富士日記 2.1

Sep. 30 tue. 「五反田へ」

五反田の病院で診察を受ける。順調である。冠動脈のバイパス手術にあたってバイパスに必要な血管を足の静脈からとった。その一部、傷が開いて治りが悪かったが、それもずいぶんきれいになってきた。最初はなにしろぱっくり傷口が開いてドラヤキの断面を横から見たような感じだったのだ。医師もその治りに驚いたようだった。なにかと医師に相談すると薬を出してもらえる。風邪薬は市販のものを、いま呑んでる薬と併用していいのか質問すると、だったら、出しましょうと言って大量に処方してくれたが、市販薬に比べ保険がきくから安い。血液検査の結果、食事に注意していなかったせいで中性脂肪の数値が上がったと指摘された。まずいな。中性脂肪がつきやすい体質だそうだ。
病院を出たすぐのところにある処方箋薬局で、結果、大量の薬をもらった。次の予約は一ヶ月後になるからこれも仕方がないだろう。五反田駅から電車に乗って帰ろうとしたら、駅前で大人計画の正名にばったり会った。近くのイマジカで試写会がありそれを見たとのこと。なんの映画だったか聞くのを忘れた。このところ電車によく乗る。自動改札に切符を入れ取り損なってしまうことが二度もあった。すると切符は機械のなかにつるつると入ってしまう。なんだか腹立たしい。それにしてもSuicaの利用者が多い。定期もいまでは自動改札の、なにやら、読み取り装置のところにかざすので、「改札風景」というやつもかつてとはずいぶん変化しているのだな。みんな器用にすいすい改札を抜けてゆくのに、わたしは切符を機械に取られて立ち往生だ。いよいよ腹立たしい。
10月から、東京都のゴミの出し方が変更になって、生ゴミとビニール類を分別しなくてもよくなったそうだ。ビニール、プラスティック類を埋める場所がなくなったから、一気に燃やしてしまうらしい。理屈でわかったつもりでも、生理的にどうも違和感があって、一緒に捨てるのに抵抗を感じる。といったわけで、きょうで九月も終わりだったのか。一気に秋になった。大学がはじまる。その後も、いろいろな方からメールをいただいています。ありがとうございました。

(8:47 Oct. 1 2008)

Sep. 29 mon. 「晩年」

週明けだからか仕事の依頼がいくつか。松尾スズキが編集長をしている『hon-nin』から連載の仕事だったが一回が30枚という、『ユリイカ』の25枚を上回る枚数。できるのか。ただ『hon-nin』は季刊だから大丈夫だろうと思って引き受けることにした。NHKから、爆笑問題の二人が大学の教員に会いに行くというプログラムのオファー。早稲田大学特集。面白そうだから引き受ける。少し前に、仕事部屋を撮影してインタビューするという仕事を引き受けた。片付けが憂鬱になったし、いま、コンピュータと、ビデオデッキと、DVDデッキが数台、ソフトが散乱し授業用に編集する作業をしているから作家の部屋に見えないのが難点である。
とにかく眠い一日。眠ってばかりいた。だいたいきゅうに冷えてきたのがいけないよ。風邪気味。薬ばかり飲む。対馬忠行さんの追悼の本を読むが、予想していたとおりカクマル系とおぼしき研究者が対馬ソ連論批判の論文を書いていて、けっと思ったわけだけど。大月書店版『資本論』の翻訳(岩波書店の向坂訳版もほんとんどは岡崎訳だったわけだが)をした岡崎さんも、奥さんと旅に出たきり、その後の消息がわからなくなった(心中したとしてもその遺体はいまだに見つかっていない)というように、老マルクス主義者たちの晩年はどこか悲しい。もう20数年前だった。田舎に帰って街の中心にある旧城跡の山を登ったとき老夫婦がゆっくり登っているのを見た。奥さんの足下がおぼつかないのか、旦那さんがその手を引いていた。旦那さんは、私の故郷で20数年、たった一人の日本共産党の市会議員として務めている人だった。政治的には彼らの主張や方針に賛同していなかったけれど、共産党が党内でさまざまな混乱があり、分派闘争があったあいだ、この田舎では、そんな党中央の動きとは関係なく、マルクス主義を信じて黙々と地域の活動をしていた姿が、老妻の手を引く姿に現れているように思えた。まだ二十代だった僕は(ちょうど政治活動から離脱していた時期でもあったし)素直に感動したのを覚えている。まさに、「よき信徒」の姿を見たような美しさを感じたのだ。同時に、思想ってなんだろう、政治ってなんだろう、イデオロギー闘争ってなんだろうって、観念的なことよりもっと身近に守るべき大事なことがあるように思えた。とはいっても、そこで俺は「保守主義」に転じることはいっさいなかったが。
そして、フェミニズムの観点から考えるとそれを全面的に肯定できるかわからないが、夫の思想を生活面で守る妻たちの苦労は、なにによって支えられていたのかと想像する。「思想」は、「生活」の前では、ひどく脆弱だ。「思想」だけでは生きていけない。だから、対馬忠行が、妻が死んだときの悔いと、その後に記した「涙。涙。涙。」という言葉は痛痛しい。あるいは岡崎次郎夫婦が、死ぬまで一緒にいようとした絆を支えていたのは、けっして「思想」ではなく、夫婦だからこそ二人のあいだに作られた、言葉では表現できないつながりだったと想像する。そんなことを考えるようになった、この歳になって。というか、手術を乗り越えたからではないかと思えるのだ。

