富士日記2PAPERS

Jun. 2006 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Jul.31 mon. 「稽古再開」

■相変わらず不規則な睡眠時間だ。きのう永井に『鵺/NUE』の第二稿を送ったあと、さらにまた推敲。気になるところや、まちがえをいくつか発見した。うーん。まだなにかあるな。そう苦悶しつつ明け方まで起きていて、そのあいだに本を読んでいた。難解な本だったので遅々として進まぬが、言葉のひとつひとつをメモしておきたいほど、刺激にみちている。時間ができたら、新宿にある「模索舎」というミニコミをあつかう書店に行って、「排除される(管理者から見た)ノイジーなものたち」について資料を捜し、もっと勉強しようと思うのである。「管理者」は「管理者」だと思っていないこともあり、それはごく平凡な姿をした市民社会でもある。
■少しの休みがあって、また稽古を再開した。休みだった理由のひとつには、チェルフィッチュによく出ている山縣太一君が「トヨタコレオグラフィアワード」に出演したこともあったが、僕は、戯曲を書いていたので、ちょうどいい休みになった。あるいは俳優たちにも時間が与えられ戯曲の言葉が消化できている印象があった。少しずつ形が整ってきた。細かい演出をするというより、流しつつ、全体を把握してゆく。細かい部分にもいい箇所があってもっと面白くなりそうだが、そこにこだわって稽古するのも、リーディング公演として意味があるかどうかで悩むのである。ま、面白い部分を表現してこそ戯曲の紹介になるが、この戯曲が持っている空気をどう全体的に表現するかに重きを置く。あと俳優がよく見えればと思うのである。少し止めつつ、二度ばかり通す。よくなってきた。
■天気がよくて、気持ちのいい日。湿度が低かったせいか夕方になると風が冷たいほどだった。家にもどり、あれこれ考えているうちに、また明け方になってしまった。これといってしっかり仕事をしているわけでもなく、ただぼんやりしているだけだ。なにかを考えている。つまらないことを考えている。朝日新聞の夕刊に、小林信彦さんが、『うらなり』という小説のことでインタビューを受けていた。あの小説はいま話題なのだろうか。それを素早く、『東京大学「80年代地下文化論」講義』で取りあげたのは、してやったりという気分だ。でも、「してやったり」で満足しないで、小説を書くのである。月が変わる。八月である。なにかの区切りである。書こうと思う。

(6:44 Aug.1 2006)

Jul.30 sun. 「梅雨があける」

■梅雨が明けたという。なんだよ、いまさらかいという気分になったが、それと一緒に、『鵺/NUE』の直しも終わったのだった。一日中、それを書いていた。疲れた。あらためて推敲をしてから、夜、永井にメールで送信。そうしているうちにもう夏も終わりだな。夏は七月だけだ。八月に入ったら、『ゴドーを待ちながら』をせっせと書き写そうと思うのである。それというのも九月に早稲田である夏期のワークショップで、『ゴドーを待ちながら』を発表公演するにあたり、構成用に台本を作ろうと考え、だったら書き写してデータ化したほうがなにかと楽だと思うからだ。ほんとに不合理な仕事だなあ。でも、やりたいのだ、不合理なことを。それを八月、毎日、少しずつやることにする。
■リーディング公演が終わり、それから、きのうも書いた青山ブックセンターで開かれる「出版記念トークイヴェント」も終わると、一般的に言われるところの「夏休み」だ。少し休みをとろうと思うがそうもしていられない。小説を書く。まず「新潮」を書いて、さらに約束している「群像」があるのだった。さっさとやれよって話だ。でも、少しぐらい休ませてもらってもいいじゃないか。まあ、仕事をしているほうが気が楽だとはいうものの。
■この数日、「リーディング公演」の稽古は休みだった。「リーディング」の稽古時間はいったいどれだけあればいいのか、これまで何度か経験した結果、よくわからないということになったのだ。あんまり稽古をすると俳優がせりふを覚えるのである。すると、「リーディング」の意味がわからない。かといって、なにもしなければいいかというと、戯曲の魅力をうまく引き出すためにはそうもいかない。ともあれ、俳優が戯曲の言葉をきちんと読めるようになればいい。まあ、それが最低限の条件。まあ、基本的な「せりふ術」のようなものがあれば、リーディングはあっというまにできてしまうのかもしれないが、「せりふ術」はどうもいま、ないがしろにされているふしがある。というか、「せりふ術」は流行らない。木下順二の『子午線の祀り』の、あの有名な、冒頭とラストで語られるせりふは、どうしたって「せりふ術」があってこその言葉だろう。そこでは圧倒的に「戯曲」が優位を示していた。「戯曲」から「身体」へという潮流がありながらも、言葉が正しく示されなければ意味がないのは、「言葉に強度」があったときだ。ただ、「せりふ術」の内容がそこでは問題になる。いま有効な「せりふ術」はどこにあるかということ。あるいは、「言葉の強度」がどこにあるかということ。

■それはそうと、下北沢と小劇場の世界を描いたテレビドラマがあるそうだ、って、その噂を聞いた話を書こうと思ったけど、ばかばかしいのでやめる。桜井圭介君から、「南烏山ダンシングオールナイターズ!」(桜井君がやっているダンスのワークショップの卒業公演)に招待してもらったが、その日は、横浜でリーディング公演の本番である。「トヨタコレオグラフィアワード」も見逃した。あれこれ見逃しているうちに梅雨もあけた。七月も終わる。天気のいい日が続けばいいと思う。

(12:32 Jul.31 2006)

Jul.29 sat. 「梅雨で終わる七月」

■朝まで戯曲の直しをしていた。また昼過ぎに目を覚ましてそのつづき。あまり進まない。なにかもうひとつエピソードがあってもいいような気がするが、あんまり複雑にするのもよくないと思いつつ、逡巡する。そもそも、そのエピソードがうまく出てこない。昼過ぎ、あらためて睡眠。午後3時に目が覚める。コーヒーを飲んで目を覚まし、打ち合わせへ。目が覚めなかった。東京オペラシティのなかにある、「面影屋珈琲店」で、こんどの青山ブックセンターで開かれる「出版記念トークイヴェント」の話だ。出演してくれる川勝さん、白夜書房のE君、そして永井。川勝さんと八〇年代の話などすると、とても楽しい。しかも、川勝さんが、当時の音楽業界の話、ほかにもポップカルチャーにとても詳しく、『東京大学「80年代地下文化論」講義』の注釈のなかでも、そうした分野は、川勝さんに書いてもらえばよかったほどだ。
■といったわけで、8月6日、青山ブックセンターで開かれる『東京大学「80年代地下文化論」講義』の出版記念イヴェントは面白くなりそうだ。サイン会もあります。ぜひお越しいただきたい。そういえば、白夜書房のE君が堺屋太一の「東大講義録本」を持ってきた。これはいったいなんのお手本にすればいいのだ。それから、いくつか書評が出たというのでそのコピーを持参してくれた。森達也さんとは、ほぼ同世代で、また世代によってこの本は読み方がちがうのだろうと思うのだ。以前、『チェーホフの戦争』などの書評を劇作家の坂手君が書いてくれたが、また坂手君、書いてくれないだろうか。ぜんぜんちがうと思う訳だ。それも読みたいじゃないか。どんな読み方するかなあ。興味はつきない。
■家に戻ってサッカーをテレビ観戦。それからまた、少しずつ丹念に、『鵺/NUE』の直し。できるだけ丁寧に書いてゆく。言葉を吟味する。いらないと思うところは削る。あと少し。書きあげたらまた推敲しよう。それで書きあげ、さらに九月の末に稽古がはじまるまでに「第三稿」というか、決定稿が書ければいい。プロットとしてはほぼ同じだが、細部の手直しと、登場人物の役割を変える。それから、ラストまで書いてあるからこそ出てきたアイデアとか。もうひとつ、決定的なエピソードが書けたらいいが、それがうまく思いつかない。

