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■前から書こう書こうと思って忘れていたことを書きますが、それはメジャーリーグの話です。イチローが所属していることでおそらく誰でも知っているだろう(いや、知らない人は知らないでしょうが)、シアトル・マリナーズだが、イチローのほかには長谷川という投手も所属している。長谷川はかつて日本ではオリックスに、そしてメジャーに移籍しアナハイム・エンゼルスにいた。2001年のオフ、マリナーズに移籍するにあたって「やっぱり、優勝したいから」「ワールドシリーズに出たい」という意味のことをインタビューで答えていた。つまり、マリナーズだったら可能性があると長谷川は考えていた。ところが、どうだ。長谷川が来てからのマリナーズを見ろ。地区優勝もできない有様で、今シーズンも低迷している。そして重大なのは、長谷川が移籍した年、エンゼルスがワールドシリーズで優勝していることだ。長谷川がいなくなった途端のこの快挙。そして、マリナーズの長谷川は、大人計画の俳優にして劇作家、演出家の松尾スズキに顔が似ている。いや、それは関係がないが、私は以上のようなことを総合して考えるに、長谷川のことを疫病神と考えることにした。とはいっても、長谷川個人としては結果も残しており、いいピッチングをしているから余計に困った。
■久しぶりに帰郷したらあたりの行政区分がずいぶん変わっており、浜岡原発がある町は付近の自治体と統合され、御前崎市になっていた。その浜岡原発の近くに「桜が池」という池がある。クルマで一時間近く走って(というのも道に迷ったからだが)、その池を見にゆくことにした。池の向こうは森だ。木々に囲まれるようにして大きな池があり、その静謐な姿にうっとりした。子どものころに来た記憶があるがほとんど忘れていた。じつはデジカメを忘れていったので、写真はカメラ付き携帯電話で撮ったもの。小さすぎてわかりづらいと思うが、とてもいい景色だ。だけど近くには浜岡原発。そのコントラストが奇妙だ。とてつもなく恐ろしいものがそばにあることを誰が意識しているのだろう。池の静謐さを見つめているうちこの土地がひどく不思議なものに感じて仕方がなかった。
■それで思い出したが、こちらのテレビでは、僕も一緒に舞台をやったことがある俳優の山崎一が出ているCMがたびたび流され、山崎君が扮するニュースキャスターが地震学者らしき人物に、「来る来るといってる東海大地震はほんとに来るんですか。何年何月何日に来るんですか」と強い口調で迫るという内容だ。学者とおぼしき人物は、「そんな、神様じゃないんだから」といって抗弁する。どうやら住宅メーカーのCMらしいが、東海大地震についてみんなが薄々気が付いていたことを笑いに転化している。やっぱりみんなそう思っていたのか。面白いな。しかし、地震が来たら浜岡原発はどうなるのか。当然、そのための準備はしているだろうが、原発をかかえていることのリスクについて付近の人たちはどう感じているのだろう。
(7:34 apr.18 2005)
■東京に戻ってきた。
■六月から横浜の「BankArt1929(サイト)」で講座を開講することになった。講義もするかもしれないがおおむねワークショップ形式のものになるだろう。横浜近辺の方はふるってご参加いただきたい。で、大学で演劇を教え、こうしたワークショップもやりそんなに教えるのが好きかと言われると困るのだが、教えることは自分にとって様々な確認になると以前から考えていた。もう故人の、デイブ・ヴァン・ロンクというミュージシャンがいる。デイブ・ヴァン・ロンクがギターを教えるのは、そうしないとギターを触らなくなるからだと言っていたと、友部正人さんの詩で知った。デイブ・ヴァン・ロンクにギターを教えてもらった一人にボブ・ディランもいる。久しぶりにディランのファーストアルバムを聴いたら、ギターや歌もそうだけど、ハモニカがすごくいいことを再確認。というわけで、左の写真はハモニカを首からさげた初期のボブ・ディラン。
■それはそれとして、「教える」という考え方とはそうしたもののはずである。けっして権威的なものではない。教える側もまた、「教える行為」を通じて学んでいる。だいたい、「教える者」のことを「先生」と呼ぶのが変だよ。ただ、大学の教員をしていて、「先生と呼ばれるほどのばかじゃない」と言う人もいた。まったくその通りだが、だとしたら、教員をやらなければいい。引き受けといて「先生と呼ばれたくない」といくら言っても、学生からしたら「慣用」として教員のことを「先生」とつい呼ぶだろう。だからどちらの態度にも私はくみしない。「先生」と呼ばれていい気になるような権威にはぜったいなりたくないし、だが、「先生」と呼ばれたくないなら教員をやめる。あと、あれだ、「先生」という言葉の語源をしっかり把握しとくべきで、たとえば韓国に行くと年長者はみんな「先生」である。先に生まれたんだから「先生」なのはあたりまえか。
