富士日記2PAPERS

Oct. 2006 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Oct.31 tue. 「いよいよ舞台美術もできた」

■プレビュー公演の初日まですぐになってしまった。過ぎてしまえばあっとういまの稽古の日々だった。今回は稽古がとても楽しかった。いろいろ作ってゆく過程で俳優たちにも助けられ、彼らも一緒になって、ここはどうやってゆけばいいか一緒に考えてもらった。短い稽古の時間だったがそういった意味では俳優との共同作業だ。その成果をぜひとも見てもらいたい。

■だいぶ安定感もまし、午後からやった「通し」もいいできになってきた。時間的にはきのうより少し短くなっている。さらによくなるのじゃないかと思ってさらに考える。「通し」のあと「抜き稽古」。なんていうか、整理しすぎて、俳優が持っている力を消してしまわないように、その加減がむつかしいのだが、生き生きとしている俳優の姿が見たいのと同時に、舞台全体の整合感も考慮して斟酌するのはむつかしいところだ。メソッドのようなものがしっかりあってそれにあわせて形態を整えてゆくのとはちがい、いろいろな出自の方によって作られる舞台では、そのバランスみたいなものを考えるのがむつかしいと感じる。でも、少しずつ稽古してゆくに従い世界は整ってきた。メソッドによって一貫して構成される舞台とは異なるがまたべつの世界だ。
■演出家は「メソッドへの憧憬」を誰しも少なからず持っているにちがいない。「メソッドを作らない」という態度もまた思想になるだろうが、でも表現を洗練させようと思えば必然的になんらかの「メソッド」に至ると想像する。あるいは、無意識のうちにメソッドを作り上げていることもきっとある。だから、「劇団」のようなシステムがある。集団によって創作をしてゆくことの意義はその積み重ねだ。ひとつの表現を持続してゆくことで、ある一定の到達点を目ざすのが「劇団」の意味だろう。とはいえ、そうした「劇団」の意味が希薄になっていったのはある時期を境にあったのだろうが。
■もっとべつのこと、あるいは、「またべつの身体論」を考える場としての「集団」の意味はよくわかる。だから、俳優を集めて研究会のようなものをしようと思ったのは、もう一年ぐらい前だ。でも僕の時間がなくて、何人かに声をかけていたが、それが実現できなかった。「劇団」ではなく、「研究会」っていうか、「実験室」のようなものをやりたい。時間をかけてじっくり。でも、『鵺/NUE』はまたべつの意味としてあり、ここでは劇を書くこと、初めて仕事をする俳優を含め、様々な人と舞台を作ることで演出の腕を磨きたいというのが個人的にはあった。もっとできたかもしれないが、そうこうするうちに、もうプレビュー公演のある11月3日まですぐになってしまった。うーん、まだやること、試してみることはきっとあったはずなのだが。あと、上杉さんの腰が心配だ。僕も腰痛持ちだからその痛みはよくわかる。今回はとても負担をかける部分がある。本人によれば稽古のときはそれに注意をはらって動くが本番になると、勢い、忘れて芝居してしまうという。俳優というのはそういうものなんだろうなあ。心配だ。若松さんは、呪術のせいか、ものすごくタフな感じがする。やっぱりすごいよ、呪術は。

■稽古が終わってから劇場に行くとすでに舞台はほとんど完成していた。とてもきれいな舞台だ。それもお楽しみに。いろいろなスタッフがこの舞台に力を注いでくれる。そのことにとても感謝。
■眠る直前に、アマゾンにゆくととんでもないことになっており、ほぼ記憶がないまま、三冊ほど音楽関係の本を買っていたのは駒場の授業のためだろうか。マイケル・ナイマンの『実験音楽―ケージとその後』、あるいは、ポール・グリフィス『ジョン・ケージの音楽』、ジョン・ケージ『サイレンス』、そしてさらに町の古本屋さんに『クイック・ジャパンVol.8 ノイズ・ミュージック・ナウ!』をネットから注文していた。大漁だなあ。はっきりした意識がないがメールが届いてあきらかになった。あとじつはまたべつの雑誌を探している。ノイズ音楽の特集。古本屋にあることをやはりネットで確認したが買いに行く時間がない。
■でも、読んでおくべき本はまだ無数にあるな。というのも駒場の授業、早稲田の授業のために、きちんと準備しておかなければいけないからだ。それ、大変なんだけど、むかし世田谷パブリックシアターでレクチャーをやったとき無謀と思えるほど実作者による「演劇論」を読んだがあれがどれだけその後に役立ったかしれず、ここでもう一踏ん張りしようと思うのだ。そうだ、駒場には、佐々木敦さんにも来てもらえばよかったかなあと思うのは、佐々木さんの本がとてもためになるからだ。またそれはなにかの機会に。それにしても岡田斗司夫さんとの授業は面白かったなあ、あれ、見逃した方は残念でした。

