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Published: Feb. 4, 2005
Updated: Mar. 30 2005
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Mar.16 wed.  「全員正解」

■たくさんの人がメールを送ってくれた。全員正解。というより、むしろ僕よりずっと詳しい人が多かった(なぜこのアルバムで髭の人がバックをつとめたかというエピソードを教えてくれた方もいる)。ある人たちには問題にすることすら無意味だった気がする。坂本龍一さんである。で、考えてみると、きのうの写真の三年後にはすでに、「YMO」の活動をはじめていたのだから驚かされる。で、75年と、78年(YMOがデビューした年)のあいだに、やはり、77年があったことを忘れてはならないのだろうと思う(77年のことを書いたら小説になります)。セックスピストルズが登場した。アップル社の誕生。宅急便のサービス開始(コンピュータの端末を使うインフラが整ったから)。あるいは、74年にデビューアルバムを出しているクラフトワークの存在も大きい。77年に病気療養のため大学を休学し一年間静岡に帰っていた。それで78年に大学に復帰すると美術大学にふさわしくそうした現象にみんな敏感で(というか、ばかなのかもしれないが)、どいつもこいつも髪が短くなっていた。トーキング・ヘッズをそのころよく聞いていた。
■それでいま私は(全然、話の文脈と関係がないが)、『ボブ・ディラン・グレイテストヒット第三集』という長いタイトルの小説を書こうとしている。内容については秘密だ。これは百枚ぐらいの小説になる予定で、またある土地を舞台にしようと思いたったのだ。すぐに取りかかろうと思うが、「ユリイカ」(青土社)の連載を次回こそは書かなければいけない。また小説のために町を歩こうと思う。あんまりほかのことは考えず、小説に集中しようと思うのだ。あ、岩崎書店のHさんからもメールをいただいたのだな。しりあがり寿さんと一緒に絵本も作れたらいい。
■で、
Power Bookを修理に出すためにバックアップを取らなくてはならないのだが、驚かされたのは、映像ファイルのサイズのでかさだ。10ギガなんてあたりまえ。きょうは一日、Power Bookから、Power Mac G5へファイルを転送するのに時間を取られてしまった。やっかいなんだよ、こういう仕事は。しかも映像ファイルのサイズはでかい。

■それにしても、先に書いた、坂本龍一問題だが、メールをくれたのがほとんど男だったのはどういうわけだ(女性は一人でした)。なにかのいやがらせか。ま、それはそれでうれしかったのは、これまでまったく未知だった方のメールが多かったことで、ほんとはぜんぶここで紹介したいくらいだ。返事が書けないのはほんとうに申し訳ないが、でも、いろいろな人からもらうメールから様々なことを喚起され、ためになる情報も多々あってとても感謝している。
■読書。世界に演出家の数は多い。その方々が基礎トレーニングやワークショップでどんなことをしているかを知りたいのは、こんどまた大学で教えるにあたってなにをしたらいいか考えているからだ。たとえば、平田オリザ『演技と演出』(講談社現代新書)。最初のあたりに平田君がやっているワークショップのことが具体的に書かれている。ためになる。ただ的確な指導者がいないとうまく機能しない、もっといえば、場が盛り上がらないだろうと思われるものもあり、平田君だからできることがある。鴻上尚史さんの演技トレーニングの本にも感じたことだが、平田、鴻上的でない人はどうしているのか(といっても、二人はまったく異なる質の演出家だが)。ところで、八〇年代以降、数少ない例をのぞいて、演出家や劇作家が、演劇論を書くことはほとんどなくなった。そうした書物もあまり見ない。すると、平田君や鴻上さんのような入門書が書かれ、それは、「演出の現場」というより、「ワークショップのテキスト」として全国の演劇指導者に読まれるのではないかと思われ、そうした需要があるのを予感する。すべてが「ワークショップ的になってゆく」ということをそれは意味し、どうしたって表現そのものにも反映するだろう。それはいけないのか。だからある世代の人から見ればそうした表現は、「軽い」と見られるだろう。いけないのか。ま、だめな部分も確実にあるのだが。
■そう考えてゆくと、「演技術」について少しずつ見えてくる。なにが議論されるべきかだ。

(15:06 mar.17 2005)


