富士日記 2.1

Oct. 31 wed. 「八王子のことばかり考えていた」

雑誌(「トキオン」という雑誌である)のための「直島紀行」を書こうと思うが、さすがに25枚ぐらいを5枚にするのはむつかしく、どこを捨てるかを考えていたらいっこうにはかどらない。いっそ、ゼロから書き直したほうがいいような気がしてきた。きょうが締め切り。だめだった。京都精華大学に呼ばれて11月の末(いま調べたら11月29日だった)に講演するが、そのためのパブリシティ用っていうのかな、「講演概要」のような原稿を書く。短いのですぐに書き終え、きょう俺は仕事をひとつはしたと、それで満足する。本を読む。あ、それからある雑誌のインタビュー原稿のゲラをなおしたのだが、そこに付されていた僕のプロフィールが、どう見ても、ウィキペディアからのコピーで、あれまちがってるのに確認もしないでそのまま鵜呑みにして書くって、おまえねえ、ほんとにプロのライターなのかよ、どうなんだって思うわけで、誰か、ウィキの僕のプロフィールを書き直してほしいものだよ。
夕方、大久保通り沿い(牛込北町あたり)にあるスーパーへ買い物に行ったら新潮社のN君にばったり会った(新潮社が近い)。スーパーの一階にあるパン屋に付属したカフェで少し話をする。あとでうちに帰って通知が来たのであらためて知ったが、『牛への道』の文庫本はまた増刷されたと教えられ、『牛への道』の底力におののく。それからエッセイのこととか、小説のことを話し、さらに、最近のDTP事情の話を教えてもらった。新潮社といえば、「新潮」のKさんからメールをもらって、Kさんも直島でタレルの「南寺」の作品を観たとのことだった。

 宮沢さんはよくわからなかったとお書きになられていたタレルの「南寺」の作品、わたしは見ることができ、そのあまりの不思議さに直島滞在中、時間をおいて、二度、三度、と体験してきたのですが。三度目に、(これは、本来の作品のあり方を考えても、まったく正しくない鑑賞方法なので、ここだけの話ですが、)これは、まっすぐ歩いていけば、あの微弱な光を発している舞台装置が前にあることはわかっているのだから・・・、と少々無謀にも、まだ光が見え始める前に、壁の椅子を離れ、前方へと歩を進めていったところ、本当の暗闇のなかではまっすぐ歩くことができないということなのか、いつまでたっても、あのステージには達することができず、ついには壁(おそらく側壁)にぶつかってしまうありさまでした。

 ここにもやはり、あの作品を堪能した人がいて、しかも何度も見に行ってしまう人がいたのだなあ。ほかにも、タレルの作品について『ニュータウン入口』に出演した南波さんや、何人かの方からメールをいただいたが反応はさまざま。そういった作品なのではないだろうか。
夜、「八王子」について調べていたが、とにかく過去の八王子の地図をどこかで閲覧するか、手に入れなければと思う。で、「2ちゃんねる」に「過去の八王子を語るスレ」があって深夜、ものすごく読みこんでしまってなにか後悔したものの、でも、書き込みが、一般的に流布されている「2ちゃんねる」らしさがなく、どこかほのぼのとしていた。どうもノスタルジックになっていけない。そのなかでまったく記憶を失っていたのはJR八王子駅前にあった、「朋松」という喫茶店のことで、建築雑誌にもたしか掲載された建物だったはずだが、八王子に住んでいたころ大学の友だちとよく行った。いまはもうないようだ。きのう八王子に行ったとき、あったはずの場所の付近にもそれらしき店はなかった。「八王子」のことばかり考えていた一日だ。10月が終わる。

(10:04 Dec, 1 2007)

Oct. 30 tue. 「八王子に行く」

京王線のなかで見た人々

小説の取材のために八王子に行ったのだった。京王線に久しぶりに乗った。初台からいったん新宿に出て、それから特急に乗ったのには意味があって、電車に乗るところから取材がはじまっている。
久しぶりに京王線の新宿駅で切符を買い改札を抜けたが、むかしとちっとも変わっていない。かつて明大前に住んでいたころ、京王線は毎日のように乗っていたし、その前が東府中だったり、あるいはもっとさかのぼれば大学のころ京王八王子の近くに住んでいたこともあってとてもなじみがある。変わっていない。ただ、壁の色づかいがかつてと異なる。特急で八王子まで行く。明大前、調布、府中、高幡不動、聖蹟桜ヶ丘、京王八王子。四十分弱で着くが、そのあいだ、ある本を読んでいた。これも小説にとって必要なのだった。
八王子の町は僕の記憶にある風景とはほとんど変わっている。もう何年か前に来たことがあってそのときも驚かされたが京王八王子の駅の位置がそもそもかつてと少し変わっているのだと思う。それで僕はある建物を探していたのだ。ただ、記憶がなかったので、ここらじゃなかったかと思うあたりをぶらぶらしたが、途中、近くの神社の、おそらく宮司さんが鳥居の下あたりにいるのを見つけ、声をかけそのことを聞いた。やっぱり宮司さんは覚えており、もう10年近く前になくなってしまったというその建物の場所を教えてくれた。すっかり町は変わっている。ただ、八十二銀行がほとんど僕が学生だったころと変わっていないので驚かされもする。それから町を歩いた。甲州街道より北側、元横山町のあたりはあまり変わっていないのではないだろうか。どこか落ち着けるカフェにでも行こうと思ったが、あまりないんだ、この町には。やっぱりスターバックスはあるんだけど、どうも気が進まず、ただ歩いた。いろいろなことを感じながら、帰りはJRの中央線に乗って新宿に戻った。