■それにしても久しぶりに東京オペラシティの近くに行ったら、甲州街道と山手通りの交差点はとんでもないことになっていた。立体交差がですね、ものすごい状態。しかも山手通りの下には地下を走る首都高が建設されているはずで、このあたりはいったいどうなっているのだ。風景が一変してしまった。戯曲はもうすぐ終わる。それが終わったら、小説を書くけれど、もっと勉強しようと、この夏は、勉強にいそしもうと思うわけである。で、一年でいちばん好きな七月は、梅雨で終わってしまいそうだ。

(9:14 Jul.30 2006)

Jul.28 fri. 「小さな声に耳を傾ける」

■稽古のあった水曜日(26日)はともかく、怠けてしまった27日をひどく悔いたのだった。戯曲の直しをしなくてはいけないが、どうも、からだが思うように動かず、なにもしなかった。なにもしていないとほんとにいらいらしてくるからいけない。だったら書けよってことだが、だめなときは、ほんとうにだめだ。ひとつひとつのせりふを丁寧に書いてゆく。二月にあった『鵺/NUE』のリーディング公演のときは勢いで書いたところがあったが、それを叩き台にして、また少しだけべつの言葉を書く。だが、シンプルに。余計なことをあまり足さず、しかし、また異なる言葉を探す。
■なにもしない日、アマゾンで注文した本が届いたのでぱらぱら読む。それから、以前送っていただいた池田雄一さんの『カントの哲学 シニシズムを越えて』をさらに読む。とてもためになる。あるいは、興味のある記事や座談会が掲載されていたので、『at』という雑誌に目を通す。ネットでニュースを読むと、蜷川幸雄さんが主催する「さいたまゴールデン・シアター」の情報が出ていたので、稽古が休みなのを利用して見に行こうと思ったのだ。作品や表現についてはよくわからないが、「公演形態」(七〇歳以上の一般市民による劇)とそれを「演出すること」は敬服する以外にないじゃないか。そして、いま書いている戯曲について参考にとも思ったのだ。
■だからだめな一日は、まあ、だめなりになにかしてはいるが、「だめ」は人を苦しめる。でも、考え方を変えれば、これはまあ、「休み」だと思えればいい。思えるかどうかになってくる。思えないから、いやな気分になるのだ。なにかに追われて人は生きている。なにに追われているのかすらわからない。しかし、追われて焦るのがいけない。すると様々な病理に人は悩まされ、これが高度な資本主義のごく凡庸な人のありかたになっている。こんどの「かながわ戯曲賞」のリーディングで上演されるスエヒロケイスケ君の『無頼キッチン』はまさにそのような作品。

■ところで、『クイック・ジャパン』(正確には、『Quick Japan』)では次の特集として、「政治」を取りあげるとのことだった。原稿のテーマは「新しい法律の立案」というようなもの。僕の提案は、その号の『Quick Japan』を読んでもらえばいいが、簡単にいうと、以前もここに書いたことのある、「マイノリティー(少数派)の小さな声に耳を傾ける」といった内容。つくづく、「大きな声」に社会が支配されていると思えてならないからだ。そうしたことにいま興味を持っており、しばらくそんな勉強をしようと思うのは、来年の舞台をそうしたテーマにしようと考えているからだ。まあ、単純に興味があるという話。
■で、本日の午後、青山にある床屋へ。また坊主頭にした。さっぱりした。そこの美容院の人たちは、まず演劇というものにふだんは触れていないが、僕の舞台には足を運んでくれ、『トーキョー/不在/ハムレット』はドラマってものがなかったのに、今回の『モーターサイクル・ドン・キホーテ』はドラマだったので驚いたそうだ。それぞれべつの体験として楽しんでくれたという。演劇を一様な状態として感じるのではなく、作品ごとに、「べつの体験」として考えるというのは、とてもいい観劇の仕方ではないだろうか。べつにある一定の基準で見る必要もないし、だが、いま演劇の「大きな声」は「よくできたドラマ」のほうに傾いている。映画も小説も、みな同じようなものかもしれない。異なる体験として、太田省吾さんの演劇があり、ベケットがあり、別役さんの劇があり、チェルフィッチュがあり、ポツドールがあって、それでいいじゃないか。
■それにしても、髪を切ってもらったあと、青山にある美容院の入ったビルからあたりを見たら、裏通りだというのに洋服屋が次々と新しく建てられ、かつてあった住宅がほとんど消えているので驚いた。しかも、そんな洋服屋がさ、経営できているということがさ、よくわからないじゃないか。一枚一万円ぐらいするTシャツが売られているショップがあるのだ。それでも売れるというのだ。ふざけるのもいいかげんにしろよ。

(3:37 Jul.29 2006)

Jul.25 tue. 「リーディングの稽古」

■原稿を書いているうち、朝の九時になっていた。それから眠ったが、やんごとならないことで三時間ほどで目が覚めてしまった。それからまた、原稿を書いたり、少し本を読む。それから上にあるような、青山ブックセンターで催されるトークライブなどのバナーを作ったり。でも、夜から稽古があるから少しでも眠っておこうと、午後、二時間ほど睡眠。でたらめな睡眠時間だ。
■夜、西新宿にある「芸能花伝舎」という施設で稽古。西巣鴨で使っていた稽古場のように、廃校の再利用であるらしい。とても使い勝手がいい。ほかにも様々な人が利用しているらしく、やはり喫煙場所にはいろいろな俳優たちがいるようだった。さて、『無頼キッチン』のリーディングの稽古。読み合わせ。一時間二〇分ほどの作品だった。もう少し「間」が長くてもいいのかもしれない。リーディングの演出も、もうこれといって新規なものはあまりない。しかも、演出家がやけに出しゃばるのもどうかと思う。なにしろ、戯曲の魅力をどう伝えるかが重要で、演出家の実験の場ではないはずだ。もちろん、これがリーディングではなかったら話はべつだ。
■今回は、大人計画の正名や、プリセタという劇団を主宰し岩松さんの芝居にもよく出ている戸田君、それから笠木と、かつて『あの小説の中で集まろう』のメンバーが久しぶりに集まった。ほかにも、最近の僕の舞台に出ている俳優が何人か。あるいは、はじめて一緒にやるのはチェルフィッチュによく出ている山縣君がいる。山縣君はチェルフィッチュとはちがってふつうに芝居していた。面白い。それにしても楽しい稽古場だ。ただ、この戯曲は、ぜんぜん出てこない俳優が何人かいる。それがなあ、演出していて気になるところだ。終わってから新宿の居酒屋で顔合わせをかね、飲みに行く。ここでも楽しかった。戸田君が煙草をやめたという。そういう時代になってしまったか。

■家に帰って、「クイック・ジャパン」という雑誌のごく短い原稿を書く。それからやはり当然のように、『鵺/NUE』の直し。いままで書いたところまでで、やはり、気になることを直す。ある人物の役柄をより、「小劇場の世界」から遠ざける。すると、いろいろ関係が変わってくるので、細部を手直し。丁寧に書いてゆく。丁寧にやることが人生だ。あと、読みたかった本にぱらぱら目を通す。
■そんなおり、深夜にメールチェックをしたら、早稲田の岡室さんからメールが届いていたが、なんと、いまダブリンだという。内容はこのあいだ相談したことへの解答だった。返事を書こう。ダブリンとこうして、ほぼリアルタイムでメールのやりとりができるのだなあ。なんという、恐ろしい世の中になってしまったことよ。で、岡室さんのメールで知ったが、僕が岡室さんの翻訳した『エンド・ゲーム』を読んで語るべきは、俳優が声に出したときはたしてそれが言葉としてすんなりからだから出てくる言葉になっているかどうかだと知った。あ、そうか。それはとても大事なところだった。またそれで、あらためて読もうかと思ったのだ。このあいだ別役さんの『会議』を演出したことがあることは書いたが、その戯曲のなかで、僕には、「あなたがた」という言葉がどうしても、からだにすとんと落ちてこないのを演出しながら感じていたのだった。「あなたがた」は、日本人のからだになじまないのだなあ。あれに苦労したのを思いだしたのだ。

(8:12 Jul.26 2006)

