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Published: Feb. 4, 2005
Updated: Feb. 19 2006
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仕事の御用命は永井まで ライブ・ノーメディア告知
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Feb.15 wed.  「あたたかい日だったらしい」

■まだ書いている。まだ終わらない。ただただ書いている。テレビをつけるとオリンピックだ。まあ、ほかにもさまざまなテレビ番組があるのだろうが、やっぱりスポーツがいい。あとは、本を少し読むが、原稿のことがあって、どうも集中しない。ところで、オリンピックの男子スケート500メートルで優勝したのは、アメリカのジョーイ・チークだが、優勝後のコメントがすばらしかった。朝日新聞から引用させてもらいました。
スケートは楽しいし、愛している。だが正直なところ、少し馬鹿げているように思う。タイツをはいて氷の上を滑り回るために、生涯を費やすなんて。
 なんという、客観性をもった人だろう。彼の言わんとする真意はまたべつのところにあると思うが、たしかに、あのコスチュームはおかしいよ。ぴちぴちである。ぴちぴちのタイツを履いて、氷の上を必死の思いで走っているのだ。こうした客観性を持った人はあんがい勝負に弱いものだが、金メダル取っちゃったんだから、文句のつけようがない。客観性をもてる人。自身もまた、対象化する姿勢がすばらしかった。
■読みたい記事があって、なんとなく買った「週刊朝日」の書評欄で、『チェーホフの戦争』(青土社)がとりあげられていた。単純にうれしい。きょうは、東京はやけにあたたかかった。静岡や千葉は、五月から初夏なみだという。だけど昼間は家を出ず、そのあたたかさを感じることができなかった。この苦しみはどこまでつづくのか。

(3:25 Feb.16 2006)


Feb.14 tue.  「意味のわからない夢を見た」

■「よりみちパンセ」の原稿の筆がぴたりと止まり、まったく書けなくなった。いろいろ仕事の依頼が来るのだが、いまはなにも考えられない。メールの返事が遅れる。このあとも、原稿の締め切りがどんどんつづく。戯曲もまた書く。稽古も四月からはじまる。
■そんな午後、家を出るととてもあたたかい。駒場まで行って、成績表を提出した。これで駒場の仕事もつつがなく終わる。あんまりに、「よりみちパンセ」が書けないので、夕方、いったん眠ったが奇妙な夢で目が覚めたのは、もう遅い時間になっていた。そのいやな夢は、矢内原美邦ら、ニブロールの連中がやってきて、うちのトイレの内装に自分たちの撮った写真作品を壁紙のように貼って去ってゆくというものだった。わーっとやってきて、わーっと去ってゆく。意味がわからない夢。まあ、たいてい、夢は意味がわからないが。気晴らしにクルマで外へ出たのはもう夜だ。ガソリンを入れてから、表参道へゆく。もう午後十時過ぎの、表参道ヒルズはあまり人がいなかった。六本木ヒルズよりずっと、こっちのほうが落ち着いた建築だ。なにより低層なので威圧感がなくていいよ。地下に店舗は広がっている。うまく空間ができている。なるほどなあ、安藤忠雄。過去の同潤会アパートと同じデザインの棟がいくつかある。ぐるっとあたりを歩いて建築散策。それにしても、表参道から、南青山に抜けるこの道沿いには、いろいろなブランドがだーっと並んで、ただごとならないことになっている。とんでもない商業建築がつづく。
■で、「よりみちパンセ」の話に戻ると、最初の予定では「第五章」までではなかったかと、打越さんからメールが届いたが、どう考えてもあと「一章分」を書いたところで力つきると思われる。時間もないし。仕方がないので(いや、もちろん仕事だが)、岸田戯曲賞の「選評」と、「一冊の本」の原稿を書きあげる。そのあと、「あとがき」を書いていた。この「あとがき」の分量が、どんどん増えてゆく。いま十二枚まで書いたが、まだ書けるような気がする。あとは、僕の予定では「第三章」がある。「立つ」という、わりと僕の得意技の分野なわけだが、これまで書いてきたことと、またちがうことを書こうと思って苦労しているのだ。第一章が「見る」だ。第二章が「すう、はく」、で、第三章が「たつ」。そして、第四章は、「ふれる」になる。ここで、打越さんとの最初の打ち合わせではたしかに、第五章として「いる」があったし、打越さんはメールに、「いる」を読みたいと書いていた。そこで考えたのは、第三章を「立つ、そして、いる」にしようという案。いま思いついた。それでも書けない。書けないとなると、ぜんぜんだめだ。