で、「ここであいましょう」というサイトを開いているイラストレーターのM君からメールをもらった。直島のことだ。直島にはかつて二度行ったことがあるという。

本村のタレルの作品について、何も見えず釈然としなかったとのことですが、私の場合、4年ほど前に初めて訪れた時には、真っ暗な空間を10分ほど見つめていると、確かに「何か」が見え、自由に歩きまわれるようになりました。ところが、去年訪れた時は、15分ほど中にいたにもかかわらず、ほとんど何も見えて来ず、這うようにして外に出ることになりました。寝不足で眼の機能が低下していたのかな、とも思いましたが、「前には見えていたものが今回見えなかった」 ということに、怖いやら新しいやらで、ドキドキしたことを憶えています。

 あれはどうなっているのかなあ。「オープンスカイ」のナイトプログラムは感銘したが、「南寺」の、あの暗闇の作品は、人によってまったく見え方がちがうらしいし、しかもM君のように、その日の体調にも左右されるとしたらどうとらえていいかわからない。で、M君はメールの最後に、「直島紀行の続きも楽しみにしております」と書いてくれたのだが、そろそろですね、雑誌のほうの原稿を書かなければならず、その文字数が2000字なわけです。つまり原稿用紙にすると五枚。ここまで書いた「直島紀行」をまとめてテキストファイルにしたら25枚分ぐらいあって驚かされたのだ。どんだけ書いてるんだ、俺は。むしろ短くするのがむつかしい。ただ、「007赤い入れ墨の男記念館」のことは雑誌にだけ書こうかな。面白かったんだけどねえ。しかも、その話をするとベネッセの人たちも、地中美術館の人たちも、もっといえば、直島の人たちもいやがるんじゃないかと思うわけだ。だって、そりゃあもう、あきれた状態になっていたのだから。
そういえば、きのう(29日)はキーボードを探しに町を歩いたのだった。いいキーボードが欲しかったんだ。それはつまり私にとって大事な仕事道具なので、選ぶのに慎重でなければならず、Happy Hacking Keyboardの、グレードの高いやつを買おうと思って新宿を探したが、どこにもなかった。いっそ秋葉原に行こうと思ったものの、面倒になって売場をぶらぶらする。アップルから出ている、Mac用のワイヤレスキーボードのキータッチを試したら意外によかったので買おうと店員に声をかけるとこちらも在庫なしだ。なにからなにまで在庫がないというわけで、また、なにもする気がなくなる病になりそうだった。
いくつか雑誌のイレギュラーの原稿を頼まれたものの、11月の中旬までに「新潮」のために短編小説を書こうと思って申し訳ないが断った。ただ、何人かの編集者の方に会う約束は、いったん約束したことなので守ろう。ただ、次の仕事はニューヨークから帰ってきてからだ。来月は大阪と京都。一年があっというまに過ぎてゆき、ニュースを見ればいやな気持ちにさせられる。

(3:51 Oct, 31 2007)

Oct. 28 sun. 「直島紀行・その4と、コンピュータのことについて」

フェリー待合所にいた地元の少年と少女

直島・宮浦港

本村地区のお祭り

写真は直島をあとにするフェリーを待っているとき見つけた宮浦港にいた若い二人だ。まだ高校生だろうか。写真を撮ろうとしたら、男が手で目の部分を隠したのだった。意味がわからない。女の子はジャージ姿で、二人は岡山県の宇野港から来たと話していたが、それにしたってそのラフな恰好はなにごとかと思ったのだ。
すでに書いたように「ナイト・プログラム」でジェームス・タレルの作品を観た。もともと、「オープン・スカイ」という作品として展示されている部屋は、つまり、上に向かって四角錐の内側から見るように壁が斜めに立ちあがった部屋の天井に、やはり四角い穴があいている。僕が直島に行った日は、気持ちのいいくらいの晴天で白い壁と青い空の調和がきれいだったが、「ナイト・プログラム」では、空の色の変化と、部屋の照明の色がゆっくり変化してゆくことで、やはり知覚の奇妙な感触を味わうことできる。日没まで、鑑賞者は、部屋の壁沿いに造られた長椅子のようなものに腰を下ろし、その変化、時間の動きを見続ける。さすがに冷えてきた。あの感じを言葉にするのはむつかしいがとてもよかった。すっかりタレルに魅了された。それが終わってから、「ミュージアム」のほうにあるレストランで食事をしたが、そちらは和食で魚の料理がとても美味しかった。ここの展示は夜九時まで解放されているので、その大きな空間を存分に楽しむことができる。
それで翌日(21日)、また朝から本村地区の「町プロジェクト」をめぐって少し歩き、タレルのべつの作品を観たが、こんどは真っ暗な空間である。やはり壁沿いに造られた長椅子のようなものに腰をおろし、前方をじっと観ているうち、なにかが、暗い空間のなかに見えてくるはずだが、僕にはなにも見えなかった。なにがいけないのかわからない。周囲は見えているようで、暗闇で騒ぐ人たちの声が聞こえたときは、そういった種類の演劇なのかと思ったほどだ。また機会があったら、ぜひともあらためてこれを見よう。なんだか釈然としなかったのだ。外に出ると天気がよかった。しかも本村地区はお祭りだった。カフェで昼食をとり、町営バスで宮浦港まで行く。高松行きのフェリーを待った。時間があったので、そのへんをぶらぶらしているときに見つけたのが「007赤い刺青の男記念館」だが、その話はまただ。どこまでこの話は続くんだろう。というか、そんなに「直島」にこだわる意味がもうわからなくなっている。ただ、久しぶりにのんびりしたし、いろいろな意味でとてもよかった。案内をしてくれた「地中美術館」のNさんにもずいぶん助けられたし。

