富士日記 2.1

Mar. 31 tue. 「月末はあせる」

小説を書こうとうんうん唸っていた。どうも集中できない。夕方、「新潮」のKさんに電話して、会って小説について打ち合せするのを一日先にしてくれないかと伝える。せっぱつまってきた。まあ、全体でどれだけの長さになるかわからないが、それでも感触を知ってもらうために30枚は渡そうと思っていたが、書いては消し、書いては消し、書いては消し、また、なにも書かず、眠ってしまい、そうこうするうちに、小刻みに十五時間ぐらい眠ったような気がする。三時間眠って目を覚まし、それから少しするとすぐ眠って五時間。食事などしてからまた眠るという、小刻みな睡眠だ。かなりだめな状態である。
雑誌「BRUTUS」の漫画特集にコメントを求められた。会って話を聞きたいとのことだが、そんな時間がないんだよ、いまの俺には。まあ、大丈夫かと思ったけど、新たに漫画を読んでそれについてコメントしなくてはならないものもあるし、あと、コメントが載るのが、六分の一ページだというので、時間を割いても、なんというか、コメントしたかいがないほどのスペースだから、断った。ただ、電話で向こうの女性ライターと話をするのは面白かった。もっとでたらめなことを言えばよかったと思った。
それはともかく小説だ。小説のことを考えつつ、しかし、四月に入って第二週から授業がはじまると思うと、そのことも少しは考えておくべきだと思い、っていうか、まだ読んでない本があるのだ。この春休みにもっと勉強をしていい授業にしようと思っていたが、それもあっというまに過ぎてしまった。勉強不足だ。ノートをしっかり作らなくてはいけなかった。また自転車操業のような日々がはじまる。

それにしても眠った。なにかすごくいやな夢で眼が覚めた瞬間があって、それが思い出せないんだけど、たしか大学の授業にまつわることだった気がする。あ、そうだ、授業に遅刻しそうになるんだ。それで学生を待たせてようやく教室に着いたら、素材の画像、映像などを流すコンピュータを研究室に忘れたことに気がついて、大慌てになっているという夢だ。
もう煙草をやめて、九ヶ月になるけれど、小説のこと、大学のことを考えていたら、きょうはさすがに吸いたくなった。ストレスがたまったからだ。そんなわけで、あまり新しいことを考えることができなかっただめな日だ。このところ考えている、「90年代サブカル」についてもほとんど進展はない。「大宅文庫専門家」と名乗るH君という人から、三島由紀夫のボディビルに関する資料を送ってもらった。ありがたい。これも授業で使おう。H君は、なにをしている人か、メールなどではさっぱりわからないのだが、まあ、いまのところわかっているのは「大宅文庫専門家」だということだ。メールにコントも添付してあった。それについてどうコメントすればいいのか悩むところだ。ほかにもいろいろメールはもらっている。
だが、いまは小説だ。焦っている。ストレスがたまっているのだ。呻吟しているのである。

(8:19 Apr. 1 2008)

Mar. 30 mon. 「受賞パーティー」

だいぶ風邪もよくなったので夕方から、岸田戯曲賞の授賞式に出席した。神楽坂にある日本出版クラブ会館へ。今年の受賞は、蓬莱竜太君と本谷有希子さんだった。二人ともあまり知らないし(でも、本谷には何年か前、僕がプロデュースした舞台に出てもらったことがあったんだな。忘れていた)、あまり話をする機会はなかった。
ほかにも知っている人が少なかったので、どうしようかと思ってぼんやりしていたが、朝日新聞のYさんが話しかけてくれた。いろいろ暗い気分になるご時世なわけだ。森田健作は当選するし。そんなときだからこそ新聞が気合を出してもらいたいのに、新聞にはなおさら厳しい時代だ(出版も同じだろうか)。なかでも朝日が元気がないらしい印象。で、いろいろ話したが、Yさんから、こんど朝日新聞社に来ませんかと、いま話したようなことを語ってくれませんかと言われる。行ってみんなを励まそう。おおいに励ましたい。講談社のYさんと、ほかにも何人か初めて会う講談社の方たちと挨拶。「群像」の編集部にいる人は、「返却」を読んでくれたとのこと。幻冬舎のTさん、それから「新潮」のKさんにも会った。Kさんとは小説の話。今週の木曜日までにある程度、書くと約束していたのを忘れていた。焦燥する。
ほかにも、いまは新国立劇場の制作をやっていて、かつて舞台監督の助手のような仕事をして僕の舞台を手伝いに来た人とも挨拶したが、わたしはかつて、この人のことを蹴ったことがあったのを思いだし、しかし、最初、よく似た人のような、たしかなことがわからず、なんか似ているなあと思ったので、「僕はあなたを蹴ったことがあったでしょうか」とやぶからぼうな質問をしたのだった。