Jul.24 mon. 「あらゆるマイノリティーに向けて」

■『鵺/NUE』を書いている。ひとつうまく書けない箇所があって難渋している。元の戯曲があって、つるつるっと書けると思っていたが、そうはうまくいかないものだ。ホテルにこもっているあいだに書けてしまうはずだったし、いくらなんでもこの土曜日、日曜日までには書けているはずだが、細部を直すのも時間がかかるとはいえ、ひとつ大幅に書き直す部分がある。そこのやりとりから、なにか生まれそうなのは、リーディング公演のあと、観に来てくれた方からの、あれはアフタートークでの意見だったかもしれないが、それを参考に書き直している。ここ、大事だと思って考えているのだ。いくつか人物の設定などを変更。ほとんどの人物が俳優ということだったがそれを変える。それで劇のスケールを少し大きくしたつもりだ。
■過去の戯曲からの引用は、減ることはあっても、増えることはないでしょうとパブリックのプロデューサーに話してあったが、三行ぐらい、これ、どうしても引用したいという言葉があった。ほぼ書き直したが、さっき書いた一部分がうまく書けずに筆が止まる。気晴らしに外に出る。天気は悪い。梅雨はまだ明けそうにない。
■『東京大学「80年代地下文化論」講義』についての感想をいただいた。Kさんという、現代音楽を作っている人だ。その一部を引用させてもらう。Kさんの文章はとても長く、その全部を引用したいが、印象に残った次の一節を紹介したい。

 80年代にはたとえば、六本木のWAVEにも、池袋西武のアール・ヴィヴァンにも、批評的な芸術の「居場所」があったとおもいます。わたしが現代音楽を学んだのは、まさに「セゾン文化」の中でした。前衛芸術とは、当然「歴史」をふまえているわけです。だから「批評的」なのです。その前衛が狭いながらも場所を占めていた80年代は、絶対に「スカ」ではありませんでした。そのような場所がいまはほとんど皆無です。セゾンはまた、武満徹に「今日の音楽」の場所を提供していたのです。武満徹の批評性も私にとっては大切なものです。私が受賞した武満徹作曲賞も武満氏が「今日の音楽」の後に企画に携わった東京オペラシティが主催するものです。(ちなみに、私に賞をくれたイギリスのオリバー・ナッセン氏は武満氏の親友であり、「今日の音楽」でもテーマ作曲家として80年代に来日しています。もしかしたら、森ビル系のサントリーホールと東京オペラシティ・タケミツ・メモリアルはいろいろな意味で対比できるかも知れません。サントリーホールはものすごく「バブリー」です。)
 しかしながら、この80年代の流れで今の時代に作曲家を続けることには、非常な困難さを感じることは確かなのです。端的に言えば、「お金が回ってこない」(笑)のです。今年は景気が回復して、「バブルの再来」などという言葉も聞きますが、私が「絶対に違う」と感じるのは、宮沢さんも言われるように「不合理」な文化を全く無視している点です。いま、もし、私がやっているような「不合理」な「現代音楽」をはじめようとする若者がいたら、絶対に絶望していると思います(笑)。どこにも場所がない。私の曲も、ほとんどがドイツの作曲家の友人のつてで、ドイツで初演されています。日本で演奏されたのはオペラシティでの受賞作と、アサヒビールからの委嘱作だけです。「楽壇」の「保守化」への抵抗は非常に難しいと感じています。

 そういったことを、あの本から考えてもらっただけでも、とてもうれしかった。
 で、補足として「批評性」には「質」がやはり問題なのだろうということは書き添えておきたい。ここでは「表現のレベル」での「批評性」が問題であって、もちろん政治的な「批評性」は、たとえば「戦後民主主義」について批評することで、一定の価値は認めるものの、それをテコに、現在を政治の保守化の方向に向けるとしても、「侵略だか何だか知らないが、中国、北朝鮮、韓国が非難することについて60年前の戦争なんか知らないよ」と言いつつ、その「政治的批評性」はあきらかに「六〇年前の戦争と、それに対する、『戦後民主主義的な戦争への批判』に対するナショナリズム的批評」になっているとすれば、都合のいいときは、「都合のいい批評性」を持ち出すってことだ。私がいま主に問題にしているのは、Kさんのメールにもあったような、「表現における保守化」だ。ま、もちろんそれもまた、政治的な背景はあるが。天皇が「A級戦犯の靖国合祀について不快感を示していたメモ」が公表された。いまだから公表できたのだろうな。中国や韓国が、靖国問題について不快感を示すことなど、べつにどうだっていいじゃないか(もちろん一理はある)。この国の人間として、それをどう考えるか、どう判断するかが問題で、むしろ、外国からの圧力ばかりが強調されると、いやな排外主義ばかりが生まれるようで不健康だ。
 Kさんのメールはほんとうにうれしかった。ほかにも、べつの方から、『資本論』についてのメールをいただいたが、これは少し考える時間がほしい。なにしろ難解だからさあ、『資本論』は。

■「新潮」のM君からメール。戯曲が終わったら小説をというメール。書きます。きょう本屋に行ったらたくさんの小説が棚に並んでいて、みんな書いているなあという印象。ただ、僕には舞台の演出という仕事がある。書いているだけの時間がとれない。10月からの駒場の講義のことも考えなくてはな。喫煙やビラまきをはじめとする、「ノイジー」なものについて(びらまきをノイジーとするのは語弊があるが)この国が規制を強めている公共圏のネオリベ化について考えてゆきたい。つまり、「規制する側から見たときのノイジーな文化」についてもっと考えるべきではないかと思った。あらゆるマイノリティーな文化について、あるいは表に姿を見せないカルチャーシーンを検証することが必要な気がする。民族的なマイノリティー、(フェミニズムを含む)性的なマイノリティー、様々なマイノリティーが存在する。それら抑圧されるもの、あるいは監視カメラに代表される管理について、いま語ることがあるのではないか。もちろん、僕に語れるのは過去の政治言語で語ることのできない「政治」ではなく、いまこそ、語るべき「文化の領域」だ。

(4:28 Jul.25 2006)

Jul.22 sat. 「土曜日の午後、早稲田へ」

■いろいろ忙しくてこのノートが書けなかった。いったん書かないとつい次の日も書かないようになってしまい、こうしたことは日々の積み重ねであるのと同時に、ある種の「慣性」のようなもので、書きつづけていれば書かずにいられなくなるのであった。というわけで数日、それがとぎれた。あと、書くことがいろいろあり過ぎてたいへんだということもあるのだ。
■この数日。

・20日(木) 授業、二コマ。演劇ワークショップの授業の発表があり、それぞれ工夫して面白かった。ただ、すごく手の込んだグループとそうではないグループの差が激しい。ほとんどだめなところはだめでした。創作の意欲が感じられない。それをどう持ってゆくかが指導教員の手腕になるのだろうなあと思って反省。「戯曲を読む」のあと、その授業に参加していた何人かと授業打ち上げ。この授業は前期だけなので、これが最後。今年は長めの戯曲を読んだせいか、あんまり数多く読むことができなかったという悔いが残る。

・21日(金) 文芸専修の授業。その直前、ちょっとした事件が。事件の内容については、いろいろ調べて詳細がわかってからまた詳しく書きます。いやはや、驚くべきことがありましたよ。補講だったこともあるのか、今週は極端に出席者が少なかった。授業のあと、学生から質問を受けてそれに応えていたが、熱心に質問をしてくれる学生がいるととてもうれしい。それから、制作の永井と、白夜書房のE君が早稲田までわざわざ来てくれたので、打ち合わせなどをする。白夜書房でまた、秋からやる東大の授業を来年、本にしたいとの話だけれども、E君の話を聞いていると、たいていネガティブな話ばかりになるので、それ、やらないほうがいいんじゃないかと思う。その後、戸山キャンパスの近くで、去年の暮れキャンパス内でビラを配っていた者が不当に警察に逮捕された事件に関する抗議の集会があって参加。少しずつ参加者も増えている印象だが、そのうち五人が面白グループの人たちだとあとで教えられた。

