富士日記 2.1

May. 10 sun. 「いろいろだった」

「同時代演劇」第二号1970年6月発行

あっというまに一週間が過ぎようとしている。というか、この下のノートの日付がずっと「5月5日」になっていた。「6日」のまちがいだ。なぜか気づかなかった。
連休が終わり、木曜日から授業を再開。まずは、「戯曲を読む」。学生によるブレヒトの発表に続いて、『セツァンの善人』を読む。ブレヒトはなぜ面白いのか。しかし、ではなぜ、しばしば硬直した演出がなされてしまうのか。かといって少しエンターテイメントな傾向を加えるとなぜ井上ひさしさんの芝居のようになってしまうのか、って、もちろん井上さんはブレヒトの影響を強く受けて劇作を出発したのは有名だが。まったく異なる考え方によるブレヒト解釈ってないのか、ということを考えながら読む。とはいっても、その困難な課題にこれまでどれだけの人が挑戦したのだろう。挑戦の軌跡をぜんぶたどってみたいくらいだ。いろんな試みがあったんじゃないのか。びっくりするようなことをした人もいたにちがいない。「戯曲」は文学形式としての意味が強いし、読むことは、上演されるのとはまた異なるから、あらゆる演出家が「演出ノート」を発表してくれたら面白いだろう。「演出ノート」とは、表現における、「拡散し、混沌とする意識」の記録。「演出ノート」の面白さは上演とも異なる。かつて演劇は、「戯曲」の文学主義を否定したが、それもあたりまえになってしまえば、むしろ上演が戯曲と異なるのは自明だから、だとしたら、そこに至るノートにまたべつの可能性があるかもしれない。といった、演劇へのアプローチについて考えていた。
金曜日は、ほとんど寝ないで授業に行った。というのも「都市空間論演習」の素材を作るのに思いのほか時間がかかったからだ。それでもあまり眠くならず授業を二コマ。終わってから、文学部の学生、M君がやってきて、七月にあるゴダールのシンポジュウムについて話をする。M君を中心に学生が主導するそのシンポジュウムは、僕と佐々木敦さん、それからいま交渉中の、ある作家が参加する予定だ。それでゴダールの話。楽しくて眠気をまったく忘れた。

そして土曜日、湯島にある「ミュージックバー 道」で、桜井君とトークライブ。大量のレコードを持参した。この日のことはあらためて詳しく書くことにしよう。というのもきょうは時間がないからだ。楽しく話ができた。いろいろな人が来てくれた。それで最終的に、iPhoneを忘れてしまった。店をやっている押切君が預かってくれて、翌日、渋谷で受け取ったのだが、落ち合ったのは渋谷のリブロ。しりあがり寿さんが、『はしるチンチン』(岩崎書店)という絵本をこのたび出版し、そのサイン会があったのだった。しりあがりさんとも久しぶりに会った。八月のライジング・サンには、しりあがりさんと二人で出演。あと、5月27日は、青山のスパイラルホールのある建物の地下、「Cay」で開かれる、「Club Dictionary」にも出演。この日は赤塚不二夫論の講義をする。
と、頼まれることをぜんぶ引き受けていたら大変なことになっていた。
小説を書かなくてはな。「新潮」のM君、Kさんが待っている。

(12:07 May. 11 2009)

May. 6 wed. 「連休の最終日は雨」

「同時代演劇」創刊号 1970年2月発行

そういえば、Oさんという方から、数日前にメールをもらった。テクノを中心とする音楽の話。とりあげようと思いつつ忘れていたのだ。きょうは時間がないのでまた後日にしよう。メールはとてもうれしかった。

それで、ちょっとした買い物をしに渋谷へ行った、雨の水曜日である。振替休日とは知らなかった。ゴールデンウイークだったよ。たしかに。
いくつか買い物を終えて、ぶらぶらしながらデジカメで写真を撮る。井の頭通りの、宇田川町から、NHKに抜けるあたりの周辺は、ひどい落書きで埋め尽くされている場所があり、あまりきれいではないそれをどう考えていいかと思う。グラフィティはHIP HOP 文化の大きな要素なのだろうが、クオリティが問題になると思うのだ。見事に描かれたもの(クオリティの高さ)、よくこんなところにと驚かされるもの、メッセージを感じるもの(もちろんメッセージ性が高ければいいってもんじゃないのは当然だが)など、「落書き」を読み解く手がかりはいろいろあると思う。渋谷の落書きの多くは汚い。なかにはすぐれたものもあるけれど、どうなのか。
しかし、その「汚さ」「クオリティの低さ」「混沌としたさま」を含め、現在の渋谷ってことになるのかな。それらが表象する街区としての渋谷がそこにある。かつての渋谷は消えてしまったが、ほかとはまた異なるなにかが、ここにあって、それが「落書きの雑さ」になっているというか。「都市の空間」を考えるとき、これもまた、ひとつの典型だろう。