(5:39 Nov, 1 2006)

Oct.30 mon. 「いよいよ本番は間近」

■さて、稽古は順調に進んでいるが、その前に告知をひとつ。『考える水、その他の石』(白水社)のサイン会が六本木青山ブックセンターで開かれる。で、白水社のW君からすでに発売済みだとの知らせを受けた。早速、本屋に行こう。そして、アマゾンで検索しよう。なんか、アマゾンのページはわかったんだけど、そのリンクをここに貼ると、文字化けがするという、よくわからないことが起こったので、もう少し様子を見ようと思うのだ。だから検索していただきたい。
■30日は、午後から横浜で舞台で使う映像の撮影をした。「Bank Art Studio NYK」の三階部分が廃墟のようながらんとした空間になっていて、そこで撮影する。何人かの俳優に横浜まで来てもらった。下では、大野一雄さんに関するイヴェントをやっていた。撮影を終えて夕方から稽古。確認すべきところを軽く抜きでやってから、きょうははじめて、衣装をつけて「通し」をする。衣装をつけて大きく変化したところはなかったが、早替え直後の芝居が落ち着かない印象を受けた。でも時間的には安定した。で、この日はわりとダメ出しの数が多かった。まあ、それは衣装をつけたこともあるだろうが、僕が気がついたこと、あるいは、何度も見ているうちにわかったことがあったのだと思う。だんだんよくなってきた。まだよくなるように思える。もっと考えよう。もっともっと考える余地がきっとある。稽古が終わってから、半田君と田中にだけ残ってもらいまたべつの映像を撮影。少し遅くなってから帰宅。劇場としてシアタートラムと稽古場を借りると、もちろんお金はかかるわけだが、退出時間も時間も守らなくちゃいけないが、「現代能楽集」のシリーズは世田谷パブリックシアターの主催なので、時間を気にしなくていいのだった。やろうと思えば稽古もずっとやれるが、いや、そんなに時間を窮屈に使ったり、ぎちぎちに詰め込んだところでいいことはあんまりないんじゃないだろうか。
■さて、きょうからはもう、仕込みがはじまっている。でも稽古場はいつも通りに使えるのがさすがに主催のいいところだ。簡単な装置を組んだままでの稽古。でもこれがとても重要な意味がある。昼間はいくつかの場面を反復して練習。だいぶよくなった。それで、早めの時間に「通し」をする。きのうより全体の時間が五分延びたがいままでのなかでもっとも安定感があった。いくつかのミスはあったものの、それはなんとかなるだろう。ただ、見ながらある場面について、そこは同じことの繰り返しじゃないか、台本の段階ですでに短縮することができたのじゃないかと思う箇所にようやく気がついた。つまり戯曲段階ですでに冗漫になっているのだ。少しずつせりふはカットしたが、その部分は、大幅にカットしようかと、その方法を考える。次とのうまいつながりがあればいいんだな。また考える。またしても、若松さんがかなりの「呪術」を使いそれで自分で笑ってしまっている。つられて、上村や鈴木が笑う。伝播してゆき、中川さん、上杉さんも笑う。楽しいなあ。笑っちゃこまるんだけど、楽しい雰囲気だった。「呪術」の力はすごいよ。といったわけで、着々と稽古は進んでいるのだ。もう時間がない。あと一押しというか、もう一粘りし、いい舞台にしたいのだ。

■稽古が終わってから、俳優たちと途中まで仕込みが進んでいる舞台を見にゆく。いい舞台になりそうだ。照明が入ったらかなりいいなこれ。早く見てもらいたい。というわけで、『考える水、その他の石』も発売されたし、あと、「ユリイカ増刊号」で僕の特集もあります。そして、『鵺/NUE』にどうぞお越しください。よろしくお願いします。もっといろいろなことが書きたいが時間がない。演劇のことにしろ、様々な思いつき、考えが浮かんだものの、駒場の授業の準備があってですね、いま、「ノイズ・ミュージック」のことを調べるのが稽古が終わってからの日々の仕事。といっているまに、「MAC POWER」の原稿があるんだった。一段落ついたとはいえ、まだまだ、せわしない日々だ。

(2:55 Oct, 31 2006)

