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*『be found dead』DVD発売記念オールナイトイベント(二〇〇五年二月十一日)のお知らせはこちら。 → CLICK
おかげさまで『トーキョー/不在/ハムレット』は全日程を無事に終えることができました。大きな支援や励まし、あるいは、たくさんのメールによる感想をありがとうございました。一年間の稽古と公演を終えて、ほんとうに終わったのか信じられないような日々がやってきて、いまはただ、ぼんやりしていますが、次の公演に向けて少しずつ準備しようと思います。これからの私の活動は「富士日記2」に記録してゆくことにしました。なにかほかに新しいタイトルをと考えたのですが、結局、「2」がいいと思ったのです。なんか、「2」がね、いいんじゃないかという、そういうあれです。それではまたそちらのほうで。 |
■2月11日に、新宿にある「テアトル新宿」で、映画『be found dead』DVD発売記念オールナイトイベントがあるのだった。詳しくはこちらの告知ページへ。当日は各監督や、『トーキョー/不在/ハムレット』で映像を担当してくれたニブロールの高橋君とのトークがあるが、俳優たちにも舞台に上がってもらおうかと思った。でも、連中はふだんが舞台に上がっているものどもなので、上がってもらうことに新鮮さがないのが残念だ。
■で、京都の公演を終えて東京に戻ってきた。この数日のことを記録しておこう。
29日 京都公演最終日。一階席ほぼいっぱいの観客。感謝。
30日 Y君という学生の卒業公演を観る。その舞台のアフタートークに参加。京都をあとにし静岡へ。
そして31日は、車椅子生活をしている父親に静岡で会い、行きたいと言っていた寺へお詣りにゆく。おみくじを引いたところ、これといってたいした結果ではなかった。しかし、今年は初詣に行く時間もなかったのでこれがそうしたものになると考えれば、京都の公演が終わってはじめて、新年を迎えたような気分だ。それにしても病気をしていても父親のでたらめぶりは健在だった。倒れた当初、寝たきりになってしまった父親は、母に向かって言ったという。「おかあさんはいいねえ、寝たきりの人の面倒なんか、なかなか、みられないよ。俺と一緒にいて波瀾万丈の人生だね。いろいろなことがあって、うらやましいよ」。なにを言い出したんだこの人は。笑ったなあ。京都の二日目はおどろくほど暖かかったが、突然の寒波がやってきて、いくら温暖な静岡といっても寒かった。気がついたら一月も終わりだ。これからさらに寒い二月になるのだな。
■で、京都公演にも様々な人が足を運んでくれたが、丹生谷貴志さんもいらしてくれ、公演後のアフタートークも聞いてもらった。終わったあと、「宮沢さん、声が聞こえない」とだめ出し。申し訳ない。手振りをつけないとうまく話ができなくてですね、つい、マイクを持った手が口から遠ざかってしまうのだった。それから、東京から白水社のW君も来てくれたし、テレビドラマ版『14歳の国』を作ってくれたO君は、たまたま京都にいたからと劇場にも来てくれた。ヨーロッパ企画の本多君や、寝屋川のYさん、神戸のMさんもいらした。ありがたい。本多君の服の配色は相変わらずでたらめだったが「京都ではこれがふつうです」と言う。京都公演を観た方たちからも何通かメールをもらったが、大阪を中心に舞台をやっているというT君は、僕がこのノートに以前、これは「演劇関係者」に評判が悪いだろうと書いたことを踏まえてこう書いてくれた。
「トーキョー/不在/ハムレット」を「演劇」として理解できない人こそが、「演劇」をますます瀕死に追いやっている張本人なのです。
とてもうれしい言葉だった。勇気づけられた。ありがとう。
その後、俳優たちやW君も交えて河原町で夜遅くまで食事をした。その翌日、昼間も俳優らと会って昼食。ほぼ一年をずっと一緒に作業してきただけに、なんだかわかれがたいのだった。人間、早起きをすると一日が長く感じるもので、その日はそうしてみんなと新風館のなかにある中華料理の店で昼食をし、そして烏丸御池で別れた。その後、京都造形芸術大学にまた戻って、Y君の卒業制作の舞台、『瀕死の王様』を観た。興味深い演出だった。そのことはまた追って書こう。
■こうして、『トーキョー/不在/ハムレット』のプロジェクトはようやく終わったが、まだ、その実感がわいてこないのだ。来週あたりから再び稽古がはじまるような気がしてならない。制作の永井はいま、お金のことやらなにやら、後始末でたいへんな思いをしているのだろうな。僕は原稿を書かねばならない。楽しかったあれやこれやを思い出しているうちに、こうしてまた、日常は続くのだな。「不在日記」はきょうで終わりです。また新しい名前のノートをはじめようと思いますので、よろしくお願いします。さて、次の遊園地再生事業団の公演はいつのことになるだろう。
(16:39 feb.1 2005)
■二日間、二回の公演なので初日といってもあしたはもう楽日なわけだが、そうだとはいえ、緊張感を保ちつつ、無事に舞台の開演を迎えることができた。春秋座の舞台は大きいし、もちろんそれに準じて客席も広いので、声の通りが不安だったが、聞こえないということより、妙に反響することでなにを発しているのかよくわからないせりふもいくつかある。映画を上映したとき、上映する環境によって見え方が変わることを知ったが、舞台はさらにデリケートだ。ただ、はじめて見る観客にそんなことは関係がない。いま上演されているこの舞台だけが、目の前に存在する当のものだ。こうして、2時間50分休憩なしの舞台はつつがなく上演された。いろいろな人が観に来てくれた。ありがとう。元OMSにいた吉田さんは、いまは東京で仕事をしているとのことだが、わざわざ京都で観ようとこちらに来てくれたという。それから、映画『be found dead』の上映に奔走してくれた、大阪のM君、神戸のKさんも来てくれた。かつて僕の舞台の演出助手をしいまは大阪にいる宮森の顔もある。そして、夏まで教えていた学生たち。京都造形芸術大学の教員の方たち。もちろん、私の師匠とも言うべき太田省吾さんもいらしていて、緊張したぞ、俺としてはかなり。終わってから、舞台奥、搬入口から入った広い空間で軽い初日打ち上げの乾杯をした。緊張で僕はひどく疲れた。終わってからすぐにホテルに戻った。いろいろ舞台のことを考える。京都で芝居のことばかり考えている。
(11:38 jan.29 2005)
Jan.27 thurs. 「俳優たち、京都に到着」 |
■きのうのこのノートで、「テアトル新宿」のオールナイト上映のスケジュールをまちがって書いてしまった。2月11日の夜である(きのうのノートのまちがいもすでに訂正してある)。指摘してくれたのは白水社のW君だが、それというのも、W君が当日のトークの進行をしてくれることになったからだ。そのW君は深夜バスで京都公演を観に来てくれるという。ありがたい。しかもW君が編集してくれた『トーキョー/不在/ハムレット』のパンフレットは東京公演で完売。京都で売ることができなくなってしまった。関西の方には申し訳ない。こんなに売れるとは思ってもみなかったのだ。だけど残念だなあ。あのパンフレットを読むとより舞台への理解が深まることになっていたのだし、青山真治さんとの対談、河合祥一郎さんとの往復書簡、映画日誌など、もりだくさんで、自分で書くのもなんだが読み応えがあったのだ。ただ、あと五冊ほど残っているとの噂があり、だったらプレミアをつけて一万円ぐらいで売るのはどうかと制作の永井に提案したが、そんな商売をしてどうしようっていうんだ。いつか増刷して通信販売も検討したいと考えてはいる。
■午前中、俳優たちが東京から全員揃ってやってきた。もうすでに心は観光である。12時過ぎには劇場入りし、各自でアップをする。ここらあたりから少しずつ舞台のモードに入る。しかし寒い。楽屋が寒い。喫煙者はタバコを吸いに外に出るがそれがさらに寒い。京都造形芸術大学には、春秋座のほかに、Studio21という小劇場があってそちらでは29日からはじまる舞台コースのY君の卒業制作の準備をしており、少しのぞくと、Y君の卒業制作の手伝いをしている学生たち何人かに会ったが、みんな顔見知りだ。というのも当然、かつて教えていた学生たちだからだ。卒業制作の準備で僕の舞台が観られるかはわからないという。見てほしかった。「ちょこっとのぞきに来なよ、あいまをみて、ちょこっと、2時間40分あるけど、しかも休憩はない」と言うと、「長えー」と皆、口々に。
■春秋座という劇場は大きい。まだ照明のシューティングに時間がかかっていたが、予定通り午後4時から「場あたり」というものをやる。ほとんどシアタートラムでやったのと同じ装置だが、若干、演技スペースを広くしたのでその動きの確認や、照明の変更などを頼む。場あたり中、そでで、大きな音がした。なにかを倒したなと思って、気をつけろと注意しようとしたら、俳優の一人が文字通りまさに倒れたという。顔からばたんと床に倒れたとのこと。救急車で運ばれた。ひどく心配になるが、舞台ができないほどの重傷でなかったのは救い。代役をたてつつ場あたりは夜九時過ぎまで続いた。ほぼトラムと同じ要領だったので進行はうまくいった。東京から、ニブロールの矢内原美邦、映像の高橋君が来てくれた。詩人の朗読の場面など少し、春秋座用に直してもらう。
