富士日記 2.1

Aug. 31 mon. 「とうとう八月が終わった」

繰り返すようで申し訳ありません。『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』のチケットは絶賛発売中。詳しいお知らせはこちらのページへ。直接、チケットをお求めくださる方は、ルアプル・チケットショップ

八月も終わった。完全に夏も終わりになった。ただ残暑はつづき九月になってもまだしばらく蒸すと天気予報士は言う。稽古は今月の16日からはじまっていた。六月の「リーディング公演」で使ったテキストを書き直し、また新たな部分を書き足し、もちろん演出がちがうから舞台の様子はぜんぜんちがうものになっている。いまは試行錯誤。こうと決定するのではなく、あれこれやってみる。
きょうの稽古は東急線二子玉川駅から少し行ったところだ。といっても僕のクルマは稽古用の機材車だ。クルマで向かった。荷物を積んで重量が重くなっているせいかいよいよ燃費が悪くなっている。申し訳ないです。こんなエコの時代になあ……しかし、若いときにさんざんぱらクルマ乗ってたくせに、いまごろになってエコと言いクルマを否定する人はいったいなにごとだ。反省してるってことか。わからんな、まったく……、で、作品は少しずつ形になってゆく。
やっぱり、やついは面白い。なにがっていうわけではなく面白い。ただ、今回はキング・オブ・コントの決勝に進んだエレキコミックのやついいちろうではなく、「俳優のやついいちろう」を見てもらいたいのだ。というのも、リーディング公演をやって感じたのは、この人の俳優としての魅力であった。それがもっと出てくるといい。だから、さらに細かく演出し、しつこいくらい注文をつけ、俳優としての魅力、いい側面を引き出す稽古をしなければと考えているのだ。それにしても大丈夫だろうか。やついの長台詞だ。長いんだよ。すごく長い。死んだ気になって覚えてもらいたい。でも大丈夫だろう、台詞って、なぜか俳優は覚える。まあ、それが仕事のひとつなんだけど(と話していたのは岩松了さんだが)、その長い台詞のなかから、やついの魅力が出現すればいい。

少しづつだが前へと行こう。いや、後退しているのかもしれない。「進歩」や「前進」が信じられなくなって久しい。だから演劇を概観していると、ときとしてそれは「あたかも新しい」ようでいて、過去の表現に近いという作品群に出会うことはままある。誰かが、どこかで、それはやっている、ということはしばしばあり、というのも、演劇は記録として明確に残されないので、過去がよくわからない。たいていのことは試されている。新しいなんてことは「表層」的にはほとんどない。面白そうなことはたいてい寺山修司がやっている。リビングシアターがやっている。カントールがやっている。リミニプロトコルがやっている。……がやっている。「こけおどし」なんかいまではなんの役にもたたない。だから現在を描くのにふさわしい方法を模索する「その手続き」だけが新しいにちがいない。あらためて「ドラマツルギー」について問うこと。現在性にふさわしい「からだ」のことを考えること。あるいは「演劇の技法」を突き詰めること。
そしてまた、「あんなのべつに新しいことじゃないよ」と人から非難されたら、「べつに新しいことなんかしようと思っていないよ」と応接しよう。反論しよう。「新しいことじゃない」と否定する者こそが、「新しいもの」という幻想に惑わされているのだから。
今年の岸田戯曲賞の選評で僕は、神里雄大君の『ヘアカットさん』について次のように書いた。

 戯曲の決まりごとを覆そうと意図しようとすること、演劇という括りそのものを異化し、ふざけた態度を貫こうするのは魅力的なふるまいだ。けれど、それらはすべてあらかじめ〈演劇〉によって〈容認〉されてしまうことを彼らは知っている。こうした種類の戯曲、あるいは演劇という制度からずれてゆこうとするスタイルはある時期から困難になった。演劇だけではない。現代のあらゆる種類の表現領域で発生した事態だ。すべてはたやすく〈容認〉されるのである。

 では、「演劇の技法」を突き詰めるというより、「うまい」をより洗練させ、エンターテイメントとしての演劇が支配してしまえばいいのだろうか。否定はしないが、それだけでもつまらないと僕は思っている。よくわからないことを試みる「ばかものたち」を支持したい。「あ、そんな演劇へのアプローチがあったか」と、たとえば近年ではチェルフィッチュの岡田利規君がそうだが、そう驚かせてくれる舞台に出会いたい。それはすでに、〈演劇〉によって、〈芸術〉によって「容認されている」から、いまではファッションになる危惧も一方にありつつ、しかし刺激的であり、ある種の大きな劇場で公演される「劇」ともまた異なる種類の表現だ。