しかしあれだね、本谷が所属している事務所の社長さんが挨拶に立ったが、その挨拶がきょうはいちばん笑った。もう10年近く前、まだ本谷のことをなにも知らなかった社長さんは、興味を持って舞台を観に行ったという。作品は残念なものだったが、たまたま、その日、アフタートークがあったので、ひとつ作者の顔だけでも見てやるかと残って話を聞いたという。すると、その日のアフタートークのゲストが「金沢から出てきた本谷の実の父親」。そして、トークのテーマが、「なぜ、仕送りを打ち切るのか」だったという。笑ったな。それすごいな。
少し早めに会場をあとにした。家に戻ると、このあいだ、『ペヨトル興亡史』についてメールをくれたQさん(じつはNさん)からさらにメールをいただきうれしかった。マカヴェイエフ情報など。
あ、そういえば、きのうのNHK教育テレビ「ETV特集」で、赤塚不二夫さんの番組があり、それに僕が出ていたという。見忘れたというか、いや、じつはコンピュータに録画してあったが。でも見返す勇気がない。……それにしても小説だ。うーん……悩む、というか、書こうとすると眠くなるのはいったいなんだろう……逃避か。うーん。

(4:52 Mar. 31 2008)

Mar. 29 sun. 「W君の新築の家」

白水社のW君の自宅が完成したのを祝い、近しい者みんなで浅草の近くにある新築のお宅を訪問したのである。ただ、風邪がまだ抜けきっていなかったので、桜井圭介君、ライターの押切伸一君、放送作家の町山広美さん、音楽家の大谷能生さんらに、久しぶりに会ったがあまり楽しむ感じになれなかったのが残念。
家の中央に螺旋階段があり、コンセプトはツリーハウス、階段を中心に部屋が宙に浮いているかのようにデザインされている。開口部が多くて部屋がとても明るいし、天井の高い作りは開放感がばつぐんだ。いいな。光が部屋に差し込むというより、光を家にのなかに呼び入れるような感じがとてもいい。夕方になると、照明の光が白い壁に反射し、光と影とで、またべつの表情を見せる。とてもよかった。
しかも、桜井君がプロデュースした「おやつテーブル」によるダンスパフォーマンスもあって、楽しかった。なにか遊園地再生事業団も、演しものを用意すべきだった。上村と田中でいったいなにができるというのか。で、一行は、その後、やはり浅草に住むいとうせいこう君の家に行ったはずだが、風邪でもうろうとしてきたので、早めに辞することにした。やっぱりからだが本調子でないと、仕事に支障がでるばかりか、こんなときにも楽しめないのがだめである。ただ、新しい家のデザインのよさ、ダンス、久しぶりにみんなに会えたことで、こころがなごむ一日だった。

というわけで、きのうの話の続きではないがやっぱり音楽だね。心から楽しめる音楽を聴きたい。そんな折、クルマのカーステレオでiPodの音源を聴こうとして問題が発生。FMトランスミッターで電波を飛ばしたいが、古いCDをiPodに取り込んだ音は問題ないが、新しいCDの音でノイズが入ることに悩んでいるのだ。CDをそのままかければ問題ないが、FMトランスミッターで電波を飛ばしたときだけ問題が発生する。しかも、最近のCDのある一定の音がだめだ。それがよくわからない。誰か、同じようなことを経験したことのある人はいないのか。すごく腹立たしい気分になっている。コピーガードとか、そういったことが関係しているのか……悩む。
ところで、ドゥシャン・マカヴェイエフという映画監督の作品が見たくてたまらない。以前、そのうちの一本を、豪徳寺のレンタルショップで借りたことがあってそのでたらめさと、実験性に感心した覚えがあって心に残っている。DVDも出ていないみたいだし、地道にレンタル落ちのビデオを探すしかないのか。で、そのへんが、あの青山正明とかなり趣味があうらしく、『エルトポ』を撮ったアレハンドロ・ホドロフスキー監督だの、クローネンバーグ監督、そして、マカヴェイエフ監督と、好きな映画の傾向が似ている。いやだよ、そんな人と一緒ってのが。
さて、仕事のほうはと言えば、大学の授業の日程を作った。今後の授業でなにをやるか、この一年の計画表を作ったのである。これでもう大丈夫だ。あとは授業に合わせて素材を作る作業だ。また、Mac用のプレゼンソフト、KeyNoteで作る。この作業がまた楽しいのである。「都市空間論」についてはまだ煮詰める必要があるし、もっと資料、書籍にあたって考えを深めなければならない。っていうか、演習系の授業、「都市空間論」「サブカルチャー論演習」を、去年の失敗をかてにまだ、考えるべきことはある。

それにしても、風邪はいやだよ。からだがだるくなるし、風邪薬を飲んだせいですぐに眠くなるし、いいことがちっともない。そりゃ病気なんだから、しょうがないとはいうものの。

(4:04 Mar. 30 2008)

