|
|
|
■そういうわけで、私はいま、ちょっとした峯田ブームになっているわけだが、人から教えられその峯田君が主演しているという映画をビデオで観たのだった。あ、そうか、みうらじゅんさんが原作で、田口トモロヲ君が監督をしているその映画のある側面は、ほぼ同世代である彼らと共有するところがあるのだな。原作を読んでいない僕はボブ・ディラン(らしき幻影)が出てきたところで少し驚いた。ま、僕には書けないようなドラマだ(脚本は宮藤君)。書かないのではなくて、書けない。ぜったいにこういったドラマは書けないなあとつくづく。峯田君はよかったなあ。すでに人気も評価も高い峯田君に対していまごろになって興味を持つのはいかがかと思いつつ、映画の後半、眼鏡を外した峯田演じるところの中島のキレ具合はやはりよかった。
■そんな本日、大阪では、峯田君のバンド、銀杏BOYZのライブに友部さんが出演していたのだ。そして映画にはディラン。この奇妙な循環に、なにかめまいがする。そして映画の終わり、スタッフロールに流れるのは、ディランの「Like a Rolling Stone」だ。よく権利取ったなあ。
■そして、僕はいま、そんな映画やコミックがあったとはまったく知らずに『ボブ・ディラン・グレイテスト・ヒッツ第三集』を書いている。いろいろな事情があって、このタイトルだと、やっぱり、ああいった方向の世界では、あれなんじゃないかと意見もされたが、ほかに思いつかない。もう八月も終わってしまう。筑摩書房のIさんからは、『牛乳の作法』の文庫版用のゲラのチェックを早くと催促。わかっているんだ。わかっているんだが、腰のことやらいろいろあってちっとも進まない。申し訳ないことをしているのだった。そして小説。「群像」のYさんには、以前「群像」に書いた『レパード』という小説の傾向を持った作品を渡したい。その線も深めたいと思っているが、まずは、目の前の仕事。
■中沢新一さんの『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)を読んで、新しい学問が発生する瞬間のスリリグさにはひどく興味を覚えた。学問も、批評の類も、独創的で画期的なひらめきが必要とされるのだろう。「野生の思考」という概念を切り開いたレヴィ・ストロースはすごいね。もちろん、マルクスの経済の分析にも、当時としては画期性があった。あるいは、蓮實重彦さんの文芸批評におけるあの、半分冗談ではないかと思わせる刺激的な論考。つまり、面白いかどうか。
■八月が終わる。今年の夏はよかった。それにしても、アメリカのハリーケーンのすざまじさにたじろぐ。そして被害に遭った方たちには申し訳ないが、ディランの「ハリケーン」を聴きながら僕は小説を書いている。もちろん、それは無実の罪で逮捕され独房に入れられたハリーケーンというボクサーの物語だが、「ハリケーン」「台風」「火」はこんどの小説のテーマ。繰り返すが被災者には申し訳ないが、気分はいやがうえにも高まる。総選挙も近い。世界はめまぐるしい。イラクの情勢はいっこうによくならない。ガザ地区の問題はどうなっているのよくわからない。
ヨルダン川の東
ジブラルタルの岩山のように固い
ぼくは目撃する
歴史のページが炎に包まれている
新しい時代の幕が切って落とされる
ほら、花婿は今も祭壇で待ち続けているよ
もう九月だ。夜の風がめっきり気持ちよくなった。
(4:35 sep.1 2005)
■上のバナーにあるように、松倉がライブをやることになったのだった。いろいろあって、私はある日、松倉に「田舎に帰れ」とメールを送ったのだが、それでも頑張って音楽活動を地道に続ける覚悟を決めたらしい。あれは、五月ぐらいだっただろうか、早稲田の僕の授業を受けに来て、それで夏に芝居をやりたいとわけのわからないことを言うので、いったいおまえは東京に何しに来たんだと叱ったのである。俺の授業を受けている場合か、遊んでいる暇があったら歌え、もっとギターを習えとさらに叱る。叱りっぱなしである。えーと、「松倉」と突然、書かれてもわからない人のために補足しますと、京都の大学で教えていたころの私の教え子です。この春から音楽の勉強をするために東京に出てきました。まあ、ひとつ、歌を聴いてやってください。