(7:50 Sep. 30 2008)

Sep. 28 sun. 「でたらめについて」

きゅうに冷えてきた。風邪をひきそうなので気を引き締める。こういった時期が危ない。
そんな夜、相馬が赤塚不二夫さんに関する資料を貸してくれるというので家を訪ねてくれた。『アカツカNo.1──赤塚不二夫の爆笑狂時代』(イーストプレス)だ。一読してわかるのは、どこまでもでたらめだということだが、その「でたらめ」のパワーにあきれる。たとえば、逸脱とか、反転、過剰、つまりはむちゃくちゃなことをやろうとすれば、その情熱はただごとならないのであって、それというのも「でたらめ」にはあまり生産性がないからだ。人は生産性のないことにあまり熱心になれない。というのも近代主義的な意味での「見返り」がないからである。それでつい、人から誉められたいばかりに、「いいこと」「まともなこと」をしようとしてしまいがちだ。そうした精神が「赤塚世界」には微塵もない。とことん「でたらめ」である。ただすごいとしか言いようがないが、ひところ、そうした態度を持ち上げる傾向にあった時代をも越えて現在があるのは、つまりそうした「持ち上げ」が歴史的な存在だからだ。「でたらめを徹底する」は過去への対抗としてあった。だから、『アカツカNo.1──赤塚不二夫の爆笑狂時代』に見ることのできる赤塚不二夫の輝きはきわめて「六〇年代、七〇年代的」なのだと思う。赤塚さんはすごい。いまでも、称賛すべきすごさだが、ほかにも称えられるべき「表現の質」といまは同列に存在する。
そんなことを軽く食事をしながら相馬に話していたが、すると記憶が曖昧なある時代のことがよみがえって、しかし、ひどく時間的な整合が取れぬまま、それは、そのことのあとだったか、それより先だったか、よくわからなくなる。たしかある時期、丹念に日記を付けていたからことによると記録されているかもしれない。記憶なんていいかげんなものだ。おとといの夜になにを食べたかだって思い出せないのだ。

(13:41 Sep. 29 2008)

Sep. 27 sat. 「すっかり秋だった」

からだの調子が一進一退といった意味のことを書いたら、編集者で演劇の評論を書いているM君から、「手術後、眠くなってしかたないという記述がありましたが、折れている骨がくっついたり、手術で開腹した部分が元通りになるまでには、たくさんの体力を使います。手術が成功しても、そこから回復に向かう過程で体調を崩したり、ダウンしてしまう例は少なくありません。いや、それからのほうが期間は長く、肝心なのです」とメールをいただいた。根がせっかちなので、少しよくなるともうじっとしていられず、治ったと思いこみたいのだ。あわてず、この治りかけが大事だともう少し慎重にならなければいけなかった。
東大の内野さんからメールをもらって知ったが、内野さんもiPhoneを使っているとのこと。情報をやりとりすればよかった。ただ、やはり僕の手術のことにふれた話のなか、内野さんも検査でひっかかったという。エコー検査をしたとの由。くれぐれも油断しないほうがいいと助言したい。お互いそういう年齢なんだし。
とはいうものの、リハビリを兼ね新宿までビデオを借りに行く。だいぶ歩けるようになった。とはいえ、さすがに疲れる。これで十月から授業が大丈夫なのかと少し心配になったけれど、それより授業の準備のことで不安になっている。焦る。すぐにはじまってしまうではないか。さて、このノートには書いていないことだが、「あること」で、いま私はひどく面倒な問題を抱えており、けれど適確に手助けをしていただける方もおり、勇気付けられている。またこの話はもう少しまとまってから書こうと思う。ただ、そのことでまた、がくっと疲れた。なにかいいことがあって晴れやかな日々はこないものなのか。借りてきた映画がまた暗い話だった。でもいいのだ、そんな逆境の中からこそ、ものは生まれてくるべきなのだし。

