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■報道を見聞きしていると、考えるのがひどく面倒な気分になっているので、「竹島」に行って島全体を爆破し、沈めてしまおうかと思う。なければいいんだ。なければなんの問題もないのだ。爆破するしかないじゃないか。最初からそんなものはなかったと考えると面倒がなくていい。
■もう四月だ。もうすぐ大学がはじまる。三月末は、茫然と時間が過ぎてゆき、昼夜が逆転した生活を変えようとするが、本を読んだり、音楽を聴いているうち、ふと気がつくと朝の四時になっているといった自堕落な生活だ。睡眠が不規則なので一日中、ぼーっとしている。ちょっと調子が悪い。花粉症で町ではマスク姿が多いらしいが、わたしはまったくその徴候がないのが不思議で、というのも、もともとアレルギー体質では誰にも負けないほど、子どものころのアトピー(当時はその言葉がなかったのでもっとべつの名前で呼ばれていた)、あるいはぜんそく、夏になれば結膜炎、少しほこりを吸えばくしゃみが止まらないなど、凡庸な言葉で書けば「アレルギーのデパート」の異名を持っていたくらいだが、いまはまったくそれがない。いつからアレルギーの体質が変化したわからない。ひどく奇妙でならない。
■午前中、髪を切るいつもの青山の店へ。またさっぱり坊主頭にしてもらった。町の床屋とちがって坊主頭でもほとんどバリカンを使わず、ハサミで短くする技がすごい。いつもやってもらうMさんの腕は見事だが、そのMさんは、『トーキョー/不在/ハムレット』を観に来てくれた。あの生中継部分はあらかじめビデオで撮影したのではないかとMさんは思っていたらしい。よく似た感想はほかの人からも聞いたが、そう思わせてしまったものはなにか自分でも分析できない。そのあと渋谷へ必要なものを買いに行く。久しぶりの渋谷は相変わらずだが、もっとゆっくり歩こうと思いつつ、つい億劫になって、食事をすますとさっさと帰ってきてしまった。夜、京都の大学の学生で、以前、神戸に行ったとき、さんざんお世話になったF君が家に来た。長話。F君の話を聞いて面白かったのは、競艇の選手、ボクサー、プロボウラーなどになろうと、けっこう本気で考えていたらしいことだ。彼は映像コースの今年四年生だが、映像について話を聞くと刺激される。僕ももっと観よう、あるいは作ろうという気持ちにもなる。
■あと笑ったのは、京都の大学の学生が過去に作った映像作品をF君はよく見ているらしいんだけど、教員のある人の作品にそっくりなものがなかにあったという話だ。教員の作品を模倣したんだろうなとF君は考えていたが、ふと、製作年度を見ると、学生の作品のほうが先に作られていたという。つまりその教員が学生の作品を模倣したということだ。なるほど、そういう手が大学教員にはあったか。五年間、京都の大学にいたが、まねしようと思う学生の作品はほとんどなかった。ただ刺激はあった。京都で様々な刺激を受けた。刺激は待っていても来ないとはわかっているものの、また自堕落な生活は続く。
(9:50 apr.2 2005)
■驚いたよ。きょう大学の着任式というものがあって出席したら、99パーセント、スーツにネクタイだった。Gパンは私だけだった。しかも上はトレーナーだ。これはことによると企業で言えば入社式というものではないかなと途中で気が付いたのだった。失敗したなあ。私は奇をてらうようなことが大嫌いだ。日常はごくごく穏やかに生きていたいのだ。
■それはさておき、いま笠木と「花見」を計画中だ。自由参加ということで、できるだけ大勢の人にあつまっていただき、盛大に花を見たいと思う。「花を見るぞお」と意気込みのある人は大歓迎である。今年の桜の開花はやけに遅い。三年前、「池袋サーチエンジン・システムクラッシュ・ツアー」という催しをしたとき、四谷の土手にみんなで集合したんだけど、あれはまだ三月の半ばだったと記憶する。桜は満開だった。風が強くて四谷駅前の膨大な数の自転車がぜんぶ倒れていたのもすごい光景だった。