 で、本日、先に書いた授業前に起こった事件のことで、大学に行き、大学が作ってくれたメールアドレスを一年半ぶりに開いてメールをチェックした。そのことがそもそも、いかがなものかという反省があるわけですが、なにしろ、142通メールが届いていたのだ。学内の連絡事項がいくつかあって、俺、何にも知らないで一年半、この大学で教えていた。僕の任期はあと半年。なにをしていたのだ俺は。で、「問題のメール」が届いていた。メールを読んでも釈然としないことがあってそれもまた、しっかり調べて、書こうと思います。まだわからないことがあるのです。

■それで夜になって、『鵺/NUE』の戯曲の書き直しをしていたのだった。少し進む。だーっと一気にやってしまえばいいが、まだなにかあるのじゃないかと、探りつつ書く。月曜日までが締め切り。でも、それは「第二稿」です。「第三稿」を書けたらさらにいいと思う。でも、その稽古も、9月の末からはじまる。その前に、二週間で劇を一本作るというものすごいことを考えた、大学の「演劇ワークショップ」の発表公演がある。今年は、『ゴドーを待ちながら』をやる。そして8月は、「かながわ戯曲賞」の受賞作、『無頼キッチン』のリーディング公演だ。来週からその稽古。8月6日は、『東京大学「地下文化論」講義』の出版記念イヴェントが青山ブックセンターで開かれます。また詳しく告知しますが、ぜひ足を運んでいただきたい。
■ぱっとしない土曜日だった。天気もはっきりしない。

(2:06 Jul.23 2006)

Jul.19 wed. 「エンド・ゲーム」

■昼にホテルをチェックアウトした。あまり眠っていなかったのでぼんやりとしていたが、朝食のときコーヒーを何杯も飲み、それからシャワーを浴びてからだをしゃきっとさせる。『鵺/NUE』の戯曲のことを考えながら。昨夜、あまり眠らず少しずつ直していたが、ふとあることに思いあたり、それは二月にあったリーディング公演とはまた異なる細部の変更だ。というのも、野村萬斎さんのアドヴァイスにあった、「メタ小劇場という感じのスケールの小ささが気になりました。ゆくゆくは海外で上演されることを念頭に大きく構えたい」という部分についてのアイデアだ。まったく仰るとおりだと思っていたがその解決方法がうまく出てこなかった。野村さんはある具体案を提示してくれたが、その場合、かなり根底から書き直さなくてはいけない。そして、本来、この戯曲で書こうと思っていたこと(「過去の戯曲の引用による、消えてしまった言葉の再生」)が意味をなさなくなってしまうので、どうしようか、うまい方法がないか考えていたのだ。思いついた。
■それで家に戻ってからその作業。少しずつ書き直す。しかし、眠い。夕方、仮眠をとる。目が覚めてからまた作業。
■ふと、岡室さんが翻訳した、ベケットの『エンド・ゲーム』を読み返す。やっぱり、うまく言葉が出てこないよ。ベケットの作品そのものについて思うところはあるが、翻訳について僕になにか言うことができるかどうか、戸惑うのだ。いくつか、現代的な口語になっている部分の魅力や、やっぱりこの戯曲は面白いのだと、それが岡室さんの翻訳ではじめてわかった気がし、再確認した。ただなあ、なにか提案したりとか、こここうしたらどうでしょうという言葉がうまく見つからない。あと原文がないから、これ、こう訳したらどうかといったこともできず、たとえば、「それはさておき」の代わりに、「っていうか」を使ったらどうかと思ったが、翻訳としてそれが正しいかわからない。安堂信也、高橋康也訳では、それが「で」になっている。あるいは、過度な現代的な口語を使うのもいかがなものかと思うし。あるいは、演じるのが、柄本明さんと、手塚とおる君だと知っているから、ああ、ここはこう演じるだろうと想像する。だとしたらこの部分は笑えると考えもし、だが、ラストなど、どう考えたらいいか、この「終末観」について、どう受けとめていいかというのは、もう、ベケットの解釈だからなあ。とにかくむつかしいのだ。

■そして私はさらに、『鵺/NUE』を書く。あれから思いついたいくつかのアイデアをもとに書き直し。でも、ベケットを読んだあとだといろいろ悩む。全国的に雨。激しい雨の影響でひどい被害も出た地域があるとニュースは伝える。東京も雨だ。一日中、細かい雨が降り続いていた。

(4:43 Jul.20 2006)

Jul.18 tue. 「ホテルはとても静かだ」

■そんなわけで、またしてもホテルに籠もって原稿を書いている。月曜日(17日)からここにいてじっと考えているものの、まったくせわしない仕事ぶりが自分でいやになる。もっと落ち着いてなにかできないものか。今回は、11月に世田谷パブリックシアター「シアタートラム」で公演のある『鵺/NUE』の戯曲の「第二稿」の執筆だ。2月にリーディング公演をした戯曲の直し。ゆっくり読み返し気になったところに印をつけることから作業をはじめる。それから、このプロジェクト「現代能楽集」の企画者である野村萬斎さんをはじめ、いくつかもらったアドヴァイスを参考にしての直しだ。あるいは、読みながら思いついたことをメモしてゆくが、さすがに、2月のリーディング公演の戯曲は「第一稿」だった。荒いところもあるし、書き直すべきこと、考えるべきことはまだある。ただ、アドヴァイスをたくさんいただき、それをすべて盛り込むとよくわからないものになる。もっとシンプルにできないかと悩む。
■ただ、あれだなあ、書くという実務的な仕事をするというより、ホテルにこもったことで、落ち着いてものが考えられるのはとても助けられた。戯曲についてまた考えた。清水邦夫さんの戯曲を読み返す。あるいは、かつて白水社から出ていた演劇誌「新劇」の一九七四年十月号に掲載されている清水邦夫さんのインタビューを読む。タイトルが「櫻社解散をめぐって」だ。面白い。さらに、もう何度か読んだ別役実さんの『台詞の風景』を再読すると、こういった状況のなかではまた異なって読め、そして、過去の戯曲の言葉はどれもきわめて端正だ。もちろん、九〇年代以降の演劇(現代口語演劇的なるもの)は、そうした戯曲の言葉を、ある意味、否定し、脱臼させることによってはじまったとはいえ、それが当たり前になってみると、過去の言葉が新鮮にひびく。でも、「過去」に戻ってもしょうがない。またべつの劇言語を生み出すことが求められているし、「戯曲より演出」(いわば、文学からパフォーマンスへ)といった潮流は必然としてあるのも自明としつつ、言葉についてあらためて考えているのだ。
■それにしても、ホテルは静かだ。特にいま宿泊している都ホテルはやけに静かで驚くほどだ。よく眠れる。眠ってる場合じゃないのだが、眠れる。

■話はさかのぼるが、16日(日曜日)は有楽町線の小竹向原に行った。青年団若手自主企画vol.29 『会議』のアフタートークに出席するためだ。劇場の場所、クルマを停める駐車場がわからなくて開演に遅れてはまずいなど、いくつかのことを考慮してやけに早めに家を出た。山手通りをまっすぐ要町へ。そこを左折。要通りを小竹向原に向かった。距離としては意外に近かったものの、地図を持ってくるのをわすれたので、ネットで見つけたコインパークの位置がわからず、住宅街のなかをうろうろしていたのだ。ほどなくコインパークを発見。見つけられたのが奇跡のようなわかりずらさだ。
■制作の永井に電話し、迎えに来てもらったときには、あれほど早く家を出たのに、打ち合わせを約束していた一時間前になっていた。小竹向原にある、青年団の持ち小屋「アトリエ春風舎」は、住宅街のなかにひっそりあった。まったく劇場がある気配のない場所に唐突に出現するのが興味深かった。それで今回の演出をする青年団の武藤さんと、アフタートークで一緒に話をするやはり青年団の松井君に会って、駅前のファミレスで少し話をする。今回、僕がアフタートークに呼ばれたのは、7、8年前になるか、青山円形劇場で「別役実フェス」のような催しがあり、そのなかで『会議』を演出したことがあるからだろう。
■武藤さんの演出はずいぶん「別役戯曲」から自由だった。なかでも僕には、「反復」が興味深かったな。と書いただけではわからないと思うが、「反復」するのである。いくつか工夫がこらしてあり、それも面白かったのだが、その上に、この戯曲が本来持っている「市民社会が無意識のうちに生み出してしまう差別の構造」が浮かび上がったら見事だったと思う。惜しい感じがした。過去の別役解釈であれば、テーマをどう浮き彫りにするかを強調し、アドルノ的なっていうか、否定的な弁証法でっていうか、まあ、とにかくそうした硬直した態度で表現をミニマルにしていったと想像するが、たしかに、武藤さんの表現もまたべつの意味で(というか青年団的に)ミニマルだ。けれど、あきらかに表出されるものがちがう。ここにはまたべつの豊かさがある。けれど、ややもすると、それが世界を小さくしてしまうのも否めない。

