Mar. 31 sat. 「かっこいい政治集会へ」
■ほんとに忙しいよ。戯曲が落ち着いて書けない。30日の夜は六本木のSUPER DELUXというクラブでイヴェントがあった。茂木健一郎さんや、川勝さん、下井草さんらと話をした。茂木さんと話している途中六ヶ所村の核廃棄物再処理工場に反対する運動をしている人が話に加わったりし各方面に神経を使わなくちゃならなくてものすごく疲れた。ただ、いろいろな人が登場して好き放題に発言するこの空間が、自分も参加していながら対象として興味深かった。クラブキング周辺の人たちだけではなく、たとえば森達也さんとかいたら、もっと熱のこもった話になるかもしれない。あるいはフリーマイクにして誰でも発言できるようにし、会場全体に熱がこもれば面白かっただろう。
■川勝さんたち文化デリックと話したとき、YOU TUBEからダウンロードした過去の都知事選泡沫候補の政見放送をDVDから流した。それであとで思ったんだけど、「高円寺ニート組合」の人らの活動の映像も、あまり脈絡はないけど流せばよかった。というか、ある意味、マルチチュードによる政治集会みたいになったらそれはそれで面白かっただろう。そういうものはほかにないでしょ、いま、SUPER DELUXのような場所でそんな現象が生まれるといった驚きが。新宿のロフトプラスワンではなく、六本木のクラブ。折しも東京ミッドタウンのオープンの日で町はにぎわう。午前三時前、クルマで家に戻ろうとしたら六本木の町ではろくでもない連中がうろうろしていて、酔った勢いで道に飛び出さんばかりの状態だったわけだが、それ、轢いてもいいんじゃないかって気にもなったのだ。
■で、31日は、多摩美の上野毛校舎に行って清水邦夫さんの退官記念の上演会を観る。別役実さんとアフタートークをした。世田谷パブリックシアターの高萩さんの司会。舞台が1時間10分ぐらい。アフタートークが1時間半。トークのほうが長いという、ちょっと奇妙な気がしたけれど、でも、別役さんの話がすごく面白かった。いちいち勉強になる。多摩美の上野毛校舎は僕が受験をした場所だったので、懐かしくそのころのことを思いだしたが、ほとんど当時と様子が変わっていない。舞台公演のできるスタジオもあって、旧来の建物に手を入れたんだと思うけど、演劇を勉強するにはある程度の環境があることに驚かされた。で、『ニュータウン入口』には、多摩美の卒業生や在校生が、俳優、スタッフに何人かいて、ここに来て、やけに多摩美と縁ができたのだった。九月の本公演には、授業の一環として演劇を勉強している学生が団体で観に来てくれるという。そのあと大学で学生たちに話をすることに、きょう、急に決まった。縁というのは、なにがあるかわからないものです。
■といったわけで、もっと詳しく書きたいけれど時間がないのでまたにする。
(8:17 Apr, 1 2007)
Mar. 28 wed. 「その向こうと、ここ」
■左の写真は、ずいぶん以前、「PAPERS」で取りあげた下北沢にあったお店「ボンベイジュース」の方から送っていただいた「尾崎放哉Tシャツ」である。放哉の句によって、放哉の顔が描かれている。つまり文字をドットのように使って顔が描かれている。すごくいいTシャツだ。とてもうれしかった。メールによると、「以前に、宮沢さんのウェブか著書か、どちらか失念しましたが、そこではじめて尾崎放哉を知り、かなり良かったので、今回Tシャツにしてみました」ということだそうで、なにかお役に立てたようでそれもうれしかった。お店はその後移転し、いまは下高井戸にあるそうだ。で、サイトに行って店長のブログを拝読すると、「ビラオカさん」という人物がやけにおかしい。いるんだなあ、ガンジャを買って町を歩いていると、マッシュルームを売ってくださいと若者に声をかけられるような人物が。ともあれ、ありがとうございました。
■さて、不安だった仕事をきょうは無事に終える。ある大きな企業の、よくわからなかったが「なにかの部門」の取材である。取材だと思って出かけたら、あちらの方たちの「勉強会」のようなもので(彼らの言葉では「スタディ」だったが)、僕はそこに呼ばれ、質問に応えてゆくという形式だ。だが、堅苦しいものではなく半ば雑談のような雰囲気だったのでほっとした。でも、「2、3年後の生活者の望んでいるもの」という質問にはまったく自信がない。わからないのである。だけどなんとなく応える。そもそも、わたしにそのような質問をするのがまちがっているのであって、劇作家が「生活者の2、3年後」を予言者のように語れるわけがない。もちろん「人」には興味がある。社会のメカニズムを劇として考えようとはしている。あるいは、劇のことを考えることで社会と人のありようにについて、そのメカニズムに意識的になっている。ただ、うっかりしているとそうした作業がこうして資本に援用される。かつて電通だって、現代思想を引き戦略を練っていたとどこかで読んだが、使えるものはなんでも使う。そういうことを、ものを作ってゆく人間としてどう考えればいいかと思う。表現者をとりまく、この資本という大きな運動体のことを。
■ある場所で、早稲田を卒業したばかりのKとSに、偶然、会った。少し話をしたら、ちゃんと卒業式にも出席したという。まったく、なんてちゃんとしたやつらだ。「ガンジャを買って町を歩いていると、マッシュルームを売ってくださいと若者に声をかけられるビラオカさん」のことを見習ったらどうだ。なかなか、そう生きようと思ったって、生きられるものではなく、人はしばしば、生活のなかにまみれる。というか、そうなろうと思ってなれるわけではない。「ビラオカさん」はきっと特別な人なんだろう。あるいは、そのようにしか生きられない者もいて、それを決定づけるのは、多様で複雑な世界において当然だ。だが、世界はしばしば単純化される。ロジカルに決定される。だから「多様さ」を僕はもっと知りたい。ヨルダン川西岸で人はどのように生きているかほとんど知らないが、想像力を働かすことはできる。そしていま自分がいるこの場所で生起するどんな小さな事象もまた、あの土地で起こっていることと、どこかつながっているのを知ることができる。ものを作るのは、「いま、ここ」だが、それは、あの土地ともつながっているし、世界中のありとあらゆる場所とつながっている。その想像力と理解する方途について考えていた。