■腰のぐあいが悪くなって一週間が過ぎた。そのあいだに三回の鍼治療で強引に治す。だいぶよくなった。まっすぐ立てるようになった。夕方、世田谷パブリックシアターで、来年の「現代能楽集」の打ち合わせをする。担当のMさんといろいろ話す。少しずつ具体化に向かっているものの、これだという決め手が僕のなかにまだないのだ。能の、いわば台本のようなもののことを「謡曲」と言いますが、それをぱらぱら読んでも、まだなにも出てこない。だけど、なにか面白い試みができるのじゃないかという期待感はあって、これはめったにない機会だと思っているのだ。なにかできるのだなきっと。なにか、思いもよらぬ舞台が作れる気がしてならないのだ。そのリーディングが来年の二月。そして本公演は同じく来年の十一月になる。
■それにつけても、小説を早く書き上げなくては。腰のせいで筆が止まった。あと、書こうと思っている小説のアイデアがいくつかあり、とにかくですね、どんどん書こうと思うのだ。「群像」のYさんにも小説を渡すと約束した。やっぱり、どんどんだな。松倉にもどんどん歌えと言いたい。なにごともどんどんである。
(3:56 aug.31 2005)
■午後、青土社のMさんに会った。「ユリイカ」に連載していた「チェーホフを読む」を単行本にまとめる打ち合わせ。書名は『チェーホフの戦争』になりそうである。打ち合わせは、まあ、それほど話すことがなかったが、Mさんといろいろ話しをしてそのほうがずっと刺激的だった。オウムの話からはじまって、現在について。話を聞いているうち、次に何を書いたらいいか、書くべきかについてやりたいことがはっきりしてきた。こういった対話はとても大事である。
■その後、早稲田へ。夏の「演劇ワークショップ」というものがあって、二週間で舞台を作るという授業である。そのガイダンス。僕が全体像をうまく把握していなかったので、きょう助手のPさんからやるべき仕事を教えられてひどくあわてる。僕を含め三人の指導講師がいて、現代演劇、ダンス、古典演劇をひとつにまとめて舞台にするが、その全体の構成を僕が考えるのだった。そりゃあそうだ。三人のなかで僕だけが、専任の教員だったのだなあ。責任は当然大きい。で、ことしで七回目になる今回は、チェーホフの『三人姉妹』をやることにした。コンセプトを作り構成を考えなくてはいけない。そのことに気がついていなかった。どうやって作るのかよくわからなかったのだ。スケジュール表を渡されて確認したが、驚くほど時間がない。でも、まあ、なんとかなるだろう。
■いまフランスにいる演劇を専門に研究しているY君からメールをもらう。Y君からはしばしば、演劇について示唆的な話をメールで教えてもらうが、それはきのう書いた、「戯曲とは、行為を書くことである」についてだ。
ドラマとは行為である、というのはアリストテレスの定義でもあるのです。
詩学では、悲劇は「行為する人間」が「人間の行為」を模倣するもの、として定義されています(第6章)。そもそも「ドラマ」という言葉自体がドラーン(動く、行為する)という言葉から来ているとのこと(第3章)。
だから、戯曲が書くものであれば(少なくともアリストテレスは詩が「書かれる」ものだとは一言も言っていないのですが)、「行為を書く」、という表現は非常に適切な言葉だと思います。
あ、そうだったのか。『詩学』はもちろん読んでいるが、忘れていた。というか、きのうは「思いつきで話した」と書いたが、ことによると『詩学』の言葉が意識のどこかにあって、たまたま、戯曲セミナーのとき出てきたのかもしれない。でもやっぱり、さすがにY君は研究者だけにきちんと文献を押さえて教示してくれる。ありがたい。青土社のMさんと話したのことのひとつに、ネットのオープンソース問題があったのだが、こうしてなにかオープンにすることで、そこからさらに教えてくれる人がいるとき、ネットの力はやはり侮れないのだ。
