富士日記 2.1

Jan. 27 tue. 「天気はよかったが」

町、夕暮れ

午前中は病院に行った。心臓のエコー検査。心電図、レントゲン、採血。いつもなら診察の順番が回ってくるまでかなり待たされるが、検査で時間をつぶしたせいか、わりとすぐに診察してもらった。まだ血液検査の結果が出ていなくてそれはあとまわしになったものの、エコー検査による心臓の動きは、手術後に調べた状態とほぼ変化がないとのこと。これ以上よくはならないが悪くもなっていないということ。ほっとした。というのも、ここのところ食生活があまりよろしくないからで、体重も増えたし、水分も摂りすぎだと自覚するからだ。でも、それほど悪くなっていないと医師の言葉は前向きだった。次の診察はまた三ヶ月後。薬代はまた二万円以上。薬局で山のような薬の袋を受け取る。
天気がよかったので外は気持ちがいい。午後、岩松さんから携帯に電話が入っているのに気がついた。岸田戯曲賞の選考に、今回、岩松さんは急用ができて欠席したのだが、昨夜も電話をもらったのに気がつかず、気がついたのは深夜だった。きょうこちらから電話しようと考えていたところへ、また岩松さんからもらってしまった。電話で少し話す。もちろん岸田戯曲賞のことだ。指摘され、まだ考え、議論することはあったと少し後悔した。議論に持ちこむだけの力が僕になかった。岩松さんにはぜひ出席してほしかった。
僕はただ、今回のこの作品が受賞しないと次がないかもしれない作家が気になっていたのだ。山岡さんは前回の作品がことのほかよかった。今回は、それに比べると少し落ち、京都という場所の状況と、作品の質からいって大きな劇場に戯曲を提供するような派手さはないので、賞を上げたい人の一人だった。それというのも僕がかつてそうだったからだ。賞をもらったからこそ、励まされ、あと押しされ舞台を続けることができたと思う。もちろんそのためには一定のレベルに達していなければだめなんだけど、なんかなあ、蓬莱君も本谷も、賞がなくてもぐんぐん書ける人だと思えてならない。蓬莱君は巧みな書き手であり、本谷のぶっ飛ばしぶりはすごいよ、つくづく。そういったわけで、少し後悔した。もっとしっかり語るべきこと、主張すべきことがあったはずだと、気が重くなる。

岸田戯曲賞の仕事が終わったので次は大学の成績をつけなければいけないのだった。レポートをまだ読んでないんだ。締め切りは間近。焦るものの、レポートのほかにも読みたい本がいろいろある。苦しむよ。

(9:09 Jan. 28 2009)

Jan. 26 mon. 「選考会」

すでに報道されているので、岸田戯曲賞の結果は周知のとおり。蓬莱さんと、これまで五回候補になりながらなかなか受賞できなかった本谷有希子の二人のそれぞれの作品に決まった。いろいろ書きたいことがあるし、なんか今回は、「冒険心」っていうか、方法への野心にあふれた作品っていうか、そういったものの評価がやけに低く、それをけっして否定するわけではないが、蓬莱さんのような「うまい作品」が受賞した印象。なぜ、こうなったかあとになって考えてみたんだけど、「冒険心」や「野心」「疑い」を持った作家の作品がまだ未熟だったのではないか。次に期待。でも、蓬莱さんの筆は見事としか言いようがないよ。とにかくうまい。あと、本谷は、「本谷的としか言い様のない個性」でぶっとばした印象。以前の作品に比べると雑になっているようにも思えたが。
選考会後、選考委員らとイタリアレストランで食事。家に戻ったのは遅い時間になっていたが、そんな日に限って、ポツドール『愛の渦』の再演のパンフレットに掲載される原稿の最終的な締め切りの日だった。深夜、あわてて書く。イタリアレストランで、なにか食べようと思ったときにですね、アゴがですね、がくっとなって激痛が走ったのだった。なんだかわからない痛み。痛みはそのまま家に戻ってもひかず、痛い痛いと言いながら原稿を書く。疲れた。
しかも翌日(というのはこれを書いている本日ですが)は五反田の病院で朝から検査と診察を受けなければいけなくて早起きなのである。っていいながら、何時にこれ書いてるんだ。もっと細かく選考会の過程など書きたいが(もちろん書けないこともいろいろあります)、時間がないので、後日。アゴが痛いのである。