■で、それとはまたべつのことを考えていたのは、「現代口語演劇」と提唱された平田オリザの方法を、僕はもっぱら「戯曲」の書き方として考えていたが、その方法は「演出」としても存在し、やはり武藤演出においても、人はみな、ぼそぼそしゃべるのである。あるいは会話が同時に発せられる。「現代口語演劇」というより、「平田オリザの方法」としてこれはあるが、それが別役実の『会議』において、どういった効果になっているかについて考えるとき、「それを考える」という意味において、この舞台のひとつの成果だと予感したのだ。ただ、わからないのである。それを見てからもう二日経っているが、まだ、わからない。なにかヒントになっているはずだがまだ考えがまとまらない。
■ただ、『会議』という戯曲は、ほんとにうまく書かれすぎてるんだろうな。僕もうまく演出した自信はない。というか、別役さん、ほんとにうまいな。しかも「うまい」が浅くならないから不思議だ。その「うまさ」に引きずられずにいかに演出できるかがむつかしい戯曲だった。僕は配役をはじめいくつか失敗もしているし。そんなことを考えていたら、また、別役さんの戯曲を演出したくなってきた。
■いや、それはそれとして、いまは、『鵺/NUE』の戯曲である。大事なのはそのことだ。やるべきことはまだあるのだ。ホテルはとても静かである。ゆっくりものを考える。『鵺/NUE』のことを考える。まだ、もうひと工夫ありそうで、それがなにか探している。

(3:48 Jul.19 2006)

Jul.15 sat. 「この数日のこと」

■13日(木)は大学の授業。「戯曲を読む」の授業はブレヒトの『三文オペラ』を読み終えたが、授業に参加してくれた教員の岡室さんから、最後に質問があって、それは僕だったらこのラストをどう演出するかという意味の内容だった。うまく応えられなかった。つまり、どうしたって『三人オペラ』を観ていれば犯罪者であるはずの主人公に感情移入してしまうのだとしたら、それはブレヒトの説いた「異化効果」とはまったく反する戯曲の書き方がされていることになる。そこが、いかがなものかということになっているのだ。処刑されるはずの主人公が最後によくわからない状態で救われる。観客に対してブレヒトは、「みなさんは、こうしたラストを観たいのでしょ」とばかりにそこを書いたように読め、それはブレヒトの観客に対する悪意にも感じるのものの、主人公のメッキーはかっこよく描かれるし、そうした人物が救われたら観客が喜ぶのはブレヒトだって意識していただろう。論理を越えて、どうしてもそう書いてしまう作家の筆致がそこにあり、作家の手は、ひどく無自覚にそれを書いてしまった。そうした部分にブレヒトの本質が、かいま見えてしまう。
■だとしたら、どう演出すればそれはいいのか。ブレヒトの筆に乗っかるか。それとも、原理主義的に「ブレヒトの理論」を考えぬくか。プレヒト作品はややもすると、きわめて強い娯楽作品になってしまいその演出はむつかしい。べつに娯楽作品がいけないとは思わないけれど、だけど、「ブレヒト」という名のもとにその作品をいま、演出することの意味の問い直しをしなければ、だるだるのブレヒトになるのではないか。岡室さんの質問でそのことをより強く意識した。ただ、いまブレヒトから学ぶことはもっとべつのところにあるように思える。「ブレヒト → ミュラー → ポレシュ」といった、ドイツ演劇の劇言語の流れを、もう少し意識的に考えよう。といったことを、授業のあとで、考えていたのだ。あと、この秋に公演されるベケットの『エンド・ゲーム』(佐藤信演出)は、岡室さんの新しい翻訳で、もうずいぶん前から読んでくださいと言われていたのに、読めずにいたのだった。っていうか、ほんとはざっと読んだものの、あの、僕のような者がですよ、ベケットの翻訳に関してなにか意見するのもおこがましく、言葉がうまく出てこないのが正直なところだったのだ。もう一度、しっかり読んでなにか言葉が発せられたらと思うのである。
■14日(金)は、午後、『鵺/NUE』の宣伝用の写真撮影があって、今回、初めて仕事を一緒にさせてもらう、上杉さん、若松さん、中川さんにお会いした。それから大学で文芸専修のクラスの授業。授業後、これまであまり話したことのない学生から質問を受けしばらく話す。それはそれで刺激的だった。夜、高円寺「円盤」で、川勝さん、下井草さんの主宰している『文化デリックのPOP寄席』に呼ばれていろいろしゃべった。一日にいくつもの仕事をするのはひどく疲れるものの、最後が「円盤」でよかった。なんかすごく面白かったな。ほんと、なんていうんですか、ことのほか楽しい時間を過ごすことができたのだ。ただ、円盤はお客さんがぎっしりで、エアコンの意味がまったくといっていいほどなかった。暑い。死ぬほど暑い。三時間近く立ち見だったお客さんには申し訳のないことになっていたのだ。そのあと打ち上げ。深夜の3時まで高円寺にいた。

■といったわけで本日(15日)は、神奈川芸術文化財団が主催する「戯曲セミナー」で話をした。去年も話したので、同じような内容になってしまうのはいたしかたないものの、それでも、少しはこの一年間で考えていたことを盛り込むことはできたのではないか。で、そこに、こんど「かながわ戯曲賞」の受賞作のリーディング公演に出演する、南波、上村、田中の三人に来てもらい、リーディングを上演する空間で、実際、せりふがどう聞こえるか実験をした。というのも、通常の劇場ではなく、神奈川県民ホールの建物の中にある美術ギャラリーを使うからだ。舞台監督をやっていただく方や照明の方もいらして打ち合わせ。舞台は問題なくできそうだが、照明はむつかしい。上から照明が吊れるかどうかだ。吊れないと、リーディングだけに、テキストが読めないのである。
■で、その受賞作『無頼キッチン BRAY KITCHEN』(作・スエヒロケイスケ)のリーディング公演は、8月5日、6日に、神奈川県民ホールギャラリーで開催です。詳しくは、また情報をアップします。戸田昌宏君、正名僕蔵ら、かつて一緒に舞台をやったことのある人たちとの久しぶりの仕事だ。それも楽しみである。あとチェルフィッチュの山縣太一君も出ます。
■それで帰り、制作の永井、上村、田中を新宿までクルマで送ったが、首都高はものすごい渋滞だった。東京まで2時間ぐらいかかった。

(13:20 Jul.16 2006)