■腰はだいぶよくなった。ただ、痛い部分をかばって、べつの箇所が痛くなる。
(9:33 aug.30 2005)
■土曜日(27日)は忙しかった。午後から横浜の「戯曲セミナー」。二時からはじめて終わったのは五時だった。大勢の方がまた聴講に来ていただきありがとうございました。ほぼ三時間しゃべりっぱなし。で、それはべつに疲れなかったが、そのあと、今年の暮れにある恒例の「かながわ戯曲賞&リーディング」の受賞作をどこでリーディング公演するか、いくつかの候補になるホールなど回って、これが疲れた。腰が痛い。へとへと。終わって、いったん家に戻ろうとしたら、帰りの環八、国道246号がものすごい渋滞。夏休み最後の週末ということなのだろうか。
■「戯曲セミナー」のまず最初は、「戯曲とは、行為を書くことである」という話だが、これは、その直前に不意に思いついた言葉だ。話しているうちに、意外にいいのじゃないかと思いはじめていたのだった。用意していた、逍遙の書いた小説「京わらんべ」を僕が戯曲風に書き直した一部を読んでもらって、小説における「会話」と、戯曲はなにが異なるかについて話すことにつなげる。そして、まさに、戯曲は「行為を書いている」という結論になった。思いつきは言ってみるものだ。「思いつき」とはいっても、おそらくべつの言葉で意識していたことだが、ふと、それが「行為を書く」という言葉になったのだと思う。たとえばト書きに、「男が登場する」とある。これはまちがいなく、「行為」だ。そして、男は仮に、「こんにちは」とせりふを発する。小説はそれを「言葉」のレベルで「こんにちは」という意味内容を発しているにちがいないが、戯曲がここで書くのは、「こんにちは」と声を発する人の「行為」である。これは自分にとっても発見だった。で、まあそんなこんなで三時間。
■その日の夜、横浜から大渋滞の東京を抜けて、池袋にある「シネマロサ」へ(途中、初台の自宅へ寄ったものの。あ、あと腰が痛くても車の運転はできるのです)向かう。冨永昌敬監督の新作『シャーリー・テンプル・ジャポン2』の上映があり、そのアフタートークに呼ばれたからだ。映画について考えたことを書くとたいへん長くなるのでまたにする。冨永君と話しているととても楽しい。話しているとき、客席にヨミヒトシラズのT君がいるのが見えたが、帰り、腰が痛くて声をかけそびれる。舞台に立つというので、あたかも、すたすた歩けるような人のように舞台まで行ったのがまちがえだ。帰りは痛くて苦悶していたのだった。劇場を出たところで、CS放送の「日本映画専門チャンネル」の方が、こんど、『be found dead』を放送してくれるとのことで声をかけてくれたが、腰は痛いし、駐車場が閉まってしまうわで、あまり落ち着いて話しができなくて申し訳ない次第だったのだ。
■というわけで、本日(28日)はもうぐったり疲れて、一日、眠っていた。何日か前、早稲田の学生から、銀杏BOYZの、「人間」という歌を聴けというメールをもらったので、ためしにiTunes Music Storeを探したがありませんでした。アマゾンに注文したそのCDが届く。だからなんだというわけではないが、一日眠っていたせいで、矢内原美邦さんと小浜による、「ボクロール」の舞台が観られなかった。観たかったなあ。私はダンサーとしての矢内原さんのファンでもある。久しぶりにそのダンスを観たかったのだ。休んだおかげで腰はかなり快復。そうそう、「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」のブラックホールでやった僕のステージを観に来てくれた方から何通かメールをもらってうれしかった。開演前、思いのほかの盛況のため列にならんで待っていてくれた方が、ほかのライブをあきらめても観てよかったと書いてくれ、とてもうれしかった。やったかいがあったというものです。ありがとう。夜、窓から心地よい風が入ってくる。