Mar. 28 sat. 「週末の思考」

少し天気は回復したがまだ空気は冷たい。風邪もあまり回復せぬまま、表参道のMoMAデザインストアへ行った。あるものがほしかったからだ。土曜日の午後の表参道は人が多い。なんの列かわからないが若い女たちが順番を待って列を作っている。
買い物を終えてそれから少し遠回りし、帰りに風邪薬とユンケル、鍋焼きうどんを買うことにした。一気に風邪を治すための秘策だ。鍋焼きうどんをかーっと食べて汗をかき、それからクスリとユンケルを飲んでしまえばもう大丈夫だ。ここでのポイントは汗である。肌着がわりのTシャツが汗でびっしょりになるくらいがいい。すると、熱が下がり、喉の痛みが消え、風邪の症状がやわらいでゆく。あくまで僕の場合はこれがいちばんだ。いつもの年だと、こんなふうな風邪をひくのは11月ぐらいだったが、手術以来、体質が変わったのか、去年の冬は風邪をひかなかった。で、こんな時期に風邪気味になるのが逆に、おかしい。
それから眠ってしまった。風邪薬のせいか気持ちよく眠る。

さて、このところ「九〇年代サブカル」と、その周辺の文化についてずっと考えている。もちろん大学の「サブカルチャー論」の講義のためという事情もあるが、もうひとつ、いま書いている小説のための調べものという側面もある。詳しくは書けないが……というのも、いま、このノートのために「あらすじ」を書いたけど、そんなことをするとそれで満足してしまいまた途中で放り出すおそれがあるからだ……ともあれ、記憶が曖昧になっている時間をあらためて取り戻そうとする男の話である。
それで、以前「文化デリックのPOP寄席」で、川勝さんとともにお世話になった下井草さんから、「青山正明」が編集したことで有名な雑誌「危ない1号」を、「第一巻」から「第三巻(実質の最終号)」まで送っていただいた。ありがたい。いろいろな人がこのノートを読んでくれ、なにか手助けをしてくれる。こんなにありがたいことがあるでしょうか。
さらに、下高井戸でBOMBAY JUICEという店をやっているS君からは、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と、その周辺のドラッグ文化、音楽について、自身の体験から語る長文のメールをもらった。「セカンド・サマー・オブ・ラブ」はイギリスから生まれその運動の広まりとドラッグはどうしたって切り離せないが、レイブとドラッグはこの日本でも縁が深く、なかでも、「マジックマッシュルーム」が一般化する過程で、レイブの敷居が低くなった(なぜなら、ほかのドラッグより手に入りやすかったからだ)とS君は述懐する。そしてこう書くのだ。

 敷居が低くなり、マーケットが拡大すれば、そこに資本が入るのが常で、 富士日記のリンク先で触れられていた、2000年夏の小田原のフリーパーティー、僕も遊びに行って、本当に楽しい、いいパーティーだった記憶があるのですが、その同じ夏に別の場所で行われたパーティーには、すでに大掛かりな資本が入っていました。協賛に、大手酒販メーカーが加わったり、チケットが高額だったり、駐車場から会場まで、大型バスが運行していたり……

 そして、その後の変化として決定的なのは、レイブという音楽の意味が変容していったことがあげられるだろうし、要するに、「パラパラ」になっちゃった、要するに、ものすごくかっこ悪くなっていった、というより、「踊る」ってこと、「ダンス」の意味が変容しているのをそこから読み取れるけれど、さらにS君はこうも書いている。

 その後、資本が入ってきたのに比例して、そういった場所に、いわゆるギャル、ヤンキーが入ってくるようになり、2002年に、マジックマッシュルームが麻薬指定された頃にそんな流れが決定的になって、今となってはトランスといえば、パラパラに象徴される、ギャル、ヤンキー音楽になりました。レイブ時代、トランスとは、ドラッグでリミッターを解除して強制的にトランスする、極めていかがわしい音楽だったのに。
 穿った見方をすれば、レイブ、トランスというマーケットを資本が拡大するにあたって、アンダーグラウンドなドラッグというイメージは足枷でしかないわけで、そんな流れが、合法ドラッグの一掃ということになったともいえます。

 かつてヒップホップもヤンキーがクルマからがんがんに流す音楽になってしまったのを苦苦しく聞いたが、トランスまでがヤンキーの音楽になってしまったのをどう考えればいいのかと。最近では、「ヤンキートランス」として堂々と売ってやがる。ちょっと聴いたが、聴くにたえない質の悪さだ。腹立たしいよなあ。人が集まれば資本が入りこむ。それでもまだ、きのう書いたような、「DIY思想」によって運営されるフリーパーティがあり、それに期待するしかないのと同時に、資本が入ってくるのは、社会的、経済的な制度の必然としてやり過ごしつつ、なにか、敵の裏をかくでたらめな戦術が組めるのじゃないかと考える。それこそがレイブだ。

まあ、結局、これもまた「都市のマタギ」としての生き方である。こうして九〇年代と現在を接続する思考はさらに先む。まだ、考えるべきことはあるし、まなぶべきことも無数だ。たくさんの方に助けられている。感謝。

(6:16 Mar. 29 2008)

