富士日記 2.1

Mar. 15 sat. 「いよいよ春めいて」

一九八七年新宿南口a

一九八七年新宿南口b

気候がよくなってきたので新宿まで歩いた。土曜日とあって、新宿南口に着くころには、ずいぶん人が多く、歩くのもたいへんだ。まあ、しょうがない。そういうものだし、その人混みを作り出している一人が私なのだし。
むかし、新宿の南口にはよくわからない小高い丘のような土地があり、あれが理解できなかった(写真は一九八七年当時の南口周辺。このサイトから引用させていただきました。そこに行くと現在との比較がわかります。見に行きましょう。勝手な引用で申し訳ありません)。それで古い地図を見てはたと気がついたことがある。京王線はいまでこそ地下にあるが、かつては地上を走り、いまの世界堂のあたりに京王線新宿駅があった。とすると、どこかでいまのJR、かつての国鉄を越えなければいけないわけで、おそらく南口の甲州街道あたりで国鉄の軌道の上を走っていただろうと想像する。あの丘はその名残ではなかったのだろうか。いまではそれもすっかり跡形もなくなり、きれいに整備されている。南口から階段を降りて、まっすぐ歩くと紀伊國屋書店にぶつかる通りを歩く。人が多い。かつてはこんなことはなかった。この通りはどこかうらさびれていたはずだが、すっかり新宿も変わった。紀伊國屋書店に入り、読もうと思っていた小説を三冊ばかり買う。ほかの階にも行こうかと思ったが、なんだかんだしていると、あっというまに散財してしまうので、ぐっと我慢してとりあえず、いま読みたい本を買った。
どこかで休もうと思って、路上に設けられた広場のような、仮設で作られたカフェ風の空間に並べられた椅子に腰をおろし、コーヒーを飲んだが、このコーヒーが驚くほどまずい。なかなかこんなにまずいものを作るのはむつかしいんじゃないか。そうと思わされるほどまずい。見ると、近くにあったレコード屋がなくなっていたし、ビルを解体するのか、ある一画の店がすべて閉店になっていた。新宿東口の荒廃はかなり進んでいる印象だ。人の流れはやはり南口や西口に向いているのではないかと考えると、東口は歌舞伎町と伊勢丹デパートだけでもっているような感じだ。ことによったら新宿東口は、過去の繁華街として浅草のようになるんじゃないかと思えてきた。でも、紀伊国屋書店があるから、まだなにか救われているように思える。

そういえば、チェルフィッチュの新作が公演されているのを不意に思いだし、岡田利規君と山縣太一に相次いでメールをしチケットを取ってもらった。それも楽しみだ。なんというか、六本木のSUPER DELUXで公演があるのが期待を持たせてくれるように感じる。その後、雑誌「論座」から、ネグリが来日するにあたって催されるシンポジュウムというのか、イヴェントというか、そういった催しに足を運んでレポートを書く仕事を依頼されたり、「東京人」からも原稿依頼があったけれど、「論座」は引き受けると返事をし、「東京人」はいま思案中だ。こんなに仕事を引き受けて大丈夫だろうか。四月以降の大学の準備もしなくてはいけないので悩むところだが、仕事はめったなことでは断らない。それでいいのかよくわからないけれど、死んだ気になれば、人はなんだってできるような気がする。

(7:16 Mar. 16 2008)

Mar. 14 fri. 「小説のことを考えて」

夜、NHKに行って、再撮影ロケを前に最終的な打合せをディレクターのNさんとする。細部の調整というか、撮り方についてアイデアを出し合う。それでこの放送に合わせ、何人かの友人、知人にインタビューをしてくれたというのでそのビデオを見せてもらった。それぞれ僕について語ってくれとても感謝したが、学生時代について語る竹中は、半分は大嘘である。聞くところによると編集前のインタビューはもっと長く、嘘ばっかりだったらしい。なんというやつだ。
ほかにも、いとうせいこう君、松尾スズキ君、三浦大輔君がインタビューに応えてくれた。とてもありがたい話をしてくれたわけだが、それにつけても竹中のやつはだな、なんだあれは。笑ったけどね。だってでたらめだもん。ともあれ放送を楽しみにしていただきたい。四月にNHK教育テレビの芸術劇場の枠で放送される。青山真治監督との対談も充実していると思われる。あと、再撮影ドラマがあり、そして本編が編集されてあり、ものすごく密度の濃いものになるだろう、っていうか、濃すぎないか。舞台とは異なり、映像作品として楽しんでもらえたらと思う次第である。あと、あれですね、インタビューの姿を見ていると、それぞれが表現されていて興味深かった。いとう君は落ち着きはらい、理路整然と話すのがいかにも彼らしく、松尾君はぼそぼそとローテンションなのが松尾君だ。三浦君はなんだか落ち着きがないし、このだらしない姿がいまどきだ。それぞれだな。とにかく竹中はでたらめだ。
さて、きのう書いた「<こと>や<もの>が、<小説>になるための跳躍力」についてさらに考えていたのである。以前、ドキュメンタリー作家の土本典昭さんについて僕は次のように書いたことがある。テレビディレクターとして水俣を撮ったのち、土本さんはその五年後、水俣の運動に深くコミットし長編のドキュメンタリー映画を作った。そのことについて僕はこう書いた。