(4:59 aug.29 2005)
■打ち合わせが三本。そのうち、まだ詳しく書けない舞台の打ち合わせが一本。むくむくとその舞台でやりたいことがわいてくる。来年の五月。お楽しみに。
■まず、いまはフリーの編集者をしている元筑摩書房の打越さんと、理論社から出る中学生向けの演劇入門の本について相談。このところ、ワークショップづいている打越さんは、チェルフィチュの岡田君のワークショップにいまは参加しているとのことだが、話を聞くと、かなり面白そうだ。打越さんはワークショップのせいなのかテンションがやたら高い。驚いた。続いて、白夜書房のE君と八〇年代に存在した「ビテカントロプス・エレクトス」というクラブを中心にした、「八〇年代文化」について本をまとめるという相談。べつに追想ではないのだ。現在とどこかでつながっているだろうその当時の、ある特殊な文化圏について、たとえばYMOの音楽の時代における役割などから話しをはじめる。それで、当時の音楽、ファッションなど、大塚英志さんが「おたく」という切り口から八〇年代がを分析したのとは異なる視点から、その時代のある特殊な構造を「かっこいいとはなにか」という疑問など話を展開してゆく。その文化は、いまになにを残したか、何も残さなかったのか、それを考え探ってゆく本になるだろうと思われる。あと、「西武・セゾン文化」の栄光と凋落もまた、八〇年代を考えるにあたっては重要になるなど。いろいろ話してゆくとかなり面白い。
■で、最後に、ある舞台の件で、まったく種類の異なる打ち合わせだ。だんだん、具体的になってきたのと、僕の書きたい気分が高まってきた。これに関してはまだ詳しく書けないのが残念だ。
■一気に三本の打ち合わせは疲れる。しかも話の内容がまったく異なるので、切り替えってやつが疲れるんのだな。でも、まとめて打ち合わせをしておいてよかった。少し仕事が整理できた。まあ、九月は大学の発表公演もあってまた地獄だ。でも展望は見えてきた。あとは腰である。だいぶ快復。と、安心しているも間もなく原稿の締め切り。それにしても、僕自身の「速度」が遅くなっているのか、僕の時間感覚が遅くなっているのか、みんながやけに早口に感じたのはどういうことだろう。すごい速度だなあと思って、少し唖然としたのだ。
■本日(27日)は昼間に横浜で「神奈川戯曲セミナー」あり(上のバナーをチェックしてください)、そのあと夜は、冨永昌隆監督の新作上映が、池袋シネマロサであり、そのアフタートークに呼ばれている。お暇な方はぜひお越しください。
(10:11 aug.27 2005)
■腰が痛くて「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」で撮ってきた写真を加工したりアップするのができなかったが、少し楽になってきたので、ここで公開しようと思うのだった。まだまだ、紹介したい写真はあるものの、それはフェスのサイトにかなり記録されているのでそちらをごらんください。あと、夜の写真がないのは、どうしたってぶれた写真しか取れなかったからだ。これだけ広い空間でフラッシュたいても意味ないし。そもそもフラッシュたいた写真が嫌いというのもある。
■まあ、それはそれとして、今年も夏が終わろうとしている。ライジングサンが終わると秋なのだな(って、今年はじめてそれを味わったわけだが)。さみしい気分と、体調の不良。からだが痛くて小説の続きが書けねえよ。だったらこんな日記、書いてる場合かという話だが、忘れないうちに夏を記録しておきたかったのだ。腰をかばいつつ、小説も小刻みに書いている。