直島のことを書こうと思いつつ、二日ばかりノートを書かなかったのは、Mac OS X Leopardのことがあったからだ。発売日の午後に宅急便で届いたので、Mac Proにインストールしようと思っていたのにだらだら引き延ばしているうち、なにもかもやる気を失っていたのだ。まったくなにもやる気がしない。なにもかもがいやな気分だ。これほど、人をだめにさせるものはない。なんか、クリーンインストール(つまり、これまで使っていたハードディスクに上書きするのではなくまっさらな状態でインストールすること)をしたかったので、新しいHDDを買ってきてセッティングしようという計画を、もうかなり前から立てていた。それが面倒だったのだ。面倒になったらもうだめだ。新しいHDDを内部にセッティングするのがきわめて簡単な構造になっているのが、MacProの特長だが、それがもう面倒だったものの、なんとかそれを実行し(実行する気分になるまでに丸一日はかかったと思う)、初期化、それからインストールをはじめたが時間がかかる。Power Bookからデータを移行するのにさらに時間がかかる。で、あと二つ入っているHDDのうち、ひとつのデータをべつのところに動かして、『ニュータウン入口』で使ったFinal Cut Proのデータを保存する。
で、かなりの時間をかけてインストールと環境の整備は終わったが、では、Mac OS X Leopardが騒がれているほどいいのかよくわからない(あとで、いろいろ新機能はわかったが)。まあ、ルックスはずいぶん変わった。新鮮だ。僕がコンピュータを使うのは主にテキスト入力であって、原稿を書くのが中心になる。まあ、いろいろ便利になっているのはわかるが、どうなんだろう。痛かったのは、Jedit4.0が使えなくなったことだ。まあ、Jedit Xという、OS Xに特化した同様のテキストエディタが使えるものの、慣れってものがあって、ずっと僕はJedit4.0を使っていたから違和感がある。この「富士日記2.1」は、「mi」というエディタを使っているから大丈夫なものの。
さらに、Parallels Desktop 3.0 for Macをインストールし、再起動なしでWindowsXPが使えるようにした。こういうことをせっせと作業していた週末だ。ほかにやることはいろいろあるが、これもまた、コンピュータで書く環境をよくしようという、まあ、いってみれば仕事のための作業だ。時間はかかったが。

それにしても本日はとてもいい天気だった。家の近くの商店街でお祭りのような行事をやっていた。祭りのプログラムのなかに、「包丁研ぎサービス」というものがあって、スピーカーから、案内の人だろうか、何度もくりかえし「包丁は一人一本までです」という声がする。はじめ「包丁研ぎ」のことを知らなかったのでなんてぶっそうな話だろうと思ったのだ。深夜、DVDで映画を観たり、本を読んだりという、いつもとあまり変わらない一日だった。

(4:34 Oct, 29 2007)

Oct. 25 thurs. 「検査というものをする」

なにごともよくわからないまま行動するのを人生の旨としている者として「人間ドック」と、たびたび、このノートに書いたが、実際に検査をしてくれる病院に行ってはじめてわかったのは、「がんの検査」を中心に診断してくれる最先端医療だったことだ。なかでも今回もっとも重要なのは、「PET検査(ポジトロン エミッション トモグラフィー:陽電子放射断層撮影)」というもので体内へ特別な薬品を血管を通して注入し、そのあと、「陽電子放射断層撮影」のための機器のなかに入って体内を撮影し癌細胞を見つける。この「特別な薬品」がかなり特別らしいし、この機器が最先端だとの話。
前日の夜、問診票に過去の病歴や、親族の病歴などを書き込む。検査の前に看護士の方と面談して、問診票をもとに話しをしたのだが、病歴に「骨折」のことを書かなかったことに触れ、書いたほうがよかったでしょうかと質問すると、「主にこれは内臓の検査ですから」と簡単にあしらわれたが、つまりこの人たちは内臓のことにしか興味がないのだとわかった。いま骨折していようが、つい最近まで骨折して困っていようがそんなことはおかまいなしだ。さらに父親が癌だったという書き込みを見た看護士さんは、思ってもみなかったことを言い、「お父さんが亡くなられたのは何年前ですか?」と聞く。「いや、あの、生きてます、まだ」と返答すると、びっくりしたような顔をされた。さらに、「がんは克服したんですが、そのあと寝たきりになったんですよ。九月の前半に、あと一週間ですと医師から言われたので覚悟してたんですが、まだ、生きてるんですね、驚いたことに」と話しを続けると、そんなことは聞いてないよといわんばかりの顔をされた。
さて検査だ。まず超音波で内臓の各所を調べる「エコー」と呼ばれる検査をする。腹の上になにかぬるぬるしたものを塗って、その上に小さな機器を這わせているが、目をつぶっていたのでそれがどんな形をしているかわからない。くすぐったくて笑いだしそうになった。そのあとMRという、ベッドのようなものの上に横になり、すごい電子音がする機械のなかを通り抜けるような、よくあるからだを輪切りにする写真を撮る検査があった。ただ、きょうも寝不足だったので検査中に眠ってしまった。いろいろあって、最後にその、最先端のPETだ。まず血管に注射針を刺し、採血されるが、私はことのほか採血が好きだ。血がするすると試験管のようなガラスの管に入ってゆくのが面白くてしょうがない。というか、血が出るその勢いを見ていると、生きているという実感がわいてくるのだが、それで思ったのは、ことによったらリストカッターとはこういったささやかな幸福感の歪んだ姿ではないだろうか。生きているというリアリティの奇妙な確認とでもいうか。
そのまま、例のPET用の薬品を注入。それから40分ほど試験室の横にある別室で待っている。それというのも、薬品が全身にゆきわたるのを待つからだ。その部屋に、「TITLe」という雑誌があって、「Coffee & Music」という特集になっていた。細野晴臣さんや、高田漣さんらのインタビューが掲載され、それから、コーヒーにあう音楽をそうした人たちが選曲し紹介されている。細野さんだったか、漣さんだったか、喫茶店とはコーヒーを飲む場所ではなく、それ自体が文化だったという話がインタビューのなかにあって、共感したのと同時に、それをいまのカフェブームのなかで忘れていた。というのも、かつてまさに、そんなふうに喫茶店はあり、コーヒー一杯で、だらだらみんなと話しをし、そこに店のマスターも加わって、そうした会話のなかから話題が広がり人と繋がっていったのが僕にとっての七〇年代だったからだ。バックにはいつも音楽が流れていた。