■ところで、このところ音楽の話を書くと反響が多く、いろいろなメールをもらって教えられることが多々ある。このあいだは、アフリカ系アメリカ人が生み出したブルースのことを書いたが、アイルランドからの移民によって生まれた音楽のことを教えてくれたのはフリーターをやっているというY君のメールだ。Y君に教えてもらった「アイルランド音楽」について解説されたサイトはこちらである。で、それを読んで、なるほどと思ったのは、カントリー、ブルーグラスといった音楽にはフィドル(なぜかフィドロと表記する場合もあるらしいが、単にヴァイオリンである)がつきものだが、あれはアイルランド音楽の名残なのだと知った。言われてみればたしかにそうだ。ブルーグラスで有名な音楽といえば、アーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』で流れる、「フォギー・マウンテン・ブレイク・ダウン」でありましょう。アイルランドのバンドで、ポーグスというグループがいたけれど(いまも活動しているのか近況は知らない)、きわめてアイルランド民謡のような曲があった。そのアルバム『LOVE&PEACE』の、「YOUNG NED OF THE HILL」だ。アルバムはヴォーカル入りだが、シングルカットされたCDにはそのインストルメンタルが入っていた。とても好きだったが、いま「タモリ倶楽部」の構成をしている高橋に貸したらそれっきり返ってこない。輸入盤の『七人の侍』のサントラは20年ほど前にはかなり貴重だったが、いまや「プロジェクトX」のナレーションで有名な田口トモロヲに貸したまま返ってこない。それで私は、「貸したものは返ってこない」という教訓を知ったのだった。また話がなんだかわからなくなったな。
■閑話休題。あるいは、ライトニン・ホプキンスのことを書いたら、大阪で芝居をやっているT君はブルースが大好きだとメールをくれた。ロバート・ジョンソンという、日本人でいったら山田太郎みたいな名前のデルタ・ブルースの人がいるけれど、そのコンプリートCDが出る前からLPを集めて聴いていた高校生だったという。それは渋すぎる。T君はまだ若いから、高校といっても、わりと最近なのだろう。そうなるともう、渋いというより、変わり者ではないかと、申し訳ないがそう思ったものの、いいものはいい。で、T君のメールに、僕がライトニンのことを書いたのは、「京都のブルースブームの流れでしょうか」とあったが、京都ではいま、ブルースがブームなのだろうか。それは知らない。
■では次回は、私はなぜ、中学二年生の冬、レッド・ツェッペリンを買いにレコード屋にあわてて走ったかという話を書くことにしよう。それはたしか、一九七〇年の暮れか、七一年の初頭の話である。
(10:00 apr.3 2005)
Apr.3 sun. 「あいてるドアから失礼しますよ」 |
■舞台の演出助手をした相馬が結婚式を挙げた夜、僕は横浜にいた。リーディング公演以来の横浜だ。それで友部正人さんは、まず最初にソロで、「あいてるドアから失礼しますよ」を歌った。それからバンドと一緒に新しい歌をはじめ何曲も歌ったけれど、ぜんぜん止まっていない人だと思ったし、だけどそれは時代に媚びるのではなく、無理をしているのでもないと感じる。「楕円の日の丸」という歌がまたよかったなあ。そもそも、このあいだ僕がこのノートに「あいてるドアから失礼しますよ」について疑問を書いたら、それに対する丁寧な返事をメールでいただいたばかりだったので、最初の歌でもう、あのう、なんていうんですか、酔ったような心持ちになった。それから詩の朗読。ずーっとその声を聞いていたいと思った。
■以前にも何回か書いたことだけど、大学の授業やワークショップでこれまで何度も「テキストを読む」という課題をやった。自分の好きなテキストを選んではじめはただ読んでもらう。それから自分なりに工夫してあらためて異なる場所や、演出で読んでもらう。それは声を聞きたいからだ。ただ、以前これを、湘南台市民シアターで一般の人が参加するワークショップでやったとき失敗したのは、「朗読」というある特別な分野があることを知らなかったからだ。比較的、年配の方たちが、すごく「上手」に読む。簡単な言葉にすると、「新劇的な上手さ」だった。そういった訓練をする場所があるらしい。そんな「上手」な読みはちっとも面白くない。「声」より、「うまく読む」という態度ばかりが前面に出て、むしろ僕には気持ちが悪かった。
■そうして私は、横浜から高速に乗り、首都高を乗り継いで家に戻ったのだが、そのあいだずっと幸福な気分だ。ぐんぐんスピードをあげて走る。首都高から見える東京の風景を見ながら、『ボブ・ディラン・グレーテストヒット第三集』という長いタイトルの小説についていよいよ書く気力が高まっていったのだった。
■で、ツェッペリンの話はまた書こう。あ、そういえばポーグスはまた活動を再開してこの夏、日本に来るという話をM君という人からメールで教えてもらった。ほかにも音楽についていろいろメールをもらう。だんだん暖かくなってきた。