Oct.28 sat. 「ずいぶん更新が滞ってしまった」

『考える水、その他の石』

■十一年前に出版した『考える水、その他の石』が白水社から再刊される。アマゾンにリンクをはろうと思ったがまだ販売されていないみたいだ。ちゃんと、白水社のW君に発売日を確認しておけばよかった。とりあえず、画像を紹介。ぜひともお読みいただきたい。そういえば、この白水社版のあとがきを書くにあたって、あらためてこの本を読み直したが、この本が出たのは九五年の一月。どうしたってそれ以前の文章が収められている。そこで思ったのは、九五年に切断があったことだ。言わずと知れた「阪神淡路大震災」と「サリン事件」の年だ。ここで「危機意識」のようなものが全般的に芽生え、時代の空気を微妙に変容させたが、それがボディブローのように効いてきて、たとえば「自己責任」のような言葉を出現させるに至ったのではないか。といったことを考えていたわけだ。
■しばらくこのノートが書けなかったのは、もちろん稽古のほかに大学があり、さらに「ユリイカ増刊号」の原稿を書いていたからだ。「自筆年譜」は50枚以上になってしまった。で、この十日ぐらいのあいだに百枚は書いたと思う。で、そのあいだ、いま住んでいるマンションでは大規模な配水管の取り替え工事をやっており、家で原稿が書けないし、朝、早いうちから作業がはじまるともう眠っていられない。仕方がないから近くのビジネスホテルに宿泊していたのだ。で、ホテルでは黙々と原稿を書いていた。まとめて仕事をするのにはちょうどよかったのかもしれない。ただ、大学の授業のための資料を家で探そうと思っても、工事のために家のなかもぐちゃぐちゃになっており、探しようにもどうにもならないのが困った。
■24日(火)はもちろん稽古だった。気がつくと本番も目前になっており、あまり反復して稽古をしていないような気がする。じっくり集中したいが、生活がせわしないと、稽古場に入っても落ち着かない。けれど少しずつ全体的にが安定感が出てきた。いくつか課題になっているところを考えながら稽古をし、夜は通し。前日より五分も長くなっていた。とはいえ、きのうの通しは全体的に流れていたからな。この状態であと二分ほど早くなるといいかなと計算する。■25日(水)、駒場の授業。岡田斗司夫さんをゲストに迎えて「オタク」の話を聞く。これがすこぶる面白かった。この話は詳しく書きたいが、本になるので、それを読んでいただきたい。ただ、あとで考えたことでひとつ新しい発見があり、そのことは本には載らない内容になるから、それはまた後日に。まあ、とにかく、趣味とか嗜好といったものがまったく相容れない人なのだが、話があうっていうか、あわないから面白かったというか、私は思ったが、集団は思想ではつながらない。思想だけでつながっていてもいつか崩壊する。集団は「人格」だ。つくづくそう思った。面白かったな、それにしても岡田さん。ほぼ同世代だが、たとえば音楽の話をしたってなにも通じないのだ。同じ時代を生きていたとは思えないのである。駒場をあとにして稽古場へ。通しを予定していたが、時間があまりないので、それより抜き稽古を優先する。問題になっている箇所をじっくり作る。稽古が終わってから「ユリイカ増刊号」のための原稿を書く。■26日(木)、朝、ホテルをチェックアウト。ものすごく寝不足。それからひとつ用事をすませると、午後から早稲田へ。「演劇ワークショップ」と「演劇論で読む演劇」の授業。ひどく疲れていたがなんとか乗り切る。稽古は僕の授業にあわせて休み。家に戻っていったん眠る。夜中に起き、また「自筆年譜」を書く。朝の五時過ぎに(というこの時点ですでに27日なっているわけだが)書きあげた。あと、すでに送ってある部分のゲラが届いていていたのでそれをチェックしてFAXで送る。■27日(金)、朝の七時半に眠る。五時間ぐらい眠って授業の準備をする。それで午後から早稲田。文芸専修の授業。きょうは「大友克洋」の話。この授業はとにかく自分が話したいことしかしない。というか、こんど「ブルータス」という雑誌で「大友克洋特集」があるそうで原稿を依頼されあらためて大友作品を考えてみたかったから話をしたというのが正しい。終わってから三軒茶屋へ向かったが、明治通りがすごく混んでいた。それで稽古。まず、衣装の確認があり、少しだけ抜き稽古をしたあと「通し」。かなり安定してきた。さらにここから粘ろう。もっといいものにしたい。原稿と大学の授業を終え、少し気持ちに余裕が出てきた。家に帰って本を少し読む。ようやくそうした時間も取れた。