PETの検査中も眠ってしまった。すべての検査を終え、外に出たのは夕方になる時間だ。その検査病院のある町を歩いて本屋を探し、さっきぱらぱらっと読んだ「TITLe」という雑誌を買おうと思ったがどこにもなかった。早起きしたせいでひどく眠い。それから検査のためになにも食べてはいけないことになっていたので空腹だ。あと、検査機器のせいか、なんだか頭が痛い。僕はめったに頭痛がない者なのだが、これはとても珍しく、『ニュータウン入口』の稽古中骨折をしたときの痛みといい、痛みもにまた、懐かしさがあるのだと思った。で、「直島紀行」はまたあしただ。あしたこそは続きを書こう。

(9:44 Oct, 26 2007)

Oct. 24 wed. 「直島紀行は休み。人間ドック前日の緊張、あるいは人生ゆきあたりばったり」

日が沈む海・直島

ナイトプログラムを待ちながら

だんだん緊張してきた。なぜなら人間ドックでからだのすみずみを調べてもらうからだ。いやだなあ。なにかひどくいなや気持ちに人をさせる。だからきょうの「直島紀行」は休みである。少し書くのに飽きてきたのもあるが、まだ、20日の夕方までしか書いてないから、このあと夜の直島があり、さらに翌日の本村地区の祭りや、例の「007赤い刺青の男記念館」の話があり、フェリーに乗って再び高松に戻ったこと、高松空港から家までの道中記がある。先は長い。
ところで、「本村ラウンジレクチャー」を終えてからいったんホテルに戻ったことは書いたが、さらに夕方、シャトルバスで地中美術館に再び行くと、待っていたのは「ナイトプログラム」といって、ジェームス・タレルの「オープン・スカイ」という作品を使った「時間の美術」だった。で、そのとき、美術館の係の女性が鑑賞者を先導してくれるんだけど、その衣裳がですね、菊池武夫さんのお弟子さんだかがデザインしたそうなんだけど、とにかく全身が白で、なにか一瞬、ひところ話題になったパナウェーブの人なんじゃないかと思いはじめたら、もうだめだ。パナウェーブの人にしか見えない(それが下の写真の奥にいる白い人だ)。タレルの作品の宗教性ともあいまってなんだか不可解な気分になっていたのだ。あと、その先導し、解説する口ぶりとか、発声を聞いていたら、この人、演劇やってんじゃないのかって気にもなった。タレルの作品についてはまた日をあらためて書く。とにかくすごくよかった。
夕方(というのはきょう24日のことだが)買い物に外に出て、その帰りクルマにガソリンを入れに行き山手通りを中野方面から家に戻る途中、初台の交叉点で見覚えのある歩き方の人を発見した。顔は見えない。ただ「歩き方」だけがそこにあった。あれは笠木ではないかと思ったらやっぱりそうで、携帯で電話し「いま初台の交叉点を歩いているだろう」と話し、じゃあ、ちょうど夕食どきなのでなにか食べようということになって参宮橋のスペイン料理店へ行くことにした。いろいろ話をする。笠木は、もうかなり前から直島に注目しており、いつか行こうと計画し調べていたという。それで、いいよ、直島、ぜったいいいよ、とさんざん自慢した。話を10倍ぐらい膨らませて自慢した。とにかくお金を貯めて安い宿ではなくベネッセハウスに泊まれとすすめる。それくらいの贅沢はしてもいいはずだし、ほかのことに金を使わず節約すればなんとかなるだろう。帰ってきてから直島についてネットを検索したらたくさんの人がブログなどに書いているのを知ったし情報も数多くあった。知らなかった。なにも知らずに俺は直島に行ってしまったのだ。でも、なにも知らないからこそ発見することがある。行きあたりばったりだから新鮮な驚きがある。それが「牛乳の作法」である(拙著『牛乳の作法』参照のこと)。だからこそ、タレルに強くひかれたのかもしれない。

まあそんなわけで、私はただ、人間ドックの結果が怖い。ほかにはきょうは学習をしていた。あることの学習。小説を書くことの構想も練っているしすぐにも書き出さなければだめなんだけど、学習の計画もいろいろあって、あれも学ぼう、あのことももっと予習しておこうとか、もっとこういったことについて考えるための準備をしておこうなど、学習の計画もいろいろある。まあ、主に、「過去の思考」との対話だ。先人は多くの言葉を残している。それから曖昧になっている二〇〇〇年代以降のまたべつの演劇論についてもっと徹底して考えつくさなければと思うのだ。そんな日だった。

(7:54 Oct, 25 2007)

Oct. 23 tue. 「直島紀行・その3」

家プロジェクト・大竹伸朗の作品

地中美術館にゆく途中に造られたモネの池

「新潮」のKさんからメールをもらった。小説の話。書こう。書かなければいけない。ただ、小説はゆっくり書こうと思うのだ。じっくり腰をすえて。とはいっても、もう「新潮」にはずいぶん待ってもらっているのでそういうわけにもいかない。そういうわけにもいかないのは、「webちくま」の連載だ。週に一度の締め切りはけっこうきつい。
締め切りからもう二ヶ月が過ぎた原稿があったのだ。ゆうべ催促のメールをもらってようやく思い出した。催促してこなかった先方もすごいが、忘れていた私もどうかしている。資料を探して原稿を書きはじめたのはまだ朝の早い時間だが、わりと早く書くことができ、仕事を午前中には終えた。書く内容さえできていれば、最近は原稿がやけに早い。いいことなのかどうかわからない。このノートもものすごい勢いで書く。いいことかどうかわからない。