■このところ、「ワークショップ」について反省すれば、「教える技法」に私はかなり習熟してきているのではないか。もっとなにかあるはずだし、経験だけでこなすのではなく、発見を自分自身がしないと意味がない。先日の早稲田の「演劇ワークショップ」の授業で、「歩く・見る」というごく基礎的な授業をしたが、次回の課題として提出した、「町で見つけた歩き」の例を僕がやってみた。着脱が面倒な靴を履いて玄関から外に出ようとしたとき、忘れ物をしたことに気がついたとしたら、人はいかにして靴を脱がずに部屋の中のものを取りに行くか考える。すると人はひどく奇妙な歩きになる。それをやってみせた。僕の方式は。靴底が床に接する面をいかに少なくするかだ。すると学生のなかから、わたしだったらこうすると、僕がやったのとは異なる方法をやってくれた者が何人かいた。これは新鮮だった。そうか、それを課題にしてしてもいいんだ。「いかに靴を脱がずに部屋の中に忘れたものを取りに行くか」という状況だけで、様々な方法を考えさせるというのも面白そうな課題になる。
■で、とにかく、今回の授業は「見る」がいちばんのテーマだ。「見る」のは、ただ「見る」だけでも人を消耗させることがあるくらい大変な行為なのだと想像する。美術館で絵を見ていてほとほと疲れるときがある。あれ、なんだろう。単に、美術館が巨大で歩くのに疲れたとか、つまらないとか、退屈といったことではない。「見る」だけで疲れる。あれはなんだろう。当然、美術作品を「見る」という行為には、イメージするとか、考えるといった「意識」への働きかけがあるだろう。それをより強くうながす作品に出会ったとき、「見る」はひどく疲れる行為になるのではないか。そんなことを考えていたら美術館に行きたくなった。
(8:12 may.3 2005)
■憲法記念日だということを忘れていた。なんだかカレンダーに赤い色がいくつか並んでいるといった程度に日々が過ぎてしまうことに、危機を感じつつ、それであらためて、この急速な改憲に向けた政治の動きは、結局、こうした無自覚が作り出しているのだと気を引き締める。かなりあぶない。その日が終わるころになってようやく、そのことに気がつき、はっとした。だからやっぱり、いまチェーホフの『三人姉妹』は、「戦争の劇」として読むべきなのだ。
■その朝、眼が覚めたら、右目だけぼやけている。はじめは寝起きなのでそうなのかと思い、顔を洗い、目を水で何度も流したが、右目だけいっこうにものが明確に見えない。近視の人はこういう状態なのだろう。元々、目がいいほうなので不安になった。朝から新宿の眼科へ。連休だというのに開院しているのが不思議だが、あたりまえのように病院の人たちは仕事をしていた。診断によると右目だけ角膜にひどく傷がついているとのことだ。こすったりしたかと医者に聞かれたが、記憶になく、ということは眠っているあいだに、目がかゆくて指でごしごしやっていたのかもしれない。
■クスリを二種類もらった。日に4度、目にささなければいけない。急に忙しくなってしまった。なにしろ日に4度も二つの目薬をささなければいけないのだ。忙しいなあと思いながら新宿の中古レコード店へ。何枚か買う。新宿から歩いて家に戻ってきた。気持ちがいい。日ざしは強いが湿度がないせいだろう。風が冷たく感じるときもあった。
■ずいぶん以前、僕のワークショップにも来て、舞台にも少し関わったことのある根本からすごく久しぶりにメールがあった。ラジオで僕のことを話していた人がいるという。話しによれば、かつてラジオ番組の構成の仕事をしていたころ、僕が生放送のスタジオでタバコの灰をゴミ箱に捨てそれでゴミ箱から火が出たという。まったく記憶にないのだ。うーん、もう20年以上も前のことだけになあ。しかしすごいね。20年があっというまに過ぎた気がしてならない。その時間のあいだになにが変化したのか考えていた。まずは、考えることからだ。わからなくてもいいから、考えたい。考えつづけていたい。
(8:58 may.4 2005)
■そういえばこのあいだ奇妙な状況に遭遇した。早稲田のなかに僕の研究室があるがまだあまり使っていない。授業で使うコピーとかそういったものを置くだけの場所になっているのは、個室とはいえ、ほかの教員と二人で使うことになっているからで、そこで仕事をしようとしても落ちつかないからだ。で、先日、授業を終えて残ったコピーを置きに行くと、鍵がかかっていると思ったドアが開いている。なかに入ると、僕の机を知らない女性が使っていた。この時点で不審に思っていいはずである。ところがその女性が泣いているように見えたのだ。僕の机を勝手に使っているのは問題なのだが、泣いているように見えたことで、わけもわからず遠慮してすいませんと逆にこちらが言い、荷物を机の上に置きたいが女性が使っているので横にある棚に置く。それで、また、どうもすいませんと言ってそそくさと部屋を出てしまった。あれはいったいなんだったんだ。誰なんだあいつは。
