富士日記 2.1

Sep. 30 wed. 「九月も終わる」

白水社のW君と「都市空間論演習」について打ち合せをしたのは月曜日のことだった。少し先が見えてきたかなという感じで、なんとか単行本化へと作業を進めなくては、ずっとサポートしてくれるW君に申し訳ない。進展し形が見えてきたらその話はまた詳しく書こう。
そして火曜日は、「座・高円寺」で「テキスト読解」の講義だった。写真は、「座・高円寺」内にある、「カフェ・アンリファーブル」。講義のあと食事をしたが美味しかった。さて講義。寺山修司の「戯曲論」、さらに比較的、最近(二〇〇四年)書かれた太田省吾さんの戯曲に関する論文、エッセイを読みながら、戯曲について考える。いまや、ある意味での、「戯曲否定」があたりまえになったとき、では現在、いかに戯曲とわたしたちは関わればいいかについて考える。時間がどんどん延びてしまうので、かなりはしょりながら先達の言葉を吟味し、そこから学ぶ。勉強になる。で、終ってから食事、その足で鍼治療を受けたというわけだ。だいぶからだが軽くなった。
そして、いよいよ大学の後期がはじまったのである。本日は「サブカルチャー論」だ。前期とかなり重複した受講生だと思うものの、また新しい受講者もいるのではないだろうか。ただ、五〇年代の「ビートニク」、六〇年代のさまざまな文化領域における「新しい動き」を語ってきたが、後期は、いよいよ、七〇年代から、現在までだ。これはこれで、まずなにより自分の興味としてある。授業後、また研究室に学生を呼んでずっとおしゃべりをしていた。楽しかった。こんな「おしゃべりの時間」が永遠に続けばいいとさえ思う。

さて、「青山正明」というライターのことをずっと追っていることは、ここでも何度か書いている。その後、数少ない著書、あるいは登場し文章を寄せていたり、対談している雑誌などを集め資料はずいぶんたまった。たが、ここからどう「青山正明」を通じて、「90年代サブカル」という「特殊性」を考え論じたらいいか考えあぐんでいたが、ばるぼら氏がウェブ上で連載している「天災編集者! 青山正明の世界」の最新号の次の記述がひっかかってまた不思議な気分にさせられた。ばるぼら氏による記述とは次のような一節である。

この時期、いとうせいこうのテレビ番組から「87年のマイナー映画の動向をしゃべってくれ」と出演依頼がきたようだが、出演したのだろうか。

 八七年の四月頃に刊行された雑誌に青山が書いた文章をもとに記したと思うが、八七年の四月ぐらいにいとう君がはじめたテレビ番組は『ハイブリッドチャイルド』だ。構成をわたしがしていた。だけど、青山正明にこういった依頼をした記憶はない。いや、記憶がないだけで、企画が流れてしまったせいですっかり忘れているのかもしれない。あるいは番組の企画段階でこうしたアイデアがあったのか。結局、『ハイブリッドチャイルド』は奇妙なドラマのような体裁の番組になったから、映画について誰かに語ってもらうような情報性はまったくなかった。ただなあ、どこかで青山正明の名前を知ってそれが企画段階で出たか、あるいは演出をしていた日本テレビのO氏が打診していたのかもしれない。というのも、O氏だったら、青山正明と通じるなにかがあるからだ。
 ああ、そういえば、年齢も近いはずだし、大学も一緒か。その線はかなり濃厚に思われる。
 ところで、「天災編集者! 青山正明の世界」の最新号でばるぼら氏は、文章を次のようにまとめている。それが印象に残った。九〇年代を考えるのにこれもかなり重要な言葉ではないか。『BACHELOR』という雑誌で八六、七年ごろ、青山が連載していた「書評」の紹介である。

書評は「良識なんて糞食らえ!」と結ばれているが、そのノリで本気で実行する人間が現れることについての想像力の欠如が『危ない1号』(引用者註:九五年に刊行された青山が編集した雑誌)以降の青山の迷走につながっていると思う。