そんなことを考えつつ歩いていたら、東急ハンズ横の坂を下った突き当たりの、上がルノアールがある建物の一階がレコードショップのようで、アナログレコードやCDのほかにも、Tシャツとかバッグ、小物類が並んでいる。バンクシーのグラフィティをプリントしたTシャツがあった。買おうかどうしようか悩んだのだが、バンクシーの絵のなかでも好きなものがあれば、即、買ったと思う。でも、こういうTシャツがあると知り、もっと探せば気にいるものがあるだろうと、するといきおい、いまではネットを検索することになるのだ。どこかにあるんだよな。ネットで検索するとたいてい見つかるから恐ろしい。
あと、雨の日に大量に買い物をすると手に持って移動するのが面倒ってどうでもいいような問題がある。どうでもいいが、かなり大きな問題。店で商品を確認してから、わざわざ、あとでネットを通じて買うことがあるけれど、それには、配送に時間があまりかからないという流通の変化がある。どうなってんだ。商品がいままでとは異なる動きをしている。たとえば海外の美術館で美術書とか画集を目にし、いいと思ってもそれを運んで移動するのは大変だけれど、海外のアマゾンに注文すればいいし、ときとして同じ美術書が輸入されて日本のアマゾンで買えるときもあるから、いったい小売店舗ってどうなるのか心配だ。なくなってしまったら商品を実際に確認することができなくなる。それはそれで困るが、「面倒」はけっこう強いと感じ、「実際に確認」を凌駕してしまったらどうなるのか。
消費者は勝手である。だが、そうした商品の流通を促したのは資本主義の当然の帰結だった。いや、欲望のあくなき増殖というか。池袋の三越デパートが閉店というニュース。あそこはエレベーターがむかしながらの形態で好きだった(なんか、がらがらがっしゃーんとなる、金属性の、格子状の、っていうか網状の? そういった、なんかあれが、あったのだ)。とはいっても、もう十数年行ったことがなく、まあ、はたから見ている人間は勝手なことをコメントする。

連休は終わった。連休中にいろんなことをするつもりでいたが、ちっともできなかった。まあ、しょうがない。

(10:09 May. 7 2009)

May. 5 tue. 「いわゆる <修行> のこと」

連休がいいのは都内の道がすいていることだ。クルマで走ると快適である。
とはいっても、新宿副都心循環百円バスに乗るのはきわめて気持ちがいい。大学に行くときも、百円バスに乗ってまず新宿駅西口まで出る。山手線。高田馬場駅下車。また、早稲田行きのバス。それで三十分ほどで着くのだから、早稲田で教えていろいろよかったけれど、距離の近さにはいつも助けられる。京都造形芸術大学は遠かった。駒場も近かった。クルマで15分くらいで着いたのだ。
それでまたバスで新宿へ。雨だったので地下道を歩く。紀伊國屋書店で買い物。ほっとくとものすごく大量の本を買ってしまいそうになるので自重する。しかも研究書ばかりだったので、どれもが高価だ。悩んだけどね、次にしようと思い、目当ての本だけを手にしてレジに行く。
連休がもうすぐ終わる新宿の夕暮れどき。まだ人で混雑していた。外国人の観光客が多い印象。それも東洋系の人たち。雨が少しずつ強くなってきた。ほんとは新宿西口のレコードショップを流そうと思ったがやめた。しかし、西口の中古レコード屋も少なくなったし、渋谷からはやはりChiscoが消えてしまったのはさみしい。八〇年代からずっとお世話になっていたからな。