正直なところ、はじめ『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』の戯曲を書きながら、これといって展望のようなものははっきり浮かんでいなかった。リーティングがあり、そしていま稽古しつつ、俳優のからだからさまざまなことを喚起される。なんでこの人は下手なのか、じゃあ下手ってなんだ、うまいってなんだって考えるだけでもそこに重層的な「問い」が織りこまれている。
そして、劇を書くことの〈愉楽〉はやはりある。書いているうちにそれが少しずつわいてくるとき、書くことはつくづく身体的だと思える。もちろん繊細な「書くことの技術」は要求されるが、なぜそう書かれたか、よくわからないうちに、からだは、それを記している。だから面白い。こんな結末になるなんて想像もしていなかった。
あと、今回のチラシをまだ見ていない方は、どこかで手に入れてください。「座・高円寺」には置きチラシがあると思うんだけど、鈴木理策さんの写真がとてもいいです。タブロイド判の新聞のような体裁のチラシです。それにしても、八月が終わる。夏が遠ざかる。来年の七月が楽しみだ。

(6:20 Sep. 1 2010)

Aug. 30 mon. 「稽古がはじまって、そして」

『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』のチケットはすでに発売されています。詳しいお知らせはこのページへ。直接、チケットをお求めくださる方は、ルアプル・チケットショップ
稽古は少しずつ進んでいますがべつに形を作るために進めているわけではなく、そこになにかクリエティビティがないとつまらない。やりながら考える。動きながら作る。もちろんテキストはあるし、その通りに稽古をしているけれど、ふと、こういうときどう動けばいいか悩む。とくに「インタビュー」の場合、人はどう動くのか。いや、べつにリアリズムについて考えているわけではない。しかし、ふつう人はどうしているか考えればインタビューされる者にさしたる動きはない。ことさら動かない。ジャンプなどするはずもなければ、踊らない。
また今回のもうひとつの狙いである「朗読の劇」として考えたとき、「朗読者」は動くだろうか。なにしろ「読んでいる人」ががむしゃらに動く姿を私たちはあまり知らない。そんな人を見ることはほとんどない。そもそも「朗読」とは声に出す行為のことで、「読む(=黙読する)」とは異なるとき、「声に出して人に向かって読む者」はそれなりにパフォーマティブであるはずだ。だが、「読んでいる人」が、「読む」以外のことをするのは奇妙だ。読むのにどんな奇妙さがあるか。考えればいくらでも出てくる。その「奇妙さ」は表現として正しいか。
一方、その「奇妙」な人の行為こそ、「演劇的」とする考え方、あるいは「演劇観」がある。それを認めよう。それを正しいとしよう。なにしろ私たちがやろうとしているのは、「ドキュメンタリー」や「写実」「リアリズム」ではなく、ある特別な時期に出現し、その後の<演劇>を変革し、大きな影響を与えた現代演劇以後の表現だからだ。そこからは逃れられない。後戻りもできない。だが、かつての「なにかを行為しなければならない演劇」がいま陳腐になっているとするなら、そこで考えるべきは「行為の内実」である。どう「行為」するかだ。かつて私は「なにもしないこと」が、あの「陳腐さ」から逃れる手段だと考えていた。それはいまでも正しいと思っている。それもやはり歴史的に存在したのであり、そのように考えることを通じてまず「演劇性」と呼ばれるものの中身をあらためて考えていた。なにかしなくちゃいけないと思いこむ者の「表現ばか(そいつらはたいていやけに目に力が入り、ひんむいている)」と、「表現ばか性」への断固たる否定だ。
では、いま必要な演劇としての「行為の内実」とはなにか。つまりここだ。「行為」だ。どう「行為」があるかが問われる。否定から逃れるための表現はどこにあるか。過去に戻ることは許されない。しかし、過去を参照しつつ、現在を描く。いかに現在を描くのにふさわしい方法を見い出すか。

とはいっても、『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』がその解答になるとは思えない。試みです。べつのなにかをするための上演です。チラシに書いた文章をここに再録します。

