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Published: Feb. 4, 2005
Updated: Jul. 31 2005
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仕事の御用命は永井まで かながわ戯曲セミナー
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Jul.16 sat.  「また横浜にゆく」

■金曜日(15日)の午後は授業。文芸専修の学生に向けた講義の、前期、最後の授業だった。前回、「子供」というからだの話などをし、その発展で、中沢新一さんが書いている「シンデレラ」の話をする。というか、前回それを話そうと思って忘れていたのだ。だが、最初に、スーザン・ソンタグの話や、「タブー」について話しているうちに時間がかなりなくなってしまった。というのも、前期の授業を踏まえて全員から質問を受け、それに応えるというのをやりたかったからだ。「なにか質問は?」と声をかけてもたいてい出てこないが、紙を渡して質問を書いてもらうと、みんないろいろなことを書くというのは、これまでの経験でよく知っている。いままでわからなかった学生が考えていることを、その作業を通じていろいろ理解できる。それに対してものすごい速度で答えてゆく。これが僕はとても好きだ。ときどきとても面白い質問がある。答えるのに窮する質問もある。
■質問のなかに、「南京事件」に触れたものがあり、主旨としては歴史認識についてだろうと思われる。すると、どうしたって、「新しい歴史教科書問題」について話さなければならないのだが、そんなとき、よりにもよって扶桑社のTさんが聴講に来ていたのだった。だが、ここはひとつ自分の立場をはっきりさせる。で、そんなことをしているうちやけに廊下の外が騒がしかった。なんだろうと思ったら、時計を見るとすでに次の授業の時間になっていた。そこで気がつかなかったら、質問に応えるだけであと30分以上は話していただろうと思われる。
■授業が終わったあと、扶桑社のTさん、それから学生の、というか、所沢に住んでいるシノハラらとファミレスで話しをする。そのころ私はなんだかひどく疲れていたのだった。授業は疲れる。しかもやけに早起きだったので、眠くなっていたのもある。Tさんには申し訳ないことをした。またこんど、ゆっくり食事でもしましょうと話してその日はわかれたのだった。

■で、きょう土曜日はまた横浜に行った。「かながわ戯曲セミナー」があるからだ。今回は県民ホールのなかにあるセミナー室だ。80人近くの人が来てくれたらしい。若い人が多いのだろうと思っていたが、そうではなく、中高年の方もかなりいる。しかし、横浜づいてるなあ。すっかり横浜の道にも慣れた。しかも、早稲田の学生で横浜に住んでいるナカガワはまた来ていたし。うれしかったけどね。とはいえ、ナカガワは僕のほとんどの授業を聴講しているばかりか、火曜日にあるワークショップにも来ているので、いままでしたことのない話をしようと考えるものの、だからといって、いきなり「戯曲セミナー」で、「秋葉原にあった美味しいラーメン屋がどうして味が落ちてしまったか」といった話をしてもしょうがないじゃないか。どうしたって演劇の話になる。しかもナカガワはこの日記も読んでいるだろう。もう話すことがないよ。八〇年代、九〇年代、そしてごく最近と、僕の作品をビデオで少し見せる。特に、八〇年代の「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」のときの映像と、『トーキョー/不在/ハムレット』の詩人が長いせりふを語り、踊る場面を比べると、同じ人間が作ったとは思えない。これはいかがなものか。
■そういえば、このあいだ青山真治さんの小説について内容がわからないように書いたが、「群像」最新号の「創作合評」をきょう読んで驚いたのは、あらすじからなにからぜんぶ紹介してあったからだ。まあ、べつにミステリーのように「謎」が小説そのものの価値ではないので、いいのだろうけど、でも、どうなんだろう、読む楽しみのひとつが失われてしまう気がするのだ。

(12:24 jul.17 2005)