Mar.18 fri.  「忘れることについて」

■青山真治さんからメールが来たのは、おととい書いた「77年」のことについてだ。いま書いている小説(何作も長編小説を平行して書いているとのこと)に登場する映画監督の処女作がまさに77年に作られた設定だという。77年を選んだのはエルビス・プレスリーが死んだ年だったからだと青山さんのメールにあった。いよいよ「一九七七年」の神話性は高まる。「77年の小説を書いてください」と青山さん。もう十数年前からいつか書こうと思っていたんだ、77年についての小説。「新潮」のM君からは、『ボブ・ディラン・グレイテストヒット第三集』というタイトルが最高だというメールをもらっていよいよ書く気分が高まる。資料をネットで買い漁る。またM君と会って内容について相談しようと思ったのは、これまでのように、家でひとりぐずぐず考えているより、誰かに話しているうちになにか生まれることは大事だからであった。
■というわけで、きょうは夜、桑原茂一さんに会ってかなり長い時間、話しをし、とても面白かった。西麻布にあるイタリアレストラン。店の名前を失念してしまったが、たいへん美味しい料理の数々。それより、六本木通りと、米軍の施設に挟まれた地域にはいまだに独特な空気があって、ここらあたりの土地もきわめて興味深い。わたしは食通ではないので(もちろん美味しいものは好きだが)、料理のことより土地のことが気になって仕方がなかった。よく編集者に誘われて美味しいものを食べさせていただくが、だいたい店のことは覚えていないのだ。浅草のふぐ料理屋はうまかった。死ぬほど美味しかった。だが、正確な位置と店の名前が思い出せなくてもう二度と行けない。二〇代のころ、茂一さんにいろいろな店に連れて行ってもらったが、ぜんぜん記憶にないのだ。ただ、あれもひとつの教育で、贅沢で貴重なことを学んだ気がする。
■そんな茂一さんは、コムデ・ギャルソンのショーの選曲の仕事をするため、年に四度はパリやロンドンに行っているそうで(もう二〇年以上続けているのではないか)、するとどうしたって向こうでかなりの牛肉を食べている。ヤコブ病のことを話していた。で、思ったんだけど、ああした大々的に報道される病気はそのとき人はかなり意識的になるのに、そうした報道がぷっつりなくなるのも奇妙だし、話題にされなくなってからみんな「病気」そのもの、そして「不安」を忘れてしまうのはどういったことだ。たとえば、SARSはどうなったのか。人の「不安感」の曖昧さと、「忘れてしまえばもう大丈夫」という、この意識の仕組みはうまくできている。だから、なにごとも、「忘れてしまえばいい」ということだ。私などそうやって生きてきた。一晩眠ってしまえばたいていのことは忘れる。だから、「忘却」や「失念」は大事である(当然、例外はある)。そうでないと人は生きていけないメカニズムになっている。それはともかく、きょう茂一さんに会ったのは、「
RISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in EZO」でなにをするかという話だったわけだが、具体的に僕はまだ、なにも考えていない。いまは、「ユリイカ」(青土社)の連載と、小説のことで精一杯だ。あと大学のこともそろそろ準備しなくてはいけないが、提出したシラバス(授業でなにをするかという計画書)になにを書いたか自分でももう忘れている。やっぱり忘れるね、人ってやつは。

(15:56 mar.19 2005)


Mar.20 sun.  「そして、十年が過ぎた」

■土曜日の午前中、
Power Bookが修理から戻ってきた。引き取りから中一日の戻り。iBookの修理もそうだったが、素早い対応に驚く。で、バックアップを取れと言われていたので、ことによったらハードディスクを初期化されたのではないか、また一からやり直しかと思ったがそんなこともなく、中身はそのままだ。よく見れば外装がきれいになって新品のようだし、机の上に乗せるとがたがたしてバランスが悪かったのが治っていた。これまでデスクトップで修理に出すことなどまずなかったが、ノートブックは自分で手を施すのがむつかしく、こういうことはやっかいだ。修理記録を見るとキーボードを交換したとわかった。デスクトップだったらキーボードはすぐに交換できるが、ってケーブルを抜き差しすればいいわけだ、単純に。
■いろいろ享受し、少し入れる数日だ。そうして小説を書く気分を高める。その一方で、「ユリイカ」のことを忘れず、一日、少しずつ書いてゆけばいいのだとあたりまえのことを考えてはいるものの、そうできればいいが、できないから困っている。新宿を少し歩いた。歌舞伎町周辺。ぜんぜん変わっていない雰囲気の場所もあれば、すっかり様変わりした場所もある。で、つい先日、アマゾンに注文したCDが届いた午前中、まだ僕はベッドに横になっていた。玄関のチャイムが鳴ったので大慌てでふとんをはねとばして起きあがったが、そのとき、どこかに足をぶつけ、それが痛い。なかなか痛みがひかず、歩くのが少し苦痛だ。歩かねばならないのに、このていたらく。そして地図を見る。へえ、こんなことになっていたのか。小説の資料も届く。
■それにしても、地震の予知の無意味さはなにごとだ。どれだけ地震予知に国家予算が使われているのか詳しいことは知らないが、徒労と申しましょうか、無意味と申しましょうか、悲しくなるくらい、予知できない。静岡県に住んでいたので、子どものころから「東海大地震」が来ると聞かされていたが、「東海大地震」が来る前に、神戸や新潟で地震があり、そして今回もまた東海ではなく、誰もそんなことを予想していなかった福岡である。やっぱり、あれじゃないですか、ここはもう、「地震は予知できない」と腹をくくって、べつのことにその予算を回したほうがいいのじゃないでしょうか。「天災は忘れたころにやってくる」と言ったのは寺田寅彦だが、人間、うまいぐあいに忘れるようになっていると書いたことと相反するのは、それとはまたべつに、「学習能力」もあるわけで、ここはひとつ、「ぜんぜん予知できないよ」ということをきちんと学習するべきではなかろうか。

■そして地下鉄サリン事件から10年。10年前のことをよく覚えている。そこで考えたことをずっと引きずり、なにか作品にしようとするが、うまく形にならない。そうこうするうちに10年。なんだかんだで10年。あっというまに時間が過ぎていった。