 そこに至るまでの、あの五年間に意味があった。五年後に水俣の土地からあらためてはじめることに価値があった。作家とはおそらく、そうして変化するとき、自分でも想像していなかったほどのジャンプができる者のことだ。

 意識的になにかしようとしたってたかがしれている。土本さんのジャンプがそうであったように、なにかがそれをうながすから、ジャンプはふとやってくるだろう。もちろん、土本さんには、『ドキュメンタリー 路上』を作った映像作家としてのすぐれた表現力があり、それを背景にしているから、そのジャンプがより高い場所へと表現を導いたと想像する。技術だな。手垢のついた表現、保守化した方法や、あざとさ、小賢しい手つきはしたくないものの、ただ、説得する力があればそれもまた、ときとしてすぐれた技術になる。うまくなくちゃいけないのだな。徹底的にうまくなることだ。そんなことを考えつつ、小説を読んでいた。あと、僕にはそれが向いていないのかもしれないけれど、ねっとりとした人の「肉体」が書けたらと思う。それにはもちろん性的なことも含まれるが、それだけではなく、からだが発する匂いたつなにものか。書けるようになりたいし、そこにもまた、跳躍力は求められる。

(11:02 Mar. 15 2008)

Mar. 13 thurs. 「小説のこと」

久しぶりにのんびりすることができた。外は天気がいい。外光の明るさのなかで少し本を読む。対談したとき青山さんは、いまは思想書とか学術書など読むのをやめ、もっぱら小説を読むと話していたので、それで思いだしたことがあった。高校時代から映画評論を夢中になって読んだが、その後、それがばかばかしい気分になって評論は読まずに映画だけを観ようと考えたころのことだ。
その後、映画作品そのものと、評論を同軸に置いて考えることがそもそもおかしいと思い、べつの表現というか、まったく異なるジャンルだと考えて評論や批評も読むようになった。青山さんの考えはまた異なるだろうし、読まなくなったという社会学や哲学をはじめとする現代思想の書物と、文芸批評はまた異なる文脈にあるだろう。だけどいまこそ小説を読まなくてはと、そんな青山さんに刺激され、後藤明生さんの小説をあらためて開いたのは、このあいだ会った朝日新聞社のOさんと話しているとき、後藤さんの話になったからだ。
夕方、「新潮」のM君とKさんに会った。西麻布にあるとんかつ屋である。イベリコ豚をはじめて食べたが脂がものすごい。ちょっとクセのある味だ。それはそれとして、小説をもう一本書いて、単行本にしましょうという話になったが、まあ、単行本が目的というより、それは結果であればと思う。でも、なんだかんだ言っても単行本にはしたいわけさ。そのためにはもう一本は書かなくては分量的に足りない。書きたいことはいろいろあるのだが、それを小説にする手立てがよくわからないことがあり、たとえば、メールをもらった人の話に興味をひかれ、さらにブログなど読んで小説にしたいと思ったとき、その人のことを書くにはどういった方法があるか考える。興味深い人たちがいる。その人のことを書きたいと思うことはしばしばある。面白い話もいくつもあるし、じっくり見つめていたい出来事がある。だが、そこから小説に飛躍させるためには、大きな跳躍力が必要だ。それが「書く」ということだろう。M君からいろいろ話を聞く。じっと考える。ゆっくり考える時間を意識的に作り出さなければと思う。相変わらず忙しいけれど。

(9:53 Mar. 14 2008)