(7:12 Jan. 27 2009)

Jan. 23 sat. 「戯曲を読み終えた」

戯曲を読む

戯曲を読み終えた。白水社のサイトで確認すればおわかりのように(岸田戯曲賞、今年の候補作のページはここ、今回の候補は九作である。それをようやく読み終えた。いろいろ考えることがあった。詳しくは発表があるまで書けないが、その話はまた、あとで。
金曜日(22日)は新宿の和食の店で、新潮社のN君、M君、Kさんに会って食事をする。魚が美味い。脂分とか、塩分のことを考えてくれ、Kさんがセッティングしてくれたさっぱりした味の店だが、ことのほか美味しい。しかし、あれだな、食べることに積極的に興味を持たないせいか、編集者の人たちが連れて行ってくれる店へ、もう一度、行こうと思ってもすぐに忘れる。だいたいこういったノートに店のことをちっとも書かない。あと、料理をデジカメで記録しようと思ったときもあったが、気がつくと100パーセント食べたあとで、写真が撮れないのだ。どういうことなんだそれは。以前、三坂が僕のノートを元に「ユリイカ」の特集号に原稿を書いたとき、ノートに出てくる料理がたいていラーメンかトンカツなのはなぜかと問われたが、それ以外ははっきり覚えられないとしか言いようがない。じつはけっこう食べていますよ、この歳にもなると、おいしいものを。だけど覚えられないのだ。書こうと思ってもうまくグルメな言葉が書けない。
食事をしながら小説の話などをする。もう一篇、150枚ほどの短い小説を書いて、以前「新潮」に掲載した『返却』と合わせ、両A面のような単行本にしましょうという話になった。今年の夏にかけては、白水社から出す予定の「都市空間論」の単行本化と、この小説で忙しくなりそうだ。あと、夏には来年の遊園地再生事業団の公演に向けプロットも書く。早く夏が来ないかな。釣りにも行こう。キャンプもしよう。フェスにも行きたい。去年の夏は二ヶ月、まるまる病院だったので、夏らしい修行ができなかった。今年は夏を満喫するっていうか、修行のために汗をだらだら流したいのだ。ああ、夏が楽しみだ。春はもちろん、お花見だよ。

で、新潮社の三人とは、いろいろな話題になり、ことのほか楽しい時間を過ごすことができたわけだけど、「イオンレイクタウン」や、「IKEA」「コストコ」をはじめとする大型量販店問題について語りだすと話がつきない。ほかにも、「不思議ちゃん問題」も話し合い、なぜ、「不思議ちゃん」はある程度許されても、「不思議君」はだめなのかについて考える。いやだよ、断固いやだよ、不思議君。
あと、このあいだ書こうと思ったのは、先に引用した、「不思議ちゃんの系譜」という記事で、「少女性」について論考するにあたり、ルイス・キャロルをとりあげているが、アリスはけっして不思議ちゃんではないことだ。彼女は「不思議の国」に行ってしまっただけだからである。それと、たしかあれは、白水社のW君から聞いた話だったと思うが、文学における「少女性」についてはエドガー・アラン・ポーが、ルイス・キャロルよりはるかに早く着目している。たしかどなたかが語っていたのをW君が教えてくれた話だった。それによると、ポーはいかに小説を書いて生活するかについて分析し、過去からの物語に通底するもの、普遍的なるものとしての、また、人の気持ちをひく魅力的な存在としての「少女性」を発見したというのである。
たとえば、なんだろう、ギリシア悲劇のアンティゴネやイスメネだって、それを「少女性」と呼んでいいかわからないが、ともあれ魅力的な存在だし、『ハムレット』におけるオフィリアだってそうだ。そして、ポーはキャロルより少し前の世代の人だが、調べたら27歳のときに、13歳の少女と結婚している。驚いた。なんだいったい、おまえは。俺は中学生のときポーの小説を夢中になって読んだが、そんなことはまったく知らなかった。周囲の反対を押し切ってポーは結婚した。阿部和重君の小説よりはるか過去におそるべき先人がいたのである。そしてまた、このことをさらに先へと話を進めれば、「KAWAII」の世界的な流布という現象にも通じる話になるだろう。そういったことを考えるのも面白い。来年度の「サブカルチャー論」の課題にしておこう。