■とはいえ、個室だから、さして広くない部屋に、泣いている女がいて私がいるという状況はきわめて不自然である。そこに、誰かが入ってきたらと思うと怖くてしょうがない。どう思われるかしれたものじゃない。やはりあれは、すぐに部屋を出ることがもっとも正しい選択だったと思われるものの、しかし、落ち着いてから考えるに、私は私の権利としてその机の使用権をはっきり主張すべきだった。人間、気が動転するとそこまで頭が回らないから困る。
■よく言われるのが「いたずら電話」への対処におけるこうした気の動転である。電話があったときは、冷静になれずに、おかしな対処をしてしまう。ところが電話を切ったあとで、こう言ってやればよかったとか、こんなふうに対処すればよかったと後悔する。おそらく、「おれおれ詐欺」とか、「振り込め詐欺」の類はこうした人の「動転した状態」をうまく利用したものだろう。だからニュースを聞いて、少し落ち着いて考えればわかりそうなものじゃないかと思うのはおそらく半分は正しく、半分はそうじゃない。気が動転してしまうんだ。そのすきを狙うのだ。それで私もまた、研究室を出て家に戻ってから少し冷静になってみるとひどく後悔した。あの女になにか言ってやらなければならなかった。
■目の調子がまだ悪かったので、なにかを「読む」のが苦痛というか、なんだか億劫になっていた。読まなくてはいけないものはたくさんあったのだ。うっかり忘れていたが、以前、スコットランドの劇作家の作品『雌鳥の中のナイフ』を翻訳してくれた谷岡さんから、またべつの作家の翻訳されたばかりの戯曲をいただいていた。静岡の家に戻る準備をしていたり、なんだかんだで、読むのを忘れて悪いことをした。読むものはまだ無数にある。だから目が重要なのだ。たしかに遠視は進行しているものの、「見える」という視力は、なにかによって与えられた得難い能力なのだから、「見えること」に感謝して、できるだけのものを見、そして読まなければ、申し訳ないと思う。それにしても、あの女はいったいなんだったんだ。
(8:21 may.5 2005)
May.6 fri. 「子どもたちが作品のなかへ」 |
■たまたま、きのう東京都現代美術館にゆき、ナムジュン・パイクの映像作品のなかでジョン・ケージが演奏している姿を見たばかりだったが、テレビの「タモリ倶楽部」でジョン・ケージが取り上げられているのを見、奇妙な心持ちにさせられた。ジョン・ケージは「トリビアの泉」でもトリビアになったと聞く。なぜいまさらジョン・ケージが話題になるかわからないが、それはそれで健全な気持ちもするのだ。現代美術や、現代音楽、実験的な演劇でもいいが、どう考えても冗談としか感じられないときがある。マルセル・デュシャンはいかがでしょう。あのあきれた作品をしかつめらしい顔で鑑賞したところでしょうがないじゃないか。
■東京都現代美術館では、企画展にあまり興味をひかれなかったので「常設展」だけを見た。これまでなんど、「常設展」を見たことでしょう。同じ作品を繰り返し見るのもいいのだが、そのつど、少しずつ展示内容が変わっているのでたまに来ると面白い。発見もあるし刺激も受ける。で、やっぱり一九五〇年代の作品にひかれるのだが、あれはなんだろう、ある種の昏さがいいように思える。絵の前に立っていると「作品の意味」からではなく、絵そのものが意識に働きかけてくるものがあるようで、いつも不思議な気持ちになるがうまく説明できないのだ。パリのポンピドゥーセンターで見たマグリッドの絵の一枚にやはりそうした求心力があった。うまく説明できないが、でもべつに、言葉にしてもしょうがないし、どうやってもその「意識」は伝わらない気がする。
■ところで、今回の発見は、以前からぜんぜん興味のわかなかった大きな金属製の立体作品だ。それは美術館の外にあって、階段が作られ迷路のようになっているらしい。ただそこにあるとあまり美しいとも思えず、これまでなんとも思っていなかった。この期間の企画展は有名なアニメが取り上げられていたので子どもがかなりいたが、警備員が「10分間だけ開けます」といってその作品を開放し、子どもたちが楽しそうに階段を駆け上がって作品の中へと入って行く。階段を上がった上の方に子どもたちの姿が見える。すると作品そのものの印象がまったく異なるものになった。その変容が面白い。僕も入りたかったが、大人は誰もいなかったので、ちょっと躊躇してしまったものの、もし入ったらまた異なる印象になっただろう。ぼんやり僕は見ていた。面白かった。そして、子どもたちが楽しそうに階段をのぼりおりし迷路のなかを駆けめぐる姿をぼんやり見ている僕がいるという、その全体を見ている誰かがいて、また作品はべつのものになるだろう。で、「子どもたちが楽しそうに階段をのぼりおりし迷路のなかを駆けめぐる姿をぼんやり見ている僕がいるという、その全体を見ている、誰か」という「全体の状況」をまたべつの誰かがきっと見ている。そうやって、作品がどんどん増幅されてゆくのを想像していた。
