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■まず報告しなくちゃならないのは、いよいよチケットがネット上から買うシステムが稼働したことだ。まずは、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』のページに行って、少し下へとスクロール。「チケット予約方法はこちら」の部分をクリックしていただきたい。まさに、ネットでお買い物状態である。なんという便利な世の中なんだ。で、すでに予約なさった方で、自動返信メールが届かない方がもしいたら、受付の永井まで直接、メールでお問い合わせください。あるいは、そのままメールで注文しても大丈夫です。
■予約用のページをアップしたのは、たしか、夜の10時ぐらいでしたが(4月1日予約開始と予告しておきながら、気がせいていたのだ)、すぐ、予約していただいた方が何人もいらっしゃってありがたい限りです。ありがとうございます。で、何回かフォームから予約しても、自動的に戻ってくるはずの返信メールが届かない方がいるのではないでしょうか。それで、なんどか、フォームに記入し送信ボタンを押したと思われる方がいたのですが、それというのも、予約された方に送られずはずの「自動返信メール」がこちらに戻ってきていたからです。これがちょっと謎だったわけですね。ひとつ考えられるのは、フォームのメール記入欄のまちがいがあります。まちがってメールアドレスを記入していないでしょうか。もう一度、たしかめてください。なにかの不具合でこちらからの「自動返信メール」が届かない場合は、やはり直接のメールをお願いします。
■まあ、ネットのフォームから買い物ができるのは、いまではあたりまえのことだけれど、演劇のチケットも、こうして各劇団、あるいは、劇場などがネットで発売するようになると、また芝居を観る環境になにか変化をもたらすのじゃないかと思う。「ぴあ」をはじめとする情報誌はいまではあたりまえのように存在するが、「ぴあ」がはじめて世に出たのは僕が学生になる直前の一九七四、五年ごろのことだったと思う。それまで、情報は自分で探しにいかないと手に入らなかったし、あるいは、芝居だったら劇場の前で、いろいろな劇団の関係者が、開場するのを待つ人にじかにチラシを配っていた。あの柄本明さんから僕は、初期の東京乾電池のチラシを、なにかの舞台を見に行って開場を待っているとき受け取ったことがある。いったい誰が、「情報は金になる」と気がついたのだろう。まあ、アメリカ人なんだろうな。世界を旅するバックパッカーの世界では、かつてヨドバシカメラの広告が重宝された。それまでもソニーのウォークマンなど日本製は外国に行くと高く売れたそうだが、外国人にさらに高く売れたのがヨドバシカメラの広告で、それというのも、カメラ、オーディオ機器、電化製品の価格という情報がそこにびっしり印刷されていたからだ。「情報」が売れる。商品になる。そして資本は、また新たな種類の「商品」を探しているのだろうと思われる。
■早稲田の卒業生で、僕の授業をときどきのぞきに来ていた人が、ある出版社に就職し、もう雑誌の編集にかかわっている。それで彼が考えた企画に参加してもらえないかという話をもらってとてもうれしかったが、いかんともしがたく時間がないのだ。ひとまず、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』が終わるまでは、大学の授業もあるし、ほかにはまったく動けないだろう。ただ、戯曲を書き終えると少し余裕ができる。この戯曲がですね、英訳の時間が必要だとのことで、その締め切りがもう目前になってしまったのだ。少しずつ書いている。そして、雑誌『舞台芸術』の原稿。世阿弥の『花鏡』について。