■このあいだ、川村毅さんの舞台で、アフタートークをした話はすでに書いた。そのとき、僕の『鵺
/NUE』の話になり、「新宿」が『鵺/NUE』ではひとつのキーワードになっているが、川村さんが、「宮沢さんは、新宿というより、渋谷でしょう」と言った。たしかに僕の過去の仕事、それは演劇だけではなく、いろいろな仕事からすると「渋谷」と言われる部分は大きいが、それはいわば、「大人になってから身につけた教養」のような気がする。だが、一九七五年に東京に出てきたとき、まず最初に足を踏み入れたのは新宿だったし、七五年当時は、田舎から来た者がまず行くのはあきらかに新宿だったはずだ。
■早稲田の一文の学生に向けた「演劇ワークショップ」の授業の後期、エチュードを作るにあたって、「新宿」をテーマにした。まずグループをわけをし、記憶だけをたよりに「新宿」の地図を描かせたが、それで驚いたのは、彼らの「新宿」の多くが、「南口」だったことだ。これは意外だった。なにしろ、新宿といったら「東口」しか僕には思いつかなかったのだ。紀伊國屋書店や、伊勢丹デパートや映画館、そして歌舞伎町の混沌が存在する「東口」こそが、新宿じゃないか。それで思ったのは、なんだかんだするうち、この二〇年近く仕事をして、「新宿」と「渋谷」のあいだをうろうろしていたが、いま僕は、「新宿南口あたり」ではないかということだ。このことは、『鵺
/NUE』を推敲するにあたっても考えるにあたいする。
■いや、まずは、目の前の原稿だな。締め切りは迫っているがぜんぜんだめだ。でもって、今度の日曜日(19日)は「
LIVE! no media 2006」だ(詳しくはこちらへ)。友部正人さんの日記でも最新情報が書かれています。なにを読もうかな。緊張するなあ。でも、とても楽しみだ。

(15:15 Feb.15 2006)


Feb.13 mon.  「まだ仕事は終わらない」

■ずっと原稿を書いている。まだ書いている。
■先週の金曜日(10日)、そして、土曜日(11日)と、「『資本論』も読む」の取材を立て続けに受けた。「日刊ゲンダイ」「編集会議」「ダカーポ」。「編集会議」の取材は仕事場の写真を撮りつつ話をするというもので、自宅の仕事場で、部屋のなかやら、小物やら、いろいろな写真を撮ってもらった。横浜のホテルニューグランドをチェックアウトしたのは木曜日(9日)だったが、取材のあいまをぬって「よりみちパンセ」の原稿を書いていた。そして、日曜日(12日)は、まず、世田谷パブリックシアターで、『鵺
/NUE』の打ち合わせ。終わってすぐに川村毅さんの舞台、『フクロウの賭け』をトラムで観る。その後、川村さんとアフタートークだ。川村さんの書いたものとしては、これまでとはまた異なる種類の舞台だった。きわめてストレートなドラマだが、そこはやはり、川村さんらしさを感じる劇の作りだ。面白かった。それと、もっとねちっこく芝居を作ったらまたちがう緊張感を生んだのだろうかと観た直後はそれが印象としてあったが、しかし、その、乾いた演技がこの舞台のねらいなのかと、あとになって考えた。それを終え、出演していた手塚とおる君と軽く話しをして、僕は急ぎ、新宿へ。去年の秋、早稲田でやった「演劇ワークショップ」の授業の公演の反省会だ。そのときTA(ティーチング・アシスタント)をやっていた学生やOBらと、新宿の飲み屋で深夜までいろいろ話しをする。今年の九月にまたその公演があるので、いくつか新たなプランをたてる。
■家に戻ってまた原稿を書く。朝まで。全四章というプランで書いてきた、「よりみちパンセ」だが、その三章分と「序文」、それと「あとがき」を少し。すでに予定の百枚は越えて、予想していたより枚数が多くなりそうだ。で、きょうの午後(13日)、打越さんにメールで原稿を送った。そのあと、駒場の授業の成績をつける。立て続けに仕事だ。まだ「よりみちパンセ」は終わっていない。ほかの原稿もまだあるのだな。だが、「よりみちパンセ」を書きながら、これまでとはまったく異なる種類の仕事をしている気がして、それがおもしろい。書いているうちに気づくこともある。テレビをつけるとオリンピックだ。冬季のオリンピックはなんだか釈然としないな。五大陸を象徴する例のマークをやっぱりオリンピックだから使っているが、どうなんだ、それは。あと、スポーツもどう考えたって金がかかり、金のある国が強い。どうなんでしょうか。そんなことを考えつつ、また原稿を書く。

