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Published: Feb. 4, 2005
Updated: May. 1 2005
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Apr.17 sun.  「本を読む日曜日」

■笠木のブログを読んだら鈴木慶一さん(僕とはかつて舞台を一緒にやったことがある)と高田渡さんの死のことでメールをやりとりをしていた話が書かれていて、もちろん現役で仕事をしていた方だったから、ショックは大きかったのだろうと鈴木さんの心中を察した。そこにも書かれていたが、それまでまったく知らなかった松倉に高田さんの曲、『鎮静剤』などを教えたのは慶一さんだ。松倉のおちこみはひどい。CDを聞いて泣いていたという。いつか、自分の作った曲を聴いてもらいに会いにいきたいと思っていた松倉は、だから吉祥寺に住んだのだろうと思う。こんど一緒に、『タカダワタル的』を観にゆこうと約束し、そして夜中の井の頭公園で歌おうとメールにあった。
■いつかまた、生の高田さんを観たかった。東京乾電池の柄本さんが高田さんを好きになるのが納得できるのは、その生き方や、その姿を柄本さんが愛したからで(柄本さんは絶対好きだろうな高田さんのような人が)、それはつまり人のありようそのものだ。もちろん音楽もいいとはいえ、レコードで聞くだけではまだ足りない。なにしろ、「そのからだの存在」がなければ高田渡の魅力を味わうには十分ではない。吉祥寺の「いせや」に立つ高田さんはすごくかっこよかった。ほんとに残念だ。面識もなく、縁もないし、遠くでしか見ていなかった私は悲しくはない。だけど無念だ。残念だ。残念だ。残念だ。ホントの老人になったときの姿が見たかった。

■なにかあるとまずいと思って書かなかったことだが、ある人から、メールをもらったのは一週間以上前だ。「地下に関する情報」である。その情報を、連絡先がわからないからある人に伝えてくれとのことだった。久しぶりにその方にメールし、情報を伝えると、それは地下の見学会だったのだが、その方はすぐに見学に行きますと返事をくれた。見学はきょう(17日)あった。僕も行きたかったが、原稿をひとつ書く仕事があってあきらめた。原稿すっ飛ばしてでも行くべきだったろうか。『東京人』の取材のときより、なにかゆるい感じがしたのだ。
■あるいは、その情報がここににあるとメールをくれたのは、Hさんという方だ。すいません、そう言った事情で決行日まではここに書けませんでした。いろいろむつかしいことがあると思われたのですね。で、その見学会のプログラムの最後が記念撮影ということになっているのだが、それおかしいぞ。なぜ記念撮影するんだろう。いろいろ憶測したくもなるではないか。
■このあいだ、桑原茂一さんと食事をしたのは、西麻布だったが、あのあたり(星条旗通り)の地下工事の見学会だ。以前も書いたがあのあたりの土地はどう考えても怪しい。現在は米軍の施設であり、防衛庁があったその周辺はかつて旧日本陸軍の土地だった。その地下になにかないほうがおかしいじゃないか。で、その地下をいま工事しているとの話だが、大江戸線はもうできあがっているのに、いったいなにを工事しているのだろう。見学した方の報告が待たれるところである。こんど大学の授業でもまた地下の話をしようと思っているのだ。

■原稿をひとつ書き上げた日曜日。だけど、「ユリイカ」の連載原稿を書き上げてしまった私には、もう怖いものなどないのだ。音楽ばかり聴いている。原稿を書きあげて本を読む。

(7:34 apr.18 2005)


Apr.18 mon.  「早起きをする」

■おどろくべきことに朝の9時半から試写会があった。まあ、京都の大学で授業をやっていた去年までのことを考えると、朝9時から一限だったのだから、べつにどうってことはないものの、久しぶりの早起きだ。しかも、午前4時に目を覚ました。いくらなんでもそれは極端に早い。しょうがないので、本を読んだり、このノートを書いていた。京橋にある試写室へ。中央公論社の前にある建物だ。地図で見たとき以前もここらあたりに来たことがあると思って現場に到着すると、そこはかつてセゾン文化財団のあった建物だ。何度か面接に訪れたことがある。そのビルの地下にある試写室へ。やっぱりいい作品だった。
■帰り、新宿に寄って楽器店と
TSUTAYAへ。生まれてはじめてレンタルCDというものを借りたのだった。なんというか、買うほどではないにしても、ちょっと聞きたい音楽があったからで、そういえば、世の中にはレンタルCDってやつがあったことを思い出したのだった。ああ、これじゃあ、CD売れなくなっちゃうよ。ただ、僕には所有欲というのがあるらしくて、持っていないといやなものは数多くあり、むしろ、持っている、所有しているだけで満足しているものも、CDに限らず多い。あと捨てないのでどんどんたまる。処分するということを知らない。家はそうして狭くなってゆく。
■それにしても、
iPodや、iTunesによって音楽を聴く環境はいよいよ変化しているのを感じるし、僕もいまほとんど、コンピュータから音楽を出して聴いている。で、最近、面白いのがiPodに関するある掲示板だ。その書き込みがしばしば、著作権問題に触れ、ほかの人からたしなめられるケースが多い。というか、著作権という問題をなにも知らないかのような、ちょっとどうかと思うような書き込みがしばしばあるのだった。その無神経さというか、無知さかげんに、笑うしかない。お薦めのサイトだ。

(5:20 apr.19 2005)