(23:13 mar.20 2005)


Mar.21 mon.  「連休だったらしい」

■三連休だったときょうになってはじめて知った。小説のことを考えながら町を徘徊したり、資料を探すような日に休みはなかった。それでも舞台がしばらくないので余裕はある。おだやかな一日だ。
■中古レコード店に入ったら、ビートルズの『
LET IT BE』の輸入盤とおぼしきレコードが八万円で売られており、それはことによると、僕が中学生のとき、田舎のレコード店で手に入れたのと同じものではないかと思ったが、そうではなくボックス仕様のものだった。ただ、いまでも不思議に感じているのは、田舎の小さなレコード店になぜ、輸入盤のビートルズがあったかだ(しかも一九七〇年のことだからリアルタイムに)。しばらくしてから気がついたのは、あきらかに国内版のジャケット写真の印刷が粗雑なことだ。僕が持っていた『LET IT BE』はすごく鮮明だった。で、事情があって、わたしのビートルズのレコードはある日、すべて手元から消えたのである。理由は詮索しないでいただきたい。あの輸入盤の謎もそうだが、それからしばらくしてビートルズに関してまたべつの謎が発生した。
■もう20年近くなると思うが、舞台で、「ホワイト・アルバム」の最後に入っているリンゴ・スターが歌う「グッドナイト」を流したいと思った。ところが、先述のような理由で手元にアナログのレコードはないのだ。それで仕方なく、CDを買ってきた。ご存じのように、「ホワイト・アルバム」は二枚組で、「グッドナイト」は二枚目の最後に入っている。いま必要なのはそれだけだからと、ちゃんとアルバム全体を聞かなかった。舞台も終わり、それからしばらくして、「ホワイト・アルバム」を久しぶりに聴いてみようかと一枚目のCDをプレイヤーにかけた。一曲目は書くまでもないことだが、「
Back to the U.S.S.R」だ。ビーチボーイズを揶揄したような有名な曲。最初に、たしかギターだったと思うがその音がビーンと長く鳴ってそれからリズムが入ってくるはずだ。最初はそれふうの音がしていたが、いつまでたってもリズムが出てこない。ビーンがえんえんとつづく。これはおかしい。そのうち、これはブライアン・イーノみたいな音楽じゃなかろうかと気がついて、あわててCDの盤そのものをたしかめたが、たしかにビートルズのクレジットがプリントされている。いよいよ奇妙だ。まあ、めったにあることじゃないと思ったが、こういったこともあるのだとあまり気にとめなかった。
■話はそれで終わらない。それからしばらくして、ある、ビートルズマニアにその話をした。マニアはただごとならないマニアだった。あらゆるビートルズグッズを集め湯水のごとく金を使っているらしい。それが理由で離婚したという噂も聞いたことがある。話している途中から目つきが変わっているのに気がついた。額から汗さえ流している。呼吸も乱れはじめた。手も小刻みに震えている。あまりのことに私も慌てた。結局、彼にそのミスプリントともいうべき「ホワイトアルバム」を進呈した。あげるしかないじゃないか、そんな人物を前にして。この話は以前もどこかに書いただろうか。このサイト内のなにかの日記に書いたかもしれないと上のサーチエンジンで調べたが出てこなかった。エッセイかなあ。まさかその後、離婚してしまうとは思わなかったので実名で書いたような気がする。なにがあるかわからないから他人のことを書くのはむつかしい。

■小説『不在』の舞台になっている北川辺町に住んでいるという、Mさんという方からメールをもらった。あとになって舞台の存在を知り、観てみたかったというが、小説もDVDも発売中なので、それでどんなふうに北川辺が描かれているか確認していただきたい。メールには興味深い話があった。
北川辺町は本当に不思議なところです。ご存じだとは思いますが、住所は埼玉でありながら電話番号(市外局番)は茨城の古河市と同じだったり他県と入り組んでいる関係から小・中学の同級生には栃木県の人がいたり。ほんとに何も無いところのくせに年に何回かは全国版ニュースで流れるような事があったり。
 <中略>
北川辺町はどこにも属していない、どこにも属させてもらえない、なんかおまけ的存在の町のように思います。田舎ですが決して閉鎖的ではない、だからといって開放的でもない。 何か全てにおいて中途半端。無気力感が漂っている町。日記に書かれていた「模糊とした距離の感覚」という言葉、なるほどなぁと思いました。
 電話番号のことは知らなかった。本格的な春になったらもう一度、北川辺に行ってみたい気持ちになった。
■で、新しい小説を書くための準備はようやく整いつつある。

(3:38 mar.22 2005)


