富士日記 2.1

Jun. 29 sun. 「短いメモ」

といったわけで、いま早稲田の授業を中心に生活が動いているわけだが、そんな日々のなか、先週の木曜日(26日)は休講してしまった。一度はかなり恢復したと思ったからだがどうにも動かなかった。症状はその前と同じで、胸のあたりに激痛が走り、神経痛というやつだと思う。こういった症状をさかのぼって考えるに、クルマの運転をしはじめてからだと思いあたるふしがあり、いま乗ってるゴルフのステアリング(つまりハンドル)が重いんだよ。若いときにクルマの運転を始めた人はそこの筋肉が鍛えられたかもしれないが、四五歳まで運転していなかった者がいきなり、あのハンドルを動かすという、いままで使ったことのない筋肉を使うということは(だってあの動きは日常ではめったにしない運動ではないか)そもそも無理があるのだ。それでもって、ステアリングが重い。肩から肩甲骨の下あたりが異常に痛くなることはこれまでもしばしばあったが、いよいよ、だめになったとしか言いようがない。
それでやむなく休講。しかも体調不良で休講したのは早稲田に来てからはじめてのことだったし、めったに休講をしないのでそのことで落ち込んだ。その日はすぐに鍼治療に行く。翌日もまだ痛かったが、なんとか授業をする。少し歩くだけで、痛いが、ここで休むと授業の進行上、いろいろ問題があると思い、無理してでも授業をする。その後、なぜか、風邪もひき、週末はぼーっとして過ごしていた。このところ週末を無駄に使っているが、まあ、からだが休めとシグナルを送っていると思ってがまんする。父親ゆずりの、せっかちで、なにかしていないといやな気分になりなにもしないで、ぼーっとしているのが我慢ならないのである。
といったわけで、きょうもまた、短めの更新。それはそうと、紀伊國屋書店から佐藤真さんのドキュメンタリー作品が収録されたDVDボックスが発売されていた(少し前から出ていたのかな)。すぐに注文。こうなると土本典昭さんのDVDボックスもほしくなる。出してくれないかな、どこかで。だけど、大学の個人研究費で買ったDVDを観る時間がほどんない有様だ。それにしても、読書も停滞し、創作も停滞。このノートも停滞。もう七月という、わたしが一年でもっとも好きな季節になるので、これから音をたてるように働こうと思う。また体調は万全ではないなか、ノートを、というか、メモのようなものを残しておきました。昨夜、ぼーっとした意識のまま、ユーロサッカーの決勝を観ていた。スペインの強力なサッカーはドイツにほとんど仕事をさせない。日本がここに追いつくのはあと五〇年くらいかかるのじゃないかと思えた。ま、それはともかく、仕事だ。

(12:31 Jun. 30 2008)

Jun. 23 mon. 「この数日」

先週の木曜日から体調が悪かった。絶不調だった。まだ、金曜日までは大学の授業があるという緊張感のせいか、なんとかもったが、土曜日と日曜日はまったくだめだ。なんというんでしょう、普通に「肩こり」という言葉はありますが、それがとてつもないことになったと想像していただきたい。肩から、背中の右にかけてとにかく痛いが、それだけだったら、まだ我慢もできる。ところが、そっち側に筋肉が引っ張られ、胸のあたりが激痛に襲われる。これが痛い。ただごとならない痛みだ。寝ようと思っても、痛みで眠れない状態のまま、意識が朦朧とするなか、きょうは「STUDIO VOICE」で、ある方と対談した。ほんとは名前を書こうと思ったが、先方のブログを読んだら、

夕方から新宿で、スタジオボイスのための対談。これ書いていいのかどうか分からないのでちょっとボカすが、相手は演劇人のM氏である。この対談の模様は、今月末に出る号ではなく、その次の号に載る予定。

とあったので、こちらもぼかすことにしよう。僕にとってはとてもいい対談になった。
そのあと鍼治療へ。もっと早く鍼を打ってもらえばよかった。かなり恢復した。で、話を聞くと、これはある種の神経痛らしい。いやだなあ。神経痛って言葉がいやだよ。そんなものになるとは思ってもいなかった。治療を終えると、少し発熱。頭がぼんやりし、胃が気持ち悪い。鍼治療という施術は全身に、ある意味、傷をつけるのだから「発熱」は仕方がない。胃が気持ち悪いのは、痛み止めの薬をここ何日も飲み続けていたからだろう。食欲がまったくない。結局、きょうはなにも食べなかった。

体調が悪いと、いろいろなことが虚ろになるが、治りかけのからだは、それはそれで奇妙だ。急にからだが軽くなり、意識も変化して、なにかよくわからない多幸感に包まれる。そういうことがあるたびに、人間のからだは、うまくできていると思う。

(12:15 Jun. 24 2008)