■まあ、なんにせよ楽しかったという話。刺激も受けた。来てよかった。
■本日は、早稲田で授業。文芸専修の学生に向けた講義。連休のあいまの金曜日だから出席率は低かろうと思ったが意外に学生がいた。で、出席を取るとあまり出席率は高くなくてですね、どう考えても、正規に授業を履修していない学生(もぐり)が来ているとしか考えられない。
■今回の内容は、「言葉」のことなど。連合赤軍事件で死刑の判決を受けた坂口弘が獄中で書いた短歌、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』のせりふのひとつ、岡田利規君の『五月の三日間』のせりふのひとつをコピーして全員に配布しそこから話をはじめる。「発話」といったことから、「身体性」みたいな話につなげ、さらに様々な「声」を聴かせて、「言葉と声」「言葉と発話」といった内容にするつもりだったが、中途半端なところで時間がなくなってしまった。時間配分てやつはむつかしい。「声」を聴かせていたらきっと時間がなくなっていただろう。だが、10分ほどまだ時間があって、それをどうやって埋めようか困った。ここでかなり疲れた。でも、心地よい疲れだ。この授業がいま、なにより面白くてしょうがない。熱心に聞きに来てくれる学生にも感謝する。
■で、一番前、僕の正面にいた学生はなぜか着流しである。話をしているあいだ気になってしょうがなかった。やはり履修はしていないが毎回、話を聞きに来てくれる三年生の学生がいて、たとえば、教室に備え付けのビデオデッキなどの機材が入った箱を開ける鍵を事務まで取りに行ってくれたりなど手伝いをしてくれるのだが、終わってから、自動販売機で買ったコーヒーなど飲んで話しをする。煙草が吸える場所を探すのが大変だ。しかも外なので寒くてしょうがない。きょうはやけに冷えたのだ。
(9:44 may.7 2005)
May.7 sat. 「ぼんやりするに値するもの」 |
■神保町へ。ネットで見つけたある詩集を買おうと思って足を運んだのは神田古書センターの二階にある中野書店という店だったが、べつに古書マニアではないのでガラスケースに入ったべらぼうに高い本には興味がなかったものの、でも、見ていると欲しくなるから困るよ。で、目当ての本がない。店の人に尋ねればいいのに、タイトルも、著者名もうろ覚えで質問のしようがない。メモしてこいよという話だ。それからまたぶらぶら付近を歩く。神保町に来ればかならず立ち寄る矢口書店へ。映画や演劇の本が専門の店。演劇の棚を見ると、これはという注目するような本はない。少し気になるものはたいてい読んだことがある。というか、全体の割合で見てゆくと、矢口書店だけの話ではないが、演劇に比べ、映画の本はかなり充実している。映画のほうがメジャーというだけではなく、複製芸術の映画は、たとえば評論を読んで、取り上げられた作品を後追いできるが、演劇は、そうそう観ることができないので、評論の類があまり読まれない不幸があるように思える。ただ、逆に考えれば、映画は映画を観ればいいが、演劇は文献でしか歴史をとらえられないといったことはあり、もっと本があってもいいはずだ。
■ま、なんにせよ、演劇と映画を比べたら、それを享受する者の絶対数が異なることにゆきつくのは演劇をやっている者としてたいへん悲しいけれど、それもまた、複製芸術じゃないという宿命か。しかも演劇は、演劇をやっている者の数ばかり多い印象があるのだ。観客の半分以上は演劇をやっている者だという気がし、いかがなものかと思いつつ、まあ、それはそれでいいじゃないか。極端なことを書けば、演劇では誰もが俳優になれる。