Mar.22 tue.  「詩人からのメール」

■だめな一日だ。なにしろ、夕方の五時に目を覚ました。アマゾンから、ジャック・デリダの『マルクスと息子たち』(岩波書店)が届いた。少し読む。
■青山真治監督からメールをいただく。ビートルズの『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の最後に入っている曲で、ジョン・レノンが「ながたさーん、ながたさーん」と歌っているように聞こえるという話だった。ほんとうなのか。確認しないでいられないじゃないか。それでどこかにCDがあるはずだと家中を探したが見つからない。さらに、またべつのCDを探しても見つからない。ここにひとつの教訓がある。
■「探しているものは見つからない」
■本もよくそういうことがあって、なにしろ原稿を書こうと、チェーホフの『三人姉妹』が入った新潮文庫を探したが見つからないことがあった。ついこのあいだまで読んでいたはずなのに、どこにもない。もちろん「文學界」のOさんからいただいた「チェーホフ全集」はあるが、どちらも同じ神西清訳だが微妙に翻訳の言葉が異なり新潮文庫のほうが一般的だと判断したのだった。しかし、原稿を書かねばならない。新宿の紀伊国屋書店まで行って文庫を買った。買って原稿を書いているとき別の資料を本棚に探したら、ありました、『三人姉妹』の新潮文庫版。探しているものはたいてい見つからないのだ。で、青山さんは、その「ながたさーん」から、連合赤軍事件の永田洋子を想起し、オノ・ヨーコと永田洋子に、なにかつながりがあって(ヨーコつながりか?)、それでジョン・レノンが「ながたさーん」と歌ったのではないかと妄想的なることを書いていたが、時代的にも、というか時間的にそれはありえないと思った。

■そういうわけで、話は微妙につながりますが(わかる人しかわからないですけれどね)、きょう、ほんとうにびっくりしたのは、ある詩人からメールをいただいたことだ。友部正人さんである。先日、わたしがここに書いた疑問に答えていただいた。正直、からだが震えるほど嬉しかった。で、いまなにを書いていいかわからない。混乱しているわけである。もう取り乱して、意味のわからない質問のメールを出してしまいそうになり、「友部さんのギターはギブソンだと思うのですが、あれはJ-50でしょうか、でも映像で見る限りピックガードが小さいので、だとしたら一九五〇年代のJ-50でしょうか」とか、そんなことをいきなり質問するのもどうかと思うのだ。あるいは、友部さんがカヴァーしているディランの「
DON'T THINK TWICE, IT'S ALRIGHT」は、シングルCDにしか入ってないでしょうか、ほかには収録されていませんかとかって、それ答える友部さんにも迷惑になると思ったのでやめました。といったわけで、興奮はいまだにさめないのだ。

(6:39 mar.23 2005)


Mar.23 wed.  「ドント・シンク・トゥワイス・イッツ・オールライト」

■昼夜が逆転している生活をなんとか挽回しようとした。世田谷パブリックシアターまで野村萬斎さんが出演する「狂言劇場」を観にゆく。平日の午後二時の回だがほぼ席は埋まっていた。それにしても、「能」や「狂言」に対する教養がないので、もっと勉強しようと思ったのは、来年、パブリックシアターが主催している「現代能楽集」のシリーズを受け持つからだ。「能」を発見し、それを現代に置き換える仕事はすでに三島由紀夫が『近代能楽集』でやっている。初演はもちろんだが、「能」のテキストを元にした『近代能楽集』はこれまで数多くの舞台が上演されてきたとしたら、いま、「能」をどのように読めば有効かをあらためて考え、そこから鏡像のように「現代演劇」を見つめなおす仕事になるのだと思った。それが前提になっている観劇なので、舞台の芸を堪能しつつも、そんなことばかり考えていた。
■終演後、野村萬斎さんと(というのも、萬斎さんがいま、世田谷パブリックシアターの芸術監督だから)、「現代能楽集」について話しをした。具体的なことの検討はまだ先になるし、僕に「能」について語るだけの言葉がない。これは今年の課題のひとつである。というのも、今年の末には戯曲を書き上げていなければならないからだ。来年の二月にはリーディングがある。そして本公演がその秋(つまり二〇〇六年の秋)だ。来年は遊園地再生事業団の本公演はありません。「現代能楽集」と、もうひとつ大事な舞台の仕事がある。遊園地再生事業団で進めている志向とはまた異なること、特に戯曲を書くことを今年からきちんとした課題にしよう。また、「テキスト・リーディング・ワークショップ」をやろうと気持ちは動く。
■このところ、わりと「音楽」のことに興味は傾いているが、「音楽」の前に、「音の出るもの」について考えている。これをなにか舞台に使えないものか。きょう見た「狂言劇場」の最初の演目は、「能楽囃子」だったが、笛、小鼓、大鼓の音がめっぽうよく鳴って迫力があった。じつは青山さんの新作映画『エレエレ・レマ・サバクタニ』は一面において「音」の映画だった。それ以前から僕も「音」について考えていたので、そこに共時性を感じていたが、演劇では、なにか「生な音」、それはたとえば、「水」でもいいのだが(まあ、よくやられているものの)、なにか「音」を使えないだろうかと模索。「音と言葉」、「音楽ではない音とダンス、ないしはからだの動き」を表現として洗練させたい。というのが演出をする私がいま考えていることだ。劇作家の私はまたべつのことに興味を持っている。戯曲をもっと読もう。久保栄の『火山灰地』を読もうかと思うようないきおいだ。

