富士日記 2.1

Dec. 31 mon. 「今年もありがとうございました」

山手線大久保駅から

今年はいろいろなところに行った。振り返ると、『ニュータウン入口』を公演したことは、自分の本来の仕事としてもちろん大きかったが、どこかに行ったことばかり記憶に残った一年だった。札幌の「演出ゼミ」では、北海道に住む若い演出志望の人たち、すでに演出をしている人たち何人かと会った。直島に呼ばれ、ニューヨークに行き、そして、京都と大阪へ。それぞれ内容は異なったものの、講演が多かった。人前で話すことがやけに増えた。人間、慣れというやつは恐ろしいもので、はじめは緊張感があったのに、すっかり慣れ、いまではあたりまえのように話しているのが自分で腹立たしい。つねに新鮮さがないとな。きっと飽きると思う。飽きたときの私は、まったくだめである。すぐにそこから逃げ出したくなり、やめてしまうわけで、この飽きっぽさをどうしたらいいのか。日常に耐えるということがこれまでまったくなく、こらえしょうがないというか、辛抱が足りないというか、すぐどこか遠くへ行きたくなるのだ。
この一週間、小説を書き、小説について考え、小説のために町を歩いた。あれからまた八王子に行ったのは30日(日)である。そのまえにみんなと忘年会をやったのが27日(木)だった。笠木や上村、田中らが企画してくれ、今年、僕の舞台に参加してくれた人たちに声をかけ下北沢の居酒屋に集まった。で、『ニュータウン入口』でアンティゴネを演じた鎮西が来ていなかったのでどうしたのかと思ったら、鎮西のところに連絡が行っていなかったらしい。こういうとき一斉に連絡しても、なにかの事故で連絡が来ないという人はしばしばいるのではないだろうか。切ない話である。べつになにか意味があるわけではないのに、連絡が来ないという人。たとえば、ぜったい同窓会に呼ばれない誰かとかさ、なにか悪意があるわけでもないのに連絡漏れしてしまうとかね。悲しいな。みんなともっと話がしたかったが、20数人いると、どうしたって全員とまんべんなく話をすることはできず、結局、いちばん話をしたのは、ちょうどその日、オダギリジョーが映画『パビリオン山椒魚』で知りあった女優のなんとかいう人と結婚を発表し話題になっていたが、その『パビリオン山椒魚』を監督した富永君と、それから白水社のW君だ。富永君とは映画を作ろうと約束してわかれた。
そうやって年の暮れは過ぎてゆく。免許の更新もとどこおりなく行ったが、いろいろ法規が変わっており、僕の免許はこれまでの「普通自動車」ではなく、「中型」になっていた。免許証の悪用を避けるため免許証自体にICチップが埋め込まれ、パスワードで確認する仕組みだ。講習を受けたが、ここでもやはり、「CO2問題」というか、「環境問題」は語られ、まあ、あたりまえのことだと思うが、いままで公的に考えられなかったのもいかがなものか。講師がその話をしはじめたとき、やっぱりきたか、と思って笑い出しそうになった。時速20キロで走ると環境に優しい運転ができるようです。そりゃ無理でしょう。

べつに今年一年を振り返ることはないが、このノートを読み返すと、それなりに一年がわかってメモとしてはとてもよくできている。まんべんなく俺は、小説のことに触れている。まだ書いてない。だめじゃないか。ここにきてようやく書けるようになってきた。年明けには書き上がる。ぜったいに終わる。というか、すでに予定の枚数より長くなっている。先のことを考えぬまま仕事をしているのだった。今年もたくさんのメールをもらった。ありがとうございます。返事がまったく書けませんでしたが、全部目を通していますし、いろいろ示唆されることが多かった。来年もまたよろしくお願いします。稽古場にいる時間は当然、長かったが、そこから意識して外側に目をやらなくてはと思うのだ。八王子に行くのに京王線で向かったが、前の座席に腰を下ろした人たちが、みんな携帯電話でなにかを読んでいる。すごい光景だった。でもそれもいまやあたりまえの姿なのだろう。そんな二〇〇七年の年の暮だった。