さて、戯曲を読み終えた。
これから選考会に向けてノートをまとめる作業をするが、なにかの偶然なのか、ある傾向の作品ばかりだったのが印象に残った。もちろんその傾向は近年、続いていたが、それが飽和点に達したとでもいうか。語られている「お話の傾向」と、どう語るかという「表現の傾向」はもちろん異なる。けれど、一部をのぞいて「表現の傾向」はきわめて現在的なものの、なんでそんなに、ってくらいみんな「家族」を問題にしている。しかも、細密に、過剰に、グロテスクに。おそらく「家族」を細密に見つめれば誰もがグロテスクなものを感じるだろう。なにしろ、おかしいからね、家族ってやつの仕組みは。子供とは血が繋がっているけど、夫婦は繋がっていない。夫婦の関係は、あるとき突然、終わるかもしれないが、親と子の関係は血によってどこまでも続く。血縁がもたらす物語たち。それこそ、ギリシア悲劇から変わらずに存在する普遍性だ。
なぜなんだろう。いま、なぜこんなに、「家族」なんだろう。僕は、そうしたグロテスクさを見つめるのがいやでいやでしょうがなくて、これまで舞台を作っていたように思う。ところが、それを新しい書き手たちが、また異なる方法、それぞれが工夫した新しい語り方で書いているのを読むと、つくづく感心する。だから、面白かった。もちろん評価は僕なりにつけるけれど、戯曲を読むよろこびを強く感じた。今年はかなり充実しているのではないだろうか。

(11:45 Jan. 25 2009)

Jan. 21 thurs. 「戯曲を読む。そして高円寺」

座・高円寺

この五月にオープンする新しい劇場、「座・高円寺」に行った。写真は館内の様子。それというのも、「座・高円寺」は公共劇場として演劇人を養成するシステム「劇場創造アカデミー」を立ち上げることになっており、九月から僕は、そこで講義を受け持つからだ。
かつて京都造形芸術大学の芸術センターにいらしたSさんと、その講義の内容などについて打ち合せをする。そのあと、劇場を案内してもらったが、すごくいい劇場(設計・伊東豊雄)だ。駅からのアクセス(近い)もいい。稽古場もとてもきれい。もちろん、まだ新しいってこともあるだろうけど、使いやすさを感じた。でも、稽古場が廊下に面してガラスばりだったのには驚いた。丸見えだよ。いいんだけど。まあ、これからカーテンを付けるそうなので、実際に使うときには見えないのだろうけれど。
以前は、世田谷のパブリックシアターにいた、Iさんにもお会いした。Iさんとはかつて、何人かの劇作家らとパリに行ったとき一緒だったが、松田正隆君とIさん、それと僕、三人で深夜、セーヌ川沿いを歩いたのがとても楽しかったのを思い出す。あのとき笑ったんだよなあ、松田正隆のホテルの部屋のカードキーが効かず、まったくドアが開かなくなり、三人でいろんな方法でカードを挿入したのだった。ゆっくり、降ろしてみるとか、逆に、さっと降ろすとか、結局、新しいカードを作ってもらったのだが、おかしかったなあ、なぜか、なにかあるときは松田正隆だったのだ。パリの地下鉄でスリにあったのも、松田正隆だったし。