■友部さんからメールをいただいたことにまだ興奮している私だが、そのことで、以前からたびたびメールをもらっているCD屋のKさんからいくつか教えてもらった。Kさんは友部さんのきわめて熱心なリスナーだ。かなりレアな音源も持っているという。で、友部さんのこと以外に「商売柄」と本人が書いているが、これまでにも、「盤面には正しいアルバム名が印刷されているのに、かけてみると内容が違うというCD」を何度か目撃したという。メールの次の部分で大笑いした。
私の手元にはモーツァルトの管楽五重奏のCDにABBAが収録されたものがあります。
「モーツァルト」と「ABBA」の組み合わせが秀逸である。狙ったんじゃないかと思わせるようなミスだ。で、それで思い出したんだけど(いや、アバのことではなく)、私の教え子であったところの松倉に歌わせたい(というか捧げたいと思ったよその詩の中身をね)、友部正人さん訳詩によるボブ・ディランの「
DON'T THINK TWICE, IT'S ALRIGHT」だ。そのシングルCDが手に入った。
■そこで
Power Book(最近の機種)のユーザーすべての人に私は声を大にして報告したい。ぜったいにシングルCDを、Power Bookに挿入してはいけない。私はこの件でアップルのサポートのMさんと一時間以上、議論するはめになった(というか、話していたら面白かったので私がわざと引き延ばしてしまいました)。で、いくつかの件があきらかになった。これからPower Bookのマニュアルには、そのことを大きく記してくれるとMさんは語った。なにげなく入れてしまった私も私だが、再生されないのはもちろん、出てこない。するといくら保証期間内でも「ユーザーの過失」ということで有償の修理になる。なにしろユーザーの過失である。マニュアルには記載がないが、アップルのサイトのサポートページ「スロットローディング方式ディスクドライブのトラブルシューティング」にそう書かれている。知らなかったよ。有償だと、五万円以上だ。でも、トラブルシューティングって、トラブルがあってから見るだろ。このトラブルは起こしたらもう手遅れである。先に言ってくれよ。あるいはネット環境にない者はいったいどうすればいいのか。私の『14歳の国』(白水社)という戯曲にはシングルCDがついているが、Power Bookに挿入してはぜったいだめだ。そして、いろいろやっているうち、シングルCDは驚くべきことにちょろっと出てきた。ピンセントでつまんで出した。ありがとう、Mさん。あなたのおかげである。
■で、松倉だが、この春から東京に出てきます。無事に学校は卒業したのだった。本格的に音楽活動をするという。オリジナルの曲も作っているとのこと。またどこかでライブがあるだろうと思われる。そして、友部正人さんの歌う「
DON'T THINK TWICE, IT'S ALRIGHT」はとてもいい。

■まったく話題は変わりますが、きょう読んで興味を持ったのは朝日新聞に磯崎新さんが寄稿していた建築家丹下健三の話だ。家から少し外に出れば、東京都庁舎がある。あるいは、代々木国立屋内総合競技場もある。それがごく日常の風景として存在し丹下健三の名前と結びつかなかぬまま、その前をあたりまえのように歩いていたし、代々木の競技場のそばには、外国から来たサーカスのような人たち(なんか名前があったが失念)のテントがはられ長期公演をしていたので、むしろ、そっちにばかり目をやっていた。不思議でならない。都市のなかで建築は、かつてのような風景に変容をもたらす存在ではない時代なのだろうか。建築がそこに確定されたソリッドなものだからか。テントのインスタレーション性とでもいいましょうか、その浮遊感が現在だとするなら、ずいぶん怪しいところに私はいるように思えた。あるいは、私がやっているような表現もまたインスタレーション性の色濃いものとも感じ、ソリッドなものがあるとしたら、やっぱり、『火山灰地』だ。いま、戯曲や劇は、かつてのように古典にならず、ただ現在を浮遊している。むしろ、そう意図して書かれているのが現在的な劇に見える。

(13:27 mar.24 2005)