(15:39 Dec, 31 2007)

Dec. 24 mon. 「また八王子へ」

八王子八十二銀行

小説を書いている途中で、もう一度、八王子に行きたいと思って急遽出かけたのは、午後ももう2時を過ぎたころだ。写真は八十二銀行八王子支店。学生だった僕がはじめて口座を作った銀行で、この近くに住んでいたのでとても便利だった記憶があるが、そのころと外観がほとんど変わっていないのに驚かされる。銀行っていうのはそうしたものなのだろうか。ただ、当時(一九七六年ぐらい)はまだ「銀行振り込み」は一般的ではなかった記憶があって、たとえば田舎からの仕送りはそれまで現金書留だったし、その後、仕事をすることになったころも報酬は、直接、会計にもらいにいっていたから八〇年代の初頭まで銀行振り込みは、いまのようにあたりまえではなかったのではないか。
八王子は寒かった。その後、町をぶらぶら歩き、あらかじめ古書店がどこにあるか調べてあったので、それを探した。一軒の古書店はたしか30年近く前にもあった記憶があるが、記憶が曖昧だ。どうだったかな。八王子の町もすっかり変わったからな。ただ、記憶にあった店に比べたら本の数が圧倒的に少なくなっており、コミックがかなりの量、棚を占めている。なかにはかなり貴重なコミックがあってほしくなったが少し高い。ただ、これといってめぼしい本がないので、内田百間(ほんとは門構えに月)の古い単行本を見つけそれを買う。このあいだ来たときは京王線を使ったが今回クルマで来たのは、寒かったっていうのもあるけれど、単純にいうといろいろ移動するのに便利だからだ。古書店を探す前に、八王子のなかにある「田町」という一角に行ったのは、そこがかつて遊郭だった町だからで、僕が住んでいたころはまだ、そうした面影がかなり残っていた。いまはもうない。ただ、住宅街のなかに短い距離の不自然に広い道路がある。いまは歩道のある道路になっているがかつてはだだっぴろい通りだったと思う。道の両脇にたしか、遊郭風に柳の木が等間隔に並んでいたと思う。いくつかそのころをしのばせる木造の朽ちかけた建物がある。あのころ中をのぞくと、広い間口の玄関の向こう、すぐ入ったところに二階に通じるやはり幅の広い木の階段があって、いかにもそれふうの宿だった。二階には縦に細かい格子がある窓。まだあのころはそんな風情が残っていた。
八王子をあとにして国道20号線、つまり甲州街道を新宿方面に進んだが、なんか、道が変わったのだろうか。国道20号線だったはずの道がちがう名前になっていた。府中に寄る。ここもかつて長いあいだ住んだ町。ただ、僕が使っていたのは東府中という駅だが。府中の町中にも古書店がかつては何軒もあったけれど、いまはもう、なくなってしまったのか、一軒だけ、かつてからよく知っている店に入った。そこで、この小説にとってきわめて貴重な資料になるだろう本を発見した。ある人物の評伝。じつはきのうの夜、アマゾンでそれを注文したが、こうした偶然といったものにはなにかよくわからない力を感じ、迷わず買った(あとでアマゾンのほうはキャンセルしたよ、申し訳ないけれど)。いい取材になった。この本を見つけただけでもかなりの収穫だ。たしかにそれは、大きな書店に行ったり、古書店を丹念に回れば見つけられた本かもしれないが府中で見つけたこと、出会ったことに意味があったのだ。家に戻ったら、筑摩書房の井口さんが送ってくれた筑摩文庫の一冊、雨宮処凜さんの『生き地獄天国』や、アマゾンに注文していた本が何冊か届いていた。極楽な気分になった。

そして、小説の執筆はまだ続く。きのう(23日)はなにをしていただろう。小説も書いたけれど、テレビも見ていた。本も読んだ。「LIVE! nomedia 2006」のページも作っていた。あ、きょうはクリスマスイブだったのか。仕事をしていたな。八王子のケンタッキーフライドチキンには行列ができていた。府中のケンタッキーにも行列。いったいなにごとだ。

