遊園地再生事業団マーク PAPERS 世田谷日記
各ページへ

コンピュータで書くということ 身体・解放とはなにか? Archives BBS
QV10A主義


MAIL TO:akio@u-ench.com


ノートの穴
------------------------------------------------------------------------
PAPERS Special Issue: "NOTE 47" by Akio Miyazawa
------------------------------------------------------------------------

Jul.15

 外国の演出家のワークショップに参加したことがある女優がいたのだった。その話を聞いたとき、詳しくレポートを書くように言ってあったが、それが手紙で届いたので報告したい。
 レポートによれば、よくある「解放系」のワークショップのようだ。これといって特殊なものはないが、レポートを書かせることで本人にも勉強になるだろうし、レポートが細かく具体的だったので面白かった。
 一点、気になったのは、次の箇所である。

「常に○○氏(演出家)の用意した音楽がかわるがわる流れていました」

 最初、薄暗い部屋に寝かされというくだりもあって、しかも音楽がずっと流されているとしたら、この空間はなんであるのか。困ったことに、自己啓発セミナーとほんとうによく似ている。こうなると、自己啓発セミナーを肯定すべきなんじゃないかとすら思えるほどだ。「これ、自己啓発セミナーですよねえ」と言えば演出家は怒るだろう。違うというだろうな。でも、原理が同じだとしたら、なにがこれをわかつのか。「自己啓発セミナー」をルポしたものもいくつか読んだが、問題になっているのはたいてい料金システムだ。ここは解放系ワークショップとは異なる。
 そして、もうひとつの問題点は、「短い期間で人は変わるかどうか」ということになるが、「短い期間で人を変えるための強引な方法」は、それの副作用が出やすい。西洋医学の治療に似ている。
 さらに、外国人の演出家によるワークショップがどれもよく似ているのにも不思議なものを感じる。うまく表現できないが、そこには、「技法」のようなものがあって、こうするとワークショップ参加者に満足を与えられるといった、ワークショップの目的化があるのではなかろうか。
 そこに来ると、なにか癒される。
 といったようなこと。生産主義的ななにかよりたちが悪い。ただワークショップで満足されればそれでよしとでもいうか。じゃあワークショップってそもそもなんだという疑問が生まれる。何度も書くようだが、奇跡を起こす場所じゃないんだそれは。

 で、問題は音楽だ。どんな音楽が流されるかはここで重要にしても、音楽を流すことで空間が満たされ、ある目的のために音楽があるとしたら、人の情緒を刺激するという、「安易な音楽への態度」を感じる。これがもう、いやらしい「技法」だ。こうしたワークショップは否定すべきものだし、なにより受ける側が油断してはならない。

 ある方の訓練を見学に行ったら参加者の一人が、「やっていることを客観的に考えるとこれはマインドコントロールじゃないか」と言った。もちろん指導者はそうじゃないと言い、根拠として、目を開けていることが重要である、目を開けていることでそこから逃れるという意味のことを仰っていた。
 それを知人のI君に話したら、I君はずばり言った。
「視覚障害者への差別だ」
 たしかにそうかもしれない。

 さらにこのことは考えねば。


Jul.09

 久しぶりに書く。約二ヶ月。考えが途中になってしまったので少し反省した。小説を書くのが面白くて興味がそちらに向いていたのだった。「いまの身体」のことを考えるのはなにも演劇の問題だけではなく、もっと根本的なというか、基本的なことだ、おそらく。
 その身体が浮かんでいる空間を考えること。とはいっても、「身体」にもやはり普遍的な部分がかなりの割合を占め、生物学的に変わらないところはあるわけで、昔の人は膝が反対に折れたが最近の人は折れないということはけっしてない。
 では、どこがどう変化し、「いまの身体」なのか。
 そんなことを考えていたとき、島根のAさんからメールで教えていただいた話はたいへん示唆的だった。この十数年で、日本人の身体は大きく変化し、身長も体重も平均値が増加したが、細かく調べると、それは男子だけだという。女子の身長はあまり変化していない。このことからわかるのは、女性が受ける抑圧の強さは現代でもあまり変わっていないことだが、むしろ栄養が豊かになった現代にあって、たとえば身長が変化していないとしたら、抑圧はより強まっていることになるのではないか。ワークショップを開くと参加者は80パーセントが女性だ。彼女たちが求めているのは、やはり身体を縛り付けているものを解放する手だてなのだろう。
 俳優になるといったことは、二次的な問題で、もっと深い部分で求めているものが演劇に向かわせる。あるいは、「俳優になる」、「表現する」ことを通じて抑圧からの解放を求めているともとれる。
 彼女たちの気持ちもわからないではない。
 だが、「だからこそ門戸を開く演劇」のような、ナイーブな気持ちにわたしはなれない。

