富士日記 2.1

Aug. 29 fri. 「からだは、めきめき快復し、考えることがまた増える」

ヒネミ・フライヤー

あれは、初演のときだったか、再演だったか、『ヒネミ』の劇中歌を深浦加奈子さんのソロで録音した。僕が作詞し、作曲はもちろん桜井圭介くん。その桜井君が、そのときの音源をMP3のファイルでメールに添付して送ってくれた。それは、こちらです。→『青い石の伝説』。ほんとうは静止画だけでいいから、唄にまつわるような映像を編集しYouTubeにアップしてより多くの方に聞いてもらおうと思ったが、時間がなかったので、音だけの紹介。いま聞くと切ないです。深浦さんの声はとてもいい。桜井君のメロディが泣かせる。なにかいろいろなことを思い出してしまった。
ちなみに、この深浦さんの歌をはじめ、遊園地再生事業団の初期の舞台で使われた音楽(全・桜井圭介作曲)を編集した「CD」はまだ在庫があります。もし興味がありましたら、遊園地再生事業団info@u-ench.comまでご連絡ください。

さて、週末は検査が立て続けにあった。これが最後のチェックということか、結果によって退院がきまる。ただ、結果のわかった「心エコーテスト」では、まだ心臓の動きが怪しいという。もう少しべつの検査の結果を分析して結論はそれからになる気配だ。退院は来週の火曜日になるか。うーん。今週の医師たちのいきおいだと、こんどの日曜日には退院できそうだったので、そう思いこんで気分が高まっていたからけっこう意気消沈。この二ヶ月、なんど意気消沈させられたか。さすがに病院にも飽きた。
早稲田の岡室さんと、かつてW君と同期で白水社に入ったにもかかわらず、芝居がやりたくて退社したというO君が見舞いに来てくれた。岡室さんから、10月に早稲田で企画されている、通称「アングラ祭」、正式名称は「国際研究集会 60年代演劇再考」のチラシのゲラを見せてもらった。サイトの情報だけではまだ内容がもうひとつはっきりしないが、とんでもなく濃い内容になると思われる(チラシ必見)。唐十郎さんや佐藤信さんが登場するかと思えば、蜷川さんも語ってくれる。別役さんにしろ、いま聞いておかなくちゃあとで後悔する方たちの話がこんなにまとまって聞ける機会もないだろう。といったことで、入院のひとときを、岡室さん、O君との会話で過ごし、またなごんだのだった。

リハビリは順調である。よく歩いている。ぐんぐん歩く。歩くと脈搏が高まり気持ちがいい。うっすら汗をかく。運動をすることで心臓の動きが活発になっているとうことだろうか。病院を出たらすぐにでも、「生活」に戻らなくては。そして、やっておかなければならない、どうでもいいような日常的なこまごまとしたことも片付けよう。少しずつの生活の改革。スタイルの変化。そう考えた背景にあるのは、七〇年前後のアメリカで流行った『ホール・アース・カタログ』の思想があるんだけど、なにも復古しようという懐かしさではない。
それもまた、「サブカルチャー論」について考えているなかで、ヒッピー文化が、「ニューエイジ運動」になる過程でまちがってしまったなにか(オウム真理教もその誤謬のひとつだと俺は思う)をあらためて問い直し(誰もやらないよな、そんな不毛な作業。しかも、もう四〇年前近くのことなのだし)、いまと、あの時代における「反資本主義」を比べ、もっと賢い戦略として、現在に有効に使えないか……、といっても、なにしろ「反近代主義」「反フォーディズム」「反機械産業」「反科学万能主義」「自然回帰」といったヒッピーのスローガンは、四〇年の時間を超え、いまや世界的な「エコ」という潮流となってこの惑星を席巻している。この矮小化。イロニー。なにごとだ。
なにかするにも、ともかく、からだ。まず、そこ。

(2:37 Aug. 30 2008)

