富士日記2PAPERS

Jun. 2006 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Aug.28 mon. 「この数日のこと」

浜名湖「弁天島」

■更新がずいぶん滞ってしまった。写真は浜名湖。海につながる位置の、弁天島という土地。
■先週の木曜日から静岡県にある両親の住む家に戻っていた。まったく私事になりますが、いくつか病気を抱えて動くのも思うようにできなくなってしまった父親に会いに行っていたのである。帰ってくるのを楽しみにしているという。だからといって、じっくり話しをすることはないものの、顔を見せるだけで喜んでもらえるならそれでいい。父親と息子なんて、結局、そういうものだろう。頻繁に帰省することができないのでゆっくりしたいがそうもいかない。諸般の事情で数日の滞在になった。静岡は暑かった。エアコンをほとんど使わない家では、じっとしていると汗をかく。からだが動かせず、楽しみと言えばテレビを見ることぐらいになってしまった父親は、ひどく耳が遠い。ものすごい大音量でテレビを見る。そばにいると落ち着かないことこの上ない。昼間は暑いので、できるだけ早い時間に床につき、涼しい時間に睡眠をとらないと眠っている場合じゃないのである。Power Bookはいちおう持参したが、メールチェックする以外はほとんどなにも使わなかった。というか、持って行かなくてもよかったな。そして、母親から聞かされるのは、町の話題。町の人たちの動向のなかに、大きなメディアでは伝わらないこの国のきわめて細部の側面がいろいろにひそんでいる。あと、「健康」についての母親の異常な執念だ。ただ、思うように動けない父親を見ていると、自分のからだも心配になろうというものだ。
■久しぶりに仕事をしないで、こういった時間をのんびりしたいが、やらなくちゃいけない仕事のことを考えると憂鬱になる。しかも、暑い。近くの駄菓子屋に昔ながらのかき氷を食べに行ったらことのほかうまい。フラッペっていうんですか、かき氷の上にアイスクリームが乗っているのは、よく知られているように邪道である。得たいのしれない色つきのシロップが「かき氷」の醍醐味だ。安っぽさのなかにある人を魅了する毒であり、甘美さだ。暑い日にはほんとうにうまかった。子どものころから父親とはほとんど話しをしたことがない。母親ともあまり話しをせず、まして親戚の人たちや、近所の人たちと会っても極端に無口になるのは、話しをするのが気恥ずかしいからだ。それで私の評価は、いまでも「無口な人」だ。

■両親の家では、「静岡新聞」と「スポーツニッポン」を購読している。静岡県における「静岡新聞」の影響力はすごい。僕が「朝日新聞」でいくら連載していても誰も話題にしなかったが、「静岡新聞」にエッセイが掲載されたり、僕の本の書評が出たりすると、たちまち話題になる。掛川市の旧市庁舎についてそれが解体されたことを、現代建築の話として「残念だ」と書いた文章が共同通信社を通じて「静岡新聞」に掲載されたことがあった。当時の市長が怒ったという。ほかのエッセイでは、その市長が音頭を取って建設された「掛川城」はいかがなものかと書いたこともあったが、そうしたメディアには目が届かず、もっぱら「静岡新聞」である。さらに「スポーツニッポン」を見れば、毎日、一面は早稲田実業の斎藤投手だ。いくら巨人の上原が100勝したって、一面は斎藤。「青いハンカチ」だ。なにごとかと思う。いや、でもほんとうにいい投手だった。
■斉藤投手といえば、ポーカーフェイスで有名になったが、どんな場面でもほとんど表情を変えない彼について、ある人は、「吉祥天女や菩薩とかの仏像みたい」と言い、あるいは、舟越桂の彫刻作品に似ているとメールに書いてくれる人もいた。なるほど。宗教顔と言っていいだろうか。舟越桂さんのお父さんが、舟越保武さんであり、ふたりは、ともにクリスチャンだったと記憶する。もちろん、クリスチャンだったら、いい作品を創作できるとは思わない。ただ、クリスチャンだったからその表現が生まれたのではなく、その表現があったからこそ二人はクリスチャンだったのではないだろうか。「表現する」というのは、内面の反映であるのはもちろんだが、内面を先行することだってきっとある。表現が先に生まれ、そして、そうした「表現すること」の連続のなかで内面が育てられる。そこが面白い。だからこそ、「表現すること」はとても興味深いことだと思うのだ。
■日曜日(27日)の午後、静岡をあとにして東京に向かった。車検に出していたクルマを引き取り、車検のあいだに借りていた代車を返すために、途中で京王相模原線の南大沢に寄らなければいけない。そこで、東名高速を御殿場で降りて中央高速にルートを換え、八王子で降りればあとは16号線を南下すればいいと計画していたのだ。ところが、御殿場から一般道路がまず、ものすごい渋滞。さらに、中央高速が混んでいて、だーっと並んだクルマのテールランプやブレーキランプがどこまでも赤く続いているのが見えた。ぐったりだ。というか、もうクルマを運転するのに飽きてきた。さらに、用事をすませて南大沢を出発し、その先は勢いよく走っていたが、甲州街道に入ったら、調布の味の素スタジオのあたりがまた渋滞である。味の素スタジオの周辺には若い者らがだらだらと歩道を歩いており、これはなにかのフェスなのではないか。夏だなあ。フェスなんだなあと思いつつ見ていたが、クルマはいっこうに進まない。仕方がないので調布から高速に乗る。そのまま初台へ。八時間ぐらい運転していた気がする。さすがに疲れた。家に戻ったら、もう、ぐったりだ。それできょう、すぐに仕事をする。やらなければいけないことがいくらでもある。「銀座百選」という、銀座の商店街が出しているPR誌の原稿があったことをすっかり忘れていた。