 ここ、もう少し考えないとな。

 ある知人が外国人のワークショップに参加したという。「リラクゼーション系」というか、「解放系」といったワークショップだ。で、最後に、参加者同士が抱き合うように指示され、それでもって感激に包まれるというけど、そりゃあ完全に自己啓発セミナーである。
 私は思うのだが、日本人にとって、「抱き合う」という行為はいかがなものなのか。そりゃあ日本人にその習慣がないからといって頭から拒否することにもだめな部分はあるが、西洋を無批判に受け入れるような近代主義はもうとっくに越えられたのではなかったのか。外国の戯曲を演じるからといってベッドで生活しなくちゃと考えるばかばかしさや、ボビーとかメアリーとか日本人が呼び合うようなくだらなさは否定されたはずではないか。
 外国人の演出家が来てワークショップをやることについて、あの批評のなさはどうなっているのだろう。もちろん、いい部分もあるにちがいない。それを冷静に考えてはじめて交流は成立するし、批評が生まれる。

 このへんがどうもわからなくなっているのだが。

 わからなくなってきたと言えば、「いまの身体」が集団的な創造の様々な規制に耐えられるかという問題だが、考えてみれば、昔から耐えられなかった者はいたはずだ。そういった者らは、最初から、「劇団」という組織には所属できなかったはずで、「劇団」に権威があったころは、それはすなわち演劇ができないことを意味していただろう。
 集団に耐えられる者らとは、いったいどういう俳優たちだったのか。
 僕の集団は劇団ではなかった。組織的な原則はひどくゆるやかで、それはつまり、「いまの身体」から導かれた組織のあり方だったとも考えられるが、そう考えてゆくといろいろ問題が錯綜し、もつれた糸のようになって混乱してしまう。
 まあ、「集団創造のさまざまな原則に耐えられない」というのも、「いまの身体」の一側面に過ぎず、いろいろなことを通じて、「現在」というもの、「いまの身体」「ここにある空間」を検証しなければと思う。で、そのひとつというわけでもないが、いま二十代前半の者らの、「バイトしている姿」についてちょっと調べている。つまり、「労働」のこと。しかもそれは、ひどくあいまいな状況下における労働である。

 まだまだ、道は遠い。



ノートの穴


ノートの穴
------------------------------------------------------------------------
PAPERS Special Issue: "NOTE 46" by Akio Miyazawa
------------------------------------------------------------------------

May.01

【コラム】
 深夜、NHKで細野晴臣さんの音楽をとりあげている番組があった。はっぴいえんど時代、日本語はロックのリズムに乗らないというのが当時の定説で、それをあえて、かれらは日本語のロックを作った。僕が中学生の頃の話だが、当時、音楽雑誌で読んだことがある。
 小林克也さんが細野さんにインタビューする形式で進行する番組で、そうした話を聞いていると、ヨーロッパから入ってきた演劇の方法や形式を日本語にあてはめるには、それなりの苦闘があったのではないかと想像できる。シェークスピアの日本語訳はたしか三十数種類にもおよぶが、なかに、歌舞伎のような言葉の台本があって、発見したときは笑ったが、あれも苦闘の歴史なのだろう。
 そういうことを調べるのも面白いと思う。
 言葉の側面から、身体を考えるということ。

【停滞】
 いろいろ考えてはいるのだが、うまく書けなくなってしまった。たとえば次のようなことを考えたのだった。
「八〇年代、いかにへらへらするかは戦略だった。だとしたらいまはどうなのか?」
 あるいは、「政治」について、ある本からの引用。
「狭義の政治ではとらえきれない分野では、一見、政治とはかかわりなさそうなあり方を通じて、人間の意識や存在が、きわめて政治的にコントロールされるように変容したのである」

 こういったことから、「いまの身体」を考えたいのだが、よくわからないのだった。



ノートの穴


ノートの穴
------------------------------------------------------------------------
PAPERS Special Issue: "NOTE 45" by Akio Miyazawa
------------------------------------------------------------------------