(12:50 apr.4 2005)
■朝から珍しくいろいろなメールを書いていた。仕事関係、友人へ、青山さんへ。友部さんにはライブの感想を書いた。ただ一通、アドレスが変わってしまったのか、戻ってきてしまったメールがあった。まったく連絡先のわからない人で、唯一知っていたアドレスにメールが届かないとなると、もうお手上げだ。携帯電話のメールだが、ぜんぜんメールを送っていなかったので、そのあいだに機種変更でもしたのかもしれない。よくある話なのだろうと想像した。だけど、困った。なぜかひどくへこむ。あのメールが戻ってきてしまうメッセージはひどく人をへこませる。
■昨夜(四日の夜)、ふらっと松倉が家に遊びに来たので、仕事もしないで音楽を楽しむ。「Don't Think twice,It's Alright.」を、初期のアルバムのディラン、ザ・バンドとのライブでぜんぜんちがう歌い方をするディラン、そして友部さんなど、いくつかのヴァージョンで聴かせてから、友部正人さんが訳したものを歌えるようにギターを使って練習。さらに、以前から松倉が歌っている「鎮静剤」をやってみる。で、いろいろ音楽を話題にしていると、松倉は鼻歌交じりでこんな感じの曲と話してくれるのだが、ブルースにしろなんにしろ、松倉が歌うと、それはどう考えても松倉節である。ぜんぶ松倉の歌になってしまうのが面白かった。楽しい夜だった。
■さて、先般来、書くと予告していたレッド・ツェッペリンの話だが、考えてみるとそれほどたいしたことではないような気がする。調べてわかったことだが、それは一九七一年の二月のことである。「ミュージック・ライフ」という雑誌があって、毎年恒例の人気投票があり三月号に掲載される。当然といえば当然ながら、何年も一位に君臨していたのはビートルズだった。で、一九七一年の三月号を開いて中学二年生の私は愕然とした。ビートルズが二位に転落し、昨年五位だったレッド・ツェッペリンが一位になっている。70年の順位と、71年の順位は次のようなことになっている。
【1970年】
1(1●) ビートルズ ……17,829票
2(2●) ローリング・ストーンズ ……14,626票
3(ー↑) ブラインド・フェイス ……11,358票
4(ー↑) クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル ……8,471票
5(ー↑) レッド・ツエッペリン ……8,095票
【1971年】
1(5↑) レッド・ツエッペリン ……21,356票
2(1↓) ビートルズ ……21,132票
3(4↑) クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル ……17,652票
4(2↓) ローリング・ストーンズ ……15,882票
5(ー↑) グランド・ファンク・レイルロード ……14,629票
*こちらのサイトから引用させていただきました。
前年まで五位だったツェッペリンがいきなりビートルズを抜いたというのは一大事件だった。少なくとも私はそう思った。名前は知っていたが一度も聴いたことがなかったので、すぐにレコード屋に走ったが、ちょうど出たばかりだったツェッペリンの三枚目のアルバムを買った。ジャケットがくるくる回るやつです。と書いても知らない人はなんのことかわからないでしょうが、とにかく、回転したんですよ、ジャケットが。その後、セカンドと、ファーストを買い、ツェッペリン熱はふくれあがっていたのだが、そうするとどうしたって、ジミー・ペイジがかつて所属していた、ヤードバーズが聴きたくなるじゃないか。私はさかのぼりがちなんだ。ボブ・ディランを聴いていれば、当然、ウディ・ガスリーのレコードを手に入れないといられない。で、いろいろ聴いているうちに、その源流にブルースがあったり、アメリカの古い民謡や、アイルランドの音楽があるということがわかってくる。そんな音楽生活を過ごした10代のころだった。そういえばレッド・ツェッペリンを買いにレコード屋に走っていたころ、やたらミュージシャンがドラッグで死んだんだった。ジミー・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、えーと、あれ誰だっけ、ドアーズの人、ああ、ジム・モリソンだったかな、とにかく次々と死んだ印象がある。だけど、「死」に対してそんなに重く受け止めていなかった。まだ身近に「死」を実感していなかったせいだろう。ミュージシャンがドラッグで死んだという記事を読んでも、まあ、ミュージシャンだからしょうがないぐらいにしか考えてなかったのではないか。それからまもなく、まだ若い知人が死んだ日にはじめて「死」のことを考えた。もう会えないことの怖さを知った。ずっと連絡がとれなくても、どこかでまた会えると思っているうるに、相手に死なれたときの悲しさや怖さは、それから時間が経つうち、何度も経験することになった。これからもっと増えてゆくのだろうと思う。