■といったわけできょうは午後、少し遅い時間から稽古。やっておかなければならない場面を反復して練習する。あときのうの「通し」を観ているうちに思いついたいくつかのアイデアを試してみる。半田君が六時半入りだったのでそれを待って夕方から「通し」。だいぶ全体的に安定してきたが、若松さんが、自分のやってしまったいわば「呪術的」な芝居に自分で笑っている。それを見て周りも笑ってしまって少し雑になってしまった。でも、楽しそうだなあ。この感じがいいな。自分でやりながらそれを楽しめる余裕。上杉さんにもそれを感じる。むかしの舞台のころ、まあ、八〇年代のころの舞台だけど、みんながそうだった。僕も演出しながら、こうしてみたらと自分でやってみせ、それが楽しくて、あははあははと笑っていたのだ。だんだん僕より年の下の人たちと芝居をするようになってから、僕に遠慮するのか、余裕がないのか、そういったやわらかさをあまり感じられない。
■そういえば、駒場の授業のとき、来ていた学生の質問と岡田さんのやりとりを聞いていたが、僕には固有名詞がよくわからなくて二人がなにを話しているのかまったく理解できなかったのだ。その固有名詞のひとつに「ショコタン」があったわけだが、なんだそりゃと思っていたら、きょう家に戻ってテレビをつけたらその「ショコタン」が出ていた。おそろしいほど「印象」が三坂に似ている。話し方とか、仕草とか、表情の作り方とか。で、その「ショコタン」が楳図かずおさんの漫画に出てくる女の子の絵をマネして顔を作ったら、それは三坂だった。だからなんだって話だが。
■時間がなくなってきた。もう本番まで数日になってしまった。まだ考えることはあるな。きっとまだ気がついていないことがあるはずだ。もっとよく稽古を見よう。また新たに考えることが浮かぶはずだ。

(4:05 Oct, 29 2006)

Oct.23 mon. 「稽古と自筆年譜」

■「ユリイカ増刊号」に自筆年譜を書いているが、それが終わらない。ようやく、一九九八年を書き終えたところだ。ここまでですでに原稿用紙にして40枚ある。どうなんだ。さらに、佐藤信さん、野村萬斎さん、青山真治さんとの対談を「ユリイカ」のYさんがまとめてくれた原稿に手を入れなければならない。うーん、時間がぜんぜんない。このノートも書きたいことはたくさんあるが、やはりきょうも、短めに。
■で、休み明けの稽古だ。土曜日の「通し」は全体的にはとてもよかった。まだよくなると思って昼間はそうした場面を抜き稽古する。いくつか、曖昧な部分を整理した。あるいは思いついたことを試してみる。何度も見ているうちに気がつくことがあるのだ。そうしているうちにすぐに時間が過ぎてしまう。夜は「通し」。時間が土曜日より二分も短くなっていた。せりふをカットしたのもあるが、やや、流れていた印象。もっとよくなる。最後までねばろう。
■稽古を少し早めに終え、衣装の確認のあと、照明の笠原さんと打ち合わせ。僕の舞台にしては照明の変化が多い。照明だけは現場に入らないと分からないことが多いので、いつも悩むところだ。疲れたが、まだ自筆年譜が残っている。うーん、時間がない。

(3:18 Oct, 24 2006)

Oct.22 sun. 「久しぶりの稽古の休みは原稿を書く」

■「ユリイカ増刊号」、その私の特集の回に向けて、仕事をする。稽古が休みでよかった。仕事がぜんぜん進まないところだった。自筆年譜は書いても書いても終わらない。さらに、野村萬斎さん、青山真治さん、佐藤信さんとの対談に手を入れる仕事があるのだ。うーん、困った。だからこのノートも短い。睡眠時間もしっかりとらないとあしたの稽古にさしつかるからな。自筆年譜がなぜか長くなってしまったのだ。読み物として面白いものにしようと鋭意努力中。そして対談のいくつかおかしな箇所を訂正する仕事がある。このあと、駒場の授業の準備もしなくちゃならないのだな。
■また、青山の髪を坊主頭にしてくれる店で、さっぱりした。いつも僕を担当してくれるMさんから、終わってからこの近くで、森山大道の簡単な写真展をしていると聞かされ鑑賞に行く。その時間がとても贅沢に観じた。休みにはこうしてなにかを観に行くのは大事だな。ほんとは、「日本心中」というドキュメンタリー映画を見に行きたかったが、仕事のことを考えていたら、仕方なしに我慢するしかないと思った。
■頭はさっぱりした。坊主頭だ。気分を変えてまた稽古をしよう。