(9:29 Sep. 28 2008)

Sep. 25 thurs. 「さらに停滞する」

仕事をしなければと思うが、なにから手をつけていいか、病気から復帰してこれからばりばりやるぞと意気込みだけはあるが、空まわりで停滞している。やる気だけはまんまんだ。意気込みだけは十分だ。だけどなにもしていない。午後、筑摩書房のIさんとお会いして単行本の打合せ。ウェブ上で連載していた「テクの思想とその展開」というタイトルのエッセイだけれど、Iさんと話しているうちに、単行本にまとめるに際して、「笛吹き男のテクとはなにか」というタイトルにしようかと思った。突然の思いつきである。というのも連載中、しりあがり寿さんに描いてもらった「笛吹き男」のイラストが面白かったからだ。
エッセイ集のゲラも直さなくてはいけないし、いくつかこの先、文庫本を出すにあたって作業があり、意外に忙しいのだと、愕然とする。入院以来、すっかり怠けていたというか、からだがなまっている。なにしろすぐに眠くなるし。けれど、その後もいくつか仕事をいただきありがたい。対談や雑誌の連載などいくつか。
ところで、むかしからうちの妹が誰とでも友だちになっているのは私にとって不可解なことだった(というのも、私は人見知りをし、すぐに友だちになるなんて真似ができないからだ)。深浦さんのお別れ会のとき受付が混乱しているのを、なぜか妹が仕切って整理しているのは、まあ、そういう人間だからいいとして、一緒にそれをしていたのが、「トリビアの泉」といったテレビ番組でしか僕は知らない、ヤシマさんという人で、そのあと妹と話したら、「ヤシマ君がねえ」と口にしており、いったいいつから「君呼ばわり」するような友だちになったのかと驚かされた。それにしても眠いのだ。眠ってもすぐに目が覚める。ただ、からだはだいぶ復調。夜にもなるとすっかり外は秋の気配だ。

(9:30 Sep. 26 2008)

Sep. 24 wed. 「深浦さんとお別れ」

恵比寿の「ウェスティンホテル東京」で、八月に亡くなられた女優の深浦加奈子さんのお別れ会が催された。生前の交際の広さや、その人柄ゆえだろう彼女を慕って集まった大勢の友人が彼女との別れを惜しんだ。テレビや映画、舞台で見る顔も数多くあった。小学校時代からの親交だという地元久我山の友だちの話を聞いていると、舞台で観るまでは知るよしもなかった、子どものころから芝居をはじめるまでの深浦さんのことを知り、いままで考えていた以上に、彼女の魅力を感じることができた。
それは女優に限ったことではないが、出会って仕事を一緒にさせてもらったとき、相手がどんな状態にあったから僕と仕事ができたのかとか、それはなにかの偶然があって出会えたのだろうし、偶然を生み出す要素がきっとあったにちがいない、といったことを考える。深浦さんと舞台をやったのはごく短い期間だった。またべつの意味で「女優」という言葉を教えられた気がしたのだった。そして、しばらく会わず、仕事もしない時間が長くあったあと、あらためてこんな形で再会したとき、また異なる意味で「女優」について教えられるように思える。いや、それはただ「女優」ということだけじゃなく、人が生きることについて、もっと深い場所からの示唆ではなかったか。
この8月に入院した深浦さんはオリンピックをずっとテレビ観戦していたという。ちょうど僕と同じだ。ほかにすることもなく、病室でただオリンピックを観ていたけれど、まだオリンピック開催期間中の8月21日に僕は手術を受けた。二日間ICUにいて、普通病棟に戻ったのは23日だ。戻った翌日の24日が閉会式だったけれど、手術の傷がまだ痛くてテレビを観る気力がなく、なにもする気になれなかった。深浦さんは観たのだろうか。翌日の25日、深浦さんは亡くなられた。僕が知ったのは26日だ。言葉を失った。