(2:07 Feb.14 2006)


Feb.8 wed.  「いまいるホテルはすごくいい」

■資料と思って持参した竹内敏晴さんの本を読んでいたら、つい読みこんでしまう。やっぱり面白いなあ。それでぐんぐん進んでいた筆がぴたっと止まったものの、やがて、おずおずと書きはじめる。もうひとつうまく乗れない。それにしても、いま宿泊しているホテルは、とてもいい。古くて趣のある建築だ。まあ、新しく建てられた高層階のほうはいかにも現代的だが、旧館のほうもすごくいい。新しい建築から受けるのとはまた異なる贅沢さを味わえる。
■まあ、それはそれとして、原稿を書くのである。なぜならホテルの趣を楽しみに来たのではなく、原稿を書くためにここにこもっているからだ。でも、建築を勉強しはじめた学生のころ、東京に出てきて、贅沢な空間に身を浸すことこそ、なにより勉強だと感じたのを思い出すのだ。単純な話、映画館がちがった。田舎の映画館とはぜんぜんちがうことに驚かされたのは、たとえばいまはなき、テアトル東京の、あの空間に出会ったからだろう。なんだこれはと思ったのだ。しかも床はカーペットだったし。そんなものは田舎になかった。さらに外国に行けば、また異なる空間と出会う。もちろん文化のちがう世界との遭遇って話なんだろうけど、単純に、やたら天井の高い部屋に入っただけで、いったいこの空間はなんだろうと不可解になる。
■かといって日本建築がだめなのではない。贅をつくした日本建築の美しさはある。歴史のある建築もそうだが、吉田五十八の遺した数寄屋建築もすごいと思う。それはまたべつの空間の美しさだ。西洋建築のディテールももちろんいいけど、日本の木造建築における、職人さんの技を見るにつけ、よくそんなこと思いついたなあと感動すらするときがある。釘を一本も使わず木を組み合わせるだけで作られた建具なんかもう、なにかのトリックかと思うのだ。そしてきわめて美しい。でもまあ、そんなこともどうでもいいのだった。いまは原稿を書くことである。打越さんからは、ホテルで全部、書こうとするのではなく、弾みをつけてくれればいいと言われてはいるものの、でも、せっかくだからこの機会にもっと書いておかなければ。やはりホテルは落ち着く。落ち着きすぎて、ぼんやり演劇のこととか、人そのもののこととか、様々に考えてしまい、その時間が長いのはどうなんだ。仕事はまだ先がつまっているからな。

■また原稿を書く。演劇がテーマなので「演劇」について考えているが、あれは青山真治さんが僕の文庫の解説に書いてくれたのだったか、僕が演劇について語るとき、専門家であるはずなのに、あたかも、門外漢かのように書くとあって、言いあてられた気持ちになった。それが僕の基本姿勢のような気がする。外側に立っている。中を覗いて疑問を語る。内部には僕自身もいるのだが、それをも含めて対象化せずにはいられない。なにしろ、いま書いている「よりみちパンセ」の序文の書き出しは、「はじめにことわっておきますが、演劇はとても怖いものです」だ。人を怖がらせてどうするつもりだ。でも、怖いよお、演劇。いま、すぐそこで、大きな声を出したり、人が殴り合ったり、ひっくりかえったりする。怖くてたまらない。あ、あと、ほかにも『鵺
/NUE』の感想をメールでもらったが、それはまた次の機会に紹介しよう。

(9:55 Feb.9 2006)


