富士日記 2.1

Dec. 11 fri. 「なにもかもうまくゆく」

木曜日(10日)。まず筑摩書房のIさんに早稲田近辺で会って単行本の話。筑摩のウェブで連載していたエッセイをまとめる話である。それを終えてすぐに矢来町の新潮社へ。「新潮」編集長のYさん、M君、Kさんと会い、小説の話をする。結局、これは中編になる話だと期待され、いくつかアイデアもアドヴァイスしてもらった。あらためて続きを書くことになったのだ。少しずつ書いてゆこう。冬休みにもなるしな。それから大学へ戻る。
「演習44」の授業だった。戯曲を読む。もちろん何度も読んでいる戯曲を読みつつ、しかしあらためて発見することもあるから、「読み」というものは面白い。その体験は、「読み終えた」とはまたべつのことであり「読み続けること」によってなにかが生成される。「読み終えた」は完了してしまうが、「完了」にはさしたる価値はなく、「読むこと」の「継続」に意味があるのではないか。考えてみれば、かつて私は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を五年ぐらい読み続けていた。で、終盤になって途端に面白くなってしまいするする読んでしまったことは、かえすがえすも残念だ。
授業を終えて原宿へ。CLUB DICTIONARYのイヴェントに参加した。しりあがり寿さんと、また例によって、例の遊び。つまり、僕もしりあがりさんも知らない言葉をテーマにして、しかし、しりあがりさんはなんでも知っているという前提で、それを絵にする。知らない言葉はツイッターで学生たちに呼びかけ教えてもらっていたのだ。いろいろな言葉を教えてもらった。ありがたかった。なかでも、「ハイパーご臨終タイム」がすごかった。いまだに意味がわからないよ、ハイパーご臨終タイム。それを「知っている」と言い張るしりあがりさんの絵もすごかった。

そのあと木曜日はまだまだ終わらず、朝の九時ぐらいまで授業の準備をしていたのだ。少し眠って眼を醒ますとものすごく調子が悪い。雨も降っている金曜日だ。そんな状態で授業が二コマ。「都市空間論演習」は面白くなってきたな、いや、僕が個人的に都市について考えることが面白いのかもしれないが。あと、「サブカルチャー論演習」があり、ナンシー関について発表してくれた学生の「パワーポイント」を使った発表は、スライドのデザインがきれいだったので、なによりそれが感心したのだ。なんというか、評価の尺度がデザインになってしまった瞬間である。ほかに評価すべきポイントはいくつもあるはずなのに、その学生のレイアウトのきれいさとか、文字の使い方、スキャンした絵の使い方など、とにかくよかった。よかったなあ。
それで授業が終わったあと、商学部のイシハラが不審な行動を取った。教員ロビーというところで温かいコーヒーでも飲もうと、TAの近藤と、イシハラの二人を連れて行ったら、イシハラが「ちょっとトイレに行ってきます」と近藤の傘を借りて出て行った。しかし、いくら待っても戻ってこない。そこで、イシハラのことを「傘ドロボウ」と呼んでいたのである。だが、これが伏線だったよ。それでしばらく教員ロビーでのんびりしていたら、オオバから電話があった。研究室の前にいるという。近藤と研究室に向かったら、ミノとオオバが、食べ物を用意して隠れていた。さらに、傘ドロボウだと思っていたイシハラが、ケーキを手にして戻ってきたのだ。ちょっとした誕生日パーティを研究室で開いてくれたのである。なんだか、感動したぞ、このやろう。なんていいいやつらなんだ。いい学生に出会ったな。ほんとにうれしかった。
そんな一週間。というか、月曜日に「卒業研究仮指導」で大学に行きまたべつの学生たちと会って話をし、それも楽しかったんだよ。びっちりスケジュールが入って忙しかったが、最後の夜は心にしみた。「リミニ・プロトコル」も観たし、横浜で食事もしたし、水曜日の「サブカルチャー論」のあとは、すごく久しぶりに元「ガルヴィー」編集部にいて僕にTREKの自転車を運んできてくれたNさんにも会ったし、いい一週間だったわけだ、いろいろ動き回ったけれど、結局。あとは、小説を完成させればもう、なにもかもうまくゆく。死んだ父親が残してくれた言葉がそれだった。意味がわからないんだけど、色紙に父親が書いた言葉は、「なにもかもうまくゆく」だ。いったいこれはなんだ? だが、みんながそうであればと。「なにもかもうまくゆく」の精神で。