近況はさておき(さておくべきかどうかむつかしいところだが)、「直島紀行・その3」である。20日の朝10時半、「地中美術館」のNさんがフロントまで迎えに来てくれ、クルマで島内を案内してくれたが、まずは「地中美術館」に行く。美術館の少し手前に広い駐車場とチケット売場がある。そこから美術館の正門まで歩く途中にあるのは、モネの睡蓮の庭を模した池だった。ベネッセが最初に購入した美術品がモネの作品だったそうで、「地中美術館」の特色のひとつは常設展しかないところだし、しかも、その常設がまったく変わらないところだ。なにしろ、モネにしろ、ジェームス・タレルにしろ、ウォルター・デ・マリアにしろ、その作品を鑑賞するためだけに建築がデザインされているんだから驚く。池を見ながら先を進むと、ようやく門が見え、そこからがかなり急な坂道だ。案内してくれたNさんによると、安藤忠雄のコンセプトでは、この坂は神社の本殿にのぼるための階段だという。美術館に入るための心構えということか。参照サイトはこちら。坂をのぼった。息が切れた。骨折した足の骨がもう治っているとはいえ少し痛い。

地中美術館の前に立つNさん

本村地区の路地

本村ラウンジレクチャー入口

本村ラウンジレクチャー内部

大竹伸朗の作品

坂をのぼりきってさらにデジカメで撮影していると、Nさんから、この先は撮影禁止ですと注意された。建築雑誌にきっと写真が載っていると思われるので、興味があったら探すといいと思いますが、まあ、実際に行くのがいちばんだろう。建物の内部に入ると、階段をまたくだり、かと思えば、また上がる。この複雑な構成や、斜めになった回廊の壁など、どこか人を幻惑するかのような作りが面白く、いま、自分はこの建築のどこにいるのかよくわからない目眩のようなものを感じる。まあ、モネはね、作品がほかとまったく質が異なるけれど、それを展示する部屋のデザインにひかれ、なかでも床がよかった、と書いたところでなんのことだかわからないとは思うが。あるいは、すでに書いたように回廊の横に入ったスリットがいい。きわめてシャープなデザインだ。
そしてタレルという作家に感心した。なんていうんですか、この人は。人の知覚、視力、視角の曖昧さを利用した作品で鑑賞者を幻惑するとでもいうか、「オープン・スカイ」という作品も魅力的だけれど、「オープン・フィールド」は、いわば、「タレルの不思議な部屋」だった。Nさんからその部屋のからくりを解説してもらってはじめて合点がいったが、わからないよ、ふつう、この美しさがどこからくるのか。この日の日没直前に、「オープン・スカイ」を利用したナイトプログラムと称した作品も鑑賞したけれど、まるで太田さんの舞台を見ているような静謐さがあり、時間の経過のなかで作品が変化してゆくとき、あたかも宗教的な自然への畏怖さへ感じた。タレルはすごい。

「地中美術館」をあとにして、私もそろそろ直島に来た当初の目的であるところの仕事をしなければならない。「本村ラウンジレクチャー」での講演だ。会場になっているラウンジのある、本村地区に行ったが、この周辺では冒頭に掲載した大竹伸朗の作品をはじめ「家プロジェクト」が展開されている。本村は古い町並みが残った地区で、細い路地の左右は板塀の家が並んでいる。いくつかの家が作品の展示に使われていたり、あるいはカフェになっていて、本村ラウンジも、元々は、市場だったそうだ。写真にあるように東京にあってもおかしくないようなしゃれた空間。画集やグッズ、Tシャツが販売されている。横浜の「Bank Art NYK」を思い出した。
少し「家プロジェクト」の作品を見て回る。大竹伸朗の作品も面白かったが、ほかにも、宮島達男のLEDのカウンターの作品がよかった。古い家屋のなか、床をぶち抜いてそこに池のように水を溜め、水のなかにLEDカウンターが点滅している。数字が変化する。水とLEDの光が調和してとてもきれいだ。少し町を散歩しているうち昼どきになったので、やはり本村地区にある、もとは普通の民家だっただろう建物を改装してカフェになっている店でNさんと食事をした。Nさんは、地中美術館の坂の手前で撮った写真の女性で、どっちが前なんだよって思わず言いたくなるようなシャツを着ていたが、それがとてもおしゃれだ。カフェでもCDなんかを売っていて、よく見ると、なかにマーガレットズロースの平井君のCDもあった。どういう縁があるのかはよく知らない。またカレーを食べてしまった。ついこのあいだ渋谷でカレーを食べたのを忘れていた。食事をすませてもまだ時間があったので、さらにあたりをぶらぶらする。古い町並みを歩いていると、子どものころに住んでいた町を思い出す。いまではすっかり整備されてしまったが、かつて僕が生まれて子どものころに住んでいた町も、こんなふうに細い路地が入り組んでいた。
さて、講演の仕事だ。時間は一時間十分程度でといわれ、あとは質疑応答ということになっていたのだが、話そうと思っていた四分の一ぐらいのところで時間を見ると、もう50分になっていた。それで急遽、予定を変更し、『ニュータウン入口』のビデオを観ることにした。それから演劇について話していたら、もう予定の時間を過ぎ、一時間半になろうというところだ。なにか質問はないか会場に声をかけたがなにも出てこない。気をつかってくれたNさんが質問してくれ、それに答えているうちに全体の予定より時間が過ぎてしまった。こうした講演のようなものは、どうもうまくいかず、このあいだ東洋大学であった講演も予定していた内容の半分も話せなかった。べつに講演のプロになろうとは思わないものの、ただ頼まれてこうした仕事を依頼されるのなら、きちんとしなければと思う。なにか僕なりのやり方があるはずだ。もっとうまくいかないかな。