Feb.7 tue.  「筆が進む」

■意外に原稿が進んだ一日である。で、きのうここに、『ウィリアムス・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』(白水社)を持ってくるのを忘れたと書いたら、なんと白水社のW君から、アドヴァイスのメールが。ありがたい。「よりみちパンセ」の僕の担当する巻は、実践的な演劇の本というより、「演劇知」というものを使って、ものの見方とか、人との関係の作り方など書くのがテーマなので、逆に言うと、なにをどう引用してもいいようなものだ。それでもやはり、演劇について僕が知っている二、三の事柄はきちっと伝えたいと思う。
■フォーサイスで思い出したが、世田谷パブリックシアターで、フォーサイスとフランクフルト舞踊団のダンス公演があったとき、印象に残ったのが、ギャヴィン・ブライヤーズの『神はけっして私を見捨てない』という音楽だった。それを映画の中で使っているのが、青山真治さんの『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』だ。そのシーンに出ている杉山君がこのあいだのリーディング公演『鵺
/NUE』を観に来てくれたので、「なんで、きみのシーンであの音楽なんだ、よすぎるじゃないか」と言ったのだった。でも、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』は「神は私を見捨てた」といった意味だから、きわめてアイロニカルにあの音楽はかかることになり、そこで杉山君が登場というのはいいことなのかもしれない。そのとき、長編映画は観られないと以前話していた早稲田のSが、「エリエリ」をちゃんと観られたといい、映画を観てはじめてかっこいいと思ったという。時間ができたら、僕ももう一度、観に行きたい。
■夕方、ホテルから歩いてすぐの横浜中華街に行った。喰ったなあ。苦しくなるほど喰った。でも、これだけ店があるとどこが美味しいのかよくわからない。ちゃんと誰かから情報を仕入れておくべきだった。それからまた原稿を進める。少し胃が重い。食べ過ぎた。ものには限度というものがあるな。まとまったところまでの原稿を、打越さんにメールで送った。ようやく四分の一ぐらいか。現代美術の入門書で、とてもわかりやすく、それでいて深い読み応えのある本に、『少年アート ぼくの体当り現代美術』(中村信夫・弓立社)がある。ああいったものが書けたらと思うのだ。あれを読んだのはもう20年くらい前だったろうか。

■筆がだいぶ進んでほっとしている。これも、家から椅子を持ってきたのが大きい。しかもホテルは静かだ。淡々と、なににも邪魔されずに書いている。

(10:22 Feb.8 2006)


Feb.6 mon.  「横浜にて」

■いま横浜のホテルである。
■静かな部屋。ほとんど外音がしない。考えるにはうってつけだ。で、「よりみちパンセ」の原稿を書く。ところが驚くほど書けない。今回は、もしあの資料が手元にあったらと後悔しないように、手がかりになりそうな本を30冊以上持ってきたし(といまこれを書きながら、『ウィリアムス・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』を持ってくるのを忘れたのに気がついた)、さらに、いつも使っている椅子をホテルに持参するという念の入り用だ。もうこうなると家にいる感じである。ある意味(つまりいい意味で)、「いいかげんな気持ち」で書けばいいんだと言い聞かせるが、そういうことができないわけですね。なんとか、いい本にしたい。時間に耐えるものを書きたいと思う。それがいけないかもしれないが、少しずつ手がかりは見つかり、ぽつりぽつりと書いている。これをどう、演劇へ、からだの問題へ、あるいは、演劇を通じて人との関係のことへと結びつけるかうまくアイデアが浮かばない。思いつけばきっと、だーっと書けると思う。うなりながらホテルの部屋で苦しむ。風邪はもう、ほとんど治ったというのに。
■そう、きょうの午前中は、早稲田まで成績表を出しに行った。そろそろ入学試験がはじまるというので様子が少しいつもと違った。もちろん学生の姿はほとんどない。いったん家に戻って準備をし、第三京浜で横浜に来た。ホテルに着いてさらに驚いたのはすごくいいホテルだからだ。で、書けないあいだ、『鵺
/NUE』の感想をさらにもらってそれを読んだり、東大の学生に課題として出したレポート、「八〇年代が現在にもたらしたもの」を読んでいるが、示唆的な意見が多くていろいろ刺激される。面白い。駒場の授業をまとめて本にするときのヒントになりそうだ。でも、そんなことで感心している場合ではないな。とにかく、「よりみちパンセ」。でも、そもそもが、「よりみち」である。出発が「よりみち」なんだからしょうがない。