■ところで私はいま、「眠ってもすぐに眼が覚めてしまう病」に苦しんでいる。二度寝しようと思うがそれがうまくできず困っているのだ。それでこんな時間にこのノートを書いている。以前、「文藝」の「阿部和重特集」で対談した、佐々木さんからメール。舞台を観に来てくれたという。挨拶できなかったのは申し訳ない。面白く見てくれたようでうれしかった。あるいは、やはり舞台を観に来てくれたもう10数年会っていなかった知人のT君からも感想のメールなどもらい、いつまでも舞台をやっていれば、こうして、遠くにいる誰かに会えるのだなと思った。ところで、映画館で見たお知らせ(予告編のときにやっているもの)で、夫婦のどちらかが五十歳以上だったら、一人千円、つまりふたりで二千円で見られるということを知り、あ、俺、二年後にもうその年齢に達するよと思って驚いた。千円で見られるかもしれない。もしあなたの周りに五十歳以上の人がいたら、うそでもいいから夫婦を装って映画を見に行ったらどうか。千円で見られる。青山さんの『レイクサイドマーダーケース』のように大人こそがもっと見るべき映画があるはずだ。
■あしたはいよいよ京都初日。昼間はゲネプロをする。俳優たちに舞台に慣れてもらう。最後まで緊張感を保ちいい舞台にしたい。そしてはじめて遊園地再生事業団として上演する関西での舞台。どんな反応が返ってくるか楽しみだ。いまからわくわくしている。こんな時間に。
(05:42 jan.28 2005)
■ところで、『トーキョー/不在/ハムレット』のプロジェクトは、28日(金)、29日(土)の京都公演でいよいよ終わりだと思っていたが、2月11日(夜11時30分より)、「テアトル新宿」で、映画『be found dead』をはじめとするいくつかの作品によるオールナイト上映があってまだまだ続くのだった。当日は、僕や『be found dead』の各監督、さらに『トーキョー/不在/ハムレット』の劇中でいくつか使われた映像を作ってくれたニブロールの高橋君の映像作品の上映、そしてトークがある。こちらにもぜひ足を運んでいただきたい。詳しくはまた追ってここで報告します。
■両親の住む静岡で一泊し、病気中の父親を見舞ったあと京都に向かう。東名高速と名神高速を乗り継いで京都に到着したのは夕方の六時過ぎだった。市内に入ってから道が少し渋滞。京都造形芸術大学内にある春秋座に着いたのはようやく七時少し前だ。仕込みはほぼ完了しており、まだ照明のシューティングに手間取っているようだった。僕はいくつかの配置を確認する仕事だが、それほどする仕事はなかった。大学に教えに来るのとはまた異なる感触で、ここにやってきた。仕込みのアルバイトに来ている顔見知りの学生たち何人かと会う。少し話をした。松倉もアルバイトに応募していたが遅刻してバイト代がもらえなかったとのこと。しょうがねえなあ。
■世田谷のトラムとは空間がかなり異なるので心配していたが、これはこれで成立しているのを見てほっとした。ここでいきなりどうもちがうと気むずかしいことを言い出すのは、ここまで仕込みが進んでいると口に出すのはいやだたと思っていたが、完璧ではないにしても、納得のゆくものだった。ただ当然ながら、トラムを意識した装置だったので多少の違和はあるし、春秋座の大きな空間にこの装置を置こうというのがそもそも無理があるのは仕方がない。だめだ、ぜったいにダメだというほど、私も子どもではないのだ。京都の天気があまりよくない。寒い。建物のなかは全面禁煙なので外でタバコを吸わなくちゃならないのだけが難点だが、ここで舞台をやる新鮮さに気持ちが高ぶる。
■舞台監督、衣装、音響などスタッフは前乗り、映像班もほとんど来ていた。俳優は翌日入り。あしたは「場あたり」だ。多少、道具の位置を春秋座用にしたのでその確認が必要になる。みんなが来たらそれはそれで楽しいだろう。ただ楽しさだけではなく、やはり、初日(リーディング公演のときの初日)のような緊張感を持って舞台をやってほしいと願う。ここでもまた、いい舞台にしたい。関西の観客にこの難解というか、抽象的な作品がどう受け止められるかは興味深い。ぜんぜん受け付けられない人もいるだろうし、きっと様々にちがいなく、まあ、それは関西に限らず、東京でも同じことだ。
■きのう書いた、『レイクサイドマーダーケース』についてさらに考えていたが、たとえば、この脚本を「舞台作品」にしたとして、たとえば岩松了さんが書いたらどうなるか考えていた。すると「愛憎劇」が前面に出て作品の傾向が一方に偏るだろうし、では別役さんだったらと考えると、きわめて抽象的になるだろうと考えれば、あと書けるのは、俺だな。と不遜なことを考えていたのだった。青山真治さんから早速のメール。「不条理劇」ととらえたことを評価してもらった。で、きのうのノートは繰り返し「不条理劇」とか「不条理」という言葉をやけに書いたことを反省。もっと書き方があったはずだ。たとえば、「ある行為」をするにあたってそれを丹念に描写することは、表現がそうではなかったので、そのように見えなかったがことによるとこれは喜劇の側面もあるのではないかとも思うのだ(まあ、繰り返すようだが、それこそが不条理劇的ではある)。あの丹念で丁寧な描写の、丁寧さ、細密さがひどく怖いが、同時に喜劇的でもある。あとで考えてみると、あのカット(詳しく書けない)にはこういう意味があったのだなと思い返す。するとそれがひどく不気味だ。そして基本的には「大人の映画」だと思え、もっと大人が見るべきだ。
■最近は映画を観ても丹念になにかを書く時間もなかったが、東京公演が終わったのでそこから受ける刺激を言葉にできたのは自分にとっては意味のあることだ。演劇は私の専門職なので書いてあたりまえだが、映画についてはあまり書くまいとしていたものの、いや、刺激されたことはしっかりノートしておくべきだ。「表現する者」としてジャンルを超え、表現へのアプローチとして書いておかなければと思う。
■昨夜はある大学に、って、いまさら「ある大学」と書いても意味がないのではっきり書くと四月から客員教授に迎えられている早稲田大学に提出する「講義要項」を書いていた。もう締め切りがぎりぎりだった。ほんとは一月七日が締め切りでほんとうに申し訳ない次第になっているのだ。私がこういった書類類を書くのがいかに苦手かを思い知らされ深夜になってあまり眠らず書き続けていたのだ。だが、書いているうち、こんな授業をやってみたいとだんだん面白くなってするするとペンが進む。朝、書き上げ、それからあらためて睡眠。それから京都に向かった次第。途中、横風が強い土地がありハンドルが取られて怖い思いをした。京都公演ともう一つの用事のためにこちらに四泊。観光はできないだろうな。ただ、舞台がはねたあと、いくつか京都らしい場所、このノートでよく書いていたカフェに俳優たちを連れて行きたいと思った。だけど寒い。その寒い中、劇場にぜひとも足を運んでいただきたい。28日の夜の公演はかなり席に余裕があるらしい。どうかこれから来ようと思う人は28日に来て欲しい。というか、二回は観たほうがいい。すると、見えなかったことがさらにわかるようになる。見るべきである。二回は観た方が確実にいい。
■そういえば、書くのを忘れていたが、ムーンライダーズの鈴木慶一さんから舞台の感想をメールで送ってもらったが、これ以上ないほど嬉しいメールで、「私は8年前に宮沢さんと知り合って、ホントによかったと思ってます。このお芝居を見逃さずにすんだという事で」とまで書いてくれたのだ。あと、東京の公演中、岩松了さんが来てくれたことも書くのを忘れていたが、なぜかその日、岩松さんはごきげんだった。終演後、岩松さんに会って最初に言われたのが、「これ、かなり稽古したでしょう」だった。「二ヶ月ぐらい?」と岩松さん。「いや、一年です」と私は答える。驚かれた。一年の集大成。いよいよ、春秋座での公演がまもなくはじまる。
(06:08 jan.27 2005)
■京都公演が終わるまではこのノートはさらに続く。
■舞台について考えたことなど、長く書きたいし、それは観に来てくれた方のためにも「あとがき」のようにあるべきだと思っている。それは京都が終わってからだな。京都が終わってようやくすべてが終了。この一年のプロジェクトが完結する。出演者から早速、何通かメール。一年、ずっと一緒だったといってもそれぞれがどんな考えでこの舞台と関わっているかほとんど話していなかったし、照れもあって、話ができなかった。それを書いてくれたメールもあり、あ、そうなのかと、軽い驚きがあったり、逆にこちらから教えられることもある。打ち上げは午前4時頃に終わり、僕はクルマで帰ってきてしまったが、電車のない者らはデニーズかどこかで時間を潰しやはり芝居の話をしていたらしい。まったく、みんな芝居のことばかり考えてる。たまには、ツールドフランスの話でもしてみたらどうなんだ。知らなくて困るだろうけど。