■駒場の授業の講義録をまとめて本にする仕事の件で、白夜書房のE君に会って打ち合わせをした。待ち合わで約束していたのは東京オペラシティーのなかにある、「ポン・デ・ザール」というカフェだったが、休みだったのか、それとも、つぶれてしまったかわからないが、開いてなかった。つぶれていたらことである。待ち合わせや打ち合わせに使うのによかったのだが。そのかわり、オペラシティのなかには、「思い出屋珈琲店」が新たにオープンしていた。本はまだ、先になりそうだ。僕の仕事が落ち着いてからようやく動き出せると思うのである。「群像」の小説は、三月いっぱいに書くと口約束したが、だめでした。「新潮」のための小説の直しも進まない。
■木曜日(30日)は一歩も外に出なかった。原稿を書いていた。きょうも似たようなものだ。まあ、油断すると一日、家にいる。きょう外に出たら寒かった。オペラシティの近くで雑誌かなにかの撮影をしているのを見かけたが、モデルになっている人は、ものすごいリーゼントだった。だからなんだって話だが。
(9:30 Apr.1 2006)
■ずいぶん以前に読んだ、太田省吾さんのエッセイのひとつの書きはじめだけよく覚えており、それはたしか奥さんが、家の外から太田さんに声をかけ、夕陽がきれいだから見に来たらと言った話だ。で、べつに見たくないと思ったという内容だったはずだが、ふと、それを思いだし、けれど、見たくないことの意味がなんだったか忘れている。なぜか気になる。読み返すことにした。太田さんの『舞台の水』という著作におさめられた、「演劇は本当にライブか」というエッセイだ。で、いちおう内容はわかってすっきりしたが、さらに、同じ本におさめられたべつのエッセイを読んで、以前、読んだときには気がつかなかったこと、というか、いまだからこそ、あらためて考えるべきことがあると思ったのは、「<トラディション>をどう訳すか」というエッセイだ。内容について詳しく書くと長くなるので簡単にまとめると、演劇における表現の、「型」に関する考察だ。ちょうど、「舞台芸術」に書く原稿のために、世阿弥の『花鏡』について考えていたので、なおさら、このエッセイをべつの視点から読めた気がする。
■で、そのことはよくわかったのだが、僕には、「トラディション」はぜんぜんむいていないと思った次第だ。すぐべつのことがしたくなる。持続力というものがない。ひとつところにじっとしていられない。むいていないとしか言いようがない。「舞台芸術」の原稿は、とても興味深いテーマだが、書けそうで、なかなかうまく書けない。
■午前中、やけに早く目が覚めてしまったので、速達を出しに郵便局まで行った。途中で見る桜はほぼ満開ではないか。デジカメを持って家を出なかったのを後悔した。戯曲を書き、それから、依頼されている原稿をひとつずつ書いてゆく。面白かったのは、ある雑誌からの取材依頼だ。メールには次のようにあった。
「○○○○(=雑誌名)」6月号では「私の好きなお酒」の企画を進めており、宮沢様に添付の内容のご協力をたまわりたく存じます。ご多忙のなか、おそれいりますが、なにとぞよろしくお願いいたします。
まず、「私の好きなお酒」という企画がもうだめである。なにしろ、私は酒が飲めない。好きもなにもない。さらに、添付ファイルにあった企画書は、アンケート形式になっており、
○好きなお酒(複数回答可):
○感想、思い出やエピソード、合うおつまみなど、そのお酒に関するコメント(200〜300字程度)
という設問がされているのだ。これをどうすればいいというのだ。うそを書いてもいいのだろうか。なにかいかしたこととか、しぶいことを書けばよろこばれるだろうかと思いつつ、丁重にお断りした。ただ、雑誌の仕事としてではなく、個人的に、これに回答してみたいような気にもなった。
○好きなお酒(複数回答可):
ビールとか、ワインとか、そういった、缶チューハイ以外の酒とか。
○感想、思い出やエピソード、合うおつまみなど、そのお酒に関するコメント