 おそらく、『危ない1号』において青山が発したメッセージの、「良識なんて糞食らえ」にしろ、「鬼畜」という概念にしろ、「妄想にタブーなし」にしろ、すべて「冗談」という、かなり高度な部分におけるある種の「遊び」だったはずだ。しかし、良識派に顰蹙をかうのは想定内だっただろうが、一方で、冗談が理解できずにまともに受け止めた層が出現したのは想定外だったということか。2ちゃんねる(のごく一部)、ネットにおけるある種の層に直線的に浸透し、しかも、遊びではなく本気でそれをする者らが現れたと。そのへんの事情については僕はよく知らない。ばるぼら氏が書く「青山の迷走」とはなんだろう。
「90年代サブカル」という、莫とした言葉から、考えることはいくつもある。
 ほんとにそんなものはあったのか。あったとしたら、それが特別であることの意味を、時代との関係のなかで考える必要があるし、現在への反映、現在になにをもたらしたか、それをとらえなおす必要があると思えた。だからそれは、「青山の迷走」に象徴されるなにかだと思うし、「六本木ヒルズ」でひとりの女が死んだことが象徴する、きわめて薄気味悪い現在の、文化状況におけるダークサイドだ。しかし、ダークサイドが、そのまま「サブカルチャー」になるわけでもないだろう。本来的な意味ではけっしてそうではないのだから。

(6:11 Oct. 1 2009)

Sep. 26 sat. 「少し落ちつく」

早稲田の中庭の写真を撮ろうと、デジカメの設定を調整し、調整ができたので顔を上げレンズを建物のほうに向けたら、同じ表象メディア論系の教員であるところの、長谷さんと藤本さんが、笑いながらフレームインしてきた。なぜ笑いながら? 残暑である。まだ夏のように日が強い。
というわけで、きょうは教室会議というものがあって早稲田に行ったのだった。来年度の授業の時間割などを決める。僕の授業はぜんぶ夜にしてもらった。しかも、木曜日と金曜日に集中している、というか、結果、そうなったのだ。七限が終わるのは夜の9時25分だ。授業のあと学生たちと研究室で話しをするのは楽しいけれど、そのゆったりとした時間があまりなくなったと、あとで気がついた。なにしろものすごく長時間、話をし、気がつくと夜の11時過ぎ、しばしば警備員さんが研究室まで来るということがあった。
でも、いろいろ考えて夜にしてもらったわけである。というのも、「四限」というのがですね、かなりいい時間で、そこを取る学生のモチベーションが低い感じがしたのだ。七限とか、一限や二限だったら学生も覚悟を決めて取るだろう。ただ、一限や二限はむつかしい。誰がむつかしいかというと、わたしである。わたしがむつかしいのだ。ぼんやりしていると思う。それまずいだろう。でも、もし一限とか二限に授業を入れたら、それはそれで、かなり覚悟を決めたな、僕自身が。覚悟は大事である。ただ、「座・高円寺」の「テキスト読解」の講義は朝10時からで、それ、大学の二限より早いよ。

しかし、あれだなあ、学生と話すのが面白くてしょうがない。商学部のイシハラはたしかに足が臭くてみんなに迷惑をかけているかもしれないが、いちおう、わたしはいまのところ困っていないし、話をしてもじつに愉快だ。さらに、佐々木敦さんと一緒に話した「ゴダールシンポ」は、ミノという学生が企画したが、そのミノは、僕の舞台のオーディションも受けたのだった。「ゴダールシンポ」を企画したり、オーディションを受けたりと、ミノのこの積極性はなにごとなのか。
積極性ということで言ったら、「都市空間論演習」と「サブカルチャー論演習」をとってるカワヅがすごい。「サブカルチャー論演習」では、UFOを呼ぶために、夜、高尾山に登り、美大生のファッションをチェックするためにムサビを訪ねた。「都市空間論演習」でニュータウンの映像を見せたら、興味を持ったと授業とは関係なく多摩ニュータウンまで行ってものすごい距離を歩いたという。「調べる」っていうとすぐにネットを使うのがいまの学生の主流になってしまったが、いちいち出かけてゆくところがすごい。
あと、ここんところあまり会っていない三年生でも、何人かよく話す者どもがいて、なかに小田急線下北沢駅で駅員としてバイトしているタナブという者がいる。小田急のことを話し出すと止まらない。というか、むしろ、小田急を代表して話し出す。おまえは古参の小田急社員かと言いたい。あとは、名前を出すのを控えたいが、「腐女子」である。まあ、「腐」であったよ。かなりの「腐」だったのだ。あと、やはり名前は出さないが、学生たちと冬に合宿で伊豆に行ったとき、途中で寄った鎌倉の土産物屋で木刀を買ったわけのわからない女子もいた。それを合宿のあいだ、肌身離さず持っていた。木刀を持っている女子大生はどうなのか。三年生のほとんどが(早生まれの学生はちがうのだろうが)「昭和」の最後の世代かと思うと感慨深い。そして、二年生が「平成」だ。なにかあるんだよな、ここに溝が。

