病気が生まれたはずで、しかしそれ以前もその症状はあったと想像する。同様に、「ワークショップ」も、言葉が普及する以前からいろいろ形はあったにちがいなく、じゃあなぜ、ワークショップと呼ぶのかよくわからない。池袋のコミュニティカレッジでワークショップをやらないかと声をかけられたのは、もう五年ほど前ではなかったか。その後、いろいろな場所でやることになったが、なにをどうすればいいのかはじめは見当もつかなかった。いろいろな試みをしながら作業を進めていき、だいたいのスタイルはできたが、これでいいのかまだわからない。
僕もまた、「ワークショップ」の正しい姿はわからないのだ。
まあ、何か売るところじゃないことだけはたしかだが。
いろいろな場所で見聞きしたワークショップの話や、自分の劇団などでやっているワークショップに関して、今後も引き続き話を聞かせてもらえるとうれしい。メールをお待ちしております。
【桜井君のメール】
さて、桜井君のメールのことを書こう。桜井君はダンス批評ばかりか、最近は、「神楽坂ダンス教室」を通じて実践的な作業も進めているが、このノートを読みつつ、では、ダンスの場合の「身体」はどういうことになるか考えていたという。
「演技論の問題はダンスのほうではどうも全く問題にされていないようです。それはダンスというものが演劇と違ってある特殊なフォルム(日常生活で人がしないような身体の動かし方、動作)が『お約束』になって成立しているジャンルだからだと思うのです。それだから、僕がいつも言うような『ウソの身体、フリになっている(フリをする)ダンスはダメだ』というようなことに対しても『そうはいっても、ダンスってフリ(振り)じゃん、何でダメなの? それを言ったら、ダンスのダンスである条件を否定することになるよ』といった調子でなかなかダンスの人に理解されないわけです」
でも、やっぱりそれは、「演技」も同様な気がする。「芝居をするな」としばしば僕は稽古場で口にするが、厳密に考えると、この言葉をはかなりあやうく、説得力があるようでいてないような気もし、「でも、やっぱり、芝居ですよねえ、なにかするわけだから」といった反論があってもよさそうだ。
「ウソの身体、フリになっている(フリをする)ダンスはダメだ」
これは、「芝居をするな」とかなり似ている。あるときのワークショップで参加者から、「素でやるということですか」と言われた。「素でやる」とは、つまり、ふだんとまったく変わらないような状態で舞台にいるということだろうが、そんなことができるものならやってみろと言いたい。
不可能なわけですよ、「素」なんてものは。
しかし、「芝居をするな」を説得力のある言葉にしようと思って、どうしてそうしなければいけないのか、どうやればいいか、演出の段階で様々な言い方をしてきた気がする。重い箱を二人で運ぶという芝居がある。いかにも重そうに運ぶとき、それは芝居になるが、だったら、ほんとうに重い箱を運べば芝居はしなくていいことになる。従来ならそんなものは演技とは呼ばない。むしろ、重そうに演じることをどう上手にやるかという、「芸」の見せ方が演技だった。だが、なにもしていないように見せることもまた、「演技」であり、それが、「またべつの技術」だと最近では考えている。
で、これをわかつのはなにかだ。
やっぱりそこには、「演技」はなんであるのかという意識の差異と同時に、身体のちがいがある。「いまの身体」ということだ。ダンスもまた同じではないだろうか。
桜井君も書いている。
「『ダンス』というものは本来的には陶酔、高揚(忘我的恍惚状態!)のかたちであり、20世紀モダン・アートとなってからは疎外や抑圧あるいはトラウマを起点とする(危機に立つ)肉体の声であり、いずれにせよそれは『せっぱ詰まった』身体のための形式です。ところが、今、我々の立たされているポスト・モダンという場所、それは『どうやってもせっぱ詰まれない場所』なわけですよね。欲望の枯渇、ありていに言えば『夢見たい風景がない』という状況。だから『この場所』での表現は『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』をこそ切り取らねばならない。にもかかわらず、依然として“ダンス”する、つまり“せっぱ詰まったフリ”をするのが、日本のコンテンポラリー・ダンスなのです。それは、『終わりなき日常』を生きる覚悟がない者が無理やりにリアルを虚構する(オウムや326!)ようなもの、さもなければ、いちおうの状況認識はあるのだが、自分の手持ちのツール(ダンス)がこの状況下では完璧に使用期限切れであることに気付かないバカ者、のいずれかでしょう」
僕が演技について感じていることとほぼ同じだ。そういった空間でどのような立ち方があるか。そう考えてゆくと、「芝居するな」は、「既成の演技しているという状態」からいかに逃れるかという言葉だと思う。そもそも、「その演技の体系」と、いまの俳優の身体は、どうしたってずれている。それを無理するから、なにやら「気持ちの悪いもの」がそこに出現する。
ところで、「アングラ演劇」と、「舞踏」は、同じ文脈にあると考えていいのだろうか。だとしたら、あれはなんだったか。「アングラの身体」のことだ。それを考えるのも面白そうだ。
桜井君のメールはさらにつづく。
Apr.26
桜井圭介君からメールをもらった。そのことを書きたいが、定期的に通っている鍼治療の日で、治療を受けたら身体がなにかだるくて気持ちよく、うまくものを考えることができないのだった。桜井君以外にもいただいた意見に答えなければいけないが、きょうは休みである。
いろいろ問題が錯綜してきてしまった。
・ワークショップの構造
・「いまの身体」とはなにか
・演劇の訓練における、「危険性」をあばく
整理すると、こういったことだったのではなかろうか。
日々、思いつくままに、「考え」を進めているのである。これまでにも、「稽古日記」や、「コンピュータで書くということ」など、この手の日記スタイルのノートをつけていたが、そのドキュメント性というか、同時進行性といったようなものは、インターネットならではの面白さらしい。以前、ずっと稽古日記を読んでいた人がいて、夢中だったらしいのだが、しばらくして日記が終わってから読み返すと、なにが面白かったかよくわからないという。
マラソン中継によく似ている。
マラソンの中継は生放送でないとなにも面白くない。まあ、スポーツのテレビ中継全般がそうなのだが、日々、書かれるこのノートも、それと同様のなにやらライブ感があってはじめて成立するのではないか。だから、過去のものを読むときは、「記録」程度に考えていただかないと困る。それをもとにいつかまとまった文章になるはずである。
それはそうと、「ノート」と「日記」は分割することにした。日々の記録のようなものは、
「世田谷日記」というページになりました。