で、ある人に教えられたのは、このブログだ。すでに話題になっているらしい。取り上げられているのはすごい小説だ。文章がすごい。「二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた」って、なかなか書けないよ、こんなふうには。たしかに笑えるものの、けれど、こうした文章が書けたらと思うことがしばしばある。ときどき寝ぼけて原稿やこのノートを書くとそうなるが意識して書こうとしてもこうはなれないし、ここには言語によって作られる秩序を歪ませるような力を感じもする。それというのも、「言語」はしばしば、エドワード・W・サイードが書いたように狭い共同体の制度を護持するために機能するからだ。

……問題は、それぞれの社会のなかに、表現習慣に支配された言語共同体がすでに存在していること、そしてこの言語共同体がその主要な機能のひとつとして、現状を維持し、ものごとが摩擦も変更もなく疑問視もされずに推移するよう目を光らせていることである。ジョージ・オーウェルはこのことを、エッセイ「政治と英語」のなかで説得力のあるかたちで語っていた。紋切り型の表現、手垢のついた隠喩、惰性で書いているような文章、こうしたものすべては、オーウェルにいわせれば「文章の堕落」の実例である。いきおい、精神は弛緩し活力を失うが、それにひきかえ言語のほうは、スーパーマーケットのバックグラウンド・ミュージックめいた力を発揮して、表現を洗脳し、お仕着せの観念や意見を鵜呑みにするようそそのかすのである。(『知識人とは何か』大橋洋一訳より)

 だからある種の小説の多くに見られるような文章、文体とは、いわば「スーパーマーケットのバックグラウンド・ミュージック」だ。無難で、なんの刺激もなく、どうでもいい言葉が並ぶ音楽だ。そこに、「二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた」が出てきたら、むしろこれは、驚くしかないじゃないか。あと、いま紹介したブログの書き手は、当の小説について、その文章や内容を批評しているようだが、あざけるように批評する文章のなかにこうある。

次に、国王ひとりの暴走なのだからクーデターを起こせば大団円のはず。五十歩百歩ゆずってクーデターが無理としても、

 こういうのはきわめて恥ずかしい。まちがいはべつにいいんだけどさ、笑ってるそばから自分がまちがえるのはいかがなものか。なにしろ、「五十歩百歩ゆずって」しまうらしい。どれだけ譲りたいんだ。「五十歩」なのか、「百歩」なのか。あるいは、「百五十歩」なのか。
といったわけで「直島紀行」はきょうで終わりにするつもりだったが、さらに「その4」につづくことにする。講演を終えたあと、いったん、ホテルに戻り、それからさっき書いた「ナイトプログラム」を観にまた地中美術館に行った。すごくよかった。そのあと「ミュージアム」にあるレストランで食事をしたのだが、そのこともまた。ま、飽きるかもしれないのだが。それに25日は人間ドックにも入るし。

(8:04 Oct, 24 2007)

Oct. 22 mon. 「直島紀行・その2」

ベネッセハウスシャトルバス

ベネッセハウスへ到着

このノートできのう、「18日から旅に出た」と書いたのはあきらかにまちがいで、正しくは、「19日から旅に出た」だった。旅から帰ってすっかり疲れてその日(21日)は眠ってしまったが、すぐにまた原稿を書く。連載がまだ残っていた。
さて、直島の宮浦港に着くとベネッセハウスのシャトルバスが待っていてくれた。まあ、この時点になっても直島のことをなにも知らなかったし、だいたい、「地中美術館」から送られてきた資料とかをなにもチェックしていなかったので、わからないことだらけだ。どこをどう走っているのかうまく把握できないが、バスは島内を走る。途中、小さな町のなかに入り、狭い道をくねくねゆくと、そこはあとになって知ったが農協の前でシャトルバスの停留所になっているらしい。いったん停車。ベンチに外国人と猫がいた。外国人の一人が、「地中美術館に行きますか?」と日本語で運転手さんに質問する。「これ、ベネッセハウス」と運転手さんが声をかけ、また出発した。やけに狭い道を行く。このあたりが、「家プロジェクト」を実行している本村地区だというのはあとで知った。
ベネッセハウスには、「パーク」と「ミュージアム」と二つの宿泊施設が少し離れて建っており、僕が泊まった「パーク」のほうもすごくいいんだけど、どうやら、「ミュージアム」のほうがもっとグレードが高いらしい。しかも「ミュージアム」のほうはその名の通り、建物全体が美術館になっている。次の夜、そちらのほうのレストランで食事をしたので美術館も少し歩いたがたしかにこれはすごい。で、「パーク」のほうにも、入ってすぐのところにジャコメッティの彫刻があったり、その内部の模様は(作品もいくつかデジカメで撮ったがそれを公開していいのかよくわからないので)、こちらのサイトのブログで見ていただきたい。建築はやっぱり安藤忠雄だ。打ちっ放しのコンクリートと壁にあるスリットがきれいだ。スリットっていえば「地中美術館」のなかの回廊のような通路の壁にあった横長のスリットがすごくよかったけれど、それはまた、先の話。いつまで続くんだこの紀行文は。