■日曜日(5日)は大学の成績をつける仕事をし、それ以外はほぼ眠っていた。そのときは風邪がまだ完治しておらず、薬を飲んでいたせいか、それとも熱がまだひかないせいかからだがひどくだるかった。眠ったなあ。すごく眠った。やはり風邪には休息がいちばん大事なのだろう。
■『鵺
/NUE』のリーディング公演の感想も書いてくれた白水社のW君から教えられた本に、『嫌オタク流』(太田出版)がある。話を聞くだけでもかなり興味深い。『鵺/NUE』のドラマとからめつつ、次のようにあった。
 煙草も、新宿も、社会システムにおける、一種の「ノイズ」の象徴だと思うのですが、先日、『嫌オタク流』(太田出版)という本を読んでいて、「オタクはノイズを排除したがる」「オタクは不条理を許さない」「オタクはパンクが嫌い」ということがわかり、なるほどなあと思ったのでした。
 がぜん興味がわいた。ぜひ読んでみなければな。これは「八〇年代論」とも関係しそうだ。「ノイジー」なものが排除される社会を形成する要素には連中のメンタリティーが大きく関係していたのか。駒場の学生のレポートのなかに(高橋源一郎さんも指摘していたそうだが)、「電車男」における、(ネットにはあったはずの)セックス描写の排除について論じていたものがあった。それもまたノイジーなものとして排除されたのか。
 あるいは、以前、僕の演出助手をしていた相馬は、「引用」について次のような、いま相馬が問題意識を持っている事柄とからめて書いてくれた。
「主体化」とは、他者への「従属化」にほかならないということを指摘してみせたのがフーコーです。言語という他者の秩序を内面化することでしか、そして、権力による「お前は何者か」という呼びかけに応えることでしか、われわれは「主体」になることができません。その指摘はまっとうで重要なものながら、しかしその論理の帰結として、主体はすでにある構造を再生産することしかできないことになり、人は「革命的な主体」になることが(理論的に)できなくなってしまいます。この構造主義の隘路を抜け出すため、ジュディス・バトラーが導入したのが、「エイジェンシー(行為体)」という概念です。そしてその、バトラーの「エイジェンシー」概念で重要な役割を果たすのが「引用」という概念です。
 それで、さらに上野千鶴子さんの著作から次の言葉を引いている。
 言語実践の生起する場であるエイジェンシーは、他者の言語を借りながら、自ら引用の場となる。ところで「引用」という行為は、たんなる反復ではない。一回性の行為としての言語実践の場では、引用はそのつど、「異本 version」を生産する。語呂合わせのようだが、再生産とは差異生産でもありうるのだ。この過程で生産される差異こそが、構造を攪乱し、変革する契機となる。この異本の効果は、意図的な場合も非意図的な場合もありうる。だからこそ、わたしたちは「他者の言語」への従属が、意図せずに抵抗となるような実践や、逆に意図的な抵抗が、構造の再生産に帰結してしまうような言説の政治の磁場に置かれるのである。(上野千鶴子『脱アイデンティティ』・「序章 脱アイデンティティの理論」)
 まったくこの通りだ。だからあれほど大量の「引用」によって『鵺
/NUE』は埋めつくされていたが、しかし、そもそも「オリジナリティ」という概念が怪しくなったのは、先に引いたフーコーの「主体化」への疑いにあるのと同様、すべての表現が過去の遺産を引き継いでいるのがまちがいないのであれば、「オリジナリティ」は表層的な仮構でしかないし、同時に、「オリジナリティ」という呪縛によって近代は表現者を抑圧する。いわば、「オリジナリティ」は資本が生み出した、資本拡大のための「差異」の商品化だ。つまり、「ここに新しいものがあります、さあ、買いましょう」というかけ声にしかならなくなってしまったのが、「隘路」というものだろう。だから、「反復と変奏」の時代は来るべくして来た。過去の戯曲の新たな解釈という名の上演(=非主体化=従属化)ではなく、またべつの方法があるとしたら、それが「引用」と、「引用のやり方」になる。で、そのことにいま、なんらかの意味のある課題を発見しなければ、「引用」もまた、形骸化したスタイルにしかならない。早稲田のSのメールには次のようにあった。
 宮沢さんが言った(*アフタートークで・引用者註)「過去の言葉に今の身体は耐えられるか」という問題は、とても興味深かったです。その意味でかなり実験的でなおかつ、超保守化してしまった「現代口語演劇」の硬直を暴くというか、告発する刺激に満ちていたと思います。
 平田オリザの「現代口語演劇」について僕はべつに否定的ではないし、むしろそれにかなり共感した。だが、やっぱり、平田オリザは一人いればよかった。「現代口語演劇」は、それが提唱されたとき(九〇年代半ば)には演劇を考える強い契機になったが、逆にある陥穽があって、それが「保守化」だ。「現代口語演劇」は「表現の保守化」にいたらせる危険性を伴うものだった。よほどの戦略がないと保守化する。チェルフィッチュの岡田君や、ポツドールの三浦君らはそこにべつの方法を見いだしたが、「現代口語演劇」に安住したとき、おのずとその言葉に見合う世界しか生み出せない矮小な表現を出現させてしまう。もちろん、「詩的な劇言語」はときとして、それを発する俳優、それを書いた作家がばかに見えることも多い。つまり、「よくもまあ、そんな恥ずかしい言葉を平気で口にできたなあ」という感想である。このあたりについての事情は、拙著『牛乳の作法』に所収した「なぜ死刑囚は短歌を作るか」を参考にしていただきたい。
 まあ、なんにせよ、考えていないとね。どうしたって保守化するよね。またべつの早稲田の学生のSは次のように書いてくれた。
「鵺」も清水邦夫さんの戯曲も知らないので、どこから引用で、どこからオリジナルか分からなかったですが、とにかく言葉に感動しました。今回、現代能楽集ということが前提にあって、能の「あの世」と地続きという世界観がありましたが、これは舞台の重要な要素で、生きている役者を幽霊として受け取れる、舞台表現の奥深さだと思いました。そして、舞台表現の可能性とその闘いを追い求めているからこそ、演劇論と戯曲を学ぶのだろうと思います。
 さらに「アカデミックであることは、保守でなく、闘いなんだと思」う、とあって授業をやったかいがあった気がしてうれしかったし、大学で教えることは僕にとって考えることなのだとあらためて確認できた。「アカデミックである」ことは「闘い」なのだな。大学で教えていて、なにも闘おうとしなかったら、研究者でもない僕にしたら、それこそ、ばかばかしい「権威主義」にしかならない。そういえば、W君のメールに、11月の『鵺
/NUE』本公演のときおそらく会場で販売されるパンフレットに、ある著名な演出家(作品のモデル)との対談がありますよねとあった。それ企画としてはかなり面白いが、そうとう勇気がいる。やったらかなり面白そうだけどさあ、でもねえ。