Mar.26 sat.  「いろいろな週末」

■ふと旅行に行きたくなったのは、かつてマダガスカルに行った日々のことを思い出していたからかもしれない。首都のアンタナナリボのホテルを出ると、少し歩いて高台にあるカフェまで行って本を読む日々を過ごしていた。観光名所に行くことにはあまり興味がなくて、ただ知らない町でぼんやり過ごしているのが心地よかった。それとはまた逆に、周辺にある小さな島に渡って、猿に会ったり、この国にいたら想像できない美しい海で泳いだのもよかった。僕がマダガスカルに行ったのは十数年前のことで、その後、政変が起こったというから、国自体、そしてアンタナナリボもずいぶん変化したのだろうな。マダガスカルヒルトンのレストランでバイキングを食べた。当時のマダガスカルは社会主義国だったから、近くの席に、北朝鮮から来たとおぼしき人たちのグループがいた。外国に派遣されるくらいだから、よほどのエリートたちだったのだろう、なにか作り物めいたものを彼らに感じた。
■あ、それで思い出したけど、しばらく前に見た、井筒監督の『パッチギ!』という映画は、こんな時代にこうした題材をよくあつかったと思ったけれど、逆に、「拉致問題」が社会的な話題になったいまの状況だからこそ作ることが可能だったとも考えられる。ここからはかなり推測になる。かつてなら、「朝鮮高級学校」に、あんな「ヤンキーな生徒などいない」という「朝鮮総連」からの抗議を受けて、上映できなかったかもしれないと想像した。今井正監督の『橋のない川』という映画に対して「上映阻止運動」が起こったのは、同和問題の視点から見たとき不適切な表現があるとされたからだ。『橋のない川』は部落問題を描いた反差別をテーマにした映画だが、登場人物の表現が不適切だというのが大きな理由になっていた。つまり、『パッチギ!』でいったら、「朝鮮高級学校」の生徒の表現が不適切だというようなものだ。今井正の『橋のない川』は、その後、僕も見たが「映画」としてはあまり興味をひかれなかった。ただ当時、笑えたのは、上映阻止運動をしている者らのほとんどが、その映画を観ていなかったことだ。ただ教条的に、っていうか、闇雲に反対していた。左翼党派間の狭い路線運動でしかなくて(つまり今井正が日本共産党の人だったからですね)、映画の問題じゃぜんぜんなかった(その件についてはここにきわめて興味深い文章があります)。
■あと、疑問に感じていたのは、「狭山裁判闘争」だ(狭山事件についてはこちらを参照)。もちろん石川さんは冤罪だといまでも僕は信じているが、当時(一九七〇年代後半)、「石川青年」とか、「石川君」と呼ばれていた石川さんのことを、僕はひそかに、「もう青年じゃないし、石川君って呼称はいかがなものか、失礼ではないか」と思っていたのだ。だが、「青年」じゃなければいけなかったし、「石川君」じゃないと運動がどうも盛り上がらないというか、若い層に運動がアピールできないきらいがあった。薄々、みんな気がついていながら、誰もそれを言い出せないまま、いつまでも「石川さん」は、「石川青年」だった。最近ではもちろん「石川さん」だが、あのあたりで、「ニューレフト」の「ニュー」が怪しくなっていった。つまり、「青年」じゃないと、(スガ秀実さんの表現を使えば)「文化的ヘゲモニー」は得られなかったのだろう。正直、笑ってしまったわけですよ。そういった状況が。不謹慎だと思いつつ。

■このところ青山真治さんとは音楽のことでメールのやりとりをしている。自分でも、なんてわかりやすい人間だろうと自分のことがいやになるのは、いまなにに夢中になっているかこのノートを読んでいれば明白だからだ。自転車に夢中だったときがあった。京都に住んで観光に熱心だったときもあった。クルマのことばかり書いていたときもあった。北川辺町のことばかり考えていたのは仕事だが、いま音楽は、半分、ただの「夢中」であり、半分は「仕事」である。つまり、『ボブ・ディラン・グレイテストヒット第三集』という小説を書こうとしていることが大きい。
■いまその準備をしている。青山さんは準備しないですぐに書き出すという。おそらくわたしは、準備が好きなんだと思う。ああそうですかと言われるのを覚悟で書けば、さっさと書き出してもいいはずだが(『サーチエンジン・システムクラッシュ』はまず書き出してから、調べものをし、町を歩いた)、調べものや準備をするのが楽しい。結局、使いもしない資料を大量に買ったりする。で、あらためてボブ・ディランを聞き、町を歩くのが楽しい。
■それは一見すると、単に音楽を楽しみ、散歩している人のようである。でも、実際、そうなんだからしょうがない。金曜日(25日)は町を歩きました。少し肌寒かった。そして中古レコード屋を見つけてはレコードを探す。ある店にはボブ・ディランやローリング・ストーンズのブートレッグ(つまり海賊盤ですね)のCDが大量にある。というか、ブートレッグしかない。で、店番をしている男は、どこか中堅会社の課長をやってもう長く、それっきり出世できない人のようだった。ネクタイをしていた。並んでいるCDと不釣り合いのその人は電話でどこか取引先と電話をしている。それが面白くて、CDを探すふりをしてずっと聞いていた。通りに出てデジカメで町を撮る。ある町の一角をずっとぶらぶらしていた。ゆっくり歩いているといろいろな店があるのがよく見える。町の細部がよく見える。

■きょう(26日)友部正人さんは、京都の「ガケ書房」で「夜の本屋」というライブをやっているはずだ。「ガケ書房」は白川通り沿いの、うちの大学(京都造形芸術大学、といっても僕はもうすぐ任期が終わります)の近くにあって、わりと最近できた本屋さんだ。いつもその前をタクシーで通り過ぎ、いつか入ってみたいと思っていたが、とうとう入らないまま、もう京都とも縁がなくなってしまうだろう。でも、年にいっぺんぐらいは京都に行って、まだ行ったことのない寺に足を運んだり、三条河原町にあるオパールのゆったりしたソファに腰をおろしてソウルを聴きたくもなる。オパールはいつもアナログのレコードをかけていて、その音が心地よかった。『トーキョー/不在/ハムレット』の公演のとき、舞台で使うので、
Vestax簡易なターンテーブルを買ったんだけど(熊谷が踊る場面で使ったもの)、それをいまけっこう重宝しており、ひところ流行ったビクター製のチープなプレイヤーより格段にいいのはラインでオーディオにつなげられるからだ。そりゃあもちろん、Technicsはいいんだけど(うちにも二台あって、それもやっぱり『あの小説の中で集まろう』という舞台のために買った)、このVestax handy traxがいいのは、場所をとらないことだ。棚の下にしまっておける。
■音楽のことばかり書いてるな。ところで、よくネットなどでもそうだが、文章を読んでいると、最後に、書きながら聞いている音楽が記されているのを目にするんだけど、あれはなんだ。だからなに、って感じだ。ちょっと長くなった。まだ書きたいことはあるが、さらに長くなるのでまたにする。