■家に戻ってから、僕も芝居のことを考えて眠れなかった。ようやく眠ったのは朝八時ぐらい。眼が覚めたら午後二時だった。夕方、日比谷へ。『レイクサイド・マーダーケース』を観る。あ、そうか、この手があったかと、「ドラマツルギー」のことを考えていた。ねたばれになるから、多くのことは書けないが、見ている途中で、これは不条理劇ではないかと思いはじめたら、柄本明さんのせりふがどれも、別役実さんのせりふに聞こえて困った。で、「この手」というのは導入はミステリー風でありながら、出現する事態が「不条理劇」として展開してゆくのがきわめて面白く、そうした状況に陥った俳優、女優たちの緊張感のある演技が魅力的だった(薬師丸ひろ子さんがよかった)。だいたい不条理劇ってのは、誰を信じていいのかよくわからない、足下がおぼつかない不安感がじわじわ漂うが、そこに巻き込まれる「めまい」が一瞬でも出現したことで、映像の緊張感は一気に高まる。そして、そこに至るまでの手つきが見事で、うまいと思いながらするすると、この不条理の渦中に巻き込まれる主人公が感じるめまいのような感覚にこちらも共振し、からだもぷるぷると震える。しかしながら、劇映画としての結構はきちっと整っており、しばしば劇の方法(=ドラマツルギー)のことを考えがちな私としては珍しく、むしろそこに語られているものから暴き出される市民社会の背後に潜む真実の姿に、ぐっとくるものがあった。だが、それもまた、不条理劇的ではあった。「出来事」のもっとも重要な部分を省略することで、それを取り巻く者らのうちに隠された意識が暴かれてゆく劇作法は、柄本明さんの淡々とした演技によってより強められ、それもまた、「いつのまにかそうなっている」という不条理劇のドラマツルギーを感じさせるものだ。それがきわめて有効に作動している。それも含め、うまい。あとになって考えれば、あれはなんだったのかといった部分もあったが、謎をまき散らしつつもそれがすべてなにかに結びついているのも興味深く、むしろ、そうした謎を想像し、考えることもまたこの映画の興味になるのではないか。
■それにしても、柄本明さんが着ているローリングストーンズのTシャツ。鶴見辰吾と杉田かおるによる夫婦など、それはことによると冗談なのかという演出が面白いし、やっぱり、不条理劇的な状況のなかにおける柄本さんのせりふのいくつかで笑い出しそうになった。森の中に立つ登場人物らの配置がきれいだ。ほんの短いカットの、静謐でありながらしかし不気味さを感じさせる緊張感。最後の「くるくる回る」を疑問に抱えつつ劇場をあとにしたが、面白かった。これもまたぜひ観よう。
■あした、私は東京を出発。途次、静岡の両親の住む家に寄って、それからいよいよ京都入りだ。京都では太田省吾さんが待っているのだな。それはそれで、緊張しているのだ。だが私は自信を持って、『トーキョー/不在/ハムレット』の舞台を京都の観客の前に披露したいと思う。ご期待いただきたい。
(02:02 jan.25 2005)
Jan.23 sun. 「東京公演終了の短い報告」 |
■まだ京都公演があるとはいえ、ひとまず一段落ついた。楽日は、楽日にしばしばあらわれる、やけに張り切って力が入り過ぎるという傾向もあったが、それとはべつに、いい意味でのこれまでとは異なる熱気があったように思う。またしっかりこの公演については考えをまとめようと思うが、公演中、たくさんのメールをもらってその感想の言葉にずいぶん励まされたお礼をひとまずここで述べておきたいと思います。ありがとうございました。そして、劇場に足を運んでいただいたたくさんの方にもお礼します。
■さて、公演は、日曜日の昼の回で終わりだったのだが、懸念したのは、こういう公演スケジュールの場合、必ず一人はいるであろうと、夜の回もあると思ってしまう人のことだ。いました。たしかにいました。青山真治さんである。見て欲しかったなあ。そして、また会って話しをしたかった。そういうわけで私はこれから、『レイクサイドマーダーケース』を見に行こうと思ったのだった。
■終演後の夜は打ち上げ。芝居の話をしていたが、もう一年、この舞台をやっていてもうそろそろ芝居の話はいいだろうと、「いかにして知らない話をするか」ということをした。まずむつかしいのは、なかなか「知らない話」を思いつかないことで、なにしろ、「知らない」からだ。そこで思い切って、「ツールドフランスのことだが」と切り出してみる。これはおそらくみんな知らないだろう。私もよく知らない。「フランスですよね」と、知らない人にふさわしいことを誰かが言う。なにしろ、「ツールドフランス」のことを知らず、とりあえずの情報としてその言葉に「フランス」という手がかりがあるだけで、「フランスですよね」と口にしてしまうからだ。ところがそこで、「自転車でしょ」と誰かが口にしたらもうだめだ。「詳しいなあ」とまたべつの誰かが言う。そんなに「知っている話」はしたくないのだ。「知らない話」がしたかった。あと、政治のことでどうしてもいま気になっていることがありそれを書きたいが、ひとまず、きょうのところは、公演に関して、様々な方へのお礼と東京公演終了の報告をしたかった。ありがとうございました。またいつか劇場でお会いしましょう。そして関西の人で誰かこれを読んでいる方がいたら、ぜひとも、春秋座にお越しください。それではまた。
(17:06 jan.24 2005)
Jan.21 fri. 「公演は日々、終わりへと向かっている」 |
■午後四時まで眠ってしまった。残り二日の入り時間は早い。早く眠らなくてはいけないと思いつつ、こんな時間のこのノートを書いている。客席にいると、当然ながら周囲の観客のことが気になり、きょうは、通路脇に腰を下ろして観ていたが、通路を隔ててムーンライダースの鈴木さんがいるのはいいとして、その鈴木さんの前にいた客が開演直後からというか、開演前から落ち着きがなく、ときおり携帯を出すので、その光が暗い客席の中では迷惑だった。気になっていたところ、通路を挟んだ観客が携帯電話を出している男に「迷惑だよ」と注意しているのを目撃。携帯電話の男はそれっきちしゅんとしてしまった。注意してくれた観客に感謝した、というか、とてもいい観客だと思い、終演後、ありがとうと言いたかった。客席で見ると様々なことが気になって、舞台を客観的に観られない一因にもなっているのだった。
■そして、批評家の内野さんがまた観に来てくれたし、先日駒場で話をしたとき会った、学生が足を運んでくれてうれしかった。そのあと、内野さんからある相談を受ける。え、と驚くような相談だった。鈴木慶一さんが来ていたので内野さんとの話は中座しなくてはなからなかったが、そのことのものすごさを、徐々に実感してきて、いいのか俺でという気持ちがいよいよ高まっていたのだった。詳しいことはまだ書けない。それから、テレビドラマ版『14歳の国』(「演技者。」)に出演してくれたV6の三宅君が来てくれてしばらく話をしたのだった。熱心さに頭が下がる。そして、『14歳の国』のある部分についてかなり的確な解釈をしていることにも驚いた。
■そして、またべつの場所で飲んでいる鈴木慶一さんのところにゆき、ひさしぶりに話をした。行ったり来たりで大忙しだ。
■きょうの舞台もよかった。安定と同時に、しかし緊張感と集中力を切らさず2時間40分の劇はよどみなく流れていると感じた。もう僕の仕事はほんとうになにもない。俳優たち、そしてスタッフに助けられる。そういえば、きのう、「男子は黙ってなさいよ」などの演出をしている細川が来て、映像の出し方について質問されたが、そのときなにを質問しているのかよく理解できなかったものの、家に戻ってようやく、訊こうとしていることが理解できた。つまり、舞台全面を覆うように投射される映像があるが、しかし、その映像が、舞台中央にある、小さなスクリーンに写り込まず、そのスクリーンの映像に影響しないのはなぜかという意味だったのだ。それは秘密だ。どーんと舞台前面、スリットに投射される映像は、なぜ、その手前に吊されているスクリーンには干渉しないか。そこにはニブロールの高橋くんの絶妙なテクニックがあるのだった。
■きょう、熊谷の芝居がよかったと思い、その原因を探ったところ、伝聞によれば、熊谷はきょうの本番中、「京都公演のこと」で頭がいっぱいだったという。そんな先のことを考えてもしょうがないだろう。いま、ここを大事にしろと思ったが、「京都のこと」というのが、舞台のことだったらまだいいが、京都公演があったあと、「どうやって東京に戻るか」について頭がいっぱいだったそうだ。先のことを考えるにもほどがある。でも、そのほうが、熊谷はもしかしたらいいのかもしれず、毎日、なにか考えることに集中していてくれればいいのかもしれなかったものの、まだ東京の本番があるというのに、もう京都から帰ることで頭がいっぱいになっている熊谷に、笑った笑った。本番直前、みんながきょうの舞台のことで集中しているときに、迷惑になるかもしれないなどと一切考えず、次に熊谷が出る舞台のチラシを配って宣伝しているという、常識的な人間の枠を越えた無神経な熊谷から、わたしはもう目が離せない。こいつはいったい、なにものだ。だから芝居がいいんだろうな。熊谷には助けられている。少し前、「岸健太郎伝説」を書いたが、「熊谷知彦伝説」も書かなくてはいけないのではないかと私は思ったのだった。