ともあれ、新しい劇場になんらかの形で関われるのはとてもうれしい。しかも、高円寺ってところがいいな。いま注目している街だし、この街からなにかふつふつ沸き立っているものがあるように思えてならないのだ。僕の講義は「戯曲の読解」だ。二時間の講義が10回ぐらいあると知って、これはまた、この講義のためにあらためて戯曲を勉強しなければと思ったのである。たいへんだけど、やりがいがある。
そして僕は、戯曲を読んでいる。岸田戯曲賞の候補作だ。面白いなあ。何作か読んでいるうちに、なんでみんなこんなに面白いっていうか、うまいのかと感心しきりだ。「面白い」のがいいか、「うまい」のがいいか、判断はいろいろだし、そもそも、「面白い」「うまい」の質の問題もあると思うけれど、このくらいレベルが高く、そして現在と闘っている戯曲たちと出会えるって、とても貴重だ。現在と向かい合う戯曲はぎりぎりと音をたてているようにすら感じる。戯曲って面白いな。なんでみんな読まないんだ。面白くてしょうがないよ。
まあ、具体的なことはまだなにも書けないし、選考の日まで感想は封印しておきますが、「座・高円寺」での講義のためにも、もっと戯曲が読めるようになっておかなければ。というわけで、ほかにもいろいろ、クルマでFMラジオを聞いていたら知っている者が出てきたとか、さらに不思議ちゃん問題とか、ほんとはガザ地区のことにも触れたいとか書きたいことはあるけれど、ひとまず、きょうはここまで。戯曲を読むのだ。ただただ、戯曲を読むのである。

(10:58 Jan. 23 2009)

Jan. 20 tue. 「不思議のこと」 ver.2

交差点

セゾン文化財団のパーティがあったのは19日の夜だ。去年、はじめて足を運んだが、そこで関西の若手劇団の人たちに会うことができ、とても面白かったので今年も出席した。誰かに会えるかなと、期待して。
京都を活動拠点にしている「地点」の三浦基君と会った。去年、「地点」が吉祥寺シアターで公演したとき、アフタートークで話して以来だ。それで三浦君から、「身体論だけではなく、政治論を書くべきだ」という意味の言葉をかけられ、いま演劇において「政治論」はどうあるべきかについて話す。それも興味がありなにか機会と場所があれば書いてみたいと思ったが、なにより、そうした話ができることがうれしかった。さらに、「鉄割アルバトロスケット」の戌井昭人君とも話をしたが、戌井君はそうとうくだらない。ものすごくでたらめな感じだ。またべつの意味でとても面白かった。といったわけで、三浦君とは「政治論」について、戌井君とはくだらない話ができ、ほんとによかった。あまり話ができなかったが、大阪で活動している「dracom」の筒井潤君とも会った。筒井君はなんどか、わざわざ大阪から僕の舞台を見に来てくれた人で、そのたびなにか彼の言葉に励まされるのだけれど、なんといっていいかよくわからないほど好青年だ。
あと、「地点」の制作をなされている女性が(お名前を忘れてしまい、いまたいへん失礼だと思いつつこれを書いている)、話をするととても楽しい。彼女のお母さんが、『ニュータウン入口』に出た杉浦さんのお友だちだそうで、僕とはほぼ同世代(杉浦さんも彼女のお母さんも僕より一学年上)。とはいっても、一学年上っていうのが、感覚として、とても微妙な感じがする。というのも、だいたい学校で先輩としていたわけでしょ、そういう人たちが。で、いまでこそ同世代としてくくれるものの、学校という場所では一学年上ってのはたいへんなことだったと思う。その感覚がいまでもなにかある。