Mar. 27 fri. 「一種のマタギとして」

暖かくなったと油断した東京地方の気候はまた冬に戻ってしまい、おかげで風邪をひいたらしい。せきは出ないがのどが痛い。このところ朝の散歩も滞りがちになっている。単純に寒いからだ。また歩かなければ。だけど、雨も降って気分を沈ませるから、歩こうと外に出るのがおっくうになる。
ところで、きのう書いた「またぎ」の料理はかなりファンダメンタルな自然への強い志向性だった。鹿の肉にしても、片面を炭火で焼き、肉汁が表面に出てきたところで、そのまま食べる。せいぜい塩をかけるくらい。肉汁と、肉の味だけで食べるという、素材だけの料理だった。これが「マタギ」の思想なのだろうか。学ぶところは多い。店主は、海へ、そして山へ、猟に出るという。その逞しさに頭が下がる。私たちは、牛や豚、鳥、鹿、熊を知っている。そして、スーパーマーケットでパッケージになっている肉を知っている。そのあいだのことをなにも知らない。知らないでも生きていけるけれど、知っておくからこそ、食べることの意味を知るし、非対称で、不均衡な世界を想像することができる。肉汁だけの鹿を食べると、まさに自然を食べるような不思議な感覚に、口のなかを支配される。そのことで、「美味しい」という感覚を試されているかのようだ。私たちの味覚はおかしいにきまっている。変に抗おうとしたって、都市に生きていこう、都市でしか生きられないときめたからには、ここでの味覚に慣れてゆくしかない。ただ、忘れたくはないし、無知ではだめな「味」がきっとある。その「味」を知ることの重要さとは、つまり、スーパーのパックになった肉が、店頭にならぶまでになにがあったか、そこへ想像力を働かすことと同じなのだろう。
今年は、何年ぶりかで、また北海道のライジングサンに、桑原茂一さんの関係で出ることになった。大学の講義のようなことをする。しりあがり寿さんも一緒だが、なぜか、しり先生は、学生役をやりたいとのことだった。意味がわからない。で、なぜそんな先の話を強く主張するかというと、暖かくなったら、からだもだいぶ調子が出てきたことだし、外に出ようと思ったからだ。フェス、レイブ、フリーパーティーと呼ばれるような、ある種の文化運動、社会運動的な意味における「DIY思想」にあふれた催しものに『はじめてのDIY 何でもお金で買えると思うなよ!』毛利嘉孝 参照)、積極的にかかわろうというのが今年の目標だ。まあ、これも一種のマタギである。

(8:04 Mar. 28 2008)

Mar. 26 thurs. 「その後、考えていたこと」

夜、いつのまにか「en-taxi」の編集長になっていたTさんと食事をした。入ったのが西麻布の「またぎ」というすごい名前の店だ。そこでの食事について書きたいが、話が長くなるので次の機会にしよう。「またぎ」すごいよ。
数日前に未知の方からメールをいただいた。お名前がなかったので、アドレスの先頭の一文字を使ってQさんとさせていただく。内容はこのところ書いていた「九〇年代サブカル」についてだ。

 90年代についての考察、とても興味深く読んでいます。70年生まれで、二十歳を過ぎてから東京に来て映画館や本屋に通うようになった“ネクラ”な私の目には、当時のいかがわしさや暗さは意外と居心地のいいものに映りました。ドラッグともレイブとも無縁でしたが。
 そんなわけで、タイトルだけ知っていた『自殺されちゃった僕』もつい読んだのですが、この著者の奥さんと思われる人の文章が手持ちの『ペヨトル興亡史』という本に載っているのに偶然気づき、思わずメールを差し上げました。全く余計なお世話ですが……。その文章には破滅的なところは全然なくて、ありきたりですが“人って分からない”と思わされてしまいます。

 文中に出てくる『ペヨトル興亡史』(今野裕一 冬弓舎)は僕も読んだ。二〇〇一年の七月に刊行されているが、もともと読んでいたわけではなく、こうして九〇年代について考えているなかで参照した。「著者(『自殺されちゃった僕』:引用者註)の奥さんと思われる人の文章」とあるのは、おそらく、『ペヨトル興亡史』に寄稿しているペヨトル工房の元編集者「I」さんだと思われる。
 すでに書いたことだが、2002年11月26日に僕は、「せりふの時代」の編集者から『2-:+ / ドラッグ特集』という本をいただいており、それを作ったのが「著者の奥さんと思われる人」になる。そしてそのゲラのチェックを戻さなくちゃいけないと僕は、そのあとのノートに書いており、戻す相手を「Iさん」と表記している。おそらく『ペヨトル興亡史』に寄稿したときの名前で仕事をしていたのだと思うが、当時のメールがどのコンピュータに入っているかわからなくなってしまったし、いただいただろう名刺が、大量の名刺の束に埋もれていて確認できていない(いまさら、それを確認することにも、あまり意味を感じないというのもある)。でも、その人は、ほぼ確実に「I」だっただろう。そして、このメールで印象に残ったのは、
「70年生まれで、二十歳を過ぎてから東京に来て映画館や本屋に通うようになった“ネクラ”な私の目には、当時のいかがわしさや暗さは意外と居心地のいいものに映りました」
 という部分だ。
 九〇年代の初頭、「ネクラ」という言葉はすでに「死語」になっていなかっただろうか(「ネクラ(=根暗)」については「80年代地下文化論講座」を参照)。それはともかく、Qさんが、居心地のよさを感じた九〇年代には、彼が書くような「いかがわしさや暗さ」が漂っていた、と僕も感じる。バブルが終わったあとの反動として存在したと単純化することもできるし、あるいは、「八〇年代へのアンチテーゼ」としてあった側面もあるだろう。九〇年代を考えるとき、このことは大きな意味を持つからあまり雑な分析ではいけないとは思うものの、いまはひとまずそう考えておく。