■夜、ある打ち合わせ。舞台関係。来年の話になるが、でも、うかうかはしていられない。少し重圧も感じているのだ。
(1:50 apr.6 2005)
■このあいだ書いた「花見」についてだが、9日(土)の朝10時から世田谷代田と下北沢あたりを結ぶ、緑道で決行ということになったのだった。場所はこのあたりのどこかだ。その朝の場所取りによって具体的な位置が決まるので、もし参加したい人は探してほしい。飲食代として千円を参加費としていただきます。僕は朝10時から午後1時半ぐらいまでいて、それから早稲田に行って新入生歓迎の催しのなかで講演することになっている。早稲田の講演が終わったらまた戻ってくるかもしれないものの、みんな、そんなにずっといるだろうか。とにかく花を見よう。しげしげ見よう。まじまじ見よう。花を見るという意気込みのある人はぶらっと下北沢の(といっても下北からだと駅から遠く、ほんとは小田急線世田谷代田がいちばん近いけど)緑道に来てみよう。松倉が歌っているかもしれない。高森君、ギター、持ってきてくれないかなあ。
■といったわけで、ほんとはまだ書きたいことはいろいろあるものの、とりあえずお知らせまででした。それにしてもこのサイトのトップページを更新しなくちゃと思いつつ、まだ『トーキョー/不在/ハムレット』のお知らせになっているのはいかがなものか。もう春じゃないか。
■きょうのノートは取り急ぎお知らせということでここまで。これから私は原稿に取りかかるが、また続きを書くかもしれない。
(10:02 apr.8 2005)
■あまり例のないことかもしれないが、きのう(9日)の朝10時から花見をした。しみじみ見あげれば頭上には桜だ。花だ。とても天気のよい土曜日の午前。
花見をセッティングしてくれた笠木をはじめ、三坂や相馬夫妻、ヨミヒトシラズの高森君、『亀虫』チームの冨永君、月永君たち、鈴木謙一、鈴木将一郎、上村の「ラストソングス」、松倉、田中、伊勢、渕野、あと、誰がいたんだっけ。世田谷代田周辺で迷子になったのは白夜書房のE君。子どもを連れてぶらっと立ち寄ってくれたのはむかし僕の演出助手をしてくれた太野垣だ。自転車で通り過ぎたのは、下北沢に住んでいるO君。O君もやっぱりまだちっちゃな花ちゃんを連れていた。といっても、三年前、『池袋サーチエンジン・システムクラッシュ・ツアー』をしたときの花ちゃんはまだよちよち歩きだったのだから、子どもが育つのはほんとうに早い。あるいは、仕事に行く途中に立ち寄ってくれたのは、以前、「一九六七年ぐらいに生まれた女性の名前に<陽子>という名前が多いのはなぜか問題」についてメールをくれた方だった。あと、舞台でいつも音響を頼んでいる半田君も自転車で到着。うれしかった。そして、高森君のギターで松倉が歌う。誤算だったのは、高森君のギターが左利き用だったことだ。そうだ、忘れていた、高森君は左利きだった。弾けないよ。でも、きわめて楽しい時間を過ごした。
■久しぶりにのんびりしたが、午後になって落ち着かなくなったのは早稲田に行って新入生を前に講演をしなければならないからだ。午後一時過ぎに、また戻ってくるからと出かける。早稲田では、僕の授業のTA(つまりは授業のアシスタント)をやってくれるSさんがいて、案内してもらった。まだ文学部のキャンパスが把握できなくてぜったい自力では教員ロビーには行けなかっただろう。あまり眠っていなかったのもあるかもしれないが、講演で話を一時間したらもうぐったりしてしまった。なにを話したのか自分でもよく覚えていない。あまり緊張はしなかったものの、やはり大事なのは「体力」だとつくづく。結局、花見会場には戻らず、みんなに電話してそのまま家に戻った。