(6:03 Dec, 25 2007)

Dec. 22 sat. 「ライブ・ノーメディア、そして小説」

nomedia DVD告知

エスパルスと、FCホンダがともに延長の末に負けていやな気持ちになった土曜日だったわけである。さて左にあるのは、去年の2月にあった「Live nomedia」がDVDになるということで、その告知に用意された画像である。横浜の「Bank Art studio NYK」で公演されたポエトリーリーディングの模様だ。詳しくはこちらのページへ。詩人のぱくきょんみさん、田口犬男さん、谷川俊太郎さん、ミュージシャンでは、銀杏BOYSの峯田和伸君、遠藤ミチロウさん、友部正人さんといった豪華メンバーに加え、僕もリーディングしている。僕は詩ではなく、エッセイを読んだ。『牛への道』のなかにある「スポーツドリンク」だ。もうあれから二年近くになろうとしているのか。早いな。ものすごくお客さんが集まった。おそらく峯田君のファンではなかろうか。いろいろな人が登場してすごく面白かった。2月のBank Art studio NYKは外に出るととても寒かった。いろいろ思い出す。遠藤ミチロウさんはスターリンというパンクバンドのイメージしかなかったので、怖くてしょうがなかったが、会ったらとてもいい人だった。以前も書いたが、ミチロウさんの詩を聞いて寺山修司に影響されてるんですかと質問したら、いままでにもう一人だけ同じことを言った人がいるとの返事。カルメン・マキさんだという。なるほど。
さて、この数日は小説を書いていた。で、金曜日(21日)の朝、「新潮」のM君とKさんに、書けたところまでメールで送る。ようやく半分ほど書けたのだ。それから準備して、白山にある京華学園女子高校に行ったのは午後だ。高校生に演劇の話を一時間ほど。「舞台美術を創ろう 舞台装置模型製作セミナー」の一環だ。できるだけ高校生に向けてとこころがけたつもりだが、少しむつかしい話になってしまった。やさしく話すというのはとても大変なことだと痛感した。
それでいったん家に戻って少し眠ったあと(というのもあまり眠っていなかったからだ)、「新潮」のM君とKさんに初台で会って食事をする。オペラシティの上階、たしか34階あたりだったと思うが、そこにある高級な焼肉店に入った。夜景がものすごくきれいだった。ただ、わたしは差し歯が取れてひどい状態になっているのである。うまく肉が食えない。そんな状態のまま、小説についていろいろ意見を聞く。「差し歯が取れた人」に向かってまじめに小説の話をするのはさぞ不可解な気分だったと思うが、二人とも、いろいろ考えてくれてうれしかった。でも、まだ途中だ。年内に完成させたい。M君が一人称による私小説的な書き方でいいんじゃないかと意見してくれたが、なんというか、「私小説」という枠組みは照れるわけでして、そこで「私小説」のようなふりをしつつ、うまくうそが書けたらいいと思うのだ。書いているうちに、どんどん小説が面白くなる。このところまったく書いていなかったので、小説にからだが乗れないという感じだったが、書くことでようやくそれを取り戻した。小説を書くからだになってきた。

山手通りの下に建設されていた地下の首都高が一部開通したのである。きょうの夜、ためしに走ってみた。なかなかに快適だが、これ、単にトンネルだ。かなり長いトンネル。これでほんとうに東京の渋滞は解消されるのだろうか。渋滞が解消されると、CO2が削減されるとの話だが、トンネルだけにどこまでも照明がつけられ電気はかなり消費するのではないだろうか。これ24時間なわけでしょ。電気つけっぱなしで24時間。どうなんだろう。「CO2が削減」とか、「地球の環境を守る」と言っておけばなんでもやっていいのかよ。誰かが作りたかったんだよな。本気でCO2を削減するつもりなら、もっと根本的なことからはじめたらいかがか。東京に人やものが集中するのを変えれば、こんなに渋滞もなくなるだろうし、その一方で地方の経済状況はがたがたになっているんだから、そこらあたりから手をつけたほうがいいんじゃないかってのは素人だってわかる。とにかく道路を作りたい誰かがいる。白水社から岸田戯曲賞の候補作が届く。これから少しずつ読んでゆこう。