■ところで、音楽うんぬんというより、なにか印象に残ってしまったのは先に書いた「銀杏BOYZ」だったわけだが(もちろん、ソウルセット、菊池成孔、フィッシュマンズなど書きはじめたらきりがないものの)、気になって東京に戻ると「銀杏BOYZ」のサイトなど検索していたら、八月三十一日に大阪でライブがあると知った。そして驚くべきことに、友部正人さんがゲストで出演なさると聞いて腰を抜かすほど驚いた。腰が痛くて立てないほどの人間が腰を抜かしたらどうなると思っているんだ。これはなにかの符合だ。なにかわけのわからない力が働いているとしか考えられない。見にゆきたいなあと思って大阪に行こうと考えたが、この腰だし、しかももうチケットはソウルドアウトだという。もう二十年近くになるが、むかし、芝浦にインクスティックがあり、あるいは原宿にピテカンがあったころは、外国から来たバンドなどよく足を運んだものだが、年齢とともにそういった場所からすっかり遠ざかり、いまでは、ほとんど家から出ていなかった。「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」の力はおそろしかった。そんな俺を外に向かわせようとしているのだ。家で本を読む、なにかを書いているほうがいまの自分にはぴったくりくるが、それだけではない。ただ無理はいけません。無理をすると腰に来るのだ。まあ、万全の体制と日頃の鍛錬だな。来年のフェスの時期に合わせてからだを鍛えておこうと思うのだ。って、来年もまた行くつもりかよ。
■おとといのこのノートで、「ラストソングス」について書いたことをあとで読み返して少しきつい言い方になってしまったかと反省する。「笑い」はあきらめてというのは、「お笑い」という書き方にするべきだった。つまり「芸能」の世界の話だ。「芸能」はおそろしいよ。魑魅魍魎が跋扈するおそろしい世界なのだ。彼らのようにナイーブな俳優たちに耐えられるとは思えなかったのだ。まあ、芸人はとにかく人をけ落とすことしか考えていないし、だからこそ、面白いものが次々と生まれるのだろう。じつは僕もかつてはそうでした。べつに芸人じゃないけど、蹴落とすことしか考えていなかった。最近は丸くなりました。若い人を評価し、彼らが成功すればいいと願うのです。ただ、二人の鈴木にしろ、上村にしろ、おっとりしているからなあ。ブラックホールでの開演前、「ここはアウェーですから」と言っていたが、「お笑い」はどこにいたって本来的にはアウェーである。その逞しさを身につけなければならないのだ。観客におもねるのではなく、自分たちのやりたいことを通じてそれを実現しなければならないから、むつかしい。自分たちにあった方法がきっとある。もっと外へ。常にアウェーで戦うのだ。ほかのやつがやってることなんて、つまらないと思う独善的な自信が必要だ。
■まあ、それはそれとして、俺は小説を書くよ。対談で久しぶりに話しをした青山さんから刺激をさらに受ける。書いてるなあ、青山さん、ものすごく書いている。
■そういえば、北海道から帰る飛行機の一画は、ミュージシャンばかりが占めていた。そのなかに、やはり、いい顔してるなあというバンドの人がいた。音楽を聴いていないのでなんともいえないが、「犬式」という人たちらしい。で、勝手に飛行機のなかで沖縄のバンドだろうと決めていたのだ。あとでやはりサイトを検索したら、ぜんぜんちがいました。なぜ沖縄のバンドと決めたかはよくわからない。いろいろロックについて私は考えた。あるいは、早稲田の文芸専修の学生でU君という方から、「ロックな気分の先生へ」というメールをもらってうれしかった。これまで「教師」というものに対して嫌悪を持っていたというが、このノートなど読んでそうではない「教師」もいると意識が変わったという。でも僕は教師ではないからなあ。たまたま教えているのです。ほかにもいくつかのライジングサン関連のメールをもらった。ありがとうございました。
