富士日記 2.1

Oct. 18 thurs. 「渋谷の壁に絵があった」

渋谷の壁画

昼間、ちょっとした用事があって渋谷に行ったのも久しぶりのことで、ぶらぶらあたりを歩くとレコードショップ、CDショップが以前より増えている印象だ。
むかしからあるCISCOとか、いくつかよく知っている店はやっぱり健在だが、東急ハンズの正面入口の前にある坂をおりた真向かいにあるビルの、ルノアールの下、その一階はかつてなんだっただろう。レコードショップになっていた。そば屋じゃなかったかな。20年前、この近くで舞台の稽古をし、昼食をそこでとった記憶があるが、街は少し足が遠のくとすぐに変化する。ことによったら僕が知らないあいだに、もっと変化していたのかもしれず、そば屋のあとが、うどん屋で、さらにコンビニになり、金物屋とか、洋食器屋とか、あれこれしているうちにいまのレコードショップになったのかもしれない。だからまた次にくるとべつの店になっているのじゃないだろうか。渋谷は相変わらずだ。
用事をすませたあと、NHKのすぐそば、税務署の近くにある古いビルの一階にあったカフェで食事をした。人があまりいない。まあ、平日の午後だから、たまたますいていたのかもしれないが、まるで京都のカフェのようだった。古いソファが並んでいる。天井からやはりアンティックな照明が下がっている。カレーの量がやけに多いじゃないか。食事をすませ、アイスコーヒーを飲み、タバコを吸ってしばらくぼんやりした。店を出て、ここを曲ってもいいのかなという路地に入ってすぐのところにあるビルの壁に描かれた絵が気になりそれをデジカメで撮っていたら、ビルのオーナーであろう初老の方が絵について説明してくれた。長いんだよ、話が。でもとても興味深かった。以前までこの壁には落書きがひどかったそうだ。で、あれの、なんていうんだっけ、あの、ああいった街のそこかしこにあるペインティングのことだけど、グラフィティだったか、そういったやつを描いているプロに依頼しあらためて制作してもらったという。その後、落書きはまったくなくなった。なるほどなあ。それを聞きながら、きのう書いた「サブカルチャー」のことを思い出していた。これは来年の授業で取り上げよう。でも、もう10年前になるか、スチャダラパーのアニ君にヒップホップの要素として、そのひとつにこうしたグラフィティがあることを教えてもらったが、さかのぼればキース・ヘリングがいるし、かつて落書きだったものがいまではポップアートとしてごく普通に認識されているのだろう。

それを単に街における通俗的な現象として認識するのではなくもっと考えることがあると思える。そうだった、「サブカルチャー論」のほかに、「都市空間論」といった講義も担当することになっているんだけど、こうして街を歩いていると刺激はさまざまに受け、渋谷を歩く、彼/彼女たちの「身体」から、現在について考えることをうながされる。それは現象だけではなく、たとえば、「ノイズ文化論」のなかでも触れた「フリーター問題」などと背後でつながっており、それら現象によって構成される街の具体性が深い部面で文化の問題としてあり、また異なる考えを示唆するのだろう。ふだん僕は稽古場にばかりいる。そうでなければ、だいたい俺、家を出ないしさ。ちょっとでも街を歩けばいくつもの発見がある。寺山修司は「書を捨てよ町へ出よう」と言ったが、「書を持って町へ出よう」という気分だ、いまは。だから、読みかけになっているヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』をあらためて読もう。それでかつて、町の地図を描くという雑誌の連載をしようと企画してくれた人もいたんだけど、あれぞ、「都市空間論」ではないか。そんな日だった。天気がよかった。あれこれ考えることのできたいい一日だった。これから俺は、直島に行く。

(5:09 Oct, 19 2007)

Oct. 17 wed. 「髪を切られながら考えたこと」

青山のショップ

ニュースを見るといやな気分になる。公演中、つい舞台のことばかりで、外側のことがわからなくなるから、できるだけニュースや新聞の報道、ネットのニュースサイトをチェックしていたつもりだが、その後、ミャンマーはどうなったかということも気になるものの、世界があの事件に対して、あるいは日本政府が長井さんの死についてどう対応するのか注目していた。ニュースが先細りになっているようで、それもまた「報道されないからこそ」のいやな気分を高める。
また坊主頭にしてもらいに青山にある髪を切ってくれる店に行った。さっぱりした。で、鏡の前に必ず雑誌を何冊か用意してくれるが、女性だったらファッション誌といったものになるのだろうけど、僕の場合はいつも、「NUMBER」があり、それから「monoマガジン」と「BRUTUS」だ。「monoマガジン」はiPodが特集されていた。このところ長い移動がなくほぼ稽古と公演だったのでiPodで音楽を聴くことがほとんどなかった。新しいiPodが出たニュースは知っているものの、あまり興味がわかないのは、音楽を聴かないということではなく、新しい機械類に関心がないということか。時計もいろいろ載っていた。ぜんぜん興味なし。あ、でも、CASIOのチープな感じの時計にはちょっとひかれた。ほかにもいろいろな「モノ」があるがべつにどうだっていい。
来年、僕は早稲田で「サブカルチャー論」という授業を担当するわけですが、いまこの国では、これほど曖昧に使われている「用語」もないのではないか。学生がぱっと「サブカルチャー」という言葉を眼にしてなにを思うか、なぜか「monoマガジン」をぱらぱら読みながら考えていたのだ。カルチュラルスタディーズが、サブカルチャーの研究に注目するのは、なんとなく感じとして理解できる。というのも、そこでの「メイン」に対抗する「サブ」には、「民族性」や「階級性」がくっきりとあるからだろう。つまりポストコロニアリズムっていうか、そういった視座があってこそのサブカルチャーのはずだけど、一般的にいま日本で「サブカルチャー」というとむしろ「趣味性」におちいりがちで、視点がやけに狭い。「monoマガジン」にこの国のサブカルチャーの形骸を見る。で、髪を坊主にしてもらいながらつらつら考えていたのは、『東京大学[ノイズ文化論]講義』っていうのは、まさに、カルチュラルスターディーズ的な「サブカルチャー論」だったという、いまさら気がつくなよって感じの発見だ。ああ、そうだったのか。「80年代地下文化論」と「ノイズ文化論」の二冊があれば、来年の「サブカルチャー論」ができる。そうは思ったものの、ぜんぜんそんな視座が僕になかったから、もっと勉強しなければいけないというか、授業が楽しみになってきたのは、それを通じてより考えることができると思ったからだ。

深夜、「webちくま」(とリンクをはったが、そのページからだと、筑摩書房のトップページに戻る方法がわかりづらい。で、筑摩書房はこちらである。まあ、「webちくま」のURLから「new_chikuma/」を引くだけだが)の原稿を書く。一日にひとつしか原稿が書けない。かつて僕のワークショップに来ていたMさんという方からメールをいただいた。山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ったそうだ。で、いろいろなことをメールに書いてくださったのだが、向こうで、『ニュータウン入口』でカメラマンをしていた今野に会ったらしい。