(9:10 Dec, 23 2007)

Dec. 19 wed. 「懐かしい知人のブログ」

懐かしい知人が「株に関するブログ」を書いているのを知ってつい読みこんだのは、株で失敗し多額の借金をしたような、いわゆる「ダメブロガー」の文章を、最近、読む機会が多かったからだ。そうやって検索しているうちに知人のブログも発見したのだった。知人も失敗しなければいいがと思いつつブログを読んでいると、株をすることで、その側面から社会を見ているのがとても興味深かった。たとえばライブドアが「事件」になる以前からライブドア株を買っていた知人はその報道に接し、堀江を擁護しつつ事件を世代闘争のように見ている。

ホリエモンは宮崎勤ではない、ということ。
別に粉飾決済だって、これまで様々な企業がやってきたことだし、小さな会社が赤字決算をごまかすなんて日常茶飯事。前の株の時間外取引だって、江川のドラフトみたいなもので、システムのほころびをついた、むしろ古い常識をイリーガルなやり方ででも突破しようとする堀江を支持してたんじゃないのか、我々は。
ヒルズ族に少々ダーティな裏側があったって、のしあがるためには当然。彼らはピカレスクヒーローなんだから(古い)。どっちにしろ、そのダーティさはオタクの領域、永田町の住人ほどではないって。いくら違法な行為をしてたところで、少女を監禁して殺害したワケじゃないんだから、ニュースとしてはそんな大きな問題じゃありませんよ。誰かが株で何千万損したところでな。

ライブドア=アルカイダ説。
そんなことあるかいだ! と言っても、まあ堀江はトリックスターであって、2階に上げられたら誰かがハシゴをはずすだろうってのはわかってたハズだ。しかし旧体制=老害に牙を向く自爆テロリストとしての堀江を一度支持したかぎり、我々も全員テロリスト、ライブドアの株を買ったことのある人はみんなアルカイダのメンバーになったようなものだ。
これは世代闘争なのであって、ライブドアをきっかけに、ブームに乗って株を買い出したぼくらのような素人トレーダーに一度冷や水を浴びせて、市場からいったん撤退させようとする古だぬきの陰謀なのだ。
「昨日今日株を買い始めた連中に株価を左右されるのはマッピラだ」「IT族だのなんだの、ね、パソコンの画面上だけで取引する『虚業』を続ける、ワケのわからないTシャツ着た連中は引っ込んでろ、くやしかったら頭を下げろ」とナベツネを始めとするジジイどもが考えてるんですよ。あいつらは東証が下がろうがどうしようがビクともしないんだもん。
しかし例えライブドア株が塩漬けの0円になろうとも、くじけるな、と。これは時代と闘った証人としての誇りだ! という気持ちを持ってホールドしてみましょう。

 ああ、面白い。なんて面白いんだ。「株価」の変動を中心に社会を見る「ごく普通の人」の言説から目が離せなくなった。そしてその数日後には、こう書いている。自分では株をやろうと思わないが、こういったブログはどんどん書いてもらいたい。ためになる。読んで面白い。人ごとだから無責任な気持ちだが、まあ、とにかく大きく失敗して破滅しないことだけは祈りたい。なあ、賢崇よ。

セゾン文化財団のパーティに行ったのは火曜日(18日)だ。いろいろな人に会った。みんながこのノートを読んでいる。松田正隆や矢内原美邦、桜井君、ペンギンプルペイルパイルズの倉持君らにも会ったが、そのとき関西から来ている劇団の人たちにも会い、少し話をした。「デス電所」という劇団の名前は以前から知っていたが、「イキウメ」という劇団の人もいて、どうなんだ、その名前は。まあ、人のことは言えないが。小説のことがあったのでまったく落ち着かないし、みんなが活発に活動しているのをはたから見ると遊園地再生事業団の今後のことを考え憂鬱な気分だ。パーティをあとにし家に戻って小説を書く。少し進む。きょうもまた書いていたが、何度も推敲してちっとも先に進まない。どんどん書こうと思うが、行きつ戻りつ。でも、ようやく形になってきた。夕方、また髪を切ってもらう店で坊主頭にしてもらった。突然、頭上から寒さを強く感じる。冬だな。