■外からもどって家に帰り、少し薄暗い部屋でぼんやりしていた。だけど、そうしていると、なにかをしなくちゃならない(もちろん書かなくちゃならない原稿はあるが)という気持ちにさせられるのがどうもいけない。音楽も聴かず、本も読まず、テレビもつけず、ぼんやりしている時間があってもいいはずだし、その「ぼんやり」のあいだ、人はなにかを考えているのだと思う。人ってのは、そもそもが、この「ぼんやりなにかを考えている時間」が大半を占めていた生き物ではないか。「退屈」という言葉はいつごろの誰が思いついたのだろう。人間は退屈じゃいけないことになっているし、ぼんやりしているとだめな人間だと、まず自分がそう考える。「生産」をしなくちゃ生きていけなかったので働いたが、必要なぶんだけ働いたら、あとはぼんやりしていたはずだ。星を見ながら宇宙について考えていたのではないか。火が燃えるのを見て時間について考えていたこともあっただろう。川の流れる音を聞いて死について考えていたと思う。おそらく芸術は、そのとき人をぼんやりさせるに値する、「星」や「火」や、「川の音」であればいいのかもしれない。私自身がぼんやりしていたいので、ぼんやりさせるのにふさわしいものを作りたい。そんなことを、薄暗い部屋のなかで、ぼんやり考えていた。
(12:45 may.8 2005)
■ブルース・マクルアさんが、自身のことを「映像作家ではなく、映写技師と呼んでほしい」と言っていたのが興味深かった。会場に入ると4台の16ミリ映写機が客席の後方、目立った場所に据えられている。プログラムでは、14分が三本、20分が一本という尺の4本の短編が上映されるということだったが、短編が上映されるあいまの休憩中に「作家」ではない「技師」は映写機を調整しており、スクリーンには調整中の映像が映しだされる。多いときで4台、少なくて2台の映写機の映像を組み合わせることで作られた映像が上映される。あとになって気がつくのは休憩中の準備も含めて、はじめて90分の作品になっていることだ。映像作品は複製芸術ときのう書いたが、このブルース・マクルアの作品は、本人がいなければ成立しないし、たとえばDVDにして複製してもなんの意味もない。なるほどなあ。これは16ミリ映写機を使ったパフォーマンスだ。4本の短編中、1本がサイレントということになっていたが、ずっと映写機のかたかた鳴る音がし、サイレントなんかではなくそれが音響として効果になっていた。では、短編の内容はといえば、光がちかちかしたり、模様が様々に変化するだけのもので、上映されているあいだずっと、私はぼんやり考えごとをしていた。いろいろなことを考える。どうでもいいことをずっと考えていた。
■テオ・アンゲロプロスの最新作、『エレニの旅』を観たときも、やっぱりぼんやり考えごとをしていたような気がする。もちろん映画はすごくよかったんだけど、テオ・アンゲロプロスには、人をぼんやりさせる力がある。で、美しい映像にうっとりし、ぼんやりしていたから、あれ、いつエレニに子どもができたんだよとか、わからないことだらけだ。それでも二時間五〇分がべつに長いとも思わず、むしろもっと観ていたかった。短いとすら感じ、物足りなさが残ったくらいだ。
■今年の一月、『トーキョー/不在/ハムレット』を京都で上演した翌日、大学(京都造形芸術大学)の卒業制作を観たのは、かつて僕の家にも遊びに来たY君の作品だった。それで書こうと思ってずっと忘れていたのは作品の感想だけではなく、終演後のアフタートークでのことだ。僕も呼ばれてアフタートークに参加。演劇作品だが、途中、映像も使われている。映像を作ったM君がコンセプトを話す。演出のY君から「あとの祭り感をだしてほしい」と指示されたという意味の発言をM君はした。「あとの祭り感」てなんだと思った瞬間、Y君が、M君に向かって言った。「ばか、祭りのあとだよ」。あれ、笑ったなあ。「あとの祭り」と、「祭りのあと」の、語感は似ているが意味のちがい。M君は人前で話すことで緊張していたのだろうが、それにしたって、間違うか、これ。
■「文學界」の最新号で、高橋源一郎さんが取り上げていたのは(連載「ニッポンの文学」第六回)、猫田道子という作家の『うわさのベーコン』だが、ものすごい量の引用が『うわさのベーコン』からされており、しかし、文脈上、引用しないとならなかったのだろうと思われる。一部で話題になっていたらしいが、僕はこの『うわさのベーコン』についてまったく知らなかった。ものすごいよこれは。はじめ高橋さんの創作かと思ったくらいだ。どうやらちがうらしい。なにがすごいかというと、誤字脱字をはじめ、あらゆるまちがいをおかしていることだが、だからこその面白さだ。それがある文学賞の最終候補に残ったという。それは編集者が意図して選んだのか、そもそも、作者がこのあらゆる種類のまちがいを意図してやったのか、読んでいるとそうした企みすら感じ、めまいがしてくる。