ベネッセハウス・客室廊下

ベネッセハウスのラウンジのような空間

ベネッセハウスのレストランにいたる回廊

ベネッセハウスのなかにあるレストラン

紹介したブログにあったように、ホテル内には美術作品がいくつも展示されている。展示っていうか、インテリアとして置かれているというか。それを観るのも楽しい。だけど、それよりなにより、客室だろう。きのうのノートの冒頭に載せた写真がその部屋の一部だけど、あまり広くはないものの、よく考えられた設計でものがむだなく配置されている。ただ、セキュリティが厳しく、カードキーを使わないと、まずフロントのある一階のロビーから客室のある建物のなかに入れないばかりか、エレベーターに乗っても、カードキーを使わないとボタンが押せない仕組みだ。それでようやく部屋に入るわけで、都合、三度カードキーを使ってようやく自分の部屋にたどりつく。すごいね。驚いたね。
しかも、ネット環境はダイヤルアップだけだ。こういうとき僕は、AH-F401UってUSBに差し込むネット接続用の装置を使うが、これはPHSの携帯電話なんだ、基本的には。ところが、驚くべきことに直島ではPHSの電波を受信できないんだよ。久しぶりにダイヤルアップでメールチェックをした。遅い。手間がかかる。いまやビジネスホテルはどこも高速のネット回線を用意しているが、直島では仕事をしてはいけないんだな。なにもするなということだろう。テレビもない。ネットもほぼ使えない。のんびりとした時間を過ごし、美術に触れろということだ。それでぼんやりしているうちに夕方になる。窓からは海が見えるが少しずつ昏くなってゆく光の中を船がゆっくり走る。
すでに書いたように、客室内は禁煙なので、エントランスの外か、フロントのあるフロアから階段を降りたところにあるバーのテラス席でしかタバコは吸えない。それで珈琲でも飲もうかと思ってバーに行くと、ウエルカムドリンクというものが出されて宿泊客には、無料で一杯飲物が出るらしい。オレンジジュースを飲んだ。外の気温はだいぶさがり、オレンジジュースがひどくからだを冷えさせる。だいぶあたりは暗くなっていて、庭の照明がつくと、また異なる風景になる。そのなかに、色が鮮やかな美術作品(そのなかには港で見たのとはべつの草間彌生の「南瓜」もあるわけだが)がある。薄暗がりのなか、まだ人の姿があり、それぞれの作品を鑑賞しているのが見えた。
それにしても、「地中美術館」とベネッセにはずいんお世話になってしまった。この日は夕食まで予約してくれた。いたれりつくせりで申し訳ない気分だ。「パーク」に付属しているのはイタリアンで、「ミュージアム」のほうが和食だ。申し訳ないが、やっぱり「ミュージアム」のほうがレストランもグレードが高かった(と、それを知ったのは翌日はそちらで食事をしたからだ)。食事を終えるころになって、ようやく、きょうは朝が早かったのを思い出した。眠い。そうだ、俺は眠かったんだ。だけど高松に着き、うどんを食べ、「菊池寛通り」を見、さらにフェリーに乗って直島まで来るあいだ、なにか興奮していたのかもしれない。おなかがいっぱいになったら急に眠くなった。寝よう。部屋に戻って本でも読もうかと思ったが、メールチェックをしたらすぐにベッドにもぐりこんだ。

というわけで、直島紀行はまだ続くのだが、早く「007赤い刺青の男記念館」のことを書きたい。だけど「地中美術館」はすごくよかったんだよ。ほかにも、本村地区の「町プロジェクト」も面白かったし、まだまだ書くことはくらでもある。紹介したい写真もまだある。なにしろ、僕が講演をした翌日、いよいよ直島を離れる日は、本村地区がお祭りだったしね。御輿が出ていた。御輿の担ぎ手たちがみんな、上半身は祭りらしいはっぴなのに、下は、なぜか野球のユニフォームだったのも面白かった。というわけで、いろいろありながらも、やっぱり現代美術は面白くてたまらない。刺激される。刺激され、示唆され、喚起され、またなにかを作ろうと創作気分をかきたてられる。というわけで、話は、「直島紀行・その3」につづくが、ここまでが、19日のこと。「その3」は20日と21日のことを書くけれど、長いよ。

(13:26 Oct, 23 2007)

Oct. 21 sun. 「直島紀行・その1」

ベネッセハウス客室

讃岐うどん

旅から戻ってきたのである。
向こうでこのノートを更新する予定だったが、それほど時間に余裕がなかったというか、むしろ余裕があったからのんびりしてノートを更新する気分にならなかったというか、帰ってきてようやく書けるような気になったのだ。いやあ、よかった。とてもいい旅になった。それというのも、いろいろな意味で刺激を受けたからだが、一口で言って、みんなとにかく一度は直島に行くといいと思う。話が長くなるので、日々の記録とともに、何回かにわけて書いてゆくことにしよう。
さて、直島にある地中美術館が主催する、「本村ラウンジレクチャー」で講演するため19日から旅に出た。このところ各地で講演をする機会が多い。「話をする」ことで報酬をいただくというのがいまだに自分ではぴんとこないものの(話をするプロだとは思えないし)、ただ、呼んでいただくことはとても嬉しい。そのたびにさまざまな出会いがある。18日の朝、寝不足のまま羽田から飛行機で高松まで。そこからフェリーに乗って直島に渡る。ただ、フェリーまで時間があったので飛行場から高松の市内に移動し、時間をつぶそうと思ってとりあえず「かな泉」という名前のうどん屋に入った。香川に来たらうどんだろう。ほかには香川のことをなにも知らない。というか、四国に来るのもはじめてだし、そもそも直島が香川県にあるというのもはじめて知った。菊池寛は高松の出身だ。バスで市内に入る途中、「菊池寛通り」というのがあって、いかがなものかと思った。うどんは美味かった。東京にも讃岐うどんの、というか、讃岐式のセルフサービスのうどん屋がいくつもあるが、そこはまあ、気分の問題で、香川に来たらうどんであり、当地で食べるうどんは美味いときまっているのだ。