■あっというまに、夏休みは終わる。夏休みなんてそういうものなんだよな。あとは、なんでもない生活の連続だ。その連続のなかに人は生きているにちがいない。ドラマなんて起こらない。たいしたことは生まれない。だけど、耳をすませば、遠くのほうで、小さな声が聞こえる。あるいは、なにかの気配を感じる。それを敏感に察しつつ。

(3:29 Aug,29 2006)

Aug.23 wed. 「セピアの庭で」

渋谷・「セピアの庭で」

■久しぶりに渋谷に行った。青山真治さんの新作『こおろぎ』の試写を見るためだ。そのことはまた、あとで書きます。見終わってから、しばらく考えていたのだった。うまく言葉にならないが、よくよく考えてみると、これはたまらなく不思議な作品であり、同時に、観る者の深いところに語りかけてくるなにものかがあって、その正体が知りたかった。
■でもって、写真は、試写会のあったシネアミューズの建物の近くにある「セピアの庭で」という喫茶店である。いまから20年近く前、エッセイに書いたことのある店。『彼岸からの言葉』に入っているエッセイだ。そのころ近くに住んでいたのでこの店でむかしはよく原稿を書いていた。椅子にあぐらをかいていたら怒られたこともあった。いまだにやっているのでなにか安心したのだった。
■しかし、試写会があったのは朝の10時半から。少し眠いものの、試写を見終わったのは昼の12時を少し過ぎた時間で、外に出てもまだ明るい(明るいというよりまだ暑い)。なにか時間を得した気分になった。早起きはとてもいい。試写のあと東急デパートのというか、東急文化村のあたりを少しぶらつく。このあたりもずいぶん変わった。変わったなかで、「セピアの庭で」がまだあることに、なにか感動すらする。そして東急文化村の前の交差点は奇妙な位置にあって、それを渋谷駅側から左にゆけば、言わずと知れたラブホテル街(いまはまた、少し様相を変えている円山町)であり、そのまま、まっすぐ行けば松濤という高級住宅街だ(かつて私はそそのかされてそこに住み、ひどい目にあった)。右手もやはり、大使館などのある地域になって、左の円山町とはまったく異なる地域になる。この交差点が興味深い。でも、何年か前、夜に松濤公園に行ったらかつてとは様子が少しちがい、若い者がたむろしてずいぶん汚くなっていた。それで渋谷はだめになってると実感した。