あれはたしか、仕事で行った大阪でのことだった。その日はなぜかどうしても眠れなかった。眠れないとき、いつもなら、「眠るための薬」に頼るが、そのときはあいにく持ってくるのを忘れた。これは困った。そこで、飲めない酒を少しでも飲めば眠れるのではないかと考えたのだ。ホテルのどこかに自動販売機があって、そこにはもちろん、清涼飲料水もあるが、たしかビールかなにかがあったのを思い出す。自動販売機の前に立った。やっぱり、ビールがあった。ほかにも何種類かの缶に入った酒があり、しかし、どれがどんな酒なのかさっぱりわからない。たとえ酒が飲めなくても、ビールくらいだったら一口程度は飲んだことがあり、味は知っている。だったら、こういうときこそ、知らないものを飲もうと考えたのが失敗だ。缶チューハイを選んだのだった。部屋に戻って缶チューハイを口にしてみた。意外に甘い。まるでジュースのようだ。けっこういけるのじゃないかと思って、つい、ぐびぐび飲んでしまったのである。次第に心臓がどくどく鳴りはじめた。顔に血がのぼってくるのがわかって、鏡に映したら真っ赤である。心臓ばかりか、首のあたりの血管までがどくどくしている。血がものすごい勢いでからだをかけめぐっているのがわかる。苦しい。いまにも破裂せんばかりの勢いで心臓がばくばくしている。こりゃあもう、眠るどころじゃないのだ。缶チューハイのやつ、なんで甘いんだよ。死にそうだ。ベッドの上でのたうち回った。そうしてしばらく眠れないで苦しんでいたのだ。缶チューハイは恐ろしいよ。ほんとうに、恐ろしい飲み物だ。
ああ、これだけでも書けたら、些少でも、いちおう原稿料をもらえたのじゃないだろうか。まして酒が飲めたら、酒の魅力について饒舌に語りたかった。酒が飲める人はきっと語るのだろうな。どんないかしたことを人が語るか知りたい。酒が飲めない有名人といえば、元ヤクルトスワローズの杉浦がいる。サヨナラヒットを打った夜は、たしか祝杯ではなく大福を食うという話を聞いた気がするが、ちがっただろうか。「ウィキペディア」の杉浦さんの項目には、日本酒を風呂に入れて入るというエピソードが書かれている。ほんとうなのかそれは。
(7:01 Mar.30 2006)
■夜、ニュースを見ようとテレビ朝日の「報道ステーション」を見た。このだめな感じはいったいなんだろう。どんどんだめになっている。ワイドショーのような作りだ。姉歯元建築士の妻が自殺したニュースは事実だけ伝えればいいものを、ことさら大げさに出来事を報じ、必要もないのに、近所の人のインタビューをえんえん流す。本質についての分析もない。報道番組としての品格のようなものがなく、あるのは、俗情との結託だ。そうした「作り」の最後にキャスターのもっともらしいコメントが伝えられても、むしろうそくさくなる。コメントを求められるキャスターもいやだろう。さっと次のニュースに移ればいいと思う。いやな気分になってNHKのニュースにかえる。報道ステーションより、NHKのニュースがいいか判断はむつかしいが、まあ、だめだめなものよりはずっといい。
■話は前後するが、いまさらなにを焦っているのか愚かだと思いつつ、バイクについての資料を探そうと思って、夕方、本屋に行った。バイクの本や雑誌は何冊もあるが、どれが適当かわからず、なんとなく何冊か手にする。つい目に入ってしまったのは、「ENGINE」というクルマ雑誌であった。それというのも、巻頭の特集が「VWゴルフは、なぜ、日本人に愛されているか」だったからだ。私がいつも足がわりにしているクルマが、まさに旧式のゴルフだ。もう15年前のクルマである。Golf GLIだが、これがけっこうよく走ってくれるし、ほとんどトラブルもなく快調である。ただ、ボディは傷だらけだけし、オンボロと言ってもいいが、あまりそういうことは気にならない。走ればいい。まあ、たしかに、外見だけで乗ってみたいクルマは、ジャガーをはじめイギリス車に多い。ベンツはごめんだね。ベンツに乗って稽古に行ったとしたらこんなばかな姿はないだろう。
