富士日記 2.1

Dec. 14 fri. 「蓬莱屋のあじわい」

とんかつ「蓬莱屋」

笠木がセッティングしてくれて食事をしに行くことになったのだった。一緒に行ったのは、『トーキョー/不在/ハムレット』でカメラマンをしていた鈴木(謙)、その舞台や『モーターサイクル・ドン・キホーテ』に出演した鈴木(将)と、『ニュータウン入口』でイスメネを演じた上村、そして笠木。以前、笠木のブログでも書かれたが僕は主に「とんかつ」にしか興味がない者だが、それで小津安二郎がよく通っていて、『秋刀魚の味』のとんカツ屋の場面のモデルにもなったと言われる上野の「蓬莱屋」に行ったのである。からだが調子が悪いというのでそのことをおもんばかってくれたのか「とんかつ」でも食って体力をつけろとばかりに集まってくれた。
上野と言ってもほぼ御徒町に近く、ちょうど松坂屋の裏手にある。ほかはビルになっているがこの一角だけが、過去の面影を残した木造の二階建てだ。「蓬莱屋」にはヒレカツしかない。かつては「カツレツ」と呼ばれていたとのよし。二階の普通の家の和室の小部屋で食事をしたが、かつてここに小津がやってきたかと思うと、とんかつの味とはまたべつの「あじわい」がある。私は食通でもなんでもないし、食に関してほとんど興味を持たないが、こういったことはやはり人の気持ちをなごませる。食事は美味しかったし、久しぶりに人と会って楽しい会話をすることができた。いい夜だった。家に戻って「蓬莱屋」でリフレッシュしたせいか、小説を少し書く。わりとすすむ。短編小説だから書いていればあっというまに枚数が進んでしまい、むしろ短編にする技術が問われるものの、とりあえず書かないよりは書いていたほうが精神的に楽だ。来週はもう半年前から決まっていたもろもろの仕事があり、この週末が勝負である。なにがなんでも一週間後までには書き上げよう。
いまのところ、来年の舞台の予定はまったくない。そろそろ動き出さなくてはいけないが、舞台を作るのにはさまざまな困難が待っているのだ。だからそのあいだ、小説に集中しようと思うので、考えてみたら、「群像」のYさんにもとても不義理をしているし、「小説トリッパー」のOさんからも小説を書いてくれともう何年も前から言われているのだ。声をかけてもらっているだけで幸福だ。声をかけられなくなったらもうだめだ。それに応えよう。白夜書房のE君からもいくつかの提案がメールで送られてきた。いろいろ考えなくちゃならないことがあってどれから手をつけたらいいか悩むが、まずは「新潮」の小説。それにしても「蓬莱屋」はよかった。店のたたずまいがよかった。それだけでとても贅沢な思いをさせてもらった。小津が愛した店をぜんぶまわる計画をたてようかと思ったのだ。で、四人からも誕生日プレゼントをもらったが、それ、ヤクルトの監督を辞した古田の記念のDVDだった。それもうれしかった。あと書くのを忘れていたが、結婚したばかりの『ニュータウン入口』に出ていた佐藤と南波さん夫婦からは花を贈ってもらった。それがとてもかわいい花で、佐藤が選んだとはとうてい考えられず南波さんの趣味かと思ったが、あとでメールをもらい、佐藤もチョイスに加わったと知る。あの佐藤がなあ。その花の趣味のよさを見せたいくらいで、佐藤とは結び付かないのである。みんなに感謝だ。

それにしても長崎のスポーツクラブの発砲事件にひどく驚かされたが、これを書いている時点で犯人らしき男が自殺をしているというニュースが入った。わからないことだけらけだ。もっと詳しく知りたいが、それを知りたいというこの興味がなにからくるかも考えざるをえず、それにしたって、犯行の背後にある社会性のようなものがきのう書いたこととつながってもっと犯罪の深部を考えたくもなるし、「リベラレルメンタリティ」からのアプローチではなくそれをも越えたところからの思考が。

(10:34 Dec, 15 2007)