■で、私が劇を続けているのは、こうした俳優という人たちと仕事をすることの楽しみだ。ほんとうに面白い。それぞれがそれぞれの魅力を持っている。しかも長い時間をいやでも共有せざるをえない演劇という仕組みがほんとうに好きなのだと思う。その彼らと時間を共有するのもあと少しになった。長かった楽しい時間が終わってしまう。
(5:13 jan.22 2005)
Jan.20 thurs. 「世田谷線はことこと走る」 |
■劇場でDVDを買ってくれたという方から、多少の映像の乱れをかなり「専門的」な説明で解説しもらった。まず、「2話」のなかに一部画像の乱れがある。これは僕も確かめたが、たしかに一カ所、ほんの少しだが確認できた。失敗。映画館で上映したときはまったく気がつかなかったので、DVDにする段階のどこかで乱れが生じたと思われる。残念。それから、映画そのもののタイトルのアニメーションが少しかくかくしている件に関しては、これは元の素材がそうであった気がする。すごく気になるというわけではないが、正確さを期するためには正さなければならなかった部分だ。さらに第5話「川」について、詩人のナレーションの実景でやはり、かくかくなる部分があると指摘されたのだが、やはり確かめたが僕にはあまり気にならず、むしろ、撮影時の手ぶれがそう感じさせているのではないかと思ったものの、国道125号線からココスに至る映像でそれがわかりやすいと指摘され、繰り返してみたが、こんなもんではないかとしか僕にはわからず、しかし、撮影時のカメラのモードから推測し専門的な解説とアドヴァイスを受けた。やはり専門的すぎてわからなかった。「2話」の乱れはあきらかだ。横に線が入ったように一瞬、画像が乱れる。何度も確認したし、映画館で上映したときにはなかったので、DVD化するどこかの過程でそうなってしまったと思われる。いまさら変更することもできず、悩む。どうやら、「24Pアドヴァンスモード」がなにかいけなかったらしい。これもひとつの教訓として受け止めよう。次からあらためます。指摘してくださったNさんにはたいへん感謝した。
■そして舞台はきのうに引き続きよかった。きょうなにより、劇場に足を運んでくれた方で驚いたのは、いつも髪を切りにいっている青山のお店の方が来てくれたことだった。はじめて舞台を観たという。よかったとの言葉。来てくれただけでもとても感謝した。と、ここで、きょう観に来てくれて深夜にメールをくれたある者に対してかなりな罵倒の言葉を長々と連ねたが、書いてから、書くのもばかばかしくなったので割愛。
■そこへゆくと、このあいだ観に来てくれたポストペットの八谷さんや、文學界のOさんの感想は丁寧な批評だ。やはり否定的ではあったが、考える余地のある言葉で、たとえばOさんのそれは「準備公演」と比較しての感想だったとはいえ、それで思ったのは、「準備公演」のほうが、「本公演」よりよかったと単純にまとめるとそうなるが、これは考えるに値する。いくつかそうした意見をもらって考えたのは、つまり、ファーストアルバムの衝撃を、セカンドアルバムになって、音楽的に洗練されたことでしばしば失ってしまうミュージシャンと同じ構造ではないかと思ったのだった。しかしながら、ミュージシャンはより先に行かなくてはいけないからこそそうするのだと想像する。あとニブロールのパンキッシュな振り付けがOさんの好みではなかったようだ。新潮社のN君からは「すごくよかった」との言葉。いろいろな業種の方が観に来てくれ、感想もいろいろだが、それで、あ、そうか、そこを見ているのかとそれが興味深い。それでその人のことがよくわかる。あ、そうだ、いまではすっっかりテルミン奏者になってしまったかつて僕の舞台に出たこともある佐藤が来ていた。下北沢の幅の狭い道にトラックを止め私が迷惑だなあと思ったら、ビールケースを運んでそのトラックを運転していた太野垣も来てくれた。
■それはそうと、きのうクルマを駐車場から出せなかった私は、久しぶりに電車に乗って三軒茶屋まで来たのだった。京王線で下高井戸まで出、それから世田谷線に乗り換える。はやはりよかった。世田谷線から見えるのはかつて豪徳寺に住んでいたころからなじみのある風景で、あまり変わってはいなかったが、小田急線と交差する豪徳寺周辺は、豪徳寺駅がすっかり変わったので見慣れないものだった。ひとつひとつの駅に記憶がある。松陰神社駅の近くには、「一二三(ひふみ)」といううなぎ屋があって、すこぶるうまい。豪徳寺に住んでいたころ、パブリックシアターで稽古や公演があるたび、自転車で通っていたが、その道もほとんど以前のままだ。世田谷線はことこと走る。下高井戸から三軒茶屋まで十五分。
(6:11 jan.21 2005)
Jan.19 wed. 「すべての観客に感謝する夜だった」 |
■世田谷パブリックシアタートラムに私はクルマで行っているわけだが、トラムのあるビルの地下駐車場は夜11時になると閉まってしまうのだった。終演後、みんなで飲み屋に行った。たいていこういうときはいったんクルマを出して近くのコインパークに入れることにしているがすっかり忘れてしまったのは、きょうはやけにいろいろな人が劇場に足を運んでくれ、その応対にてんてこまいだったからだ。クルマが出せなかった。仕方がないので帰りはタクシーに乗った。あしたは電車で三軒茶屋まで行こう。
■それはともかく、いろいろな方が来てくれてありがたかった。桑原茂一さん、写真家の鈴木理策さん、俳優の戸田昌宏君、斉藤陽一郎君、ペンギンプルペイルパイルズの倉持君、朴本、白水社のW君、さらに、城田あひる君ともロビーで挨拶。ほかにもいろいろな方を紹介されたがすいません名前を覚え切れませんでした。茂一さんからは、時間をかけて作っていることを評価してもらった。それはかつて茂一さんと仕事をしていて教えられたことのひとつで、スネークマンショーにしても、その後に作ったコメディのスケッチにしても茂一さんは、何テークも繰り返し録音し、じっくり時間をかける。時間をかけていいものを作ると書いたら、それは当然といえば当然の話なのだが、そういう環境を、頑固に押し通す態度を教えられたのだといまでは思うのだ。鈴木理策さんには、以前ある雑誌の取材のとき写真を撮ってもらったことがあったが話をするのは今回がはじめてで、その後、鈴木さんの写真集を見ていたく感動したので、こうして足を運んでもらいとてもうれしかった。もちろん、知人ばかりではなく、この寒い中、劇場に足を運んでくれたすべての観客の方に感謝しているのだ。
■で、肝心の舞台だが、きょうはよかった。なにがどうちがうのか自分でもよくわからなくなっているのだが、このところかなり安定しごくふつうによかったと思うときと、「よかった」はやはりなにかちがうわけで、しかし、終演後、よかったと思ってもそれがなにからくるのかよくわからない。小さなことの積み重ねと、流れや、緊張感といったものになるだろうと分析するが、これだけ毎日見ていると、客観性がなくなってきて、ほんとわからなくなるのだ。朝日新聞の劇評に取り上げてもらった。「知的な刺激に満ちた2時間40分だった」と書いてもらったら素直にうれしいが、もう少し早く書いてほしかったと思うのは、当然、動員数に影響がかなりあるからだ。『砂に沈む月』を上演したときなど、劇評が出た途端、当日券が100枚出たんだ。おそるべし朝日の劇評だ。NHK問題に関して私は断固、朝日新聞を支持する。で、家に戻ってメールをチェックしたら、柏書房のHさんが読売新聞の「文芸季刊」という欄をスキャンして添付ファイルで送ってくれた。松浦寿輝さんが、『不在』(文藝春秋)を取り上げてくれた。丁寧に読んでもらえたことに感謝した。で、Hさんにはすっかり迷惑をかけているわけだがいつも勇気づけられる。というか、みんなに迷惑や不義理の連続で、それというのも、一本の舞台に一年もかけているんだから、まあ、なんと申しましょうか、不合理きわまりないが、しょうがないっちゃあ、しょうがない。ほんとに申し訳ないです。
■話はさかのぼるが、飲み屋ではまたも矢内原美邦が飛ばしていた。私と矢内原美邦が、いかに自分の父親がでたらめかを競うが、やっぱり矢内原家にはかなわない。悔しいなあ。父親のでたらめさでは私はけっして誰にも負けることがないと思っていたが、とんだところに強力なライバルがいたのだった。あ、そうだ、さらにさかのぼると、きょうは昼間、「プチ・クリティック」というフリーペーパーの取材を受けたのだった。取材してくれた女性がときおり沈黙するので、その奇妙な間が面白かった。で、いきなりの質問が、「今回、公演した感想は?」というもので、そのざっくりさかげんに驚かされたというか、笑い出しそうになった。ふつうインタビュアーというものは、10個くらいの質問を積み重ねてその「感想」を引き出そうとするのではなかろうか。いきなりそこから来るかと思って、答えに窮する。で、その最新号の特集、「パフォーマンスを見に行こう」は興味深い。私も見に行こうと思った。