■むかし見た映画に、ダン・エイクロイドが主演するばかな作品があって、ある場面が森の奥のキャンプ場だった。周囲にあるクルマは4WDとか、キャンピングカーなのに、エイクロイドは、なぜかキャンプ場にベンツで姿を現す。そもそも成金という設定だが、そしてベンツからやけにいかした姿(だがキャンプ場にはふさわしくないスタイル)で降りてくる。笑ったなあ。その、空間とのあまりのそぐわなさが笑いを誘う。で、こういった「笑い」について、よく「ミスマッチの笑い」と簡単にまとめるやつがいるが、笑いを単純化し、ひとことで言い表そうとする者のことが信用できない。「これは、○○の笑いですね」などと、したり顔で言う。で、そうしたまとめる人がつまらない。というか、解説してくれるより、さらに面白いことを言ってくれたほうがずっといいからだ。もちろん「笑い」はきわめて論理的であり、きめこまやかな分析の上に成り立つが、「解説する態度」は(笑いに関してはきっぱり)いやらしいのだ。むしろ、「笑い」について本質的なところをわかっていないと考えていい。ベンツでキャンプ場に現れたエイクロイドは単にミスマッチを越え、もっとばかなことがここでは表現されている。閑話休題。そんなことはどうでもいい。
■いくつかの原稿を、戯曲と平行して書いている。締め切りだった。月末だった。もう三月も末である。東京の桜も満開になるという。今週末はおそらく、いろいろな花見スポットがにぎやかになるだろう。だめだ今年は。花見をしたかったが、書かなきゃならないものをためすぎた。花見に備えて仕事ができればいいが、なんども書くようにそんなことができたら、もっと多くの仕事をしていると思う。
■フォルクスワーゲン社が製造した「ゴルフ」は型式を変え、現在でもロングセラーを続けているが、生産量、売上の台数は世界的に見ても圧倒的だ。つまり「ゴルフ」というブランドに対する信頼が厚いことを示しているが、まあ、ゴルフは、ドイツのカローラだ。大衆車である。僕は、クルマのことなどなにも知らず、ただ、当時、借りていた車庫が狭かったので、そこに入るクルマのサイズと、中古で安く、それでいてわりとデザインがいいという理由で買った。徳大寺有常さんが、「ゴルフの伝道師」と呼ばれているのを、「ENGINE」の特集記事で知った。伝道師だったのか、あの人。徳大寺さんがしばしば書くのは、「ラッキーカー」という言葉である。なにかの偶然で手入れたクルマがその人に幸運をもたらすクルマがあるという思想だが、妙な感じを受けるものの、しかし、僕のゴルフはあきらかにラッキーカーである。大きな事故を起こしてはいないし、悪いこともない。徳大寺さんの言葉に幻惑されているかもしれないが、なにより大事なのは、乗っていて快適なことだ。意外とあれで加速がいい。ここでという状況に遭遇したとき一気に速度があがる。ラッキーカーだ。で、驚いたのは、「ENGINE」の特集のなかに、僕が買ったお店の「TCロサリー」が紹介され、いつもお世話になっている「TCロサリー」のTさんが顔写真入りで紹介されていたことだった。なんだか、妙にうれしい。まあ、クルマのことも、どうでもいいのである。
■俺、テレビを見て腹を立てることが、最近はあまりないが、「報道ステーション」にはほんとんにがっかりさせられた。どんなにだめな番組でも、無関心だったが、いやな気分になった。だめになってゆくものを見るのは、ときとして面白いが、こうだめだと、言葉を失う。面白がる気力もなくなる。
(12:52 Mar.29 2006)
■寝屋川のYさんのブログを読んで、「阿佐ヶ谷住宅日記」というサイトのことを知った。というか、「阿佐ヶ谷住宅(=おそらく地図上での表記は杉並区成田東三丁目にある阿佐ヶ谷団地のことだろうと思われる)」の一部の設計が前川國男だというのもはじめて知った。一見すると、一九五〇年代に作られた公団アパート群を思わせるが、内部の写真など見ると、その後、住居者が手を入れているだろうと想像するものの、でも、どこかおもむきがあって、たたずまいがいい。そして近くに善福寺公園があるこのあたりは静かな土地だろう。