■話はさかのぼるが、火曜日(22日)は雑誌「UOMO」(集英社)の取材を受けた。すごくオシャレな大人の雑誌である。だいたい特集の見出しに驚かされる。「ランボルギーニで出社してみる」って、すごいな。いただいた既刊の号をあとで細かく読んでみたんだけど、取りあげられている高級スーツをはじめとする洋服、時計や文具など小物類にしろ、みんなオシャレなんだけど、どれもすごく高価だ。ただ、「大人の感じ」はたいへん漂っており、私ももういい年なので、こういったファッションになってゆくべきじゃないかと、いつまでもスニーカー履いてる場合かって気もしないではない。「おしゃれはやせ我慢である」という言葉がある。スーツをびしっときめ、ネクタイをきちっとしめて革靴って、その格好でずっといるとどう考えたって身体に負荷を与えるだろう。それが意識をまたべつのものにするだろうけどさ、私もやっぱり、九〇年代に入ってからすっかりラフになり、七〇年代に回帰した気がする。いや、七〇年代はもっと貧乏で汚い格好をしていたが。
■取材は面白かった。きちんと「80年代地下文化本」を読んでくれていたのと、その背景にある文化現象についてあらかじめ取材される編集者の方、ライターの方が知っていたので話が早い。ライターの人にいたっては八〇年代に僕がやっていた舞台をこまめに観ている。すると、話すのも楽しくて必要以上にいろいろ話した気がする。でも、ときとして鋭い質問もあって、応答するのに時間がかかる場面もなんどかあった。で、それを考えることでまたべつのことを思いつくこともあるし質問されるのは大事だ。
■で、最後におきまりの写真撮影。カメラマンの方がいろいろ工夫してくれるが、途中、「UOMO的なポーズをしてください」と注文されてこれが困った。どういうふうにすると「UOMO的」になるかだ。で、カメラマンの方の指示で、手をですね、顔にこう、あてて、なにか思索するようなからだを作るのだが、ああ、恥ずかしい。これまでいろいろな取材を受けて写真の撮影もされてきたけれど、こういうことにだんだん慣れてくるのもいやなもので、なんか、こっちが気がつかないときにこっそり撮ってくれないかなと思う。以前、あれは「東京人」という雑誌だったと記憶するが、鈴木理策さんに撮影されて掲載された写真はいつ撮られたかぜんぜんわからなかった。笑っている写真だったけど、ポーズをとるのとはちがってすごく生き生きしている感じがし、あの写真は欲しかった。ほかにも、名前を失念してしまったカメラマンの方は見たこともないような大きなカメラを用意し、一枚しか撮影しなかった。あれもすごい。ともあれ、「UOMO的なポーズ」はむつかしいという話。

■で、青山真治監督の『こおろぎ』である。ちょうど一年ほど前、青山さんが「西伊豆はやばいですよ」と話していたが、それというのも、地名がおかしいことがひとつあげられる。そもそも、いまでこそ海岸線に道路が建設されて交通できるようになったが、かつては、まず船で移動するか、山を越えるしか西伊豆の土地に人は行けなかったはずである。映画は西伊豆のある町が舞台でその「地名」が喚起するものが作品のモチーフになっていると思われる。
■それ以上書くと、ほとんど映画の内容を書いてしまうことになるのでやめるが、僕が感心したのは、ほとんど説明がないままストーリーが展開し、そしてラスト近く、別荘を借りに来たのだろう夫婦の妻が、べつの別荘のテラスにいる山崎努を見て、じっと視線を外さず見入るシーンだけで、省略された物語の発端にいたる出来事を想像させるところだ。そして、そのことによって奇妙な超越的な力が土地を支配しているのを僕は感じた。あのラスト近くで女が見つめる目は、長崎で僕が、舟越保武の「長崎26殉教聖人像」を三日間くらい毎日、見に行ってしまったこととどこかで通じると思えた。主人公の鈴木京香さんとはべつに、とても重要な役割を与えられた女が、きわめていまどきの女の子で、これは意図してそうしたのかどうかは疑問だった。その役割にふさわしくもっと異なる人物像でもよかったのではないか判断がむつかしい。見終わったあとしばらく試写室の椅子から立てぬまま、いろいろ考えこんでしまったな。こうした素材を取りあげるとき、たとえば、遠藤周作の『沈黙』のように、「信」についてがテーマになるが、これはまた異なることが語られており、現在の「心理学化する社会」とどこかでつながっているとも思えたからだ。そしてまた、日本という国を考えるとき、この国の神の系譜とはべつに、「(抑圧し支配する者から見た)ノイジー」なものが脈々と地下に流れているのを知る。といったことを書くと、映画の表現を語るのとは異なることになってしまうかもしれないが、僕には、そうした作品としてとても興味深かったし、それもまた、青山真治のこうした映画表現があるからこそ喚起されたにちがいない。あと南波さんが出ています。
■それで映画に意識を変容させられたまま昼間の渋谷の町へ。子どものころ映画を観るのはたいて昼間で、映画館を出るとそこには日常的な光があったけれど、いままで身をおいていた、こことは異なるどこかとの感覚のずれが心地よかったのを思いだした。映画は昼間に観るべきだな。夜、用事があって青山へ。用事を終えて建物を出ると、ばったりPHPエディターズ・グループのKさんに会ったのだが、じつはある原稿のゲラをですね、この日、青山で渡すと約束していたのに忘れていたのだ。会うことすら忘れていて、ばったり出会えてよかった。しかしゲラは持っていない。申し訳ないが、クルマで家まで来ていただきそこで渡す。