Apr.19 tue.  「書き方を模索する」

■本を読んでいた。もちろん、小説の書き方はいまだに勉強中だが、これまで無数に書いてきたエッセイについても、またあらためて書き方を考える。いままでの方法を好んでくれる人もいるので、それはそれとして書く。僕の場合、それは少し極端すぎないかと思うのは、なんともばかばかしい文章を書く一方で、演劇についてはやけにきまじめになることだ。「ユリイカ」の「チェーホフを読む」はまったく書き方が異なる。ここでやっているのは、単純な書き方の変化ではなく、「からだのあり方を意図的に変容化させる方法」だと思っている。どこか「からだ」がちがっているのだと思う。
■それぞれの書き方を変えるのではなく、どう言っていいか悩むが、また種類の異なるエッセイが書きたいと思ったのだ。僕が「エッセイ」だと思って書いていたものは、ほんとうに「エッセイ」なのだろうか。どこか、作り物めいていて、つまり、テレビなどに出ている人を見ると、「演技をする人」と、「フリートークする人」がいるとするなら、僕のは「演技する人」に近いとでもいうか。少したとえがちがうか。とにかく作り物めいて技巧を感じる。もっと自然な文体で書けないかと思うのだ。
■以前、ある企業の見学をし、取材して文章を書く仕事をしたことがあった。うまく書けなかった。そういうのは苦手だと思い、以後、取材記みたいなもの、旅行記みたいなものは書かないことにした。得意ではないからという理由だ。見事な旅行記というものはある。たとえば友部正人さんもそうした文章を書いており、それは見事な言葉だ。あるいは、金子光晴にしたってそうだし、内田百間にしてもそうだ。外国にも数多くいる。ポール・ボウルズはもちろん小説家だが、だが、どこかに旅行者の視点があったように思う。書き方のことを考える。経験だけではなく学ぶことはまだたくさんあるのだと教えられる。

■夕方、買い物をするため外に出た以外はやはり家にいて本を読んだり音楽を聴いていた。いま落ち着いた気分で時間を過ごしている。小説のことを少し考える。考えるより書き出さなくてはいけない。この一週間ほどで何通ものメールをもらっている。返事を書かねばと思いつつ、怠けている。ずっと僕の舞台を見続け、終演後には必ず話しかけてくれるI君から、彼が関わっているショーについて誘いのメールをもらったが、なにしろ深夜12時からの開演だという。そういう試みはなかなか面白そうで、内容も演劇ではなくショーだというので行ってみたいと思うものの、さすがにですね、夜12時からはつらい。ただとても興味をいだいたことはたしかなことなのだ。先日、『14歳の国』テレビドラマ版を演出したO君からは、例の、ある種のジャンクビデオを持ち寄ってみんなで楽しむイヴェントの誘いを受けていたが、やっぱり、仕事のことやらいろいろ考えて、行くことができなかった。ローザスのダンス公演も見逃した。そうそう、きのう試写会を観に行ったとき、早めに着いたので会場の周辺を少し歩いた。すぐ近くは東京駅。ビジネス街はあまり歩くことはないが、いろいろな人が、いま仕事を始める時間なのだろうと想像しながらビルに挟まれた道を歩いた。それはそれで新鮮だった。試写を終えたあと買い物に新宿の人混みをあるいた。平日の午後。それでも新宿は人が多い。いくら歩道がせまくても肩をぶつけることもなく、みんな器用に歩いている。それぞれの目的の場所に向かって器用に歩いている。

(4:38 apr.20 2005)


Apr.20 wed.  「レモン」

■早稲田の「演劇ワークショップ」という授業は希望者が多かったので抽選になった話はすでに書いた。その後も、登録できなかったが受けたいという学生からメールをもらい、その一人のKさんの名前を文字で見、それに似た名前の人物が浮かんだ。書こうと思いつつ忘れていたことを思い出した。京都の、あの「丸善」がなくなるのである。梶井基次郎がレモンを置いたというあの河原町にある本屋の「丸善」だ。いまではすっかり大型書店化し、どこといって特徴のない本屋だったし、京都に住んでいるときもあまり足を運ばなかった。というか、私は、河原町通りより西に住んでいたので、東にある「丸善」まで行くのがつい面倒になって、その手前にある「ブックファースト」で用事をすませていた。だけど、河原町通りを渡って、「メディアショップ」によく行ったのは奇妙だ。「メディアショップ」は独特の品揃えでいるだけで楽しかったからだろう。近くには六曜社という喫茶店があった。
■梶井基次郎の『檸檬』に特別な興味はないが、やはり、文学気分というやつはあって(つまり、文学主義的なことか)、寺町二条にある果物屋も自転車に乗って見に行った。ただの果物屋だった。店先にレモンが置かれていた。文学はしばしば観光化しますね。だからそこからいかに逃れるかだが、問題は逃れ方だろう。わかりやすい逃れ方ってのがあって、そういったものは、しばしば「過剰」だったりするが僕にはどうも肌にあわない。否定はしないが、どうもそうじゃない気がする。「過剰」はやはり作り出すものではなく、からだから、生まれてくるものだと考えられる。任せましたよ、そういったことは、その手の人に。
■いや、そんな話ではなかった。「丸善」だ。では、「青山ブックセンター」のときもそうだが、これは単に「ある書店」がなくなるという話なのだろうか。つい、京都の「丸善」となると、梶井基次郎を思い出して文学主義的になるし、「青山ブックセンター」は単なる東京のしゃれた本屋のように現象するが、もっと俯瞰してながめれば文化全体の問題がその本質にあるのだと思われる。わたしはべつに、「文化」を代表しているわけではないので、大げさなことを書く立場ではぜんぜんないが、「ライブドア」ばかりがニュースになるような社会がちっとも面白くないという話だ。「青山ブックセンター」は復活してほんとうによかった。そうだ、いま不意に思ったんだけど、金曜日にある早稲田の文芸専修の授業は、うまく授業をしようというわけではなく、つまり、伝えたいことがいっぱいあって、それができればいいという授業だ。研究者じゃないし、教育者でもない。ただ、実作者として伝えたいことがあり、しかもそれは、技術のことだけではない。技術はもちろん大事だけど、いま書いたような、ものごとを大きく俯瞰してみたときの、僕に話せる精一杯のこと。