Jul.12 wed. 「栄光のレッドカード」

■ジダンのことが頭から離れない。その後、憶測報道も流された。かっとなって暴力行為に出たジダンは、ことによったら世界中が見ているだろう「FIFAワールドカップ決勝戦」の場でかなり確信犯的にあの行為に出たとも読める。背景にはヨーロッパのサッカー界にはびこる移民系選手たちへの差別的傾向が強まっていることに対し、自身最後の試合において、もっとも注目が集まるそのとき行為したと見えるのだ。イタリアの選手はばかだった。「試合ではあたりまえに口にしている相手への言葉によるプレッシャー」って、それでアンリがひどい言われ方をしたのもよく知られているし、さらにいうなら、フランスにおける去年の暴動をはじめ、移民社会への抑圧への対抗が、概念ではなく、行為として政治的な意味があの頭突きにあったと想像するのは考えすぎか。
■でもなあ、「テロリスト」の意味も知らないイタリアの選手ってどうなんだよ。それでよくサッカーやってたな。
■閑話休題。あいかわらずのていたらくな日々は続いている。眠くなると眠る。これぞ、人、本来の生き方だ。ただ今週も、金曜日から来週の火曜日までは忙しい。『鵺/NUE』の第二稿の執筆があるからだ。でも、小説のことも考える。少しずつからだが小説のほうへと動き出した。ところで、考えてみると、「人権」を守るのは「国家」であるという議論があって、「人権を擁護しろ」という言葉は、「国は自分を守れ、警察は私を守れ」と言うことに帰結するから「人権」という言葉自体が有効性を持たないとなにかで読んだ記憶があるが、これ、「国家」についてもっと深い考察がなければ前提としておかしい。単純に言えば、「人権を守ろう、なんて気が、さらさらないのが国家」じゃないか。むしろ、「国家の義務」として「人権を擁護」するのがあたりまえで、それを怠る国家に対して、国民が義務の遂行を要求するという図式によって「人権」は存在するじゃないか。「国民」が「国家」と対立するのに反し、こと「人権」において「市民が国家に依存する」という図式を対置するのはそもそも逆転した論理だ。ほっとくと「国家」は「国民」を無視する。自転車が盗まれたからって、いったい警察がなにをしてくれたっていうんだ。なにもしないよ、連中は。ちっとも「基本的な人権」を擁護しないのが警察だ。こちらから要求してようやく「人権」を守ろうというのが「警察権力」であり、「国家権力」である。あくまで「国家」は「国民の基本的人権」を守るのが義務である。国民が国家によって「人権」を保証していただいているわけではない。むしろ、建前としての「人権の擁護」という名目で、町からノイズを排除しようとしている。公共圏から異物を排除しようとする。それのどこが「人権の擁護」だ。まったく関係のないことを思いつきで書いてしまった。

■小説を。戯曲を。次になにをやるかについて、少しずつだが、考えが浮かんできた。来年の舞台に向けてそろそろ準備をはじめなくてはいけない。

(10:27 Jul.13 2006)

Jul.11 tue. 「いまここにある七月」

■打越さんからメールをもらい、「ところでフォークナーは富山房の全集ですか。あれは実にごむたいな翻訳が多いので、頭に入らないのはそのせいかもしれませんよ」とあった。その「富山房の全集」を読んでいる。翻訳がもう少しなんとかならないかというのは僕もわかっているつもりだが、とにかく、わからない日本語がつづく。で、なんとか理解しようと繰り返し同じ箇所を読む。修行のようなものである。『資本論』がわからないというのともちがうし、カントがわからないというのともちがう。平易な言葉なのにわからない。それから少し小説を書く。面白くなってきた。
■白夜書房のE君はニューヨークに行ってしまったが、「東京大学『80年代地下文化論』講義」の見本が宅急便で届いた。あらためて読み返すといくつか脱字などの誤りがある。失敗したなあ。でも、いい本になった。図版なども面白い。ぜひ読んでもらいたい。特に高校生に読んでもらうといいのじゃないか。ただ、プロフィールのなかに、「エッセイスト」とあって、俺は「エッセイスト」だったつもりは一度もない。だったら、「ブロガー」と書いてもらったほうがいい。あと、ラジカル時代のパンフレットの写真がいくつか入っていてこれが恥ずかしい、っていうか、過去の遺産でなにかするのは気がすすまない。文脈上、八〇年代にやっていた舞台についても触れたが、いまさらなあ、ラジカルってのも。六月はこの本のことであっというまに一ヶ月が過ぎた記憶があるっていうか、あまり六月の記憶がないのもなにか奇妙だ。『モーターサイクル・ドン・キホーテ』の公演が五月だったのもいまでは不思議な気分になり、丸一ヶ月が空白のように感じる。なにしてたんだ、六月。仕事をしていたな。茫然と時間が過ぎていった。
■なにもない日が二日も続くと、つい眠くなる。短い睡眠を繰り返しては、目が覚めると、本を読み、それから少し小説を書き、また眠り、目が覚めるとメールチェックをし、本を読み、また眠り、そうやって一日が過ぎてゆく。七月だというのに、このていたらくだ。そろそろ京都は祇園祭の季節だな。数年間、京都にいて、きまってこの時期は学生の発表公演で忙しかった。それが終わると祇園祭。それも懐かしい。だけど、テレビとか雑誌などに出てくる「京都」はほんとうそだからな。うまくフレームを切りとって「虚構の京都」を作り出している。俺は一度だって、舞妓さんに町で会ったことがないし、「おいでやす」なんて言われたこともないのだ。ともあれ、少しずつ小説を書こうと思う七月だ。

(9:27 Jul.12 2006)

Jul.10 mon. 「ジダンは競技場に戻らなかった」

■日曜日(9日)の夜はすごく早く眠った。というのも、ワールドカップの決勝をテレビで観るためである。ジダンはなぜあれほど怒ったかについて試合後もずっと考えていた。それでレッドカードで退場。暴力行為はたしかにいけないんだろうけど、なぜそうなったかについて、その直前のイタリアのマテラッツィになにを言われて腹を立てたか、一部始終を知りたいがなにも語らないジダンは競技場に戻らなかった。退場を宣告された選手は競技場にももう入れないルールなんだっけ。表彰式にもジダンの姿はなかった。といったわけで、フランスを応援していたのだ。ちょうど四年前、パリに行った。僕と劇作家の松田正隆が関西国際空港でパリに向かうその日、日韓共催ワールドカップでフランス代表が同じ空港に降り立ったのも、なにかの縁である。フランスを応援せずにいられるものか。マテラッツィがなにを口にしたか。ジダンが暴力的な行為に出たあの一瞬の映像が語るのはとても重い内容に思えてならない。
■ところで、このあいだ、出版社から印税支払いの通知があったことを書いたら、打越さん、白水社のW君から連絡をもらってしまったのだが、それは理論社でもなければ、白水社でも青土社でもないのである。まぎらわしい書き方をして申し訳ない。で、そういったこととは関係なくこの先の生活のことを考えれば、人間、不安になろうというもので、私ももう、今年の12月で50歳という驚くべき年齢になる。不安になるなってほうが無理じゃないか。まさかなあ、そんなに生きるとは思ってもみなかったのだ。まだ、読むものがいくらでもあると思いつつ、きょうはフォークナーを読んでいたがちっとも頭に入らない。だいたい目が弱っているので読むのにひどく疲れる。本を読むのが仕事なのに。
ヨミヒトシラズのT君のサイトを見たら久しぶりに更新されており、しかし、サイトを閉鎖するというお知らせだった。どうしているのだろうと気にはなっていたのだ。でも、T君らしい最後のあいさつで、きちっとしているという印象を受けたのだった。なにしろ、いつのまにか放置されたままのサイトはあまたあり、そして、気がつくと消滅していることも珍しくない。T君、またいつか会おう。

■ところで少し前に送っていただいたのは、文芸批評もしている池田雄一さんの『カントの哲学 シニシズムを越えて』で、読む時間がなかったのが、ようやく少し読むことができた。まだもちろん途中だが、とても示唆的だ。それから、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』に関連して、「Wonderland」というサイトのこちらのページで、内野儀さんがインタビューを受けている。『モーターサイクル・ドン・キホーテ』のガイドにもなっています。どうぞごらんいただきたい。

(7:19 Jul.11 2006)

Jul.9 sun. 「待ち合わせについて」

■朝からワールドカップの決勝に向けて体調を整えていた日曜日である。
■ところで、講義録本に「待ち合わせ場所」について触れている箇所があるのだが、考えてみると、いまは「待ち合わせ」という概念が希薄になっているのではないだろうか。携帯電話の普及である。だいたいの場所、「じゃあ、あした新宿で午後二時ぐらいに」と言えば会える確率が高いのだろう。少し前までは、たとえば、「渋谷のハチ公前で」とか、八〇年代だったら「六本木のアマンド前」という、スタンダードがあって、だからそういう場所はあえて避けたものだった。最近はあまり六本木に行ってないので知らないが、アマンドと道を挟んだ交差点の角に、「みのち庵」というそば屋があった。「アマンド前」がスタンダードというか凡庸なので、だったらと、「みのち庵前待ち合わせ運動」というものを考えたのは20年ぐらい前だ。いまやその枠組みもないのだな。
■というか、全体がひどくアバウトになっているということで、場所はもちろん、時間もきっちりというより、友だち同士の待ち合わせぐらいなら、そこまで厳密でなくてもいいのではないか。そもそも「待ち合わせ」もまた歴史的な産物だ。正確な時計があってこその待ち合わせである。と考えれば、人が「待ち合わせ」をはじめたのはそれほど過去ではないだろう。やはり、近代以降になるのだろうか。「待ち合わせの誕生」という本でもあれば読んでみたい。