(0:55 Oct, 23 2006)

Oct.21 sat. 「稽古の記録」

■世田谷パブリックシアターによる、今回の舞台「現代能楽集III『鵺/NUE』」の公式のブログができました。稽古場の報告や、ニュースが掲載されます。どうぞごらんいただきたい。
■といったわけで、あきらかに睡眠不足だ。きのう(というかきょうの未明)いろいろ仕事をしているうちに、朝になっていた。それから眠ったが五時間ほどで目が覚めた。うーん、やっぱり五時間だときついんだな。午後から夜まで稽古だったが、少し意識がうつろなところがあった。通しをやってそれをよく見るのが僕の仕事だし、細かいダメを記録し、衣装のフィッテイングや打ち合わせでは集中力を切らさずに考える。さらに通しでダメを出した部分やラストのやり方を繰り返し稽古。きょうの通しはよかった。それでも、もっとよくなると思う部分をさらに磨く。少しせりふを削ったり。そして、反復。ただただ反復。しかし、そのなかでなにかを発見する。それがいつもの稽古。あ、そうか、って気づきがあり、その瞬間のうれしさといったらない。
■で、稽古場の雰囲気はとてもいい。きょうは衣装のフィッティングがあったこともあり、そういうときって、なにか祝祭感があるのだな。これからいよいよ、舞台がはじまるというよろこびのようなもの。そのなかでいい感じで稽古場が動いている。そういえば、このあいだ、大学の「演劇論で考える演劇」の発表が「寺山修司」だったことはすでに書いたが、寺山修司が演劇論のなかに書いた言葉で印象に残るのは、「呪術的」という言葉だ。天井桟敷にいた若松さんの芝居を見ていると、ときどき、「これが呪術か」と思わせられることがある。ものすごく不合理なことをする。驚くなあ。呪術なんだろうなあ。横になったままぐるぐるぐるっと回転しながら移動したりする。で、このあいだ、学校の帰り高田馬場まで学生のイガラシとサトウを乗せたとき、ではこれからは、「新呪術演劇」をやろうという話をしたのだが、「シンジュジュツエンゲキ」という言葉がひどく言いにくい。これ、絶対、流行らないと思う。なにかいいネーミングがないものかと考えたのだが、「ネオ呪術」はどうかと思ったものの、そもそも、「呪術」が口にしづらいのだ。そこで、「ネオマジックリアリズム」はどうだ。どうだって、同意を求められても困るだろうけどさ。いきなりな話だし。

■稽古場を出たら、どっと疲れが出た。家に戻ったらぐったりだ。でも、初日までもう少し。残りの時間でじっくりいいものにしよう。気持ちのいい初日が迎えられるように願って。で、やるべき仕事がいくつもあるが、舞台のことばかり考えて、どうも進まない。そんなに器用にできないのだ。

(2:36 Oct, 22 2006)

Oct.20 fri. 「授業と稽古とチョコレート」

■午後、早稲田で文芸専修の授業。この授業はもう、自分の話したいことを話すような授業になってしまっているのだが、きょうは、「酒鬼薔薇事件」にからめ、僕の戯曲『14歳の国』を取りあげた。この戯曲がどういう仕組みでできているか、あるいは、なにから喚起されてこの作品になったかなど。というのも、単に「14歳の出来事」をそのまま、戯曲にしたところで事件をなぞることにしかならないが、そこで作品化するにあたってどんな作業がそこにあったかを話したかったからだ。「演技者」で放送された『14歳の国』のドラマ化されたビデオを見せながらの話。
■それから稽古へ。細かな部分で確認しておくべきことを稽古したあと、少しずつ、まだ稽古が足りない部分を返す。少しずつ前進。あるいは、何度も反復しているうちに、気がつくことがあり、そこのやり方を変える。ほんのちょっとしたことだが、それだけで、まったく空間が変化する。そんな稽古の繰り返し。もっとよくなるな。そして、まだ自分でも気がつかないことがきっとあるはずで、それを見つけるために反復する稽古を見る。ただただ、見るのだ。
■そういえば、きのう上下二分冊のアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの、『マルチチュード』を下巻だけ二冊買ってしまった問題だが、きょう早稲田の生協で交換してもらった。夜、ウェブデザイナーで僕の演出助手もしたことのあるソウマからメールが来て、「だったら私が上巻を二冊買って交換しましょうか」というメールがきた。それはまずい。すぐに返信。まだ「上巻二冊」を買う前だったので、ことなきをえた。あと、なんか身体問題とか、ノイズ問題、あるいは、<ニュータウン>で、思いついたことがあり書きたいことがあったが、忘れてしまった。思いついたらすぐにこのノートに書いておかなければな。ただ、ほかの仕事もあるし、格闘中だ。ただ、舞台の演出がどんどん楽しくなっている。稽古はやっぱりいいな。それでほかの原稿もあるものの、つい、芝居のことを考えてしまう。もちろん、それも大事だけど、うーん、悩むところである。きょうは、学生からチョコレートをもらった。なぜチョコレートなのか理解に苦しんだものの、とても美味しかった。