さて、次にQさんのメールで召喚された、「ペヨトル工房」について触れなくてはいけないのだな、と思うのは、この機会に手にした『ペヨトル興亡史』に、「九〇年代サブカル」を考えるとき、「青山正明」の名前と同様に取り上げざるをえない「村崎百郎」が、「I」という人物の名前と並んで寄稿しているからだ。それも最近になって知ったが、その当時、「鬼畜」という言葉に従来とは異なる意味を付与して概念化した「村崎百郎」は、ペヨトル工房の編集者・黒田一郎のことだという。ではなぜ、『ペヨトル興亡史』にわざわざ「村崎百郎」の名前で登場したのか。
「ペヨトル工房」を代表する雑誌「夜想」はすでに七〇年代末に創刊されているし、「夜想」とはべつに「ペヨトル工房」は、西武セゾングループと組んで「WAVE」という雑誌を作っていることから、やはり「八〇年代的なもの」だったのは否めない。しかもある特別な「八〇年代テイスト」である。そこから生まれた「特別ななにか」が九〇年代の変化によって、異なる姿で、しかし「ペヨトル工房」的な匂いや気配を漂わせつつ、「九〇年代サブカル」を生む土壌になったと考えられる。たとえば、その下地にあるのは、「人形」「死体写真」「奇形」といったテイストが放つある傾向を持った嗜好、偏愛の、また異なる姿をした表出のありかただ。
だから九〇年代に入って「サブカル」という言葉が使われたときの、その感触は、(もう何度か、同じような話をくりかえし書いている気がするが)それまでの「サブカルチャー」とは異なると解釈するといろいろすっきりする。まあ、「サブカルチャー」をどう定義したらいいかはむつかしいし、人によって異なるが、ここのちがい、八〇年代までの「サブカルチャー」と、九〇年代以降の「サブカル」がぜんぜんちがうことはあらためて確認しておきたい。言葉の使い方としての差異は「80年代地下文化論」か「ノイズ文化論」でも語ったが、意味内容がそもそも異なると、こうして考えていったとき結論づけざるをえない。かつてだったら、「アンダーグラウンド」と呼ばれるようなものが、いつしか「サブカル」として、口あたりよく流通したと考えるのは単純すぎるか。でも、たとえば「死体写真」への偏愛のような趣味は、アンダーグラウンドな文化としてある時代からすでに存在したし、べつに九〇年代になって突然、出現したわけではないだろう。

だから、「九〇年代サブカル」を読みとるための課題は少しずつわかってきて、そのひとつに「ペヨトル工房をどう評価するか」があるのはここまで書いたとおり。「ペヨトル工房研究」のような作業だ。
あと、八〇年代の末からはじまった、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」とレイブ、それを代表する音楽としてのアシッドハウスや、テクノがですね、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の名前が示すように六〇年代的なヒッピーカルチャーとどう接続し、九〇年代を準備したかになるけれど、それは次の課題。でも、この音楽の潮流が放つ意味は時代への反映を考えるともっと取り上げられるべきだ。というか、そっちから考えていったほうが私にとっては興味深いし、「九〇年代サブカル」の探求は、「ペヨトル工房」と「セカンド・サマー・オブ・ラブ」が登場することでようやく、考えることの愉楽が生まれる。

en-taxi」のTさんとは「またぎ」を出たあと、新宿のバーに行ったんだけど、そこではずっとソウルをはじめ、ブラックミュージックの名曲たちがかかっていた。で、入ってきたひとりの客が、いきなり「イチロー」と店主に声をかけていたのが、笑ったなあ。気持ちはわかるよ。でもきょうはやっぱり、「またぎ」だったな。いい店だった。すごく美味しかった。

(8:32 Mar. 27 2009)

Mar. 25 wed. 「舞台を観る。高円寺に行く」

ようやく、「プログレッシブ人生」を更新した。

この数日もいろいろあったけれど、まずきのう(24日)のことから。「座・高円寺」の見学会と称して、遊園地再生事業団の数人で高円寺に行ったのである。僕はもう、何度か見たのでだいたいわかっていたが、みんなは初めてだ。まず、外観からして人を魅了する。形体が面白くてひきつけられる。全体的にサーカス小屋のような感じがあり、なかに入ると、カフェのフロアにそんな雰囲気が漂っている。やっぱり、芸術監督が黒テントの佐藤信さんだからか。
見学させてもらい、なにより俳優を感動させるのは稽古場だろう。もちろん舞台そのものに興味を持つのは当然だが、稽古場がきれいなので、それだけでも気分がよくなる。ここで稽古できるってことの贅沢さに感謝しなければと思うのだ。ところで、いくつかある舞台のうち、僕が使う予定になっている「座・高円寺1」は、ぱっと見た印象、奥行きがあまりないと感じるものの、舞台に立って確認すると、意外にある。間口が広いのでそう見えるだけだった。それから、壁はこのまま使ってもいいんじゃないかと思うような上品な色だ。舞台を観ながら作品のことを思う。どんなことができるだろうか。舞台へと気分が少しずつ上昇してゆく。なにかきっかけがなければからだが動かない。
というわけで、劇場のSさん、Iさんらに挨拶をして見学を終え、外に出た。ぶらぶら高円寺駅のほうまで歩く。左手に中央線が走っており、それづたいに歩くかっこうだ。中央線沿線は、駅前のロータリーの規模はそれぞれだが、線路沿いの感じはどこもよく似ている。中華料理店で食事。映像係の今野がよく食べる。