Jul.18 mon.  「私いま、エスキモーに会いたいの」

■吉祥寺に新しくできた「吉祥寺シアター」でニブロールの公演『3年2組』(作・演出 矢内原美邦)を観た。このあいだ横浜であった矢内原美邦さんのダンス公演を忘れて見逃したので、久しぶりにニブロール的なものを観た気がする。作品は矢内原さんの動き、高橋君の映像、充志君の衣装など、ニブロールらしさが随所にあって、ほかではないだろうある特別な表現と、現象になっていて、とても興味深かった。ニブロールにはある時間への記憶の遡行という一環としたテーマがあるような気がする。あれがなにか奇妙な色合いをもたらすのだな。さて、『3年2組』は「教室の劇」である。僕も、『14歳の国』という「教室の劇」を書いたことがあるが、『3年2組』を観ながらひとつ考えたのは、「教室の劇」が奇妙なのは登場人物の種類とその関係がほぼ定まってしまうことだ(まあ、『14歳の国』は「教師」しか出てこないことで、「教室の劇」としてはある種の間違いを犯しているのだが)。だとしたら、むしろ「教室の劇」という構造を借りてそこに、「教室の劇にふさわしくない人」しか登場させなければ、また異なるドラマが生まれるかもしれない。
■では、なぜ人は(私も含め)、つい「教室の劇」を書いてしまうかだ。これはごく簡単な話になるが、八月にある「戯曲セミナー」で話そうと思うので書くのをやめる。
■で、むかし、別役さんにお会いしたとき、劇を直接観るといろいろなものに意識が翻弄され、劇そのもの、構造などがよくわからなくなるので、戯曲は読むが、舞台は観ないという意味の話をしていたのを思い出したのは、『3年2組』を観ていてもやはり戯曲を読みたいと思ったからだ。舞台には様々な情報がある。たとえば、『トーキョー/不在/ハムレット』にも出た渕野が舞台上に現れるだけで、なにやら変な人が出現したと思い、それが面白いとか、いろいろ気になって困ったからだ。けれど戯曲だけでは伝わらないことは確実にあり、だからこそ舞台は面白いのだろう。舞台が終わったあと、アフタートークに出た。矢内原さんや出演者の何人か、そして、演劇ライターの徳永さんの司会で話をする。「教室の劇」についてもう少し話せばよかったと思う。で、それも終わって劇場の外に出ると、青土社のMさん、Yさん、それからいま教えている早稲田の学生たちや、以前、内野儀さんに呼ばれて駒場に行ったとき会った東大の学生など、いろいろな人と話しをした。そういえば、京都の大学で教えていたときの学生のひとり、ミムロにも会ったんだった。近況を聞くと、青年団に入ったというので驚かされた。『トーキョー/不在/ハムレット』のときの俳優たちなど、久しぶりに会う人も多かった。

■とはいうものの、笠木とは、土曜日にも会ってある問題について議論していたのだった。笠木がものすごくよくしゃべる。あと珍しく眼鏡をかけていたが、そのフレームがとてもぶあつい。しばらく、そのフレームが気になって笠木が話すことが耳に入らなかった。途中で眼鏡を外してくれたからよかったものの、そのままだったら、なんのために話しをしたかわからないことになるところだった。で、ずいぶん、長く話し、時間も遅くなったので、家までクルマで送ることにした。笠木を家に送るとろくなことがないというのが、また判明した。以前は、笠木の家からの帰りに豪雨にあったが、今回は送って再び元来た道を帰ろうとして迷ったのだ。しかも、ある場所で、気がついたら反対車線を走っており、向こうからバイクが来るのが目に入ってようやく気がついた。とんでもないことになるところだった。
■ところで、「吉祥寺シアター」はいい劇場だ。舞台や客席などもいいが、劇場のある建物そのものの環境がいい(周辺は猥雑なところだが、それもまた、演劇にはいい場所ではないだろうか)。武蔵野市の施設だという。いつか舞台ができたらと思う。そうそう、『3年2組』のなかで、ひときわ印象に残ったのは、「私いま、エスキモーに会いたいの」というせりふだ。なんの脈絡もなくそれが出てくる。なにを言い出したんだと仰天した。

(13:52 jul.19 2005)