(11:06 jan.20 2005)
Jan.18 tue. 「見ているだけなのに、へとへとに疲れる」 |
■さて、舞台の評判のほうだが、僕の耳に入るのは好評の部分ばかりで、きっと批判的に見ている方もいるにちがいなく、そもそもそうでないとおかしい。おそらく私の勘だが、「演劇関係者」の評判は芳しくないのではないか。よくわからないことになっているからだ。演劇だかなんだかわからない。ユリイカのYさんの仰った、「難解」とか、「抽象性」は、作品を解釈しようとするとなんだからわからなくなるにちがいなく、そうなるとはじめから推測していたものの、あるいは、ある新聞の演劇の記事を担当している方は、新聞に評を書こうと思うがどう書いていいかわからないと制作の永井を経由して私の耳に届いたわけだけれど、批判でもなんでも書いてもらえたらうれしい。私はきっぱり演劇をやっているつもりだし、「笑い」の要素もサービスしているつもりだが(というか僕が笑いたいからだ)、そうではないと言われたらなんとも返す言葉がない。戯曲や小説を読んでもらうと物語はわかってもらえるとは思うが、舞台上に出現しているものから、理解できるもの、感じ取れるものがきっとあるはずなものの、情報量のきわめて多い表現になってしまったので、なにをやろうと思っているかその中心がよくわからないと言われたら、もう、応答のしようもない。でもやりたかったんだからしょうがない。
■平日のスケジュールできょうも準備がはじまった。片倉君と三坂の卓球の練習があり、ストレッチがあり、そしてだめだし。簡単な話をしてだめ出しは終わり、あとはそれぞれ個々に、あそこはこうなっているから、直した方がいいと個別に注意。あるいはきのう、岩崎のことを少し書いたら相談を受ける。それでいろいろ話す。そしてきょうも開演。私はたいてい最後列でじっと見ている。岸の妹の旦那さんという方がイスラエル人の方で日本語がほとんどわからないというが、面白かったと感想を話していたという。これ、外国でやろうかなとそのとき思ったのだった。いけるかもしれない。物語やあらすじは、あらかじめ英文で示しておけばある程度、なにをしているかわかってもらえるだろうし、ダンスや映像はストレートに伝わるのではないか。あと基本の劇が「ハムレット」だからなにかわかってもらえる気がする。まあ、機会があったらの話。
■「新潮」のM君が観に来てくれ、なにか興奮気味に感想を話してくれた。うれしかった。ほかにも、何度か僕の舞台にも出ている佐伯、『トーキョー・ボディ』ではカメラを担当した服部も来ていた。そして『亀虫』の冨永君の映画に出ている杉山君もいた。しっかり話ができなかったのは残念だ。なんといいますか、終わってから、いろいろ疲れてやけに早く家に帰りたかったのだ。すぐに眠りたくなっていた。いつだって開演前は、俳優と同様に緊張している。というか、怖いとすら感じている。それで毎日、舞台を観ると終わった頃にはへとへとに疲れているのだ。精神的な疲れ。うまく人としゃべれない。そういえば、数日前にもらった、「■リングス仲間」のO君のメールに、病気で今回の舞台が観られないとあった。残念。O君は京都にいるときは、彼が京都の大学の出身だったこともあり、いろいろ京都について教えてくれたし、ときど様々な情報を寄せてくれる。しばらく会っていなかったので、あの顔をまた見たかった。
■少しずつ、終わりが近づいているとはいえ、まだステージ数はある。残りも集中力を崩さずクオリティを下げないようにしたい。初日の時に感じていたあの緊張感をまた取り戻し、鮮度を失わずにひとつひとつの舞台を丁寧にやってもらいたいと思うのだ。
(4:50 jan.19 2005)
Jan.17 mon. 「舞台、そして、奇妙な野菜のことなど」 |
■平日は午後七時半の開演。俳優たちは四時に集まって一時間みっちりストレッチをし、それから五時からだめだし。だめだしといっっても、もう細かいことはほとんど言わない、ただ、集中力を持ってやれば大丈夫だからと伝える。きょうの舞台は勢いを感じた。ただ、ラスト近くの詩人の独白で南波さんの調子が多少悪かったことが気になって、なにか理由があるのだろうかと想像する。いつもあんなに安定しているのでなにかちがうのがなおさら印象に残ってしまう(といっても初見の人にはわからないと思う)。本人も気がついていないかもしれない。ただ、いつもとは少しちがった。あと、大河内君の芝居が変わっているのももう一度、しっかり、注意しなくてはと思う。ただ、「技術力」があるので、それを「技」でなんとかできてしまうのが、心配で、それというのも、その「技」を使った芝居にはあまり深みを感じないからだ。というか、「ぶれ」が気になるのだな。客席をかなり意識して芝居するとか、どうしても抜けきらない芝居に対する意識は(岩崎にも多少それを感じるが)、もう少し稽古の段階から口うるさく言うべきだったと反省する。
■二年前の『トーキョー・ボディ』に出演していた小田さんが来てくれた。そして、ポストペットを作ったことで有名な八谷さんが観に来てくださった。いま八谷さんは一人乗り用の小さな飛行機を開発しているという。ほんとうなのか。加藤直美さんはベターポーヅの稽古の合間をぬって劇場に足を運んでくれた。いろいろな方がまだ大勢来ていただいたはずだが、挨拶ができなかった方も大勢いる。申し訳ない次第です。
■開演の直前、まだ時間があるときに、制作の永井と今後の舞台公演の予定を話す。セゾンの方がプレ公演からずっと観に来くれているが、こんどこういう一年間のプレ公演があるような舞台のときにはぜひとも森下スタジオでやってほしいとのことで、プレ公演が森下スタジオだったら、さらにクオリティの高いプレになるだろうと思う。また一年かけての芝居作りになるのか。それが僕の劇を作るスタイルになるのかもしれない。あるいはパブリックシアターが主催する「現代能楽集」の話もある。これは古典の「能」のテキストを元にある種、翻案というスタイルで新しい劇を作るという一連の企画のひとつだが、とても興味深い企画だ。あるいはたしか、パブリックでリーディング公演をやることで、「戯曲」について考える試みも、まだなにも決まっていないが、予定はある。意外に舞台の予定はあるのだ。声をかけてもらえてほんとうにありがたい。
■で、それはともかくとして、雑誌「ユリイカ」の「チェーホフを読む」をはじめ舞台をやっていて書けなかった原稿の仕事もきちっとまとめよう。『三人姉妹』を読むんだ。チェーホフの四大劇と呼ばれるうち、まだ書いていない最後の作品が『三人姉妹』だ。これをきちっとまとめ、単行本になったらこれほどうれしいことはない。舞台が終わったらその執筆だな、まずは。「かながわ戯曲賞」もある。休めねえじゃないか。そしてずっと不義理をしている小説がある。がんがん書くよ、もうこうなったら。
■先日、MacPowerの高橋編集長に話したのだが、ある特殊な野菜の名前がわからず、MacPowerの編集部にいるという「検索名人(インターネットで調べられないことはないと豪語する男)」が探してくれたが、僕の出した手がかりを元に候補にあがったのは、次のような野菜である。
カラブレーゼ
チーマ・ディ・ラーパ
スティック・セニョール
はなっこりー
これは、僕が口にした「名前を覚えられなかった」というヒントから「名前を覚えられそうにない野菜」ということ、ブロッコリーに似ているが、カリフラワーではないといった手がかりを元に検索してくれた結果だ。でも、けっして、「はなっこりー」ではなかったはずだ。その野菜の特殊性とは、よーく見ると、小さな部分が全体と同じ形をしているという、つまり「部分が全体になっている」というひところ流行った「フラクタクル」といった姿をしていることだった。そして私はよくやく、それを発見したのだった。名前は「ロマネスコ」という野菜だった。またの名を「サンゴショウカリフラワー」という。カリフラワーじゃねえか。それがある人のブログに写真入りで紹介されていたので申し訳ないが、どうしても人に見てもらいたいのでリンクする。それはこれである。
この写真だと細部がわからないかもしれないが、写真でつぶつぶに見える部分も、全体と同じ形なんだよ。これを発見したのはもう数年前だったのだが、それ以来、どこでも見つけることができなかった。最初に発見したときの驚きはなかった。このブログの写真よりさらに、形よく整ったかなりできのいいフラクタクルだったのだ。めまいをおこしそうな野菜だった。実物を探してぜひとも肉眼で見てほしい。ほんとすごいよ。