映画祭で姿をお見かけし、あのカメラマンの方では? と、声をかけさせていただいたところ、本人でした。橋本さんや同居の仲間と一緒のようでした。

 たしかそこには、今野の横でケーブルをさばき、さらに「ニート役」もやっていた白井もいたはずだが、白井は気づいてもらえなかったのだな。残念な話である。しかも今野についてMさんは、「少ししかお話できませんでしたが、表現者としての“覚悟”とプライドが感じられ、印象に残る瞬間でした。私よりもわりと歳下ですが、とても魅力的な方でした」とまで書いているが、白井についてはまったく触れていない。つくづく残念なことになっている。

(10:43 Oct, 18 2007)

Oct. 16 tue. 「直島に行くまでに仕事を片付ける」

山手通りは工事中

午後、「STUDIO VOICE」のSさんに会って、同じ会社から出ているべつの雑誌の原稿の打合せをした。で、連載ということになっていたが、あと二回でその雑誌が休刊になることが急遽決まったらしい。打合せはオペラシティのなかにある面影屋珈琲店。それで外に出た。山手通りの工事はもうかなり以前からずっと続いているが、この12月、地下を走る高速道路が開通する。工事の進行を外に出るたび見ていたが、いよいよになってきたらしいけれど、それにしてもすごい工事になっている。景観はすっかり変わってしまった。この地下に首都高が走り完成に近付いているはずだが、内部がどんなことになっているか地上からはさっぱりわからない。
休刊と言えば、舞台で忙しかったのでなかなか書こうと思いながら書けなかった「大事件」に、「MAC POWER(アスキー)がある。休刊になってしまった。T編集長の新しい編集方針で新たなデジタル文化誌ともいうべきものに、ある時期を境にがらっと変わって、いよいよ良質な雑誌になった。それが休刊になってしまうとはなにごとだ。売れていたというのにさまざまな事情があるらしい。いやな世の中だなあ。僕も個人的にお世話になったし、Macについてというか、デジタル関連について唯一書ける連載を持たせてもらっていたので、それはそれとしてとても楽しい仕事だった。どうしたって僕は演劇が専門だからそうした仕事の依頼が多い。こうしてまったく異なる領域の原稿を書くのも楽しみのひとつだった。とはいっても、戯曲を読む「東京人」(都市出版)の連載は大事だ。なにしろ、戯曲をあらためて読むし、なにかを書くという意志の読みはぜんぜん異なる読みだ。まあ、連載もかなり引き受けてしまったものの、おそらく「一冊の本」(朝日新聞社)の連載はまもなく終わるはずだ。これは僕にとっての一大事件で、なにしろ十年以上書いてるんだから驚く。連載が終わったら単行本化されると思うが、しかし、これはいったい、どういった種類の本なんだ。
「webちくま」の連載「テクの思想とその展開」について、舞台も観に来てくれた、建築家であり大学で教えてもいるYさんからメールをもらった。最近、その連載で、「はじめての」とか、「やりなおし」といった言葉が書名にある「テク」の本について書いたことに関してだ(改行を勝手ながら直させてもらいました)

 ウチの本棚を見渡したら、他にも「テク」への憧れを誘う本がありました。その冠には「やさしい○○」とありました。それから「○○ができますか?」。どちらも学生時代に買った本。前者は「やさしいフランス語新聞」(第三書房)。ちっとも「やさしく」なかったです。
 後者は「これを英語で言えますか?」(講談社インターナショナル)
 これはかなり「問題」なんではないかと思う本です。副題に「学校で教えてくれない身近な英単語」ってあるのですが、第1章「英語でどう言う?こんな決まり文句」に「寅さんの言葉」ってのがあって、例の「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します・・・・」を英語で言う場合が書いてあります。「学校で教えてくれない」ってよりも、むしろ知ってる必要があるのか甚だ怪しい。放浪癖の寅さんですから、国境を跨ぐ可能性もあるとは思うのですけど。他にも「それをなぜ英語で?」って思う表現が満載の本です。
「逮捕令状です」って表現を英語で知ってないといけないほど、僕等は危険分子なのかと。

 おかしいなこれ。そうだった、「やさしい」があったな。思いつかなかった。あの連載はさらに話がべつのところに行ってしまい、最新のものは「改造」の話になっている。「改造」って言葉にもなにか人をそそるものがある。クルマ、コンピュータ、ギター……、と、人はそこにマシンがあれば「改造」がしたくなるものらしいのだ。「改造」でネットを検索すればかなりヒットするだろうと思っていま、試したらすごかったが、googleの結果に、「改造帝国」といったサイトがあるけれど、なんだろうこれは。行ってみたが、ぱっと見、なにを改造しているのかよくわからない。世の中はなにごとも奥が深いのだった。

今週末は香川県にある直島に行く。「STUDIO VOICE」のSさんはかつて行ったことがあるそうで、その話を聞かせてもらった。というか、その二回で終わってしまう連載の最初の回は、直島について書くことになっているのだ。二回目がニューヨーク。つまりどこかに出かけてそこで写真を撮り、文章を添えるという内容。直島では、僕を呼んでくれた方が気をつかってくれ、とてもいいホテルを用意してくれた。だけど、そのホテル、全面禁煙なんだよ。どうすればいいんだ。で、また未明に、「一冊の本」の原稿を書いた。で、いまちょっと驚いたのは、ほんとうに久しぶりに、ことによったら五年ぶりぐらいじゃないかと思うが、このサイトのトップページであるところの、PAPERSにある、ほかのページに飛ぶ一番上のあれをクリックし、それで出てくる例のあれのなかから、「HFN」というところを読んでみたわけだ。この略語がなにを略しているか自分でもわからなくなっていたのだが、たしか、「コンピュータで書くということ」という膨大なノートだったはずだ。で、サーバーの容量の問題もあってニフティの個人サーバーに置いてあったが、自分がニフティを退会しているのを忘れていたのだ。そのURLで、どこかの知らない誰かがサイトを開いていた。ことによったら、誰かそのリンクをたどり、ここから飛べるのだから僕と関係するサイトだと思ったんじゃないだろうか。いやあ、驚いた。

(8:07 Oct, 17 2007)