Jul.19 tue.  「横浜で友部さんに会う」

■火曜日は横浜である。ワークショップも残すところあと二回になってしまった。きょうはここまでできた短い劇を発表してもらうことから作業を開始。だいぶよくなっていた。少し手を入れることで劇の奥行きが変化する。各班、だいぶ表現に厚みが出た印象であり、その作業を通じて、こわばっていたからだが動くようになっていると感じる。その後、各班が作った戯曲の中から、場所を限定しない作品を選び、班を新たに組み直してその台本によって劇を作る課題に移る。企みをもってそれを演じる課題だ。つまり、同じ戯曲を使って各班がそれぞれの工夫をこらして演出するということになる。相談の時間をもったあと、僕と面談。僕からもアドヴァイスを出す。もっと大胆にやればと思うが、まだ小さい。もっとあるのだがなあ。
■で、そうした面談の途中、ふと気がつくと、向こうに友部正人さんと、奥さんのユミさんの姿が。以前、会ったとき、家から近いから来ると話していたがほんとうに来てくれた。ワークショップが終わってから友部さんとユミさんとお話しをさせてもらう。映画のことなどいろいろな話しができて楽しかった。で、帰り際、それを見ていた永井から、「宮沢さん、煙草、吸ってませんでしたね」と指摘され、言われてみれば、友部さんと話しをしているあいだ、煙草のことをまったく忘れていた。吸うのをがまんするとかそういうことではなく、まったく煙草のことが意識にのぼらなかったのだ。友部さんとしょっちゅう会っていたら煙草をやめられるんじゃないかとすら思う。
■友部さんとユミさんは自転車に乗って帰って行った。考えてみたら、最近、僕は自転車に乗っていない。乗ってやらないと、
TREKもかわいそうだ。それで思い出したが、ツールド・フランスでは今年も、TREKに乗るアームストロングが首位に立ったというニュースを聞いたのは数日前のことだった。自転車に関するエッセイを書いていたこともあったのだなあ。単行本に入っていない文章も、まだ、かなりあるのを思い出すが、いまとなってはなにをどこに書いたかほとんど忘れてしまった。友部さんが僕のエッセイを読んで笑ったのが「コクヨの原稿用紙の話」と言われたとき、なにを書いたかすぐに思い出せず、家に戻って確認したほどだ。ああ、あの話だったか。ものすごい数のエッセイと呼ばれる文章を書いてしまった。忘れるなというほうがむつかしい。

■それはそうと、数日、このノートはお休みです。新潮社の施設で、いわゆる、カンヅメということをするからです。メールはチェックするつもりですが、あとはひたすら小説を書きます。では、また会いましょう。

(11:48 jul.20 2005)