高松の喫茶店「城の眼」

うどんを食べ終わってもまだ時間があったので近くをぶらぶらし、通りで見つけたなかなかに味のある古い喫茶店に入った。「喫茶 城の眼」。インテリアがいちいちおしゃれで、一見、たとえば京都にある「OPAL」とか、このあいだ渋谷で入ったいまどきのカフェのようだが、これで店内に流れている音楽がよかったらもっと若い客が来るだろうと思ったのは、ま、とにかくおかしな音楽が流れていたからだ。のんびり珈琲を飲み、タバコを吸う。心ゆくまでタバコを吸ったのは、直島で用意してもらったホテルが全館禁煙だと聞いていて、そのことにおののいていたからだ。いやだなあ、全館禁煙。いやな気分にさせる言葉である。喫茶店を出て、フェリー乗り場に向かうころから小雨が降ってきた。その道の途中、琴平電鉄の踏切にぶつかり、電車が来るのを待って写真を撮る。
この旅のあいだデジカメでいったいどれくらい写真を撮っただろう。なんでも撮った。それというのも、このあいだ書いたように、「STUDIO VOICE」を出している会社が出版しているべつの雑誌にこの旅のことを書くからだ。写真と文章で構成される。まあ、なんでも撮ったよ。もちろん「地中美術館」の安藤忠雄の建築は外側からしか撮らせてもらえなかったが(といっても地中にあるだけに、外からはほとんど撮影できないものの)、あと、いよいよ帰る真際に直島で発見した、「007赤い刺青の男記念館」というものすごいものも撮影した。その話はまただ。

フェリー

フェリー時刻表

フェリーから下りる人々

どんよりとした空とフェリー乗り場は、どこかものがなしい。
フェリーは直島の宮浦という港に入る。時刻表を見ると、一日に7本しか運航しないらしい。ほかにもべつのフェリーがあるのかもしれないが、よくわからなかった。待合室の外は雨だった。やがて出発の時間が来ると、高校生たちが次々と乗ってくる。直島には高校がないそうで、このフェリーを使って高校生たちは高松の高校に通っているようだ。乗ったのは「なおしま」という名前の船だ。こちらは観光気分だが、高校生をはじめ地元の人にしたら生活の手段なのだろう。フェリーに乗ってからずっと、僕は窓の外、瀬戸内海をながめていたが、高校生は毎日見ている、おなじみの風景だから、誰も外のことなんか気にしていない。ほかには、観光に来た若い男女がいたり、島に帰るのだろう人々がいた。人の数は少なく広い客室はがらんとしている。
直島の地図はあらかじめ見ていたが、海を行くフェリーがどこらを走っているのか、すぐ目の前に見える島がなんという島かなにもわからない。どんよりとした空と、黒い海は人を憂鬱な気分にさせ、海に呑みこまれそうな気分になる。怖いなあ、海。なんという怖さだ。ときおりカモメが飛ぶ。小型の漁船がすごい勢いで海の上を走る。高松を出て50分で直島に到着。宮浦港では、草間彌生のかぼちゃの形をした作品が迎えてくれる。形というか、「南瓜」だけどね、作品が。島のあちこちに何人もの作家の作品が展示されているようだった。高松の港には懐かしい気分に人をさせるものがなしさがあったが、直島のフェリー乗り場にある待合室はやけにモダンな建築だ。全面がガラスばり。あのかぼちゃの形をした作品といい、こうした建築といい、島の人たちはどんな思いで見ているのか興味深かった。

僕は直島のことをほとんど知らなかった。いまでは世界的にも有名らしく、外国人の観光客もかなりいた。出不精の僕は、こういった仕事でもない限り、どこか遠くへ行くことなどほとんどない。なにかあるとさっと旅に出る人はすごいな。遠くまでなにかを観に行こうというその気持ちが持てる人に感心するのだが、たとえば演劇だったら、どんなに面白そうな舞台があっても利賀村に行こうという気持にまったくならない。遠いんだろうと思うだけで、家を出るのがおっくうになる。だめだな。行けば行ったできっと面白いんだよな。たいていそうなんだ。パリに行ったときもそうで、仕事だから行かなければならなかったのだが、行く直前まで、俺は行かなくてもいいんじゃないかと抵抗したのだった。でも、面白かった。あんな体験もめったにないことで、ポンビドゥーセンターで「シュールリアリズム展」を見られたのはなんという幸運なことだったかと思うのだ。
今年は、すでに札幌に三度行ったし、松江にも行き、このあとニューヨークに行く。そういう年なのだろう。どこかへ出かけてゆく年。ただ、札幌と松江はせわしなかった。もっとゆっくりできればよかった。で、直島はかなり堪能したのだ。そのことはまたおいおい書いてゆこう。それと、久しぶりに現代美術に多く触れることができ、それもまた、刺激になった。異なる分野の作家たちの仕事は多くのことを喚起してくれる。今回は、ジェームス・タレルの作品に興味を持ったが、それと同時に安藤忠雄さんの建築に刺激されることも多かった。フェリーを降りると、ホテルのシャトルバスが迎えに来ている。ホテルも安藤さんの建築だったんだけど、これがまたすごくいいんだよ。ホテル内にもなにかと驚かされる。都内をはじめ、これまでもいろいろなホテルに泊まったが、直島で用意してもらったベネッセハウスはまた、ぜんぜん種類がちがう。まあ、全館禁煙なんだけどさ、その困難を凌駕するほどのよさだった。
つづきはまたあした書こう。本村地区の「家プロジェクト」の話など、書くことはほかにもまだ数多くある。それでもってこのノートをもとに雑誌の原稿を書こう。製品版だな、そちらは。それにしても、なんで地中美術館は講演に僕を呼んでくれたのだろう。いい週末を過ごさせてもらった。ほんとに贅沢だった。こうして東京に戻ってくると、もっと時間があったらと思うほどだ。「直島紀行・その2」につづく。

(7:55 Oct, 22 2007)

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