(6:00 apr.21 2005)


Apr.21 thurs.  「大学へ」

■きょうは二コマ授業のある日。少し早めに大学に行き、演劇博物館のビデオライブリーの方にお会いして所蔵されているビデオのリストを確認したり、借り方などを教えていただく。そのあと授業まで時間があったので、近くにある喫茶店に入ったのだが、世にもおそろしい、ほんとうにだらしない喫茶店だったので気に入った。名前は書かないが、そんな喫茶店だから客は、僕ともう一人しかいない。そこがまたよろしい。ぼんやり時間をつぶす。
■授業は、まず「演劇ワークショップ」。人が多いよ。でもまあ、一年あるし、ゆっくりやってゆこうと思うのだ。きょうは「私の考える身体訓練」をやる。グループ単位にしても、かなりのグループができてしまい、時間が足りないな。まあ、しょうがない。で、これは京都の大学と異なるところだが、授業が終わったあとなど、当然、ほかの授業がぜんぶ終わるわけだから人がだーっと出てくるので、どこかの町のような状態になって学生と落ち着いて話をするような感じではないのだった。またこんど、一人一人とゆっくり話ができればと思っている。
■夕方からは「戯曲を読む」という授業。先週、時間切れで途中になってしまった岡田利規君の『三月の5日間』の続きを読む。次回の、別役実さんの『マッチ売りの少女』は、それを担当した学生の簡単な発表(きちんとレジュメを作ってきてくれた)のところで時間切れ。戯曲を読むのはいいが、もう少し長い戯曲になったらほんと時間が足りないのではなかろうか。それにしても、『三月の5日間』の構造と作劇はよくできてる。まだ、「劇」にも可能性はあるのだな。なにしろ、一人の人物が登場しては「お話し」を説明し、それから、「といった話をいまからやります」とばかりに、「意図された説明」が表現になっているのであって、そもそも、この戯曲に「役」というものがない。「男優1」とか、「女優2」といった表記でしか記されておらず、その人たちがときとして「人物」を、ときとして「語り手」になるが、ここには明白な「劇への疑い」がある。こういった方法があったか。なるほど。そして、語られているのが、「渋谷のラブホテルに5日間いた男女」と、簡単にまとめるとそうなるが、その外部に「戦争」をはじめ、あるいは「反戦のデモ」、「渋谷という町」といった社会があり、しかし、劇の上ではそれと深く関わるのではなく、あくまでも「外部」だ。だが、そうした構造を持った劇作法によって描かれるのは「外部」が奇妙な色合いをもって劇全体ににじんでいることだろう。ひどくばかばかしい人物のどうでもいい話が挿入される。基本にあるのは「劇への疑い」だ。それは前にも書いた「劇言語」というか、文体にも如実にあらわれているが、そうした「きわめて自然な話し言葉」は、かつてこういったものはあったと感じはするものの、本質はやっぱり、劇作法と、構造だ。たいへん興味深く、刺激を受けた。

■夜、永井と今後の予定の確認。やることはいろいろある。それもわりと規模の大きな舞台になる。ただ、岡田君に刺激を受けたからではあるが、なにか実験的なことをしたい。小規模でいいから、また異なることを試みとしてできる舞台がやりたい。あ、そうか、早稲田で九月に二週間で舞台を作るという集中講義があるが、そこでなにかしてみたい。なにか実験的な作業ができるのではないか。それくらいのことをしなくて、なにが大学だ。

(10:15 apr.22 2005)


Apr.23 sat.  「ドン・キ」 ver.2

■金曜日の午後は、文芸専修の学生に向けた講義だった。少し慣れたせいだろうか、時間が短く感じた。少し、からだが慣れたかな。ただ一時間半ほど立ったままなので腰に疲労が来る。まずいな。だんだん話しをするのが面白くなって、じゃあ、次はどの手でゆこうか考えるはじめると、しばしば私は熱中する。いま夢中になれるものに、精力を注ぐことほどからだにいいことがあるだろうか。といったわけで、新鮮な気持ちで金曜日を迎えている。
■とはいうものの、翌日になると疲れを感じるので、きょうは昼の二時過ぎまで眠っていた。寝起きのぼんやりした頭でサッカー中継をBSで観る。
LOOKING TAKEDA」のT君には申し訳ないが、エスパルスが初勝利。よしよしと気持ちを盛り上げて、夕方、お茶の水の三省堂に行き本やコミックを大量に買う。マンガを読むのが久しぶりだったのは、評判を聞いて前から読みたいと思っていた吾妻ひでおの『失踪日記』だ。後半のアルコール依存症のくだりを読んでいて思い出したのは、ある病院の喫煙所だ。アルコール治療もしているある精神科の大きな病院にしばしば行くが、その喫煙所におけるアルコール依存症を治療中の患者さんたちの会話をただ聞いているのが面白くてしょうがない。こっそり録音しておきたいほどだ。
■作品は面白いのだが、編集者との仕事上の関係など、身につまされるようでひどく怖い話だと僕には感じた。あるいは、最後に附されている、とり・みきと、作者との対談が興味深かったのは、まさに実作者同士の対話らしく、手法について語り合うところだ。まあ、たいていこの作品を語るなら吾妻ひでおの失踪や、アル中についての、ある意味、スキャンダラスな部分に興味がゆき、その部分をつい語りたくもなるが、そんなことより、とり・みきは手法を問題にする。手法によってあきらかになる作者の姿を浮き彫りにする。