(12:46 mar.27 2005)


Mar.28 mon.  「春はなかなか来ない」

■ノートになにか書けばいろいろな反応があってメールをいただく。ありがたい。さて、前回(26日)の最後に書いた、「文章のおしまいに、それを書いているときの音楽を記すのはいったいなにか」という問題について、ブログでそれをしているTさんという方からメールをもらった。未知の方である。僕の書き方が大ざっぱすぎた。個人がごく限られた知人などに向けて発信している文章だったらべつに、そのことを僕はとやかく言おうとは思わない。念頭にあったのはお金をもらっている原稿でそれをやっている人がいる場合だ。たとえばそれが、音楽とはまったく関係のない種類の原稿で、意味なく原稿を書いているとき聞いている音楽を記し、むしろ、いやみにさえ感じさせる文章のことだ。あるコンピュータ関連のライターがそれをしていた。それはごく小さなコンピュータのコミュニティ(まあ、
Mac関係ですけどね)に向けた、けれど商業的なメディアへの寄稿だ。で、その原稿を書く態度がだ、ありていに言えば気にくわなかった。コミュニティのなかであぐらをかき、言葉が外部に向けられていないのを感じそれが気持ち悪い。しかもそれで原稿料をもらっているという、「もの書き」としての姿勢がまちがっているとむかついたのだった。自分のことを知らない誰かがこれを読んでいるかもしれないという意識が感じられない。つまり「外部の言葉」がない。「他者性」が薄い。原稿料をもらっている限りそれがなくてなにがプロだ。
■といったことをちゃんと書けばよかった。
■あるいは、
Vestax handy traxのことを書いたらすぐに反応してくれたのは、音楽ライターをし、自らDJもやっているというH君だ。
 ご指摘の通り、RCAでの出力がついている為、先のコロンビアのものと比べて手軽にアンプなんかに接続できるのも魅力ですし、おもちゃ程度のものですが音質を調節できるところも大きいです。そして、何よりも魅力的なのは針ではないでしょうか? 僕はポータブルのレコード・プレーヤーを数少ないながらも収集してるのですが、そのどれもが、交換針のないタイプで且つ、質の悪い針の為、割とレコードの方にダメージが残ることが多いのです(特に12インチ盤)。しかし、ハンディ・トラックスは安価ながらも、通常と同じ形態の針を採用し、交換針も市販されています。音もそれなりの音が鳴りますし、デザインもあのベスタクスの中では秀逸な部類だと思います。
 ヒップホップやファンク、ソウルなんかだと、海外のプロデューサーやコレクターの人が日本にレコードを堀に来る(探しに来る)ことも多いのですがその際にハンディ・トラックス持参で来る人も実際に多いです。レコードを手軽に聴きたいけれど、DJをする訳じゃないし、音質も普通に聞こえればいいという人には安定器の不要という部分も大きいと思います。
 なるほどそうだったのか。いまはいろいろな音楽環境があって、それぞれの楽しみ方がある。
iPodの出現や、iTunesはたしかに便利なものの、12インチのレコードを聞く楽しみもある。片面が終わったらいちいち針を戻して盤をひっくりかえす。音楽を聴くのにある種の覚悟が必要だ(大げさだけど)。とはいうものの、考えてみたら、むかしはそれがあたりまえだ。というかそれが出現したときだって(蓄音機の出現だから、エジソンの時代か)、人はひどく驚いたにちがいない。舞台でも、たとえば音楽をだすのにいまでは音響さんはコンピュータから直接ってことになってきた。かつて劇場にゆくと六ミリのテープで出す時代だったからデッキを動かす「ガチャ」って音が客席によく聴こえ、あれがある種、劇場で芝居を見ている約束のようにあった。

■それにしても「メディア」はどうなってゆくのでしょうか。いま一般的なのはCDだが、あれ以上小さくなることはあるのだろうか。あるいはまったく種類の異なるメディアになるのか。DVDはどうなんだろう。かつて「レーザーディスク」ってものがあったけれど、あれを大量に収集してしまった人はいま、どうしているのだろう。うちには大量のベータビデオのテープがあるのだった。捨てるのもなんだかもったいなくて箱に詰めて収納の奥にある。どうしたものかと思う。で、ヤフーオークションなどでベータのデッキが出ているとはいうものの、だからって、じゃ、それを買うほどベータビデオに収録されたものを見るかというと、それは疑問だ。むかし12チャンネルの午前中に放送されていた、ワーナーなどが作ったアメリカ製のアニメを毎日せっせと録画していたことがあったが、あれもベータのなかにある。ほかにも思わぬコレクションがベータビデオに収められているはずだが、だからってなあ。
■それで思い出したのは、テレビ版『14歳の国』を演出したO君やスチャダラパーが新宿のロフトプラスワンで四月八日に催すイヴェント「私だけが知っている!カメラは見た!! 決定的瞬間!!! 春の番組改編スペシャル!」のことで、O君にベータにおさめてあるはずの、ある映像を差し上げたいとメールを書いたのはもう一ヶ月ほども前になるだろう。で、書いたのはいいが、そのビデオを探す気力が出なくて、なにしろ、段ボール何箱分のなかから見つけ出さなくてはいけないのだった。だったら気やすく「あげます」などとメールしなければいいが、どうしてもO君にそれをあげたかった。あるいは、多くの人に見てもらいたいと思った。これはもうレコード盤を裏返すより決心のいる仕事だ。しかも、「探しているものはたいてい見つからない」のだ。