Oct. 15 mon. 「仕事をしている」

たまっていた原稿をいくつか書く。そのうちのひとつに、ある雑誌の仕事があって、自分をトリップさせてくれる「モノ」を紹介し(もちろん、トリップといっても法で禁じられているような薬物や植物ではありません)、それに短い文章をつけるのだが、その写真も執筆者が撮影しなくちゃならないという厄介な仕事があった。顔写真も自分で用意し、プロフィールも添付するっていう、あのね、なにからなにまでやるのかよ、こっちが。というわけで深夜に原稿を書き、朝、日が昇ってから写真をとるためその「モノ」をベランダまで運んでデジカメで撮影。しかも、編集者だか、ライターさんのメールでは、写真が小さくなるのでできるだけ「よりの写真」を、といった意味の指示まであった。なんだよそれは。「ひきの写真」を、そちらでトリミングしたらどうかと思いつつ、「よりの写真」を撮った。さらにべつの原稿も書いた。眠い。
少し眠ってから、午後、NHKへ。少し風邪気味だ。Nさんに会って、『ニュータウン入口』を収録した映像の、編集したものを見せてもらった。これはまだ、BS放送バージョンだ。二時間二〇分ほどある。気になる部分が三点ほどあって、一箇所は直せたが、もう二箇所は、そっちのほうがいいんじゃないかと思う素材がなかった。だからといってだめというわけではなく、かなり細かく撮影されていたし、編集も見事だった。しかも、しばしば陥りがちな舞台の雰囲気を消してしまうようなアップが少なくてとても気持ちよく観られる。で、考えるべきは、二時間バージョンだ。どこを切ったらいいか、自分ではもう、よくわからない。稽古場では俳優がそばにいるから、ここカットするといったことがなかなか言い出せないものの、編集室だったら、すぱっと情け容赦なく切れるはずなのだ。だけどなあ、暗転とか、そういった区切りがぜんぜんなく、どこまでも連なっている。どこをどう切ればいいのだ。Nさんと少し相談。なにか考えておきますと話してこの日は別れたが、むつかしいな。うーん、悩む。ただ、Nさんがゴダールを例にあげて、あるアイデアを話してくれたのだが、それで少しヒントがつかめたのはゴダールのさまざまな手法だ。それを考えはじめたら、また舞台とは異なる映像作品の作り方が浮かんできて、その仕事が楽しめそうな気分になってきた。
なにごとも冒険だ。冒険しようと思うと、それ自体が、ある種のゲームのように感じる。だから仕事は面白い。あ、そうだ、あれだ、BSバージョンの放送でも、ラストに流れる映画のエンドロールはカットされ、こういった放送の定型である30秒のロールになるそうで、桜井君の渾身のあのラストの音楽が流せないという。だけど、どうしても流してほしいとお願いし、30秒は流してもらえることになった。あの音楽がないと困るのだ。で、家に戻ったが、また原稿だ。なんでこんなに仕事があるのかよくよく考えてみたら、依頼された仕事をぜんぶ引き受けている。まあ、なんとかなるだろう。これまでも、なんとかなってきたから不思議である。

(10:30 Oct, 16 2007)

Oct. 14 sun. 「東洋大学へ」

青山ブックセンターと東洋大学

土曜日の夜は、深夜に六本木の青山ブックセンターに行った。このところ書店でぶらぶら棚を見る時間もなかったので、いろいろな本を手にし、買おうか、買うまいかと逡巡しつつ、何冊も手にしてなかをぱらっと読むのも本屋での醍醐味だ。しかし、ほっとくと平気で少なくとも10冊は買ってしまい、まあ、いつか必要になるのだからそれもべつに問題ではないが、きりがないといったことがあって書店は魔の巣窟である。人を魅了してやまない。ジャック・デリダの『マルクスの亡霊』を買おうかしばらく悩んだあげく、またこんどにしようと棚に戻す。六本木ブックセンターの棚のならびも、しばらく来ていないうちにずいぶん変わった。人文書の棚が中二階のような場所に移動していて、最初、なくなってしまったのか、ビジネス書みたいなものしかないのかといやな気分になったが、移動しただけでほっとした。人文書がなくてなんのための書店だ。だが、文芸書がずいぶん少なくなった印象を受けた。
そのかわり、デザイン関連の書籍が以前に増して充実している印象だが、青山ブックセンターの特色をなしているのだろうと、特に六本木店の特色だなと思ったが、深夜の二時までやっている書店はきわめて都市的だけれど、それにしても六本木という町はきわめて特別な土地だ。外国人の率がきわめて高い。それから派手な女たちも。僕が行ったのはまだ10時過ぎだったし、土曜の夜だったし、それにしたって人が多い。都市でなければ考えられないことだ。最近は昼夜が逆転しており、昼間はたいて眠っているから、ほんとに自堕落な気分になっている。まあ、規則正しいと言えば規則正しく、夜になれば活動を開始するが、こんな生活をしているとなぜ人はいやな気分になるのだろう。太陽の光を浴びてこその本来的な人間の生き方ではないか。と思いつつも、そうはできないし、あと、夜に活動しているからといってべつに外に出て遊ぶわけでもなく、なにかを書いている。あるいは、ネットを徘徊したり、本を読んだりと、あまり活動的ではない。これでいいのか。いいっちゃあ、いいんだと思うけれど、どうも釈然としない。
で、本日(14日の日曜日)は、東洋大学に行き、「日本パーソナリティ心理学会」が主催する、シンポジュウムに参加し短い講演をした。シンポジュウムのタイトルは、『公開講演・シンポ「演劇におけるHow to個性記述」』だったのである。そのことを、このノートでも書こう書こうと思っているうちに忘れてしまったのだ。書けば、もっと多くの人に参加してもらえたのではないだろうか。講演に与えられた時間は40分だったが、あっというまに終わったので、よけいなことを話さなきゃよかったとあとで後悔した。予定ではまだものすごく話すことがあったのだ。現在的な身体から考えられる「個性記述」といったものをきのう考えており、そこまで話さなかったらだめだったと思う。失敗。係の人が非情にも「あと5分」という札を出したときはほんとにびっくりした。その後、シンポジュウム。パネラーの方たちの話を聞いて示唆されることも多かった。終わってから懇親会。この日は、『ニュータウン入口』に出演した杉浦さんとか、演出助手の白井も来てくれたし、ほかに幻冬舎のTさん、それから相馬も来た。ほかに、この会に僕を呼んでくれた「日本パーソナリティ心理学会」の方々とは、懇親会を通じて、話をすることができたし、ほかのパネラーの人たち、なかでも舞台も観てくれ感想のメールで励ましてくれたGさんともゆっくり話をすることができうれしかった。

家に戻って原稿を書く。原稿が驚くほどたまっていた。困った。これはまずいんじゃないだろうか。だめなんじゃないだろうか。まあ、書くしかないわけだが。しかし、東洋大学のある白山のあたりはいい土地だ。どことなく古い東京のおもかげが残っている。路地の奥に小さなレストランがあったり、そこは住宅街だがとてもいい感じな町。でも想像していたより、東洋大学がかなりきれいだったので驚いたな。学校のなかにエスカレーターがあった。喫煙所はあたりまえのように少ない。立て看のようなものはまったくない。どうなってんだ。

(10:03 Oct, 15 2007)