■以前まで住んでいた小田急線・豪徳寺から、東京農大や馬事公苑があるあたりまで自転車で走ると、途中で、「阿佐ヶ谷住宅」よりさらに過去に作られたとおぼしき、住宅地と、平屋の木造住宅群があって、その一帯のことを僕は、「おはようの家」と呼んでいた。それというのも、小津安二郎監督の作品『おはよう』に出てくる住宅群にしか見えなかったからだ。かなり老朽化が進み、住んでいる人たちはいろいろ不便だったと思う。ただ、その風景にひかれてひまがあると見に行った。そして、もう七、八年前になるか、その一帯の住宅がすべて整理され新たに宅地が開発された。「おはようの家」が消えてしまった。他人ごとだったのでその風景がなくなるのは残念だったが、まあ、住んでいる人にしたらねえ、新しいほうがいいと思うにちがいない。寝屋川のYさんも書いているように、こうした古くておもむきのある家を、うまく利用して住むのが僕も好きだ。豪徳寺のアパートも古かったが、いま住んでいる家も古い。ちなみに豪徳寺時代のアパートの、隣の隣あたりに、阿佐ヶ谷スパイダースにいまは出ている中山の家があった。どうでもいいけど。
■で、「阿佐ヶ谷住宅」も、今年の冬(というのはつまり11月以降なんでしょうか)に再開発されるらしい。つまらない建物になってしまうのだろうなあ。まあ、そうしたものです、なにごとも。表参道をはじめとするいくつかの「同潤会アパート」も再開発された。建築で思いだしたが、京都の、三条烏丸にある第一勧銀(いまは、みずほ銀行か)の建築が取り壊され、どんなつまらない建物になるのかと想像していたら、過去の建築とほとんど同じデザインで新しく作り直されたのを見たときは驚いた。おそらく地下に空間を広げてデザインを保ったのだろう。その是非はいろいろ取りざたされるかもしれないが、でも、そうしようと決めた、建築家やみずほの人がえらいじゃないか。
■僕の出身地である静岡県掛川市の旧市役所は、建設当時、建築雑誌に取りあげられたほど当時としては意味のある建築だった。それというのも、コンクリート構造でありながらすべての開口部の建具が木製だったからだ(その後、すべてがアルミサッシになって残念なことになっていた)。老朽化し取り壊されたころ、たまたま共同通信社からなにかのテーマで原稿を求められ、旧市庁舎の取り壊しについて書いた。共同通信社ですから、地方の新聞に原稿が配信される。静岡新聞に掲載されたのだった。朝日新聞や毎日新聞にいくらエッセイを書いていても当時の掛川市長は読まなかったが、静岡県では静岡新聞は圧倒的な影響力を持つ。市役所に僕の小学校のときの同級生が勤めている。僕の原稿を読んで市長が烈火のごとく怒ったという。「こいつは、どこの出自の者だ」と、いかにも地方の有力者にありがちな言葉を口にしたらしい。当時の市長はお城を建ててしまったような人なので、現代建築なんかにはなんの興味もなかったのだろう(でも、現在の掛川市役所の建築もとても面白いです。なにかの機会があったら見に行くといいと思います)。そして、昨年だったか、市長選があり、その市長は落選してしまった。
■と、そんなことを書いて思いだしたのは、静岡新聞から原稿を依頼されていたことだ。三月いっぱいが締め切りだ。最初に連絡してくれたのは、先に書いた掛川市役所に勤めている(つまり、市の職員であるところの)小学校の同級生だ。郷土について書くというのがテーマだ。そうした過去は、とくに生まれた土地について書くのはなんだか照れる。もっともらしく書くのもうそくさい気がするし、だからってふざけて書くのもおとなげない。
■また、原稿がいろいろあり、そして締め切りが迫っていることに驚いている。なぜ締め切りはすぐにやってくるか、あたりまえのことながら、よくわからない。でもって、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』の稽古は目前に迫っている。また稽古だ。なぜこうも、稽古するんだろう。でも、しっかり稽古してないとほんといやだからな。で、その後、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を読むと、資料のためというのではなく、単純に面白くて読み進んでしまう。ドン・キホーテがほんとにばかものだ。カルデニオが身の上話をするとき、自分が最後まで話し終えるまで、いっさい、口を挟まぬように言っているのに、身の上話のなかに騎士道小説が出てきたとたん、黙っていられないドン・キホーテだ。カルデニオはもうなにも語ろうとしない。この小説の仕組みが面白いのは、たとえばここでのカルデニオの物語がすべて語られるまでに、紆余曲折あって、話がべつのことにずれてゆくことだ。ずれてゆく話は、それはそれとしてまた、興味深い。