■そういえば、携帯の留守電になにかメッセージが入っており、「青山真治さんが7月1日から禁煙をしている」とそれはあったが、誰が吹き込んだのかわからず、でも近くに青山さんがいるらしいことは音の気配でわかったのだ。その後、吹き込んだのが白水社のW君だと判明した。7月1日は、煙草が値上がりした日だな。煙草が値上がりするのを機会に禁煙する人の話はよく聞くが、酒が値上がりしたといって酒をやめる人はあまりいないし、ガソリン代が値上がりしたといってクルマに乗るのをやめる人とか、電車賃が値上がりしたからといって電車に乗らなくなる人も、まずいない。そりゃそうか。しかも、京王線にいたってはあるときを境に、値下がりしたからな。それで、京王線にいままで以上に乗るかというと、人はそんなこともしないのである。
■それでまったく関係がないが、「Mac Power」のT編集長に提案したのは、いまのエッセイの連載は8枚で、正直、長いのである。そこで、以前、「波」の連載でやっていた方式だが、これを三分割し、8枚の中で、三つのテーマを書くという方式で次回は書こうと思ったのだ。1テーマで8枚だと切れ味がなくなる気がする。書けなくはないが、すぱっとばかばかしいことが書けないというか、やっぱり技術で書いている気がして、速球で勝負という感じがなくなるのだな。あくまで私は速球にこだわりたいと思う。ただ、いまでもなにを書くか悩むのに、一回につきデジタルをテーマに三つのねたを用意するのはたしかに大変だ。ま、でも、なんとかなるだろう。

(15:20 Jul.10 2006)

Jul.8 sat. 「高田馬場で」

■夜、「Mac Power」のT編集長と食事をするため、高田馬場に行ったのだった。早稲田で教えていても、高田馬場に行くことはめったにない。駅から見ると、BIGBOXの横にある坂道を上がりきったあたりにあるコインパークにクルマを停めた。それで駅の方向へ坂をくだって歩く。私の舞台によく出ていた宋が働いているはずのイタリアンレストランが道沿いにあるはずだと、道をへだてて見ていたら、どうも様子がおかしい。店はまだ残っているが明かりが消え、なにか貼り紙がしてあるのが遠くから見えた。道を渡って店の前に行くと、「閉店のお知らせ」の文字だ。あ、つぶれていたのか。しかもまだ貼り紙があるところをみると、つぶれたのはごく最近ではないだろうか。もう二年以上、宋とは連絡を取っていなかったが、いったいその後、どうしているのかわからない。
■それでT編集長とは、高田馬場の駅前にある、細い路地の先、小さな店やら居酒屋やら風俗やらが立ち並ぶその先の、焼鳥屋に入ったのだった。少ししゃれた感じの焼鳥屋で、焼鳥屋と聞いていたが、その言葉からイメージするのとは少し異なる店だった。一応、連載の打ち合わせということだったが、雑談ばかりしていて、しかしT編集長と話すのはとても楽しい。Macをはじめとする、アップルの動向なども教えてくれる。で、しばしば話題にのぼるのは、「ミクシィ」のことだ。T編集長が編集部に行きデスクから部下たちの行動を見ていると、まず編集部の全員が出社してコンピュータを立ち上げまっさきにするのが、ミクシィへの接続だという。そんなにすごいのかミクシィ。僕も誘われ、なにかわからぬうちに入会したが、なにもしていない。いったい、あそこで、なにをすればいいのかよくわからないのだ。めったにログインしないっていうより、ほとんど行かない。ミクシィのなにが魅力的なのだろう。わからない。
■久しぶりに会ったこともあり、ずいぶん長い時間、話をした。しかも焼き鳥はうまい。このところ気分的に休まることがなかったが、きょうはわりとのんびりできた。それにしても、高田馬場の駅前はほとんどむかしから変化がないのも不思議だ。T編集長とわかれたのはもう夜の10時半を過ぎていた。

(12:49 Jul.9 2006)

Jul.7 fri. 「夏は修行の季節である」

■木曜日、金曜日は大学の授業である。それぞれの授業が面白くなっている。大学の授業は気持ちよくできるものの、ただ、先週から続いた原稿を書く日々に疲れたせいか、ほっとくと眠ってしまう。短い睡眠時間を一日に何度でもくりかえし、夜は早く眠り、そして朝起きるのも早い。おかしな生活になってしまった。梅雨はまだあけそうにない。
■いろいろな仕事が次々とくるわけだが、「ライブドアパブリッシング」という会社が、一連の「ライブドアの出来事」について様々な方面の人から意見を求めるという本を出すそうで、そのアンケート形式のような原稿を依頼されたのはもうずいぶん前だ。締め切りだというメールをもらった。忘れていたのだが、言葉がうまく出てこないのも正直なところで、「事件後」だというのも、なにか発言するのに人を戸惑わせ、それというのも、「事件」を知っている者の発言はどこかフェアではない気がするからだ。「なんでも言える」という印象がある。逆にそれが発言者をずるい者にさせるということ。
■ある出版社から印税の支払いを知らせる書面が届いたが、その支払いの計算がよくわからないものだった。それを見ていたらなんだか不安な気分にさせられる。それが直接ってことではないものの、これからの生活はどうなってゆくのか、まったく自由業ってやつはこの不安との格闘だとつくづく。まあ、まったく収入がなかった時期もあったから、それに比べたらいまはぜんぜんいい。不安を抱えながら来年は舞台をやる。好き勝手なこともやっていられないと思いつつ、好き勝手なことをしていたい。というか、まあ、そんなふうにしかできないわけだけど。

■といったわけで、夏だからといって、海だ山だと、そんな浮かれたことをしている場合ではないのである。こつこつ仕事をしてゆこう。このあいだ、新潮社のN君、M君と会ったとき、疲れたら「よし、温泉に行こう」という気分に人はなるものだが、なかにはそうではなく、「よし、新潮クラブに行こう」という、そもそもレジャーのようなものと無縁な人がいてそれがものを創る人なのだろうという意味のことをN君が言っていた。私はまったくそうだな。だいたい、レジャーが似合わない。余暇というものが似合わないのである。それだったら仕事をするとか、それに伴う勉強をしたり、なにか考えているほうが気が楽だ。どうせ、どこかに行ったところで仕事のことばかり考えて余計に不安になる。ただ、仕事で地方に呼ばれたりするのはいい。なぜなら、いくら遠くに行っても、これは仕事だからと自分で納得がゆくからだ。なんていやな商売なんだこれは。
■だが、七月はいい。やっぱり七月だ。夏である。夏は修行の季節である。

(7:50 Jul.8 2006)