(8:58 Aug,24 2006)

Aug.21 mon. 「もう秋である」

■朝、僕の舞台にも出たことのある、三坂からメールがあって、「80年代地下文化論本」のなかで、宮台真司さんの名前の表記がまちがっていることを教えられた。増刷に向けてそうした誤字や脱字などを直していたところだったが、ほんとうに申し訳ないことに宮台さんの名前をまちがえていることに、三坂のメールではじめて気がついた。校正を三坂に頼めばよかったかなというくらいに、こういったとき、三坂はきわめて優秀である。ただ、最近、気がついたことだが、三坂の日常的な仕草が奇妙で、あれはなにから来ているのかわからず、不可解な思いをしていたところ、あきらかにアニメだ。「ほんとうですか?」とか言って、両手でグーを作り胸のあたりで「かわいらしく」構えるのが、あきらかにアニメの人だ。それが、年々、顕著になっている印象を受ける。このまま歳を重ねてゆくとあの人は、アニメになってしまうのではないだろうか。
■私は、職業的な作家として、話を面白くするためには、しばしば文章のなかでうそをつく。知っていても、面白くしようと思って知らないふりをすることがある。『チェーホフの戦争』(青土社)では、『三人姉妹』の時代設定を、一八四八年にしたかったのだ。そうすると面白くなるが、時代がわかる手がかりは作中に二箇所あり、じつは一八四八年ではない。だけど、そっちのほうが書いていて面白いと思い、「ひとつめの時代を知る手がかり(けれど、じつはまちがい)」だけを採用した。意図的な誤読である。で、長野県に住むある七〇代の方から青土社に丁重なお手紙をいただき、それはまちがいだと指摘されたのだった。やっぱりばれたか。そこまで丁寧に読んでいただけたことにほんとうに感謝した。「80年代地下文化論本」にもいくつかあります。話を面白くしようと思って話した(書いた)、うそ。でも、ほんとうに事実誤認もあるし、先に書いたように固有名詞や、人名をまちがえるのは、失礼きわまりない。この場を使って謝罪したい。
■原宏之さんの『バブル文化論 「ポスト戦後」としての一九八〇年代』(慶應義塾大学出版局)が面白い。なるほどなあ。もっと早く刊行していてくれれば、昨秋の駒場の講義のときにも助けられたと思うのである。それから、いま川勝正幸さんが、編集をしているという「藤原ヒロシ」に関する本がですよ、100人くらいの人にインタビューして構成されるという話を聞いて、それもあったらと思わずにいられない。で、話を聞くと、向こうも僕の本を引用しようとしていたという。なんということだ。ま、それはそれとして、小説だ。焦燥している。高校野球を見ている場合ではないが、見ちゃったよ、やっぱり。こんなに熱心に「野球」を見たのも久しぶりだ。そして高校野球も終わるともう秋である。

■いやだなあ、もう秋なのか。小説のことで日々、鬱々としていることなど書いてもしょうがないけれど、しっかり書こうと、早実の斎藤投手のピッチングを見て反省したのである。駒大苫小牧の田中の顔もよかったなあ。九月に入ると、大学の「演劇ワークショップ」の発表公演があり、その稽古がはじまるし、それが終わったらすぐに、『鵺/NUE』の稽古だ。だけど、九回の表にツーランを浴びて一点差に迫られても落ち着いてピッチングをした斎藤のことを思ったらそんなことで参っている場合ではないのだ。駒大苫小牧の四番の選手を見ていると元ロッテの初芝を思い出してしまうとか、そんなこともどうでもいいのだった。世田谷パブリックシアターが発行している雑誌「SPT」に掲載される、『鵺/NUE』の戯曲のゲラをチェックしてFAXで送る。九月一日に発売だそうです。どうかお読みいただきたい。

(5:26 Aug,22 2006)