週のはじめ、22日(日)は池袋の芸術劇場へ、「マレビトの会」(京都)の『声紋都市──父への手紙』(作・演出松田正隆)を観に行った。いい作品だった。京都の大学で教えていたころの卒業生が何人も出ている。牛尾のセリフで笑ってしまった。あと、山口が「へっ」と妙な声を出すので、あることを思い出したが、あれは、あれなのか、あとで質問するのを忘れた。翌日(23日)の午後、その牛尾、山口、枡谷らと会ってパークハイアットにあるカフェで話をした。三人とも京都から来ている。久しぶりに話ができて楽しかった。ただ、芝居することについて悩んでいるのだろう、いろいろ質問してくれるが、僕もうまく答えられない。また京都にでも行って、ゆっくり話ができるといいな。
といった日々だが、きょうはやらなければいけない原稿を書いた。数日前からうまく書けなくてうなっていたのだ。「新潮」のKさんからは、『丘の上のパンク』(川勝正幸)の書評を頼まれたものの、それを手に取り、分厚いこの本を締め切りまでに読めるか、読んでから原稿が書けるか、それにまず悩んでいろいろ先に進まない。結局、川勝さんには申し訳ないが、断ることにした。大学の準備、小説……など、やることいろいろ。
そういえば、「プログレッシブ人生」で、中野香織さんの『モードの方程式』を取り上げたところ、近著『愛されるモード』(中央公論新社)を、本人から直接、送っていただいた。というより、あの連載を読んでいただき、それがうれしい。そんな「プログレッシブ人生」だ。どんな人生だ。

(5:04 Mar. 26 2009)

Mar. 20 fri. 「少し疲れた」

すぐに次を書こうと思っているうちに時間が過ぎてしまったのが、e-daysの連載(プログレッシブ人生)である。「カーディガンの話」の続きだった。すぐに書けると思っていると人は意外にうっかりしてしまうもので、担当のMさんからメールをもらって慌てた。で、書こうとしているわけである。断固、書こうとしているのだ。しかし、いろいろあってだめだったというほどに、この数日、忙しかった。
水曜日(18日)は朝からメールを書いたり、電話したりで、打ち合せのダブルブッキングを調整。失敗した。一日にいろいろな日程を入れてしまった。あちらを、こちらに動かしてもらい、さらに、こちらをあちらに動かしてもらいとあせる。で、いろいろあって夕方、幻冬舎のTさんに会う。『資本論も読む』の文庫化の打ち合せ。Tさんが担当したべつの文庫本について話を聞き、また著者の方の、新たなだめっぷりがわかって驚かされる……そういうことになっていたのか……なるほどなあ……。担当したTさんは大変だったろう。で、そのTさんを連れ代官山に移動したのは、そのあと、桑原茂一さんに会って、またべつの打合せがあるからだ……って、話の筋が通っていないが、茂一さんとの打合せがライブを見ながらってことになっていたから、Tさんを誘ったのである。
打ち合せをすませると、茂一さん、Tさん、それから、クラブキングのMさん、さらに茂一さんの息子さんたちと、UNITというクラブに行った。LIttle Creaturesのライブを見た。それでこのところ、「九〇年代サブカル」的なものが持つ「昏さのようなもの」にとりつかれ、ふさいでいた気分が、なにやらぱーっと晴れたのである。なぜならかっこよかったからだ。やっぱりこれだな。クスリなんかなくたって気分は向上する。ライブが終わって茂一さんらと別れたが、なんだか晴れ晴れとした気分でクルマに乗り渋谷方向に向かった。Tさんがそのあと会社に戻るというので明治通りを走り、副都心線の北参道駅のあたりまで送った。よかったな。久しぶりにライブを見たというのもあったし、それはもちろん、LIttle Creaturesがいいわけだけど、その場所UNITというクラブ)、空間と、それを共有した人たちの姿、リアルな人の姿から、なにかいいものを受けることができたからではなかったか。

で、翌日(19日)は二本の取材と、打合せが一本。まず、「QuickJapan」の取材でシティ・ボーイズについて話をする。新宿区役所の近くにあるルノアールの会議室のような部屋。まあ、実質的な取材はそんなに長くなかったが、編集のU君とライターS君を相手に雑談するのが楽しかった。ついつい話しこんでしまった。同じ場所で、そのあと、首都高のサービスエリアにおいてあるという、「首都高のPR誌」の取材を受けた。話を聞いてくれたのは、雑誌「東京人」のSさんと、Tさんだ。こちらも楽しくなってよく話した気がする。さらに夕方から、筑摩書房のIさん、S君とやはり文庫の打ち合せ。一生懸命話しているうちに疲れてきた。なんというか、エネルギーが切れた感じだ。とはいっても、そんなに長い時間ではないし、ちょっとエネルギーが切れるにしては早すぎるんじゃないか。このところ、睡眠が異常だからな。短い時間で眼が覚めてしまうし、少しなにかしているとすぐ眠くなるというだめな状態。
だから、20日は、夜、小浜のステージがあったのに、午後うっかり眠ってしまい眼が覚めたらもう開演の時間を過ぎていた。だめだった。というか、二日間、打ち合せ、取材が重なり、そういうのも久しぶりだったので疲れていた。

