Dec. 31 fri. 「今年もありがとうございました」
■今年を振り返るのは、すでに前回の更新で書いてしまったので、振り返らず、前を見たまま、今年のことを書いてみよう。忘れているかもしれない。嘘かもしれない。なぜなら、うしろを振り返らずちゃんと確認していないからだ。だめではないか。
■それにしても、しばしば話題にされたのは、私がこのノート(富士日記2.1)を異常な分量、書いてしまうことだった。どうかと思うほど書いていた。正直、一日の大半、このノートを書いていたと言ってもいいくらいの時期があって、すると、その翌日は書くことがない。なにしろ、日記のようにノートを記すと「富士日記2.1を書いていた」としか書きようがないからだ。ただ、記録のためだけではなく、これを書くことが「考えること」になっていたので、自分にとってはとても大切なことだったのだ。その力をほかの仕事に回せばどれだけ、たとえば単行本が生まれたかわからないが、べつにいいんだ、むしろ、こっちを書いているほうが私にとっての愉楽だったのだから、しょうがないじゃないか。
■そんななか、今年を振り返ってもっとも印象に残ったのは、その「富士日記2.1」がほとんど更新されなかったことだろう。大事件だ。なんということだ。
■ノートの更新が滞ったのはおそらく説明はいらないだろう。ツイッターのせいである。なにかったあったとき、あるいはなにかを思いついたとき、あの「140文字」で記すことが多くなった。メモがわりに思いつきを記す。ふと気がついたことを記録しておく。誰かに報告する。あるいは、ときとして誰かとのやりとりにもなり、めったに会わない誰かとツイッター上で会話をする。
■しばしば聞くのがツイッターをはじめてからブログを書かなくなったという話だが、「富士日記2.1」もそうなってしまった。一方で、ツイッターはたしかに盛り上がっているものの、ではネットに接続している者の誰もが「つぶやいているか」といったら、そんなわけはない。あるいは、わたしのつぶやきを誰もが読んでいるわけでもない。世界はそれほど狭くはない。ツイッターのタイムラインだけが世界ではない。ネットを「世界」だと思いこむことはしばしばある。たしかにそれもひとつの現実。パラレルワールドのある一世界のように存在する。ツイッターのタイムラインという世界は、〈現実そのもの〉ではなかったが、ある〈現実〉だった。そうとしか考えられない出来事はしばしば存在した。
■この一年、ツイッターのおかげだったとしか考えられないことはたしかに起り、たとえば10月に上演した『ジャパニーズ・スリーピング』にも顕著である。今回の公演はほとんどの回が満員だったし、後半にゆくにしたがって、当日券に並ぶ方が大勢足を運んでくれたし、まして、キャンセル待ちになることまであった。たしかに、なにか評判になると「楽日」あたり、とても混雑し、当日券も出せないほどになってほんとうに申し訳ないが帰っていただくということはこれまでもあったが、今回はそれが顕著だった。ツイッターの、「口コミによる伝達の速度」としかこれは考えられない。
■かつて、これからはミクシーだよと言われ、ミクシーのコミュニティで舞台の宣伝をするべきではないかといった話をされたことはあったが、この場合、まず目的が先にあった。「観客動員」という目的が先行し、それからミクシーに登録というのがなんだかいやだったのだ。そんなことまでして、ネットを使おうと思わなかったし、この「富士日記2.1」があれば、それでじゅうぶんだと考えていた。
■ツイッターはちがう。楽しくてはじめたのだ。あれはいつだっただろう。去年の秋だっただろうか。しりあがり寿さんと、ツイッターでえんえん、ばかなことをやりとりした。楽しかった。あるいは思いつきを書いてそれに共感してもらえることの喜びもあった。あるいは訴えもあるし、逆に発信ではなく、読み手としても、さまざまなことをツイッターによって知ることができた。特に僕は、出版社や書店、それから音楽関係のつぶやきから、多くを得ることができた。そうしてツイッターを利用しているうち、結果として、それが公演の観客動員に結びついたのだ。この差はかなり大きい。
■この先、ツイッターがどうなるかなんて、まったくわからない。また新しいサービスが出てきて、さびれてしまうかもしれないし、そうでなくても、みんなが飽きるかもしれない。そのときはそのときでべつに問題はないよ。そんなこともあったなあと、あとで懐かしめばいい。かつてニフティサーブというパソコン通信があった。画期的なネットサービスだと思っていた。ずいぶん利用した。そんなこともあったなあと、いまでは懐かしい気分になっている。あ、あと、僕のようなPCで読むことを前提としたブログとちがい、携帯でも気軽にアクセスすることができるのはかなり大きな意味があった。より広範な人に言葉を届けることができたからだ。
■今年を振り返ろう。とりあえず、今月だけでも。