Jul.24 sun.  「チェルフィッチュを観る」

■はじめてチェルフィッチュを見た。『目的地』(作・演出 岡田利規)。上演されたのは、またしても、
BankArt Studio NYKである。とても刺激的な舞台だった。これはもちろんいい意味で書くのだが、岡田君の戯曲の言葉は、「超リアル」と呼ばれたりもするが僕にはむしろきわめて計算された不自然な「せりふ」だと思った。単に、町で女たちが喋っているような言葉であるのかというとそうではなく、その言葉が持つ「特別な強度」を借りつつ、うまく計算されて書かれているのを感じる。もちろん戯曲を読んでも感じていたが、「リアル」をもうひとひねりしたからだの動きも相俟って、きわめて精緻に造形された人物が出現しており、なるほどと思ったのだった。岡田君の言う「人がそもそも持っている過剰さ」を、過去の演劇の技術ではない方法でデフォルメしているのが強く印象に残る。すると、出現した俳優のからだからかもしだされるのは、現在にあって、きわめて政治的な身体性になるのではないか。
■もうひとつは、舞台の静謐な造形が、端的にかっこいいのだ。出現しているのはなんでもないもののように見える。だが、そのなんでもなさからくるクールさだ。舞台上に漂う空気の温度が低い。たとえば、なんとなく舞台上に現れる俳優がいい。ふらっとやってくる。そのかっこよさ。で、それはきわめて感覚的なものだが、青年団の舞台にあるのが図書館のような静けさだとすれば、ここにあるのは、音楽でいうところの「ラウンジ」を思わせる空間だ(上演された
BankArt Studio NYKが生み出す印象が強かったにしても)。あるいは話法の興味深さもあって、舞台上に二人の女がいたとして、一人が、もう一人を「彼女」と呼びその話をしていたかと思うと、いつのまにか三人称ではなくなる。「私」という主体に変化して同じ人物が「彼女=私」について語り出すとき、めまいのようなものを感じる。
■終演後、来ていた早稲田の学生も交え、岡田君と話す。岡田君が依拠した演劇論に、ブレヒトの『今日の世界は演劇によって再現できるか』をあげているのが興味深い。で、岡田君は僕のこのノートを読んでいる。このあいだ書いた、岡田君の戯曲とハイナー・ミュラーの結びつきについて岡田君自身はかなり否定的だが、でも、話しをしているうち、「ブレヒト→ミュラー→岡田君」という線はほのかに見えてくるのだ。それでブレヒトの語る「第四の壁」について言及していたが、チェルフィッチュに見られるのはまた異なる「第四の壁」へのアプローチだろう。それが面白い。簡単にいうと、客席に語りかけることはこれまでも数多く舞台で見てきたが、それらとチェルフィッチュが異なるのは、おそらく観客がまったくいない稽古場でも、同じような発話で、同じような声で、同じような身振りで語りかけている(=語りかけていない)と想像されることだ。つまり、「第四の壁」は、常に、「仮構されている」とでもいうか、あるいは、「語りかける(=語りかけていない)主体」があきらかに過去の演劇とは異なる。語りかけているその人が、誰だか、よくわからないように巧みに仕組まれ、つまり、さっきからずっとしゃべっているおまえはいったい誰なんだよといった気分にさせられるのだ。ここでは「役」とか、「役を演じる」といったことが無化され、ブレヒトのいう「三人称で演じる」ことのまたべつの表出があると思われる。

■で、その夜、同じ場所で、グラインダーマンの公演もあり、それも観ておくべきだとあとで思ったが、一日に、二つ以上のことはできないのである。チェルフィッチュの舞台のことを考えるだけで精一杯だ。このあいだ観に来てくださいと言われていたのだが申し訳ないことをした。同じ日だとは思わなかったのだ。といったわけで、本日の、「
BankArt Studio NYK」はとてもにぎわい活気があった。近所に住んでいる友部さんにも声をかけ、もし時間があったらチェルフィッチュを一緒に観たかったな。きっと興味を持たれたのではないかと思ったのだ。失敗した。南波さん、このあいだのニブロールにも出ていた渕野、鈴木、足立、あるいは田中夢の姿もあった。それから内野儀さん、かつて転形劇場のというか、『水の駅』の冒頭に登場する安藤さんもいらしていた。安藤さんは普通の速度で歩いていた。早稲田の学生たちは熱心だった。岡田君にも熱心に質問していた。というか、こういう場所に来ると知っている顔にすごく会う。そうそう、「ユリイカ」のYさんもいた。
■その後、小説は少しずつ書いている。かなり書く気力が高まり筆も進むのである。えーと、カンヅメをしていた新潮社の施設「新潮クラブ」がすごくよかったので、それについても書きたいが、またこんど書くことにする。小説はまもなく書き上がるであろう。

(11:56 jul.25 2005)