Aug.20 sun. 「ポスト戦後について考える」

■朝、新聞を開くと、『東京大学「80年代地下文化論」講義』が、原宏之さんの『バブル文化論 「ポスト戦後」としての一九八〇年代』(慶應義塾大学出版局)と並んで書評欄で取りあげられていた。筆者は中条省平さん。きのうちょうど原さんの「バブル文化論」を購入し読みはじめたばかりだった。読んでいると、まだ、「八〇年代」について語ることはあるのじゃないかと思っていたのだ。で、そのことなどについて、夜、白夜書房のE君からメールをもらったが、アマゾンに現在の売り上げが何位かという欄があるそうで、書評が出た途端、ぐっと上がったという。やっぱりすごいんだな、朝日の書評欄は。ほかにもE君のメールには、いろいろなブログに書かれた「80年代地下文化論本」についての反響が引用されており、それを読んでも、やはりまだ「八〇年代」について話すことがある印象を受けた。
■話は前後するが、夕方、その書評が載った朝日新聞の取材をたまたま受けた。予定が組まれたのは少し前だったからタイミングがよかった。「日本回帰」という社会的な潮流について僕にコメントを求めるという無謀なことを言い出したのである。政治的なこと、たとえば「靖国」について語ったら家に火をつけかねられない。でも、僕んところに火をつけてもたいした影響力はないと思うものの、ただ、「やるよ」というあの陰湿な恫喝の姿勢が蔓延し、それで口をつぐむ者らがあらわれたらこの国の社会はいっそう暴落である。朝日の記者の質問に応えながらいろいろ考える。で、やはり記者の方も、「80年代地下文化論本」を読んでいて、それで話を聞きに来たという経緯もあるからその文脈で話すと、ナショナリズムや、政治的な排外主義とはべつに、これを、「ニッポンオタク」という状態だと考えたのだった。そこにあるのはやっぱり「内省する連帯」。「ニッポンオタク」だけで話をしていれば通じ合え、まあ、人とうまくやっていけるとでもいうか。
■でも、かつて(30年くらい前?)「ディスカバー・ジャパン」という当時の国鉄(いまのJRである)のキャンペーンがあったことを僕ははっきり記憶しているので、現在の「日本回帰」(たとえば、資生堂の「TSUBAKI」が売れているとか、白州次郎ブームとか)はそのリバイバルのような印象がないわけではないものの、同じと考えるのは、政治的な状況とあわせてもきっとまちがえだろう。安部晋三が『美しい国へ』という本を出して売れているらしい。日本は美しいよ。わざわざ言われるようなことじゃない。しかし、「美しさ」とは、人の観念が生み出すものだから、どう「その美しさ」をとらえれるかは主観であり、もっというなら政治的な反映になる。いやだよ俺は。「美しい日本」を支持する者らは、「(抑圧し、管理する者らから見た)ノイジー」なものついてどう考えるのか。現代資本主義が作り出した人工的な「美」についてどう考えるのか。わかれぎわ、朝日の記者に(たいへん好感度の高い人だった)、「がんばってくださいよ、朝日ががんばらなかったら、この国はどこに行ってしまうかわからないんだから」と声をかける。

■人が変わったように仕事をすると宣言していた私だが、きょうはあまりに高校野球が面白かったので最後まで見てしまった。決勝。延長再試合って、そんなに面白くしてどうするつもりだ。人から生産力を奪うつもりかよ。で、まあ東京代表ということはあるにしてもつい早稲田実業を応援しているのは、まがりなりにも、早稲田に縁があるからだろうか。がんばれ早稲田。がんばれ斎藤。
■ところで、北海道の国境付近の海上で、ロシアの国境警備隊に日本の漁船が拿捕され威嚇射撃で人が死んだ事件について、報道その他が、第一報のときからトーンダウンしているのが気になっている。だって、人が死んでるんだぞ。これがイラクのサマワで自衛隊の隊員がもし死のうものなら大問題になっていたと思うし、韓国、北朝鮮との領海域でごたごたがあったら大問題だが、「カニ漁の不作」という、よくわからないところに報道の論点がずれているのが不可解である。北方領土の問題ともからんで右翼が騒ぎそうなものなのに、そういう様子もない。なにかありましたかね。いろいろ想像する。
■ほかには、『バックラッシュ!』という本を読んでいる。「なぜジェンダーフリーは叩かれたか?」というのが副題。上野千鶴子、宮台真司、斉藤環、小谷真理らが執筆。これもまた「ノイジー」についての勉強のひとつ。あ、あと、前述した原宏之さんの著書の「ポスト戦後史」という言葉は、もっと考えるべきことだとつくづく。チェルフィッチュの岡田君が書いた、『目的地』について僕は、「ポスト戦後史」の話だと見ていたが、そこに「ニュータウン」がからんでくるとしたら、このあいだ南大沢に行ったときの風景の変化をもっと考えるべきだと思った。あのへんて、むかし、ほんとになにもなかった土地だと思う。いつのまにか新しい居住区になっており、そこで形成されるポスト戦後史的な「気分」「意識の潮流」は少なからずあるはずだし、土地が人に与える影響、東京の変遷はどうしたってある。二年前、埼玉県の北川辺に行ったけれど、こんどは、南大沢っていうか、あの周辺の新しい居住空間がなにをもたらしているか、日本中のニュータウンがなにをもたらしているかについて、また足を伸ばして取材しようと思うのだ。行けばなにかが見つかる。観念だけではなにも発見できない。足を運ぶことの重要さだ。