(9:21 Mar, 29 2007)
Mar. 27 tues. 「ワークショップと親睦」
■『ニュータウン入口』の出演者に集まってもらい、ワークショップと親睦会の日にした。ほんとは詳しく、当日の模様を書きたいが、きょうはなんだかすごく疲れたのだ。親睦会から家に戻ったらぐったりしていた。ものすごく眠い。それで眠ったらこんな時間に、また目が覚めてしまった次第。最初、僕からみんなに今回の舞台の話をした。これまで、このノートに書いていない、ほんとに戯曲に書こうと思っていることを出演者だけに話す。これは舞台を観て、なんとなくわかる人にはわかる感じの、曖昧なもの。「ニュータウン」がテーマのようで、じつは「そこ」といった感じの劇になる予定。それはリーディング公演を観てから、観客の方に、それをどう受けとめたか、この戯曲段階での表現でいいか、感想を受けたいと思っている。このあいだ、京都の方から舞台について示唆的なメールをもらったと書いたが、じつは、その方のメールの内容が、もう、どんぴしゃなところがあって驚かされたのだ。なんだか、もったいぶったような内容の話で申し訳ない。ただ、おおぴらにそのテーマを書くのも気がひけるのだ。隠しておきたい部分でもある。で、とにかく疲れちゃったので、きょうはこのへんで。これくらいのワークショップで疲れているってのは、もう、この先、稽古がはじまったら身体がもつかどうか不安になった。そして、植木等さんが亡くなられた報を知りものすごく落ち込んだ。子どものころのアイドル。あと、ずっと前に入れていたスケジュールがここにきて、集中しており、人間、先のことはわからないとはいえ、こうまで集中し、そしてリーディング公演を前に、戯曲を書く時間がほしいときにいったいなんだよと思いつつ、もっと熟考し戯曲を書く時間をしっかりとっておくべきだった。自分の計画性のなさにがくぜんとする。それから、すべての稽古スケジュールが大丈夫だと言っていたチェルフィッチュの山縣太一が、スケジュールがやっぱり厳しいといまさら言ってきたときには、一瞬、こいつ降ろそうかなと思ったが、まあ、ろくでなしだと思えば、それもしょうがないとあきらめるしかない。なにしろ最初は、本番の日に稽古があるから来られないとでたらめなことを言っていたらしい。そのでたらめさに、ある意味、感心した。そのでたらめさが太一の持ち味だ。なにしろチェルフィッチュのあの表現の核は、要するに太一だろ。チェルフィッチュの岡田君も、「太一は、常識はないが、ばかではない」と言っていると太一自身が言っていた。まったくだよ。これから稽古中は、太一の悪口ばかり書こう。というか、このページを「山縣太一でたらめ観察日記」とタイトルを変えるのも面白いような気がする。っていうか、もう、山縣太一のろくでなしぶりで九月までひっぱってゆこうかと。
(5:24 Mar, 28 2007)
Mar. 25 sun. 「舞台を観る」
■問い合わせがあったので、オーディションで出演が決まった俳優を明記して、『ニュータウン入口』のページを書きかえました。いろいろなところから人が集まりました。青年団の二反田君や、チェルフィッチュの山縣太一も出ます。みんなとても魅力的です。
■この二日、舞台を観ていた。土曜日は、アイルランドの「ドルイド・シアター」という劇団の『西の国のプレイボーイ』という作品を新宿のパークタワーホールで観た。「東京国際演劇祭」の一環で上演されたのだが、その「東京国際演劇祭」そのものを忘れていたのだ。観ておくべき舞台がいくつもあった。
■ウズベキスタンのイルホルム劇場が上演した、『コーランに倣いて』はぜったいに観なくちゃだめだった。ほかにも、レバノンのラビア・ムルエが演出する『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』も観るべきだった。失敗だ。あとでネットで確認してすごく後悔した。だめだ。遺跡捏造事件のことばかり考えてる場合ではなかった。ほんとは、レバノンのラビア・ムルエの作品は今週の火曜日までやっているが、どちらも予定が入っているじゃないか。火曜日(27日)は次の舞台のためにオーディションで選ばれた出演者のためのワークショップをやるが、昼間だけワークショップにして、夜、その舞台を、全員で観ようかと思ったのだ。うん、ワークショップもいいが、そういうのも稽古の一環として、勉強になるような気がする。
■そして、きょうは、江古田のストアハウスで、こんど僕の舞台にも出てくれる杉浦千鶴子さんの『しあわせな日々』を観た。いわずとしれたベケットの傑作。ほぼ一人で一時間五〇分。この、一見、無意味かと思われるような膨大な台詞で、これだけの時間をもたせられる杉浦さんの力がすごい。これ、若い女優だったら五分ともたないと思う。当然、すごいと思っていたが、杉浦さん、ほんとにすごいな。劇場で、以前、僕の舞台に出ていた岸に会って(岸はこの舞台で映像を担当している)それで聞いたのは、杉浦さんは二〇代のころこの作品をパリで観て、五〇代になったら自分で演じたいと思ったという。その時間の考え方が立派だ。時間について人はすぐに焦る。だけど、できないものは絶対にできないだろうし、五〇歳を過ぎてはじめて生まれる表現はぜったいにある。