■だが、意図して「まちがいをする」のはかなりむつかしいだろうと思われる。「意図」はすぐにばれるし、よほど巧くやらないと気持ちが悪いだけだ。映像にしろ、文学にしろ、演劇にしても、「実験」というやつは、たいていの場合、この「意図されたまちがい」だ。いかにして「巧みな意図されたまちがいをおかすか」だ。先述したY君の卒業制作の舞台は、登場人物がけっして向かい合って会話をしないという「意図したまちがい」を表現しようとしていた。登場人物がみな、観客席に向かって話す。どんな対話も向かい合わず、俳優はもっぱら、観客席に語りかける。この「思いつき」に興味を持ったが、それが表現にまで高まっているかどうかが問われるのだと思った。つまり、いかに巧みに、「意図されたまちがいをおかすか」。そして先にあげた高橋源一郎さんの文章で、次の一節が印象に残った。
『うわさのベーコン』は、文学ではありません。
なぜなら、それは、文学が使っている、あらゆる「規則」に逆らうからです。とはいえ、それは、自覚的な「反抗」でもありません。「規則」への「反抗」は、いつか新たな「規則」を創出しようとします。つまり、「文学」に反対する運動は、それ自体、もう一つの「文学」への胎動なのです。
正直、これを読むと、高橋さんがしばしば書いている太宰治の「トカトントン」が聞こえてきそうな気もしたが、でもやっぱりそうなんだと首肯する。だとするなら大事なのは、というか、いま有効なのは、「規則」に自覚的になって、あらためて「規則」にのっとる方法ではないか。高橋さんは引用した部分の少し前で、多くの文学が「規則」があることを知らず、「規則」にそって書いていながらそうではないと思いこんでいるとも記している。おそらく多くの文学が「文学ってのは、こうしたもんだろ」とばかりに書かれているのだろう。なんにせよ、「自覚的」であることだ。最初に書いたブルース・マクルアの作品がすぐれているのは、あとになってようやく、これが単なる短編を集めた上映会ではなく、休憩中の映写機の調整を含めた90分の作品だと理解できることで、そこに、きわめてチャーミングな企みがあるからだ。「チャーミングな企み」という言葉が適切かどうかわからないが、ここまで書いたことをすべてまとめ、総合的に考えるに、やはり大事なのは、「チャーミングな企み」なのだろうと、また、ぼんやり考えていた。
(11:55 may.9 2005)
■夕方、外の光がうっすらとしてくる時間になって、やけに眠いので少し睡眠をとる。目を覚ましたのは、たしか、夜の八時少し前だったと思う。炒れてから時間が経ち、ぐったりしたような味のコーヒーを飲んでぼんやりしていた。で、今週の予定を考えていたら、松倉と約束していた映画(『タカダワタル的』)を見るのはきょうしかないと思い、すぐに電話する。仙台に実家があり京都の大学に通っていたという友だち(僕の教え子でもあるTさん)が来ているとのことで、じゃあ、一緒に映画を見ようということになった。開映は夜の9時15分だ。少し慌てる。
■吉祥寺のバウスシアターに到着したときにはまだ開場の少し前だった。松倉と大学時代の友だちTさんが劇場の前で待っていてくれた。徐々に人が集まってくる。年齢層が高い。考えてみれば、少子化の影響もあり日本の年齢別の割合を考えれば、あらゆる場所で年齢層が高いのがふつうである。だから大学に行くと若い者がやけに多いのでびっくりする。って、驚くほうがどうかしているが。『タカダワタル的』は音楽映画としてすごく面白かった。町をぶらぶら歩いたり、犬をなぜたり、吉祥寺の「いせや」にいる高田さんと、ステージで歌う高田さんのちがいがすごい。もし、あの町を歩く高田さんと通りですれちがい、なにかのはずみで声をかけられたら、まいったなあ、おかしな人に声をかけられちゃったと人は思うのではないか。俳優の柄本明さんが高田さんについて語る。「欲がないわけじゃない。欲の場所が(ふつうの人と)ちがう」。死ぬまで15アンペアしかない家賃五万円のアパートに住んでいたという。でも、あんだけ酒を飲んでたんだから、酒代はすごかったのではないか。家賃以上に飲んでいたような気がする。いや、べつに酒を飲む「欲」しかなかったというわけではなく、生き方の問題として「欲の場所がちがう」ということだろう。見終わってから、松倉もTさんも、短かったねと言っていた。上映時間一時間。ナレーションなどの説明がほとんどない映画は、高田渡の言動を見せることで、その輪郭を表現してゆく。作り手に感心した。