Aug. 26 tue. 「深浦さんのこと」

深浦加奈子さん

手術が終わって意識を取り戻したのは21日の夕方だった。たしか午後六時半だと記憶するが、あとになって考えてみるとすぐそばに時計があったわけではないので、どうやって確かめたかはっきりしない。麻酔から醒めるか、醒めないかのあいだに、幻覚のようなものを見るという話は前から聞いていたが、この時間の感覚もそのひとつか。そのあと、主治医のN先生らが、「一服しよう」と言ったあと、どこかに出かけてゆき、その後、「ひつまぶし的」なご飯を食べたという話をしている姿を見ていた記憶があるが、それも現実とは思えない。と、僕の話は少し中断。
これを読んでいる人たちももう知っていると思うが、深浦加奈子さんが亡くなられた。その報せに言葉を失った。もう一度いっしょに舞台をやりたかった。いや、いつでも会えると思っていたから会いに行くこともないまま、もう話をすることができなくなってしまった。人伝に聞いたが、ボクデスの小浜が深浦さんに会ったとき、「宮沢さんが、また『ヒネミの商人』をやりたいって言ってましたよ」と話すと深浦さんが、「エリ(ふせえり)ともまた芝居したいねえ」と話していたそうだ。『ヒネミの商人』は僕にとっては特別な作品だった。考えてみれば、僕はシェークスピアを下敷きに作品を書くことが多いが、『ヒネミの商人』はもちろん、『ベニスの商人』。シェークスピアを下敷きにした一連の作品のひとつ。関係ないけど、ニュースサイトの芸能欄を読んでいたら、「“怪優”古田新太がシェークスピア初主演」という見出しがあった。見出しだけ読んで、「リチャード三世だな」と思って本文を読むと、案の定そうだった。でも、そんなことはどうだっていい。
深浦さんとはじめて舞台をやったのは、『ヒネミ』の初演だ。深浦さんの芝居が僕には面白くてしょうがなかった。稽古中、深浦さんが芝居をしているのを見て、あははあははと僕が笑うので、べつに面白いことをしているわけでもないのに、なぜ笑われるのかしばらく理解できなかったとあとから深浦さんに聞いた。それから三本ほど舞台をやった。芝居を一緒にしなくなってから、たとえば、大人計画だったか、松尾スズキのべつの舞台だったか、舞台がはねたあとの飲み会で深浦さんによくあった。むしろそのころ、深浦さんに会うのはそんな場所だけだった気がする。その後、テレビドラマで仕事をしているのをよく見かけたけれど、からだの調子が悪かったなんてまったく知らなかった。八月、シアターコクーンで松尾君の舞台があり、そのパンフレットに松尾君に手紙を送るという仕事をした。そのなかで僕がいちばん強調して書いたのが、「死んじゃいけません」という言葉だ。松尾君がからだを壊したという話を聞いたのは、少し前のことだったし、パンフレットに手紙を書くという仕事を引き受けたとき、僕自身が入院し、手術を間近にひかえていたので、「死んじゃいけません」とごく自然にそう言葉が出た。いまは、ほんとうに言葉を失っている状態だ。通夜や葬儀にも行けない。もう、あの声が聞こえないのが残念だ。それはおそらく二〇年以上前、第三エロチカの舞台ではじめて深浦さんを見たときの、なんて魅力的な女優さんがいるんだろうなあという、遠くから見ていたときの憧れのようなものを思い出すからだろう。

手術があったのが、21日。無事にICU(集中治療室)を出て、普通病棟に移ったのは23日だ。ICUはこの世の地獄だった。いろいろなところから管が出ていて、なにかの機械と繋がっていた。まだ身体のところどころが痛い。肋骨を身体前方でまとめている胸骨というのがあるが、主治医のN先生はあっさり、「骨が痛いのはしょうがないです。なにしろ、縦にまっ二つに折るんですよ、まあ、一種の骨折だから、痛いのはしょうがない」と言う。この医師たちは、ほぼ心臓のことにしか眼中にない。「経過がいい」とか、「順調です」と話してくれるものの、目安はもっぱら「心臓」で、傷や胸骨がどうなっていようと関係ないのかもしれない。しかも、すぐにリハビリをするよう命じられ、一日廊下を10往復するようにという。スパルタだ。手術後すぐに、私は廊下を歩いたのだった。
といったわけで、このノートも書けるほどに快復してきました。ほんとに、死んじゃあいけません。深浦さんのことは悲しい。若すぎるよ。僕はなにかに生かされている気がしてならない。そのことに感謝し、めいっぱい仕事をしようと思うのだ。

(9:52 Aug. 27 2008)

Aug. 20 wed. 「いよいよだ」

病室の外

病室洗面台

また更新が滞った。いまはまだ、全力で入院中である。上の写真は、私の病室から向かいの部屋を廊下ごしに写したもの、下は病室の洗面台を写したらちょうど掃除の係の人が鏡に映りこんだところ。この直前、私は髭をそっていた。手術を控えからだを清潔にするためだ。さらに全身の毛を剃ったのでつるつるである。手術はいよいよあした。きょうの午後は、執刀医の先生から説明を聞く。どうやって手術するか、あんまり聞きたくないはないが、必要なことらしい。
この一週間、というか、それ以前からだが、早稲田のレポートと多摩美の課題(戯曲創作)をチェックする仕事を病室でしていたのだった。読んだ読んだ、なかでも、早稲田の「サブカルチャー論」は250人以上のレポートを読んだ。ときどき、こちらを刺激してくれる内容のものがあったが、意外にみんなおとなしい。冒頭で「サブカルチャー」の定義をしようとするのはたいていだめ。凡庸な内容になる。いきなりなことを書き出す学生が面白い。
と、そこまで書いていたら、麻酔科のG医師がやってきて、全身麻酔の説明を受けた。丸一日は確実に眠ってしまうらしい。話を聞いているうちにとうとう手術だと、実感が湧いてきて、怖いような、それでいて、なにかを期待するような微妙な気分になっている。こんなに大きな手術をするのははじめてで、その後、映画監督の青山真治さんをはじめ、自分の親族が同じように心臓冠動脈のバイパス手術をしたという人たちから励ましのメールをいただき、ほんとにありがたかった。ほかにも、このところ疎遠になっていた人からもメールをいただいた。どこか遠くでこのノートを読んでいてくれるのだと知った。ありがとう。