Mar. 12 wed. 「春めいてきた」

銀座4丁目

将軍池

この二日ばかり、やはり忙しかった。
まず、10日(月)は、午後から渋谷のザリガニカフェで、青山真治監督と『ニュータウン入口』芸術劇場版(というか、たしかもっと異なる番組名だったはずだが、いま失念)のために対談を収録。それはあとでまた詳しく書こう。その日はさらにNHK内で鈴木慶一さんの衣裳合せがあった(というのも、その番組の再撮影ドラマ部分に出演してもらうからだ)。翌日の11日(火)は朝から多摩ニュータウンへロケハン。そのまま午後、NHKで衣裳合せ。上村と鎮西が来る。メークさんに二人とも髪を切ってもらっていた。夕方から、朝日新聞社のOさんに会い、「一冊の本」の連載をまとめる相談をするため銀座で食事。とてもいい店で、ものすごく美味しい料理をいただく。と、この日のこともあとで詳述。
さて、「新潮」に発表した『返却』の感想が早速、いくつかメールで届いたけれど、みんなが、このニュースについて報告してくれた。「フィンランドの図書館、貸し出した本が100年ぶりに戻る」とのことである。これもなにかの縁だろうか。青山真治監督は、対談のとき感想を少し話してくれたが、ブログにも感想を書いてくれ、我が意をえたりといった内容だ。うれしかった。なにかが共振してゆくのを感じる。「新潮」のKさんからもメールがあり、小説の打ち上げの食事をしましょうといった内容で、よく知られているように、私は「とんかつ」にしかほとんど興味がない者なので、しばしばどうしても食べたくなる西麻布の、とある「とんかつ屋」に行こうと計画しているのだ。でも、ちょっと忙しいんだよな。このあとがまた。

青山さんとの対談はとても楽しかった。久しぶりにいろいろ話ができてよかったが、途中、「シックスセンス」という映画について話そうと思って、なにをどうまちがえたか、「シックスナイン」と発言してしまった。対談の冒頭で、「僕はだめじゃないですか」と話を切り出したら、青山さんは表情を変えずに、「はい」とあっさり肯定する。そんなにあっさりかいと思い笑いそうになったけれど、たしかに、だめだった。番組では15分ほど使うことになるが、収録では一時間は話していたと思う。これもまた編集に悩むだろう。で、慶一さんの衣裳合せは、まったく苦労しない。というのも、慶一さんて、なにを着ても似合うからで、するとその衣裳に合わせておしゃれになる。なじむなあ。衣裳さんと相談したときは、『野良犬』の志村喬という注文を出したが、まさにそうなった。
翌日の火曜日。朝九時にNHKへ。そこからロケバスのようなクルマに乗ってロケハンでやはり久しぶりに多摩ニュータウンへ向かう。運転手さんはプロなので道に迷うこともなく、きわめて効率的にいろいろな場所を見ることができた。あと、クルマを降りてあたりを歩いても運転手さんがいてくれるから、クルマを停めておくのも、当然ながら安心だ。去年の夏、舞台で使う映像のためにニュータウン界隈でロケ地を探したときよりずっと、またべつの側面を見つけることができたのは、歩いて細かい部分を見ることができたからだろう。遠景だけではなく、近景を見ることができたとでもいうか。いいロケ地をいくつも発見した。それでくたくたになった状態で、またNHKに戻ったが、食事を取っていなかったので局内にある食堂へ行った。こういうことも久しぶりだな、テレビ局の食堂でめしを食うということも。もう20年ぶりになるかもと思いつつ、きわめてリーズナブルな価格の食事をとる。それにしても現場のスタッフの食事をとるスピードは速い。ものすごい勢いで食べる。そんなとき、衣裳合せに来た上村からディレクターのNさんに連絡が入り、予定より少し早かったので、めしを食うのが、さらに大あわてになる。予定の時間より早く来てしまうところが上村らしい。鎮西がそのすぐあとにやってきたが、やはり予定の時間より早い。慶一さんは遅刻してきたけれど、それもまた、慶一さんらしい。
二人の衣裳合せも終わり、軽くNさんと打合せをしたあと、僕はいったん家に戻ってから銀座に向かう。しかしあれだな、放送の仕事から離れてもう20年近く経つけれど、こんなに打ち合せなどに時間がかかるものだっただろうかと、過去を回想する。たしかに打合せは頻繁にあった気がする。その後、僕は原稿を書く仕事とか、舞台を仕事の中心にしてきたので、すっかり忘れていた。いまはたいてい原稿を家で書いて、ほとんど編集者に会わないし、打ち合せといってもそれほど時間がかからないから、一人での作業が圧倒的に多い。放送は集団で作るものだから打ち合せのために外に出ることになる。現場にも立ち会うことになるから、家で台本を書くといっても、それほどではない。というか、かつて放送の仕事をしていたときは、その原稿も、局に行って書いていたから家にいることも少なく、やたら外に出ていたと記憶する。いまは家にいる。ほっとけば家で仕事をしている。それがからだに馴染んでしまった。
銀座で、朝日新聞社の出版部のOさんに会う。池波正太郎がひいきにしていたという、小料理屋といった風情のカウンターだけの店。酒を飲まない僕にはほとんど縁がないお店だ。Oさんに連れられてこれまでにもとてもいい店に何度も連れて行ってもらったが、この店の和食がことのほか美味しい。酒は飲めないが食事を堪能した。お酒の入ったOさんはいつにもまして饒舌になり、いろいろ示唆された。文学の話、そして、「一冊の本」の連載を単行本にまとめる計画を相談した。この単行本がまとまるのも楽しみだ。といったわけで、この日は一日に、三つも仕事をしてしまった。私はだいたい一日に、ひとつしか仕事をしないことをこの何年かある種のきまりとしていたが、こんなに働いたのは珍しいことになった。くたくただ。家に戻ったらぐったりしつつ、本を読む。まったくもって充実した一日だが、ちょっと充実しすぎた。人はそんなに充実しなくてもいいんではないか。本を読むような余裕がなくなるのを感じつつ、この日は終わる。そしてその翌日というのが本日だが、「webちくま」の原稿を書く。筑摩書房のIさんからは矢のような催促がこの数日、メールで届いていた。書けなかった。どうにも書けないんだからしょうがない。苦しみつつ書く。