Apr.29

【コラム】
 ノートのテーマとあまり関係のないことを書くので、ここはコラムということにする。『バッファロー '66』という映画に出てくる女のことだ。
 かなり太っている。やけにセクシーな服を着ている。まだ高校生くらいに見える。ダンスを習っているらしい。だが、ストーリーのなかで女のことはなにも説明されない。女優はこの役を与えられ、「これはどういう人物なのでしょうか」と、旧来の演技体系で思考するなら監督に質問したのではないか。
 だが、なにも説明されないことこそ、僕には面白かった。
 なぜあの女は誘拐としか考えられない状態で主人公の男に連れ回されるのに素直についてくるのか。なぜあんなに主人公に親切なのか。家に帰らなくていいのか。そんなにスカートの裾を気にするくらいならもっと長いスカートをはけばいいのではないか。親は心配していないのか。仕事はなにをしているんだ。わからないことはいろいろあるが、「そういう女」としか考えられず、かといって、「謎の女」というような、「いかにも」な人物でもない。ごくふつうの女の子だ。説明のない、わけのわからないことがより女の魅力になっている。
 そういう脚本である。
 しかも、観客は想像する自由を与えられる。
 では、女優はどうすればいいのか。「旧来の演技体系」なら、演技するための手がかりがないということになる。だが、「演技」にしろ、「役」とか、「脚本上の人物」なんてものが、俳優の外側に客観的に存在しているわけではないのだ。A地点に俳優がいて、B地点に「役」があるからそこに接近するということではない。
 その、「接近」のことを僕は、「芝居する」と呼ぶのだろう。
 旧来の演技体系には、「あて書き」という言葉が存在する。役者にあてて書くというやつ。それは、やはり、「役」が俳優と距離のある場所にあるという考え方が前提になっている。そんな前提はない。そんなものはない。だからそもそも、「あて書き」なんてものも存在しない。もし、俳優のことをそのまま書いた人物が脚本にあったとして、俳優は舞台上でそれを生きられるか? 無理に決まっている。いわゆる「素でやる」というやつになるが、「素」のままで観客の目にさらされる場所に存在できたら、そいつは天才か異常者である。
 つまり、「役」があらかじめ身体の外側に存在するのではなく、「身体から存在させる」といってもいい。それを見事に女優は表現していたように見える(無自覚だったのかもしれないが)。だから魅力的に見えた。そういう演出だ。だが、問題は、そういった演出や脚本、これでいいという俳優の存在を成立させているものがなにかだ。

【桜井圭介君のメールのこと】
 先に紹介した桜井君のメールのことで、その後、いろいろ考えた。ここに文章を書いてはみたのものの、だが、もうひとつはっきりせず、書いては消し、消しては書きとくりかえす。
 どうもまとまらないのだ。
 七〇年代以降のポストモダン状況と、その後の反動のことなど、なにか考えがまとまりそうでまとまらない。また異なる切り口が出そうで出ない。もう少しゆっくり考えようと思うのだった。
 ただ、その状況のなか、「だから『この場所』での表現は『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』をこそ切り取らねばならない」としたらそれはどのような表現になるか、正直、それがわからないのだ。自分のやっていることが正しいのか。もっと、想像もしていなかったような表現がある気がしてならないと書いてもいい。「いまの身体」と書いたそれが、まだ僕が認識できる範囲にあるとすれば、完全に、「近代」と切れているとも思えず、ともすれば演出の段階で、「旧来の演技体系」の単なる変形に「いまの身体」をあてはめている気もする。
 なんだか、近代はぶあつい。
「『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』を切り取る表現」
 それはどんな姿をしているのか。「いまの身体」をきちっと理解できていないのかもしれない。

【ワークショップ、野口体操、リラクゼーション、そのほか】
 北九州のTさんからもまたメールをもらった。それから、何日か前に僕が書いた、「プログラミングの技術をこそ教えるべきではないか」というアイデアに関して、Nさんは、「プログラミングできる者と、そうでない者がいるのではないか」と書いていた。さらに、Hさんは、「地域活性化と演劇」という大義名分はどうなのかという話を書いてくれた。
 それらも検討したいが、かなり以前、どうやら劇団をやっているらしいSさんからいただいたメールを紹介したい。

「野口体操といえば、私も劇団の稽古でつかうのですが、『役者を床に寝かせて、力が抜けているかどうかかるーくゆすってみる』(野口用語で『寝にょろ』)をやろうとしたところ、なぜかマッサージタイムになってしまい、『あーきもちいい、あしのうら押してー』とか要求されるようになってしまいました。しかしながら身体のかたい役者(正確には役者志望の人)という存在は、芝居を上演するにあたって非常にやっかいな存在で、なんとかしてリラックスして、まっすぐに、舞台にたってほしいと願ってしまうのも現実です。で、もともと柔らかい人は、わざわざ自己解放とかする必要がないような人です。私の疑問はいつもここで迷宮入りになるのです」