Dec. 12 wed. 「若者を見殺しにする国」

ヒエラルキーの図

『八〇年代地下文化論』でも『ノイズ文化論』でも、左のような図を示して文化的なヒエラルキーについて話をしたが、赤木智弘著『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か(双風舎)を読んで教えられたのは、「格差社会」について語られた言葉の、その「格差」の構造もまた、こうした三角形で表現されることだ。しばしば「格差社会」は、「富裕層」と「貧困層」の二極で語られがちだが、それだけではない。Aが「富裕層」であり、Cはたしかに「不安定雇用層(=貧困層)」だが、そのあいだに、B「安定雇用層」があるという図になる。赤木氏は本書で、いま「格差社会」を問題視しているのはこの「安定雇用層」の一部だという意味のことを書いているが、そこに彼の苛立ちが見られ、その構造に思いあたることがあって興味深かった。それというのも、『ノイズ文化論』のなかで対談したオタキングこと岡田斗司夫さん(最近ではものすごいダイエットをした人として有名だが)の発言を思い出したからだ。
『八〇年代地下文化論』で僕は、Cに、「おたく(=オタク)」を置き、Aに文化的ヘゲモニーを持った層(=『八〇年代地下文化論』ではピテカン的なるもの)を配置し、Cは、Aにルサンチマンを持っていたのではないかと岡田さんに質問したが、岡田さんはあっさりそうではなくB層の「世間様」だと明言したのだった。これは赤木氏の視点とほぼ同じ、赤木氏のいうB層の一部への苛立ちとは、「おたく」が「世間様」に抱いた憎悪とよく似たものではないかという印象を持った。そして赤木氏はそれらを「左派」という言葉で表現しているが、私が考えるにそれらは、「リベラルシンパシティ」というか「リベラルメンタリティ」といったものであって、そんな言葉があるかよく知らないがいま僕が作った言葉だ。たしかにどっちにわけるかと言ったら「左派」になるとはいえ、「左派」と「リベラレルなメンタリティ」は重なる部分があるが無縁のはずである。まして「左翼」は。そして「格差社会」のなかで、「勝ち組」だと自覚する者らは「右」でもなんでもなく単なる「保守主義者」だ。あと、「排外主義メンタリティ」は蔓延しているわけだが。
というわけで、この項、つづく。まだ書かずにいられないことがある。それはきっと「左派」としてのふるまいについてであり、「格差社会」が生み出す悲劇的なニュースを見て「リベラレルなメンタリティ」だけで発言することを越えやるべきことはあるはずだという話になる。だが、それはまた次に書く。というのも俺は小説を書かなければならないからだ。せっぱつまってるんだよ。「せっぱつまってる」というこの個人的な状況のなか、社会にコミットしてゆくことの困難をどう考えたらいいんだ。

(9:28 Dec, 13 2007)

Dec. 11 tue. 「建築の話など」

三ノ輪にて

からだの調子が少し回復した。みんなからメールをもらいとても感謝したのは、このあいだの日曜日が誕生日だったからだが、こういうことは単純に人をうれしくさせるもので、それと同時に、誕生日で人がしばしば気にかけるのは同じ日に生まれた人のことだろう。私の場合、まず、桑原茂一さんがいる。知りあったころなにかのきっかけでそれを知ってすごく驚いたが、さらに、中日の落合監督がいる。それから、紀子さんだ。ワイドショーで毎年そのことが話題になるらしくそれを見た母親が息子の誕生日だということを思い出して電話してくるのが面白かったのだ。そこで思い出すのかよと。ともあれありがとうございました。
初台交叉点の写真を載せたら「サーカス」という雑誌のSさんから、いくつかのジャンクションの写真が掲載されたサイトをメールで教えてもらった。たしかに「箱崎ジャンクション」はすごい。森下で『ニュータウン入口』の稽古をしているとき、一度か二度、あそこから首都高に乗って家まで帰ってきたことがあるが、高速の入口からぐるぐる上にあがっていって、途中、なんどもべつの方向にゆく高速に乗ってしまいそうになるというきわめて難解なジャンクションだ。でも、この手の写真が好きな人にはたまらないのではないか。「工場地帯」とか「非常階段」とか、「団地」や「廃墟」など、そういったものが好きな人は多い。これもひとくくりに建築と考えていいのだろう。あらゆる建築、あらゆる構築物、機能に特化したフォルムの美しさ。
週末はからだの調子が悪くてぼんやりした意識のまま、「東京人」の原稿のためにチェーホフを読んでいた。仕事のための読書は、仕事というだけでたいへんな思いをいつもするが、チェーホフは単純に楽しめる。若いころに書かれた短編小説や短い戯曲はきわめてばかばかしいものが多い。いま家にある「チェーホフ全集」は文藝春秋の、かつての「文學界」編集長だったOさんからいただいたものだが、それをちびちび読む感じがたいへんいいのだった。で、きのう(10日・月曜日)のこと、夕方、『トーキョー/不在/ハムレット』で演出助手をした相馬から誕生日プレゼントをいまから届けにゆくと電話があり、そのあと僕はすぐに家を出なければいけない用事があったが、ほどなく相馬が来て、ル・コルビジェの残された図面をもとに東大の安藤忠雄研究室の学生たちが作った模型と、その図面がまとめられた本『ル・コルビジェの全住宅』をもらった。とてもいい本だ。建築はやはり美しい。さらに、相馬は最近、iPod Touchを買ったそうでそれを見せてもらった。指先で操ると画面がするすると変化する。見ているだけで欲しくなった。