(5:17 Oct, 21 2006)

Oct.19 thurs. 「疲れたので短めに」

■早稲田で授業が二コマの日。稽古は休み。なんだかわからないが、木曜日はめちゃくちゃ楽しい。いや稽古がないからではなく、学生と接していてこの日がもっとも楽しいのだ。たしかに疲れてはいた。学生の質問に応えようと思うが頭が痛くてうまく考えられないが、それでも必死に考える。脳というやつは酸素をかなり消費することで知られており、それで酸欠になって頭痛がするのだろうか。それでも学生たちと話をしていると楽しい。一文の表現芸術専修の「演劇ワークショップ」も、それぞれ発表に向けて相談させたが、活発に様々なことを考えているのが頼もしい。さらに、「演劇論で読む演劇」が面白くてしょうがない。きょうは、寺山修司の演劇論について学生の発表があり、寺山作品のビデオを見て、それから僕の補足の言葉を加えてゆく。なんだかやたら活気のある授業だ。終わってから教室の外で煙草を吸いながら学生たちと話をする。それもきわめて幸福な時間だ。愉楽だ。
■ああ、楽しかったなあとしみじみ考えながら、家に戻ったが、さらに仕事だ。さしあたって連載などの原稿は一段落ついたが、「ユリイカ増刊号」の自筆年譜がある。データがですね、ないのと、僕の記憶がはっきりしないところがあって、八〇年代の舞台が何年にあったか、よくわからない。資料を探す。資料は大事だな。それから遊園地再生事業団の活動を開始してからの九〇年代も、もうおぼろな意識になっているのだ。ただ、九七年から、このサイトを開いたので、その後の記録はすべて残っているのがなんという貴重なことだろう。しかも、こうしてノートを書いているとある時期から、そのころなにをしていたかすぐに調べられる。記録は大事だな。消してしまいたい記録もあるのだが。残したくないものもある。そしてまた、人によっては記憶や記録を、すべて消してしまいたい者もいるだろう。死ぬ直前になったらハードディスクのデータはすべて消しておこう。死んだあとからなにか探られるのはいやだからな。
■ただ、学校に着くのが早かったので、生協で本を買ったら、上下二分冊の本を買ったつもりが、家に戻ってよく見たら、「下巻」を二冊買ってしまったのに気がついた。どういうことだこれは。まあ、はっきりたしかめなかった私の失敗だ。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの、『マルチチュード』だ。うーん、すぐにでも読みたかったのだが。ってことで、また、仕事。

(1:43 Oct, 20 2006)