■朝日新聞の夕刊に目をやったら、「ドン・キ放火容疑、47歳女を逮捕 放火認める」という大きな見出しがあって驚かされた。「朝日」も、「ドン・キ」と略して、「ドン・キホーテ」のことを表記しているのだ。まあ、ふつう人は、「ドンキ」と声にするのだろうし、「ドン・キ」と「・(中黒)」を意識することはないが、略すにあたって、「ドン・キ」と律儀に「・(中黒)」を入れたのはいかにも新聞らしいふるまいだ。そう思って、ネットで読売新聞のサイトを調べると、「ドンキ3人焼死、47歳女を逮捕…放火認める供述」とあった。「読売」は「・(中黒)」を入れない。では「毎日」はどうか。「ドンキ放火:さいたま市の47歳女性を再逮捕 容疑認める」だ。そうか、「・(中黒)」は「朝日」ならではだったのだな。最近、出たばかりの「考える人」(新潮社)の連載で、そのことを書いたばかりだったので、このできごとは興味深かった。「ドンキ」はおかしいだろうという立場だったので、そんなことを問題にするのはいかがなものかと思いつつも、この点において断固わたしは、「朝日」を支持する。
■あ、そうだ。CD屋のK君から、K君の勤めるHMV渋谷店で行われる、インストア・イヴェントのことを教えてもらった。早川義夫さんと、ムーン・ライダーズ。早川義夫という名前を聞くたびに高校時代のことを思いだし、レコード店に行っては早川さんの『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』を買おうか、買うまいか悩んだときの情景が浮かんでくる。半年ぐらい悩み、結局、買わなかった。それで早川さんの歌は聴かずじまいだったが、もし、あのとき買っていたら、それに影響を受けていたかもしれず、なんというか、道を歩いていると、そこに奇妙な形をしたマンホールの蓋みたいなものがあって、開けようか、開けて中を見ようか悩んでいるうちに、すっかり時間がすぎてしまった感覚がある。後年、誰かが早川さんの作った「サルビアの花」を歌っているのを聴いたが、もうすでに、僕は自分の生活で精一杯だったのではないか。あの蓋を開けて中を見たら、また異なる自分になっていたと、おかしなことをずっと考えていた。むしろ、そういった意味で、聴かなかったことで影響を受けた人(あるいはグループ)として印象に残っているのは、ビーチボーイズと早川義夫だ。ビーチボーイスも後年になって、教養として聴いた。そういったものはあまりからだに残らないのだな。そうだ、そんなことを青山真治さんとメールでやりとりしたのだった。青山さんはビーチボーイズにかなり影響を受けたとのこと。そういえば青山さん、アメリカに行くとメールが来てから、その後、どうしているのだろう。

(2:04 apr.24 2005)


Apr.24 sun.  「少し小説を書く」

■音楽のある生活の整備をこつこつやっているうち、いい音でFMラジオを聴きたいと思ってチューナーを買ってきたが、ラジオは面白いな。べつにこちらが聴こうなどと思っていない音楽がどんどんかかる。そしてFMラジオが流れると歯医者の待合室のような気分になる。どこか、そうした音質を感じる。何年ぶりだ、ラジオで音楽を楽しむのは。
■まあ、そうした音楽生活とはべつに、私は当然、小説のことを考えており、小説の主人公はある職業をしている男だが、それになにか、特別なものを付そうとゲイにしてみるとどうだろうと考えたが、それもまた、いまでは凡庸な気がしたし、そのことでテーマがなんだか拡散する。とはいえ、なにか与えたい。秘密があったらいいと思った。テーマみたいなものとは関係なく、人物を歪ませたいといろいろ考えていた。なんだろう。陰で麻薬の売人をしているのも唐突すぎるしな。ごくふつう(とはいっても、普通の職業ではないが)ではあっても、特別な趣味や嗜好があるとか。鉄道マニアはどうか。それ、ぜんぜんお話と関係ないし、でも、なにやら人の暗黒面を抱えさせたい気持ちにもなった。ロリータは阿部君の領域だ。というか、そういった性的な方向でゆくのはもう阿部君に任せた。なにかないかな。
■で、深夜になってみんなが寝静まるころ小説の冒頭を少し書く。今月中までに書くと「新潮」のM君には宣言してしまったのだ。まずいのは、雑誌の原稿をひとつ忘れていたことで、
Mac Powerがまずいことになっている。ゴールデンウイーク進行だという。休むなよ。俺には休みはないんだ。海外にも行かないんだ。大学の授業が面白いんだ。関係ないけど。あと当然のことながら劇のことも考えているものの、いま現代詩を読むのに興味を抱いているのだが、それで思い出したのは奇遇の話。筑摩書房の文庫の担当のIさんからメールをもらったとき、その名前をどこかで見た気がしてならなかったのだ。それである日、思潮社から出ている友部正人さんの詩集を読み返していたら、そのあとがきに、Iさんの名前があった。さらに思潮社から出ているバロウズの小説の翻訳者によるあとがきに目をやったら、そこにもIさんの名前があった。あ、ここだったか。本人に確認したらやはり、Iさんだった。思潮社から、筑摩に移ったのだな。人から見れば、ささいなことではあるが、私にとってはこの奇遇がとてもうれしかった。