相馬から、鍼治療の相談を受け、僕がいつも治療してもらっている鍼灸医を紹介した。早速、行ったらしい。僕も治療を受けている若先生に鍼をうってもらったそうで、「はじめて(の鍼)でウチに来ちゃいましたか」と言われたという。ハードにやられたんじゃないかな。笠木のブログを読んで、おじいさんが亡くなられたことを知った。さぞかし気落ちしているだろう。なにかと慌しくたいへんだろう。僕にできることなら、なんでもしてやりたいが、あまりできることがないのだった。申し訳ない話である。
それにしても春めいてきた。きょうは昼間、ちょっとした用事があって、ある場所に行き、「将軍池」というところを散歩した。この「将軍」は有名なあの葦原将軍からその名がつけられた。ガチョウがいて、ぎゃーぎゃー鳴きながらこちらによってくる。池のまわりには人気がほとんどなく、とても落ちついた気分になり、ガチョウがやってくるのもそれはそれで心がなごむ。春である。このまましばらく天気がよければと思う。

(9:16 Mar. 13 2008)

Mar. 9 sun. 「梅を見にゆく」

羽根木公園で

久しぶりに休むことができたので、小田急線・梅ヶ丘にある「羽根木公園」に行った。梅を見るのが目的だ。豪徳寺に住んでいるころは、よく「梅祭り」に来ていたが、去年は少し早すぎてまだ梅がつぼみだった。今年は少し来るのが遅くて最盛期のようなはなやかさがない。梅のシーズンは二月だ。二月だよ、羽根木公園の梅祭りは。忘れていた。覚えていたとしても二月はいろいろあったから来ることはできなかっただろう。きょうはほんとうになにも予定がなくて時間が取れたのだ。
土曜日(8日)は髪を切りにいつもの店に行ったので、さっぱりした坊主頭は冷える。ずいぶん暖かな日だ。それでも夕方になると少し風が冷たかった。かすかに残っている梅もきれいだったけれど、冬のあいだに緑が完全になくなった落葉樹の雰囲気がとてもいい。それから日曜日だったせいか公園には人が大勢いた。梅祭りのときは、もっと人が多いし、売店もならんでとてもにぎやかだ。時期を逸してしまった。朝すごく早く起きたので眠かったけれど、日のあるうちに外に出て春の気分にひたりたかったのと、仕事のない日、のんびり散歩をしたかった。のんびりしたな。梅も見たし、公園の雰囲気にもひたることができた。まだ幼い子どもとフリスビーをしている長髪のどこか怪しい若い父親がいた。ベンチで将棋をしている老人もいた。子ども用の遊び場では、みんな泥だらけになりながら遊んでいる。おだやかな日曜日だ。一年前も入った喫茶店で休憩する。知らない町の喫茶店やカフェに入るのは好きだが、もちろん豪徳寺に住んでいたころ梅ヶ丘にはよく来ていたものの、その喫茶店は引っ越してからできた店だろう。駅前のケーキ屋さんでケーキを買う。その隣にあるドラッグストアーで買い物。
桜ほどの派手さはないけれど、梅の魅力というものはあり、だから梅はしみじみ味わうべきものと考えれば、「梅祭り」のときに来なくてよかったのかもしれない。だいたい「梅祭り」というのは妙な言葉だな。なにかと「祭り」はある。各家庭で「祭り」を開けばいいと思う。「台所祭り」とかね。なんのことだかわからないけれど。