■こうして長いノートをつけているのも、べつに「よりみちパンセ」が書けないから逃避しているわけではけっしてないのだ。それを書くための準備である。だって考えるしかないじゃないか。考えつづけていないとだめだからな。

(9:36 Feb.7 2006)


Feb.5 sun.  「リーディング公演終了」

■また、きょうもお客さんが大勢入っていただきとても感謝した。われわれは昼に集合し、簡単なダメ出しをしたが、それを終えると私は、開演の直前まで冷えピタシートを額に貼って楽屋のソファで横になっていた。少し回復した気がする。開演。二回しかない公演だが、最後というと、どうしても俳優たちは力が入る。不思議だなあ。もちろん僕は稽古の段階から何度も見ているわけだが、それでいくつか、第一稿に手を入れるべき箇所がようやく見えてきた。リーディングをやってよかった。それと、やっぱり、その前に、「かながわ戯曲賞」「岸田戯曲賞」の選考や、学生が卒論として書いてきた戯曲を読むことで、かなり「戯曲」という表現の方法について意識的になっていたのも大きい。だから、なんかいい感じでここまで来たのである。まあ、たいへんでしたが。からだが衰弱しすっかり風邪をひいたし。
■また、何人もの知人が足を運んでくれた。ロビーで編集者の人たちと歓談。こういう時間はじつに楽しい。ただ風邪を伝染しやしないかと心配である。俳優の小田さんや、徳井君も来てくれた。じつは大杉蓮さんもいらしていたが、会えなかった。で、そのあとすぐ、八月にある、「かながわ戯曲賞」の受賞作のリーディング公演について、神奈川県の文化財団の方たちと打ち合わせ。で、話しているうちどんどん意識が朦朧とする。考えることができない。財団の方たちに迷惑をかけた。もう限界だと思っていたが、さらに次に、連載を依頼されている「サッカー批評」という雑誌の編集者と打ち合わせがある。だめだろうなあと思っていたが、驚くべきことにサッカーの話になったらとたんに元気になった。サッカーについて(もちろん専門家ではないから)、少し変わった視点からのエッセイを書きたいとアイデアをどんどん出す。話していたら楽しくてしょうがない。だが、そこでスイッチが切れる。ようやく仕事を終えて打ち上げまでの時間、また楽屋のソファで横になっていた。そのとき、制作の永井の携帯電話がべつのソファに置き忘れているのに気がついた。あとで渡そうと思いつつ、眼を閉じ、ぼんやりいろいろなことを考えていた。しばらくして、永井がドアを開けて入ってきた。「宮沢さん、眠ってました?」というが、眠った覚えはないので、いや起きてたよと応えると、「でも、さっき携帯を取りに来たとき、眠ってるみたいでした」という。永井が入ってきた記憶がない。驚いてそのソファを見ると、たしかに携帯電話がない。狐につままれたような気分だ。人間、意識していなくても眠っていることはあるものなのだな。
■打ち上げ。世田谷パブリックシアターの方たちともいろいろな話ができて面白かった。ただ、やはりからだがまだ本調子ではないので早めに帰ることにした。家に戻るとすぐに眠る。一段落ついた。すぐ次の仕事をしなければならない。ただ、『鵺
/NUE』のことばかり考えてしまう。たくさんの方から感想のメールをいただいた。感謝しています。白水社のW君のメールに、ある部分についてその整合性がおかしいという指摘があり、じつはそれ、僕も稽古のときからわかっていたのに、どう変更すればいいかわからない部分だった。つまり、「ヴィレッジヴァンガード」が、いまある本屋ではなく、かつてあったジャズ喫茶のことだと「黒ずくめの男」が語るが、なぜ、本屋のほうを黒ずくめの男が知っているかという問題。それであらためてそこを考える。などなど、思いついたことをノートにメモしておく。あしたは学生の成績をつける仕事だ。月曜日の午前中に大学に届け、それから横浜だ。