「宝島」1974年2月号 大判の「宝島」最終号

忌野清志郎さんのことで思い出したことがふたつ。
まず最初の記憶は一九七八年だったと思う。一年間、大学を休学して東京に戻ってきたこの年の四月ごろ、あまり元気がなかったわたしを友だちが誘ってくれ、日比谷野音に行った。天気がよかった。いろいろミュージシャンが出ていたなか、二年ほどまったく活動を休止していたRCサクセションが、それまでのアコースティックなバンドから、エレクトリックなバンドになって登場した。エレトリックなバンドになってほぼ最初の登場だったように記憶する。驚いたがとても魅力的だった。初期の彼らの歌に、「どっかの山師が……」と歌い出す曲があるけれど、その野音でのライブでは、この「どっかの」という歌詞は、「びっこの」だった。それで、ああ、これはあのミュージシャンのことを歌っているのだなと、ぴんと来た。レコーディングにあたって、「びっこの山師が」は「どっかの山師が」に改められた。
二つ目の記憶は飯倉にあった、まだ「ラジオ関東」という名前だったラジオ局だ。おそらく一九七九年。竹中直人に誘われあるミュージシャンの番組に遊びに行った(竹中が懇意にしていたミュージシャン)。その日、ゲストに清志郎さんがいた。一緒に行った友人のなかに国立出身の者がいて彼が清志郎さんと子どもの頃、遊んだことがあるという話になった。すると清志郎さんは、実家周辺、国立の住宅街の地図を紙に描き、「きみの家、ここじゃなかった?」と言った。「ここが僕んちで」と。その日の番組内で清志郎さんは、なにか質問されるたびに、「それは修行の一環です」とか、「わたしたちは忍者ですから」とか、「それも修行ですね」と、繰り返し「修行」という言葉ででたらめなことを語っておりとても面白かった。
その後、僕は自分のエッセイで、たとえば、「夏は修行の季節である」といった書き方をしたけれど、あれはあきらかに、あの日の面白かったという記憶が根底にあるはずだ。

きのうの舞台のことをまだ考えていた。技術的なことで指摘したい部分はいくつもあったが、べつに技術的なことはいいだろう。もっと大事なことがあると思えてならない。あるいは、「キレナカッタカレラ」は、「キレナカッタ」ことについてどう総括するのだろうと考えた。べつにナイフを振り回せとは言わないし、犯罪を犯せと、極端なことを言うつもりはないが、もっとべつの「キレかた」があったのではないか。
そう考えていたら、ほかの演出家たちの作品も観ておけばよかったと思った。もしかしたら、その解答が舞台にあったかもしれないのだ。

(4:56 May. 6 2009)

May. 4 mon. 14歳の国」

駒場にあるアゴラ劇場に行った。
それというのも、「キレなかった14才♥りたーんず」という演劇フェスティバルの一環として、僕の書いた『14歳の国』が上演されるからだ。演出は、京都造形芸術大学で僕も教えたことのある杉原邦生。詳しくその話を書きたいがまだうまく言葉にならないので、おずおずと語る感じになってしまうわけだけど、まず確認しておくと、これはわたしの『14歳の国』とはまたべつの作品だということ。自分の作品が他人に演出され、それを観る経験はあまりない(この作品は全国の高校や大学などでものすごい回数上演されているらしいのだが)。だから観ているとそれだけで複雑な気持ちになる。
しかも、演出している杉原は26歳って、それ俺の半分の年齢なわけだし、演じている俳優も若い。そこにあるからだが、戯曲の言葉を発したとき、なにか気恥ずかしくなるのは、戯曲の言葉が時間に耐えていないのを感じるからだろう。ああ、いやだなあ、この身体にはもう、「期限切れの言葉」になっていると思えてならなかった。
で、今回のフェスティバルの演出家、振付家たちは、ほぼ同年齢で、つまりあの時代に14歳だったということだ。しかしキレなかった。「キレナカッタカレラ」はどう世界を認識していたか、というのが今回のフェスの主旨だろう。自分に子どもがいたらこれくらいの年齢になっていたと思う。その子はあのころ14歳だったかもしれない。もしそうならまた異なる戯曲になったのではないだろうかと、杉原の年齢、それから山崎君という俳優が杉原と同い年と聞いて(しかも山崎君はわたしと同じ中学の出身だという)考えざるをえなかった。