(7:51 Aug,21 2006)

Aug.19 sat. 「湿度の高い新宿」

新宿にて

■午後、欲しい本が何冊かあって家を出る。あと、TSUTAYAに行こうと新宿に向かったのは、ディランのアナログでしか持っていないアルバムのCDをレンタルで借りようと思ったからだ。それで、iTunesにとりこみ、iPodに転送しようと思ったわけ。暑いというよりひどい湿度だ。歩いていると汗がにじむ。で、僕が持っているベケットの戯曲は古い版と、それから新しい版もあり、たしか『ゴドーを待ちながら』も新版があると思いこんでいたら部屋のどこを探してもない。本もですね、必要なときに探すと、きまってないのだ。どこかにあるはずなのにない。それで、新宿の三越のなかにある「ジュンク堂」「紀伊国屋書店本店」と回ったが、驚くべきことに、ベケットの関連書籍はいくつもあるのに、戯曲が一冊もない。紀伊国屋の南口店まで歩こうと思ったが、疲れたので中止。それでジェンダー問題の本など、幾冊か買って帰る。ベケットはアマゾンで注文した。
■途中、新宿御苑の近くにある蕎麦屋に入って「大もり」を頼んだら、ほんとうに、「大」だった。食べきれない。食べ物を残すのはいやだが、これ以上食べると死ぬと思って残した。あと、「ジュンク堂」「紀伊国屋書店本店」のほかに、ミニコミ誌など置いている「模索舎」に行く。レジの近くにクロカンの本がずらっと並んでいた。つい先日、死んだというニュースがあったのだな。ある人からクロカンは、JR総連のマツザキが持っているハワイの別荘(!)にいるのではないかと教えられていたので、埼玉の病院で死んだというニュースは意外だった。と書いても、なんのことかわからないと思うけれど、まあ、わからなかったら、わからないままでいいでしょう。
■で、週刊誌の広告を新聞で見たら、早稲田大学の元総長が、「JR東日本よ、カクマルと手を切れ」というような意味の記事が掲載されていた。その点では強く同意します。「早稲田の構内に大学が警察を導入してビラを配っていた者を逮捕させた事件」に関連して、ある方から、やはり、その問題について運動しているグループの背後にカクマルがいるのではないかとメールをもらったが、それはちがいます。これははっきりしています。神保町の三省堂で『ネオリベ化する公共圏』(明石書店)の出版記念シンポがあったときも、それから、七月にあった、集会のときも、カクマルこと面白グループは、なぜか何人か顔を見せていたのをあとで教えられた。やつらの情報収集力はすごいからね。

■で、このあいだ少し書いたけど、七月の最後の授業に行こうとした際、大学の人に廊下で声をかけられ、僕の授業で、その運動の署名を強制されたと事務所のほうに学生から電話があったので気をつけてくださいと言われたのだった。「署名の強制」っていったいなんでしょうか。強制なんかするわけないじゃないか。だいたい、その「強制」とはいったいどんな状態だ。手をがっとつかんで無理矢理書かせるのだろうか。
■それで、いったいそれはどんな学生から連絡があったのですか、もし強制だと感じたのなら、僕の意見を直接、その学生に伝えたい。署名する、署名しないは各自の自由であり、だがぼくの授業でそのようなアピールをするのは僕の授業の一環でもあるということを伝えたいといった旨のメールを書いたら、「匿名の電話だった」という回答。おい。それでは、その匿名の学生Xはほんとうに学生かもわからないじゃないか。しかもその元々の事務所から届いたメールにはどうも曖昧な点がある。というのも、あきらかに事実に反する内容が書かれていて、教室にいた学生はそれを知っていたはずだが、メールを書いた人がちょっとしたミスをしているように読める。だからなおさら、その謎の電話を受けた大学の事務所が、教務科に連絡し、それで教務科の人が廊下で僕を待ち伏せ注意するという大げさな行為に出るというのは、どこかおかしくないか。これはことによると、僕に対する圧力なのではないだろうか。「学生の電話」がいよいよ怪しいのである。
■早稲田も早稲田だが、法政でもまた、ひどい事態が発生している。これは単にある種の運動に対する抑圧という問題ではなく、「(抑圧し、管理する者から見た)ノイジー」なものへの排除の構造だ。小さな異議申し立ての声すら抑圧されてゆく。小さな声が、圧倒的多数の声にかき消されてゆくのがどうにも気持ち悪いのだ。この時代の空気がね。