■この数日はやはり原稿を書いていた。何度も書くようで申し訳ないが、「ユリイカ」の「チェーホフを読む」の連載はもう半年くらい休載している。だめだ。ほんとうにだめだ。そう苦悶しながらも、いまなぜか音楽が私にとっては一番のブームなので、古い音楽雑誌を棚に探せば、たとえば、「ニューミュージックマガジン」が出てくる。これは現在「ミュージックマガジン」と誌名を変えているが、まったく同じ雑誌である。誌名変更にあたっての編集長中村とうよう氏の言葉を覚えている。七〇年代後半か八〇年代の前半だったと記憶するが、つまり、「ニューミュージック」と呼ばれる音楽のジャンル(いまならさしずめJポップのようなものですか)が出現し、どうもまぎらわしいという理由だったように思う。たとえば七二年頃の「ニューミュージックマガジン」に目をやると、雑誌の後半にレコード評があるが、評者のひとりにあの亀淵昭信がいる。あるいは、記事や評論を読むと、「ぼくたち(=自分たち)」と対立する概念として、「大人」がいるのが興味深く、この国で音楽をやるにあたって、音楽の自由をはばむ商業ベースのレコード会社こそが「大人」であり、それは常に打倒するものとして存在したと読める。
■その「ぼくたち」も、亀淵昭信に代表されるようにいまでは立派な「大人」だ。しかし「大人」にならなかった人も数多くいて、それにシンパシーを感じるものの、この「対立の概念」そのもの、あるいは、ここでの「大人」という言葉の使い方にはどうも異和を持つ。単にそれが「いまでは流行らない」ということではないだろう。
■Mさんという方から、「ひとり、お薦めさせて頂きたいブルースマンがいるので失礼ながらメールさせて頂きました。既に知っておられるかもしれませんが、その場合はお許し下さい。おおはた雄一、という歌い手を御存じでしょうか。彼は今30歳くらいのブルースマンです」というメールをいただいた。はじめて聞く名前だった。こうしていろいろな話を教えてもらう。おおはたさんのライブにもこんど行ってみたいと思った。でももうほんと、音楽のライブには何年も行っていないので、先日の友部さんのライブの前が、ことによったら武道館でのジェームス・ブラウンじゃないかというくらい、観ていない。観ようと思うものはいつのまにか終わっている。ぼんやりしているうちに時間は過ぎてゆく。もっとたくさん仕事ができたかもしれないのに、ずいぶん長いあいだぼんやりしていたような気がする。
(2:50 apr.11 2005)
■やけに早起きしてしまい寝不足だ。「ユリイカ」の連載「チェーホフを読む」を書く。おやおやと思うほど書き進む。書かずに考えこむのではなく、書いているうちに発見があり、これはこう読むときっと面白いのだと「書いている手」が教えてくれる。そんなあたりまえのことを再確認していたわけだが、午後、「新潮」のM君に会って小説の打ち合わせ。M君には励まされる。以前、M君にメールでプロットのようなものを送ったのでその検討も含めいろいろ話す。書こうと思っている土地についてM君は興味を持ってくれたという。今月中に書くと宣言。書きます。ぜったいに書く。
■家に戻ってまた原稿の続きを書く。あと二枚は書きたいと思っているところで時間切れ。夕方から神楽坂を登ってその途中を左に折れた場所にある日本出版クラブ会館に行く。岸田戯曲賞の受賞パーティがあるからだ。外に出ると雨が降ったせいか気温がひどく低い。道に迷って少し遅れてゆくと、ちょうど、『三月の5日間』で受賞した岡田利規君が受賞の挨拶をしていた。さらに、『鈍獣』で受賞した宮藤官九郎君の挨拶と続く。その後、いろいろな方のスピーチがあったが、その一人である内野儀さんの言葉(とても刺激的だったのだが)を聞いて思ったのは、では、私のような世代の者はどうしたらいいだろうということだ。特に僕など、パーティ会場にいた岩松さんや、野田さんたちとちがって、「スタイル」というものがぜんぜんない。そのとき面白いと思ったことをやっているものの、だからって内野さんが話していた「岡田君をはじめ、いま新しい潮流が生まれている」という一九七〇年以後に生まれた世代の作る演劇に刺激を受けても、だからってなあ、そういった舞台に合わせるのもどこか無理している感が否めない。どっちつかずでふらふらしている。岡田君の戯曲集を買った。たしかに面白い。噂の舞台も見にゆこうと思う。会場ではいろいろな人に会った。朝日の山口さんとは「戯曲を読む」という話をし、白水社のW君(この日の司会だったが)とは、あるプロジェクトの相談。松尾スズキ君と会うのはこのあいだの例の舞台の打ち合わせ以来だし、宮藤君が所属する大人計画の俳優たちに会うのはほんとうに久しぶりだった。僕蔵がいた。池津がいた。蝉之介がいた。宮崎君がいた。あと放送作家の高橋に会うのは何年ぶりだ。あるいは角川書店のS君。編集者で演劇の評論も書いているM君。いろいろな人に会って話しができたのは楽しかったものの、少し疲れた。というか、立食パーティだったから久しぶりに腰が痛くなった。