「宝島」1974年1月号

きちんとした感想をまとめたいが、きょうは時間がないので、後日。だけど、そういった年齢のこと、自分の書いた戯曲をこの世代が演出することで生起する、わたしが意図した舞台の表現とはまた異なるなにかについて、刺激、とまではいかないかもしれないけれど、考えることはいろいろあった。正直、自分の戯曲を他人が演出するのを観るのはいやなんだけどさ、でも、観てよかったな。
終演後、急遽、アゴラ劇場のロビーのような場所で、杉原とアフタートークをやることになった。まだ残っていたお客さんたちが熱心に話を聞いてくれる。ありがたい話です。でも、一番前にいるのが、桜井君だよ。熱心すぎるよ。一時間ぐらい話しただろうか。お客さんのなかから質問も出て、なにか、いい感じになった。むかしよく太田省吾さんが口にしていたのは、ヨーロッパの劇場について、終演後、観客と対話ができるようなスペースがはじめから用意されているという話だ。もしかしたらこんな感じかもしれない。まったく予定していなかったのにアフタートークになって、すごく近い位置でお客さんと向かい合い、そして対話ができる。
それがなにか、よかったなあ……うれしかったし……また新しい経験になった。もっと彼ら、若い演出家と話をするべきだったけれど、じつは佐々木敦さんに、そうしたことを提案されていたが、六本観るのはきつい(このフェスに参加している作品が六本という意味)と返事をしてしまったのだ。いや、まあ、やりたいのはやまやまでも、きついし、ほかにも仕事がある、というか、俺、いまやるべき仕事でやってないもの多数、というのも、小説、e-daysの原稿、筑摩書房から出す予定の単行本のゲラの直し、ニブロールの矢内原に頼まれたワークショップのスケジュールを決めなくちゃならないのに返事をしていない、幻冬舎の文庫のこと、やはり筑摩から文庫になる『チェーホフの戦争』のこと、「都市空間論」の予習、その書籍化にあたってまとめてゆく作業、って、やってないよ、なにもしてないというか、ぜんぜんだめだ。いやになる。

(11:04 May. 5 2009)

May. 3 sun. 「人混みを歩きながら考えたこと」

夕方、バスと電車を使って原宿に行ったのは、ウラハラと呼ばれる通りの一画、かつて古着屋のDEPTがあった場所に新規オープンした「オルタナティブ・スペース<VACANT>」へ、そのオープニングイベントの一貫として上演される、「WRONG DANCE, RIGHT STEPS」という桜井圭介君がキュレートするダンスの公演を観に行ったからだ。
地図を見ると原宿駅の竹下口を出て、竹下通りをまっすぐ進めば近いと判断したのがまちがいであった。ものすごい人だ。まともに歩けない。竹下通りなんて歩くのは何年ぶりになるだろう。十数年ぶりかと記憶をたどりながら歩いていたが、それでふと「秋葉原」のことを思ったのだ。このあいだ書いた、秋葉原の「オタ芸」ってやつに興味がないことがなにを意味するか。つまりそれは、八〇年代を席捲した(と言われたりするが、わたしはよく知らない)「竹の子族」と同じことだと思ったのである。いま秋葉原は(特に、まだ歩行者天国があったころの秋葉原は)、あの当時にぎわっていたらしい代々木公園付近の歩行者天国の相似形である。いったいいま誰が「竹の子族」を問題にするというのだ。しかも、当時だってまったく興味のないわたしのような人間は多かったし、むしろ嫌悪する者も数多くいた。
そして、相変わらずの「竹下通り」をわたしは歩いていたが、ここのにぎわいは「観光地のそれ」であり、もう30年以上前から変わっていない。いまの秋葉原とはつまりこういうことだ。この「通俗性」のようなものをどう評価するかで「秋葉原」への態度も変わる。ただ、秋葉原は、「竹下通り」ほど単純ではない。なにか得体のしれない複雑さ、重層性を内包しているとすれば、むしろ、現象ではないところのもの、生起する「重層性そのもの」を考えるべきだろう。だから、加藤が犯した秋葉原の事件を読むときもまた、いかにこの「複雑さ」という抽象性を読むかになる。するといきおい、ニュースではわからないことがいくつも出現してしまうのは、報道は事件を端的にまとめて伝えるだけになるからだろう(報道とはそうしたものだ。「事実」という客観的な正しさなど、そもそもないというのが報道の論理のはずだから)。複雑さや、重層性を、そのまま、「複雑な/重層的な」まま理解するには、そもそもが単純化されない、混沌とした、信用ならない、疑わしい、とっちらかった言説が飛び交う、「ネット」の言葉がもっともふさわしく感じる。それが秋原原とネット世界との親和性にちがいない。