で、本日は、遊園地再生事業団のミーティングを僕の家でやった。上村と田中、それから何人かが加わって話をする。今後の予定について。いくつか曖昧だったことなどはっきりさせ、今後の活動に生かすことができるように話を詰める。まだ、完全ではないし、今年の遊園地再生事業団は、活動のための基盤を再構築するのが主な予定だ。みんな苦労しているのだろうが、舞台を作るのはとにかく大変だ。
じゃあ、大変だ大変だと言いつつ、なんでそんな苦労をするのかって話になるが、まあ、たいていみんな舞台が好きだからとしか言いようがないのだろうけど、ただ、舞台ほど、自分の思った通りにやれる表現もあまりないと思う。あるいは、三浦基君と話したように、たとえば「政治論」を舞台を通じて語り出すことができる。なにも「論述」ではなく、舞台表現として語り出すことだし、舞台を作ることそれ自体が「政治論」として思考することになるだろう。作るというのはそうした過程のことにちがいない。もちろんどんな表現領域にもそれはある。しかもさまざまな意味で自由な表現としての小説がある。だったらやはりなぜ舞台なのか。ただ、俳優が好きっていうのはかなりあって、これまでどれだけの俳優と仕事をしてきたかわからないけど、それぞれの人との仕事が私にとっての大事な財産だ。
途中、借りていたDVDを少し観た。きのう書いた坪田直子さんが一九七六年に出演していたテレビドラマだ。いったい、「不思議ちゃん」という概念は誰がいつ発見し、そう言葉にしたものなのだろう。ドラマのなかの坪田さんは、どうみたって「不思議ちゃん」だが、当時はそんな概念はなかったと思う。それで七六年というのはこれまでの人生のなかで、僕にとっては、記憶から消したいほど暗い時期だったので、坪田さんのテレビドラマもほとんどリアルタイムで観ていない。というか、テレビそのものをほとんど観ていなかった。その翌年、大学を休学し帰郷していたころ、回数は少なかったと思うが田舎で観ていたんじゃなかったかな。「坪田直子」という名前をそのドラマで知ったとしか考えられないからだ。やはり魅力的だと感じていたはずだ。はっきり記憶に残っているのだから。

ともあれ、いまは、「不思議ちゃん」という概念が問題である。繰り返すようだが、いったい、誰が作ったんだ、この言葉は。このサイトの記事「不思議ちゃんの系譜」において、筆者の四方宏明氏は、「80年代によく使われていた記憶はないので、多分90年代になって認知・使用されるようになった言葉と推測します(もし、その具体的な起源についてご存知の方がおられたら、教えてください)。」と書いている。さらに、

不思議ちゃんとは、人によっては否定的な意味で使われる場合もあり、他人に不思議ちゃんと呼ばれる事を快く思わない不思議ちゃんもいるようです。しかし、不思議ちゃんが魅力になっている人もいるわけで、ここではできるだけ中立的立場で不思議ちゃんについて研究したいと思います。

 と記されている。たしかにそうだ。あまり「否定的」に使いたくないし、そもそも、いろんな種類の「不思議ちゃん」がいて、否定的にならざるをえない場合もあれば、魅力的だと感じるときもある。簡単に結論づけられない。
あと、たとえば坪田直子さんに「不思議ちゃん」と、「ちゃん」呼ばわりするのは失礼だろう。私より、やっぱり一学年上なのだから、「不思議先輩」と呼ぶのはどうか、と思ったけれど、なんだか「鼠先輩」みたいだ。ところで、遡れば、演劇界において「不思議ちゃん」の系譜は数多く見られ、よく知られているところで吉田日出子さんの存在はどうだ。あきらかにその系譜の一人だ。先輩どころか、あの方はむしろ、「不思議大先生」だ。「不思議大将軍」と呼んでもいい。なんなら、「不思議無敵艦隊」でも、「不思議大明神」でも、「不思議大統領」でもいい。
先にあげた、「不思議ちゃんの系譜」という記事に取り上げられた人たちのなかで、私はきっぱり、「戸川純さんのファンだった」と言いたい。だが、ファンだったからこそ、実際に会うと失敗してしまうもので、『彼岸からの言葉』に入っているエッセイに書いたはずだが、なにかまずいことを戸川純さんに言って怒らせてしまったことがある。すごかったね、あのときの戸川さんの怒りっぷりは。このことからわかるのは、「ある種の不思議ちゃんを怒らせるとたいへんなことになる」という教訓だ。まあ、みんながみんな、そうじゃないと思う。つまり、「百人の不思議ちゃんがいれば、百個の不思議がある」だ。こういう本、出そうかな。百人の不思議ちゃんに会って話を聞くという本。たいへんだぞ、不思議だけに。