■というわけで仕事をする。
(14:19 Mar.28 2006)
■西巣鴨にある、「にしすがも創造舎特設劇場」へ、「Ort-d.d」のユニットが上演する、『冬の花火、春の枯葉』を観に行った。アフタートークに呼ばれていたので、演出をする倉迫康史君と話をした。舞台は、太宰治のテキストを使った様々な試みである。以前、「テキスト・リーディング・ワークショップ」でも、「冬の花火」など太宰作品を取りあげて読んだことがあった(あとで聞いたところ、それを知って、今回、僕をアフタートークに呼んでくれたとのこと)。このノートにも書いたが、太宰治が書こうとしていることはよくわかり、それには興味を感じつつも、いくつか戯曲の技法に疑問を抱いていたことを、倉迫演出はそれを抽象化し、核になっている戯曲の魅力を取り出している印象があった。「演出」の役割にはこうした側面もあるのだな。僕は自分が書いた戯曲を演出することが多いので、どうしても、そうした作業の方法を思いつかない。あるいは、「かながわ戯曲賞」の受賞作をリーディング公演するにしても、受賞作だけに、どうやって書かれている通りに戯曲を紹介するかに腐心する。
■こうしたあたりまえのことについて、なぜいまさら意識的になったかと言えば、見ているあいだずっと、アフタートークでなにを話したらいいか考えていたからというのが、まあ、ぶっちゃけたところである。アフタートークに限らず、観劇の直後、その感想をうまく相手に話すのはほとんど無理で、何日かしてようやく気がつくこともしばしばある。観てからしばらく舞台のことをずっと考えているからだ。そして解釈が生まれ、気がついたとき、作家や演出家の意図がおぼろげながらわかるし、そのことを通じてさらに演劇そのものについて考える。だが、アフタートークはすぐである。観てすぐになにか話さなければならない。
■いろいろ話ははずむ。ただ、美術(伊藤雅子)がよかったことについて触れようと思っていたのを忘れていた。そして、様々な演出家がいて、また異なる試みがなされているのを知る。たとえば、「発話」に関して、「単語」や「文節」を意図的に切断することで言葉が奇妙な変化を帯びるとき、では、そのことがなにをもたらすか。「対話」を、あえて「対話」させないことでなにが生まれるか。演出に関する問題意識(俳優の身体のありかたへの問い)は強く感じるし、僕も、そこになにかないかといつも考える。当然、それぞれの演出家が様々なアプローチをしている。倉迫君もまた、異なる試みをしようと考える演出家のひとりだ。おそらくそのことがもっとも重要な点だ。ただ、例に出して比較するのが適切かわからないが、チェルフィッチュの岡田君、ポツドールの三浦君らが、演劇に対して一定の距離を取ろうとするふるまいそのものが、演劇への取り組みになっているのとは異なり、倉迫君の舞台からは「演劇」の色合いが濃い印象を受けた。チェルフィッチュの山縣君のような「からだ」はここにはない。べつに、山縣君がまじめじゃないというわけではないのだが、倉迫演出には、きわめてまじめなものを感じる。そういったことをどう考えていいのかな。資質だろうか。あるいは、現在についてのまなざしのちがいだろうか。だからそれは、「太宰治を取りあげるかどうか」に端的にあらわれている。ただ、そこで素材と演出の姿勢とのあいだに齟齬があるとしたら、太宰文学の人間観と、演出観のあいだに、奇妙なずれがあることだ。この「ずれ」をどう考えたらいいか。そこがむつかしかった。