Jリーグは開幕し、エスパルスも、ジュビロも負けた。でばなをくじかれたような気分になる。そんな三月だな。

(3:19 Mar. 10 2008)

Mar. 7 fri. 「せわしない日々を過ごして」

雑誌「新潮」に小説を発表しました。「新潮」に頼まれてから20年。つい先日、というのは、小説の最後の直しをしに新潮社に行った日だが、「新潮45」のNさんに会ったら、この20年間で20キロ体重が増えたと言っていた。ということは、一年一キロということになる。Nさんは相変わらずだった。やたらに元気だった。はじめて会ったころは新潮社に入社したばかりで、まだ幼さの残る新人編集者だったが、あのころとあまり変わっていない印象を受けた。
というわけで、新作の『返却』を読んでいただきたい。31年前に図書館で借りた本を返しに行くだけの話だ。それでタイトルが『返却』だ。20年間待ってもらって、そのあげく、こんなタイトルかよ。書き進めながら小説の書き方を学んでいたような気がする。これが僕にとっては四作目の小説(掌編を含めると六作)。これからもっと書こう。これまでのぶんを取り戻すように書こう。考えてみたら、そのあいだに書きかけの小説があと三作あったはずだ。それも完成できればと思うのだが。とにかくどんどん書く。これでもかとばかりに書いてみよう。
そんなうれしいことがありつつも、忙しい日々だった。葬儀があってから、すぐに東京に戻ってリージョナルシアターのリーディング公演を二日で三本。3日に静岡に戻り、もろもろ片付けをし、4日は父の墓石を選ぶために業者の方に会った。いままで知らなかったことを教えられる。業者の方と会ったのは父が眠る予定の霊園だったが、教えられてほかの方の墓を見ると、たしかに石の質といい、デザインといい、細かいちがいがあるのだとはじめてわかる。5日に東京に戻る。6日は原稿を書く。『考える人』の連載。NHKの芸術劇場版『ニュータウン入口』の撮影台本。きょうはロケハンで高円寺の古書店に行ったり、出演する田中の衣裳合せや美術打ち合せなどする。

といったわけでせわしない日々は一段落。あらためて、父の死に際し、ご助力、ご厚情いただいた方々にお礼をしなければと準備しているところだ。このあと、10日には芸術劇場の放送で流される青山真治さんとの対談があり、ニュータウンでのロケハンや撮影があり、今月はともかく忙しい。忙しくて幸いだ。だけど、忙しくても勉強はしておこう。読むべき本が何冊もある。大学もはじまる。

(2:59 Mar. 8 2008)