「宝島」1973年12月号

そんなことを考えながら、「オルタナティブ・スペース<VACANT>」にわたしは向かっていた。ウラハラと呼ばれる地域に来ると人の数も減るし、「竹下通り」が子どものいる場所だとしたら、ここらは少しちがう。歩いている途中、デジカメで写真を撮っていたら、「ユリイカ」のYさんに声をかけられた。Yさんに会うのもずいぶん久しぶりである。
チェルフィッチュの山縣太一にも久しぶりに会った。きょう出演するという。最後にミュージシャンの大谷龍生さんと、太一は出てくることになっていたが僕は観ていない。それというのも、途中で帰ってきたからだ。
ほうほう堂の福留は、かつて僕のワークショップに来ていたりもし顔なじみだが、久しぶりに踊るのを観て、いいなあ、成長しているなあとしみじみ思い、一方、同じようにかつて僕のワークショップに来ていた浅野が最低だったさ。ほかのダンサーが踊っているときフラッシュをたいて写真を撮るばかやろうがいた。注意しなくていいのか気をもむ。さらに浅野でうんざりした気持ちになったころ、この日、二回目の休憩が入る。いきなり「ここで20分の休憩です」と言われ、そんなに休みたくないと思って帰ることにした。

大谷さんの演奏を観られなかったのは残念だ。浅野のやつめ。休憩中、ビールを飲んでみんないい気分だろうが、俺、飲めないし。20分の休憩のぶん、家に帰ってやるべき仕事がある。あと、ヤフーオークションで、どうしても落札しなくてはいけない古雑誌があったのである。しかも、敵は数多かった。べつに趣味ってわけではなく大学の授業のための資料。つまりそれも仕事だ。仕事のためにオークションにも力を注ぐという、なんて俺は、勤勉なんだろう。自分で言うのもなんだけど。
雑誌は無事に落札。深夜、クルマでTSUTAYAへ。DVDやビデオなど数本借りる。ちょっとした勉強のためにかつて観た映画をノートを取りながら見返している。連休中は道がすいている。気持ちよくクルマを走らせた。

(12:14 May. 4 2009)

May. 2 sat. 「スローバラード」

相馬のブログを読んで、MacProの起動ディスクがクラッシュした話を読み、HDDはいつか壊れるものだという覚悟が必要だとあらためて思う。そろそろうちのMacProの起動ディスクも怪しくなっていないだろうか。
しかし、バックアップを取って新たなディスクにOSを再インストールしたいとは思っても、起動ディスクにはアプリケーションも入ってるからいやな気分になる。もしアプリの再インストールってことになったらどんだけまた時間がかかるのだ。そもそもHDDはいまや巨大容量になっており(それはそれでいいものの)、バックアップがまた大変な容量ってことになってかなり時間がかかる。このあいだ、750GBHDDに入っていた『ニュータウン入口』の映像データや、ほかの映像を、新たに買った1.5TBのほうに移動させたが、まあ、それはそれは時間がかかった。ただ、750GBを初期化してほかに使えるので、こっちはWindowsマシンに移動して活用。こういったやりくりはなにか面白い。
それにしても、大容量HDDが安価になっている。こちらを見ると、Seagate1.5TB HDDが、なんと、最安値店で驚きの「9980円」である。買いに行こうかな。連休の秋葉原はさぞかし人が多いことだろう。それを見るのも面白いか……面白くないか……うーん……わからないけれど。で、大容量HDDは、もっとべつの考えにつながる。