(6:38 apr.25 2005)


Apr.25 mon.  「いろいろな日々」

■関西では大きな鉄道事故。中国の反日デモに関しては、中国政府が煽っているという説もあるが、またべつのニュースではネットで集会に対する呼びかけがあったとも伝えられ、日本でもそうだが、どうしてネットはナショナリズムと結びつくのかといったことを考えていた。これはネットのなんらかの特性か。ふだんはあまり出会うことのない憂国の者どもをネットではしばしば見かける。で、それも気になっているが、朝日新聞にしろ、報道ステーションにしろ、ごくふつうの、まあ少しリベラルといった程度のマスメディアに対して一部のジャーナリズムが「極左」呼ばわりしているのがひっかかる。ああしたメディアのどこが左翼だ。まして「極」であるはずもない。これはレッテル貼りか。歴史は繰り返しますか。そうやってあらゆる異議申し立ての口を塞ぐのがファシズムの常套手段だった。
■このあいだ結婚したばかりの、僕の舞台の演出助手をしていた相馬から、本などを贈ってもらった。兵藤裕己『演じられた近代』。少し読んだが面白い。まず最初の章のタイトルからして興味深い。「盆踊り禁止令」。まだあまり読んでいないのでなにも書けないが、「近代以降のからだ」について論考されているようで、こういったものが読みたかったんだ。さらに、いま読んでいるのは三島由紀夫に関する本だが、一九七〇年の三島の事件を、政治ではなく、文学の問題としてあらためて検証する。というか、あの事件はまったく「政治」とは無縁だったという論考と読めそれもまた興味深いのだ。あるいは事件に対して文学者たちはどう言葉にしていたかを確認し、三十五年後、その言葉がどういまに響いているかを考え直す作業として読める。えーと、いま手元にないので本のタイトルが思い出せない。探せばいいんだけど。
■忘れていたのは、「
Mac Power」の原稿ばかりではなかった。「流行通信」の短期連載があった。それにしても、「流行通信」という誌名はすごく単純でありながら、古びないのが奇妙だ。なんだろうな、「流行」という概念は。音楽でも、演劇でもいいけれど、「流行」といったものはきっとあり、いま「旬」とか、やけに勢いのある現象が出現してもそれは「流行」として時間とともに簡単に整理されることがあるが、かといって、「現象」を無視することはできないだろう。なにしろそれは現在のなんらかの反映なのだから。では「普遍」とはいったいどこにあるのか。「現象」にとらわれず、反時代的にものをとらえることで、ものの「本質」を見ることはきっと大事だろうが、かといって「現象」もばかにできないと考えてゆくと、じゃあ、「バランスが大事」なのかと奇妙なところに考えが落ち着いてしまいそうで、それもなんだか、くだらない気がするのだ。

■忘れていたが、京都から東京に出てきて、いまバイトをしながら歌を勉強している松倉からメールが来たのは数日前だ。なにしろ、「女高田渡になる」と言った者だけに、吉祥寺に住んで、高田さんがしばしば足を運んだ「いせや」という立ち飲み屋に行き、「たんやはつを食べている」という。それはあまり意味のない勉強のような気がする。音楽の話でもうひとつ思い出したのは、アナログのレコード盤のことだ。むかしのクラシックのレコードとか、七〇年代に買ったレコードをターンテーブルにかけても気にならないが、八十年代以降に買った無数の12インチシングルをかけると、その劣化がひどい感がある。あれはもう基本的に安上がりに盤が作られた結果だろうか。

(11:14 apr.26 2005)


Apr.26 tue.  「耳をすます」

■いまさら私が書くようなことではないが、谷崎潤一郎の小説における女性の衣装についての描写は見事だとされている。そうした教養の深さがそうさせているのだろう。あれは、たしか、文芸批評家の斉藤美奈子さんの言葉だったと思うが、中高年の会社員に人気の、ある作家の女性が身につける服装の描写について、「いまどき、こんなかっこうをしている女はいない」という意味の記述があって、たしかに例にあげられた服の描写に笑った。どう考えても野暮ったいし、いつの時代の人かわからない。というか、人気作家には女性の着るものについての知識がまったくないのがわかる。谷崎はちがった。和服の細部に渡って、素材、柄、織り方など、見事な知識を描写に注ぎこんでいる。これはなかなかできることではない。いま小説にどれだけの力があるのか自信がなくなるときがあって(でも好きなんですよ、小説が)、で、ときどき、とんでもないベストセラーが出現しちまうのも、え、誰が読んでいるんだと不可解なのだが(ま、それはどうでもいいです)、しかし、谷崎が和服についてその深い教養を「文」にするときそれは単に小説の問題ではないような気がする。
■「言葉」でどれだけのことが表現できるのかだ。とはいえ、いくら細密な「描写」をしたところで、文学ではないものは文学ではない。谷崎はそうした教養を表現として高めた。で、私は小説も書いているとはいえ、やはり劇作家なので、「劇の文体」ということを考える。劇の構造とか、ドラマツルギーや手法はまったく異なったものが出現する可能性はあるが、では「せりふ」はどうなのかが気になるところだ。このところ主流となっている感のある「口語演劇」を越えるような、またべつの「せりふ」はあるだろうか。「口語演劇」に違和を感じる者らは、ではそれを乗り越えるような「せりふ」を発見しただろうか。どこかで耳にしたような「せりふ」ばかりだし(別役実、唐十郎、寺山修司、あるいは岩松了とか)、だとするなら人のからだから発せられる言葉にはもう可能性がないかのようだ。もちろん演劇は、「俳優の身体」「ドラマツルギー」「せりふ」が統一されて存在し、「せりふ」ばかりが突出して存在するわけではないにしても、戯曲に書かれるのは主に「せりふ」だ。演劇はあるときから、あたかも演出家のものになってしまったかのようだし、僕も、どちらかというと演出家のように劇を作っている。「戯曲」について、もっというなら、「せりふ」について追求することの必要性はより強まっていないだろうか。というか、その「追求する方法」がうまく考えられぬのが現状だし、「戯曲」について人はあまり意識していないだろう。なんせ、舞台に立っちゃったほうが楽しいだろうしね。
■いまできることといったら、もっと戯曲を読むことだとしか言いようがない。で、それはそれとして、話を元にもどせば谷崎から学ぶことは大きいはずだ。そしていま個人的に興味があるのは現代詩だ。詩そのものもそうだが、「現代詩は、いまなにを問題にしているのか」といった興味が強くあって、それはことによると、「戯曲」が問題にすべきこととどこかで通じ合っているような予感がする。ポエトリーリーディングについて僕はあまり詳しくはないし、詩の朗読はもちろん演劇とはまったく異なる種類の表現だとはいえ、「言葉を声として発する」ところに近しさを感じる。耳をすまそう。様々なメディアから発せられる大きな声ばかりではなく、そっと耳をすまさなければ聞こえない「言葉」がどこかにあると思えるのだ。