(7:38 Dec, 12 2007)

Dec. 7 fri. 「初台の交叉点でめまいがする」

初台の交叉点

からだの調子が悪いのできのう(6日)はぼんやり一日を過ごした。ニューヨークから戻って以来、体調がもうひとつだめだ。それで京都と大阪に行きすっかり疲れ、なにもする気がしないまま、ほんとになにもしないで一日が過ぎ、きょうもまだぼんやりしていた。仕事の約束があって外に出る。「新潮」のM君とKさんに会う。小説の話。二人にはいつも励まされる。ほんとに申し訳ない。Kさんはさらに小説に関する資料を探してきてくれた。それで小説の話をするが、ほんとに今度こそは書きますと、もう何度そう口にしたかわわからないことを話し、21日までに書くと断言した。もうタイトルはできていて、まあ、問題なのはタイトルを思いついたところでなにか自分のなかで終わってしまうところなものの、M君がそのタイトルを人に話すと何人かが笑ってくれたとのこと。それがうれしい。というわけで、二人の励ましにこたえなければ。
だから今月は小説に専念したいが、半年ぐらい前に引き受けてしまった仕事がふたつあって、ひとつが高校生に向けて演劇の講演をするのと、毎年、行っている「演ぶゼミ」での特別授業だ。半年前にはこんなにからだの調子が悪いなんてわからなかったから普通に引き受けたのだ。ちょっと仕事を引き受けすぎてしまったでしょうか。どこかにこもって小説を書くことも考えたが、からだの調子がわるいので、それもやめた。家でこつこつ書く。なにごともこつこつだ。
返事を書かなくてはならないメールがいくつもあるが、だめだ、思うように書けない。なんというんでしょうか、電池切れ、っていうか、今年はいろいろ旅をして働きすぎたのではないか、っていうか、舞台を一本作ったんだな。しかも、その一本に半年もかけて。もう今年は終わりだ。約束していた仕事と小説は書くけれど、あとはもう終わりにしたい。こういうとき人はリフレッシュしようと温泉に行ったりするのだろうが、そういうことにまったく興味がないからいけない。「新潮」のM君とKさんに会うためオペラシティに向かったが、それにしても、初台の交叉点はすごいことになっていた。山手通りの下に建設中だった高速道路はまもなく一部が開通するとのこと。首都高とつながるので交叉点の上がジャンクションになっていて、どうなってんだこれは。すごく複雑な構築物が突如として出現した。ぼんやりした意識でそれを見ていると、めまいがしそうだった。

(3:57 Dec, 8 2007)

Dec. 5 wed. 「渋谷が変わってゆく」

未知のOさんという方からメールをもらった。「お忙しいところ大変恐縮ながら、見ず知らずの者からメールを送らせて頂きます」ととても丁寧な言葉ではじまるそのメールには次のようにあった。

レコードショップ『シスコレコード』が、12月10日をもって全店舗閉店し、今後はオンラインショップのみの営業になります。
また、宮沢さんの10月18日付けのブログにある「東急ハンズの正面入口の前にある坂をおりた真向かいにあるビルの、ルノアールの下、その一階はかつてなんだっただろう。レコードショップになっていた。」、そのレコードショップはDMRという名前のレコード店なのですが、ここもテナント料が払えないらしく、近い将来新宿へ移る予定だそうです。DMRはともかく、シスコは渋谷を代表するレコード店の一つであり、古い建物が次々と解体されている現在の渋谷において、レコード店事情もまた、変化を見せているようです。