■あと、「北川辺町」に在住する早稲田の二文に通う学生が舞台の感想を送ってくれた。劇への、というより、そこに住む人としての感想だったがたいへん興味深かった。ありがとう。あるいは、実業之日本社のTさんの友人の方で「北川辺町」に実家があるという方とは直接、劇場で会った。で、二人に共通していたのは、「隠れキリシタン」の話は僕の作ったフィクションだと思っていたということだ。事実なんだからしょうがない。先日、観に来てくれた平田オリザ君からは山口県にも北川辺とそっくりな地形に存在し、そしてまったく同じ性格を持った町があることを教えられた。そこには、その不利な土地にしか生きられなかった者たちの歴史がある。「川」と「土地」、そこに住む者たち(住まざるえなかった者たち)を調べて行くことから多くのことを知ることができたことだけでも、この戯曲を書いた意味があった。
■終演後、どこにもよらずに家に戻って原稿を書く。そしてこの数日、舞台の感想をメールで送ってくれた方からとても励まされている。ほんとうにありがとう。
(5:39 jan.18 2005)
■土日の4ステが終わった。つまり二日で4回の舞台をやったという意味。そういえば、阿部和重君が芥川賞を取った夜、青山真治さんはうれしさのあまり僕のところに電話をしようとして深夜だと気がついてやめたという。カラオケにまで行って祝っていたらしい。そのとき電話しようとしたのだろうか。だったら阿部君におめでとうと言いたかった。もっと早く受賞してもいいはずの人だったがなにがどうなっているのかと思うのだ。そして、阿部君はそれとは関係なくこれからもがんがん作品を書く人だろう。刺激される。僕もいい舞台をもっと作り、まじめに戯曲を書き、そして小説も書こう。新潮社のM君からの年賀状で舞台が終わったらいよいよ小説をとあった。先のことはあまり考えていないし、舞台が終わったあと、わたしはきっと抜け殻のようになっているだろう。でも、またそこから一踏ん張りだ。
■とはいえ、舞台が終わってから先のことはまだなにも考えていないのだ。いまここでは、『トーキョー/不在/ハムレット』の舞台は続いている。少し安定。みんなへのだめ出しは、もちろん、抑制するところはそうしなければいけないが、だからといって小さくなるのではなくもっと攻撃的にという話。攻撃は最大の防御である。いや、守るものなどなにもないけれど。もうやることがないと、プレ公演のたびに考えていたけれど、こうして本公演もまた、まったく異なる性格を持った舞台として出現した。まず何より変化したのが、装置と照明だ。そしてダンス。プロの手が入った。ユリイカのYさんがメールで語ってくれた「抽象性」のことでいうと、あの縦に長いスリットのこと、そして、トラムの天井の高さが要素としてかなりあって抽象度を高くしていると指摘された。かなりそれはある。そして、少し情報量が多すぎるきらいがあり、一回見ただけですべてを把握するのは困難だろうと思われる。でも、どこを見てもいいのだし、強制したくはないのだし、観客の想像力をなにより信頼しているのだった。
■批評家の内野儀さんがまた観に来てくれた。やはり、二回見てはじめてわかったことがあったという。もう一度、観てくれるという。ありがたい。で、内野さんに頼まれていた非常勤講師をするにあたって大学に提出する履歴書を書くのを忘れていた。申し訳ない。で、家に戻ってそれを作ったのだが国立大学は西暦ではなく、元号で履歴を書かなくてはいけないとのことで、それがきわめて面倒だった。そうして書いているうちにですね、私は「昭和」という時代を生きていたはずだと感じていたが、それがもうすぐ、生きていた半分以上が「平成」になるし、ましていま一緒に芝居をしている者の多くが「平成」を長く生きているのではないかと気がつき、軽い驚きを感じた。あたりまえっちゃああたりまえの話だが、僕の感じ方では「昭和」はぜんぜん終わっていないし、天皇と言えばどうしたって、裕仁天皇のことを思い出してしまう。アキヒトの存在は希薄である。不在である。そしてそれは、この都市に生きていながら、どこか存在の希薄さを感じる自身のことのようでもある。で、そこから「からだ」の話を続けたいが、それはやはり長くなるのでまたにする。
■劇場にはいろいろな人が足を運んでくれた。ありがたい。なかでも、かつて演劇ぶっくのワークショップ(伊勢がいたとき)で一年一緒だった伊藤が、高知から観に来てくれたのはうれしかった。芝居をやめいまは高知に戻ったと話には聞いていたが、元気そうでなによりだ。たくさんワークショップをこれまでやってきた。みんなどうしているのかと思うのだ。
■ようやく中日を過ぎたところ。まだこれからだ。繰り返して観ていることで僕自身は客観性を失っており、きょうの舞台はよかったのか悪かったのか、よくわからなくなるときがあるものの、ただ観ることが僕の仕事なので、また、客席に腰をおろす。気になったことは注意するけれど、観ること以外に僕にはもうすることはなにもない。舞台がはじまったらそれはもう、俳優たちのものだ。
(15:25 jan.17 2005)
■俳優たちはゆっくりからだを休養させているだろうか。そのころ、私と矢内原美邦は、大阪へ記者会見に行っていたのだった。京都造形芸術大学のなかにある、舞台芸術センターが今回の『トーキョー/不在/ハムレット』の宣伝のために記者会見の場を設けてくれた。美邦さんに来てもらったのが申し訳ないほど僕ばかりしゃべっていた。もっとダンスとか俳優のからだの動きについて話を聞きたかった。大阪は日帰り。わーっと行って、わーっと帰ってきたような印象。これで紹介記事が出てもっと大勢のお客さんが京都公演に来てくれることを期待している。大阪にいる友人たちよ、もっともっと宣伝を頼む。というか、もうこうなったら、強引にでも連れてきてほしい。もちろん。大阪、兵庫、滋賀、奈良の人も足を運んでもらいたいが、遠方の方は29日の昼の回をお奨めする(近郊の方は夜の回を観よう)。なにしろ上映時間が長いので終電に間に合わなかったらまずいからだ。だけど、長さは感じられない不思議な舞台らしい。ご期待いただきたい。ただ、トラムから、京都造形芸術大学にある春秋座の舞台に同じ作品を持ってゆくのに危惧がないわけではなく、というのも、春秋座は舞台がでかいからだ。でも、少しの工夫で空間は埋められると思われる。
■二人で行ったとはいえ、僕に気を遣ってむこうの方が、喫煙車の席をとってくれたが、矢内原さんには禁煙車を奨める。ただ、行き帰り、もっと話をすればよかったと思う。じっくり話すこともあまりないからだ。お互いに気を遣っており、まだうまくコミュニケーションが取れていない部分がある。今後、またこのような機会があったときにはもっとコラボレーションがうまくゆく。けんかするほどの共同演出になるに違いない。記者会見は夕方の六時過ぎに終わり、それからあわてて新大阪へ。せわしない。行って、それですぐに帰ってきたような印象である。でも話をするうちに矢内原さんのこともだんだんわかってきた。話すことはだいじなのだとあたりまえのことを考えた。今後、コラボレーションの機会がほんとにあったらそこらへんからはじめることにしよう。
■時間がなかったので、大阪はただ、素通りするかのようだった。美邦さんから聞いた話で、いよいよ面白い話があったが、それはまたこんど書くことにしよう。それもまた書くに値する大事なことだが、それより東京にもどってひどくショックな事実を知らされしばらくぼうぜんとさせられた。映画『be found dead』の短編オムニバスの一作、「イマニテ」に母親役で出演してくれた、秋山さんの訃報だ。ショックだった。ひどく落ち込んだ。「イマニテ」でとてもいい芝居をしてくれて、なんでこんなに面白い人がいるのか藤沢市の湘南台市民シアターで一緒に舞台を作ったときから思っていたが、これからまた、秋山さんとなにかできればいいと思っていた矢先の悲報だ。大島渚の『日本の夜と霧』で映画に出て、それから家庭に入って芝居をしばらくやめ、そして最後の作品が「イマニテ」だったのもなにかの縁だ。いま出ている俳優たちのなかにも一緒に「イマニテ」で共演した者も多い。秋山さんの冥福を祈るために15日の舞台はぜったいいい舞台にする。秋山さんのために気持ちを込める。湘南台市民シアターでずっと一緒に芝居をしていた南波さんの気持ちを考えると、とてもやりきれない。あの独特な軽さの、けれど、どこか毒も含んだ芝居がもう見られないかと思うと残念だ。時間が作品を作ると以前も書いたが、秋山さんには、そのからだに、「時間」がより刻まれていた。ほんとうに残念でならない。舞台も見てもらいたかった。とても心残りだ。
■大阪から帰ってきたのはその日の夜11時近くになっていた。ここから再出発だ。また気持ちが変わった。まだ先はある。さらに舞台に集中し、いい舞台を秋山さんのために作っていこうと思う。それがいまできることだ。
(3:06 jan.15 2005)
Jan.13 thurs. 「6ステージが終わった」 |