■12月14日は多摩美で講演をしました。すごく久しぶりに多摩美のキャンパスに行った。懐かしい場所もかつてのまま(約30年前と変わっていない)あったけれど、新しい建築が素晴らしかった。すごくきれいなキャンパスだった。それから安藤礼二さんのゼミの学生たちに呼んでいただいたのだが、安藤さんは、去年の「伊藤整賞」の受賞者でこれもなにかの縁なのだろうか。そして、22日は自動車免許の更新に行ってきました。危なかった。免許を失効したらほんと面倒だからな。あるいは、幻冬舎のTさんに会って連載の相談。その週に年内最後の授業を終えて冬季休業なものの、小説を31日までに書くと「新潮」のM君とKさんに約束してしまったが、それは無理でした。正月も書きますよ。断固、書く、サッカーは見るけど、俺は書くさ。
■慌しい年の瀬が過ぎてゆく。来年のことを考える。鬼は笑うか。笑われてもいいか、ただ、来年も楽しみなのだ。また新しい人に出会うことができるだろう。新しい仕事をするかもしれない。大学もまだ、いろいろできることがあるだろう。
■いい年でした。『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』にお越しいただき、ほんとうにありがとうございました。いい年になったのはみなさまのおかげです。いや、ほんとは私のおかげですが。やりますよ。まだまだ、やってみせます。考えます。読みます。書きます。走っては転び、走っては転び、そのたびに起き上がります。ではよいお年を。
(21:07 Dec. 31 2010)
Dec. 20 mon. 「年末である。」
■久しぶりの更新です。
■これからは心を入れ替え、ブログをまめに書いてゆくつもりだった十月はすっかり遠い過去になってしまい、遠い過去は、ほんとうに遠い。つまり、遊園地再生事業団三年ぶりの新作公演『ジャパニーズスリーピング──世界でいちばん眠い場所』もずっと以前の話になってしまいました。これではいけない。この場所になにか書くことは単なる記録ではない。ただの日記でもありません(いや、もちろんそうした側面もあります)。ではなにか。考えをまとめる場所です。演劇にしろ、小説にしろ、ゆっくりした思惟は、いわば「書く」ことであり、「読み、書き変える」ことが「革命」だと、佐々木中さんも『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)で語っていたではありませんか。
■手を動かすことが思惟につながる。いや、誰もがそうだとは断言できません。少なくとも私はそうだった。
■さて、早速ですが告知です。いきなりそこからかい。そういう声が聞こえるのは承知いたしております。申し訳ない。来年(2011年)1月22日(土)、23日(日)に、〈遊園地再生事業団ラボ公演〉の第二弾、今年1月ドイツ文化センターで公演のあった『バルコニーの情景』に続きドイツ戯曲のリーディング、その第二弾、『私たちは眠らない』(作:カトリン・レグラ 演出:上村聡)。たいへん刺激的な戯曲です。現代の、資本を中心として動く社会の断面を刃物ですっと切り取ったような作品と、その言葉。
■公演概要について詳しくは、『私たちは眠らない』告知ページをごらんください。
■『バルコニーの情景』と同様、演出は上村聡。私、宮沢は、「監修」ですが、やはり「ト書き」を読みます。戯曲を読むのが去年より上達しているでしょうか。またスーツ姿で私は登場してしまうのでしょうか。様々な波乱を予感させる、『私たちは眠らない』(作:カトリン・レグラ 演出:上村聡)のリーディング公演にぜひとも足をお運びください。アフタートークもあります。私はしゃべりますよ。ドイツ演劇の魅力について私なりに語りたいと思っているのです。あるいは、ブレヒトからどのように現在のドイツ演劇が継承、あるいは、断絶があるのか。考えたいことはさまざまだ。フェスティバルトーキョーでも、ドイツ演劇を観たけれど、その活気あふれる演劇活動から学ぶことは多い。それを、われわれのリーディングを通じて多少なりとも感じ取ってもらえたらありがたいのです。そしてそれは、〈遊園地再生事業団ラボ〉の本来の目的である、それを通じて、自分たちが学ぶことにもなります。勉強熱心だよなあ、俺たち。自分で言うのもなんだが。
■さて、このノート「富士日記2.1」ですが、最後の更新が10月20日(11月はまったく書かれなかった!)。それはつまり、公演の途中ということです。書いておくことがあったはずです。書き残しておくことがあったにちがいないのです。いくつか自分なりの反省とともに、おもいのほか多くの人に支持もされ、あるいは批判もされ、佐伯隆幸さんからは説教も受けましたが、そうした経験のひとつひとつが次につながってゆくはずだからです。