ところで、先ほど、「九〇年代的サブカル」について否定的に書いたが、正直なところ、九〇年代のことがよくわからない。というか、演劇ばかりやっていたように思うし、そういった意味では無知であり、九〇年代の「サブカル」という状態をうまく把握できないのだ。たとえば、鶴見済の『完全自殺マニュアル』が売れたとか、「鬼畜」という言葉が注目されたという、ある文化的潮流があったのはもちろん知っているが、遠い出来事のような印象だ。このことはさらにしつこく書いてゆく。「昏さのようなもの」をあらためて対象化し、そこから現在を考えるために。あるブログの文章も引用したかったが、それはまた、次の機会に。
原稿を書くことにする。

(11:31 Mar. 21 2009)

Mar. 17 tue. 「春めいて」

「新潮」の、M君、Kさんと、パークハイアットの41階にあるカフェのようなピークラウンジという店で会った。小説の話。冬とまったく変わらないコートを羽織っていったら歩いてゆく途中、汗が出た。41階からもう少し上にあがると、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』でビル・マーレーが酒を飲んでいたバーがあるはずだ。
話をしているうちに小説の形が少しずつ頭のなかで組み立てられてゆく。頭のなかでできたところでしょうがない。書かなくては。ものすごく基本的なことだけど書くというのは手を動かすこと。で、驚いたことに、たまたま二人とも、このあいだ触れた『自殺されちゃった僕』(吉永嘉明)を読んだことがあるという。そんな話をしつつそれを小説に接続させてゆくが、いつものように、励まされ、でもいっこうに書かないというのがですね、ほんとに申し訳ない。41階のカフェは窓からの景色がとてもきれいで、春めいた午後の気持ちよさが満喫できる。話をしながらなにかよくわからない幸せな気分になったのだった。
写真はその41階から撮った東京。遠くまで街区はつづく。すごいな、東京。あとであらためて写真を見てこの風景はどうなっているのかとつくづく。

このあいだ、白水社のW君からメールをもらい、九〇年代を考えるうえで、「デヴィッド・リンチ」の存在の大きさを示唆された。そうだった。その視線から考えてゆく九〇年代があった。
いま調べたらテレビ版の『ツイン・ピークス』が日本で放映されたのは、九一年だ。WOWOWでの放送だというから、僕はそれを直接見ていない。映画版を観たんだったか、それともビデオ化されてから観たか、記憶が曖昧だ。それ以前に、『イレイザーヘッド』『ブルーベルベッド』は観ているし、『デューン/砂の惑星』は、リンチというより八〇年代のある時期、SFへの偏愛として観たような気がする。SFという流れで書けば、『スキャナーズ』や『デッドゾーン』について触れたくもなって「デヴィッド・クローネンバーグ」の名前が浮かんでくるわけだけれど、最近になって知ったが「青山正明」(雑誌「危ない1号」編集長)はクローネンバーグについてある雑誌で論じている。『裸のランチ』がやっぱり九一年。僕も、青山正明と同様に、『ザ・フライ』『裸のランチ』『戦慄の絆』には、かつてのクローネンバーグの魅力をあまり感じなかったけれど、しかし、こうして「時代」を考えてゆくのが面白い。というのはつまり、九〇年代に反映してゆく、ある種類の文化についてだ。
九二年には、タランティーノの『レザボア・ドッグス』が公開されている。『パルプ・フィクション』は九四年か。ふむふむ。六〇年代から七〇年代にかけ、ベトナム戦争を背景に「アメリカン・ニューシネマ」が出現したけれど、九〇年代的ななにかを、こうした映画たちに見ることができるとすれば、その「九〇年代的ななにか」をつきとめるべきだろう。だから、九五年がやってきたのだ。なにが九五年を準備したか。

そんなことを考えるのも面白いが、いまは小説だな。
あと、忘れていたが、四月四日、神保町の三省堂書店で、前田司郎君の出版記念のイヴェントだかなにかがあり、僕はそこで前田君と話をすることになっているのだった。それにしても、いまリンクした三省堂の告知ページにある前田司郎の写真が不愉快だ。

(12:41 Mar. 17 2009)