Jul.25 mon.  「演劇において映像とはなんであるか」

■午後、少し小説を書く。少しのってきた。
■それで夕方からは、九月にある早稲田の「演劇ワークショップ」の打ち合わせがあったが、少し説明を要するのは、「演劇ワークショップ」の授業には二種類あるからだ。いつもこのノートに書いている毎週あるその授業は、一文(第一文学部)の「演劇ワークショップ」であり、九月にあるのは、二文(第二文学部)の「演劇ワークショップ」と、少し複雑な話になってしまうからだ。二文の「演劇ワークショップ」は発表公演がある。そのためにあらかじめ打ち合わせと、コンセンサスを取り合おうというのがきょうの主旨であった。集まったのは、TA(ティーティング・アシスタント)の人たちで、現役の学生もいるが大半はOBである。すでに演劇関係の仕事をしている彼らは、経験も豊富だし、話の進行もてきぱきとし、実務に長けているのを感じた。はじめ新宿の飲み屋で、打ち合わせをしたあと、僕の家に呼んでビデオを観てもらうことにした。というのも、ぼくの希望としては映像を使いたいからだが、話をするだけではイメージがもうひとつ伝わらないので、ビデオを観てもらえば一目瞭然である。
■スリット越しに演じて、客席から辛うじて見える芝居を、ビデオでスクリーンに投射するとか、東京体育館でレスリングの練習をしている選手たちの動きをビデオに記録、ビデオを流しながらレスリングの動きを俳優が正確に再現するなどいろいろ観てもらった。レスリングは好評。
■発表公演はチェーホフの『三人姉妹』をやることにした。「ユリイカ」に書いた、「戦争の劇としての三人姉妹」だ。ほかにもいくつかの事務的な問題を結論づけ、この話し合いはかなり意味があった。TAの彼らが熱心なのにも助けられるが(演劇に対する熱意か)、なによりノウハウなどかなり習熟している印象を受けそれが頼もしい。ただ、なにしろ、稽古期間は二週間である。ふつうに考えればむつかしいのだが、だからって、できないことではないだろう。で、ひとつの結論として、今回のテーマとしては、いま誰もが簡単に使ってしまう「映像」を、もっと異なる方法で演劇において活用する方法、あるいは、「演劇にとって映像とはなんであるかという問い直し」を中心テーマにするという方針がメンバーのひとりから出され、僕もそれには賛成だ。これを機会に考え直してみたいのだし、その結果として、演劇に映像は必要がないんじゃないかとなってもそれはそれで、意義があるだろう。とにかく、試してみること、失敗してもそれを考える契機として、意味のある発表になりそうだ。

(3:45 jul.26 2005)


Jul.26 tue.  「台風のためワークショップは中止」

■台風のため、毎週火曜日に開かれる、
BankArt Studio NYKで開かれているワークショップは中止になった。それでここはひとつ、このあいだ予告した、私がカンヅメになった「新潮クラブ」のことを書こうと思う。「新潮クラブ」は新宿区矢来町にあって、新潮社本社の近くにある住宅街のなかの一戸建ての建物だ。二階建てで、上と下に部屋があり、それぞれべつの作家が使えるようになっている。今回は、使うのが僕一人だったこともあり、二階を使わせてもらったが、広い和室と、写真を見てわかるとおり仕事机のある洋間がある。もちろん和室で原稿を書くこともできる。テレビはない。あたりは閑静な住宅街で落ち着いてものを考えることができた。原稿ももちろん書いていたが、つい本を読むのに熱中してしまった。でも、ここで少し書いているうちに小説世界のなかに入ってゆくことができ、のってきた。書くのが楽しい。
■しかも、いたれりつくせり。朝食を作ってくれるし、お風呂も用意してくれる。朝には必ず朝日新聞を持ってきてくれるのだ。ただ、怖かったのは新潮社のN君とM君が口にしていた、開高健の幽霊がでるという話だ。ベトナムに従軍したとき、解放軍の一斉攻撃にあって九死に一生を得た開高健が木にもたれかかり茫然としている有名な写真があるが、あの状態で、和室の壁に開高健がもたれていたらと思うと、もう気が気ではない。そんな状態で小説が書けるわけがないではないか。それでやたら本が読めたのだった。というのは半分うそですが、本を読みそれをきっかけに小説が進む。また八月にここにこもることになっている。で、なんとなくそれまでに書けてしまいそうな予感がしている。書けるときには書ける。奇妙なものである。
■ワークショップがなくなったので、昼間からやはり小説を書いていた。まあ、ワークショップは夜だが、たいてい火曜日の昼間は眠っているのである。夜の時間が空いているとなればここは書くしかない。ところが、夜になってもいっこうに台風らしい雨も降らず、これ、やってもよかったんじゃないかと思うものの、東京はそうだが、横浜はどうだったのだろう。ほんとは七月中にワークショップを終え、いよいよ八月、本格的に小説だけのために時間を使おうと思っていたが、まあ、それはしょうがない。永井からいろいろ仕事の連絡がある。あるいは、「群像」のYさんからメールをいただく。「ロックと文学」というテーマで対談の話。面白そうである。