■で、話は前後するが、「ドルイド・シアター」の『西の国のプレイボーイ』は、ベケットと同じアイルランドの作家、ジョン・M・シングの一九〇七年に書かれた戯曲だという。
■いくつかのことを考える。たとえば、チェーホフの『三人姉妹』がそれより数年早く発表されているとはいえ、ほぼ同時代に書かれた戯曲でありながら、圧倒的に日本での受容はチェーホフが多い。まあ、かつての日本にとってロシアが演劇先進国であった事情もあるだろうが、今回の『西の国のプレイボーイ』を見た限りでいえば、そこにある「劇の質」やどこか持ってる「毒」が日本であまり受け入れられなかったと想像する。チェーホフ的な「喜劇(じつは悲劇的な状況)」はこの国の土壌にたやすくなじんだ。そういう国じゃないだろうか、この国は。ただ、終演後、ドルイド・シアターの演出家ギャリー・ハインズとアフタートークで話していた早稲田の岡室さんたち何人か、アイルランドを専門にしている方と話してつくづく、アイルランド演劇について僕はなにも知らないと痛感した。
■はじめに感じたのは、『西の国のプレイボーイ』はよくできた喜劇だということだ。けれど、父親を殺してきたという放浪の男がある村にたどり着いてその自身の身の上を語ると、なぜか、村の人たちが、「それはすごい」と礼賛するこの皮肉な状況はまるで不条理だ。そして男はいつのまにか村の英雄になってゆく。その「いつのまにか感」が奇妙だった。ただ、そこに殺したはずの父親が登場することで(つまり、じつは死んでいなかったことで)劇はリアリズムになる。息子は、また父親を殺す。すると村人たちは、物語として男から語られる「殺人」は英雄譚だが、目の前で起こった殺人は、殺人だという、よくわからないことを言い出す。そして男を拘束して警察に突き出そうとする不可解さはなんだろう。そうこうするうち、再び父親が生きて登場する。このナンセンス。そして、夫と子どもを殺したと語る未亡人の存在。不可解なものをいくつも抱えながら、劇はリアリズムとして展開してゆく。イプセンやチェーホフの近代劇とは、シングの近代劇は、劇がどういった土台の上に存在するかによって印象が異なる。シングは奇妙な枠組みにあることで不思議な感触を与える。
■あと、この作品の舞台になっている土地のことも考えていたが、それをうまくとらえられないのは、正直、アイルランドのことをほとんど知らないからだ。以前、スコットランドの戯曲のリーディングを演出したとき、その田舎ぶりについてそれをどう考えればいいのか悩んだ。ただ、たまたま中上健次の『地の果て至上の時』を再読していたこともあってまたちがう意味で「土地」を考えていたのだった。『枯木灘』で新宮と路地を舞台に小説を書いた中上健次は、おそらく、『地の果て至上の時』で、また異なる視点から同じ「土地」を見ていたと思う。先に書いたシングの劇の、チェーホフなどとの「枠組み」のちがいは、やはり「土地」のもたらす力によって生まれる土台の異なりではないか。で、シングはそれを意識的に書いているように読める。だから、あの夫と子どもを殺した未亡人が登場する。あの女が象徴する哀しみは土地の哀しみだ。上演した「ドルイド・シアター」がこの戯曲にひかれるのは、その土地に生きる者として、シングの描いた土地のもたらす力に深いところで共感しているからにちがいない。
■上演した「ドルイド・シアター」が、首都ダブリンではなく地方に拠点をおく劇団だと、資料を読んだり、アフタートークで知った。それで韓国の「木花」という劇団のことを思いだしたものの、まあ、共通するのは地方を拠点にしていることだけだろう。ただ、その「木花」がソウルで公演していた平田オリザ君の『ソウル市民1919』はまったく青年団のあの方法ではなくごくふつうのリアリズムだった。そういった意味で、「ドルイド・シアター」と「木花」の表現の質がどこか似ていると思ったのと、『ソウル市民1919』ではアイルランド民謡が替え歌で使われているから余計に共通するものを感じたのかもしれない。あと、「木花」の『ソウル市民1919』はどっかんどっかん観客が笑うという喜劇になっていて不思議な気分になったわけだけど、『西の国のプレイボーイ』も本来ならそうしたものになるんじゃないだろうか。
■というか、やっぱり、シングの書いた『西の国のプレイボーイ』を、「ドルイド・シアター」が、現代のものとして表現している印象はある。すごく早いからね。この速度は現在でしょう。あと、みんなものすごくしゃべる。
■やはり、なにか見れば考えることを必然的にうながされる。たとえ、それが的はずれでも、考えることはでき、なにか触発される。正直、これを書くのにジョン・M・シングのことを少し調べた。あんまりなにも知らないまま考えるのもどうかと思ったのだ。あとアマゾンで、シングの戯曲集を注文したのだった。だからなあ、「東京国際演劇祭」のほかの作品をちゃんと観るべきだった。もっと刺激を受けたいのだ。きょう観た杉浦さんの『しあわせの日々』も考えることがいっぱいあった。とりあえず、ベケットの戯曲を読みかえそうと思った。書きたいことは、ほかにもいろいろあるが、ここで力つきた。
(7:57 Mar, 27 2007)
Mar. 23 fri. 「打ち合わせ」
■打ち合わせが二本。渋谷の東急文化村のなかにあるレストラン「ドゥ マゴ パリ」だ。ここもできてからかなりになると思うが、むかしとほとんど変わっていない。ただ名前が、かつては「カフェ・ドゥ・マゴ」だったと思うが、「レストラン」が冠につき、さらに、最後が「パリ」で締めくくられている。ただしお茶だけでもいいみたいだった。できたばかりのころ、パリ風のカフェはギャルソンがみんな白人だった(どこの国の者らかはわからない。フランス人じゃなかったような気がする。ベルギー人だったかもしれない。知らないけど。)。そのころ近くに住んでいたのでよく打ち合わせに使ったがそのギャルソンの存在が理解できなかったのだ。まあ、どうでもいいけど。