■とにかく腰は痛い。腰が痛くて「群像」の対談のとき、うまく話しができなくて担当のYさんや、青山さんに迷惑をかけた。話す気力というものがあまり出てこなかったのだ。万全な状態でのぞまなければならなかったな。ま、結論としては凡庸だが、なにごともからだである。
(12:34 aug.25 2005)
■腰の痛みはそれからずっと続き、いまだに痛いがその中間報告を少し。月曜日には飯田橋のホテル・エドモンドで青山真治さんと「群像」の対談があり、ロックについて大いに話す。とても楽しかったが、座っているあいだはいいものの、移動するときは、まったくちがう人物である。すごく時間がかかる。みんなの親切に助けられた。その対談の直前、鍼治療を一度受けているが、翌日というのはきょうのことだが、また鍼の治療をしてもらった。腰はだいぶよくなったが、こんどは、左肩胛骨あたりにじっとしていてもぎりぎりとした痛みが生じ、きょうなど、その痛みで目がさめたほどだ。腰をかばって右腕でからだを支えているうちに、こんどはこっちにきた。
■いただいたメールのこと。青山さんとの対談のことなどほんとはもっと書きたいが、これ以上書くと、よけい、右肩胛骨のあたりが痛むのでこれくらいにする。少し休む。休めとからだが言っているように感じる。水曜日の予定をひとつキャンセル。徹底的に休もう。
(3:52 aug.24 2005)
Aug.21 sun. 「北海道はよかった。涼しかった」 |
■深夜の三時過ぎにまさかクレイジー・ケン・バンドを見るとは思わなかった。自分の出演時間は一時間半だが(ブラックホールというテントで)、19日の夕方に着いた我々は、電気グルーブとスチャダラパーのユニットによるライブを皮切りに、気になるテントを見て回る。歩いたなあ。「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」の会場はどうかと思うほど広かった。二つばかり行かなかったテントがあるが、全部回って歩くと二時間近くかかるという。いろいろなバンドがいた。行きの飛行機ではTHE HIGH-ROWSと一緒だったが、一緒に行った者から、いますよと言われたものの、あとでステージで動いているのを見てようやくわかった。飛行機の中でもあの動きをしてくれなきゃわからないよ。いろいろ見ていて、気になったのは「銀杏BOYZ」だ。ヴォーカルが、どこか町田康を思わせる目つきで、なにかに取り憑かれたように熱唱する。歌詞は、「きみがいるから、僕は歌うんだ」とわりと単純なのだが、つい先日、ステージ上で素っ裸になって書類送検され話題になったというのはあとで知った話。なにか、惹きつけられるものっていうか、面白かったな。あのいまにも発狂せんばかりの目が印象的だった。
■それにしても、こんなに日本にバンドがいるとは思わなかった。すげえいる。七グループぐらいしか日本にはいないのかと思っていたというのは冗談にしても、けっこういるんだな、バンドって。なにしろ、全部で、九つのステージがあって、常になにかやっているんだからすごいよ。しかもキャンプ用のテントをはって泊まり込みの人たちもいるし、出店があったりの七万人、もうお祭りというか、音楽の町だった。しかも、どこかでなをやっているあいだも、道になった通りにはぞろぞろと人の移動があり、それも半端な人数ではない。楽しかったな。どれもこれも楽しい。