Oct. 12 fri. 「眠い日」

夕陽

未明に、「webちくま」の連載原稿を書いた。それで眠ろうと思うがやけに眠れず、ようやく眠ることができて眼が覚めたら午後も遅い時間になっており、さんざんな一日である。で、筑摩のIさんからゲラを送ってもらったが、午後の3時ぐらいに社を出てしまうというので、送れなかった。失敗した。それでもやけに眠い。東京人のTさんから次の号で取り上げる戯曲を送ってもらった。少し読む。読んでいるうちにまた眠くなる。夜の八時ぐらいにまたベッドへ。なにをしているのかと思うが眠いんだからしょうがない。深夜に眼をさます。
それで深夜、ふとYouTubeのなかを検索し、ソウルミュージックばかり聴いていた。漠然と歌のことは覚えているが、名前が思い出せない人ばかりだったので、ウィキで調べてそこにある名前で検索すると、出てくる出てくる、アニー・レノックス、アル・グリーン、ウィルソン・ピケット、エドウィン・スター、オーティス・レディング、カーティス・メイフィールド、グラディス・ナイト、サム・クック、マーヴィン・ゲイなど、次々と映像が見つかるっていうか、YouTubeを調べるとしばらく飽きずに音楽を聴いていられる。で、バリー・ホワイトとオペラ歌手のパバロッティが共演している映像があって、バリー・ホワイトが歌うとイタリア語らしき字幕が出る。どうやらイタリアで放送されたものではないだろうか。そのバリー・ホワイトの不思議な衣裳を見ていたら、亀田大毅の金色のジャケットのことを思い出した。
それにしても、ヤクルトスワローズの鈴木球団社長だよ。突然、高津に戦力外通告をしたのはもう報道で流されている話だが、鈴木のやつ、ファンの気持ちとかまったくわかってないだろ。というか、野球のこと、ヤクルトのことなどなんにもわかっていない。あるいは、単なるばかなのかもしれない。ばかじゃしょうがないとはいえ、それにしても、ファンとしてはどうやって高津を見送ればいいのかただ戸惑うばかりだ。高津がどんなにすごかったか。どんなにファンに愛されていたかなど、鈴木はまったくわかっていないのだ。高津にというより、ファンに対してきわめて失礼な態度だが、おそらく、その意味もわかっちゃいないさ、あのばかには。怒りにまかせてソウルミュージックを聴いていた。あまり怒りが高まらないので、ニルヴァーナを聴く、やっぱり、YouTubeで。

といったわけで、あまりに無為な一日だった。だけど、俺は原稿を一本書き、仕事をちゃんとしたんだと自分に言い聞かせ、きょうのことを納得しようとしていたのだ。戯曲を少し読んだしな。音楽もたっぷり聴いた。あしたは、ジョン・コルトレーンがYouTubeにないか探してみることにしよう。いま探したらあったけど。

(7:33 Oct, 13 2007)

Oct. 11 thurs. 「小説のことを考え、経堂に行き、亀田のことも考える」

経堂で

午後、「新潮」編集部のM君とKさんに会う。小説の話。いつだったか思いついたアイデアをもとに、こういった小説を書こうと考えていると話したら、のってくれ、M君からさらにアイデアをもらい、テーマもなんとなく固まった。書けるような気分になってきた。これは書ける。短編にするつもりなので一週間ぐらいでだっと書いたらどうかとすすめられる。飽きないうちに書き上げよう。なにごとも勢いだな。それから舞台の話などして、とてもいい時間になった。あとからKさんよりメールをもらって舞台の感想なども書かれていた。そうか、そうなんだなあ、と考えることがある。ほかにもたくさんの人からメールをもらっているわけだけど、そのたび感想を読ませていただいて、いろいろ示唆される。あ、そういえば、桜上水のYさんにあてた私信のような8日付けのノートの、ニール・ヤングの歌を使った「ノートのタイトル」は、「Only Love Will Break Your Heart,」につづき「but if you...」になっているが、歌詞とちがうのではないかと、ある方から指摘された。もちろん、ちがうっていうか、それ知っていたけれど(というか、一番の歌詞は「How did it feel to be alone」と続き、二番が、「What if your world should fall apart」なわけだけど)、その二番の歌詞をもじってYさんへのメッセージにしたつもりだったわけだが……。
来週は「直島」という島に行ってベネッセの関連で講演をすることになっている。それからさらにその次の週は、とうとうやってきました、「人間ドック」に入って徹底的に検査をしてもらうことになっている。たしか筑紫哲也氏も検査を受けて初期癌が見つかったという、かなり精密な検査装置のあるところらしく、いまから怖くてたまらない。なにも見つからなければいいがなあ。見つかってすぐに治療ってことになると仕事が進まないことになってしまう。いやだよ。怖くてたまらないよ。でも、こうなったら徹底的に調べてもらおうと思っているのだ。
もう数年前、いやもっと以前の豪徳寺に住んでいたころから、コーヒー豆は経堂にあるお店で買っていた。「焙煎珈琲セレクト」という店。買いに行ったのは夕方に近い時間だ。豪徳寺に住んでいたころやたら経堂には来ていて、いまでもたまに来るのは、たとえば、「はるばる亭」(このブログの記事には名物「香麺」のことが書かれていないが)のラーメンが無性に食べたくなったときだ。年に一度は食べたくなる。年に一度は食べたくなるのは、新宿の地下街にある「日本でいちばん美味しい立ち食い蕎麦」とこの店くらいだと思う。最近発見した西麻布のとんかつ屋。これは教えない。まあ、庶民的な味ばかりだ。フランス料理やイタリア料理はもちろん美味しいけれど(けれど、甲州街道沿いにある「異常に察しのいいイタリアレストラン」はたまに行きたくなる)、一年にいっぺん食べたくなるような奇妙な求心力を感じない。まあ、そんなことはどうでもよくてですね、経堂にたまに行くとかつて僕の知っていた町は変貌している。かつて駅前に「古本大学」という古書店があったがもうつぶれていた。ぶらぶら経堂の町を歩いてデジカメで撮る。夕方の商店街は活気があった。八百屋のおじさんがすごいテンションの高さで客に応じていた。近くにいるだけで楽しませてくれる。

家に戻ったらニュースで亀田が負けたのを知った。亀田大毅は現象としてというか、存在として面白いけれど実力はいまいちだったというのは大方の予想通りだ。内藤は「国民の期待」に応えたという結果になったが、それにしても誰もが気になっているのは、大毅が試合前に「負けたら切腹する」と口にしたあの言葉だろう。いまのところしていないようだ。されても困るが。ただ、亀田兄弟は面白いよ。大毅が弁慶の恰好をしている写真を見たときは、笑った笑った。ということを考えつつ、それとはまったく関係なく、ネグリの『芸術とマルチチュード』(月曜社)を読む。少し引用。この書物はネグリが手紙として書いたという形式になっているので翻訳(廣瀬純+榊原達哉+立木康介 )もそういった文体である。

そして、いまぼくたちは、再び同じような状況のなかにいる。ぼくたちが「ポスト近代」と呼んでいる状況のなかにね。ポスト近代とは、結局のところ、次のようなもののことなんだ。すなわち、特異性が普遍性を圧倒するということ、つまり、身体性が、それ自身の法を有する(そして生産する)還元不可能なマルチチュードとして出現するということ。この特異的な身体性こそが、マルチチュードの芸術(すなわち、道具を再領有化し、道具を──ネットワークや脱出によって──自分の人工補綴にした諸身体の理性)の力を高めるものなんだ。ここでは、特異性が、普遍的なもの以上に重要なんだ。(ぼくはなにを言ってるんだろう。特異性は、まったく別のものであり、まったく異なる価値創出様式だというのに)。そして、普遍に取って代わるこのマルチチュードと、マルチチュードを構成する諸身体は、普遍的なもの(普遍的なものとは、「人間性」とか「権利」とか「類的存在」といったもの、ようするに、生の新たな経験に古い支配的諸価値を適合しようとして人々が語りたがってきたすべての物語のこと)がとりうるどんな型式よりも、ずっと力強いものなんだ。