会場で、そのさわりが上映されたのは、深浦さんの最後の仕事になった広島のテレビ局が制作したドキュメンタリーだった。ナレーションの仕事だ。癌が肺に転移していたというが、けれど、七月という、入院の直前に録音したとは思えないほど声に艶があった。よく知っている深浦さんのいい声だ。「声」はいろいろなことを伝えてくれる。からだの調子でさえ、声を聞けばわかるときがあるが、ナレーションをする深浦さんの声からは、からだの不調など微塵も感じられない。とても不思議だ。最後まで毅然と仕事をするのが彼女だったということだろうか。
ところで、去年の10月7日のこのノートを読んでもらえればわかるように、その日、私はCSテレビでヤクルトスワローズの古田の引退試合を観ていたのだが、そのとき、球場に行っていたのが深浦加奈子だ。試合後、深浦さんは古田と酒を飲んだという。引退試合のあとにそんなことができるなんて、ほんとにうらやましいぞ。そんな話を会場に来た古田がスピーチしていた。目の前2メートルぐらいの位置で話をする古田はでかかった。お別れ会もお開きになって、会場をあとにしたあと、やはり来ていた笠木と恵比寿で食事をしながら少し話をしたし、あとでメールももらった。「女優」という仕事について考えたという内容。山手線で新宿へ。このところ、僕はクルマでずっと移動していたものだから、あまり電車を使っていなかったが、こんなにみんな携帯電話を開いてなにか見ているのかとひどく驚かされた。

(6:09 Sep. 25 2008)

Sep. 23 tue. 「初台はお祭りだった」

60年代演劇再考チラシ

以前もここに書いた「国際研究集会 60年代演劇再考」のチラシが届いた。左にあるのは、当然、縮小したものだが、チラシは開くとA2ぐらいのサイズになる大きめのものだ。裏面にスケジュールが細かに記されている。リンクしたサイトにスケジュールが詳しく記されているけれど、ぜんぶ聞きに行きたくなる内容だ。
しかし、なんの興味でそうなのか、ということはある。あの時代について当事者が生で語る言葉から「時代の空気」をわずかでも感じることはできるだろうか。でも、六〇年代って、僕はもちろん小学生だったとはいえ知らないわけではないのだし、さまざまな媒体、あるいは記録によってその片鱗をいまも見聞きすることは可能だ。だが、それとはまた異なる側面を理解できるのではないかといった興味がある。あるいは、いま、あの「過去」を当事者たちがどう振り返り、いまだからこそ語られることがあるか、それを聞きたい。つまり、〈いま〉と〈未来〉のために。
それにしても、からだがまだ調子が出ないときがある。 いいと思っていると、不意に胸が痛くなる。そんなときはなにもしないでただ横になっている。ひどく腹立たしい気分だ。あるいは焦燥感。部屋が片付かない。ほんとにもう、どうしたらこの部屋の混乱を整理したらいいか途方にくれる。落ちついて仕事ができない。集中ができない。それで、いろいろあって、なおさら焦るのだ。書きかけの小説について考える。あと少し。集中しなければと思うが、うまくゆかず、歯がゆさばかり。

入院中は、自分の病気のことを中心に書いていたけれど、八月に赤塚不二夫さんが亡くなられたとき、小学生時代のヒーローたちの訃報を聞くことが多くなるのは、自分がそういう年齢なんだからしょうがないと思った(植木等さんしかり)。「小学生時代のヒーロー」を、ある時期、つまり自分が少し大人になってからすっかり忘れてしまうことも少なくはなく、赤塚さんに対しても考えてみれば、夢中になっていたのは『天才バカボン』のごく初期までだったと回顧する。その後、大人になってから、後期『天才バカボン』を読んで驚愕した。すごかった。ものすごくでたらめだったからだ。さらに、私より年長のある方から、『レッツラゴン』がすごいと教えられたのは、もう20年くらい前だ。けれど、やはり赤塚漫画への情熱はすっかり冷めていたからか(漫画そのものへの興味も薄れていたということもあって)、『レッツラゴン』を読もうという気分にならなかった。亡くなられたからといって、急に赤塚漫画に注目するのもだめな態度だが、『レッツラゴン』が読みたいと思いそれを探すといま容易に手に入れることはむつかしいのだと知った。
で、こうして、赤塚不二夫さんについて書きながら、最初に書いた演劇における「60年代演劇再考」とはまったく無関係のようでいて、同じ時代を疾走していた人たちだと思いあたるのだし、なにしろ赤塚さんは状況劇場のために新しい「テント」を買ってあげたという事実がある。時代の文化的状況のなかで強くつながっている。六〇年代の沸き立つエネルギーのようなものは、赤塚漫画に、そして演劇に、それに反響してさまざまな領域の芸術に、共時的にふつふつと現象していたのである。