■まず、白夜書房のE君と「ノイズ論」を単行本化する日程などの打ち合わせ。刊行に合わせて七月に新宿紀伊国屋ホールでイヴェントがあるのでそのアウトラインを決める。それから単行本のスケジュール調整。四月から五月にかけてひどく忙しいことになってしまった。
■さらに川勝正幸さん、下井草秀さんの「文化デリック」の二人と、30日にある「クラブキング」のイヴェントについて相談。はじめはこんな感じでと話していたが、その後、雑談しているうちに、このほうが面白いんじゃないかという流れになった。面白かったなあ、二人と話しているのは。二人ともいろんなことをよく知っているし、その語り口がすごく面白い。それでつられて僕もいろいろ思いつき、結局、「その方向で」って話になったのだ。まあ、内容は当日のお楽しみである。あと、いろいろこのイヴェントについても考えたことがあって、なにしろ、「表現の自由」がテーマだから自由に表現しようと思ったのだ。
■それにしても永井に渡されたスケジュール表を見たら仕事が埋まってしまい、身動きがとれないというか、いまてんてこまいになってきた。今月ももう残りわずかだ。かなり焦っている。だけど、観たい外国の舞台がいくつかある。って、いまごろ気がつくなよ。スケジュールがぎりぎり。そして、四月になったらもう、舞台だ。リーディング公演の稽古がはじまる。そういえば、『ニュータウン入口』の、公演情報ページの概要みたいな文章を書きかえたのだった。いろいろ考えているうちに書こうと思っていたことが変わったのである。で、四月のリーディングを経、さらにプレ公演、九月の本公演と、そのうちにどんどん変わってゆくかもしれない。
■京都に住むSさんという方から、「ニュータウン」について長文のメールをいただいた。Sさんもニュータウン出身だという。内容も刺激的だったがなにか励まされる気がしたのだ。ほんとにうれしかった。それにしても、戯曲である。
(7:16 Mar, 24 2007)
Mar. 22 thurs. 「新橋演舞場へ」
■若松武史さんが出演なさっているというので、招待していただき、いま新橋演舞場で公演をしている舞台を観に行った。木の実ナナさんが主演なさっている『ミュージカル阿国』だ。
■公演は昼の12時半から。家を11時ぐらいに出て演舞場の前で制作の永井と待ち合わせ。この劇場で芝居を観るのははじめてだ。途中の休憩を入れて3時間半ほどの上演時間。そのあいだ、若松さんをはじめ、みんなものすごく動く。踊るし歌うしで、そのタフさに驚かされた。よくできたエンターテイメントだなあ。僕とは縁があまりない。いろいろ観ながら考えることがあったが、ストーリー上、なんらかの「メッセージ」があるのはエンターテイメントにおいて「定型」のような気がする。それがストーリーの担保になっている印象。で、それがどうかという判断はともかく、メッセージが、たとえば「権力に逆らって庶民がかぶく(ここではいわば、取り澄ました権威をでたらめな踊りで攪乱するとでもいうか)」はいわば、「対抗文化」のような、牽強付会な感じですが「六八年革命」的なものとしてあるが、これって、いまではなにか凡庸な気がするのだ。誰でも言いそうだ。「六八年革命」的な(あくまで、「的な」)心性とでもいうか。こうしてエンターテイメントに簡単に取り込まれてしまうのを観ると、そのメッセージもまた、あたりまえに誰もが考えている陳腐なものに感じた。
■というか、いまでは紋切り型になっているのを感じるのだ。そういっておけば、まあ、まちがいないとでもいうか。そして庶民はそうしたヒーローに憧れるが、じゃあ、社会がそうして変化したかっていうと、なにも変わっていないようにも思える。権威的なるものに反抗するヒーローは、たとえば「堀江」のような姿でしばしば出現する。Tシャツ姿で既成の権威を壊すように現れた彼に、少なからずの人が共感をもったではないか。だが、それでなにが変わっただろう。堀江の保釈金は五億だという。まあ、彼の努力や才覚もあったろうが、そんなにもってんのかよおまえはと、思わず腹立たしい気分になった。
■終演後、若松さんに会った。新橋演舞場の楽屋はそうした劇場の楽屋にふさわしく、各楽屋にこうした劇場らしい「のれん」がかかっていた。若松さんは相変わらずだが、タフですねえ、というと、さすがに昼夜二回公演の日は疲れるという。かつて寺山修司のところで前衛劇をやっていた人がいまはこうした舞台をしている。全体が時代劇のなか、若松さんの時代劇らしいからだのキレがかっこよかった。こういった演技の教養を若松さんが、寺山さんのところで身につけたとは思えない。どうなっているのか不思議に思った。
■正直、にぎやかだなあとか、まあ、エンターテイメントに徹したその姿には感心したものの、ある時代のものじゃないかとその舞台を思ったのだ。でも、それを否定しない。こういう劇があってもいいだろうな。僕には作れないけれど。
■開演が早かったので寝不足。家に戻って眠る。目が覚めてからいろいろ勉強した。編集者で元筑摩書房の打越さんから、きのう書いたことについて、タミフルのこと、インフルエンザの予防接種がまったく効果がない話、あるいはインフルエンザによる脳障害、医者は製薬会社から過剰な接待を受けている話などをメールで教えてもらった。薬が恐ろしくなった。もっと勉強するべきだ。まあ、勉強はしています。いろいろな分野の勉強。少しずつ、『ニュータウン入口』の戯曲の輪郭ができてきた。こんどの舞台に出演してもらう時田君からメールで、『DEKALOG』というポーランドのニュータウンに相当する土地を舞台にしたオムニバスドラマを紹介してもらった。これも観ておこう。原稿、書けず。筑摩のIさんに迷惑をかける。あと小説を読んでいた。