 そんなことを口に出してもしかたありませんが、演劇についてのノートを書きます。なにを言い出したんだと思われるかもしれませんが、ま、話を聞いてください。
 それでまず、新しいノートを用意します。最初のページに、いま表現しようとしている言葉や、ちょっとした記号や図、線が描かれ、そうした思いつきのような「記されたもの」が作品になってゆく。けれどそれは、「劇」あるいは「ドラマ」と呼ばれるような作法ではあたりまえの、プロットとか、箱書きといったものではありません。よくわからない思いつきです。作品にはまったく関係のないイメージの羅列かもしれません。言葉をまとめたノートを「演劇論」と言葉にしてもいいけれど、それほどおおげさなものでもありません。おおげさにふるまえばふるまうほど、結局、なにも書きだせないし、私がやろうとする試みにはふさわしくないでしょう。かといって、「ノート」と軽い言葉にすることで、向かい合うべき演劇の課題から逃げるわけでもありません。
 ともあれ、これはノートです。
 こっそり私のノートを盗み読みしてください。そんなとき、たいていなにが書いてあるのかよくわからないものです。なにしろノートは自分のために書かれるものだからです。ただ、そのこと自体、盗み読みされること自体が「パフォーマンス(=表現すること)」だとしたらどうでしょう。盗み読みされるような場所にノートを置き忘れたのです。意図的にそうしたのです。誰かにこっそり読んでもらおうと思ってそうしました。
 結局、やり方の問題です。そこに向かう道筋のちがいでしょう。演劇について考えていることを少しずつまとめるささやかな作業です。体系的にまとめられ、固定されたメソッドとしてあるのではなく、日々更新されるため、毎日なにかしら思いついたことを記録するためのノート、あるいは、作業場で俳優たちと作業した記録をまとめたノート。
 それをこっそり読んでください。
 作品がそのようにあればと願っています。
 手がかりは、『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』というタイトルです。ノートの表紙に、ふと思いついてそう記しました。名前からイメージされる演劇があると信じ、そこから広がる世界から、演劇そのものへと近づこうと。

 ──眠いってなんのことですか? 思い出せない。眠いという感覚が思い出せない。どんな気持ちでしたっけ? どんなふうに人は眠くなるんですか?
 まったく眠れなくなった男はその質問を何人かの者に問う。手にはビデオカメラ。まるでドキュメンタリー映画のようにカメラは人を追い、インタビューのように質問は続く。問われた者らもまた、睡眠の病を患っている。いや、いまではごくあたりまえのように誰もが睡眠異常だ。不眠症の女が語り出す。
 ──まぶたが重くなるの。すーっと意識が遠ざかるっていうか。
 ──それ、その感じ、どこからやってくる?
 ──わたしのなかから。
 ──でも、眠れないんだよな?
 ──眠くはなるの。眠らなくちゃって思うの。眠ろう眠ろうとずっと思い続ける。眠りたいの。眠りたくてたまらないの。だけどそう思い続けると、よけいに眠れなくなる。
 ──だったら一緒に起きててくんないか。俺と。まったく眠ったことがないんだ。夜、みんなが寝静まったあと、誰とも話をすることができない。ひとりだからさ。最初はそれもいいかと思っていたけど、それがずっと続くと、つまらないんだ。
 ──わたしは眠らなくちゃならないの。
 ──なぜ?
 ──仕事があるのよ。次の日も生きていかなくちゃならないでしょ。
 ──だから眠れるのか?
 ──眠れない。

 眠っている人の姿はたいていおだやかです。
 死んでいるのではありません。ただ目を閉じ意識を遠ざけ休んでいます。眠っているあいだ、人はなにも活動していないかのように見えますが、そんなことはけっしてありません。眠っているあいだに、あるいは、ベッドにもぐりこみ眠りにつくまでの時間のなかで、人は活動しています。
 消極的に、しかし活発に人は眠りを通じて生きている。
 もう一度、書きます。
 演劇についてのノートを書こうと思うのです。作品という名前のノート。いま考えていることが、新しいノート『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』に記されています。どうかこっそり読んでください。すごくわかりやすい場所にノートを置き忘れておきますから。

 以上です。ぜひ舞台を観に来てください。またべつの遊園地再生事業団を見てください。なにしろ遊園地再生事業団も結成から今年でちょうど20年になりました。節目の年です。これもなにかの縁です。2010年。