渋谷CISCO

 貴重な情報をありがとう。まったく知らなかったので、そのメールに記されていたURLをクリックしてCISCOのサイトを見に行ったらそのことが告知されていた。「CISCO」は八〇年代からずいぶんお世話になったレコードショップだ。いまは舞台の音楽は桜井圭介君に頼んでいるが、そのころはほとんど、というか全部だけど、ありものの音楽を使っていたので、舞台がはじまる前に行っては大量にレコードを買ったものだった。新宿の西口あたりもよく足を運んだが、渋谷だと「WAVE」があり、そして「CISCO」があった。ほかにもいくつか。
メールの文面にもあるようにたしかに「CISCO」が入っているビルは古くなっているので、新しく建て直される方向で町が変化しているのだろうが、するとテナント料が値上げされこれまでのような商売ができないのだろう。下北沢の再開発で問題にされているのも同様の事態で、新しくなった町にはかつてのような小さな店がテナント料が高くなっていられなくなると予想されている。町にはスターバックスしか残らなくなって、どこもかしこも、よく似た町になる。下北沢からあの雑然とした店たちがなくなったらどうするつもりだ。かつての魅力は消えるだろう。渋谷もまた変化している。大資本によって町が占められつまらなくなる。建て直された建築によって清潔な町にはなる。安全な町にもなるだろう。だけどつまらない。
あと、「CISCO」がネット販売に特化したというのはたしかにそのほうが合理的で、なるほどと思うしかないが、12インチのレコードが並ぶ店のそれだけでなにかモノが放つ漠然とした魅力と、それが構成する空間が生み出すある種の文化が消えてしまうのも惜しい。音楽を聴く環境もずいぶん変わったからレコードショップが消えてゆくというのもそうした流れのなかでいまを象徴する傾向だ。iPodと、iTunes music storeはとても便利だ。なにか釈然としない。町は時代とともに変化し、変化したそれはいつのまにかあたりまえの光景になってゆく。「あたりまえの光景」があたりまえの人にとっては、過去なんかどうだっていいだろうが、過去から学ぶべきことは必ずあってそれが文化というものの連続性になる。それさえ忘れてしまったら、見えないもの、見られなかった過去への想像力もなにも、まったく価値のないものになる。つまり、歴史意識ということ。

そんなことをつらつら考えていたが、それにしても旅が続いたので、すっかり疲れた。なにもする気がしない。メールはうれしかった。ありがとう。疲れているとセンテンスが短くなる。あと、岡田利規君が桜美林大学で作った舞台について、桜井圭介君が書いていたのを読み、観なかったことを後悔した。観たかったな。

(15:07 Dec, 6 2007)

Dec. 4 tue. 「12月になっていた」

三条通り

京都をあとにしたのが11月30日で、ホテルをチェックアウトすると、そのままクルマで大阪に向かった。大阪に行くのはCO2が主催する映画コンペの審査の仕事があるからだ。
たしかこっちの方向だったはずだと堀川通りを南へ向かい、少しだけ道をまちがえたがなんとか京都南インターから名神高速道路に乗った。それにしても、なぜ東名高速道路と名神高速道路は、名古屋を境にわかれているのだろう。完成時期がちがったとか、管轄する会社がちがったとかいろいろあるだろうけど(いま調べたら「名神」のほうが先に一部開業している。一九六三年の話)、ひとつながりになってるんだから、もうこうなったら東神高速道路でいいんじゃないのか。なんなら「東海道新幹線」のように、「東海道高速道路」でいいんじゃないのか。「名」はどうして必要なのだろう。名古屋が黙っていないということか。まあ、そんなことはともあれ、道路はもういらないと思う。
豊中のジャンクションで大阪市内に入ってゆく、東京でいったら首都高のようなものに接続するはずだったが、まちがえて一般道に降りてしまった。どこをどう走っているのかわからなくなってきたが、地図を確認しつつ淀川を渡り、標識にある「大阪駅」の文字を頼りにただ走る。気がついたら梅田にいた。この日宿泊する予定のホテルを探し、ホテルの駐車場に入れようと思ったが駐車場の入口には「満車」の文字だ。まいったな。審査をする場所の近くにあるコインパークに入れた。あらかじめ地図を渡されていたが審査会場にたどりつけないのだ。というか、その簡略化された地図がまったく理解できない。私は地図好きなので、どんなに道に迷っても地図さえあれば、だいたい目的地にたどり着けるが、いかんせん大阪の土地勘がない。あと、いまいる場所がよくわからなかったんけど、要するにその地図にない道にいたのだった。しばらくあたりを歩いて、ようやく目的のビルにたどり着いた。