Oct.18 wed. 「言い訳する講義」

■駒場の講義の日だが準備不足だ。なぜ、準備不足か、その言い訳をしつつ進める。もっと考える時間があればよかったとつくづく思うのは、きょうは九七年に神戸で起こった「神戸須磨児童連続殺傷事件」、いわゆる「酒鬼薔薇事件」について語り、事件が発生した須磨のニュータウンについてもっと深く解読をしたかったからだ。もちろん、あの事件については、大量の書物も出ておりもう語り尽くされた感がある。だからこそ、いま、なぜニュータウンかを、考えたかったのだ。そこから排除されたもの(=ノイズ)はなにか。目に見える単純なものはきわめてわかりやすい。そうではなく隠蔽されたもの。あの町を数年前に歩いたとき印象に残ったのは、「性的なもの」が一切、感じられなかったことだ。それはとても「健康的」に見える。だが、それだからこそ、どこか不自然だ。そしてここで考慮しなくちゃならないのは、その町を語るときいまもまだそこに住んでいる人たちがいることであり、外部から勝手な解釈をすれば、ひどくはた迷惑な話になるだろう。たとえば、宮崎勤事件において報道は、ビデオが宮崎の部屋に大量にあったことをことさら取りあげ、ホラーやスプラッタ映画のビデオが残虐な事件の遠因であるかのような、いや、もっと言えばそれが直接的な原因でもあるかのように語ったが、ここでのスプラッタ映画と同様な視点を「ニュータウン」に向けてしまったら、それはやはりおかしい。
■ニュータウンが「酒鬼薔薇」と名乗った少年を生んだとしたら、日本中のニュータウンから同じような少年が出現してしまいかねないが、そうはならなかったし、かつてもそうではなかった。それは「酒鬼薔薇と名乗った少年」の特殊性だったと結論づけられもするが、それを逆の方向から眺めるとどうなるか。べつの視点で。つまり、「ニュータウン」が「酒鬼薔薇と名乗った少年」を出現させたのではなく、「酒鬼薔薇と名乗った少年」によって、「ニュータウン」が出現したのではないか。だが、それは一般名詞としての「ニュータウン」ではない。やはり、括弧つきの「ニュータウン」だ。
■さらに考えるならば、ここでやはり、「建築」における「都市論」の視座が介入してこなければおかしい。ル・コルビジェの『輝ける都市』について考えていたのだが、資料にあたると、その考え方の原型は、「エベニーザー・ハワードの『田園都市』に始まり、パトリック・ケッデスの『広域都市』の考え方に引き継がれ、ル・コルビジェの『輝ける都市』につながっている」とある。ここらのことを考えるのも興味深いし、コルビジェの『輝ける都市』が発表されたのは一九二五年の「パリ万博」の年だから、ヒットラーによる「郊外都市」とか「アウトバーン」の考え方とも関係するだろう。といったことを、『ナチスドイツ清潔な帝国』(H・P・ブロイエル)のことも想起させられるのだな。そして、クラフトワークの『アウトバーン』に話を続ければ、どうしたって『80年代「地下文化論」講義』で語った「テクノという考え方」につながらざるをえない。考えるアイデアは、つぎつぎ浮かぶものの、それを資料的に裏付けてゆく時間がぜんぜんない。ああ、こういうことを考えてゆくと面白くてしょうがないので、研究者になりたいくらいだ。だが、私はあくまで、実作者である。表現者だ。細かいことは研究者にお願いして、もう、思いつきで講義を進める。その場で思いついたことだけで九〇分。途中、『An Anthology Of Noise & Electronic Music / First A-Chronology 1921-2001#1』というCDから、Walter Ruttmanの「Wochende」という音楽を流した。これがとてもいい。ノイズミュージックの一種だとしてもいろんなことをひとつの曲のあいだにやっておりそれはむかしテープレコーダーで遊んでいたころのことを思い出すのだ。テープを切ったり、貼ったり、いろいろに音を加工しそして音楽を作る試み。でもそれ、一九三〇年の作品だというから、ビートルズの「ホワイトアルバム」に入っている、『Revolution No.9』も、そんなに新しくなかったんじゃないかと思わせる。ビートルズの「ホワイトアルバム」については、あるきわめて不可解なエピソードがあるが、それはまた、べつの機会に。っていうか、これ、どこかに書いたことあったかな。ま、いいか。

■授業が終わってから、駒場のキャンパスの一角で聴講に来ていた早稲田の学生と歓談。それから稽古場に向かう。駒場から三軒茶屋はとても近い。稽古は六時からだが、五時過ぎに着いてしまった。俳優たちの何人かはすでに来て、アップをしている。全員が揃い、アップも適度にすんでから稽古をはじめる。少しずつよくなっている。全体の整合感や安定感も増してきたし、俳優、個々の魅力もさらに出現する。もっと魅力的に見えるように考えたい。上杉さんは、もう演劇の世界では一定の地位を築いていらっしゃる方だが、この舞台で、いままで誰も見たことのないような、べつの上杉さんの魅力が出現したらと願うのだが、きょう、「黒ずくめの男」と「演出家」が出会う場面を稽古し、それを見て僕からダメを出したあとに、若松さん、上杉さんと、稽古の流れで話をする時間が取れたのは大きな収穫だった。というのも、僕は、「ここの部分は落ち着いてください」「勢いにまかせて芝居しないでください」とダメを出したが、それに上杉さんが、相手役が勢いがつくと、自分も負けじと勢いを出しどうしても早口でまくし立てるようにせりふを発してしまうと言うのだった。これまでの経験で、からだに染みついている演技術なのだろうし、そうした身体なのだろうが、そこで、僕もしつこいくらい「落ち着いていください」と言う。
■絶対、そのほうが魅力的に見えるはずなのだ。なにもしなくたって二人は魅力的なのだ。それだけの経験があるのだし、そもそも魅力的な大人なのだから、そこでぐっとこらえると絶対によく見える。だから、僕もしつこく言う。口を酸っぱくして言う。いやがられても二人が魅力的に見えればこの舞台の成果のひとつになるのだし、成果はともかく、また異なるなにかをここで発見してもらえたらと、それがなにより願うところだ。
■夕方からの稽古はあっというまに終わってしまう。だんだん、整理されてきたが、まだ満足せず、もっとよく見ることでさらに深いものにしたい。そういえば、きのう桜井君が稽古を見学に来て、今回の俳優のよさについて話してくれた。「これはおもしろいねえ」と。それで励みになった。とてもうれしかった。稽古場を出るころ、軽い風邪をひいているのに気がついた、家に戻ると、あたたかいものを食事で取り、そして風邪薬を早めに飲んだら、徐々に快復。早めの対処だ。風邪なんかひいてる場合か。強引にでも治してやるんだ。力づくで風邪をからだから排除する。調子がよくなったら、ざまあみろという気分だ。それから「ユリイカ増刊号」のための「自筆年譜」をさらに書く。うーん、長いよ。で、後半、やけに短くなってゆくような気がする。バランスの悪い自筆年譜だ。