(4:03 mar.29 2005)


Mar.29 tue.  「ライトニン」

■音楽に関する本を読んでいて、しかしそこに書かれていることをどうしても「演劇」におきかえて考えてしまう。たとえば、音楽の基本理論として西洋で完成された考えが正統とするなら、アメリカにおいて、アフリカから入ってきた音楽のベースと混在して「ブルース」が生まれたという話(西洋の音楽理論からは考えられぬようなことを彼らはした)を読めば、それは演劇でいえばなんになるか想像するのだ。演劇に「ブルース」は存在しただろうか。ブルースを基礎としてその後、R&Bやソウル、あるいはファンク、そしてロックンロールとしてポップミュージックが広がっていったとしたら、演劇には単純に置き換えられないものの、だが、「ブルース」に相当するものはきっとあった気がする。「演劇」と範囲を狭めると話は煮詰まるので、もっと広く「身体表現」ってことになる。とはいえ、「ダンス」では音楽との結びつきが強く、しかし、西洋のダンスの正統であるところの「バレエ」と混在して生まれたとはとうてい考えられぬアメリカにおけるアフリカ系アメリカ人たちの、あのグルーブあふれるダンスだ。桜井圭介君の「ダンス教室」の講義でそういったビデオをかなり見せてもらった。とにかく、講義で桜井君も話していたように、「黒人はすごい」。とてつもないグルーブだ。しかしあれもまた、アフリカの民族的な舞踊とも異なるのでやっぱりアメリカでなにかが起こったとしか考えられぬ。
■といったことを考えていると面白くてしょうがない。だから、西洋演劇に出会ったアフリカ系アメリカ人たちは、歴史に残らなかったが、どこかで、とんでもないことをしていたのではないか。しかし、「演劇」に彼らは出会えなかったとも考えられる。それがアメリカにおけるアフリカ系アメリカ人の歴史(あるいは演劇の特権性)だ。なぜ水泳のアメリカ代表はみんな白人なのだろう。っていうか、アメリカの演劇の歴史を、俺、あんまり知らないじゃないか。リー・ストラスバーグ以後のことを大雑把に知っているくらいだ。ぜんぜん無知だ。アメリカという国の歴史はそんなにないので、スタニスラフスキーの理論が入ってきたのが100年ほど前だとするなら、それ以前はたった130年ぐらいか。でも、独立する以前のイギリス植民地時代があるからもう少し長いし、すでにそのころには、アフリカからの移民もいたのでけっこう長い時間はある。そもそもネイティブ・アメリカンがいた。だけど、「音楽」や「ダンス」は想像できても、「演劇的行為」があったかどうかは不明だし、仮にあっても「演劇的行為」はいま現在「演劇」として考えられているような、「ドラマ」とは種類が異なると想像する。で、そうしたものと、スタニスラフスキー的なる正統が混在した「ブルース」は生まれたかどうか。
■テキサス・ブルースのライトニン・ホプキンスのDVD(一九六七年に撮影された映像)を見ていると、ライトニンのギターに合わせて泣きながら歌う人がいて面白かった。女に逃げられたということでやたらめったら泣く。おいおい泣く。横でライトニンは淡々とした表情でギターを弾いている。「泣き」はいかがなものかと思うけれど、かっこいいから困るよ。ライトニン・ホプキンスはやたらめったらかっこいい。学生のころ、みんなでクルマに乗っていて、僕がカーステレオにライトニンの歌が入ったテープを入れ、最初のギターの音が鳴ったとたんエビハラが、「もっと明るい曲にしようよ」と言ったのを私はいまでも忘れない。っていうか、エビハラって誰だよって話だが、やっぱりいま聴いてもライトニンはかっこいい。なんだか、わけのわからない話になってきたな。

■閑話休題。結局ですね、もっと勉強しようという話である。もっと資料にあたって文章を書くべきである。いま書いたのはぜんぶ憶測だものなあ。あ、そうだ、きょうは早稲田に行って授業をする部屋を見学したのだった。思ったより狭かったので、ここで身体を動かす授業をどうやってやろうか悩む。しかも受講希望者がすごく多いと聞かされた。早稲田はそもそも人が多い。きょうも大学周辺は学生でやたら混雑していた。また、新しい学生たちに刺激を受けたいと思う。なんとなく最近は、すっかり落ち着いた気分になっており、これがだめだ。もっとがんがん、なにかを叩き壊し、保守的にならぬようにと気分をざらつかせたいのだ。だからやっぱり、まずはもっと町を歩かなくてはいけない。ほっとくと俺はずっと家にいる。

(6:03 mar.30 2005)


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