そういえば、このあいだ、en-taxiのTさんが見舞いに来てくれたけど、バイパス手術をするのに自分の血管を他から移すという話をしたら、Tさんがそれを聞いて、「その血管は洗うんですか?」と言ったので笑った。たしかに洗いたくなるが、洗うかどうかは、いま問題じゃないんじゃないだろうか。それにしても、人間、生活のリズムには慣れというものがあり、いまは夜の十時ぐらいに眠る。朝、六時に起きているのだから驚きだ。七時半から朝食。午後十二時に昼食。夕方は六時に夕食と、規則正しく生活している。意外にこういうのも気持ちがいい。しかも、外が暗くなると眠くなる。それが人としての自然というものか。午前中が長いとなにか得をしたような気分になるし。
いよいよだ。ほんとうにいよいよだ。

(13:32 Aug. 20 2008)

Aug. 13 wed. 「八月である」

病室の窓から

八月になっていた。お久しぶりです。手術を受けるために転院し、それからいくつもの検査がつづいているうち、なんだかんだでノートの更新が滞りました。そして手術の日程は、八月二十一日になりました。おそらく術後のリハビリを経て退院は九月の第二週ぐらいになるのではないでしょうか。すっかり夏は病院暮らしということでした。煙草を吸わぬまま、もう一ヶ月以上が過ぎ、これは私史上、とてつもない記録です。まあ、たいしたことないけど。(*写真は病室の窓から見たビルに囲まれた風景)
それより、手術にいたるまでの記録をまめに取ってゆこうと思っていましたが、ノートに少しメモしていたものの、気分がのらないっていうか、どこか、検査後のからだのだるさが残り、なにもする気がしなかったのでした。検査の結果(カテーテルの結果、エコー検査、CTスキャンの心臓の画像など)を見た医師たちは、たいてい、「過去に心筋梗塞をやっていないはずがない」という。だけど、そんな記憶がないのだ。調べると、よくこんな状態で平気で歩いているなくらいの状態にもかかわらず、自覚症状がないので、よけいに怖い。いつ、突然死してもおかしくないと言われてさえいるし。だけど、外見はいたって健康そうだからさらに問題だ。
入院生活にもだんだん慣れてきて、いろいろなことが苦痛ではなくなってきた。退屈というものもほぼなくなり、それなりに手術を待っている時間を過ごしている。きょうはテレビドラマやPVを作っているO君が見舞いに来てくれた。これまでにもたくさんの人が来てくれたが、そのたびに、久しぶりに外の空気を吸ったような新鮮な気持ちにさせられる。病院には、これまで経験したことのない、できごとがあってそれも新鮮だが(大部屋にいたとき、朝五時五十分から、電気シェーバーで髭を剃って、まだみんなが眠っている部屋にビーンとあの音を響かせた人の無神経さに驚いた。眠かったよ、俺は)、外の空気はもっとちがうものだ。

また、ノートは少しずつ更新する予定です。でも、手術のある二十一日からしばらくは書けないと思います。メールはいつもしっかりチェックしています。励まされています。なにしろこの病院では、たのめばBフレッツ光回線を引いてくれるので通信環境は快適です。あと、オリンピック。開会式のあの女の子の口パクはすぐにわかったけど、テレビってメディアはそういった嘘が通用しない、っていうか、嘘ついてもしょうがないメディアの特性を中国のテレビ関係者はもっと学ぶべきだったのでは。でも、まあ、人の多い国だ。それゆえの美しさ、統一感はときとし危うくも感じるが、そこでときおり見せる、ちょっとした乱れにほっとさせるものがあって、じつはそのことのほうが人が作るもののほんとの美しさじゃないか。あと、マスゲーム的なものって、神の視点で観る者に与えられる美しさだが(ある種、気味の悪い)、けれどテレビを通じて世界中に流されると、何十億の神の眼が出現することになって、それはそれで面白い状態だ。

(6:14 Aug. 14 2008)

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