Jun. 16 mon. 「考えなくてもいいことを考えること、あるいは愉楽」

首を寝ちがえるということはあるが、首の右から下にかけて、つまり右肩、背中右半分が「寝ちがえ」のようになって、痛みで眼を醒ましたのは、夜の八時ぐらいのことだった。なんという時間に眠っているかといぶかられると思うけれど、朝は早いのである。たいてい朝八時には眼を覚まし(一般的にはごくあたりまえだし、むしろ遅いかもしれない)、それから仕事をする。午後、もうとうに締め切りが過ぎている『東京大学[地下文化論]講義』(白夜書房)の文庫化のための校正を急がなければと思い、外に出て同じ姿勢で二時間ほど読んでいたのである。「同じ姿勢」がいけない。すっかり筋が固まってしまった。それで夕方、少し眠ったところ、からだが痛くて眼が覚め、そのうち治るだろうと思ってじっとしていたがぜんぜん痛みがひかない。その後、ベッドから出るとしばらく痛みが収まるのを待って、深夜のニ時ごろから仕事の続きをする。ようやく明け方、校正を終える。

ところで、私が無類の地図好き、というのはよく知られているが、その一方で、無類の機械好きでもある。しかも、そんなに必要がなくても、それをやるとこんなことができるのか、という興味で機械をいじるのはこのうえない愉楽である。たとえば、世界中で発売されているDVDには「リージョンコード」があって、その国で買ったDVDソフトは、その国で買ったデッキでなければ再生できない。べつに著作権法でそう決められているわけではなく、業界での取り決めでそうなったという。たとえばアメリカで発売されているソフトは「リージョン1」だ。日本は「リージョン2」だから、国内で買ったデッキでは輸入したDVDは再生できない。一方、「リージョンフリー」というデッキが存在する。どこの国で買ったDVDだろうと再生できるらしい。だが、ある国産のDVDデッキの存在を知って、私は迷わずヤフーオークションで落札した。七千円ぐらいだったが、現物が届いてそれがもともと、かなり高性能な機種だと知った。しかし、それ以上に、このデッキが面白い。トレイを明けっ放しにした状態で、リモコンを操作しある数字を送信、その後、いったん電源を切ると、リージョンが変更されるのである。フリーにすることさえできる。面白いなあ。なんという面白さだ。けれど、そのことを確認したとたん、そのDVDデッキへの情熱があっというまに薄らいだ。いまは普通に使っている。
そんな折、「CS110°」のアンテナで、CSデジタル放送を受信するのはきわめてむつかしいということを知った。電波の方向が微妙なのである。東京だと、東経224(ほぼ南西)、仰角38.1度の位置にぴたりと合わせないと受信ができないらしい。なにしろ相手は衛星である。こんどは相手もでかいよ。買ってきたね、デジタル放送を受信するアンテナを。やはり七千円ぐらいだ。もともと「CSデジタル放送」を受信するチューナーは家にあったので、アンテナさえあればいい。しかもうちの窓は南西に向いている。作業をはじめたのは夜になっていた。アンテナをベランダの手すりに取り付ける作業をし、ケーブルをセッティングする。あとはアンテナの方向を決めればいい。なんだかんだで一時間以上かかっただろう。ぜんぜん映らない。アンテナレベルというやつをチューナーが検出してくれるが、ずっとゼロのままだ。しばらく休憩。いろいろ問題点を考える。こういった場合、問題点をひとつひとつ探ってゆくのが大事だが、それが、愉楽である。問題が起こるからこそ面白い。
まず、チューナーを疑う。あ、チューナーからアンテナに電源を送る設定がオフになっていた。そりゃあ、映るわけがない。電源が入っていなければ、それはアンテナじゃなく、ただの丸くて中華鍋みたいなおかしなものだよ。オンにする。まず第一段階はクリアだ。あらためて受信しようとするが、それでも映らない。また考える。ケーブルか? アンテナに付属していたケーブルは、一方の端は、IFって言ってテレビの差し込み口に入れるあのコネクタがあらかじめ付いているが、もう一方は、自分でそれを工作しなくてはいけない。作業に不備があるかと考えやり直し。ペンチとカッターでちょこちょこ工作する。これ以上のことは考えられないというほどの、完璧な仕上がりになる。ところが、それでも映らない。アンテナ側のIFがしっかり挿入されていないかと疑いそれもやり直したが、それでいったん、ベランダにアンテナを取り付ける金具から、アンテナ本体を抜くことになる。調整をして、そのまま、アンテナ本体を手に私はベランダにいたのである。もう深夜になっていた。そこで少し考え、このままアンテナを動かしていたら、どこかの方角で電波を受信できるのではないかと気がついた。深夜、パラボラアンテナを手に、ベランダで、それをゆらゆら動かす人がいたのである。どうなんだろう、と思いつつ私は作業を進める。するとある方向から電波がやってきたのがわかった。ベランダから窓越しに部屋を見てモニターをチェックすると、一瞬だが、受信している。ここだ、とわかったところで、それを記憶できるわけがない。けれど、受信できることはわかった。ここでいったん休憩。すごく疲れた。もうかなりの深夜だ。
作業再開。取り付け金具にアンテナを戻す。方位磁石を手に、方向を定める。角度も決める。映った。ようやく映った。まだ受信レベルが低かったので、微妙に調整すると、ほぼ満足のゆくレベルに到達した。映ったんなら、もう、あとはどうでもいい。べつにスカパーがデジタル放送で見られようとそんなのどうだっていい。あんなにチャンネルがあったって見られるわけがないじゃないか。しかもだ、普通、デジタル放送が受信できるなら(そのチューナーがあれば、地上デジタルも、BSデジタルも見ることができる)、デジタル放送に対応した巨大なモニターで観るべきだろうが、そんなものにも興味がない。なぜなら、あのモニターは、なにか手を入れるすきがなさそうだからである。受信ができたら、それでいいのだ。それ以上のなにが必要だというのだ。