Jul.5 wed. 「からだが思うように動かない」

■東京はいやな天気が続く。これまであまり経験のない長い原稿書きから解放され、それからすぐに次のことに取りかかるほど器用ではない、というか、思うように「からだ」が動かない。いろいろ面倒になっているという気がする。だけど、講義録を出すという経験でさらにもっと勉強しようという気持ちになったので、それは来年の舞台への布石にもなるが、読むものはさらに増える。力をたくわえておかなくてはな。「Mac Power」があるが、からだが動かない。それで昼間は眠っていたし、夕方、ごく個人的な用事で出かける。
■勉強も大事だが小説だ。「新潮クラブ」に行ったのももう遠い過去のようだ。小説にもどらなければ。小説を読もう。ブレヒトをもっと読もう。あ、それは演劇だが。原稿を書くのに死にそうになっていたせいで、東大で開かれた、内野儀さんと桜井圭介君が出たシンポジュウムなのかな、そういった催しがあって、チェルフィッチュも出たはずだが、行けなかったし、ニブロールの公演も見逃した。申し訳ない。
■梅雨が明ければなあ。そうすると気持ちはさらに高まる七月である。がんがんに暑くなってほしい。汗をだらだら出したいのだ。その後、「Mac Power」の原稿だけは書きあげた。北朝鮮。ミサイル発射。あの国らしい短絡的な示威行為。米朝交渉をねらっていると言われているが、日本のことなど、ほんとはどうでもいいのだな。この国では政治的に利用され、「北朝鮮はこわいよ」的な煽りはさらに高まりそれに対抗する名目で、保守が、もう半世紀のあいだ、ずっとやりたかったことが、次々、議決されている。だが、北朝鮮はこの国がどうなろうと知ったことかとミサイルの実験。ばかがいる。ばかが近くにいると迷惑をこうむるのは(この国のごく一般の国民がですよ)近くにある国だ。だって、北朝鮮が見ているのはアメリカだけだろう。いやだいやだ。

(10:21 Jul.6 2006)

Jul.4 tue. 「森山大道の写真を見ていた」 ver.2

■打ち合わせが二本あった。そのうちひとつは11月に公演のある、『鵺/NUE』のフライヤーのデザインについてだが、ものすごく早く話がまとまったのは、デザイナーのKさんが戯曲を読んだうえで、「これでしょう」と差し出してくれたのが、寺山修司と森山大道による、『あゝ、荒野』(PARCO出版)だったからだ。Kさんが装丁をした本だ。なにより目を奪われたのは、まあ、目を奪われるくらいだから当然、森山大道の写真だ。そこには長い時間の「新宿」が描かれていた。この写真で即決である。使われる写真は僕が選ぶ。あとは、細かい打ち合わせ。ただイメージがばちっと最初に決まったから話は早い。それからこの本の豪華版というか、装丁が金属製で、限定50部、定価20万円という本が刊行されるという。薦められた。その場で予約しようかと思ったが、やっぱり逡巡する。
■それにしても、『東京大学「80年代地下文化論」講義』の原稿をまた読み直したが、やっぱり、ここはこう書くべきだったとか、あとこういうことも書いておくべきだったなど、いろいろ後悔する。少し雑な部分もある。そのことを考えるといやな気分になる。でも、もう印刷所は稼働しているのだろうなあ。今月には出るというのだから驚きだ。雑誌のようだ。これ改訂版が出せたらいいと思う。20万円の『あゝ、荒野』の宣伝用のカードを見せてもらったところ、刊行予定が五月になっている。もう七月だが、まだ完成するのは少し先になるという。この仕事ぶりもすごい。あと「小林某」という漫画家について書くにあたり、俺は、その後の彼がどんな発言をしていたかよく知らないが、その初期の作品から面白いと思えなかったし、だいたい線がきらいだということは触れるべきだった。表現者がなにを語ろうと、表現された「線」に作家の価値があり、僕にはそれがだめだったということ。あと北田さんが著した『嗤う日本のナショナリズム』から引用すべき部分があるとか、あったな、書籍としてまとめるのに、まだするべき仕事が。もっと勉強をしておこう。
■じつは、きょうは朝の四時ぐらいに目が覚めてしまい、夕方を過ぎたころにはもう眠くなっていた。さらにいうなら、土曜日の夜に食事をしてから、月曜日は原稿を書きつづけ夕方過ぎから早稲田で打ち合わせ、なにか食べるのを忘れていたのでようやく食事をしたが、考えてみると丸二日、なにも食べていなかった。忘れていたのだ。空腹を感じなかったんだからなにかがおかしい。胃が小さくなったせいかそのときも量を食べられなかった。

■早めに眠ることにした。また深夜に目を覚ました。ワールドカップ準決勝のドイツ―イタリア戦をテレビで見た。イタリアが強い。連携のすごさ。シュートへの果敢な挑戦など見るべきことにあふれた試合だった。タバコは300円に値上げされた。また今年度も駒場の講義がある。

(7:20 Jul.5 2006)

Jul.3 mon. 「次は小説」

■早稲田の学生からメールをもらった。卒業論文に関する内容だった。そのメールのタイトルがすごい。「失業論文の件」。そんな論文、読みたくないよ。
■といったわけで、『東京大学「80年代地下文化論」講義』の直しはすべて終わった。「あとがき」を書き終えたのは、夕方の六時過ぎだった。それから大慌てで打ち合わせをするために早稲田へ。終わって帰り道に食事をし、家に戻ったのは、九時過ぎだっただろうか。と書いていて気がつくのは、いま使っているコンピュータの漢字変換が、ゲラ直しでずいぶんクセがついてしまい、いつもの僕の調子が出ないことだ。今回のゲラの直しはすべて、データで送ってもらった。それをチェックしつつ直す作業だったが、たとえば、「一九八〇年代」と僕だったら書くところを、今回は、「1980年代」という表記をしなくてはならず、そういった表記の統一を元々のデータにかなり合わせたので、漢字変換のクセがそのまま反映する。
■でも、細かいどうでもいいような作業だが、表記の統一だけでも、時間がかかった。というか、ほんとに俺、死にそうだったよ。もう当分のあいだは八〇年代のことは考えたくないのだ。まあ、少しは眠ったり食事をしたりという時間はあったが、土曜日(7月1日)の朝からずっと書いていた。土曜日の夜から、きょうの夕方まで書きっぱなしだ。元々の叩き台として、講義を記録したデータがあったとはいえ、かなり直したし、この二週間ぐらいで原稿用紙にすると600枚ぐらい書いていたのじゃないだろうか。あとコンピュータでものを書くという作業はとにかく推敲をする。書き終えたと思うと、またあらためて最初から読んでいる。読んでるそばから、また書き直す。あと、だんだんからだが暖まってきたのもあるが、最初のころ書いたものと比べると、後半になるほど書き方が細かくなる。バランスが悪い。時間があったら、また第一回の講義から読み直し、推敲してさらに書いていたと思う。というか、もっと余裕を持って、いい本にしたかった。

■とにかく疲れた。一ヶ月前まで舞台をやっていて、その二ヶ月後には書き下ろしに近い本を刊行する無謀さだ。といったわけで、去年の11月ぐらいからほんとうに休んだという気分になったのは、たったの一日だ。あと、「Mac Power」の原稿があるんじゃなかっただろうか。そして、すぐに小説に取りかかろう。
■そういえば、関係ないけど、この講義をしているあいだ、東京という土地について話そうと思っていたときたまたま読んだのが、「文學界」に掲載された小林信彦さんの『うらなり』という小説だ。当然、夏目漱石の『坊っちゃん』の登場人物のひとり、「うらなり」の視点から『坊っちゃん』の物語を読み直すかのような作品だが、その30年後から小説ははじまる。そこで「山嵐」に「うらなり」は再会することになる。再会する二人が待ち合わせをするのは「銀座四丁目の交差点」とあり、さらに、「山嵐」こと森田は、「うらなり」がこのあと「新宿」に行くつもりだと言うのを聞き、「震災後に、ぐんと伸びた盛り場です」と「新宿」について説明する。この再会が、一九三四年(昭和九年)と設定されている。それで講義でこの小説にふれ、町について話をしたが、直しをしている途中、忙しくて読めなかった「文學界」(というか、文芸誌を、さらに雑誌全般だが)に目をやると、『うらなり』に関する「創作ノート」を小林さんが発表していることに気がついた。
■で、そこから少し引用しようかと思ったものの、考えてみると、それは時制がおかしい。講義をしているのは今年の一月だ。「創作ノート」は五月号に掲載されている。だったら、講義のなかではまるで予言者のようにふるまい、「このあと小林さんは、創作ノートを発表するんじゃないだろうか。そこには、こんなことが書かれているんじゃないだろうか」と書いてもよかったが、それはあまりに、でたらめである。

■このノートも再開できた。七月の気分をやっと味わうことができる。

(8:50 Jul.4 2006)

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