岸田戯曲賞の候補作を読む。ぐったりするほど考えることが読む作業のなかで生まれる。いい仕事をさせてもらっているとつくづく思うのだ。「岸田戯曲賞」という緊張感があり、緊張感が読む側に作品から受ける感慨とはべつのなにかを与える。

(23:16 Jan. 21 2009)

Jan. 18 sun. 「いろいろだった」

新宿

今年度の大学の授業が終わった。後期は休講をいちどもしないで授業ができてなによりそれがよかった。
いろいろなことがあります。
木曜日の「サブカルチャー論」が終わったあと、学生の一人がやってきて、「むかし、タイレルコーポレーションにいた川口真央の娘です」と言うので、たいへん驚いたわけだが、「タイレルコーポレーション」というのはいまは映画監督でもある、映像作家の中野裕之がかつて代表をしていた会社だ(言わずもがなだけど、映画『ブレードランナー』からの引用っていうか、そのまま使った名前)。川口さんも映像作家。たしか一度、といってももう20年ほど前だが、川口さんのお宅に行ったことがある。そのとき赤ん坊だったか、小さな子どもを見たような記憶がある。となると、それがこの学生かと思って不思議な気分になった。ずいぶん時間が経ったのだな。時間の奇妙さにめまいがする。

20年ほど前というのは、つまり、八〇年代だ。わーわーとにぎやかで、ひどく楽しくもあったし、またべつの意味では苦い記憶もある時代。タイレルコーポレーションは西麻布の交差点、当時は「霞町の交差点」と呼ばれた場所の近く、雑居ビルの最上階にあった。同じフロアには、いとうせいこう君の事務所もあって、中野さんと仕事をすることが多かった僕は、しょっちゅう行っていたと思う。そのころ中野さんと「パックンたまご」というタイトルの子供番組を作った。テレビ朝日だ。あまり一般的ではなかったけれど、ミュージシャンとか、そういった人たちに人気があった。朝の番組だ。いま考えれば、早起きのミュージシャンというのもどうなんだと思うけれど。「サブカルチャー論」の最後の授業は「八〇年代」について語った。だから、川口さんのお子さんが声をかけてくれたのはとても奇妙な偶然だと思えた。
授業では一九七七年の前後、パンクロックが出現して音楽の世界が変わり、それから八〇年代にかけてニューウェーブと呼ばれる文化的な潮流が席捲した時代についての話をした。よく書いたり話したりすることだけど、七七年に僕は大学を休学し、一年間、田舎に帰っていた。東京に戻ったのは78年。するとキャンパスの雰囲気が一変していた。みんな髪が短くなっていた。なにごとが起こったのかと驚いたが、それがパンクの出現だったし、ニューウェーブのはじまりだった。僕が演劇を見はじめたのはそれからだ。
僕は遅れて来た観客だ。かなり遅れて黒テントを観はじめた。ほかにも数多くの劇場に足を運んだ。いくつもの舞台を観た。

友人たちは東京キッドブラザースを観に行っていたようだが、僕はなぜか興味を抱かず、一度も行ったことがない。一度くらいは観るべきだったといまでは思う。
ただ、『ピーターソンの鳥』というキッドブラザースの映画は観た。いま調べたら『ピーターソンの鳥』は七六年に公開されている。その年に観たはずだが、申し訳ないことに内容をほとんど覚えていないし、キッドブラザースの舞台に足を運ばなかったのは「演劇」そのものに興味がなかったせいだろう。映画ばかり観ていたころだ(あくまで、「演劇」に興味がなかったのは、77年まで。78年には夢中になって劇場を回っていた)
八年前、そのころの友人が死んだ。ガンだった。まだ四十代の前半だった。ガンが見つかって二ヶ月ほどで死んだと聞いて驚かされた。友人はキッドブラザースが好きだったし、舞台をよく観ていたが、なかでも「坪田直子」という女優のファンだったはずだ。その坪田直子さんについて書きたいがまたあらためてにする。長くなるからだ。