Mar. 16 mon. 「リズムと文体」

地図を見てもらえばわかるように初台あたりには遊歩道がずっと続いている。たどってゆくと、東は新宿方向へ、西はずっと、笹塚から、明大前、桜上水、その先には、玉川上水に沿って緑に囲まれた道がある。これたしかひとつづきだったはずだ。ちゃんと調べなくちゃだめだが、上水あとが暗渠になり遊歩道になっている場所が都心にはある。本日の散歩は、当然ながら、そんなに無理はしない。あんまり無理してもぜったい俺は持続しない人間だからだ。少しずつこつこつと。
でもむかし、といっても十年くらい前でしたか、豪徳寺から自転車で調布の近くまで走ったことがあったが、あれ、ママチャリだったのがすごいね。いまはTrekから進呈していただいた(だから私は、自転車といえば、Trekを断固支持している)快適な自転車があるけれど、ママチャリで長距離を走る醍醐味もまたあるのだった。なにかわけのわからない達成感がある。でも、「ママチャリ」って差別的な用語だな。なんかほかにないかと思って考えたが、「母さん自転車」じゃべつになんのひねりもないよ。とはいえ、「ひねりがない」っていい。小賢しい「ひねり」は恥ずかしいだけだ。まあ、それはともかく。
遊歩道に沿って幡ヶ谷まで朝の散歩をした。そんなに距離はないがゆっくり歩くといろいろなことが発見できる。幡ヶ谷にある古書店に入ったがめぼしいものはなにもない。というか、ぜんぜんだめだった。こういった店を古書店と呼ぶべきなのかさえそもそもわからないし。さらに幡ヶ谷の町を散策すると、甲州街道を渡ったところ(遊歩道側から)TSUTAYAがあったけれどこちらもあまりたいした品揃えではないわけで、まあ、幡ヶ谷だからね、しょうがない。初台、幡ヶ谷は、新宿が近いからなにか必要なものがあれば新宿、渋谷に行ってしまうだろう。そういう町だから、まあ、日用品とか食料品とかの店はある。その後、電車に乗って初台に戻った。オペラシティのなかに久しぶりに入ったら「成城石井」が新規オープンしていた。

徒歩、電車、バスを利用するのはそれはまたべつの意味でたいせつだ。そこからさまさまな刺激を受ける。本日は音楽のことばかり考えていた。たとえば、テクノのことを考えていたら、トランスって音楽がさ、もうはるかかなたの過去、きわめて通俗的なディスコやクラブでかかり、ちっともグルーブのない連中を踊らせていたけれど、あのリズムをいままた、どう評価すればいいのか。
ある人の論文(ある大学の研究者だった)を読んでいたら、レイブについて書かれた文章のなかに、音楽(六〇年代、七〇年代のロックが念頭にあると想像する)が「メロディ」や「詩」から、「リズム」が主体になり、メッセージが「リズム」そのもににこめられているとあって、なるほどと思ったものの、だけど、あの単調なリズムで自動的に踊ってしまう、あるいは、パラパラ的なあれをはじめ、噴飯もののダンスらしき動きを見ているといやになるわけだ。だって「パラパラ」ってやつは、一億人をダンサーにしてしまうという、からだの内部にグルーブがなくたって「かたち」だけでダンスしている気に人をさせてしまうという、そら恐ろしいものだったではないか。それを促すリズムの害悪はきっとあったはずだと思えば、先に書いた、「リズムがメッセージになった」という主張をあらためて問い直すべきだろう。あるいは、「リズム」をもっと分析すべきというか。
散歩しながら考えていた。あるいは、音楽雑誌や、佐々木敦さんの著作にあたりながら、「リズム」について考えていた。これはおそらく、「ダンス」について(コンテンポラリーが中心になってしまうものの、もっと広義の意味において)考えることにもなるにちがいない。先鋭的なところでいったら、いかにして「リズム」に支配されないダンスがあるかになる。となると、「リズムがメッセージ思想)」といったことは、また逆の意味で正しくなる。というのも、「リズムに支配されない」もまた、かなり強い思想性を持っているからだ。

そんなことばかり考えている。あと、九〇年代のサブカルチャーをあらためてあたってゆくと、ある種類の「グロテスク」な思想は、いま読むと、かなりあたりまえのことが書かれており、文体に意味があるのがわかる。というのも、〇〇年代に入ってからもよく書かれる攻撃性をもった文章、いわゆる鬼畜系の文章がまったく進歩していないのを知るからで、ある種の紋切り型になっている。
「文体」だ。それを追ってゆくのも面白いかもしれないと考えたのは、「昭和軽薄体」って文体がかつてあり(椎名誠さんが代表格であった)、いまとなっては、あれなんだったんだろうと思わざるをえないし、いま僕が書いているこの文章の、ものすごい勢いで書いているこのスピードが生む「文体」はきっとあり、これを仮に「ブログ体」としたら、メディアの変容、時代の変容、思想の変容、さまざまな変容と文化潮流を、「文体」の側面で考えることはできる。
つまり、本日の結論としては、「意味内容」「意味されるもの」「コノテーション」を表出する、「リズム「文体」「表象」といったものにもっと意識的になろうということであった。そんな想念に遊歩道を歩きながら、そして家に戻って文献にあたりながら取り憑かれていた。西新宿の中古CDショップを回ろうと、もっと文献を読もうと、これまであまり読んでいなかった種類のサブカルチャー系の本にあたろうと、いろいろ考える。

(12:41 Mar. 17 2009)

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