そんな一週間でした。ありがとう。芝居もやる。制作のみんも助けてくれるし。なんでもばりばりやるんだ。生きてる限りは。

(12:41 Dec. 12 2009)

Dec. 8 tue. 「運ばれて」

いま、水曜日の「サブカルチャー論」の準備が終わったところ。ブログを書こうと思いたったが、それというのも、仕事が一段落すると人は眠気が覚めるものなのだ。しかし眠らなければいけない。だからブログを書くにあたって、いかにして20分で書けるかに挑戦だ。
楽しみにしていた「リミニ・プロトコル」の新作『Cargo Tokyo-Yokohama』に乗車したというか、われわれ自身が「Cargo」なので運ばれたのだ。それに関して、たとえば桜井圭介君はもう体験したはずなのになにも発言していないので、ことによったらなにも話してはいけないのだろうか。そこがよくわからんのだよ。そこで簡単に感想を記すと、これは、「左翼観光演劇」だった。素晴しい。こうして新しいドラマツルギーと、また異なる表現でなければ、語れない現在があるのだ。過去の技法やドラマの作法では陳腐になってしまう現在的なテーマを現在の問題として切り取り、われわれに提示してくれる。それがすべてに成功しているかどうか、ヨーロッパで50の都市で上演されてきたというが、それぞれに状況も異なるから、語られること、それが少しずつ変化しているだろう。ただ、なにがここで問題になっているかをしっかり見つめれば、新しい器に入れなければ、新鮮さを保てない中心軸のようなものは、どこの都市にもあったはずだ。
そのことに感じ入った。バスで移動という話は聞いていたので、いきおいそういった形式では誰もが思いつくだろう、行く先々でなにかが起こるといった、ある種の「見せ方の演劇」を予感させたが、それらとは異なり、まあ、その一面もなくはないが、しかし語られるのはもっと異なることだ。トラックを中心に、それを運転する人間、あるいは物流という資本に内在するきわめて強い政治性を目の当たりにするためにこの劇がある。なにしろ、窓の外にいるのは素人のトラック運転手ばかりではないか。すぐそこを走るトラックに運転手の姿が見える。工場地帯、倉庫街を走れば、いるのは労働者たちだ。現実をその方向から切り取ったとき、見えてくるまたべつのこの国と都市の姿だ。そして、夕闇が迫ってくる湾岸地帯はとても美しかった。

あと、「天王洲アイル」まで「新宿」から「大崎」を経由して直通で行けることの不思議はなんだ。地図をまた、あらためて見つめなければ。そこに「都市空間論」の手がかりがあった。というか、「流通」というキーワードで都市を見つめることもでき、とてもいい体験になった。あー、よかった。観ることができてよかった。いろいろに刺激されたのである。
というわけで、20分が過ぎた。これできょうは終わり。

(9:04 Dec. 9 2009)