(1:10 jul.27 2005)


Jul.27 wed.  「夏むきの話」

■小説はかなり調子があがってきたのだが、あまりそのことについて書くのをやめよう。そうやって書いているうちに飽きてしまうことはじゅうぶんにある。ただ、書くことで、さらに考えが深まったり、アイデアも浮かぶ。手を動かさなくてはなにもはじまらないのだな。
■さて、「群像」から依頼された「ロックと文学」というテーマで対談する相手に予定されている青山真治さんからメールをもらったのは、「新潮クラブ」についてだ。いきなりなことを青山さんは書いてきた。
あそこは本当に、います。出ます。
 わたしはこう見えても、意外に恐がりなのだった。しかもどうやら僕が仕事をしていた「二階」がやばいと青山さん。背筋が寒くなる。以前、ぞっとしたことがあるのは、友人の俳優のT君との話である。もうずいぶん過去だ。そのころ祐天寺付近に住んでいた僕と、T君は、ある夜、駒沢通り沿いにあるデニーズで会って、夜遅くまで話しをしていた。一階部分が駐車場になっているそのデニーズは店の玄関に向かうには、少し距離のある階段をあがらなくてはならない。つまり、帰るときはその階段をおりる。もう午前二時になったので、では帰ろうということになった。階段をおりると、まだT君は階段の上で立ち止まっている。「どうしたの?」と声をかけると、それではじめて気がついたかのように、T君は一瞬、はっとした顔をし、「いや」と小さく声を出してようやく階段をおりてきた。店の前で、「じゃあ」と声をかけあい、その日はそれで別れた。その翌日、たまたまT君と仕事が一緒になって、また会った。すると、「宮沢さん、きのう、あのあと、大丈夫でしたか?」とT君は言った。
「え、なにが?」「いや、あのあと、宮沢さんのあとをつけて、女が歩いていったんですよ」
 気が付かなかった。そんな女の姿にまったく記憶がない。それで、「どんな女?」と質問したところ、T君は少し言葉をにごし、そして、「青白くて、少し、ぼーっとした……」と言ったのだった。ぞっとした。そういえばT君は、その手のもの、霊的なものに敏感な人だということをそのときようやく思い出した。私についてきてしまったのだ。家に来たのだろうか。来たのなら来たで、歓迎のしようもあったというものだが、私にはまったく見えなかった。さらに数日後、またT君に会う機会があった。それでT君は僕をほっとさせてくれる話をしてくれたのだった。
「宮沢さん、大丈夫でしたよ。あの女、まだデニーズの前にいました」
 とはいうものの、安心していられるのだろうか。あのころ原稿といえば、そのデニーズで毎日のように書いていたのだ。一度、いつものようにデニーズに原稿を書きに行ったら店員がやってきて、「お客さん、これ、きのうのぶんです」と伝票を差し出されたことがある。つまり私は、その前日、やはりこの店に来ていたが、なにか考え事をしていたのか、なんの迷いもなく代金を払わずに店を出てしまったのである。声をかけられて払っていなかったことにはじめて気がついた。無銭飲食である。だが、毎日、顔を出していたので店の人も、「あの人は、あしたも来るだろう」と見逃してくれたにちがいない。たしかに来ました。なんの疑問もなく翌日も来てしまった。つけのきくデニーズを持っていたのは、おそらく全国でも珍しいケースだと思われる。
 だけど、最初にその話を聞いたときはやはり背筋に寒いものが走った。怖かったなあ。そして「新潮クラブ」だ。幸い、次に使うときはすでに予定が決まっていたので僕は「一階」の部屋になった。ただ、一階の部屋の横にあるちょっとしたラウンジみたいな場所で、酒を飲んでいる開高健が出現することもあるらしい。あと作家の矢作俊彦さんは、あそこに二年住んでいたという。噂によると、やはり作家の中原昌也さんは、住むところがないと、「新潮クラブ」と、文藝春秋の同じような施設で暮らしていたことがあったらしい。作家はいろいろだ。というか、僕は気をつかってそんな二年も暮らすような大胆なことはできないだろうな。