■というわけで、私の舞台は、「ブラックホール」でのちょっとしたショー。スチャダラパーや大根君たちとビデオを見るのが基本だが、あいまにエレキコミック、ラストソングスのライブを入れる。最初僕が出て行ってちょっとしたMCをやり、そのあとエレキコミックを呼び込む構成だったが、しゃべっている途中、エレキコミックのヤツイ君とイマダチ君の二人が、「長いよ」と止めに入る。それ、うれしかったなあ、この感じを待ってました。久しぶりに芸人さんと仕事をしたときのあの感じがよみがえった。かつてなら、シティーボーイズの大竹さんがこの役割だったわけで、来ないかなあと思っているころあいを見計らって、舞台に出てくる間とか、気持ちいい。それにしても舞台に出てきたヤツイ君は、さっきまで楽屋でふつうに話していたヤツイ君の顔とはぜんぜんちがう。舞台に現れた人の顔で、もう怖いくらいだ。そのあとだらだらと、ビデオショー。貴重な映像を次々と流す。正直、シンコスター君が用意したモノマネのビデオを見ているときは、これ、どういう態度で見ればいいのかよくわからなかった。そこへゆくと、スチャダラアニが、いままで見たことのない頼もしさを出していて、次々と、よくわからないビデオを紹介する。シンコ君、大根君も、負けじと秘蔵ビデオを出す。ボース君は少し遅れて舞台に登場。「ビデオ忘れました」というが、いちばんしっかりしているはずのボーズ君がそれでどうするつもりだ。ここに書けないような秘蔵ビデオいろいろ。楽しかったな。
■そういえば、「LOOKING TAKEDA」のT君から推薦されたバンドがあったのだが、あたふたしているうちに、見逃してしまったっていうか、あっちも見たいとか、友だちにさそわれて、べつのステージに行ったり、しかもT君の推薦してくれたバンドがなんという名前だか忘れてしまって、見られなかったのは残念だ。
■出演者には、オレンジ色のパスが渡され、オレンジカフェという場所の出入りが許される。すると、ごくふつうに、そこに奥田民生がいたりして、ミュージシャンに対する待遇が、売れているとか、これからのバンドだろうと、誰でも平等というのが好感を持てた。みんな楽屋の環境にも差別がない。ジンギスカンは食べほうだいだったし。あと観客はお行儀がよかった。むかしこういったフェスティバルがあると、あちこちで喧嘩が起こったり、火をつけるヤツとかろくでもなかった印象があるが、そんなこともなく平和な感じで、心地よく音楽を楽しめる。あとで桑原茂一さんと話したが、外国でこういう催しがあると、一人や二人、絶対死ぬのにねえと話していたのだ。無事、そんなこともなく、朝を迎える。まさか、俺、21日の朝まで会場にいるとは思わなかった。会場をあとにして、ホテルに戻ろうとしたのは、もう午前四時。その直前、オレンジカフェにいるソウルセットのビッケ君と久しぶりに再会。握手する。「いま、酔っちゃって、うまく話せないけど」とよくわからない対応をするビッケ君がよかった。
■そして、朝五時にベッドに倒れ込み、11時頃まで眠っていたが、起きてしばらくしてから、やってしまいました。ぎっくり腰です。もう動けない。札幌の町で動けなくなってしまった人がいる。みんなに迷惑かけました。車椅子でJALの人に助けてもらって搭乗。制作の永井にも迷惑をかけた。腰が痛いよ、それにしても。でも、楽しかった。もっと書きたいことはあるが、腰が痛いので、ざっとメモ程度の記録。RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZOはいいよ。ぜひとも、みんな来年は行こう。あ、そうだ、僕の授業に来ている早稲田の学生もいてくれて心強かった。ラストソングスもよかった。もう「笑い」はあきらめたほうがいいと思うが、異なるジャンルとして可能性を見つければいいのだ。
■まだ、書きたいことはいろいろある。ただ、腰が痛い。いやあ、ロックについていろいろ考えた。歩けないからだで札幌を、北海道をあとにする。今週は打ち合わせなど、五本以上の予定が入っているが、この腰で大丈夫なのか、それが憂鬱になったのだ。小説も書こう。ロックざんまいなこの気分をそのまま、小説にもってゆこう。ありがとう、RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO。また機会があったら行けたらいいなと思うのだ。今日は腰が痛いからここまで。
(2:22 aug.22 2005)
Aug.17 wed. 「笑える歴史教科書を目ざして」 |