Mar. 3 mon. 「踊りながらその人はやってきて」

それはめったにないことだが、ある特別な感銘がからだのなかに湧き上がり、演劇を観ることの悦びをあらためて考えつつ、ことによったら太田省吾さんの舞台をはじめて観たときに似た思いを抱いていたのかもしれないけれど、ロビーに出てそんな感情にひたっているところへ、作者の山岡徳貴子さんが踊りながら私の前に姿を現したのには、またべつの感慨が湧いてこようというものである。
その人は踊りながらやってきたのだ。3月1日、リージョナルシアターのひとつとしてリーディング公演のあった『静物たちの遊泳』はほんとにいい作品だった。岸田戯曲賞の候補作になっていたので戯曲は読んでいたし、戯曲から受けたのとあまり印象はかわらなかったものの、この作品を通じて、太田さんの『小町風伝』が理解できた気持ちになったのだ。リーディング公演とはいえ、それほどラスト近くの盆踊りが美しい。「盆踊りが美しい」と書くと、なんのことだかわからないと思うが、それが美しいと感じるのは、戯曲全体がそこに向かって収束し、劇を通じて一人の女性の人生が映し出されるように描かれるとき、演劇表現の可能性が団地の一室で展開する、ささやかで、ゆったりとした盆踊りとなって立ち現れるからだ。このことに驚かされた。刺激され、なにかを強く喚起された。そしてこれは太田さんなんじゃないかと思いつつ、逆に、太田さんの作品を理解する「補助線」のようにも存在したそれは、「補助線」と書くのは申し訳ないほど完成度も高かった。いくつか気になるところはあるものの、でも、その美しさに圧倒されるのだ。「美しい」が演劇的に存在するとはこうしたことか。表層的な「美しさ」を演劇はことによったらいくらでも生み出すことができるかもしれないが、本質はあたりまえだがそこにはない。太田さんが「あれはきれいだった」と僕が演出した舞台を観て、一度だけ話してくれたが、それがよくわからなかったし、太田さんの舞台の美しさについてもうまく理解できなかった。それを考えるきっかけが『静物たちの遊泳』にはあった。
それほどに、『静物たちの遊泳』がよかったのだ。だから、リージョナルシアターのリーディング公演のアドバイザーをしながら、ほかの二作品の印象が薄くなってしまい、それはきわめて申し訳ないのである。札幌から来た、WATER33-39の『ためいきをつくかいのはなし』はとても丁寧に作りこんだ作品だった。ただ、いかにも表現に過去のものを感じたのと、ナイーブすぎる戯曲だと思えてならなかったし、だから含羞が足りない印象を受ける。では、僕がアドバイザーをやった熊本の劇団0相の『アクアリウム』がよかったかと言えば、まったくそんなことはない。なにか甘いのだった。表現の全体に幼い感じを受けた。稽古にも参加し、いくつかダメも出したけれど、そのことは拭いがたく全体を覆っていたように思う。戯曲は何度か書き直しをしたが、まだ直せたし、もっと根本的な部分で書き換えることは可能だっただろう。だが、技術的なアドバイスはできても、演劇そのものに対する考え方、取り組み方を変えなければいけないと思いつつ、そのためには時間が足りない。こうして東京で他者の目に批評されることで、少しは変化があるのではないか。彼ら自身が刺激を受けたのではなかったか。そして、真一郎を演じた、ほとんど舞台経験のない俳優について、僕と、リージョナルシアター制作側の人が同時に「彼はいいね」と河野君に話したことの意味、そしてト書きを読む俳優の、表現に取り組む姿勢が(あくまで、この公演を観るかぎりは)だめだった意味を、作・演出の河野君が理解できたかどうかだ。

稽古期間中、僕のほうの個人的な理由できちんと時間が取れなかったり、十分なアドバイスができなかったのは申し訳なかった。だけどアドバイスすることを通じて、またいろいろ考えることができた。そこには僕自身が抱えている表現上の問題もあるし、そのことを気づかせてくれた。あるいは、「水俣病」を背景にした戯曲を若い世代がどう書くのかという興味はずっとあった。それが成功しているかどうかはともかく、僕はいまこそ水俣に行きたくなったのだ。土本典昭さんがドキュメンタリーで撮り続けた水俣とその周辺の海を見に行きたくなった。いま、その土地はどうなっているだろう。
さて、そんなリージョナルシアターの仕事のあいまも、『ニュータウン入口』の芸術劇場バージョンの準備は着々と進んでおり、NHKのNさんと何度か会って打合せを重ねている。考えているうちにどんどん面白くなっているが、するとロケ部分が長くなるんじゃないかと思い、時間を短縮するとか、わかりやすくするといった本来の目的から逆に遠ざかる傾向になってゆく。むしろ、いよいよわけのわからないものになりはしないだろうか。ロケ部分が長くなって本編をかなりカットすることになりはしないかとそれをNさんと一緒に危惧しつつ、その危惧もまた、楽しいから困るよ。
といったわけで、いまはまた静岡にいる。伊地知と、それからやはり小学校の同級生の旧姓中村さんと会って夜遅くまで話をした。楽しかった。伊地知は相変わらずばかだった。伊地知が主演したという自主制作映画のDVDを渡された。どうしたものかと思う。

(7:49 Mar. 4 2008)

2←「二〇〇八年二月後半」はこちら