■で、西巣鴨の元中学校を再利用した、「にしすがも創造舎」はとてもいい施設だ。まあ、中学校ですけどね。劇場は体育館をうまく再利用してよくできている。四月から僕たちもここで稽古する。
■さて、それ以外のことを書くなら、わたしはまじめに仕事をしています。書かなくてはならないと思いつつ、返信していなかった仕事関連のメールに返事をしたところ、いただいた元のメールを確認するともう二ヶ月近く以前のものだった。申し訳ない次第だ。あらためて、『ドン・キホーテ』を読んでなにかヒントがないか、なにか思いつかないかと焦ってもいる。「思いつき」はしばしば風呂で生まれる。私は風呂が長い。ただ、なにか考えようと思って入るとだめだ。でも、仕事のことを意識しないようにとぼんやりしているつもりでも、そのうち、風呂というやつは人を奇妙な状態にし様々なことに意識がゆく。なにか思いつきを生もうという気分も、それを忘れようという気分も消え、ただ、ぼんやりしてくるのは血行と関係があるのだろうか。ふとそんなときになにかを思いつく。
■『ドン・キホーテ』を学生のときに読んだのはどこの版で、誰の翻訳だったか忘れたが、岩波文庫の牛島信昭訳はとても読みやすいのがおかしい。新訳ということなのだろうか。驚いたっていうか、僕の読解する力が少しは成長したということか。というのも、もっと読みにくかった記憶があるからだ。むかし同じ大学にいた知り合いのレポート(何の授業か忘れた)を肩代わりして書いたのが、『ドン・キホーテ』についてだったのを思い出す。僕のレポートのせいで、彼の成績はひどく悪かった。申し訳ないことをした。あれはべつに引き受けるとなにかおごってもらえるとかそんなことじゃなかったと思う。書きたかったという理由だけで書いた。おそらく、とんでもない解釈と、ろくでもない文章だったのだと思う。で、仕事のメールのひとつに、京都造形芸術大学のなかにある舞台芸術センターが刊行している、『舞台芸術』から頼まれたエッセイ依頼への返信がある。書いて送った直後に返事があり、先方のSさんによれば受け取ったときちょうど、僕に原稿催促のメールを書こうとしたところだったという。これも偶然だが、まあ、締め切りが迫っているという必然的な事情はあったわけである。
■土曜日(25日)の午前中、マンションの総会というものがあって、参加した。ご高齢の方が多いせいか朝10時からである。寝不足のためぼんやりした意識で参加した。まあ、いろいろあった。で、話は前後するっていうか、最初のところに戻るが、西巣鴨の「にしすがも創造舎特設劇場」には、ライターのFさんと、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』の告知ページを作ってくれた相馬が来ていた。帰り、二人を新宿までクルマで送ったが、そのあいだ、なぜかミクシィの話題になった。人から招待されてミクシィに参加したのはいいものの、僕はぜんぜん活用していないのと、なんだかよくわからないのでなにかのボタンをクリックしたら、僕をミクシィに誘ってくれた「あわわアワー」のM君を削除してしまう結果になったとか、わからないことだらけで戸惑っている話をしたのだった。Fさんはそういった話に詳しい。ミクシィ内のFさんのページには、まったく知らない人が訪れるそうで、なんか、「地獄からの使者」とか、そんな名前の人らしく、まったくミクシィはおそろしいという話。ミクシィはほんとよくわからない。なにをどう活用したらいいのかさっぱりわからない。
(10:31 Mar.27 2006)
■あたりまえのことを書くようですが、仕事をしていた。原稿を書く。小説を書いたり、戯曲の準備をしているが、気がついたら戯曲の締め切りまで時間がない。小説を書くのは、これをきちっと形にしないと気分が晴れないからである。なにか、ひっかかったまま、ずるずる先延ばしにしているのが気持ち悪いのだが、まあ、人はこうして生きているように思う。部屋の片付けに似ている。気ばかり焦ってあまり効率よく仕事が進まない。ほんとは、大学が休みだから一年でいちばんなにもなくおだやかな時期のはずだが、いろいろあって、めんどくさいことになっていた。