(12:12 Dec, 20 2007)

Dec. 17 mon. 「ぼんやり見ている」

年の暮の町にて

先日、とある場所でコーヒーを飲んでいるときだった。コーヒーショップのある建物の、べつの店から出てきたのだろう人たちが、あとから来る人たちを待っているのをぼんやり見ていた。結婚式の二次会が終わったところだろう。新郎と新婦の友人たちだと思うが、とりあえず、式と二次会では同じ時間と空間を共有していたものの、しかし、それほど親しくはないという感じがその「待っている時間」に漂っていた。よく知らない女たちと親しくしたい男たちがいて、それが少し迷惑そうな女もいれば、なかには少しは親しくなりたい女もいるというこの状況がきわめて微妙だ。次第にそれが面白くなってきて、面白いと思いはじめたら、あとはもう夢中である。微妙な関係が生み出すこの微妙な感じのなかに立たされた彼らは、どうしたって微妙なからだになっている。だがその背景に、それぞれの劇があるのだろうと想像すると、なにかのきっかけでそのからだが変化するのではないか。それを待っていた。やがて新郎新婦が花束などの荷物を抱えてやってきた。また関係が変わる。からだも変わる。それぞれの劇を内包しつつ発生していた「微妙な感じ」が新郎新婦の登場によってその一点に向かって変化する。
「関係の劇」はそこに「人物」を出現させず、あくまで「関係」が主体となって進行する。そうした「劇」が生まれてからもう五十年以上が経ってしまった。だからそれも新しくないという印象はどうしたって否めないものの、かといって過去に戻り、過去の劇(=近代劇的なもの)を無反省に書くこともできないが、それとも異なるドラマの現在的な可能性はなにかを考える。あの「微妙な感じ」を見る目はきわめて観察者の覚めたそれだが、「観察者」であることがときとして傲慢になるのなら、もっと異なる視線で「関係」を見つめられないだろうか。それはおそらく、「関係」をざっくりと構造化するのではなく、構造を組み立てている細部を、ひとつひとつよく見つめることになるのは九〇年代以降の演劇がやってきたことだとすれば、ややもすると「構造」そのものを忘れてしまうことになるから過去の劇へと逆戻りする危険はあった。構造化を前提にし、さらに細部を、あるいは「構造を構成する局部」を見逃さぬまま、べつの視点をそこに導入することはできないか。その可能性を「テキスト」のレベルではなく、新しい身体のありようとしていまというこの時代から読み取ることが大事だと考えるから、こんなふうにぼんやり町を見つめている。だから、先日書いた、赤木智弘著『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か(双風舎)は刺激的だったし、「日刊デジタルクリエイターズ」というメールマガジンで読んだ、武盾一郎という人の「ふたつの見えにくい『暴力』」に示唆されることは大きかった。これが現在なのだろう。
16日は「ENBUゼミ」に行って講義をした。京都清華大学で話したことと重複する部分がかなりあったが、ゼミに来ているのは、主に俳優志望の若い人たちだから、その人たちに向けた内容に変えて話を進める。終わってから、帰ろうとした僕を追ってきた人がいて質問を受けたが、内野儀さんの教え子らしい。いちおう質問に答えたが、疲れていたのでうまく話ができず、なにかあったらあとはメールに書いて送ってと、ついごまかして帰ることにした。申し訳ない。メールをもらえたらうれしいのだが。それにしても、僕は曙橋にあったころのENBUしか知らなかったので、お茶の水駅の近くに移転した新しいENBUゼミがやけにきれいな建物に入っていたので驚いた。きょうは連載原稿を三本書いた。すぐに締め切りはやってくる。いやになる。

(2:57 Dec, 18 2007)

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