(11:10 Mar, 23 2007)
Mar. 21 wed. 「座布団がほしいという人」
■また小説を読んでいたが、午後、近所を散歩することにした。初台の、甲州街道と山手通りが交差するあたりはとんでもないことになっている。山手通りの地下に高速道路を走らせるのもすごいが、その地下高速と、首都高を結ぶためのジャンクションがこの交差点の上に建設中である。で、写真の右にある「高速を支えているブロックのようなもの」が、どう見ても仮の支えにしか見えず、これは工事が終わったら(つまり、上が繋がったら)、外してしまうのだろうか。だとしたら、かなり長いスロープが支えもなく建設されることになる。そんなに日本の道路建設技術は進化しているのだろうか。で、このスロープ状になった道路が地下に潜ってゆくわけだ。ものすごい工事だが地下のことは見えない。いま山手通りの地下はどうなっているというのだ。
■しかも、甲州街道と山手通りの交差点は、まず、甲州街道が山手通りの下をトンネル状にくぐっている。で、さらにその下に都営地下鉄新宿線が走っている。そればかりか、ここの新宿線の上り下りは、横に平行しているのではなく上下にある。とすると、山手通りの地下に走る高速道路はそれらの下に穴が掘られているということだ。その深さはどうなっているのだ。ものすごく深いよ。もしこのあたりで事故でもあったら、地上に上がってくるためにはかなり昇らなければならないだろう。どうなんだと思うね。しかも事故が発生し、火災が起こるようなことがあって交通が麻痺したら、消防や救助はどこからどうやって入ってゆくのだろう。まあ、なんらかの対処は考えているんだろうけどさ。都庁も近いし、どこかに横穴が掘られ都庁周辺と繋がっているのではないかと想像する。西新宿の副都心あたりの高層ビルはすべてが地下で繋がっているという話をなにかで読んだ。この周辺の地下も謎である。
■あたりの風景が一変してしまった。東京はほとんどが道路になってゆくような気がする。あるいはクルマに対する路駐の摘発が厳しくなってからやたらコインパークが町に増えた。あの罰則が厳しくなる法改正の直前、駐車場の「株価」があがったという話を知人から聞いたのはもう一年以上も前だ。資本はそんなふうにして動いているわけだ。
■よく、寝ぼけてしまった人の話を冗談でしたものだ。たとえば、兄弟の誰かが、夜中に窓を開けてじっと空を見ていたとか、もっとひどいのになると屋根に登ってぼんやりしていたという。僕が子どものころの話だ。僕も子どものころ、居間のこたつで眠っていたら夢を見た。通りのほうで座布団がほしいという人がいた。それで枕にしていた座布団を持って外に出て行こうとしたら、父親に制止されるという夢だった。あとで父親に聞いたら、眠っていた僕が突然、起きあがって、座布団を抱え外に出て行こうとしていたという。あるいは、寝ぼけたまま町を徘徊した人の話も聞いたことがある。
■そんなことを思いだしたのは、「タミフル」の事件がこのところ頻繁に報道されているからだ。最初にニュースを見たとき、あれはやっぱり「寝ぼけ」の一種なんじゃないかと思ったわけだ。かつての住居は平屋とか、せいぜい二階建てだったので、まあ、屋根に登るくらいですんでいたが、いまは高層マンションの時代だというのが、あの事件の背後にあるという想像だ。だけど、「寝ぼけ」だけでベランダから親を押しのけ飛び降りるだろうか。というか、タミフルについて少し調べると、様々な副作用があるうち、「意識障害、異常行動、譫妄、幻覚、妄想、痙攣等」といった報告があり、だからって、ベランダから飛び降りることだけが、「意識障害、異常行動、譫妄、幻覚、妄想」じゃないだろう。その危険はもちろんあっても、もっとなにか、べつの異常行動があってもいいはずだ。「うどんを異常に食べてしまう」とかね。「もう、それ以上はいいっていうのに、やけに丁寧に、壺を磨いてしまう」とか。ことによったら、それは意志かもしれない。タミフルによって引き出された意志。死への衝動とか、死への欲動といったようなもの。だとしたら恐ろしい薬だ。
■事件については多く語られるものの、タミフルの薬物としての情報はまだ少ない。もっとタミフルのことが知りたい。もっと決定的ななにかがあると想像する。そう思っていま調べたら、被害者の会のサイトがあるのを知った。「異常行動」と「タミフル」の「因果関係は認められない」と厚労省は発表している。しかも、その報告をした研究者は、タミフルを販売している薬品会社から寄付金をもらっていたという。これは現代の水俣病なのか。いま、中国での公害が問題になっている。資本の性急な成長が公害を生むのだろうし、ひどく深刻な問題だ。ただ、中国の公害問題を取りあげたサイトにさらっと、「高度成長期に発生した日本の公害は、国の解決策や、住民の運動などによっていまはなくなっている」という意味のことが書かれていた。さらっと書くなよ。水俣病が発見されてから、政治的に解決されるのに40年、さらに関西の水俣病に至っては、その政治解決を受け入れず最高裁まで争った。責任の所在をあきらかにする訴訟が続けられ、最高裁で判決が出されたのが2004年だ。50年近くかかっている。そのあいだ、研究者は、水俣病のことを取りあげれば国から補助が出ないし、大学での出世も望めなかった(たとえば、研究者の一人に昨年亡くなられた宇井純さんがいる)。それを支えたのは地道で広範な運動である。佐藤真さんの『阿賀に生きる』を見たほうがいい。国がなにかしたのか。中国でも国はきっとなにもしないだろう。そして、あの国でも甚大な被害が一般の人々を襲う。それが俺はいやだよ。まずはそれを心配しろ。タミフルのことが余計に気になる。しかも、精神的な錯乱といい、マンションのベランダから飛び降りてしまうことといい、その事態はきわめて現在的だ。