Dec. 6 sun. 「福岡に行ったりなど」

週末(5日土曜日)、福岡に行った。フライトが予定されていた便が、羽田に着く直前、落雷を受けたというので、点検のためかなり足止めをくらった。本来なら、1935分発がまったく搭乗のめどがたたない。そうこうしているうちに、飛行機が変更になったという。急遽、搭乗口を変わり飛行機までバスで行くというのでどこまで連れていかれるのかと思ったら、そこは飛行機の格納庫のある場所だったよ。すごい光景。みんな携帯で写真を撮っていた。一時間以上も遅れて福岡へ向かう。福岡ではよく眠った。久しぶりによく眠れた。
翌日の日曜日、福岡市内にある小さな劇場で、僕がもう10年以上前に書いた『砂の楽園』を地元の劇団が上演してくれるというので観る。というのも、もちろん僕の戯曲もいろいろな場所で上演してもらい、それぜんぶ観ることはないのだが、福岡の文化財団が主催した『創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」』で最優秀賞になった「劇団爆走蝸牛」が上演し、そのときの審査員が僕であり、その後、来年の五月に最優秀賞の特典として財団の全面支援で舞台を上演することが決まっており、そこでドラマドクターというものを僕がすることになったからだ。
上演後、細かくダメだし。演出についていろいろ話したが、あとになって、まだ話したりないと思えた。でも、いくつかの部分でいいところもたくさんあったが、それを伝えるのを忘れた。よかった部分も話してあげないと。ただ、これは言うべきかどうか、しかしはっきり言ったほうがいいんじゃないかと思いつつ、言わなかったのは、「劇団名を変えろ」だ。まあ、好き嫌いがあるだろうけど、主宰している演出家も若いんだし、「チェルフィッチュ」という時代ではないか。「サンプル」だったり、「ポツドール」の時代である。名前がすでに表現する質のなにかを決定している。「劇団爆走蝸牛」はないじゃないか。「劇団」と記すのがいけない。「爆走する蝸牛」がそれほど気がきいていない。中嶋さんという演出家、そしてその集団の雰囲気がいいだけに、ある意味、プロデュースするような気持ちというか、育てるような気持ちにさせられ、つい口を出したくなる。だから名前を変えさせたい。このままでは全国的に評価されない。

ということが週末にあったが、まあウイークデイは大学である。木曜日は豊洲にフィールドワークに出かけて「ららぽーと」を体験した。豊洲と、その埋め立て地の歴史を調べるとさまざまなことがわかってくる。古い地図は面白い。いまの豊洲周辺から、過去の豊洲、あるいは、石川島はまったく想像ができない。土地の歴史は興味深い。その変遷とそこに深く眠っているだろう歴史がなにかを喚起する。
「サブカルチャー論」の準備はたいへんとはいえ、いろいろ考えていると面白くてしょうがない。ここ何回か、いよいよ八〇年代の話、たとえば「おたく」についてだ。「ピテカントロプスエレクトス」の話になると、なかなかぴんとこない学生も、「おたく」から「オタク」への変容、そして、「おたく」が一般化した宮崎勤の事件など、そこは関心が高いと感じた。それはいわば、これまで以上に現在につながる話だからだろう。いよいよ九〇年代の話にも入ってゆくが、そのまえに、「岡崎京子」「大友克洋」と八〇年代のファッションの話。さらにほんとは、『ブレードランナー』をテキストに、たとえば八〇年代の演劇が注目した荒廃した近未来のビジョン、という、ある種のSFが持っていたテイストがなぜ八〇年代に注目されたかについての話になるが、八〇年代ばかりが長くなるのもいかがなものか。
そんな日常。なんか休めない。面白いからいいのだが。

(10:13 Dec. 7 2009)