■一年でもっとも好きな七月がもうすぐ終わろうとしている。残念だ。何年か、京都の祇園祭を楽しんだ日々がなつかしい。ま、それはそれ。今年の夏は小説を書いている。

(5:05 jul.28 2005)


Jul.28 thurs.  「世界はドラマに興味をいだかない」

■久しぶりに三軒茶屋に行ったのは来年の舞台の打ち合わせだった。世田谷パブリックシアターが主催する「現代能楽集」という舞台のシリーズがあり、これまで、川村毅、鐘下達男の両氏の作品が上演された。いろいろ考えているうち、三島由紀夫が『近代能楽集』でどんな方法で、能の物語を現代的に語ったかを分析するのが面白いのではないかと思った。べつにそれは作品そのものとは、直接的に関係があるわけじゃない。分析するのが面白いと思っただけで、つまり趣味である。時計をばらしてどういう仕組みになっているか興味を持つのとあまり変わらない。まあ、基本的にそういったことが趣味なわけですね。
■パブリックシアターのMさんと打ち合わせをしたが、まだほとんど具体的なことが決まらないので(僕が、はっきり結論を出していないというか、怠けているわけです)、あまり話は進まず、それよりMさんがアビニヨンの演劇祭で観た舞台の話を聞かせてもらい、いま、世界の演劇はたいへんなことになっているのを知った。簡単にまとめると、いま世界の演劇は「ドラマ」に関心を持っていないのではないか。映画やテレビで観ればいいことになっているのかもしれない。というくらいに、アビニヨンで上演された舞台の多くがたいへんなことになっていたらしい。で、逆に「現代能楽集」では、ドラマを書こうと思う。来年の五月に予定されている「またべつの舞台」はドラマからやや離れた試みをしたいと思うものの、「現代能楽集」はドラマだ。それを書く手の動きを忘れないためにも書きたいと思った。で、まあ、それまでに、まず能の物語(謡曲)の勉強をしなくちゃいけないわけで、考えてみると、舞台は来年だが、うかうかはしていられない。けっこう忙しい。
■そのあと、一緒に来てくれた制作の永井といろいろ話す。あと、「
RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」のことで桑原茂一さんと電話で打ち合わせ。打ち合わせといっても、軽いおしゃべり。とにかく楽しい催しになりそうだ。家に戻って少し小説を書く。

(11:40 jul.29 2005)


Jul.30 sat.  「修行の夏と、ボンド系」

■小説は小刻みに進む。それにしても夏である。金曜日は気持ちがいいくらいの暑さだった。そして夏は修行の季節なので、せっせと小説を書き、本を読み、汗をかかないといけないのだが、どうもエアコンの部屋にとじこもりがちだ。まあ、炎天下で小説を書くのもなんだか奇妙な状態なわけだが。
■青土社から、『チェーホフを読む』のゲラが届いたのは数日前で、いよいよ本になるかと感慨にふけっているのは、あの死にものぐるいの日々が思い起こされるからだ。それにしても連載中は「ユリイカ」のYさんにとことん迷惑をかけた。苦しかった。しかしYさんが僕にこの連載を持ちかけてきたのはどういった理由だったかは、いまとなっては、あまりよくわからない。その直前、野田秀樹さんの特集があって、そこに寄稿した原稿を評価してくれたからだろうか。ではなぜ、それでチェーホフかというと、チェーホフ没後百年という事情があったが、なかなか原稿を書かずにいるうち、その百年も過ぎてしまったばかりか、連載も途中で中断し、よくわからないことになってしまった。申し訳ない話である。ゲラをきちんと直そう。最後までしっかり作業していい本にしよう。
■ゲラといえば、友部正人さんの詩である。思潮社の「現代詩文庫」に友部さんの詩が入るにあたり、そこに寄稿させていただくことになったことはすでに書いた。それで、やはりでゲラを送っていただいたが、もう、なんと申しましょうか、原稿を書かせていただくだけで幸福である。すべての詩はすでに読んでいるが、こうして「現代詩文庫」としてまとめられるとまた異なった趣になる。このあいだ友部さんに横浜で会ったとき、「友部さんに怒られるかもしれないなあ」と、書く内容について話すと、「プレッシャーかけないでよ」と友部さん。安心してください。もちろん尊敬しているうえでの文章です。というのも、「フーテンのノリ」のなかで、「ノリ」と友部さんとおぼしき「僕」がボンドを吸っているという詩の内容に思い至り、友部さんの詩の中には、きわめてシュールな言葉が並んでいることが多いので、そうした一連の詩を「ボンド系」としてまとめようと考えたのだった。ま、この「ボンド系」という言葉が気に入ったのですね。だけど、それ、あきらかに友部さんの本質ではないし、10数枚の原稿にまとめるのがむつかしい。やっぱり、「詩」についてしっかり考えようと思うのです。それを書くために、「詩」についてあらためて自覚的になろう、勉強しようと。以前、テレビ制作会社に勤めているKが出すばかりで入れることができないとメールに書いて送ってくれたが、こういうときこそ、「入れる」のだ。「出す」ことを通じて入れる。それはいま、なにかの即戦力になるわけではないが、いつか、どこかで力になると思われる。