夕方、外に出ると初台はお祭りだった。阿波踊りの人たちでにぎわっていた。初台の商店街がこんなににぎわっているのを見たのははじめてだ。ある映画をTSUTAYAで借りようと思ったら新宿店にない。副都心線で渋谷に出て、やはりTSUTAYAに入ったがここにもない。徒労に終わったものの、副都心線の渋谷駅に行ったのは収穫だった。

(7:35 Sep. 24 2008)

Sep. 20 sat. 「仕事を再開する」

渋谷公園通り

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用事があって、渋谷の公園通りに行ったのは木曜日(18日)の夜だった。入院する前から渋谷に来ることが最近はあまりなかったので、公園通りの左右に並ぶ店がいくつか変わっているのに軽く驚く。カフェがやけに増えている印象だ。たしか職安だったはずの公共の施設だった建物は、一階がカフェになっていて、様子がすっかり変わっていた。カフェの大半がいまでは、どこも同じようなシステムで飲み物を出す。むかしの喫茶店のように一杯ずつ丁寧に珈琲をいれてくれるようなのはいまでは流行らないということか。渋谷はどんどん変化する。パルコの地下にある書店に入ろうかと思ったが、棚を前にすればまた大量に本を買うだろうから思い止まる。家にも古書店から届いた大量の本があるのだし。
用事をすませるとバスで家の近くまで戻ってきた。山手通り沿い、初台に近いバス停から住宅街のなかを抜けて歩く。商店街にいたる道の途中にカウンターだけのカレー屋があった。よく見ると店をきりもりしているのは、小さなバンで昼頃うちの近くにやってきて、屋台風にカレーを売っている若い人ではないか。こんなところに店を出しているとは思わなかった。タイ風のチキンカレーを食べる。辛い。けれどうまい。病院で指示された塩分のことを考えながら食事。このところ、食事制限についてどうでもよくなっているのはまずい。ただ、クルマの運転は胸骨がしっかり治るまではやめなさいと言われているので、とにかく歩く。リハビリも進み、だいぶ歩けるようになってきた。
で、金曜日の午後(19日)、白水社のW君に会って、早稲田の「都市空間論」の相談。だいぶ方針が固まった。それでも勉強しとかなくちゃならないことはまだある。というか、授業の構想を練っていると、都市を考えるということは、「空間」とか、「土地」といったことだけではなく、もっと広い文化的な状況を解いてゆくことになると思え、いやがうえにも興味は高まる。でも、研究の結論があってそれを話すというより、ま、結局、僕は研究者じゃないので、これまで出した、「80年代地下文化論」にしろ、「ノイズ文化論」もそうだが、考えながら講義を進め、そのときの発見というか、思いつきが、ずぱっと鮮やかに出現するときが自分にとっての快感になる。それはきわめて身体的なものだと感じるのは、教室の前に立って、黒板やホワイトボードになにか書いているうちに、「考え」が出現することが多かったからだ。だから、体調の悪かった六月はあまりうまくゆかなかった。ことによったら、今年は四月からそんな感じだったのかもしれず、どこか、からだが重かった気がする。

そういえば、舞台を観に行って、打ち上げのようなものに誘われても断って家に帰ったり、人が集まるところに行きたくなかったり、といったことがしばしばあった。ただの「気分」だと思っていたが、からだがそう自分を促していたのではないか。もう数年前から、坂道を登ると、右胸から肩、背中に痛みがあったが、手術以降、それがぴたりとなくなった。そういうことだったのかと驚いている。心臓のリハビリはかなり快調に進行しており、だいぶ元の調子に戻ってきたので、これからまた、活動的にやってゆこう。行ける場所には行く。会える人には会って話をする。原稿は書く。小説も、戯曲も書く。少しずつ。様子を見ながら。ここ数年、人と会うのがおっくうだったけど、精神的というより体調だったのだな。それを払拭しよう。今年、後半の目標である。家の近所はこの連休がお祭りらしくその準備が忙しそうだ。秋祭り。提灯がぶらさがる。いい季節になってきた。

(11:12 Sep. 21 2008)

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