(6:52 Feb.5 2006)


Feb.3 fri.  「リーディング公演」

■まだ風邪が治っていなかったが午後からゲネプロがあるので家を早く出る。いくつか確認事項を稽古してから、ゲネの準備に入ったのは午後一時半ごろだっただろうか。ゲネには「現代能楽集シリーズ」の企画者でもある、野村萬斎さんが観に来た。舞台にも慣れ、俳優たちはゲネでは、だいぶ落ち着いてできていた印象。これなら大丈夫だろう。終わってから萬斎さんと少し話しをする。能の世界観を現代に置き換えるというのが、この企画の趣旨だが、いちばん気になっているのはそのこと。『鵺
/NUE』はそれに成功しているかどうか。萬斎さんにその肝心なところを訊きそびれた。三島由紀夫は『近代能楽集』の「あとがき」で、そこに治められている作品以外はうまく現代化できなかったという意味のことを書いている。置き換えられなかったのには、三島なりの、能の世界観を現代化する考え方や方法がおそらくあったとはいえ、「できない」となるとこれはことである。萬斎さんからは、すごく単純な「謡曲(=つまり能の台本ですね)」の解釈のまちがいを指摘された。
■ゲネのあと、ダメだし。もうあまり細かい指摘はない。しかも、これ以上稽古すると、俳優たちはどんどんせりふを覚える。どうなんだそれは。悩むのだが、ダメ出しを終わってから開演まで二時間以上あり、ぼーっと待っているときふと気がついたのは、動きをつけず、たとえば、机を囲むような形で、読み合わせをするのはどうかだ。つまり最初の「本読み」に戻るという方法。あらためて「読み」をやってみる。そこで言葉を確認する。「ただ読む」は、最後の確認としては意味があるのではないか。
■そして開演。午後七時。風邪をひいているせいか、僕には楽屋も劇場もひどく冷えた。それにしても驚いたのは、観客がいっぱいだったことだ。噂では、パブリックシアターがこれまで企画した数々の「リーディング公演」のなかでいちばん観客数が多かったという。僕も、リーディングでこれだけ観客が入るのは経験がない。ありがたかった。緊張するなというのが土台無理な話だが、何人か緊張している。せりふの読みまちがいもあった。ゲネのときのよさが消えてしまった部分もある。あるいは、ゲネのあとに確認したことでよくなっている部分もある。細かいことは、観客にはわからないだろうが、ただ観客は敏感だ。なにが間違っているかわからなくても、なにかおかしいとはきっと感じるはずだ。舞台は消えてしまう。そうした成果も失敗も、その場限り。そのとき、その瞬間にしか出現しない。

■世田谷パブリックシアターのMさんと、終演後にアフタートーク。風邪で熱はまだおさまっていなかったが、なんとか無事に話ができました。客席からも質問がいくつか出た。それから貴重な意見もいただけた。「第二稿」に反映させたいと思う。すべて終わって、ロビーで軽い乾杯。いろいろな人が観に来てくれた。アフタートークのとき客席に、早稲田の学生の姿も目に入り、気になってしょうがなかったが、何人かが残ってくれて乾杯に参加。いろいろ話しができた。ほかの人たちとも話しができてひとときのくつろぎ。家に戻って、また風邪薬などをがんがんに飲む。なにがなんでも直したい。そういえば、観に来てくれた、僕の舞台にもよく出ている笠木から、顆粒のユンケルをもらった。顆粒とドリンクはなにがちがうかわからないが、とにかく飲んでみる。いろいろ飲んで、もうからだのほうも、なにがなにやらわからず混乱したかもしれない。早めに就寝。