(10:48 apr.27 2005)


Apr.28 thurs.  「つばを吐きつけてやれ」

■大学の授業のある木曜日だ。きのうは途中まで書いてあった、「
Mac Power」の原稿を書き上げていたが、書いているうちにどんどん面白くなってやたら長くなり苦労したのは削る作業だった。「Mac mini」について書いているはずだったが、半分以上がどうでもいいことに費やしてしまった。楽しい仕事だ。でも、小説を書かなくてはと思いつつ、冒頭を少し書いてたものの、なんだろう、その後どうも気持ちがたかぶらないので、気持ちを高ぶらせるために、なにかなくてはならぬとイメージトレーニングのようなことをする。と書くとばかのようだが、なにごとも勢いだ。勢いをつけるためにぐっとからだを変容させなければならないのだ。
■そして授業である。「演劇ワークショップ」と「戯曲を読む」という授業。今週は連休に入るので金曜日の文芸専修の学生を相手にした講義の授業がお休みなのはとても残念だ。話したいことはまだ無数にあるのだ。見せたいビデオとか、聞かせたい音楽。読んでみたい小説の一節。いろいろある。
■で、『トーキョー/不在/ハムレット』にも出たパパタラフマラの熊谷からメールが届き、詳細は書けないが、ある文書を送ってもらった。ただ読んでもらいたいという文章。とでも興味深いものだった。さらに先日書いた、「ネットとナショナリズム」の話についてある方からメールをもらったが、それはきわめて示唆的なものだった。その人の知人にロックが好きな人がおり、彼の嗜好に含まれるイデオロギー性と、ネットにおけるブログで彼が書いていることが乖離しているという話だが、その一部を引用したい。
 その人は「2ちゃんねる」などを昔から愛読していて、別の友人に言わせると「奴の思考は右というより2ちゃんねる」らしいです。2ちゃんねるからの知識だけで、そういったものに対する判断がなされているということなのでしょうか。
 ここで一つの推測をすると、2ちゃんねるなどに載せられる情報は(真偽はともかくとして)テレビや新聞など大きなメディアでは扱われない細かな情報が多く、口コミ的な形でそれらを知る(?)ことができます。骨抜きにされたメディアでは扱われない「真実」を自分たちは知っているのだという意識を、ネット上の憂国者達が持っているのなら、それが右寄りか左寄りかはともかくとして「真実」に基づいて判断しているのだ、と考えているのかもしれません。私から言わせれば「2ちゃんねる」にあふれる情報自体が気持ち悪くて見ていられないような偏ったものばかりなのですが、テレビと「2ちゃんねる」(的なもの)しか知らないとしたら、むしろ「2ちゃんねる」的な「過激」さを「ロック」と判断してしまうのかもしれません。
 なるほど。問題は、「マスメディア」と「2ちゃんねる」のあいだに為されるべき思考の営為や論理の組み立てがすっぽり抜け落ちているということか。「奴の思考は右というより2ちゃんねる」というのも言い得てる。そうなのか。「2ちゃんねる」のことはあまり詳しくないが、「2ちゃんねるという思想」といったものがあり、それはことによると、「憂国の者ども」よりたちが悪いかもしれない。なにしろ、きちんと資料にあたることなく流され、小谷野敦さんの言葉でいうなら、「ばかがものをいうようになった」の最たるものがあそこにあるのだと、引用した方のメールのべつの部分から感じもしたからだ。直感と、そのときの気分で無責任に書かれ、なんの論証もないが、そうだと信じる気分が高まればそれも「思想」になるのだな。短絡的なナショナリズムはこうして生まれる。なるほど。ちゃんと資料にあたるべきである。そして、思想的には相容れないが、そういった意味では「2ちゃんねるという思想」の者より、きちんとした「憂国の者ども」に会ったら、ご立派ですと、つい肩入れしたくなってしまうではないか。それも「2ちゃんねるという思想」のせいだ。こまったね。とても示唆的なメールだった。ほんとにありがとう。