というわけで、オーディションを終えて少し休憩。もう大学だ。もっと勉強しておくべきことがあったといろいろ後悔している。

(10:14 Sep. 27 2009)

Sep. 24 thurs. 「モンティパイソンと残暑」

忙しかった。へとへとになった。ぐったりした。
それというのも、22日、23日の二日、朝11時から、夜の8時半まで、遊園地再生事業団の次回公演に向けたオーディションがあったからだ。二日間で120人に会った。ある戯曲を読んでもらう。一回目はごくふつうに。二回目はちょっとした演出をそれぞれ工夫して。むつかしい。選考はむつかしい。しかも、二日目の最後になると、判断能力がかなりにぶくなるほど疲れきっていたのだ。目が疲れた。じっと集中していたから神経も参っていた。もっと時間をかけひとりひとりをじっくり見たかった。なにか異なる側面がもっと見られたのではないか。
ところで、オーディションと言えば、「脱ぐ女」が出現するのがちょっとした恒例になっている。今回は受けなかったが、以前脱いだのは、三坂という者だった。三坂は東大の大学院を卒業している。今回脱いで下着姿になったのは、京大法学部卒の女優であった。高学歴の女は脱ぐのか。あと、読んだ戯曲には、「ヘロイン」とか「ファック」といった言葉が頻繁に出るが、十五歳の女の子もいてその口から「ファック」と出ると、なんというか、これ東京都の条例違反にならないかと思いつつ、面白かったからしょうがない。

しかし、ぐったりだ。作業の大変さというより、多くの人に会い、「彼ら/彼女ら」が発する「からだ」からの情報、あるいは「からだ」の特性があふれだし、それを受け止め頭のなかで整理するのに疲れたのだろう。
さて、写真は、上から領収書に数字を記入する制作の黄木である。そしていつもお世話になっているセゾン文化財団の施設の内部写真。稽古場で、戯曲を演出して練習する受験者たち。みんなが動き出すと稽古場が暑い。いろいろなタイプの人がやってくる。僕の舞台をまったく観たことのない人も多い。オーディションだったらなんでもいいからとにかく受けるというタイプか。でも、そのなかにもきっと魅力的なからだはあるはずなのだ。
しかし、短い時間でほんとうのことはわかるのだろうか。もっと魅力があるのかもしれない。やはり、むかしのように長いワークショップを続ける中で俳優を見つけること、それと、そういったワークショップに参加できないような、たとえば年齢が上の人とオーディションで出会うということが必要か。「劇団」というスタイルをとらないわれわれは、いつも人選でいろいろ悩む。戯曲が先にあり、それに合わせてこういう人が欲しいといった作業なら、それはまたべつになるだろう。でもなあ、それはそれで、限定されて、面白い人にあったとき、その人とこんどなにかで仕事をしたいと思ったときどうしたらいいか悩むし、「出会い」というのはむつかしい。ただいま、選考中。

本日は上野にある国立博物館に行った。いとうせいこう君がプロデュースする「したまちコメディ映画祭」の企画の一環で、モンティパイソンの催しがあったのでそのトークのゲストに呼ばれた。松尾貴史君と、モンティパイソンの本に多く関わっている須田さんと話をする。楽しかった。松尾君と会うのは久しぶりだ。はじまる前、過去の話をいろいろしてそれがまた笑った。二人とも、まあ、くだらないことをよく覚えている。
久しぶりに会ったといえば、数日前、神田の松屋という蕎麦屋に行ったら、そこで正蔵に会った。二十数年ぶりじゃないかな。前回ここに書いた、YuTubeにある中野裕之が作ったビデオを教えてもらって懐かしい気分になったことといい、正蔵に会い、松尾貴史に会い、なにかが続くのだな。そして、僕はまた、懐かしさのある種の心地よさからまた離れ、もう大学の授業がはじまる時期になった。苦しい。
大学といえば、学生による授業評価というものが送られてきた。いろいろ考えることがあり、反省などしていたが、受講生128人のうち、回答者が8人だった。それ参考になるのだろうか。だいたい、受講者128人がまちがってるし。280人以上のレポートを読んだし、俺。

