Apr. 15 thurs. 「4月になっていたのだ」
■しかし、4月だというのにこの寒さはなんだ。からだの調子がおかしくなりそうな気候である。しかし花見もできたし、それなりに春の気分を味わっているものの、やらなくてはいけないことに追い立てられ、あくせくする日々である。4月の大学は人が多い。なんとなく活気にみちている。ほんとはこの春休みの、2月、3月でいろいろなことができるはずだったのに、あっというまに、もう新学期か。小説を書きあげる予定だったんだ。本ももっと読んで授業に生かそうと思っていたんだ。なにをしていたのかもうほとんど忘れてしまったのである。
■すでに2月の「富士日記2.1」(つまりこのノートですが)でお知らせしているように、今年は遊園地再生事業団の本公演があります。五月にリーディング公演(戯曲を試すための規模の小さな試演)、そして十月が本公演です。『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』。チケットや、公演日程、出演者など、リンク先のページに案内があります。そちらをごらんください。よろしくお願いします。
■10月本公演は「座・高円寺」(写真左下)の劇場ですが、リーディングはその2階にある「カフェ・アンリファーブル」での上演になります。食事もできます。飲み物も注文できます。アフタートークで、わたしもしゃべります。ゲストとお話しさせていただきます。ぜひとも、来ていただきたい。チケットはまもなく発売です。
■というわけで、以上、お知らせでした。
■とうとう「富士日記2.1」の三月分はなにも書かずに終わってしまった。空白になったのだ。ノートを書きはじめてどれくらいになるだろう。こんなことはかつてなかった。「ツイッター」にうつつをぬかしているうちに、ブログを書くのがおろそかになっている。というか、なぜ、「ツイッター」でつぶやくとそうなるのかよくわからないうちに、このノートでなにか論じようという気分にならないのだ。なにか論じようとするには「ツイッター」の「140文字」は少ない。けれど、ブログにしろ、ネット上のノートにしろ、あくまで仮の場としてそこでなにかを論じても活字の媒体に発表するのとは異なると意識していたはずだ。それが、こうして「ツイッター」が一方で盛んになると、むしろ、「ブログ」のようなものも、それはそれで価値があるように思えるから不思議だ。
■「富士日記2.1」になにか書くことは、「考えること」だと位置づけていた。べつに日記ではなかった。日記のような体裁をとることで文章を書く行為が手軽になり、それはつまり、「日記体による表現方法」という言葉の活動だった。表現したいのである。なにかを語りたいとき、多くの人にとってブログはきわめて手に取りやすい道具だったのだろう。それが「ツイッター」になった。性格がまったく異なる言語活動だ。
■「ツイッター」について多くの人が論じている。情報手段としてたいへんすぐれているし、意志がものすごい速度で流通する。だから、そうした使い方の一方(情報手段であることを否定しないで)、それを逆手に遊ぶのも興味深いと思うのだ。どうやって遊んだらいいかいろいろ考えているのだ。「朝っぱらからうそをつく」とか、「まったく役に立たないことをつぶやく」とか、まだなにかあるはずだ、「ツイッター」をなにかべつの手段にすること。それが戦略になるのなら。
■このノートもまた書きます。たとえばコンピュータのことも書きたいしね。演劇はもちろん、大学の授業のために考えていることを、考えるためにこそ、書こうと思うのだ。
(0:49 Apr. 16 2010)
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