■青山真治さんから、またべつの怖い話をメールで聞いたのは、目黒の、ある喫茶店の話だ。その店に行くと、敏感な人ならからだの調子が悪くなるという事例がいくつも報告されているといった話。じつは、僕も何年か前、その喫茶店に入り、からだが不意に調子が悪くなったことがある。一緒に入った人も同じように具合が悪くなった。これはなにかある。その日、なにか奇妙な気分になって店を出てしまった。まったく油断もすきもあったものではない。おそろしいことがこの東京にも様々にあるのだ。
■で、この数日は、学生からの課題のレポートがメールで次々と届いている。便利な世の中になったものである。それを丹念に読む日々。内容もそれぞれ面白いが、いきなり、「このレポートを送ったら、しばらく入院します」とあったのは申し訳ないがちょっと笑ってしまった。あと、メールのタイトルがいきなり「単位ください」というのも笑ったなあ。「単位ください」の学生はT君というが、名前を覚えてしまうくらい印象に残り、その風貌がなんとも味がある。
■それはそうと、いよいよ、七月も終わる。八月はいやだな。なんだか夏が終わるという感傷がただよっているのがいやだよ。

(1:52 jul.31 2005)


Jul.31 sun.  「七月、最後の夜」

■毎晩、夜通し起きていて、少しずつ小説を書いている。つい眠るのが朝の七時過ぎになるのがしばしばで、きょうもやはりそうだった。午前中、一度眼が覚め、それからあらためて眠った。気がついたらもう午後四時少し前だ。桜井圭介君と、ダンサーの砂連尾さんたちのコラボレーション(なのだろうか)によるダンス公演があったのだが、それが五時から、場所はよりにもよって浅草である。もう間に合わない。桜井君に電話した。行くと連絡しチケットも取ってもらっていたのに申し訳ないことをしてしまった。その失敗にひどく落ち込み、眼が覚めてからも、なにか鬱な状態のままだった。これまでにも、砂連尾さんのダンスを見る機会を何度か逸しているので、余計に落ち込む。だが、鬱な状態になるにしては、理由が単純すぎ、もっとなにかあるような気がしてならない。なにかわからない。
■それで夜、なにをしていたかと言えば小説を書くことぐらいしかないのだ。それと、本を読むことしか思いつかない。あるいは学生から次々届くレポートを読む。文章がまだ拙いところもあるが、なにを考えているかわかって、いろいろ興味深い。なかにはすごくうまい文章もある。文芸専修の学生に向けた授業のレポートは「私のからだ」というテーマで、これは、べつに「課題」というわけではなく、いまのからだについて単純に僕が知りたくて設定したテーマだ。で、これで成績をつけるのはほとんど不可能に近い行為だが、採点するのが教員の仕事だからいやになる。
■それにしても、すごい湿度だ。夜、少し外に出たら、湿度がいかにもこの国らしくて気持ちがいいくらいだ。そんな七月の最後の夜だった。

(8:17 aug.1 2005)


「富士日記2」二〇〇五年七月前半はこちら →