■その後、少し持ち直してほっとしているわけだが、逆に少しだめをきつく出してしまったせいか、爆発するほど力を出すべき箇所で、慎重になっているというか、守りに入っている気がしないでもないので、むつかしいわけだし、俳優たちにはかなり困難なことを要求しているのだった。そして俳優たちがチケットを売らないと制作の永井はぷんぷんである。頭から湯気が出るほど怒っている。京都では野宿をさせようかと息巻いている。まあ、売っている暇もないほど稽古していたのでしょうがないのかもしれない。というわけで、空席の目立つ数日だが、いきなり15日は満席だという。あんまりあとになったからって芝居に変化があるような種類の舞台ではないので、なぜ、席に余裕があるときに観に来てくれないのだ。まあ、個人的にそれぞれの事情があるので早い時期に見に来いと強制するわけではないが。
■評価はいろいろ。まあ、しょうがない。ただ意外なほど、長く感じなかったという感想が多い。いろいろな知人が観に来てくれてありがたい。その全員に挨拶ができなくて申し訳ない。文學界のOさんや、おなじ文藝春秋で今回の小説の担当をしてくれたYさんとはまったく会えなかった。12日は、大学の先生ばかり来ていた。河合祥一郎さん、内野儀さん、岡室先生、そして、演劇人でもあるが大学の教員でもある平田オリザ君。『14歳の国』のドラマ版を作ってくれた大根君や、en-taxiの田中さん。きょうは、エレキコミックの谷井君、ライターの押切君(すごく久しぶりに会った)、週刊SPAの山崎も来ていた。そして、映画監督の井土紀州さん。会えなかった人、ほんとにすみません。わたしはできるだけ、批評家に会わないようにしているわけではないのだ。いや、会わないようにしているのかな。ところで、北川辺町に住んでいるというあの早稲田の二文に通っている人は13日にチケットを取ってくれたというが観に来てくれただろうか。感想、というか、印象だけでもいいから話を聞きたかった。きょう(13日)は矢内原美邦さんが劇場に来てくれていろいろ話をする。それから舞台を観てダンス的な動きのある場面についてだめ出ししてもらった。たとえば、鶏介のダンスに対するだめは端的で面白かった。ひとこと、「踊るな」だ。おそらく少し踊れる熊谷の動きがダンスになっていることへのダメだと思う。これは僕がしばしば口にする「芝居をするな」と同じ意味のような気がする。きれいにやろうとする動きより、もっと生の動きの躍動感がニブロール的だし、きれいな動き(いわゆるダンス的なもの)が、ではいいのかというのは、僕も「準備公演」のころから気にはなっていたのだ。形になってしまうことでよさがなっくなってしまうのは、芝居でも、熊谷にはあり、すごくいいときというのはやはり形ではないのだ。身体的に動ける人だからこそ、中途半端な(って、ものすごくうまいダンサーは数多くいるし)ダンス的なものより、熊谷が本来持っているよさが矢内原さんの振り付けでだいぶ出てきたが、どうも、戻ってしまう。それは僕が大河内君に、杜李子に対して言葉をかける場面で、とにかく感情を出さないように要求するのとよく似ており、もともとうまい大河内君に、そうした「技」を使わず、大河内君のからだから発するものがより強く発せられるために、感情をなくし、淡々とやってもらうことで、その場がきりっとしまった。そのへんは、矢内原さんと僕はかなり似ている。演出補の小浜がニブロールに出たときには「なにもするな」と言われたそうだが、僕もなんど、小浜に「なにもするな」と言ったかわからない。
■その後も、いろいろな方から感想のメールをいただいて励まされる。ほんとうにありがとうございました。あ、そういえば、芥川賞は阿部和重君に決まったのだったな。よかった。ほんとによかった。
■あした(14日)は休演日だが、大阪で記者会見があるので休む暇はない。関西の方ももっともっと観に来てほしい。というわけできょうは早く眠ろうと思っていたが舞台のことばかり考えているうち、時間が経ってしまった。まだ舞台数はあるというものの、少しずつ、終わりが近づいてくることにさみしさを感じてもいる。だって長かったからねえ、この戯曲の言葉い一年近くつきあっていたのだ。あ、関係ないけど、奇妙なことが起こった。僕の携帯電話の電話帳のデータが突然、全部消えた。誰にも電話がかけられない。困った。ものすごく困っているとはいうものの、むかしは携帯電話にこんなに依存することなどなかったのだ。そこに戻ったと思えばいいっちゃいいわけだが、それにしたって困っているのだ。
(4:06 jan.14 2005)
■三日目。きのうの夜の回になってよくやく安定したと思い、あまりダメを出さなかったのがいけないのか、できの悪さにひどく落ち込む。後半になってようやく流れを取り戻したものの、前半を観ている途中で席を立ちたくなって、すぐにでも楽屋に走って「ぜんぜんだめだ」と言いたいところをぐっとがまんする。でも、ニブロールの矢内原充志君が来ていて、でも、後半はよかったですよと言ってくれかなり救われた。というか、充志君のおだやかさがとてもうれしかったのと、そのおだやかさをかもしだす姿がうらやましくなって、終演後、俳優たちを集めてすぐにだめ出ししている自分の落ち着きのなさにさらに落ち込む。
■終演後、落ち込んだ気分をなんとかせねばと、MacPowerのT編集長と飲み屋に行く。それでいろいろなことを朝五時近くまで話してしまった。
■ただ、救いがないわけではなく、白水社のW君はじめ、何通かの感想メールに励まされる。ひさしぶりに僕の舞台を観てくれたというまたべつのW君は次のように書いてくれた。
よかった。とてもよかった。はっきり言ってリーディング公演からの予想をはるかに上回る、「本」公演でした。正直言って、ストーリーを追おうと思うとよく分からないことはいっぱいあります。でも、役者のからだの動き、すばらしかった。いっしょに飛び跳ねて走り回りたかった。あれはニブロールさんとの見事なコラボなのでしょうね。映像の使い方も、おもしろかった。スクリーンだけ、劇場全体がスクリーンになったり、裏で生でやっていながらスクリーンで観たり。一瞬自分は映らないかと思いましたが見事に客席は暗闇でしたね(笑)。音と人間の体の動きと映像、スピードがかっこよかったです。
でも、これ、おとといの舞台の感想。きょうはだめだろうな。とにかくなにからなにまで前半はだめだ。細部のだめもあるが、場面ごとが流れている印象を受け、物語のうねりが生まれていない印象だ。がっかり。もうちいど、初心にもどろうといったようなことを考える。場面ごとに集中することさえできれば、きっとよくなる。それができる俳優たちだ。もう一息だ。集中力を高めてさらによくしよう。家に戻ってもあまり眠れなかった。ひどく落ち込む。観客の立場では細部のことなどわからないにちがいないが、それでもやはり、漠然とした印象として残るのだろうと想像する。安心はできないのだな。あ、そうだ、ユリイカのYさんから補足の言葉として感想を送ってもらった。つまり、「難解」というより、「抽象度が高かった」とのこと。そうか。そうだよな。
(14:35 jan.12 2005)
Jan.10 mon. 「初日はすでにあけている」 |
■ばたばたしてとは、よくいう言葉だが、ばたばたしていたわけでもなかったがこのノートが書けなかった。なにごともなく、せっぱつまって焦ることもなく(俳優たちは緊張したし、僕も開演の直前は落ち着きを完全に失っていたが)、順調に本公演初日の舞台ができた。僕の目標は常に初日の舞台がいちばんいい舞台にしようだ。とはいっても、もちろん緊張している俳優がミスをすることは多かったし、稽古とは芝居が変わってしまうのも、あってはいけないことだが、ある意味しかたのないことだ。初日が終わったらダメを出すことなどほとんどしないが、変化してしまったと思われる箇所についてはチェックした。そして、二日目。いきなりの昼夜二回公演。マチネが終わって息つくひまもなく、俳優たちはソワレの準備に入る。二回公演はせわしない。上演時間が長いよ。
■当然、演出家は何度も繰り返し同じ舞台を観ているわけだが、そのつど発見することがあり、それは主に作品そのものについてで、しばしば人から、なぜ東京を「トーキョー」と表記するかという質問があり、あるいは、『トーキョー/不在/ハムレット』の舞台になっている「北川辺町」が架空の町なのかと思ったと感想を聞くこともあったが、それで二日目の舞台を観ていてふと思いついたのは、この世界では、「北川辺町」こそが実在する土地であり、「トーキョー」こそが架空の町なのではないかということだ。架空の「トーキョー」という都市を作るために「北川辺町」が必要だったのではないかと考えていた。ユリイカのYさんはプレ公演をすべて観ているが、「今回のがいちばん難解でしたね」と言われた。そうなのかなあと思って、少しへこむ。物語のうねりはキープしつつさらに俳優のからだへのアプローチ、ニブロールとのコラボレーションによる作品世界の広がりが持てたと考えていたが、そうじゃなかったのだろうか。悩む。ラストシーンを冒頭にもってきたのがいけなかったのか。ラストが冒頭にあったら、そりゃあ、難解にもなろうというものだ。
■といったぐあいで、書きたいことは山ほどあるし、観に来ていただいた皆さんには感謝してやまないが、もうこうなったら最初に謝っておこうと思う。難解になってしまって申し訳ない。ただ、福岡から来てくれたという、新聞記者をしているUさんは、大変面白かったと前置きを書いてくれ、そして次のように指摘してくれた。