■あ、そうだ。金曜日(18日)のことを書き忘れていたが、青山真治さんの新作映画の試写会に行こうと思った午後、「一冊の本」のOさんから電話があり、午後四時ぐらいまでに原稿が届かないと落ちると言われた。忘れていたのである。スランプなんかに陥っている場合ではなかった。あわてて書く。おかげで試写会に行けなかった。でも、来週こそは行こうと思ったのだ。で、さらにスランプだ。そういった後悔がさらに人を暴落させる。「新潮」のバックナンバー(二〇〇六年五月号)に掲載されていた、出口裕弘の「坂口安吾 百歳の異端児」を読む。少し気になるところがありながらも読ませる。そして坂口安吾をまた再読して小説への気持ちを高ぶらせようと思う。安吾が、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を耽読していたのは有名だけど、それはよくわかるものの、一方で、「近代文学は終焉した」と発言している人もおり、いま文学をどう考えたらいいのかわからないのは、小説が読まれなくなったと言われる一方で、ものすごいベストセラー小説が突然、出現することの奇妙さだ。「近代文学が終焉した時代」に読まれる小説ってものについてそのベストセラーぶりについてどう考えたらいいかと思う。

(6:27 Aug,20 2006)

Aug.17 thurs. 「精神の暴落と、ディラン」

■なんといっていいか、いわゆる巷間いわれるところのスランプである。「slump」は、経済的な言葉にすると「暴落」になるのだと辞書を引いて知ったわけですが、「暴落」という言葉はふつうに使ってもいいのじゃないかと思った。仕事部屋を片づけてきちんとした状態で小説に取りかかろうと思うが、整理することを考えるとひどく憂鬱になって、どうも作業にかかれずだらだらしている。なにしろ、いまこれを書いているのも、Power Bookを使ってエアコンの効いた居間だ。この状態が人をだめにする。暴落だ。仕事部屋で集中しようと気ばかりあせる。
■気分を一新するため仕事部屋の模様替えなどしたらと思いたつが、その乱雑ぶりを前にしてなにか途方にくれるのだった。片付かない。ものが多い。腹がたつ。新潮のN君からメールをいただいた。「考える人」の連載原稿の締め切りを知らせるものだったが、「早く小説を」という言葉もあった。また「新潮クラブ」も使ってくださいとありがたい言葉も。たしかに家にいるとろくな状態ではないな。気分がふさぐばかりだ。家で原稿に苦悶し鬱々しているのはきわめて不健康だ。まあ、ぼんやりサッカーの日本代表の試合を観たり、高校野球を観ては名前や顔の面白い選手を見つけるのを楽しんでいるわけだが、そのあいだも、小説のことで焦燥している。内心、じわじわと苦しんでいる。
■ところで、京都のHさんという女性の方からいただいたメールによると、謝罪広告で松下のときナレーションをしていたのは、吉永小百合さんだったそうだ。あ、そういわれればそうだった。何度も書くことですが、私が「ナレーションの声あて名人」だということはよく知られている。で、今回のパロマは男性ではないかというのがHさんの指摘。ちゃんと確認していなかった。松下が女性の声で、「吉永小百合」を採用したとしたら、「パロマ」の男の声が誰かは気になるところである。こんど見たらちゃんと確認しようと思うのだ。また、大手広告代理店にはそうした「謝罪広告部門」があるとのHさんの説。でも、その部門の人はめったに仕事がないのじゃないだろうか。で、ようやく仕事がきて、よーしやるぞおと勢いこんで作るのがあの地味な表現である。まあ、ほかの仕事もしていて、ことがあったとき「謝罪広告部門」は動くのだろうと想像するが。