金曜日の「都市空間論演習」には、東工大で建築を勉強しているS君が来てくれた。その日のテーマは、ここまで何度もフィールドワークに行ったことを書いたように「ショッピングセンター」だ。S君の研究課題が、まさに「ショッピングセンター」なので、白水社のW君が声をかけてくれたようだった。学生たちの発表もよくできていたし、いくつか考えるヒントをもらったが、さすがに時間がなくて、発表を受けて僕が話をし、それからS君に少し話してもらったら、もう授業の時間が終わっている。90分は、長いときは長いのに、こういった日に限ってひどく短い。「ショッピングセンター」ってテーマがそもそも、いま語るとき、どうしたって人を饒舌にさせるのかもしれない。まして、学生たちがフィールドワークした「イオンレイクタウン」はほんとにばかでかかったし。
六限の「サブカルチャー論演習」を終えて、後期の授業はすべて終了。あとはレポートを読んで成績を付ける。終わってからまたみんなで研究室に行った。S君も話しにくわわってくれたが、学生の話のスピードが速くて、いま、S君が自分が育った北千住の話をしたと思ったら、なぜか次の瞬間にはべつの話題になっており、なにがきっかけで話が変わったかよくわからないほどの速さだった。金曜日は僕の授業のTAを卒業生のKがやっている。Kは、自分では普通の速度で動いているつもりだけど、客観的に見ると、とてもゆっくりだ。のんびりしている。いま、目の前で進行している、あまりもな話の速度に、いまにも倒れそうになっていた。あとで東工大のS君に聞いたのは女子高生に取材をしたときの話。取材をしている途中、興味のない話題になると女子高生は、まったく関係のない行動をはじめるという。学生のなかでも、女子はそういった傾向がやはりあり、興味のない話にはまったく無反応になるどころか、べつのことをはじめたり、横にいる者と話しはじめたりと、女子高生のままだ。Kが倒れそうになるのもいたしかたない。
大学の授業はひとまず落ちついた。授業の準備をするのは大変だったけど、話をしているのは楽しかった。「サブカルチャー論」にしても、「都市空間論」にしても、話をもっと深めることができたはずだ。勉強しとかないとな。

で、17日は「岸田戯曲賞」の候補作を読んだ。きょう(18日)は「ENBUゼミ」で話をする。MacBookから映像を出すにはコネクタっていうのか、プロジェクターとコンピュータをつなぐケーブルのあいだに必要なものがある。あちらで用意してくれたというので、うっかりしていたら、コネクタの形状がちがうので使えない。いろいろ試行したが、考えているより、買いに行ったほうが早いんじゃないかってことになり、授業の途中で秋葉原に買いに行った。いま「ENBUゼミ」は「お茶の水」にあるので秋葉原は近い。結局10時半ぐらいまで授業。長い一日になってしまった。秋葉原にはクルマで行った。そのときサポートしてくれた「ENBUゼミ」のO君は、僕の舞台のオーディションを受けたことがあったという。
ENBUゼミ」には、今年も、たくさんの人が受講に来ている。俳優を目指して勉強している。きょうの授業が芝居をすることにとって少しでも手がかりになればと思う。早稲田では、演劇に関する授業が少ないし、演劇をやろうという学生と接する機会が少ない。実作者として、そういった学生にも話ができたらいいと思うけれど、まあ、いよいよ忙しいことになってしまう。人がいいのも考えものだしな。
こうして日々はせわしなく過ぎてゆく。戯曲を読もう。とりあえず、それが目下の大事な仕事。ひとつひとつ、不器用な手つきでやってゆく。それしかできないし。

(6:36 Jan. 19 2009)

1←「二〇〇九年一月前半」はこちら