 そう。いくら訓練でリラックスしたところで、かたい者はかたい。むしろ、まじめに野口体操に取り組むような人、僕がしばしば書く、「できる人」は、なぜかかたくなるからやっかいで、そういうことがばかばかしいと思って「できない人」のほうが、「やわらかい」、つまり、Sさんの書く、「自己解放する必要のない人」だから、話は複雑になる。
 ところで、大学時代の友人のN君のメールに、「できる人、できない人」のことを、モチベーションのちがいと理解しているような記述があったので、あらためてはっきりしておこうと思うが、たとえば、「あなたは水の上に浮かぶ木の葉です」が「できる人」とは、モチベーション、つまり、やる気があるからできるのではなく、「できない人」にやる気がないかといえば、そういうわけではない。
 できる人も、できない人も、ともにモチベーションは高い。
 モチベーションの低い人は問題にしていない。そんなやつはべつに俳優になる必要がない。義務教育じゃないんだから、さっさと稽古場から出て行けばいい。だから、「あなたは水の上に浮かぶ木の葉です」が、ばかばかしくてやってられないという感性はきっとある。僕はそうだ。で、問題は、そういう感性を許さないところが、演劇の教育や訓練にはあるところだ。その「感性」が、「いまの身体」のひとつの側面だろう。僕はそう感じる。
 そこに、演劇のかかえる困難がある。
 演劇はある一定の期間、同じ場所に全員が揃っていなければいけないという集団的な表現だ。そのことから規制される問題は様々にある。それができるかどうか。「いまの身体」はそのことに耐えられるのか。

 わからない。


Apr.27

 Aさんという方から、「内容はむつかしいが、ワークショップの意味がわかっただけでもよかった」といった意味のことが書かれたメールをいただいた。それまでAさんはワークショップが、なにかのグッズを売る店のことだと漠然とイメージしていたらしい。そうだ、いきなりワークショップと書かれてもなんのことかよくわからない人もいるにちがいない。
 僕もあたりまえのようにワークショップという言葉を使っているが、正確な意味や、定義を知らない。そもそも、今回、こうしてノートを書いているあいだ、たくさんいただいたメールを通じて様々な種類のワークショップを知ったのだった。
 アトピーという病気は、まったく新しい皮膚の疾患だったのではなく、「アトピー」という言葉が出現したからアトピーという病気が生まれたはずで、しかしそれ以前もその症状はあったと想像する。同様に、「ワークショップ」も、言葉が普及する以前からいろいろ形はあったにちがいなく、じゃあなぜ、ワークショップと呼ぶのかよくわからない。池袋のコミュニティカレッジでワークショップをやらないかと声をかけられたのは、もう五年ほど前ではなかったか。その後、いろいろな場所でやることになったが、なにをどうすればいいのかはじめは見当もつかなかった。いろいろな試みをしながら作業を進めていき、だいたいのスタイルはできたが、これでいいのかまだわからない。
 僕もまた、「ワークショップ」の正しい姿はわからないのだ。
 まあ、何か売るところじゃないことだけはたしかだが。

 いろいろな場所で見聞きしたワークショップの話や、自分の劇団などでやっているワークショップに関して、今後も引き続き話を聞かせてもらえるとうれしい。メールをお待ちしております。

【桜井君のメール】
 さて、桜井君のメールのことを書こう。桜井君はダンス批評ばかりか、最近は、「神楽坂ダンス教室」を通じて実践的な作業も進めているが、このノートを読みつつ、では、ダンスの場合の「身体」はどういうことになるか考えていたという。

「演技論の問題はダンスのほうではどうも全く問題にされていないようです。それはダンスというものが演劇と違ってある特殊なフォルム(日常生活で人がしないような身体の動かし方、動作)が『お約束』になって成立しているジャンルだからだと思うのです。それだから、僕がいつも言うような『ウソの身体、フリになっている(フリをする)ダンスはダメだ』というようなことに対しても『そうはいっても、ダンスってフリ(振り)じゃん、何でダメなの? それを言ったら、ダンスのダンスである条件を否定することになるよ』といった調子でなかなかダンスの人に理解されないわけです」