Dec. 2 wed. 「すまん。12月になっていた」

もう12月だった。小説を書き終えて、メールで送ったが、最後があれでよかったかどうか不安である。うーん、まだ書きこむことはあったし、なにかほかにもまだ表現することはあったような気がする。
さて、飴屋法水さんが演出した、サラ・ケインの『4.48 サイコシス』を観たのは、もう先々週の土曜日のことだ。ずいぶん時間が経ってしまったような気がする。しかしその日は小説を書いていることになっていたので(家にこもって小説を書くと「新潮」のM君、Kさんと約束したのである)感想を書けなかった。いちばん印象に残ったのは、サラ・ケインのきわめて内的な戯曲を、これだけ拡大された劇に再構築した、その演出の、距離、遠近、位置の感覚の特別さだ(べつに物理的なスケール感だけではなく)。本来、大きな劇場でやるような戯曲ではなかっただろう。劇作家が内包するある特殊なイメージの連なりを、またべつのイメージで塗り替えることによって、そのサイズをべつのサイズにする。
外国人がたどたどしい日本語を語るとなにを言っているかわからない。言葉を正しく発すればいいわけではない、ということを、あらかじめ意図して描かれるそれは、「アンチテクスト」ともういうべきふるまいになるが、だが、「4時48分」という言葉が指し示す「重さ」、サラ・ケインが書こうとしたその時間の特別な意味、数字を並べただけで、しかし言語化できない数字のイメージと、それにこめられた意志は確実に伝わってくるという印象を受けた。そのことが不思議だったのだ。言葉を伝えることなどいっこうに構わないかのような、様々に仕掛けられた趣向や、あるいは、おそらく戯曲では「沈黙」とか、「長い沈黙」と書かれたのだろう、その時間を、あっさり「サイレンス」という言葉で解決してしまうセンス(趣味的判断)をどのように評価するかによってこの舞台を語る言葉は変わるだろう。
数多くの過去の舞台がさまざまな実験的な試みをしてきたのを多くの人はすでに知っている。しかし知らなければ初めて目にする驚きになるのは、ある若い観客が客席側を演技空間にし客席を舞台にするそれを新鮮なものとして語ったことに現れている(それはよくあった方法のひとつだよ)。そして、さまざまな試み自体がある意味「びっくり大会」になってしまうことに飽き飽きした「とき」が存在しそれから逃れようとした次の時代があったのを誰もが忘れてはいない。飴屋法水がやろうとしている表現はそこへの後退になる危惧を抱えつつ、しかしこの演出家に特別な「なにか」が背後を支えていることによって露骨な「現在」なのであり、その魅力がどういったものか言語化しようとすれば、やはり「特別な趣味判断によるきわめてすぐれた表出」としか表現しようがない。ある時代を支配した特別な「演劇の思想」によく似ているとしてもまったく異なる表現だ。表出だ。「吾妻橋ダンスクロッシング」で観た飴屋の表現ともまったく種類が異なった。だからそれは一面においてきわめて演劇的だと感じた。べつの側面として「音の舞台」であることを感じつつ(客席の下に仕込まれたスピーカーの効果と、鳴いていたコオロギが本物だったというそのすごさ)、その魅力も捨てがたいが、やはり「演劇的」であり、肯定すべき演劇性の高さと美しさだ。

おそらく飴屋はどんな戯曲でも自分のものにしてしまうだろう。そして状況を変える力をこの作品に感じた。なにかが変わる。また変わる。保守化しつつあった演劇の状況になにかを与え、若い演劇人たちがここから刺激を受けて、また新しい言葉で語り出す。
それはそうと、この舞台のことをなにも知らず、タイトルさえ知らぬまま私は観に行ったんだけど、興味深かったのは、ちょうど書いていた小説が精神的な病についてだったからだ。むしろ参考になったな。参考にさせてもらった。だからそういった意味でも、戯曲の言葉はなぜか伝わっていたのだ、こんな方法なのに。なに言ってるのかよくわからない外国人の言葉がなぜ伝わったのか。とても不思議である。
一週間以上、ブログの更新がとどこおったので、書きたいことはいくつもあるが、まあ、しりあがり寿さんと、いわき市に仕事で行ったり、小説を書き上げたり、でもって授業をやって学生と話して、病院の予約を二度も忘れて、部屋はとにかく片付かないという日常である。大学の授業はどんどん面白くなっている。あとヒッピー部は絶好調である。ツイッターでつぶやいている。多くの人にフォローしてもらってとても感謝しているのだ。ブログはまたべつの言葉を書く場所である。

(4:22 Dec. 3 2009)

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