(2:42 Oct, 19 2006)

Oct.17 tue. 「稽古、そして自筆年譜は長くなる」

■稽古が休みだった月曜日(16日)は「ノイズ文化論」の資料を探し大宅文庫に行ったり、図書館に行ったり、本屋を探したり、しかし、資料は集めてもそれ全部に目を通している時間がないのだ。といったせっぱ詰まっているいま、このノートを書いている場合ではないものの、だが、書かなければ。これはもう、仕事の一部だ。なんというか意地でも書きつづけようと思う。短くても記録として、記憶として、メモとして、ノートとして。といったわけで、本日は昼過ぎから夜九時半まで稽古。荒通しのとき、よくなかった場面を修正してゆく。ずっとよくなった。少しずつ丁寧にやり直し。反復しつつ、そのことで積み重ねることも意味があるが、反復のなかで、なにかを発見する。またべつの思いつきがある。あるいは、それまで気がつかなかったことに、目がゆく。こうだと決めてしまうのではなく、またべつの目で見ることだなと演出しながら思うのだ。短い稽古の時間のなかでも、深い表現を生み出すことはきっとできると、最後までしっかり見よう。とにかくよく見ることから。そして、いい舞台にしたい。
■あ、きょうはまた、取材を受けたのだった。共同通信の記者の方がいらして、清水邦夫さんの記事に合わせて、この舞台を紹介してくれるようだ。それで、またべつのある演出家に最近、取材をしたそうだ。「ある演出家」とは、著名な、その名を聞けば誰だって知っている、つまり、えー、要するに清水戯曲に、縁のあるっていうか、ないっていうか、いやあるんだけど、だから、あの、なんと表現すればいいか、とにかく、「ある演出家」だ。そのとき演出家は、清水さんの戯曲を引用した舞台があるんだってと、どうやら僕のこの作品のことを気にしていたという。「演出家が出てくるんだって?」と演出家は質問し、そして、「観に行こうかなあ」と。どこからそんな噂が耳に入ってしまったのだ。演劇界は狭い。そんなわけで、あしたは駒場の授業だ。せっぱ詰まっているのだ。「せっぱ」は「切羽」と書くが、「羽根を切るほど詰まる」ってのは、よほどの状態だな。そう思って辞書を引いたら、「切羽」とは元々、「刀の鍔(つば)が、柄(つか)と鞘(さや)に接するところの両面に添える薄い金物」のことらしい。で、おそらく「転じる」のだろうと思うが、それが「詰まる」のは、「さしせまった困難。きわめて困難な時」のことになるのじゃないかと想像できる。って、そんな蘊蓄を書いている場合ではないな。
■あと、夜、稽古から帰って原稿を書く。さらに「ユリイカ」の増刊号のために「自筆年譜」というものを書くのだが、この「自筆年譜」にはこれまでまったく語らなかったことの多くを、この際だから吐き出すように書こうと意識した。するととにかく長い。生年から書きはじめ、かなり書いたと思ったが、まだ一九八一年だ。まだ二〇年以上書かなくてはならないのだな。ほんとうに長いよ。少し削ろうかと思いつつも、ほとんど語らなかった高校時代の政治的な活動まで書いてしまった。どうしようかな。やめようかな。でも、こんな時期だからこそ、俺は書きたかったのだ。

(2:30 Oct, 18 2006)

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