■といったわけで、家に戻ったら寝不足もあって原稿が書けない。腰が痛いなあ。なぜ劇作家はみんな腰が弱いのだろう。太田省吾さんもそう言っていたし、たしか別役実さんも腰が弱いと聞いたことがある。そういえば、別役さんは岸田戯曲賞の選考委員をもう何年か前に辞任されたはずだが、別役さんのいない岸田戯曲賞はどこかさびしい。あれだけ戯曲の分析力に長けた人を私は知らない。その別役さんにかつて、「これだけ無駄なことを書けるのは一筋縄ではいかない」と評されたことがあって、とてもうれしかった。意図的に「無駄」を書いていた時期があり、それをきちんと理解してもらったからだ。
■というわけで、この春から早稲田大学で客員教授として教えることになった私ですけれども、受講希望者が多くて抽選で決めることになった授業に関して、抽選に外れた人や、まったくの学外の人から聴講はできるのかというメールを何通かいただく。ワークショップ系の授業などは聴講というわけにもゆかないし(体育の見学みたいなものだからね)、できるだけ大勢の人に話ができればと思うものの、いろいろむつかしいことはあるのだった。でも、ワークショップ系の授業が、抽選しても30人。早稲田は人が多いよほんとに。
(14:44 apr.12 2005)
■このあいだ、松倉が家に遊びに来たときのことはすでに書いたが、音楽の話をしながらなんとなくボブ・ディランの「ハリケーン」を流したんだった。イントロを聴きながら松倉は映画のことを口にした。つい最近、深夜のテレビで観た映画にボブ・ディランの名前が出てきたという。ボブ・ディランは出演していないというので、なんの映画だろうと思って質問すると、無実の罪をきせられたあるボクサーの話だったと言葉を続けた。それ、ハリケーンだよ。
ピストルがひびいた酒場の夜
パティ・バレンタインがおりてきて
バーテンが血の海にたおれているのを見る
「たいへん、みんな殺されてる!」
というわけで、ハリケーンのはなしがはじまる
彼こそ権力が罪を負わせようとえらんだ男
なにもしなかったのに
独房にいれられた、だがかつては
世界選手権もとれたはずの男
「ハリケーン」が入っている『欲望』というアルバムを手に入れたのは学生のころだ。それと、『血の轍』と『追憶のハイウェイ61』はほんとによく聴いた。というか、高校生のころなど一枚LPレコードを買ったらまず一ヶ月はほかに買うお金がないので、そのアルバムばかり聴いている状態になる。いや、そうじゃなくて、松倉がいきなりそんなことを言ったので驚いた話だ。偶然というのはおそろしい。
■岸田戯曲賞の受賞パーティで会った角川書店のS君が、と書いて、S君はS君だっただろうかと、疑問に思っているのは、それほどしばらくぶりにあったからで、ことによったらT君かもしれないし、N君かもしれないと思いつつ、そこで彼と、「エッセイ」について話しをした。
■僕が書いたもののなかで、もっとも一般的に読まれている文章は、いわゆる「エッセイ」と呼ばれるものだし、きわめてばかばかしいことをこれまで無数に書いた。最近はあまり書く機会がないことから、そういうものはもう書かないのですかとS君は言うが、そういうつもりはなく、もっと異なる種類のエッセイの書き方もあるのではないかといつも考えてはいるのだ。「身辺雑記」と呼ばれる種類の文章がある。ああいうもので、お金をもらう気がしなくて、むしろ、この「富士日記2」といういわゆるブログのようなものでたくさんだと思っており、しかし、「身辺雑記」は誰にでも書けるようでいて、それはそれは奥深いものだろうと想像する。そうした文章でお金はもらえるだろうか。なんでもないような日常から人を引きつける文章は生み出せるだろうか。「ブログ」と「プロの文章」のちがいはおそらくそこだ。ただ、ブログはブログで、私は好きなのですが。ここにはなにか大きな「面白い」のちがいがある。境界がある。原稿料をもらえるかそうでないかの境界がある。ま、たまに、これで原稿料、もらっちゃうのかと疑問に思う文章も当然あるし、原稿料をもらっていながら他者性のない文章もかなりある。すかすかな文章もかなりある。