 ここにヒントがあるような直感を得たのだった。きのう書いたようにこれから書かれるであろう「演劇論」の道はさらに遠いな。ネグリの書いていることはわかるつもりになっているが、ほんとはちっともわかっていないかもしれない。もっと考えるぞ。それから、ある人がジャック・デリダについて書いた文章の中で、「対話」ということが強調され、デリダもまた先行する思想家たちとの、書物を介した「対話」によって思考を組み立てたという話を読んだら、あらためて、演劇人の書いた「論」ともっと深い「対話」をしなければと思った。さらに読もう。もっと読もう。するとその「対話」によってまたべつの考えるきっかけが生まれるような気がする。小説をとりあえず書きますが、「対話」しなければ。過去との「対話」。私たちの前に残された膨大な「思考」ともっと深く対話することが次につながると思える。

(6:45 Oct, 12 2007)

Oct. 10 wed. 「骨折とサンダル」

日経kids+

雑誌の取材を受けた。僕には不似合いじゃないかと思えるような、「日経Kids+」という雑誌である。子育てをテーマにした雑誌のようだった。質問に応えつつも、子どもを育てるって、なんて大変なことになっているのかと思う。育てるほうの経験が僕にはまったくないので、教育される側としての子どもだった自分のことを考えるに、親がこうすればと思ってよかれとすることのほとんどは、子どもに理解されないのではないか。子どもは親と教師に反発する。で、考えてみると、親としては、明確にわかる結果を子どもに求めるのではなく、見えないなにものか、子どもが大人になって気がつくような、わからないなにかを用意してやるしかできないと想像する。もちろん養育の義務はある。とりあえず学校に通わせ、栄養を与え、成人するまで育てるのは当然だが、それ以上のなにかは目に見える結果としてはわからないにちがいない。背が伸びるとか、そういったことはわかりやすいだろうけど、それ以上のなにか。
取材を受けたのは渋谷にあるホテルの一階の喫茶室のような場所だったけれど、タバコの吸える場所にしてくださいとわがままなことを言ったら、ここを用意してくれたのだった。申し訳ないです。まっすぐ渋谷方向に歩くと東急本店がある通り。かつてはもっとさみしかった通りのような気がしていたが、いまではいろいろな店があった。取材に来ていただいた編集者の方もライターの方も子どもがいる女性ではないかと思うが、これまであまり仕事を一緒にしたことのないタイプの人たちだった。だから、僕の話に対する反応もいつもとは異なりそれはそれで新鮮だ。
僕のような者の話で大丈夫だったのだろうか。子育てする人たちにとって役に立つだろうか。「子どももいないあんたなんかになにがわかるのさ」とか思われやしないだろうか。それに関してはごもっともと言うしかないよ。

ところで、足の親指の骨折はほぼ完治した。まだ包帯をぐるぐる巻きにしていたころ、サンダルを買って履いたわけだ。『ニュータウン入口』でカメラマンをしていた今野はアディダスのサンダルをいつも履いていたが、僕も同じアディダスだったけど、サンダルで外に出るのはとても違和感がある。仕事に行くという気分にならないのだ。いまではようやく骨折もほぼ治りサンダルを脱ぎニューバランスのスニーカーになったが、じゃあ、サンダルとスニーカーではどちらが仕事にふさわしいかと考えると、比べるのもおかしな話で、仕事にはどちらもふさわしくないんじゃないだろうか。ただ、ちょっと近くまでタバコを買うのにサンダルはわりといい。気軽な気持ちで外に出られる。これが慣れてくるとどこにゆくのもサンダルになってしまうのじゃないかと、それが恐ろしい。人間はだんだん楽なほうへ、楽なほうへとだめになってゆくものなのだ。
だんだん本を読めるようになったとすでに書いたが、きょうは、トニ・ネグリの『芸術とマルチチュード』を読んでいた。これからなにかを作ってゆくのに、その基盤となる、っていうか、背後で支える考えをまとめるきっかけはないかと探している。幻冬舎の方から、なにか「演劇論」のようなものを新書の形で出さないかと提案されたが、二〇〇〇年代になってから、自分でもはっきりとした考えがまとまっていないと思える。その後、まったく舞台の方法が変わったが、それを支える考え方が曖昧なままであり、舞台を作っていることそれ自体が、考えをまとめる仕事のようになっている。論を書きたいのはやまやまだ。九〇年代に考えていたことの進展形としての「論」をまとめたいと思う。まだ、まとまらない。
きのう書いたように、『ニュータウン入口』は終わっていない。考えることはさらに数多くある。舞台が終わると、これまでだったら、すぐにそのことを忘れ次のことへと気持ちは切り替わったが、今回はもっとこだわってみようと思うし、そこから考えを深めようと思うのだ。舞台が終わってすぐに切断するのではなく、それが次へとつながるようにまた考える。それにしても、足の親指の骨折はもう大丈夫なのだろうか。

(8:13 Oct, 11 2007)

Oct. 9 tue. 「人と会う。殴りたかった隣の席の知らない女」

午後、NHKのNさんに会った。いろいろ事情を聞いた。まず放送するのに上演時間が長いという問題がある。さらに「難解問題」がある。なんだかよくわからない舞台だからだ。そこでNさんによる提案で、映像作品として、あらためて考えてゆく方法があるのじゃないかということになり、まず、BSで放送してから二時間バージョンの映像作品としての『ニュータウン入口』を作ろうじゃないかということになった。これはこれで、とても面白い試みであり、なにかまた異なることが考えられそうだ。たとえば、新たにどこかでロケした映像を挿入するとまたちがうものになるだろう。いろいろアイデアも湧く。単にわかりやすくするために説明を加えるだけでなく、その方法を工夫する。映像だからこそ生まれるべつのもの。それは絶対に面白そうだ。なにかべつのものを作るという意欲がわいてきた。ほかにも解説対談のようなものを、とある映画監督として放送するのもいいのではないかというアイデアも。またべつの楽しみになってきた。
夜は、幻冬舎のTさんと、Sさんに会って参宮橋のスペイン料理屋で食事をした。とても美味しい店だったし、二人との会話も楽しかったが、となりの席にだな、不愉快な気分にさせる客がいて、べつにこちらの席に迷惑をかけるわけではないが、会話を聞いていたらなんだかだんだん腹立たしい気分になってきたのだ。というのも、初老の会社員とおぼしき人がいて、同じ席に、その会社の人なのだろうか、若い男と、三十代くらいの女がいた。その女がむかつくんだよ。初老の男性に対し、ためぐちをきくならまだしも、次々と失礼なことを言う。殴っていいのかなと俺は思ったんだ。殴るべきなんじゃないかとすら思った。おかげで美味しい料理の味が落ちる。ほんとにもう殴るべきだったと後悔した。二人とは仕事の話。で、ニブロールの矢内原は「幻冬舎」のことを「まぼろしのふゆしゃ」と読んだらしい。だけど、矢内原だけに、それもしょうがないと思わせるから不思議だ。矢内原のことを人はなんでも許せる。ただ、隣の席の、あの女は許せなかったが。
というわけで、私は着々と仕事をしているんだ。たしかに原稿そのものはちっとも書いていないが、こうして話をするのも大事な仕事だ。まずは相談からだ。この何年か、人に会うのがいろいろ面倒というか、おっくうになっているが、ものごとは対話からはじまる。きょうは、幻冬舎の二人とも、それからNHKのNさんとも、仕事のほかに、いろいろなことを話し、そうしたことからなにかが生まれる。次は新潮社のM君と会い、さらに、en-taxiのTさんとも会おうと約束している。俺、ほっとくと最近はちっとも外に出ないし、人と話をすることもなくなってしまうのだ。むかしはなあ、人とやたら長電話とかしたものなあ。その長電話のばかな話のなかでアイデアも浮かんだものだった。いとうせいこう君と、毎日のように長電話したのも懐かしい話だ。