■なにか、ぐっと、こう、小説(ばかりではないが)に向かって、からだを震わせ、ざわつかせたいが、なんだかわからずのんびりしている私だ。だめだ、こんな生ぬるさに身を浸している場合ではない。書くんだ。これでもかとばかりに書く。ばかやろうとつばをぺっぺぺっぺと吐き出すように書いてやる。手当たり次第に身の回りのものを叩き壊す勢いで書いてやる。僕の持ち味はきっとそこにあったのだ。気持ちを盛り上げてやらあ。けっと言ってやる。へへんてなもんだ。つばを吐くんだ。このくそばかやろうと悪態をつきつづけてやる。石を投げてやる。火をつけてやる。どいつもこいつもばかだと罵ってやる。だってほんとにばかなんだからしょうがない。
■で、これはまだオフレコなのだろうか。ある出版社が外国の劇作家の戯曲をリーディング公演したいという話があり、僕と、あと二人の演出家に声をかけた。仕事として面白いと思ったのだが、いま、ぺっぺとつばを吐くような気分の私は、この仕事は、私にとってなにかメリットがあるのだろうかと疑問に思いはじめたらもういけない。それより小説書いていたほうがいいのではないか。俺はうまく使われているのかもしれない。事情はいろいろあるだろうけれど、戯曲の出版などぜんぜんしてくれないし、ま、俺の戯曲は売れないしね。で、テンションは下がり気味だ。やるのは面白そうだが、仕事の世界はいろいろむつかしいことがあってだな、正直、わたしはやる気がないと、ほんとうに、やる気のない態度が如実に稽古場で出る。だけど俳優に気をつかうという、やる気がないのに気を遣う。その疲れはただごとならないのだ。ぺっぺとつばを吐きながら考えていたのだ。

(6:06 apr.29 2005)


Apr.29 fri.  「帰郷」

■何年かまえ、京都の河原町三条あたりにある「オパール」とういカフェに流れていたソウルはなんという曲だったのだろう。調べておけばよかった。そのとき精神的にかなり参っていたときだったので、やけに心にしみて涙が出そうなほどよかった。もし仮に、その曲をどこかで聴いたらあの日のことを思い出して、同じように心にしみるのではないかと想像するが、音楽にはそうした「力」がある。一部の演劇はある時期からそうした「音楽の力」を否定する方向が潮流になり、むしろ、音楽はいらない。人の情動に音楽で訴えるのは安易だとされてきた。もちろんなんの反省もないまま、音楽で空間を作る方法は存在するし、むしろ、それがいまでも主流である。なんにも考えてないのがだめだよ。
■映画の世界で、それを逆手にとり、皮肉な選曲をしたのはスタンリー・キューブリックだったろう。『博士の異常な愛情の』のラストに流れる歌。『時計仕掛けのオレンジ』の「雨に唄えば」。『フルメタルジャケット』で兵士たちがラストで合唱しながら行進する「ミッキーマウスマーチ」。きわめてイロニーにあふれている。それには私もかなり影響を受けた。音楽はつい情動的になり人の弱い部分をついてくるところがある。音楽単体で聴くぶんにはいいが、そうではないところで、安易に使うのは「劇への疑い」を感じない。
■京都から歌の勉強に出てきた松倉からまたメールがあった。28日に、JR中央線武蔵小金井駅の近くにある小金井公会堂で開かれた「高田渡追悼集会」に参加したという。泣いたそうだ。東京に出てきた目標のひとつが高田さんに自分の歌を聴いてもらうことだったのだから、悔しさや悲しさは強かっただろう。でも、それもまた、なにかのメッセージだと松倉が受け取ってくれたらいい。もちろん、高田さんの死は残念であり、近親者の方、あるいは仕事をしていた人たちの心中はいかばかりかと思う。歌の勉強をしようと東京に出てきたばかりの松倉にはこれは大きな経験になったにちがいない。そして追悼集会で彼女が感じ取ったものはとても大きかったと想像する。TBSのニュース23で、集会のこと、そして高田さんのことが報道されていた。僕は大学の授業があって行けなかったが、でも、もし行ったとしても、いまさらなんだいという話である。死んだからって、急に足を運んだとしたら、むしろ、冒涜する行為のようにも感じた。

■大正時代に作品を発表したある無名の詩人がいる。いまその詩集を手に入れるのはほとんど不可能だ。佐藤春夫に絶賛されたその詩は、それまで「詩」といえば、文語体で書かれるのがふつうだったが、ごく日常的な口語体で書かれた言葉は当時としては新しいスタイルをしていた。しかし、佐藤春夫に代表されるような「詩壇」になじめず、自分を評価してくれた佐藤からも離れ、詩の世界からも遠ざかり、いつしか、忘れられた存在になったのだと想像するが、ほとんど資料が残されていない。佐藤春夫が書いた評価する文章だけがほとんど唯一の資料ではないか。詩人の頑固さを感じるし、詩壇でうまく立ち回って生きようなどと考えもしない不器用さを感じる。詩人の名前は高田豊。ずっと貧乏をして子どもたちを育てた。その詩のひとつ、「火吹竹」は、その子どもの一人である高田渡が歌にしている。
■いま僕は、静岡の両親が住む家に帰郷している。父親のからだの調子が悪いのでこうして時間があると戻ることにしている。ここはとても静かです。この静岡県の小さな町に、かつて芥川賞候補にもなった作家がいることを知ったのは、もうずいぶん前のことだが、その後、作品を発表したのか詳しいことは知らないし、やはり、歴史のなかに名前は埋もれ、ほとんど資料は残っていないだろう。この町では文学のことなど、人はさして興味を持つことはなく、かつてそんな人がいたことすら多くの人が知らないし(で、なぜか、吉行淳之介の記念館がこの町にあるのも奇妙な話なのだが)、知ろうともしないだろう。面白いのは、こちらでメジャーなメディアといったら圧倒的に「静岡新聞」なのだが、ひところ、静岡新聞でもっとも話題になっていたのは「第二東名」はできるのかどうかだった。道路公団の民営化の議論がはじまって以来、事業は中途半端なかっこうで取り残され、高速道路を架ける橋脚のようなものが、奇妙な建築として残されている風景を静岡県のあちこちで見ることができる。
■橋脚は、奇妙な建築としていつまでも残され、人の目に触れることはできるが、多くの文学はほとんど形のないものとして忘れ去られるだろう。人の経済活動などになんの影響もない文学は、じゃあ、忘れ去られたところでいいのかといえば、一面で、それもまたいいような気がしないでもないが、でもやはり、人が存在するうえにおいて、欠かせないものであったのは、文学が歴史的にいったらもう二千年以上続いていることからもわかる。文化はどのように擁護されるのかと、そんなことを考えるし、歴史のなかに埋もれたものは、どのように再発見されるべきかと、「文化的なるもの」すべてについてふだん以上に考えてしまうのは、東京から離れ、こうして静かな時間のなかにいるからではないかと思うのだ。