ブログも、稽古の模様をこまめに更新してゆこうと思っています。
今度こそは約束を守ります。ご期待ください。

(4:52 Aug. 31 2010)

Aug. 4 wed. 「もう夏は終わる。八月は夏の終わりを告げる時期だ」

ようやく大学の課題のレポート類を読み終えて一息ついた。これから成績をつける。ミスがないように慎重にやらなくてはな。学生から成績に関して異議を申し立てられ、いくつか、まさに指摘された通りのまちがいがあった。単純な確認ミスだったのだ。
さて、大学のことばかり書いているのもなんである。まあ日々の大半が大学の授業のこと、その準備、学生とのつきあいで過ぎているのでどうしたって書くことはそこになってしまうが、創作についてもっと考えるべきであった。だから、太田さんの言葉を反芻し、そこからなにかを学ぼうという姿勢が大事だった。しかしそれも授業のなかで再認識したのだから、いかに大学に依存しているかと思う。そしてまた、大学の授業で話すことで新しいことを思いついたりなど、どうもそっちのほうに意識が向いている。
けれど、『ジャパニーズスリーピング/世界でいちばん眠い場所』の稽古ももうすぐはじまるし、そのための準備をしなくてはいけない。じつはそのためには、戯曲に先だって小説を書こうと計画していたが時間があまりない。小説に苦しんでいたのだ。なにもかも忘れ、小説に集中すればいいが、あっちにふらふら、こっちにふらふら、どうも落ちつかず、しかもそれが楽しいからいけない。大島渚について、映画監督の冨永君と、清澄白河の「SNAC」でトークライブをやったのはとても楽しかった。そのために大島映画を編集し、さまざまな視点から大島映画をあらためて読む試みをしたかったのだ。またべつの発見があった。勉強になった。その作業が財産になった。

レポートを読んで成績をつける仕事をとにかく早めに片付けて、小説と戯曲の仕事に取りかかろうと焦っていたのだ。来週はそれ以外の仕事を一切、休んで集中しよう。今週からそうしたいが、予定はいくつかある。夏休みはほとんどない。考えること。もっと集中して考えること。まあ、そんなことをこのノートに書いても仕方がない。
もちろん中断している本も読みたい。たとえば、先日送ってもらった、『ヒップ──アメリカにおけるかっこよさの系譜学』(ジョン・リーランド/篠儀直子、松井領明 訳/ブルース・インターアクションズ)も途中になっているので読みたい。じつに面白いしためになる。これがなあ、もっと早く翻訳されていたら、拙著『東京大学[80年代地下文化論]講義』ももっと充実しただろう。
でも、じつは翻訳の篠儀さんからちらっと聞いたところによると、これが刊行されたきっかけは、編集の方が、「80年代地下文化論」を手にし、「かっこいい」について考察している部分を読んで翻訳に踏み切ったということで、じゃあ、しょうがない。順序が逆だ。とてもうれしい話だったのだが。でも、「かっこいい」という概念は学問的に語られることなどなかったのだから、これをきっかけに文化研究の領域で、日本でもまとめてくれる人がいてくれたら嬉しいが。

今週も忙しかった。まあ、先週からずっとレポートを読んだり、テストの採点をしていたが、まあ、読んでも読んでも終わらなかった。果てしなく続くんだ。すごい数だった。とはいえ、もっと読んでる教員の方もいるだろうから、申し訳ないようなもんだが。そのあいだにほかの仕事もいくつか。ゲラチェックとか、「演劇ぶっく」の取材を受けたり、きちんと最近はしごとをこなしている。
病院の予約はつい忘れる。だめだ。このままでは死んでしまう。
先週の火曜日(7月27日)は「新潮」のM君とKさんに会った。いろいろアドヴァイスを受ける。あがいているのである。書けないのである。だめである。
テレビの出演はむいていない。なぜ俺を呼ぼうとするんだ。もう出たくないよ。スタジオの空気にどうも慣れないのだ。あれは特別な人たちがする仕事なのだろう。なにかを書くことを仕事にし、それに集中し、なんでも器用にできるわけではなく、ただ愚鈍に生きてゆきます。

もう八月だよ。いやだな。夏が終わるんだ。八月になれば、もう夏は終わってゆくんだ。

(8:45 Aug. 5 2010)

7←「二〇一〇年七月前半」はこちら