そうだった。桜上水のYさんは、僕と誕生日がまる二ヶ月ちがいだったんだ。彼女のブログで知った。おめでとう。以前、誕生日のときメールを送った。高校生のとき図書館で僕の『彼岸からの言葉』というエッセイ集を見つけそれを面白いと思ってくれたときの、その自分に、10年近くのち、あなたはその著者から誕生日祝いのメールを送ってもらえるんだよと教えてやりたいと、返信のメールにあった。うれしかったな。メールによって人との距離は確実に変わったと思える。もちろん、手紙やハガキのよさもある。手紙やハガキと似ているところも多くあるだろう。けれど、メールだから、素早く気軽に、こうして僕の本を読んでくれた人と交通が生まれる。かつてとはまた異なる性格の交通だ。
たくさんのメールをいただく。みんなに返事が書けなくてほんとに申し訳ないけれど、そのひとつひとつ、どれもきちんと目を通しています。ありがとうございます。舞台の感想にどれだけ励まされているかわかりません。それから舞台の本番のとき、終演後、声をかけてくれる方にも感謝した。たしか、仙台から来たという方からも声をかけてもらったんだな。
そういえば、映画監督の富永君とカメラマンの月永君も舞台を観に来てくれたが、そのとき、「また映画を作りましょう」と彼らは言った。でも、二人はもうメジャーの映画人ではないか。なにを言いだしたんだと思ったものの、そう言ってくれるのもうれしい。富永君が、舞台をいろいろ解釈して、あの「鳩男」は、大島渚の『愛と希望の町(シナリオ段階のタイトル「鳩を売る少年」)』から来ているんですかと、まったく考えてもみなかったことを言った。なぜなんだ。

(7:03 Oct, 10 2007)

Oct. 8 mon. 「Only Love Will Break Your Heart, but if you...」

舞台を観に来てくれた桜上水のYさんのブログに、少し意外な(詳しいことは知らないので意外ではないのかもしれないが、僕には、ポール・マッカートニーとニール・ヤングが共演しているのは意外だった)YouTubeの動画が貼られていた。このところYさんのブログを読むとなんだか元気がない印象を受けるのだが、このあいだ、舞台が終わったあとあまりゆっくり話もできなかったから、また一緒に食事でもできたらいいな。ばかな話をたっぷりしてあげたいものだ。もうこれも観たんじゃないかと思うけれど、二つの映像を見比べて楽しんでもらいたい。まず、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングでのステージ。おそらく七〇年か、七一年ごろだ。タバコを吸いながらベースを弾くスティヴン・スティルスがどうなんだろう。

 それから36年ぐらいが過ぎてからのステージ。同じ歌。よく似た構図。スティルスはいないけれど。それはそれでいい味を出しているのだなあ。なにしろ、この歌が入っているニール・ヤングのアルバムを僕が買ったのも、発売から二、三年後だったからリアルタイムではないとは言え、三〇年以上も前だ。時間の経過は人になにをもたらすのだろう。

また三連休だった。本を少し読み、新宿西口のコンピュータショップに買い物に行き、それからMacのセッティングをしているうちに一日が終わった。三連休なんて関係がない。よし、仕事だ。ばりばり音をたてるように仕事をしよう。今週こそは働こう。

(4:22 Oct, 9 2007)

Oct. 7 sun. 「この日に」

古田・二〇〇七年一〇月七日

神宮球場に行こうと何度も思ったがチケットが手に入らないし、かつて池山引退試合のときのようにヤフーオークションを使いばかみたいな情熱で高額のチケットを買うのもはばかれた。なにか古田の引退は淡々とした気持で見送りたかったのだ。CSのフジテレビ739でテレビ観戦だ。18年間、在籍しているあいだ何度も古田のおかげでヤクルトファンは優勝を目撃することができた。18年前は八〇年代の終わりだった。九〇年代に入って黄金期を迎えたが、古田が怪我をした年はたいてい四位で、復帰すると優勝。これはもう、「古田優勝」という以外になかった。
神宮球場は古田の最後の姿を見ようと満員の観客。今年を象徴するように、初回から先発の石川が打ち込まれ三点ビハインドからの試合スタートで、そして対戦相手の広島のピッチャー長谷川の調子はいい。池山が引退したときその最後の打席でマウンドにいたのも長谷川だった。古田はこの日、先発出場で最後までマスクをかぶっていた。そして、そのときがやってきた。八回裏、古田の最後のバッターボックスだ。広島のピッチャーが交代した。アナウンスが球場に響く。「ピッチャー佐々岡」。広島ブラウン監督のいきな演出。きのう引退試合をした佐々岡がなぜかマウンドにあがった。放送席にいた前ヤクルト監督若松さんにアナウンサーがコメントを求めるがこみあげてくるものがあったか、若松さんはなにも言葉にできなかった。放送席には岡林もいた。それからメジャーに行った岩村もかけつけ、そして、池山の姿もあった。
また負け試合だったけれど、九回の表、広島の攻撃を長年古田とバッテリーを組んだ高津がぴしゃりと三人で仕留めた。CSの放送はいいね。古田が球場を去るまで神宮からの中継があった。引退と神宮球場最終戦のセレモニーがあったあと、古田がグラウンドを一周する。まだ帰らない広島ファンからも声援があがった。みんな、野球がものすごく好きなんだな。広島を応援するのと同じように野球そのものを応援していると感じる。最後の挨拶で、古田は満員の観客に、「また会いましょう」と言った。いつか再び古田は帰ってくるだろうか。こんどは監督としてヤクルトをあらためてひっぱってほしい。たとえば、清水エスパルスの長谷川健太が監督になったとき、はじめなかなか勝てなかった長谷川に対しても、エスパルスファンは我慢し誰も非難しなかった。今年エスパルスはいい成績を残しているが、そんなふうにファンはじっと待つだろうし、愛されている長谷川が幸福なように、おそらく古田もファンに愛されている。みんな待つ。じっとそのときが来るのを待つだろう。野球人気はテレビ中継もどんどん少なくなり、巨人の人気低迷に象徴されるように危機的だが、でもファンは待つね。野球が好きな人はきっと待っている。どんなふうに野球がなろうとも、ただ好きだから、ばかみたいに好きだから、きっと待つにちがいないのだ。

舞台の日々からもう一週間が過ぎた。ようやく本を読む時間がとれるようになってきた。で、舞台について反省することはあらためて考え、まだ自分に足りないこと、そして、今回の舞台で発見したことから次の舞台や、あるいは小説をはじめとする表現について先のことへとゆっくり考えはじめている。ニューヨークのリーディング公演や、NHKの芸術劇場での放送など、まだ『ニュータウン入口』は続く。で、少し時間に余裕がもてるようになったから本を読む時間もとれるようになってきた。『ニュータウン入口』でカメラマンをやった今野と、ジャスパー役の橋本からメールが来て、これから山形国際ドキュメンタリー映画祭に出発するとのこと。ドキュメンタリー映画をたっぷり観てきてほしい。今野はこんなふうにメールに書いてくれた。