■あらためて書きます。『ジャパニーズ・スリーピング──世界でいちばん眠い場所』は無事に全日程を終えました。連日、たくさんのお客さまに劇場へ足を運んでいただきほんとうに感謝しました。この勢いのおかげで次の舞台への手がかりが見つかり、またなにか言葉を発することが可能だと感じています。遊園地再生事業団はとても小さな組織です。劇団のような、タイトな結び付き、長い年月の中で生まれる集団創作の成果もさほどなく、そのつど、私のわがままで公演は生まれてゆきます。あるいは、「試みのための場所」として、ひとつひとつの舞台があるといっても過言ではないでしょう。そうして「運動している状態」、あるいは「思考の過程」そのものが作品へと、表現へと反映していればと考えます。だから、少しずつ持続です。そこばかりは粘り強くやってゆこう。もともと私は、演劇が専門ですので。
■だから演劇論も書きます。なんとか、演劇についていま考えていることを形にしたいし、とはいうものの、もっと新しい演劇へのアプローチがあるのだから、書くべき「演劇論」は、たとえば理論社から出していただいた『演劇は道具だ』とも異なるものになるでしょう。なにしろ、あそこにある「演劇観」は「1995年の考え方」が原形になっていましたからね。とはいえ、そこから新たなジャンプをするのは困難な作業だし、まして言語化することもまた、むつかしい。来年の早稲田の授業では「演劇の授業」をやることになっています。その準備をしつつ、それと平行して「演劇論」も少しずつ書きます。語ること、書くことを通じ、「書き変えること」が「革命」になるのですから。
■今年ももう終わりますね。その前にクリスマスがありますが、まあ、私にはあんまり関係がありません。今年は前半、なんだかお祭り騒ぎでした。『考えない人』(新潮社)の刊行もありました。豊崎由美さんの「ガイブンの輪」に出演させていただきました。白河清澄の「SNAC」で、スチャダラパーとトークをしたりと毎日がお祭り騒ぎだなあと思っているところへ、伊藤整賞(評論部門)の受賞があって、夏の前までの半年、もうお祭り騒ぎが終わらなかった。なぜなんだろう。なにがあったんだろう。不思議でなりませんでした。
■夏は稽古だった。制作にも、演出助手にも早稲田のOBや現役の学生がおり、さらにかつて教えていた京都造形芸術大学の卒業生が何人も出演していたというわけで、学生、元学生たちに助けられた公演だった。で、ふと気がついたら、俺のゼロ年代は「大学で教えている十年」だった。いい十年だったんだな。舞台を終えてつくづくそのことを思った。
■そして、忘れちゃいけないのがエレキコミックのやついの存在。よかったなあ。俳優としてのやついがよかった。そして稽古場にしろ、楽屋にしろ、彼のおかげでずいぶん明るい雰囲気に包まれた。楽しかった。すごくよかった。もちろん、『ジャパニーズ・スリーピング──世界でいちばん眠い場所』に関わってくれた、たとえば、舞台監督の田中翼君、美術の林巻子さん、音楽の桜井君、音響の半田君、美術の齊藤さんらに助けられたのはいうまでもありません。
■11月。見たなあ、舞台。フェスティバルトーキョーにラインナップされた作品を可能な限り観た。なにがよかったかとか、書くのがはばかられるように、それぞれいい作品だったけれど、相模友士郎君の『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』が(僕がアフタートークをやったこと、あと相模君がかつて京都の大学での教え子だった事情はさておき)とても印象に残った。もちろん、マルターラーの『巨大なるブッツバッハ村』など多くのすぐれた舞台はあるが、相模君の作品には僕と共通する、つまり、太田省吾の血が流れているのを感じ(僕は薄いですし、太田さんに叱られそうだけれど)それに感動した。
■あるいは、飴屋法水さんの『わたしのすがた』について、たしかに素晴らしい作品だったものの、僕は正直、最後の廃病院にみんなが言うほど衝撃は受けなかった。むしろ移動の過程、あるいは、素材のひとつひとつから「受け取る側」が、自由に、意識を動かされ、また異なるイメージを生み出すこと、それはけっして「衝撃」ではなく、もっとゆったりとした内的な静謐さのようなものだったはずで、自身の変容を促すインスタレーションの力に心を動かされた。かつてこうした作品はあったかもしれない。ある時代によく似たそれは存在したかもしれないが、飴屋さんが新たに提示してくれたのは、「祝祭」から「内省」へという、演劇や芸術一般が、いま変わろうとしているまた異なる表現の姿だ。
■そして、考えるべきは、なぜそうであるのか。いまそうであることの意味だ。変化している。確実にテン年代に向けて変わってゆく、そのことの予感により心が動かされた。変わるだろう。時代はまた変わるんだろう。演劇を動かす磁場、あるいは時代の空気は変化してゆく。それを書きたいのだ。演劇論として書きたい。そして語りたい。もちろん私は批評家ではない。実作者として語っておくことがある。
■こうした文章が、毎日、書けるような余裕を持って生きていけたらいいな。書かなくてはいけないのだ。つまりそれは、最初にも書いたように、「考えるために書くこと」。それが革命だから。
(9:23 Dec. 21 2010)
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