15分ほど遅刻。到着すると、審査員の、矢崎仁司監督、林海象監督がすでにいらした。矢崎さんとは初対面。海象さんはあいかわらずだった。審査は三時間近く続いたが、映画を専門にしている二人とちがって僕は、僕なりの解釈で審査するほかないものの、ただ、やはりだいたいのところは共通した認識だと少し話しているうちにわかった。どうしたって個人的な興味の範囲というか、好みのようなものはあるが、ただの趣味ではなく、それを裏付ける論理ももちろんある。たとえば僕は「アングラっぽい映像」をぜんぶ否定したけれど、嫌いというのもあるが、かつてそういったものを否定して自分の表現を作った過去があるから、それをいまさら見せられても、そんなの寺山修司や鈴木清順で十分だし、その表現に現在性や有効性を感じられないのだ。趣味を論理で否定する。ただ、困ったのはよく知っている俳優ばかり出てくる映画があったことだ。たしかにいい映画だが、それを推すとまるで裏取引のように思われやしないかと、そこでとまどう。どう言葉にしていいか悩む。
そんな審査を続けながら、矢崎さん、林さんの言葉に刺激され、映画をもっと勉強しようという気分にもなる。たとえば、矢崎さんが、「映画は百年しか歴史がないんだから、勉強しようと思えばできるのに、そうした歴史の上に立った表現が欠落している」という意味のことを話していた。まったくだ。審査をするために15本の候補作を見、さらにこうして審査会に参加しているうち映画を作りたい気分になってきたんだけど、それというのも、映画を勉強しようかと思ったからで、勉強するのが面白そうだから映画を作りたいという、よくわからない動機が生まれたのだった。
やがて、結論が出る。今月の12日に発表だというのでここには書かないが、あまりもめることもなく、わりとすんなり決まった気がする。矢崎さんがグランプリに輝いた作品をとても推していた。そこに出ていた女優のひとりをしきりに誉めていた。林さんは、審査は早く終わりにしようとすいすい話を進める。林さんのこうした、一見、いいかげんに感じさせる態度は、しかし、きわめて気持ちがいいのはなんだろう。不思議な人だなあ。奇妙な印象を人に与える。話がやたらに面白い。説得力があるんだかないんだかよくわからない話で、人をひきつける。きわめて不思議である。そして矢崎さんの映画に対する愛情と知識の深さによる論理のたしかさ。二人にずいぶん刺激された。

審査が終わって近くの居酒屋で軽い打ち上げ。CO2のプロデューサーである康さんという方の話がまた面白かった。康さんは、六〇年代に足立正生さんとも親交があったという、本人もまた、映像作家だった方だ。あるいは事務局のN君も映画について語るが、みんな熱いなあ。映画を心底愛しているのがわかる。映画界の事情について僕はよく知らないが、どこの世界でもやはり創作する困難をみんな感じているのだ。そこへかつて関西でやったワークショップに参加していたM君がやってきた。打ち上げもお開きになったあと、N君とM君と三人で、近くのファミレスに行って深夜まで話をした。M君がいろいろ質問してくれるが、どんなふうに応えても、話はどうどうめぐりするばかりで、おかしいなあと話しながら思っていたが、よく考えてみたら相手はただの酔っ払いである。酔っ払いを相手にしらふの私が懸命に話をした。こんなにむなしいことがあるだろうか。
ホテルに戻ってひとだんらく。広くてゆったりとしたいいホテルだ。疲れたので軽くシャワーを浴びてそのまま眠る。翌日にはすぐにチェックアウトだ。高速に乗る前に近くのガソリンスタンドで給油したが、ハイオクがリッター170円だった。こんなところでぼられるとは思わなかった。そのまま梅田近辺から高速に乗ったが、環状線という、まあ東京だったら首都高みたいな道路を逆回りしてしまい、大阪をぐるっとひとめぐり。日曜日で道はすいていた。なんでこんなところで気持ちのいいドライブをしなくちゃならないんだ。その後、名神から東名を東に移動し、いったん静岡の両親が住む家に寄って一泊。12月3日に東京に戻った。ずっとクルマを運転していたような気分だ。事故を起さなくてよかった。高速では、事故を起こしたら、まず死ぬけれど、自分だけではなくまわりを巻き込むからな。安全運転で東京までゆっくり帰ってきた。清華大学の講演に来てくれた方からメールももらった。ありがとうございました。いろいろ収穫の多い旅だった。そうこうするうち、もう年の暮だったのか。早いな。時間はすぐに過ぎてしまう。ニュースではきょうもまた「親族の事件」が報道されている。この連続性はなんの予兆なのか。

(14:47 Dec, 5 2007)

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