 この舞台の稽古をしている最中に佐藤真さんがいなくなってしまった事で、今までの大学時代に作品を制作する事で得たもの、表現していく覚悟などを強く意識して、今回の舞台に強い想いで取り組む事が出来たと思います。それも佐藤さんに、大学時代と同じように背中を強く押されたような気がしました。ふと振り返って、また先を目指していくぞと思いました。宮沢さんが書かれたようにアンティゴネが佐藤真さんに見えて、表現していく事、その戦いがすでに負けていたとしても、さらに先へと自分自身の戦い方を意識して、少しずつでも着実に前進する。その為の努力は山ほどあるなと実感しました。なんと言えば良いのか、上手くは言えないですが、世界の見方というようなものを大学時代に佐藤真さんと宮沢章夫さんに学べた事を今さらながら強く感謝しています。

 僕はまだまだ、現役の作家としてがんばるつもりだけど、こんなふうに書いてもらえると、僕でできることなら、もっとたくさんのことを学生をはじめ若くて表現を志す人たちに伝えたいと思った。でも、俺もさらに死ぬまで創作を続けてゆくさ。やりたいことはまだいっぱいあるんだ。どんどん書こう。死にものぐるいで書いてゆこう。
それからやはり『ニュータウン入口』に出演していた齊藤からもメールがあったけれど、これはまたべつの意味で引用したかった。だが、齊藤の名誉のために引用はやめよう。なにかすっとんきょうなことが書いてあって笑ったのだ。本人は一生懸命書いてくれたんだろう。でも、笑っちゃったなあ。すごくうれしかったけど。そうだ、齊藤もヤクルトファンだったんだ。といったことで、古田のことばかり考えていた一日だった。古田が活躍をはじめ、リーグ優勝した九二年から、僕もそれまでの仕事をほとんどやめ、その後、ずっと舞台をやっていた気がする。その時期と重なるからこそ、個人的には古田に励まされていた気がする。だから、単なる一ファンとして遠くからただ感謝するばかりだ。

(8:12 Oct, 8 2007)

Oct. 6 sat. 「たとえば、『ニュータウン入口』ガイドブック構想」

その後、『ニュータウン入口』に出演していた佐藤と三科からもメールをもらったし、ほかにも感想をいくつかいただいた。ありがとうございます。あと演出助手の白井からもメールをもらったが、ふだんの白井からは想像できないような文面だったので驚かされた。佐藤のメールによると、佐藤のお父さんによれば「もののけ姫みたいな話なんだな、南波さんが姫で森を守るみたいな話だろ」ということらしい。いろいろな解釈があります。それでいいのです。
だから、相馬のブログで、このところ『ニュータウン入口』の読解が続いているのだろう。たとえば、ポリュネイケスの分析があったり、その手続きがとても興味深く、あ、そこ、そう読むかといった感じだが、相馬はなにしろ三回観ているので、だからわかることも多々あるだろう。たとえば、相馬のブログにあるこんな一部を引用し、さらに僕なりの解説をしてみよう。

ラストシーンに姿を見せない者ら——彼/彼女らはみな、劇中でポリュネイケスを見ることができていた者である(むろんそのほかに、Fとカメラマンにも見えていたが、彼らは劇のなかに——あるいはその〈境界線上〉に——とどまった)。オブシディアンについてははっきり「見えていた」とするのがむずかしいが、

と、これだけの引用ではなにがなんだかわからないが、詳しくは本文をあたっていただくとして、ほとんどの人が気がつかなかったのは(気がつかなくて当然なんだけど)、ポリュネイケスの姿は見える人にしか見えなかったことだった。そういうふうに戯曲を第一稿から上演戯曲にするに際し丹念に書き直したのだった。で、相馬が問題にしている「ラストシーン」について、戯曲を書いた時点であまり意識していなかったものの、何度か舞台を見ているうち、そこにポリュネイケスはいるのではないかと僕も思った。では、なぜ観客もまた、それを見ることができなくなったかについて、それを考えていたのだ。作者もわからない。わからないことだらけの戯曲だから、相馬のような「読みの愉楽」ともいうべきことも生まれるのではないか。さらに相馬はこんなふうに書いている。

「アンティゴネの二重性」は、何を書くつもりだったのかもう忘れちゃった。というのは嘘だけど、〈核となる発見〉がね、まだいまひとつだ。あと、いま思ったけど、このパターン(=結局書かない)を使って面白そうな批評のタイトルだけ次々予告するという手もあるな。「反転するイスメネ」とか。「はじまりの浩——浩とオイディプス」、「Fの系譜」、「坂庭はなぜ〈ニワさん〉か」、「ペリドットと行く、さっぽろラーメン食べ歩き四週間——ほかのものも食べました」などはどうだろう。

 で、ここでひとつだけはっきりしているけれど、観客にはぜったいわからないことがあるので書いておこうと思うのだ。それは、「坂庭はなぜ〈ニワさん〉か」の部分だ。少し説明すると、ダンス普及会の支部局長加奈子の息子の浩が、坂庭のことを「ニワさん」と呼ぶ。坂庭だから、「ニワさん」というのも奇妙だと思うかもしれないが(ふつうサカさんと呼ぶべきだろう)、だが、そこには観客に、坂庭が根本和子に渡した名刺が読めないという事情がある。名刺には坂庭のフルネームが印刷されていたのだ。名刺にはこうあった。

 ダンス普及会事務局長 坂庭庭男

 もう、「ニワさん」と呼ぶしかないじゃないか。なにしろ名前が「坂庭庭男(サカニワニワオ)」だ。いくら相馬が三度観てもわからないだろう。ほかにもいろいろ、普通に芝居を観ることではわからないことは数多くあった。こりゃあもう、「ガイドブック」というか、その手のあれを出すしかないんじゃないかと思ったのだ。解釈することそれ自体、楽しんでもらえたらそれはそれでうれしいし。