(9:40 Feb.4 2006)


Feb.2 thurs.  「風邪がひどくなっても、本番はすぐ」 ver.2

■熱のあるぽーっとした頭で、友部正人さんが企画するポエトリーリーディング「
LIVE! no media 2006草原編」のページを作った。なにをしているのやら。でも作りたかったんだ。作りたいという情熱はいたしかたがないのだ。
■風邪がひどくなった。ものすごく腹立たしい。ぼんやりした頭でリーディング公演の稽古に。そのあいだにどんどんひどくなっている気がする。で、問題になったのは今回の、『鵺
/NUE』が、かなり清水邦夫さんの戯曲を引用していることだった。しかも、引用しているだけならまだしも、ばらばらにし、あるいは、僕が手を入れて改ざんしている部分もある。パブリックシアターの制作の方たちと話し合い。はじめ僕の構想では、いろいろな過去の時代の戯曲を少しずつ引用することだったが、清水戯曲にある「舟」のイメージと、謡曲の『鵺』における「舟」の姿がなぜか偶然にもぴったりしたので、戯曲の結構のようなものが整ってしまった。清水さんがこうした、引用そのもの、ばらばらにしていること、改ざんをよく思わなければいろいろ著作権の問題が発生する。
■部分を抜きで稽古をしたあと、通し稽古のまえに、パブリックの方たちとそうしたことで相談。話を聞くといよいよ難しいことになっている。うーん、いろいろまずいな。熱が出てきた。風邪はさらにひどくなる。それで、夕方から通し。本番が見られないというので、川村毅さんが観に来てくれた。さらに熱はあがり、通しのあと、川村さんから意見を聞く気力が出なかった。ただ、通しの直後、パブリックの方から清水邦夫さんに直接連絡を取ってもらい、引用の件を伝えたところ、清水さんはすべてを快諾してくれたという。引用はもちろん、ばらばらに切り刻んでも、なにをしてもいいとのこと。すごくうれしかった。清水さんに感謝。しかも清水戯曲の言葉がまた、いいんだ、これが。
■稽古を早めに終え、帰宅。様々な方法で風邪を直そうと努力した。薬はもちろん飲んだ。鍋焼きうどんも食べた。あたたかいココアも飲む。世にもまずい「ワンダーエース」という名前の漢方薬を煎じ詰めたような薬を飲んで寝る。少し回復。3日のリーディング公演のあと、ポストトークがあるわけですが、そのとき熱があってぼんやりしているとしたらかなりまずい。なんで風邪ひいたかなあ。今年はこのまま、乗り切れると思ったが、結局、1日、朝から睡眠不足のまま卒論を読み、それから、「口述試験」をするという強行ですっかりからだが衰弱していたのかもしれない。ウイルスにつけいるすきを与えたのだろうな。ほんと風邪をひくとむかつくわけだ。思うように仕事ができないことにいらいらしてくるのだ。

(7:19 Feb.3 2006)


Feb.1 wed.  「雨の東京」

■稽古は僕の都合で休み。大学の「卒論口述試験」があるからだ。朝、七時に起きて仕事をする。卒業論文を読みそのノートをつけ、検討するという大事な仕事だ。論文のほか、戯曲を書いた者もいるが、どうしても「戯曲」の点数は辛くなるのだった。はじめて戯曲を書いた者、というか、これまで戯曲を上演したことがないのだろうなと想像して読んでいたが、そのことで生まれる拙さは、逆に言えば、教えられることもある。つまり、こういう誤りをしてはいけないという気づきであり、同じようなまちがいを僕もしていないか考えるのだ。スタニスラフスキーについて書いた学生の論文からはいくつか示唆を受けた。あ、ここをこうすると、なにか新しい演劇論が生まれるのではないかというヒントだ。夕方、早稲田へ。少し強い雨が降っていた。それで「口述試験」だが、まあ、こちらがいろいろ質問して応えてもらうというのが本来なのに、一方的に僕が話していたような気がする。やはり、「戯曲」にはきびしくなる。早稲田の教室はやけに寒くて、少し暖かい場所に移動して話をしたが、風邪をひいた。帰るころのどが痛くなっていた。まずい。腹立たしい。家に戻って薬を飲んだせいか、それとも、きょう早く起きて仕事をしていたせいか、ものすごく眠い。ぐったりだ。

(15:13 Feb.2 2006)



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