本日、オーディションの最終選考会を、遊園地再生事業団のメンバーをはじめ、制作を手伝ってくれる黄木をはじめ、スタッフと一緒に考える。まあ、決定権は僕にあるものの、みんなからも意見を聞く。悩むぞ。この日も帰ってからぐったりだ。それはそうと、ほんとうに久しぶりに上野方面に行ったけれど、いいところだなあ。天気もよく暑いくらいの気候もあって、気持ちがよかった。「したまちコメディ祭」の方たちもよくしてくれてうれしかった。いい日だった。あと、なくしたかと、すごく悩んでいた大学の図書館で借りた本が見つかり、ほっとしたりなんだかんだで、まことにいい日だったわけである。でも、大学も、「座・高円寺」の「テキスト読解」の授業もあるしと、憂鬱なことこのうえない。忙しいな。参ったな。九月中に、と約束した慶應の学生にも会わなければいけないし。原稿もある。読む本もある。クルマの洗車ある。部屋の片付けもある。もう秋である。

(8:10 Sep. 25 2009)

Sep. 20 sun. 「秋晴れ」

とうとう秋になってしまった。夏が短かった気がするのは七月、授業が月末まであったからじゃないかと思う。一年でいちばんいいのは七月だ。梅雨がそろそろあけるかなという期待と、あの雷の鳴る空、それからからっと天気がよくなっていきなり夏の空になるあの季節の気持ちよさを今年はほとんど感じることがなかった。気象も不順だった。残念な気持ちで八月を迎えているうちにもう秋だ。
一年以上前に借りた本を返しに桜新町に行った。やはり大学で教員をなさっているYさんに会った。このノートに書いた大学の授業のことを読んで、どうぞ使ってくださいと貸してもらった本だが、結局、どういう文脈で使おうか考えているうちに使わずじまいだったのだ。それで返さなくてはと思っているうちに一年以上が過ぎた。それから長話。中心になったのは学生について。いまの2年生はほぼ平成生まれだ。ここになにか奇妙な断絶があるという話題。じゃあ、昭和の最後の年に生まれた者と、平成のはじめの年に生まれた者で、体験してきた世界がまったく異なるわけでもないだろうに、しかし異なるものがあるとすれば、「平成生まれ」というただその一点に対する自覚だ。「なにかちがう」と考える心性は少なからずあっただろう。
で、その帰り、国道246号がものすごい渋滞だった。急いでいたがたいへんなことになっていた。ひどく疲れた。

ところで、人から教えられたYouTubeのある映像がひどく懐かしい。九〇年代のはじめのころだ。たしかWOWOWで放映されたドラマ。どこをどう書いたかほとんど忘れていたが、ダブマスターXが大工の役で「寸法を計りに来ました」という台詞の部分はよく覚えている(リンク先のダブマスターXの経歴を見るとなぜこんなにすごい人が大工役をやってくれたかいまでは謎である。しかも似合ってるし、本人ものりのりだし。彼が出てくるのは、五分割された映像の、2番目3番目、以下、とある)。ほかは現場で作ったんじゃないかなあ。でもけっこう書いているはずだが……

 ほとんど仕事をしていなかったころだ。いまは映画監督をしている中野裕之に依頼されたものの、ぜんぜん僕が書かないので、そのころ住んでいた祐天寺の部屋に中野さんが訪ねて来たのを思い出す。これ、うちのどこかにビデオテープがあるかもしれない。「笑い」というより「音楽」についての素材として学生に見せよう。ある傾向のミュージシャンが次々と出てくる。若き日の藤原ヒロシも出てくるし、テイ・トーワもレコード屋の客で出ている。たしかこの年の暮れ、僕は『ヒネミ』を上演している。このドラマ『THE RECORD HUNTER』と、戯曲の賞をもらった『ヒネミ』、この落差はなにごとか。
 俺、あっち側の人間だったような気がするんだけど。
 なぜ、いまこんなにまじめに戯曲のことを考えているんだろう。それはそれで面白いし、小説のことを考えるのもまた愉楽である。そうした多様性がいけないとも思わない。