今週もいろいろだった。まず、PowerBookG4DVDドライブが壊れた。CDや、DVDが入らなくなってしまった。やっかいだなあ。なんでこうなったかよくわからない。こういった場合、修理に出すのがもっとも確実な方法だが、おそらく高額の修理費と部品交換代を取られるだろう。そこでほかにいくつかの解決法を考えたが、外付けのドライブを買ってくるのが一番手っ取り早いものの、外付けはなにかと面倒だ。で、じつはいま使っているPowerBookG4とほぼ同等で故障してまったく動かなくなったものがうちにあるが、でも、マザーボードはだめでも、ドライブは動くのではないかと考えはじめたら、ばらして入れ替えることをしてみたくなった。PowerBookG4の12インチは調べた限り、かつてのiBookよりはばらしやすそうだ。たいへんなんだろうけど、ただ、壊れたマシンでまず練習できるというメリットがここにある。いろいろリスクはあるものの。
さらに、3日(水)は多摩美の授業で話をした。演劇映像を専攻している学生たちだ。みんな、『ニュータウン入口』を見に来てくれたが、あのとき、もっと大人っぽく見えた学生がきょう教室で会ったら、やっぱり一年生を中心にしているからなのか、子どもっぽく感じた。なかには社会人入試で入った年長の人もいたけれど、平均的には子どもっぽさを感じずにいられなかった。教室にいると子どもに見えるのだろうか。まあ、単純に僕とはかなり歳も離れているわけだが。九〇分が二コマの授業で、一コマ目が僕の話。二コマ目で学生から質問を受ける。楽しかったが、少しむつかしい話になってしまったかもしれない。この多摩美で来年、非常勤の講師を依頼される。具体的にできるかどうかを検討してから返事をすることにした。大丈夫かな。ちゃんとできるだろうか。というのも、早稲田の客員教授を来年からまた引き受けることになっているからだ。ほかにも仕事はいろいろある。舞台もやるかもしれない。劇場をまだ押えていないけれど。
その早稲田の演劇博物館の企画で、いま、「演劇集団ガジラ」の展示をやっており、それに付随し、ガジラの鐘下君と公開で対談をしたのは5日(金)だ。鐘下君と話をするのはとても楽しい。なぜか気が合うのだ。鐘下君と僕とでは作風がまったくちがうのに、なにがあうのかよくわからない。それで終わってから、鐘下君は吉祥寺シアターで新作を公演中だというのですぐに帰ってしまったが、そのあと早稲田の岡室さんに会って、コーヒーを飲みながら話をした。あ、そうか、この日は対談の前に「演劇ぶっく」の取材を受けたんだった。取材してくれた人が多摩美中退だと話していた。感じのいい人だった。といったこともあり、結局、昼過ぎからかなり長い時間、早稲田界隈にいたのだった。岡室さんとは芝居の話などいろいろ。それも楽しかった。いい一日だった。

(4:48 Oct, 7 2007)

Oct. 2 tue. 「それから二日が過ぎて」

公演中、いろいろなことがあった。書こう書こうと思ってつい忘れてしまうのは、Matatabi Onlinetomohiroh君のことだ。舞台のために遠く長野から観に来てくれる。ほんとにありがたい。そして、「雷鳥の里」というお菓子を差入れしてくれる。いつも「雷鳥の里」だ。美味しいので、つい食べてしまうし、みんなで奪いあいになるが、しかしこう毎回同じだと、ことによったらなにかの嫌がらせじゃないのかとすら思うのだ。だって、長野にはほかにも美味しいものがあるだろう。なぜ、「雷鳥の里」なんだ。家で作っているとでもいうのか。あるいはこれは合図だろうか。たしかに「雷鳥の里」が届けられればtomohiroh君が来てくれたという合図のようになっているが、もしかしたら、ほんとは「雷鳥の里」だけ来ているんじゃないのか。すたすたやってくるのだ、「雷鳥の里」が、長野から。なにしろ、tomohiroh君に私は会ったことがない。美味しさをかみしめながら、不可解な気持ちになっている。
あれはたしか「準備公演」のあった七月だが、その打ち上げの夜、歌舞伎町で会った(その後、そのとき僕がノートに書いたことをかたくなに否定した)ある人も見に来てくれたし、桜上水のYさん、大阪のM君、会社を辞めたK君、それからヨーロッパ企画の本多君ら、かつて大阪で開いていたワークショップのメンバーだった友人たちもはるばるかけつけてくれた。シェークスピアの翻訳で著名な河合祥一郎さんがいらしてくれるのはあらかじめ知っていたが、内野さん、河合さんと同じ駒場の表象文化で教えており、作家でもある松浦寿輝さんにも来ていただいた。はじめ気づかなかったが声をかけてもらったのだ。ありがたかった。芝居が終わった翌日、この舞台に出ていた時田と鎮西からメールをもらった。鎮西とはあまりゆっくり話ができなかったが、メールだと、こんなことを考えていたのかと知ることができる。稽古中、鎮西がなにを思ったか「よいしょお」と叫んだのもいまでは懐かしい。
劇場に足を運んでくれるのはそれだけでとてもうれしいが、逆に、かつて僕の舞台の観客だった多くの人たちがいる。八〇年代の舞台を観てくれた人たちは、たとえば、『ヒネミ』以降の僕の舞台を知らないだろう。多くの人が遠ざかった。さらに二〇〇〇年代以降『トーキョーボディ』でまた観客が変わった。『ニュータウン入口』でまた変わるだろう。そういうものです。でも、考え続けることをやめないようにと思うのだ。もっと考えることがあるし、舞台そのものが考える行為になっていればと思う。白夜書房のE君から、また新たな単行本の話もあるが、それは『ニュータウン入口』の、なんていうんだろう、メーキングというか、ドキュメントというか、そういった種類の本だ。この舞台はNHK教育テレビの芸術劇場で放送される予定になっているが、そこに合わせられるとほんとはいいんだろうけど、となるとだ、きわめて厳しいスケジュールになる。ほかにもやりたいことが数多くあるのだ。あと、劇場で販売していた自主刊行のこの舞台の戯曲は売り切れたという。僕の手元にも一冊しか残っていない。難解な作品だと戯曲が売れるのだろうか。複雑な気分だ。みんなから難解だと言われた。というか、俺、やっぱり(一般的に言われるところの)戯曲を書くのが下手なんじゃないだろうか。ドラマというものが書けない。

で、この二日間、なにもしていなかった。打上げから家に戻り、眠ったのはもう昼近くになっていただろう。よく眠った。一度、夕方に起きたが、さらに眠った。眠っているうちに二日が過ぎた。疲れた。いろいろな意味でひどく疲れてぐったりしていた。その後も感想のメールを何通かいただき、いろいろ考えるところがあった。それもいつか紹介したいと思うのだが、これまでにも、なんどか、その話はいずれまたと書きながら、そのまんまのことが多いな。
で、終ったとたん編集者の方たちから次々と連絡があった。締切りももちろんだが、また会って打ち合わせすることなど。それはもう20年ほど前だが、やはり舞台が終った翌日の朝、つまり打上げを終えて家に戻り、眠っているところにいきなり電話してきたのは、いま幻冬舎の社長であるK氏だった。「会いたい」とK氏は言った。それが「彼岸からの言葉」という連載をすることになったきっかけだし、いわば、その後、僕がエッセイを書くきっかけにもなった。『資本論も読む』を作ってくれたTさんは、今度、幻冬舎に入られたとのことで、またなにか一緒に仕事ができそうだけど、あの日のK氏のように打上げのすぐあとにメールをくれた。いまはメールだな。いまになって考えてみると、K氏はいったいどこであのとき僕の家の電話番号を知ったのか、いまだに不明である。
いろいろなことが頭をぐるぐる回っているのだけど、また落ち着いて本を読むことからはじめよう。稽古中、ほとんど本が読めなかった。落ち着いてなにか読む時間がなかった。そんなわけで、このノートは、「富士日記 2.1」というものになったのだ。意味はよくわからないがそうなったのである。

(12:24 Oct, 3 2007)

9←「ニュータウン入口ノート」はこちら