■久しぶりに、早稲田を卒業したOからメールをもらった。
■きのう書いた作家の本を借りていた。文庫でしか持っていなかった単行本を、古本屋で見つけたからといってもうずいぶん以前に貸してくれたのだった。借りっぱなしで申し訳ないと思っていたが、「迷惑でなければどうぞ持っていてください」とメールにあった。ありがたい。
(5:59 Mar, 22 2007)
Mar. 20 tue. 「小説を読んで思ったこと」
■古書店から届いた小説を読む。きわめて政治性を帯びた小説。六〇年代から七〇年代初頭の世代に属するある「作家」の作品だ。全共闘世代とくくられてしまうだろうし、どうしてもその政治的な事象が前面を覆ってそこに目をとられるが、物語作家として見事だと思いつつ読んでもいたのだ(というか、単純に、数多くいる好きな作家のひとりなわけですが)。ただ、その物語の手つきを使って、小説であつかわれている素材(=連合赤軍事件)についてもっと深く追求すべきではなかっただろうかという疑問も残る。そうでないと「巧みさ」と「センチメンタルな印象」だけが読後に残ってしまう。きっと「時代の追求」はさらに書きつづけることで可能だったはずだ。きょう読んだ作品は、そこに至るための、「作家」の長いアプローチのひとつだったにちがいない。その世代の人にとって簡単に答えが出るような事件じゃなかったのだろう。スガ秀実さんの『一九六八年』(ちくま新書)は、後半、あの事件を分析し追求をしていることで僕にはきわめて強く印象に残った。だが「作家」に次の作品はもうない(九〇年代の前半、ガンで亡くなられている)。志なかばだった。きっと小説によって、自身にとって重要なある時代の意味をもっと強く問い直すことができたはずだ。
■それとはべつにネット上で見つけた小説を読んだ。小説の中盤、いろいろ事情があって40代後半、ある出版社に就職した際のできごとの描写を読んでいたら、横光利一の『機械』を思いだしていたのだ。先に書いた作家とはちがって技術的にも劣っているし、物語を作るにあたって創造力の乏しさも感じつつ、だが、読ませる力を感じた。つい一気に読んでしまった。「これが、俺の人生最悪の話の一部始終だ」という言葉が文中にあってそこで小説は一段落する。まったく最低なできごとだ。小出版社の悲哀すら感じさせるし、僕と同世代だということもあって身につまされるような気持ちにもなった。ここに感傷はない。最低な状況を、奇妙な登場人物の描写とともに淡々と客観的に書いてゆく。それが僕にはおもしろかった。
■だが、小説ばかり読んでいるわけにもいかない。原稿がある。原稿と、戯曲、小説があるにもかかわらず、打ち合わせだの、イヴェントだの、芝居を観るスケジュールをいろいろ入れてしまった。きょうは昼間、笠木に会って少し話をする。おととい書いた笠木がはじめて作・演出した『アデュー』の話など。代々木上原のカフェだった。
(10:16 Mar, 21 2007)
Mar. 19 mon. 「字幕を読むということ」
■一部の日本映画の盛況についてある人から聞かされた話に驚かされたのは少し前のことだ。いまの若い人たちは外国映画を観ないという。それというのも、「外国映画の字幕」を読むのが面倒だからだ。外国映画より日本映画を観る。これにはひどく驚かされた。べつに日本映画と外国映画を比べ、どちらがいいとか、ハリウッドはものすごい大予算で作られてすごいがそれに比べ日本映画(まあ、この議論で言ったら、ハリウッド以外の世界中の映画がそうなってしまうだろうけど)は低予算とか、そういった話をするのは不毛だと考えていたが、「字幕問題」はなにやらもっと別の次元の話だと思われる。
■そんなにみんな、「文字」を読むのが嫌いなのかよ。べつに教養主義的に発言する気はないものの、あの「字幕」を通じて外国映画に触れ、そこから外側へと意識を向ける好奇心が外国映画の一側面としてあったのではないか。イラン映画だって、なんだかわからない、あのとぼけぶりは字幕があってはじめて感得できたじゃないか。アキ・カウリスマキだってしかり。もちろん原語を聞き取れたらそれに越したことはないだろうけどさ、せめて「字幕」を通じて外側に目が向けらたと思うし、映画館と映画を通じて、なにかを認識していたと思うのだ。
■そんなに横着になったのかい。「楽」を追求することは人類がさまざまなテクノロジーの開発を通じて実現してきたと思うが、「楽」によって失われることが多いのも人は教養主義的な立場からしばしば発言していた。その教養主義にはなにかいやなものを感じていたものの、それとはべつにせめて「字幕」くらい読んだらどうだ、と私は思うのだ。それはもう、教養主義うんぬんの前に退廃だと思う。テレビはどんどん親切になりわかりやすさを追求する。それはテレビのメディアとしての特性だ。映画は、「劇場に行く」という能動的な行為であることによってまたべつの位置にあると思っていたのだ。べつに字幕を読み損なったっていいじゃないか。絵画を鑑賞するときそこに「字幕」はないだろう。字幕を読んだってわからない映画はけっしてわかるもんじゃないけど、それはそれで、「わかる」とは異なる体験として、いまはっきり掴めないかもしれないがなんらかのものが人に蓄積される。それでいいじゃないか。
■だいたい、『資本論』を読む体験は、「わかる」とはほど遠い気がするものの(ドゥルーズ・ガタリの『千のプラトー』でもいいけど)、そこにマルクスの筆致からくるその人の息づかいを感じるだけでもためになる。「商品」の項なんてなんだかわからないが、読み進めているうちになにか「わかる」が、それは解説書を読んで簡単にえるような理解ではない。やっぱり「わかりやすい」は疑ってかかるべきなのだ。