「WonderLand」の誌名が「宝島」に変わった1973年11月号

連休は、たしかに時間に余裕を感じて、本を読んだり、ぼんやりしたり、散歩したり、勉強したり、それでノートをこつこつ取ったりいろいろだが、とにかく時間がもっとほしい。観に行くべき舞台もあるし、読みたい本は無数にあり、聴きたい音楽、観ておきたいDVDもどんどんたまる。だけど、そんなにたくさんのことを自分に導入(=インストール)することにいったいどんな意味があるというのか。ただの薄っぺらな消費になってしまわないだろうか。
なにもないところで生きてゆくことの豊かさはきっとある。大容量HDDはすぐれているけれど、なくてもべつにいいと思えるかどうか。それに拘束されずにやっていけるかどうか。大容量は、大容量だけに、なにかあったときのバックアップに時間がかかるからだ。それにしても、とても魅力的な社会学的見地による事象の分析と読解についての本が無数にある。たしかに面白いし、考えるヒントを与えられるし、まったく否定する気はないが、でもやっぱり、死ぬまでに読んでおくべきなのは、マルクスとカントだろう。あと孔子とか、ニーチェとかね。小説も読む。書くために読む。ジョイスの『ユリシーズ』とか。時間がかかってもいいんだよな。スローバラードのようにゆったりと。早く読んだって仕方がないんだ。一生に、たった一冊しか本を読まないと決めた男の話をどこかで読んだことがある。残された人生でたったの一冊。彼が選んだのが、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』だったという。
いつ死ぬかわからないのは、HDDがいつクラッシュするかわからないのと、まあ、ほぼ同じで、辛うじてわたしは去年、クラッシュの一歩手前で生き延びたのである。なにかおまけで生かされているような気持ちにそれ以来なった。忌野清志郎さんが亡くなられた(またはこちらの記事で)。その歌を意識的に聴いたことはあまりなかったけれど、声高に語ったり、知識人的に語ることなく、歌だけで意志を表明するふるまいが好きだった。あれは誰の映画の試写会だったか、会場になっている場所に通じるエレベーターから、いきなり清志郎さんが自転車ごと姿を現したのには驚かされた。いつだったかな、あれ。まだお元気そうに見えた。いまでもときどき耳にすると、学生のころを思い出して感傷的になるからいやだが、あの「スローバラード」はもう聴けない。

(11:27 May. 3 2009)

May. 1 fri. 「暑い日」

ヤフーオークションをよく利用する。
うっかり990円でビデオデッキを落札してしまった。安いからというだけの理由。あるいは、いま使っているデッキとまったく同じ機種で気に入っていたのもあって入札したものの、まあ、誰かほかに入札する者がいるだろうと想像していたらその値段で落札したのだ。しかも神田あたりにある業者が出品しており「手渡しも可」とあったので送料を取られるのがもったいないからクルマで出かけた。
外に出るとやたら暑い。初夏であった。クルマが少し混んでいるのはカレンダー通りに仕事のある会社の連休前ということかと考えていたが神田でビデオを受け取ったあとがすごかった。メーデーだというのを忘れていたのだ。四谷から初台まで一時間。すごかった。クルマで出かけたのがまちがいだったのだ。渋滞のさなか、事故を起こしているトラックとタクシー。それでまた一車線ふさがる。また渋滞。気温は上がる。

さて、きのうも書いたとおり、湯島に開店したばかりの押切伸一君の店「ミュージックバー 道」だが、5月9日、次のような内容でトークイベントが開かれる。

*『MUSIC BAR (miti )OPEN企画
 宮沢章夫──音談科
 ポップミュージックが時代を象徴する力を失ったしまったように見える現在、我々はこれから何を音楽に求めるのか? ダウンロードミュージック以前、若者は貧乏だったくせになぜ凝りもせずジャケット買いを繰り返したのか? 鼠先輩はなぜ急速にしぼんでしまったのか? など音楽を巡る話題を宮沢章夫がランダムに語り、それにまつわる楽曲を流していく、トークイベント。聞き手は吾妻橋ダンスクロッシング・オーガナイザー、桜井圭介。

 ということになっているのだった。詳しくは、『MUSIC BAR (miti )』のブログを参照していただきたい。

上村からメールをもらった。それというのも、深夜、ニブロールの『青の鳥』が放送されたからで、そのことを報せてくれる内容だった。残念ながら、夜、まだ早い時間に眠ってしまい、眼が覚めたら2日の午前1時だった。見られず。その旨、上村に連絡。で、上村がきのうのこのノートに貼り付けたレコードの写真を見て、かつて擦り切れるほど聴いたというので、そのころどんな音を聴いていたのか質問したら、少し長めのメールをくれた。その話が興味深かったので紹介したい。おそらく、上村が中学生のころの話だと思われる。だいたいのことは中学生のころにはじまるのだ。長いので途中から引用。さらにあいだを抜きつつ。