 でも、やっぱりそれは、「演技」も同様な気がする。「芝居をするな」としばしば僕は稽古場で口にするが、厳密に考えると、この言葉をはかなりあやうく、説得力があるようでいてないような気もし、「でも、やっぱり、芝居ですよねえ、なにかするわけだから」といった反論があってもよさそうだ。
「ウソの身体、フリになっている(フリをする)ダンスはダメだ」
 これは、「芝居をするな」とかなり似ている。あるときのワークショップで参加者から、「素でやるということですか」と言われた。「素でやる」とは、つまり、ふだんとまったく変わらないような状態で舞台にいるということだろうが、そんなことができるものならやってみろと言いたい。
 不可能なわけですよ、「素」なんてものは。
 しかし、「芝居をするな」を説得力のある言葉にしようと思って、どうしてそうしなければいけないのか、どうやればいいか、演出の段階で様々な言い方をしてきた気がする。重い箱を二人で運ぶという芝居がある。いかにも重そうに運ぶとき、それは芝居になるが、だったら、ほんとうに重い箱を運べば芝居はしなくていいことになる。従来ならそんなものは演技とは呼ばない。むしろ、重そうに演じることをどう上手にやるかという、「芸」の見せ方が演技だった。だが、なにもしていないように見せることもまた、「演技」であり、それが、「またべつの技術」だと最近では考えている。
 で、これをわかつのはなにかだ。
 やっぱりそこには、「演技」はなんであるのかという意識の差異と同時に、身体のちがいがある。「いまの身体」ということだ。ダンスもまた同じではないだろうか。
 桜井君も書いている。
「『ダンス』というものは本来的には陶酔、高揚(忘我的恍惚状態!)のかたちであり、20世紀モダン・アートとなってからは疎外や抑圧あるいはトラウマを起点とする(危機に立つ)肉体の声であり、いずれにせよそれは『せっぱ詰まった』身体のための形式です。ところが、今、我々の立たされているポスト・モダンという場所、それは『どうやってもせっぱ詰まれない場所』なわけですよね。欲望の枯渇、ありていに言えば『夢見たい風景がない』という状況。だから『この場所』での表現は『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』をこそ切り取らねばならない。にもかかわらず、依然として“ダンス”する、つまり“せっぱ詰まったフリ”をするのが、日本のコンテンポラリー・ダンスなのです。それは、『終わりなき日常』を生きる覚悟がない者が無理やりにリアルを虚構する(オウムや326!)ようなもの、さもなければ、いちおうの状況認識はあるのだが、自分の手持ちのツール(ダンス)がこの状況下では完璧に使用期限切れであることに気付かないバカ者、のいずれかでしょう」

 僕が演技について感じていることとほぼ同じだ。そういった空間でどのような立ち方があるか。そう考えてゆくと、「芝居するな」は、「既成の演技しているという状態」からいかに逃れるかという言葉だと思う。そもそも、「その演技の体系」と、いまの俳優の身体は、どうしたってずれている。それを無理するから、なにやら「気持ちの悪いもの」がそこに出現する。
 ところで、「アングラ演劇」と、「舞踏」は、同じ文脈にあると考えていいのだろうか。だとしたら、あれはなんだったか。「アングラの身体」のことだ。それを考えるのも面白そうだ。

 桜井君のメールはさらにつづく。


Apr.26

 桜井圭介君からメールをもらった。そのことを書きたいが、定期的に通っている鍼治療の日で、治療を受けたら身体がなにかだるくて気持ちよく、うまくものを考えることができないのだった。桜井君以外にもいただいた意見に答えなければいけないが、きょうは休みである。

 いろいろ問題が錯綜してきてしまった。
 ・ワークショップの構造
 ・「いまの身体」とはなにか
 ・演劇の訓練における、「危険性」をあばく
 整理すると、こういったことだったのではなかろうか。
 日々、思いつくままに、「考え」を進めているのである。これまでにも、「稽古日記」や、「コンピュータで書くということ」など、この手の日記スタイルのノートをつけていたが、そのドキュメント性というか、同時進行性といったようなものは、インターネットならではの面白さらしい。以前、ずっと稽古日記を読んでいた人がいて、夢中だったらしいのだが、しばらくして日記が終わってから読み返すと、なにが面白かったかよくわからないという。
 マラソン中継によく似ている。
 マラソンの中継は生放送でないとなにも面白くない。まあ、スポーツのテレビ中継全般がそうなのだが、日々、書かれるこのノートも、それと同様のなにやらライブ感があってはじめて成立するのではないか。だから、過去のものを読むときは、「記録」程度に考えていただかないと困る。それをもとにいつかまとまった文章になるはずである。

 それはそうと、「ノート」と「日記」は分割することにした。日々の記録のようなものは、「世田谷日記」というページになりました。



ノートの穴


各ページへ


BBS


PAPERS

Published: September 9, 1997 Updated: Feb. 4, 2000
Copyright (C)1997 by the U-ench.com