■『東京大学「80年代地下文化論」講義』の増刷にむけ、直しをしようとするが、文章自体を直しはじめると気になるところばかりできりがない。何度かまた読み返していたのだ。それで、あきらかな誤植というか、まちがっているところだけをチェックする。ほんのちょっとした脱字とかそういったこと。そういえば、この本の増刷のことは、このあいだ青山ブックセンターで開かれた出版記念のトークライブのとき、「増刷が決まったそうですね」と川勝さんから聞かされた。川勝さんはその日、白夜書房の営業の方から聞いたという。俺にはひとこともその話が届いていない。ほんとうに増刷されるのだろうか。
■で、その白夜書房から送っていただいたのが、みうらじゅんさんが編集している「Miura Jun Magazin」で、その第一号は「ボブ・ディラン」の特集である。面白かったのは、サンボマスターとみうらさんの座談会。サンボマスターのボーカルの人が、ディランのなにかの歌について話がおよぶと、歌の内容よりまず先にその歌を歌い出すというくだりだ。そういったばかものな人はいいなあ。歌っちゃうんだよ、いきなり。当然といえば当然だが、ディランに影響されたミュージシャンはこの国でも数多い。で、このところロックをやっている若い人たちがディランを再発見しているという印象があってそれが興味深い。サンボマスターのライブに友部正人さんが出演したのは去年だったろうか。その友部さんを特集する番組がBSであるそうで、僕は対談相手として呼ばれたのである。大学の発表公演をする「演劇ワークショップ」の仕事があってタイトな時期だが、友部さんに呼んでいただけたのだから、これは、万難を排しても駆けつけなければなるまい。
■で、なんかね、ああ、そうですかと言われるのを覚悟して書けば、ニール・ヤングとか、七〇年代によく聴いていた音楽を聴きたい気分ですね、いまは。八〇年代のことを語る本を出したけれど、やっぱり自分の基本的なところは七〇年代に形成されたのだし、それはどうしたって、いましていることに滲むのだとつくづく思う。

(11:14 Aug,18 2006)

Aug.16 wed. 「考える水、その他の石」

■白水社のW君から、再刊される『考える水、その他の石』のゲラが送られてきた。少し読み直して、気になるところを訂正した。ただ、劇評についてはルール(あとになって書き直すのは批評としてずるい)というものがあるから、多少の表記のまちがえを直すだけでそのままにした。読み返して気がつくのはひどく口が悪いことだ。たとえば、ある舞台に関して、わりとシリアスだと思われる場面を、「抜群のギャグだった」と書いている。こんな失礼なことがあるでしょうか。ことに雑誌「ターザン」に書いていた劇評はほとんどがふざけた気分で書いているように読め申し訳ない気分になる。まあ、当時の僕は「演劇」とは異なる位置にいたから、かなり無責任だった。さらにいうなら、「演劇」という制度に対して冷ややかな、強い客観性を持っていた。
■この本の中には、いままで書いた原稿のなかでも、自分にとってもっとも好きな文章がある。「コモエスタ赤坂」という歌について書いた、もう20年ほど前の原稿だ。読み返すととても丁寧に書いているのがわかる。時間があったのもあるかもしれないが、エッセイを書くことが新鮮だったのだな。ちょっと反省した。いま公表するのが恥ずかしい文章もあるけれど、でも、それも自分のしてきたことだから仕方のないことだ。さらに、W君が選んでくれた、このノートからの抜粋の文章もいくつかある。自分でも書いたことを忘れていたものもあるし、あと、ブログっていうか、ウェブ上の日記に書くにしてはやけにしっかりした文章だったりもし、なんでこのノートに力を入れてしまったのかと思うものの、まあ、だからこそ、いまの仕事につながっていることもある。
■で、ふと考えてみると、僕のウェブサイト「PAPERS」も、来年で10年になるのだった。っていうか、今年の秋で九年ですよ。驚く。ウェブだけで膨大な量の文章を書いているのではないだろうか。まあ、そういった時代になっていったというか、なにか目的があったわけではなく、ただ面白かったから書いていたのだ。デザインをするのも面白かったし。たくさんの未知の方からのメールももらい、励まされたり、いろいろ教えられることもあった。10年目になったとき、なにかイヴェントをやろうかな。「PAPERS開設10周年記念祭り」とか、あと、秋だから、「記念運動会」でもいいんだけど。やりたいことがいろいろあるんだった。演劇表現に関する「研究会」の計画もあったが、まったく時間がなかったんだ、ほんとうに。そうこうするうちに、残暑の季節になって夏はもう終わろうとしている。いやだなあ。7月のあの気持ちよさとはまったくちがうものがやってくるのだ。

■あ、「よさこい」についてはまたべつの方からメールをいただいたが、それはまたべつの機会に紹介しよう。いくつかのメールを書こうとして書けない一日だ。不義理をし、迷惑をかけている。本を少し読んだり、大学に書類を提出に行ったり。遠くで雷鳴がするのかと思ったら、神宮の花火大会だった。

(10:44 Aug,17 2006)

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