■その後、買ったばかりだという松倉のギターを聞かせてもらおうと、バウスシアターからもさほど遠くない松倉の二畳半のアパートに行く。おどろくほど味のある古いアパートだった。しかも、二畳半はほんとうに狭い。Tさんが仙台から買ってきてくれた牛タンを焼いたが、とても美味しいので、大人げないと思ったがほとんど僕が食べた。松倉は少しギターが弾けるようになっていた。それで歌う。この人も、ふだんの子どものような話し方と歌がまたひどくちがう。あと、聞かせてもらったのは松倉が作ったという歌の録音で、いい歌だったがそれ以上に驚いたのは、東京に来るたび松倉のバックでギターを弾いてくれた田中君だ。まず、京都にいた松倉が、鼻歌のようなものをMDに録音して田中君のところに送ったという。で、田中君がアレンジしてギターをつけミックス。しっかりした音楽になっている。知らずに聴いたら同時に録音したとしか思えない仕上がりだ。あるいは、ふつうだったら逆だろう。ギターの伴奏があってそれに歌をかぶせるのではないか。田中君、見事。なにしろ、MDに録音された歌しかないわけでしょ。譜もなんにもないところから、これを作った。驚いたなどうも。
(15:19 may.10 2005)
■むかし「ヤング720」というテレビ番組があったことを知っている人はどれだけいるだろう。僕が小学生のころの話だ。「ヤング720」と表記して、「ヤング・セブンツーオー」と声にするが、いま考えるとものすごく無謀なテレビ番組で朝の七時二〇分からはじまる若者向けの、いまだったら、深夜にやっているようなプログラムだった。当時で言うなら「アングラ」、いまだったら、「インディーズ」とでも書くべきバンドやミュージシャンが、朝っぱらからテレビに出ていたのだ。小学生だった僕が大嫌いな「ロッテ歌のアルバム」とか、そういった歌番組が主流の時代である。一般的には歌謡曲しかなかったようなころだ。
■どういう時代だったんだ。おそらく六〇年代の末だと思うが、学校に行く前の高校生らをターゲットにしたのだろう。いまでは考えられないようなテレビ番組で僕もかすかな記憶しかない。で、このあいだ、早川義男さんのことを書いたが、その後、よくメールをくれるCD屋のK君から早川さんについてまたメールをもらったので、ネットで調べたのだった。もちろんジャックス(ソロになる前に早川さんが率いていたバンド)の名前は知っていたが、早川さんもジャックスもほとんど聴いたことがない。ネットを徘徊するうち、「ヤング720」の音源があることを発見。驚いた。ジャックスをはじめ、当時、そこに出演していた人たちの音(高田渡さんの「三億円事件」を題材した歌など)が聴ける。ほんとうにびっくりした。
■ちょっとした用事があって小田急線の経堂に行く。経堂に来たのならと、「はるばる亭」でラーメンを食べようと思ったが満員だった。カウンターしかない店だ。みんなお酒を飲んでおり、待っていてもいっこうに席が空く様子がないのでなにかべつのものを食べようとあたりを歩いた。本屋に入って探しもの。それから古本屋ものぞく。二冊ほど本を買う。かつて豪徳寺に住んでいたころよく経堂には来ていたが、小田急線の高架化で、駅前はすっかり変わっている。踏切はもちろんなくなって整備もかなり進んでいた。まだできたばかりだと思われるラーメン屋があり、「はるばる亭」にはきっとかなわないだろうけれど、まあ、そこそこいけるだろうと思って入ったら、残念な結果になった。がっかりするような味だった。ラーメンに固執したのがいけない。もっとべつのものを食べればよかった。
■おかげで私はひどく気分が低調になってしまった。なにもする気になれなくなった。原稿を書かなくてはいけないのに家に戻ってもなにもしないで、やはりその夜、ぼんやりしてしまった。食べ物だけでなんでこんなに低調になるかわからないが、人の気分を低調にさせるものはほかにもまだ数多くあると思われ、うっかりしていると人は、残念なことになるのだ。逆に言うと、たとえば電車の乗り継ぎがやけにうまくいった程度のことで気分がいいときもある。ぼくはわりと、幸福な偶然を信じている。人から見たらどうだっていいような偶然に出会ったとき、とてもうれしい。そして、たいていのことは偶然なのだろうと思う。
(13:49 may.11 2005)
■毎晩、夜通し起きていて、僕は何にもしてやしないのです。
■授業中に携帯電話に着信が何本か。時計を持っていなかったので携帯電話で時間を確認していたから切ることもできず、でも着信音がして学生には申し訳ないと思いつつ、出られない。そのうちのひとつは「ユリイカ」のYさんだった。原稿が書けない。授業が二コマある日だったが、午後の早い時間にすでに学校に行き、文芸専修の授業で使っている教室が空いている時間を見計らって、教室にあるAV機器のチェックをした。コンピュータから音が流せるかどうか試す。うまく音も映像も出る。これをうまく使って授業をしようと考えるのが楽しい。その後、神保町へ。ネットで注文した本を直接、受け取りにゆく。時間が余ると思っていたが、道に迷ったりしているうちぎりぎりに大学に着いた。授業。