 ……そして、エイフェックス・ツイン(上の写真がCDのジャケット:引用者註)。エイフェックスの登場は、衝撃的でした。数々の変名、戦車を購入、リフレックスという彼のレーベルからリリースされる変なレコードの数々。とにかく、音楽の傾向によって沢山のレーベルがありました。ただ、一枚目だけ良く、あとのアルバムは新しさがなくすぐに廃れていったような気がします。それくらいめまぐるしく新しいアイデアが足されていきました。それを感じながらレコードを買うのがとても楽しかった覚えがあります。
 僕らの情報源は、電気グルーヴがやっていたオールナイトニッポンの、石野卓球がお勧めするレコードのコーナーで、放送(土曜の2部)を聴いたあと、日曜の朝から渋谷のシスコでお目当てを探す。または古いジャーマンニューウェイブを探しに、新宿のビニールやユニオンに探しに行くというような感じでした。
 当時はクラブも面白かったです。
 中高生でも出入りしていました。IDチェックが緩く、知らん顔して入っていました。所謂、ヤンキー化する前の、音楽だけを求めてきている人の集まる何ともいえぬいい雰囲気で、一人で来ている人がかなり多かった気がします。そこで友達になる感じでした。今は潰れてしまいましたが、青山学園と骨董通りの間の路地に『マニアック・ラブ』というクラブがあり、そこはテクノ専門で、みんな土曜夜から日曜の昼までノンストップで踊り続けていました。逆輸入アーティストとしてベルギーのR&Sからデビューした、ケンイシイもよく遊びにきていました。新宿にはマニアック系列の『オートマチックス』というクラブがあり、そこもとても良かったのですが、すぐに無くなりました。それ位からテクノは下火に(僕の中でですが)なっていった気がします。その後流行するエレクトロニカはあまり聴きませんでした。いいものもあるんですが。やはりドラムが入ってないと面白く感じません。

 電気グルーブが土曜日の深夜にオールナイトニッポンをやっていた時期を調べて計算すると、上村が中学生ごろだとわかるが、繰り返すが、そうしたことはだいたい中学生だ。外部との回路が開かれるとでもいうか。僕もやはり音楽の情報源はラジオだった。あるいは音楽雑誌があったけれど、実際に音を聴いていたのはラジオだし、ラジオでなければ聴けない音楽が無数にあった。ネットで音楽が配信されたり、YouTubeでなんでも聴くことが可能ないまとはまったく異なる。
 ただ、上村がうらやましいのは、土曜日の夜に情報を得て、翌日、CHICAGOに買いに行けたことだ。田舎には限られたレコードしかなかったが、CHICAGOやマンハッタンレコード、ほかにも数多くあった輸入盤のレコードを置く店を探せば(まだ、WAVEもあったはずだし)、欲しいレコードはぜったい手に入ったにちがいない。

雑誌「WonderLand」2号

雑誌「WonderLand」1973年創刊号

もちろん、東京にいた者が、皆、同じような行動をとっていたかと言えばけっしてそんなことはないはずで、そうした行為をする者はきっと特別だっただろう。エイフェックス・ツインに興味を持つ中学生がそんなに多いとは思えない。だから一緒に舞台をやりたいと思わせるものが上村にはある。
だけどなあ、なぜテクノを聴いていた者が、その後、新劇系の養成所に入ってしまったかは謎である。しばしば人は、自分が好きなものにのめりこみ、その世界は徹底して特別な位置までたどりつくが、べつの分野になると途端に、なにも見えなくなる。それが普通か。ある表現領域においてアヴァンギャルドでありながらべつのことはきわめて保守的という人もいる。人はそうなりがちだ。うっかりしているとなる。よほど注意していなければそうなる。つまり考えないということだろう。思考を停止してしまった途端、その領域の内側で人は保守化する。だから考えたい。考える。考える。あらゆることを考える。
さらに、クラブに行っていたのか、あいつ中学生のくせに。「マニアック・ラブ」というのがまた、当時としては特別なクラブではないか。そのころ、石野卓球と青山正明がある雑誌で対談しており(九五年ごろ)、二人の話に出てくる「青山の某クラブ」がこの店だろう。このあいだ書いた「いまのカラダを観に行くツアー」が催されたのは、遊園地再生事業団の公演『おはようと、その他の伝言』のすぐあとだったと記憶するから、いまからほぼ十年前だ。そのときも青山のクラブに行ったが、どこだったかほとんど記憶がない。またべつの「からだ」が、いままた出現しているとするなら、「秋葉原」以外になにかないか探しているのは、秋葉原の「からだ」はだいたい想像がついて面白くないからだ。驚かせてくれるものはどこにあるのか。

(12:15 May. 2 2009)

4←「二〇〇九年四月後半」はこちら