■小説はもう最終節まで来ているが、そこがうまく書けない。
■ここに書きたいことがいろいろあるのは、たとえば、長野で高校の教師をしている方からもらったメールだ。扶桑社の歴史教科書について触れていた。与謝野晶子についての記述では、いろいろ曲解はあるというが、たとえば、夫鉄幹を助け、子どもたちを育てた、よき妻であり母である、「内助の功」としての晶子像が描かれているという。これは笑うところなのかな。あれは、「お笑い歴史教科書」なのだろうか。いやあ、見事なエンターテイメントぶりである。素晴らしい。それもまた次の機会に触れる。さらに、その方の高校の国語の教科書には、僕のエッセイが取り上げられているという。もちろん教科書の会社から連絡があったので取り上げられているのは知っていたが、内容は見ていない。ぜひとも読ませていただきたい。っていうか、いいのでしょうか、私のような者のエッセイが載って。
■北海道に行くのだった。時間がない。小説のリミットはきょうだがどうやら無理だ。あと少し。北海道から帰った来週は、打ち合わせなどが四本入ってしまった。打ち合わせるのだな。いろいろ話しておかなければいけないことが山積だ。でもって、からだが痛い。じっとコンピュータと向かい合っていたら首のあたりがひどくこる。小説を書くのはとても楽しいが。
(10:02 aug.18 2005)
Aug.16 tue. 「小さな揺れがつづくような日常だ」 |
■二十代の半ばだったと思う。ある高齢の作家が、一日に五枚以上書くと筆が荒れると発言しているのをなにかで読んだ。この一週間で、七十枚書いたから、僕は一日十枚だ。かなり荒れる。このノートも書いているし、連載も書いた。荒れまくりだ。おそらく、五枚以上書いて筆が荒れることを心配するのは、それが最後の「文士」というものなのだろう。文章の品格のようなものをとても大切にしたのだと思う。「文は人なり」の世界なのだろうな。けれど、べつの角度に視点を置くと、それ、怠け者にも見える。一日、五枚しか書かないのかと、家族は怒らなかっただろうか。もっと働けよと言わなかっただろうか。あと、十九世紀の作家たちのあの膨大な作品群を読むとあれ一日五枚では追いつかなかった気がする。品格を保証するのは「量」だけではなかったと思われる。なにを書くか。エッセイなど書こうものなら、品格はがた落ちだ。
■ただ、「一日五枚」をつねに持続できるのなら、それはまた驚くべき勤勉にもとれる。正月だって書くのである。地震が来ようと、台風だろうと、身内に不幸があろうと、なにがなんでも五枚は書く。すると、一ヶ月で百五十枚。一年で千八百枚以上。かなりの量だ。勤勉である。だから重要なのは、「品格と持続」である。そして、「文章の品格」に大きな価値をおいた時代は、いまになってみると、そうできた時代だとも考えられ、そんな悠長なことを言っていられないせわしなさが、現在だ。
■というか、いろいろやりたいことがあり、情報は次々に入ってくるし、学んでしまうことはいろいろあり、それらの処理に困っているのだ人は。おそらく。あれも見なければいけない、これも読まなくちゃいけない、日々の雑事はあるし、基本的に人は生きなければいけない。一年間、舞台をやっていないと、ずいぶん働いていない印象になってしまうのはどういうことだ。いつからそういうことになったんだ。オリンピックだって四年に一度じゃないか。まあ、そんなわけで小説を書いている一日だった。18日に渡すと「新潮」のM君には話したが、だんだん、弱気になっている。どうも終わらない。まだ長くなりそうな気がする。まずいな。北海道の準備もしなければ。
■昼間の地震は長い時間つづいた。東京地方では、揺れが小さくなってからしばらくそれが長引き、船に乗っているような気分になった。人をひどく不安にさせる小さな揺れだ。
(11:45 aug.17 2005)
「富士日記2」二〇〇五年八月前半はこちら →
|
|