■一日に二種類の目薬を四度もささなくてはいけない日々を過ごしていた。忙しかった。とても忙しかったが、きのう一週間ほど前に書いた新宿の眼科医に行って診療してもらったところ、まったく問題がないと言われた。数日、右目だけぼやけていたがもういまは大丈夫だ。視力も確実に1・0以上あると思われる。それにしてもいまの眼科はすごいことになっている。視力を調べたり、眼圧を測定したりなど装置が驚くほど進化している。穴をのぞくと遠くのほうに気球があってそれに焦点を合わせる機器があったが、あれがわからない。なにを調べているのだ。その病院では待合室のソファからその機器を使っているのが反対側(つまり調べている人の側)から見えたが、ディスプレイのようなものに瞳が拡大されているのがわかった。で、だからそれで、どういうことになるのだろう。仕組みがわかっても意味はわからない。
■原稿を書こうとしてまたいつものように苦しむ。それからあしたの授業の準備。あした桑原茂一さんが演出する舞台が銀座であって誘われているものの、このぶんではいけそうにない。悩む。そういえば、前回書いた「ヤング720」だが、あれは生放送だったわけで、よく考えると、ミュージシャンたちがよく早朝からテレビ局に行ったものだとひどく奇妙だ。
(3:59 may.13 2005)
■授業ですっかり疲れてしまった金曜日は、結局、桑原茂一さんの舞台を見にゆくことができなかった。「ユリイカ」の原稿のことも頭から離れなかったし、一日、ひとつ以上のことはできないとつくづく思った。体力の問題だなこれは。
■で、きょう(土曜日)、また早稲田へ。九月にある「演劇ワークショップ」(といっても、通常やっている「演劇ワークショップ」の授業とはまた異なる九月の二週間の集中講義にあたる)の発表公演の、「学生への説明会」のようなものがあり、そのあと、担当なさっている教員の古井戸さんや、助手のPさん、TA(学生のアシスタント、またはOBもいる)の人たちと軽い打ち合わせをする。僕は、演出をすることになるが、まだ具体的にはなにも考えていない。通常の公演ではできないことをしようと思う。まあ、二週間で作らなければならない限界はあるが、そもそも二週間で作るというのもある種の実験のような気もする。まあ、だいたい舞台の稽古に関して、なぜある決まった時間が必要かといった法則も、単に慣例にすぎないのではないか。たいした根拠があるとは思えない。
■どんな舞台になるかわからないし、拙いところもあるかもしれないが、もし機会があったら観に来てもらいたい。詳しいことがはっきりしたら、またここで情報を流します。というわけで私は、原稿を書かなくてはいけない。短いがきょうはここまで。ほんとは、茂一さんの舞台を観て、それから茂一さんと知り合ったころのこと、原宿にあった「ピテカン」というクラブと、そこで会ったミュージシャンをはじめとする様々な人たち(そのなかに桜井圭介君もいる)のことや、八〇年代の話も書きたかったし、そうした八〇年代のクラブにおける文化がどう変遷していったか、私はそうした文化からなにを覚え、なにを学んだか(学ばなかったか)、そして、いま、自分の立ち位置をはっきりさせるために、この二〇年ばかりの変化を論じたかったが、それはまたいつか。
(2:52 may.15 2005)
May.15 sun. 「あ、そうか、と気がついたこと」 |
■締め切りは16日(月)の午前中いっぱいになっているが、まだ少ししか書けていなのに、もうこんな時間だ。一日、原稿を書いていた。で、キーを叩くのが止まると、ぼんやりまた考え事をしていたのは最近の「劇」の傾向として、「性的なものをあからさまに表現する」というのがあり、あれがどういったことになっているか考えていた。たとえば、人間観として松尾スズキの影響、あるいは、愛憎劇の方法としての岩松了の影響は表現のレベルであるとは思うものの、それら全体の背景に、「女性の性に対する感覚の変容」があるのではないかと思った。有り体に書きますと、かつてならそこまで性的な「劇」をあからさまにやったら女性客が引くといったことがあったが、そうではなくなったという事情がある。むしろ、求められているのかもしれない。そうした表層だけではなく、もっと深いところで「性に対する意識」の変化は複雑になっており、「いま」を描くにあたって、「ドラマツルギー」まで掘り下げたところで議論するべき問題のように思える。
■といったことをもっと書きたいが、いまは「チェーホフを読む」だ。「性によるドラマツルギーのまた異なる変容の地平」といった論考をどこかに発表したいくらいだが、いまは目の前の原稿である。書けない。ユリイカのYさんには16日午前中と約束したが、これは無理ではないかと思いつつ、さらに書く。
(3:27 may.16 2005)
「富士日記2」二〇〇五年四月後半はこちら →
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