■三月になったら戯曲の執筆、小説への取り組みをする時間がたっぷり取れると思ったら、意外に忙しい。筑摩書房のサイトに連載するエッセイの原稿の催促が矢のようにくる。わたしがかつて締め切りを守ったことがあっただろうか。これまで、原稿を落とすことはほとんどなかったがそのほとんどがぎりぎりだ。ほんとに申し訳ないと思いつつそうすることしかできないわけさ。あと、戯曲と小説に苦しんでいる人がそんなにするするとエッセイが書けるわけがない。あと読書。もろもろの勉強。日本の古典文学を読んでいる。
(7:02 Mar, 20 2007)
Mar. 18 sun. 「久しぶりに横浜へ」
■横浜は海のすぐそばだからかとてつもなく寒かった。Bank Art Studio NYKのテラスはとてもいい感じだが、スタジオ内は禁煙でテラスで煙草を吸うとき凍えていたのだから、少しぐらいがまんすればいいものを、がまんできずに決死の覚悟で煙草を吸いにゆく。「オールツーステップスクール#05→アデュー#00移行公演『アデュー』」を観に行ったわけである。まず第一に印象に残ったのは、Bank Art Studio NYKの空間がよかったことだ。ここでも充分、芝居ができる。当然、この空間だからの制約もあると思われるが、通常の劇場ではないことによって生まれる感触がいい。
■それでちょっと思いだしたが、少し前の朝日新聞の劇評で、これまで新宿のTOPSなどで公演していた劇団が下北沢の本多劇場に進出し、かつて小さな劇場で公演した作品を再演したのを観たある演劇評論家の方が、初演にはあった「濃密さ」が本多では薄まっているという意味の評を書いていたことだ。高名な劇評家であり、かなりの数の舞台を観てきたと思われるその人が、それを書いたことが僕には不思議でならなかった。なぜなら、劇場の規模によって舞台が変化するのはよく知られたことだし、劇評家の方もこれまで何度も同じようなことを経験してきたのではないかと想像したからだ。それをいままたわざわざ書くのはどういった意味があるのだろう。というか、それはもうすでに、あらかじめ予測できていたことではないか。だが、そうした常識をも覆しその劇団が突破して本多でも「濃密さ」を再現できると期待したあらわれだろうか。では、初演が本多劇場だったらと考えたらどうだったか。
■まあ、それはともかく『アデュー』である。
■ここで重要なアイテムになるのは「麻雀卓」だ。四人の登場人物が雀卓を囲む。そして麻雀のゲームが進行するあいだに、四人の日常や心情が、「麻雀をしている行為」とはべつに、イメージのような姿で演じられる。このアイデアはいいと思うが、「麻雀」という思いつきが雑にとりあつかわれているのが気になった。最後に登場人物の一人が役満で上がるが、作家の仕事とは、役満であがるまでの手続きをしっかり戯曲に書くことではないだろうか。そうすることによって登場人物のイメージや日常の再現のような芝居もより生きてくると思われる。だから、稽古はなによりも、麻雀をすることに費やされるべきだ。それでようやく、「麻雀」という「趣向」が生かされる。だから、誰か一人のイメージが再現されているあいだ、残された三人はゲームを進行できないので、よくわからないことをしている。それがひどく稚拙だ。麻雀をもてあそぶ姿が、あきらかに麻雀をしている人ではなく麻雀牌を積み木のように積み上げたりするがもっと麻雀打ちだったら牌を使ってする遊びが数多くある。その無知さが気になる。しかもゲームの進行中、ひとりがよくわからないツモをしていて、おまえ、多牌だよと言いたくもなったのだ。
■以前、僕は「囲碁部の青春」をテーマに戯曲を書こうと思ったことがある。それで日本棋院に行って取材したが、とにかくプロの棋士の石を打つ手つきがすごくて、これを習得するには何年か練習をしないとだめだと思ってあきらめたことがある。そりゃあもう、ものすごい鮮やかだし、石を置いた瞬間にパチンと見事な音がする。囲碁の醍醐味はこの音だと思った。「思いつき」は簡単だ。だが、それを表現にするには労力と時間がかかる。
■で、その麻雀という芯がしっかりしていないから、その周辺で発生するできごとも薄く感じてしまうのはもったいない。というか、正直なところ、煮詰め方が甘い印象だ。単純にいえば、稽古不足だ。舞台で麻雀をするためには様々な困難があるのははじめから予測できることだろう。そして、戯曲の段階で、麻雀をなおざりにして書いているから周囲のエピソードも薄くなっている。
■観ながら僕は、自分の次作についていろいろ考えることになった。稽古はしっかりしようとかね。リーディング公演までもう時間がないのだ。少し焦る。なにかもうひとつ、ぐっとくるなにものかに欠けている。で、なぜか、『アデュー』を観ながら「森」のことを考えていた。大江健三郎さんが『同時代ゲーム』で描いた「四国の森」を考えていたが、まったく、いま観ている舞台と関係がない。この舞台にはない、字義通りの「自然」について考えをめぐらす。
■そういえば、この舞台のチラシにイラストを提供した京都のM君が来ていた。M君は、「■リングス」の一人、「ここであいましょう」のあの、M君である。さらにこの施設で稽古しているニブロールの矢内原美邦に会って、いま一緒に仕事をしている台湾からきているという、女性の演劇人を紹介してもらった。彼女とほんの少し話しをした。
(6:17 Mar, 19 2007)
Mar. 17 sat. 「ハードディスクが」