(11:14 apr.30 2005)


Apr.30 sat.  「それから」

■まだ静岡にいる。十八歳まで育った土地だ。
■あたりまえかもしれないが、田舎には地下鉄がない。だから十八歳になるまで地下鉄に乗ったことがなくて、ずっと憧れていたのではなかったか。いろいろ想像していたけれど、東京に出てからあたりまえのように地下鉄に乗るようになり、しかし、かつていだいていた憧れも、喜びもあまり感じなかった記憶がある。乗ってみたら、あたりまえだけど普通の鉄道と同じように走り、ただ、窓から風景が見えないのは、逆につまらなく感じさせた。パリで地下鉄に一人で乗るのは一種の賭けのようなものだった。だいたい、文字がうまく読めないし、どうやって乗り換えるかは、地図をじっと見、だけどどっち行きの路線に乗ればいいかはそのときの勘が頼りだ。そうやってオルセー美術館に行った。美術館は人でいっぱいだった。パリではよく歩いた。ソルボンヌ大学に入ってトイレを探したり、サルトルもよくいたというカフェでコーヒーを飲んだ。世田谷パブリックシアターのIさんに連れられてオデオン座で芝居を見たあと食事をし、セーヌ川のほとりを深夜の二時ごろ、劇作家の松田正隆と三人で歩いたのはとても気持ちがよかった。そのあと、ホテルに戻ったら部屋はカードキーなんだけど、なぜか松田さんの部屋だけどうやっても開かない。三人で、いろいろなやり方でカードキーを使い、その手つきや、早さを試すのだが、まったくだめだ。三人で大笑いしながら深夜のホテルでそんなことをしていた。
■パリつながりというわけではないけれど、きのう書いたことに関連するのか、Yさんという未知の方からメールをもらい、「シャンソン歌手のシャルルトレネ」という人の書いた詩をメールで教えてもらった。
彼等が消え去った ずっと、ずっと、
 ずっとあとになっても うたは街々に流れ続ける
人々は少しうわの空で
 作者の名前も 彼が誰を想って心ときめかせたのかも
 知らないままそのうたを歌い継いでいく
だから時には言葉も変ってしまったり
 あるいは歌詞が分らなくなってただラララ、だけになったり
彼等が消え去った ずっと、ずっと、ずっとあとになっても
 うたは街々に流れ続ける
もしかしたらいつか僕が消え去ったずっとあとになって
 ある日誰かがこのメロディをくちずさむ
悲しみを紛らわすため 幸福をかみしめるため
 年老いた物乞いの生きる糧になり
 年若い子供の子守唄になり
春の水辺におかれた蓄音機のうえで
 くるくる回るレコードに刻まれることもあるのかな
彼等が消え去った ずっと、ずっと、ずっとあとになっても
 うたは街々に流れ続ける
詩人達の軽やかな心と 少女を、少年を、ブルジョワを、芸術家を、
 放浪者を 時には陽気に、時には悲しくするそのうた

 この詩を読んだらある人が口にしたという言葉を思い出した。「その歌はみんなが知ってる。誰でも知ってる。だけど誰がその歌をつくったのか、最初に誰が歌ったのかは、誰も知る人はいない。ただ歌だけが今も流れてる」。それで考えたのは、「笑い」もそうなんだろうと思うことだ。よく知られている「笑いの方法」とか、「質」は、いったい誰が最初にはじめたかいまではもうほとんどわからない。だけど、それが日常に入りこみ、すでにそのときにはプロがやっている笑いではなくなり、町の人が、その笑いの方法で家族や友だちを楽しませているのだと想像する。まあ、バスター・キートンの笑いとかになると、ふつうの人にはあのからだの動きはできないだろうけれど。
■相変わらず、静岡のこの小さな町はとても静かだ。夜になるとなにも聞こえないように感じる。東京でも夜になれば静かだと思うときもあるけれど、なにか低い音がずっと流れているような気がするのは、ここに来て、この静寂に驚かされるからだろう。にぎやかさは人を楽しくさせてくれる。静寂は考える時間を与えてくれる。僕はどちらも好きだ。好天の四月の終わり。昼間は夏のような日ざしが痛いほどだった。

(17:55 may.1 2005)


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