■友部正人さんの歌や詩はもちろん好きだが、エッセイも読み応えがある。たとえば初期に書かれた『ちんちくりん』というエッセイ集を読むと、友部さんの歌に出てくる、「素敵な与太者たち」という言葉をどうしても思い出してしまう。でも後年になって子どもができてからも、素敵な与太者ぶりはほかのエッセイに読むことができる。夜中に家の外にとことこ歩き出してしまった息子さんが警察に保護されたとき、親であるところの友部さんと奥さんは吉祥寺の「のろ」という店で飲んでいた。警察にお父さんとお母さんはどうしているのか質問されると、まだ四歳の息子さんは「吉祥寺の、のろで働いている」とこたえたという(ほんとは飲んでいただけなのに)。そこ面白かったなあ。なんて素敵な与太者なのでしょう。鈴木慶一さんもかなり素敵な与太者だけど、ほんと、周囲を見回すと、どいつもこいつも素敵な与太者たちばかりだ。私はただの与太者です。
■といったわけで、ほとんど改行しない「ユリイカ」の「チェーホフを読む」の原稿を書き進めている一日だ。というか、書いているとどこで改行すればいいかよくわからないのだった。だからだらだら進行してゆく。きっと、なにか見事な改行の方法があるはずだ。そこに魅力的な文章の秘密があるのかもしれない。そんなことを考えているきょうは、やけに冷える一日だった。
(13:32 apr.13 2005)
■いよいよ早稲田の授業がはじまったので、久しぶりに家を出た。
■それというのも、12日、13日の二日間は、原稿をずっと書いて家を一歩も出なかったからだ。鬱屈とした日々だった。ようやく「ユリイカ」の「チェーホフを読む」を書き上げた。もう書けないんじゃないかと思っていたが、書き上がれば気が大きくなるもので、なんだ書き出せばすぐじゃないかなどと考える。そこまでどれだけ苦労していたかもう忘れている。
■「チェーホフを読む」を書きつつも、岡田君の『三月の5日間』(白水社)を読んでいた。このせりふの感じは、かつてワークショップなどでやったカセットテレコを町に持ち出すあの方法で生まれた言葉に似ている。『月の教室』(白水社)はそれが大半を占めていたので、戯曲として出版するに際して、これを、私の名前で出していいものかどうか悩んだ。人の会話を録音して俳優たちが文字に書き起こす。台本化しそれで演じてみるのはなんどかやったことがあるが、そういった「きわめて日常的な言葉」とよく似ていても、岡田君の戯曲はそれが本質ではない。もっとも注目すべきなのは、その劇の仕組みだ。なるほどなあ。と、いたく感心した。詳しく書きたいけど(というのも、自分の勉強のためにね)、いま私は疲れているので、またにします。
■で、授業で、その、『三月の5日』をみんなで読む。「戯曲を読む」という授業だが、いきなり読むのがこの作品というのはいかがなものでしょうか。「戯曲」を読むことで勉強しようとするなら、シェークスピアもあるし、チェーホフもあり、学問的にはきっとそのほうが正しいと思われる。学問的に正しいことをしても仕方がないのは、なにしろそれが、ぼくの授業だからだ。専門家はたくさんいる。研究者がいっぱいいる。もちろん、今後はいろいろな戯曲を読もうと思うが、まず、いままた異なる演劇の潮流がここに生まれつつあるのを読むのがもっともふさわしいと思ったのだ。話は前後するが、戯曲を読む授業が六限目で、五限目は一文の学生に向けた「演劇ワークショップ」という授業になる。ワークショップに関する話をはじめに一時間ほどする。本格的にからだを動かすのは来週からだ。
■テレビのCMにどこかで見たことがある人が出ているので誰だっけと記憶をたどると、「かながわ戯曲賞&リーディング」で最優秀賞を受賞した岩崎君だ。俳優もやっているんだったな、彼は。で、『三月の5日』の岡田君からメールをもらう。岸田戯曲賞の授賞式のとき、挨拶はしたが、話をしたかったという。僕もそう思っていたので、こんどなにかの機会があったらゆっくり話をしたい。その岡田君が、次回の「かながわ戯曲賞&リーディング」で、また応募作の下読みをするとのこと。よろしくおねがいします、とメールにあったのだけれど、よろしくお願いされたのはありがたいが、ということはですよ、僕はまた、審査をするということだろうか。ことによったらまたリーディング(演劇公演とほぼ近いが、しかし、俳優たちは手に手に台本を持ちそれを読むという形式の舞台)の演出をするのだろうか。べつにいやではないし、リーディング公演の演出をするのは好きなのでいいが、まだ、その話は聞いていなかった。