■PowerBook G4に外付けしていたHDDが異音をたてクラッシュした。いろいろ修復を試みたが完全に動かない状態になった。あーあ。まあ、バックアップ用だったので、とりあえず本体のHDDにデータが残っているからいいようなものの、バックアップ用が先に壊れるってのはどういったことだ。ぜんぜん仕事してないじゃないか。サードの守備のバックアップに入ったショートの選手が、バックアップに入る途中で足をねんざして歩けなくなるようなものだ。そしてサードは無事に守備をこなしている。でも心配だからバックアップはしておかなければ。機械は壊れる。
■で、その復旧にまた苦闘し、無駄な(しかし一面では愉楽としての)時間を費やしてしまったのが金曜日で、しかもこの日、チョムスキーの映画が最終日だったのを忘れ、観られなくて落ちこんでいたのだ。失意のなか、追い打ちをかけるように(それほど深刻ではないものの)コンピュータのことで苦労する週末。で、本日、新しい2.5inch HDDを買ってまたバックアップをとることにした。コンピュータを使っていると、年に一度くらいはこうしたトラブルに見舞われる。
■「論座」(朝日新聞社)を読む。「本屋が好き!」という特集もいいがべつの記事が目的で読んだのだった。
■以前ここでも紹介した「高円寺ニート組合」や「クリスマス粉砕集会」の人たちは、高円寺にあるリサイクルショップ「素人の乱」五号店の店長が中心になった「活動」の一環だというのは、あとで知った。「論座」の特集「グッとくる左翼」のなかでその活動がまた紹介されていた。雨宮処凜さんが彼らについて書いている。笑ったなあ。
03年のクリスマスには、六本木ヒルズで「クリスマス粉砕集会」を敢行。貧乏人大反乱集団はどてらに身を包み、鍋や野菜、ちゃぶ台を持参して「商業主義・ぼったくり主義の象徴」である六本木ヒルズへ乗り込んだ。だが、鍋を始めようとした瞬間、300人(!)もの警察官に蹴散らされ、たまたま通りかかった貧乏臭い格好をした人までもが「弾圧」されるという憂き目にあった。「全然関係ない人なのに、『お前、貧乏だろう!』って警察官に言われてすごいショックを受けていた(笑い)。クリスマスの夜、警察にいきなりそんなこと言われたらショックですよね(笑い)」と、首謀者の、松本哉さん(32)は振り返る。
さてこの記事のなかで雨宮さんは、自分がかつて右翼団体に所蔵していたことを語っている。高校卒業がバブル崩壊後の就職難の時期にあたりその後フリーターをしていた雨宮さんはフリーターについて「どこにも属せない」と書いている。そのどこにも帰属できない意識が右翼に向かわせ、右翼団体に所属していた。なぜ左翼ではなく右翼かという理由はきわめてシンプルで、左翼の言説が難解だったからと雨宮さん。右翼は単純な言葉で、たとえば、「アメリカが悪い」と断言する。その明瞭さにひかれた。フランス大統領選候補のひとり極右政党国民戦線党首ル・ペンも「移民排除」というものすごくわかりやすい表明だ。「わかりやすい」は疑ったほうがいいと思う。
それはそれとして、雨宮さんがではなぜその後、左派に接近していったかは「論座」にある本文を読んでいただきたいが、それより僕が考えていたことは、この「素人の乱」の人たちの心性と、六〇年安保時の運動を指導したブントの心性(彼らはほとんどが二〇代だった)と、あまりかわりがないのじゃないかということだった。もちろん、ブントは知識人たちの運動であり、それこそその言説は難解だっただろう。その後に学者になった者など数多く輩出している(廣松渉、青木昌彦)。保守の論客になった者らも(西部邁、森田実、香山健一)。けれど、簡略すれば「若い」という感性と心性だ。ここ詳しく書くと長くなるので省略。
問題は、ブントがそうであったように(といっても、いきなり「ブント」と書かれてもわからない人にはなんのことだろうと思われるだろうから、ウィキペディアの「ブント」の項をひいて、そこからさらに先へリンクをたどってください)、歳をとることへの想像力をどう持っているかだ。年齢を重ねるうち「貧乏である若者ら」のうち、なにかの拍子にそうでなくなってしまう者が出現したとき「素人の乱」の運動はどうなるのか(ブントもそうだったと思うわけさ)。とはいえ、僕は彼らの運動を否定しないし、ブントにもあっただろう心性を肯定する。なにしろ、面白そうだからだ。魅力的である。あとなあ、「若い」ってことだけでつっぱしるからこその「運動」だよな。そうじゃなければ、「いま、ここ」にはぜったいならない。
で、この特集のなかで柄谷行人さんの発言は、岩波新書の『世界共和国へ』で読んでいた内容を(新書レベルよりさらに)かみ砕いて語られとてもわかりやすかった。正直なところ、インタビューに応えている鶴見俊輔さんの発言がなんだかまどろっこしくてよくわからない。すごく平易な言葉で語られよくわかるようでいて、よくわからない。それはまたべつの種類の「知識人」だからだ。
■「群像」(講談社)のYさんには、去年の三月に小説を渡すと約束していたのに一年が過ぎてしまい、もう合わす顔がないと思っていたが、メールをいただいた。仕事の話。「群像」へのエッセイの依頼であった。断ることなどできるはずもない。
■あと、今年の秋にアメリカで僕の戯曲のリーディングをしてくれるという話は前からあったが、いきなり東大の内野儀さんから届いたメールによると、下見をかねて五月の連休あたりに短期間アメリカに行くことになりそうだ。そう思って、パスポートを探したが見つからない。意外と今年も忙しい。なにしろパスポートを探すところからはじめなきゃならないのだ。でも、からだが動けるうちにいろいろなことはしておきたい。人間、歳をとってしまい、いろいろに衰えるという想像力がないとだめだ。多摩ニュータウンの第一期入居者と、それを計画していた人たちに決定的に欠けていたのは、そのことである。
■かつて渋谷のHMVに勤めていたK君からメールをもらった。K君はいま奈良店にいるとのこと。K君からメールをもらうとなにかうれしい。
(4:35 Mar, 18 2007)