ところが、ここでデジタル放送にもうひとつの問題点があるということを最近になって知った。いわゆる「コピーワンス問題」である。つまり、デジタル放送をコピーするのには制限があるということだ。著作権上、そういうことになっており、たとえばコンピュータに取り込んでそれを編集したりすることができない仕組みだ(なんかデジタル波のどこかにそれを制限するデータが組み込まれているらしい)。著作権法によれば「教育」で活用する場合はコピーが許されている(それも最近になって知った)。私はべつに放送を取り込んでそれを大量に複製し闇ルートで売ろうとか、そんなことは考えていない。むしろ、大学の授業で学生に見せたいと思っている。だったら許されてもいいはずじゃないか。
だが、それもあっさり解決。映像をコンピュータに取り組む際に使うチャプターの機器が、コピーを制限するデータをまったく気にしないタイプだったのである。つまり、ばかなんだよ。ばかだからできる。簡単に取り込むことができる。ただ、もうひとつ問題があるとすれば、チャプターする機器を通したときコンピュータに入力されるデータはどうしたってアナログになるのだった。そりゃそうだな。よく見れば、繋いでいるケーブルがデジタルに対応していない。そもそも、放送から流されるデジタルデータと、コンピュータが扱えるデジタルデータは種類のちがうものだし、デジタルを、デジタルのまま、コンピュータ上で編集したりコピーすることは最初から無理な話だ。
だけど、世界は広いよ。それができる機器があることを最近になってまた発見したのだった。じつは、Windowsマシンに対応した、デジタル放送受信カードは、ふた月前ほどから、なぜか販売されていたものの、そのカードにはかなり制約がある。たとえば、それで受信し、コンピュータに録画されたデータは、そのマシンのハードディスクから外へはムーブできないとされているし、マシンを交換するともう二度と再生できない。けれど、そんなこともおかまいなしの機器が存在するのである。ここではあえて書かないが、USBを介して、デジタル放送のデータをコンピュータに、デジタルデータのまま移動させ、編集でもなんでもできる。もちろん、Windowsにしか対応していないが、こと、グレーゾーンにあるものごとにおいて、Windowsの世界は(もちろん普及率が圧倒的に高いからだが)かなり奥が深く、先進的で、ソフトにしても数がかなりある。それが面白い。なんでも作っちゃう人がいるってことが。

結局、「地上デジタル放送」が開始されるにあたって、「著作権」を名目にしてなされる、いくつかの制度が、私にはどうも腑に落ちないということだ。そのうち、「地上デジタル放送」はあたりまえになってゆくだろうが(だって、アナログ放送は消滅するのだし)、だからなんだとしか言いようがないじゃないか。たとえば、僕の舞台が放送され、それが大量にコピーされたとしよう。むしろ、より多くの人がそれを観てくれると考えたら、逆にうれしいじゃないか。まあ、演劇は本来が複製を前提にしていないので例としては不適切だが、では、あらゆるジャンルのアーティストが、複製され、大量に流布されるといった、「著作権の侵害」によって、どれだけの被害があるのだろう。あるいは、「著作権」が侵害されることでアーティストが被害を受け、それが創作に問題をきたすのなら、そもそも、なぜあれほど、「個人による複製」が簡単にできてしまうような「機器」を数多く資本は開発してきたのか。ほんとうに、表現者を守ろう、創作された著作物を守ろうという意識があったら、その開発がおかしいじゃないか。で、たとえば、iPodにも著作権料を上乗せするというニュースが流れたが、なぜそれを消費者が負担するのか。だから、ほんとうは開発した者が全額負担すればいいという論理になるが、アップルはiPodという「モノ」ではなく、「音楽を気軽に聴くという利便性」という「概念」を開発し、その「概念」を享受しているのはiPodを使っている消費者だという論理も成立するとすれば、この「概念」の内側に、はたして、ミュージシャンをはじめ、音楽に関わったすべてのスタッフが存在できているだろうか。あらゆる「デジタルな二次的生産物」は「概念化」する。「概念」は複製がたやすい。なにしろ「モノ」じゃないからさ。「概念化」の世界のなかで、著作権をあいだに挟んで、資本と消費者はこれからも対立するだろう。だから、その抜け道を探すべつの開発者が現れ、またべつの「概念」を提示する。そして、この特別な「対立の構造」のなかに、「表現者」はもともと、存在しない。

(14:59 Jun. 17 2008)

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