時間が過ぎてゆくのは早いな。しかし、『THE RECORD HUNTER』が放送されたころと、しばしばここに書いている「九〇年代サブカル」の時代は少し異なる。まだ八〇年代の気分がどこかに漂っているこのドラマのあとなにかが大きく変わった。個人的には、僕は演劇のほうへ仕事をシフトしてしまったので、中野さんをはじめ、かつての知人たちと距離ができたが、それとはまた異なり、べつの次元で時代の空気は変化した。九五年のいくつもの出来事によってそれが決定的になったと考えられる。
忘れていたことがいっぱいある。八〇年代の終わりから、九〇年代の初頭にかけて、記憶がかなり欠落している。それを少しずつ掘り起こし、それから「九〇年代」について、本になった「ノイズ文化論」とはべつの側面から考えるのが次の仕事だ。もっと資料にあたらなければ。

(12:13 Sep. 21 2009)

Sep. 19 sat. 「高田馬場へ」

雑誌『悲劇喜劇』に依頼されたエッセイのために大学の図書館に行ったのは金曜日(18日)のことで、というのも連休に入ってしまうとしばらく閉館になってしまうからだ。エッセイのテーマは「一幕劇」。で、そう思って考えてみると「一幕劇」にはなにか、鮮やかな書き手のワザとか、なにかしみじみとした味わいといったイメージを持ってしまうが、それは私の勉強不足か。だからといってべつに否定するわけではない。見事な「一幕劇」の世界はきっとあるはずだ。
ただ、たとえばベケットの後期作品などに見る、あの短くてきわめて抽象性の高い劇世界もまた、一幕っていえば、一幕だが、ベケットについて「一幕劇」と表現することはほとんどないだろう。で、あえてベケットについて書こうと思い、ベケット全集第三巻を借りに行ったのだ。なぜか僕はそれを持っていないのである。あったはずだが誰かに貸したのか、なぜかない。それで借りることにした。あるいはなにかの場合と思い、イヨネスコも借りたのは、では『授業』はどうだろうと思ったからで、「一幕劇」というには「不条理劇」でありながら『授業』のほうがふさわしい外観をしており、それは「技巧」の差かと考えると、後期ベケットを考える手がかりにもなると思った。
後期ベケットは面白いが、「なんだこれは」と言いたくなることもしばしばで、それをこの機会にじっくり考えようと思い、あらためて読み直し『オハイオ即興劇』のことを書くことにした。これ「一幕劇」と呼んでいいのだろうか。「即興劇」とありながら、即興でもなんでもなく、ことこまかに、装置のことから、俳優の動きまで指定されている。あるいは、何重にもなっている劇の構造の奇妙さ。細かく読み解ければいいのだが。

腰はだいぶよくなった。
それで本日は、クラスコンパ。「都市空間論演習」と「サブカルチャー論演習」の学生たちと高田馬場で会う。夏休みになる前から約束していたし学生がセッティングしてくれたから欠席するわけにはいかない(とはいうものの、去年は入院したためにクラスコンパを欠席するはめになったが)。で、腰にベルトを巻いて万全の体制だ。学生といろいろ話ができて面白かった。「都市空間論演習」を後期も履修しようと登録したら選外になったという学生が何人かいた。履修を受けつけてもらえる仕組みがどうなっているかわからないが、いまの三年生も前期、履修しようとしたら全員、落とされたらしい。かといってなあ、演習の授業だけに、これ以上、人数が多くなっても困るし。むつかしい話だ。
で、もぐりの商学部のイシハラが、クラスコンパにももぐっていた。イシハラも酒を飲まないがきょうはやけに饒舌で、足のにおいについて大いに語った。そんなに語ることだろうか。どうなんだろう。で、僕は主に、人に変性意識をもたらすある種類の植物について語った。どうなんでしょう。

もうすぐ遊園地再生事業団のオーディションである。どんな人たちに会えるのだろうか。それがまた楽しみだ。連休に入るからか、高田馬場の駅前は人でいっぱい。なにか町が荒れている印象だ。あと、人混みを歩いているといつインフルエンザを伝染されてもしょうがない気になる。向こうから咳をしながらやってくる若者。一時期のようにマスクをしている人も少ない。山手線に乗り新宿から歩いて家に帰る。だいぶ腰が調子よくなったといい気になったら、深夜、少し痛くなる。インフルエンザを腰も油断はならんが、人はすぐに忘れる。

(13:02 Sep. 20 2009)

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