■授業をはじめる前は、新しい大学なので不安だったが、とても楽しかった。まあ、家から近いってのがかなり「楽しさ」を増幅しているとはいえ、モグリの学生も多少はいる授業は活気があるし、学生たちが話をしっかり聞いてくれるのでやりやすい。最初、早稲田の文学部には、「一文」と、「二文」があって、この授業はどっちなんだと混乱し、教室はどこだとか戸惑いはあったものの、だいぶそれも理解できてきた。まだキャンパスの全体像がつかめず、行きたいところに行けないもどかしさはあるが、それもすぐに慣れるだろう。しかしどこもかしこも禁煙なのが苦しいところではあるが。
■「ユリイカ」の原稿も書き、授業も無事にこなし、きわめて充実した日になった。気分が高まっていたので、家に戻った時、あらゆる種類の音楽が聴きたくなった。少し気が休まった夜は、ボサノヴァなどなんとなく部屋に流しておきたい。僕の舞台で最近、カーテンコールで流している「インサンサテス」も入っている、三枚組のアントニオ・カルロス・ジョビンの『The Man From Ipanema 』がこういうときにはいい。しかし、音楽におけるジャンルってなんでしょう。どんな音楽が好きですかと質問されると、ほんとに困惑するときがある。いいものはいい、としかいいようがない。そんなことを僕は八〇年代に桑原茂一さんから教えられた。細分化されたジャンルというより、「音楽」という大きな枠組みがあり、そして、そこには、いいものと、悪いものがあり、そしてそれを受容する側のそのときの状態で、いま聴きたい音楽とそうでないものがある(まあ、どうしても受け入れられない音楽もありますけどね)。きっと人は無意識のうちにそれをしているのではないかと思うのだ。
(4:26 apr.15 2005)
■なんどもここに登場する松倉から、「女高田渡になる」とものすごいことが書かれたメールがあったのは、16日の未明、高田渡さんが亡くなられたからだ。『トーキョー/不在/ハムレット』に出演し、東京乾電池に所属する鈴木将一郎からこのあいだの花見のとき、かなり危ないとは聞かされていたが、まさか亡くなられるとは思ってもみなかった。『タカダワタル的』という映画があってその企画をしたのが、東京乾電池の柄本明さんだと知ったのはつい最近のことだ。柄本さんは高田さんのライブでも歌って交流があったのだな。下北沢のザ・スズナリでつい最近、乾電池の公演があったが、その期間中に同じ劇場で高田さんのライブも予定されていたという。そんなつながりがあったとは知らなかった。ライブの途中、舞台上で眠ってしまったこともある高田渡さんは、もうそうなると、古今亭志ん生の閾である。残念だなあ。もっとすごいことになっていたかもしれないのに。
■わりと睡眠をとったはずなのに、二日目(15日金曜日)の授業を終えて家に戻り、「チェーホフを読む」のゲラのチェックを終えてFAXで送ったあと、不意に眠くなったのはどういったわけだろう。その日の授業は、文芸専修の学生を対象にした講義だった。からだというのは、慣れた動きにはすぐに対応するが、あまり慣れないものには、きわめて弱い。講演のようなものはこれまで何度もしているし、人前で話すのも仕事のうちなので不慣れなわけではないが、授業となるとまたべつだ。というのも、一年間ということを考えていたからだ。一年間となるとですよ、なにをどういったバランスで話すかなど、私の生き方に反して計画的に進行しなくてはいけない。だいたいその日、わたしは自分がこの授業でなにをやるか、シラバスになにを書いたかまったく忘れていたので、授業のはじめに学生に質問したくらいだ。授業を終えたらなんだかくたくたになった。次週は少し計画し、予習してゆこうと思う。というか、そうなると、これはこういった感じで授業を進めると面白いのではないかなどと考え、そのことが面白くなるたちなので、むしろ、夢中になる。あと、そのこと自体が自分にとっての勉強になるし。
■それとはべつに、「演劇ワークショップ」という授業では学生を美術館に連れて行きたい。これまでもなんどかワークショップでやったことだが、現代美術を見て、それからなにか発想を得てエチュードを作るという課題だ。つい家を出るのが億劫になりがちな私だが、こういう作業をすると必然的に出ないといけないし、東京現代美術館をはじめ、美術館が好きという単純な好みもある。それは秋がいいかな。前期は、「身体表現基礎」として、からだを動かすことからまずやってみよう。
(10:59 apr.17 2005)
「富士日記2」二〇〇五年三月後半はこちら →
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