妙な部分が印象に残ってしまったので。それは「小泉純一郎の存在」です。一年間の準備の間には、本来なら退陣もありえないことではない。もし、交代していたらあの手紙の宛先は新しい首相の名前になっていたのでしょうか。しかし、現実には今も小泉が首相なのであり、宛名が小泉純一郎という固有名詞だからこそ「いまここ」にいる私たち日本人に与えるイメージがあるように思います。図らずも小泉のしぶとさが作品にさらなる奥行きを与えているのではないでしょうか。
小泉の動向に関して作品とのつながりで、奇妙ななじれをもっていたのは、作品のためには退陣されると困るという気持ちと、さっさとやめちまえという気分が入り交じっていたことだ。実際、小泉のことは気になっていたのだ。小泉のことばかり考えていたこともある。やめなくてほんとによかった。やめちまえって気持ちも、もちろん大いにあるが。まだ書くことはたくさんあるが時間がない。
■できるだけ多くの方に観に来ていただきたい。きょうの夜は席にかなりの余裕があった。まだいまなら余裕で観られます。13日までは余裕があります。15日以降は席の確保にむつかしくなると予想されます。どうかお願いしたい。そういえば、早稲田の二文に「北川辺町」から通っているという学生が、産経新聞の紹介記事を読んではじめて、自分の町を舞台にした劇があると知ったとメールをもらった。なんでもっと早く気づいていてくれなかったんだ。以前から僕の戯曲は読んでいたという。だったらその人からもっと話を聞き、取材が深まったのに、なんてことだ。
■俳優のからだはもうぼろぼろである。これからはみっちりストレッチをやってからだをケアする時期だ。休めるときはゆっくり休んでほしい。京都が最終公演になるが、それまで、身体だけはこわさないでほしい。そのためにはストレッチ。なにがなんでもストレッチだ。そそて僕は免許の書き換えに行かなければならない。それも急務。そして、後は毎日、舞台を観て、観ながら僕もべつの異なるなにかを発見するだろう。で、その先になにがあるかはまだなにも想像できない。まだ二日終わったばかり。これからだ。まったく実際のところ、すべてがこれからなのです。
(2:42 jan.11 2005)
■いよいよ初日直前である。
■仕込みに入ったのは、六日で、いままで仕込みに三日間かけたことがなかったので余裕だろうと思ったが、「きっかけ」(照明の変化や、映像の入りなど)が多いなど照明作りでかなりの時間がかかったものの、きっと地獄になるだろうと思われた「場あたり」、あるいは、「テクニカルリハーサル」と呼ばれているものを七日と八日の二回にわけられたのが幸いして比較的、余裕で作業が進められた。しばしばこうした現場では怒号が飛び、ぴりぴり緊張した空気が張りつめるものだが、っていうか、怒号を飛ばすのはたいてい演出家なわけだが、私も落ち着いた気分で作業を進めていたのだった。照明の斉藤さんの横に座って照明の要求を出すと、斉藤さんは、可能な限りの方法でこちらの要求に応えてくれる。スタッフの多くが一緒にやって長いので僕がどんなことが好きかわかっていてくれるのは助かるし、さらに、いいものを作ろうと、音響の半田君にしてもいろいろな工夫を考えてくれる。ニブロールの美邦さんはもちろん、高橋君、充志君も熱心に小さなことでも妥協せずにねばってくれるし、次々とアイデアを提供してくれる。あるいは、舞台監督の森下さんのおだやかさに救われるし、演出補として12月から参加してくれた小浜がいてくれるおかげで、ほんとに助かる。細かいチェックなどてきぱき動いてくれる。
■着々と準備は進み、夕方、一回目のゲネ(舞台を使って本番と同じようにする通し稽古)。はじめてという緊張もあったと思うが、舞台になったことで芝居が変わっている俳優もいる。いくつか気になった細部のほかに、大きくここは流れを止めていると感じた場面もあってさらに再考の余地ありだ。というのも、考えてみればそれは直前になって変更した部分だったので稽古量が少ないという理由もある。もっと時間があればというか、直前の変更は、生き生きとした舞台を作るためにあるべきものだし、僕もやるが、そのためには準備をきちんとしなくてはいけないことなのだと、なんだか、舞台をはじめてまだ2年ぐらいの人間が言いそうなことを考えてしまった。まだまだ悩むぞ。最後まで粘るぞ。細かい照明の変化のタイミングなど、もういっぺんあるゲネではきっとよくなっているはずだ。ぜったいにいい舞台にしたいと思う。
■そのころ私は、免許の更新がぎりぎりになっている。このままでは自動車免許が失効してしまうのだった。まずい。だが、なにより舞台だ。一月一日のこのノートをつけてからずいぶん更新が滞ってしまったが、べつに死にそうになっていてノートも書けないという状況だったのではなく、四日から稽古をはじめ、舞台のことばかり考えていたからだ。正月はわりと正月らしいことをしていたものの、すきあらば舞台のことを考えている。まだなにかあるように思えてならないが、それがわからない。これだけやったらもう十分だと思っても、まだ考える。そして、初日がもっともいい舞台にするつもりで、最後の最後まで粘る。残り時間はあとわずか。あ、そうだ青山真治監督から年賀メールをいただいた。忙しいと思うのに二回は観ると言ってくれた。ありがたい。なんだか勇気を与えられた。で、内野儀さんが『舞台芸術』という雑誌に書いている文章で、一連のプレ公演を通じて『トーキョー/不在/ハムレット』のことをとりあげてくれ、とてもうれしかったが、以前、べつの雑誌で内野さんの文章を読んでプレッシャーを感じたので読まないようにしていたのだった。つい読んでしまった。またプレッシャーだ。でも、あれです、こうなったらもう開き直るしかない。どうだ、見てくれと言わんばかりの気分だ。多くの方に劇場に足を運んでいただきたい。俳優もすごいが、映像もすごい。ぜひとも目撃してほしい。
(2:56 jan.9 2005)
あけましておめでとうございます。
『トーキョー/不在/ハムレット』の初日(1月9日)まで、あと八日になった。暮れの12月31日から稽古は1月4日の再開まで休みなので、実質、稽古日数はあと五日。ちょうど一年前には皇居で「ハムレットを読む」を撮影をしていたのだった。様々な場所で『ハムレット』を読むというあの企画はどうなってしまったのだろう。で、考えていたらべつに今回の舞台にあわせることもなく、この先、何年かけてでも様々な人に『ハムレット』を読んでもらい記録しておこうかと思った。それにしてもなぜ『ハムレット』にこんなにこだわるか自分でもよくわからない。そもそも、なんのきっかけで、『トーキョー/不在/ハムレット』というタイトルが生まれたか、どうしてこんな舞台をやろうと考えたか、なぜ「ハムレットがいないハムレットの物語」を書こうと思ったか、そのきっかけも忘れている。稽古期間が長かったからいろいろなことがわからなくなっているのだ。
31日から休みになったので久しぶりにのんびりしたが、その日、早く目を覚ましたのは髪を切る予約を午前11時に入れてしまったからだ。いつもより早く起きなければならなかった。で、伸びほうだいだった髪はさっぱりした。それにしてもしばしば話題になるのは紅白歌合戦の視聴率だが、だからなんだということはあってですね、見てもいいし、見なくてもいいんじゃなかろうかというか、問題にすること自体に意味を感じない。ただ、興味深いのはあの「紅白」の対戦システムがNHKの基本をなしていることだ。クイズ番組などがあると、たいてい男女のチーム対抗になっている。なぜそんなにこだわるかよくわからない。遊園地再生事業団の前回公演『トーキョー・ボディ』から採用した楽屋のシステムは、「喫煙者」と「非喫煙者」でわける方法で、これがかなりよかった。たいてい楽屋は「男女」でわけるが、着替えなど、楽屋のなかにあるカーテンの向こうですればいいのだから、べつに「男女」でわける必要はないだろう。むしろ、煙草が嫌いな人、苦手な人もいるし、だからって楽屋はすべて禁煙などにしたくはない(なにしろ僕が煙草を吸いたいからだ)。「喫煙者」と「非喫煙者」でわければすっきりする。クイズ番組も、「喫煙者」と「非喫煙者」の対抗にすればいいのではないか。喫煙者の側の席ではみんな自由に煙草を吸う。それでいいじゃないか。
そんな意味のないことを考えているうちに年があけた。紅白は見なかった。初日の出も見なかった。「新年」という気分がいっこうにわいてこないまま、二〇〇五年はやってきて、けれど今年の目標などなにもなく、ただ、やりたいことに熱中し、興味のわいたことに夢中になっていたいと思う。年賀状をいただいたみなさんありがとうございます。まずは、『トーキョー/不在/ハムレット』にご来場いただき、遊園地再生事業団の行方を見つめていただければ幸いです。今年もよろしくお願いします。
(1:37 jan.2 2005)
二〇〇四年十二月後半のノートはこちら →
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