■明石書店の編集者の方から依頼された原稿のゲラが届いていたので、そのチェックをし、宅急便で返送。先に、自分の書いた原稿を直し、その直した部分を色を変えて保存してあったので、紙で出力された原稿に直しを入れるのはそれほど時間がかからなかった。送るのがおっくうになってやはりこれもまた、先延ばしになっていた。さっさとやればいいのにできない。で、直しの部分を色を変えるのはいい方法だと思いつつ、コンピュータに依存しているわけである。『トーキョー/不在/ハムレット』に出た南波さんのブログを読むと、このところコンピュータを起動させないとあって、それはとても健康的だし、いいことだと思った。原稿を書かなきゃならないから、毎日、コンピュータを起動させている自分がなにかとても不健康に思える。ただ、仕事だしなあ。いまはもう、コンピュータでしか原稿が書けないのはいかがなものかと思っているのだ。当然、メールのチェックはしてしまうし、仕事のあいまにネットでニュースサイトを回ったり、いろいろなものを見てしまう。不健康に思えてならない。あたりまえのことを書くようだが、外の世界にはもっと異なる刺激がいろいろある。
■ただ、うれしいメールもいただく。福島県のある高校の教師をしているNさんからメールをいただき、「胴上げ」についていろいろ教えてもらった。ネット上にあるフリー百科事典『ウィキペディア』からの引用。
胴上げ(どうあげ)とは、偉業を達成した者、祝福すべきことがあった者
を祝うために、複数の人間がその者を数度空中に放り投げる所作をいう。
今日よく見られるのは、プロ野球においてペナントレースで優勝か、日本シリーズで優勝した時にチームで行う監督の胴上げである。選手の引退試合で選手の胴上げを行う事もある。また、ドラフト会議で指名された高校生や、選挙で当選した候補者の喜びの絵としてもよく用いられる。また、結婚式において新郎を胴上げすることもある。
ただし、胴上げの際に落下して脊椎損傷などの重傷を負う事例もある事に
注意が必要である。対象者を空中に放り投げる回数は、今日では連続3回であることが多い。回数についての合意が参加者間になされていないと対象者を落下させる危険があるので、開始前に明示的に確認するのが望ましい。胴上げの発祥は長野市の善光寺との説がある。
ここで、気になるのは、「対象者を空中に放り投げる回数は、今日では連続3回であることが多い」のくだりだ。知らなかった。なにかリズムのようなものだろうか。それがもっとも心地よいのではないだろうか。だけど、そんなにもっともらしく書かれてもなあ、なにしろ、「胴上げ」だしねえ。さらに、『世界大百科事典』(平凡社)に、「日本以外でもイギリスのリバプールなどでは、18世紀末までイースター・マンデー〈復活祭の月曜目〉に男が女を胴上げにし、翌日は女が出会った男を胴上げにしたといい、またシベリアのロシア人は、送別会の際に最高の敬意を表すために送られる人を胴上げにしたという」とあったとNさん。じつは、以前、僕もこれは調べたことがあったのだった。舞台で胴上げをしたとき調べた(って、それなんのことよくわからないと思うが)。だが、『日本民俗大辞典』のつぎの記述は知らなかった。
この行事においては、胴上げされる人物の足が地に着かないことが重要で
ある。すなわち、その人物の足が宙に浮いている状態をもって、ケの状態からハレの状態への推移を人々は実感したのである。
Nさんも書いていたが、なかなかに、「胴上げ」は奥深い。
■「胴上げ」で思いだしたが、やはり、ナショナリズムはあなどれないわけである。サッカー日本代表の試合はとても注目されるが、Jリーグについてあまり関心が集まらず、テレビの放映もあまりないし(視聴率が低いのでスポンサーがつかないというごくあたりまえのTV業界の事情だろう)、TOTOの売り上げが下がっているのは単にあのサッカーくじが当たらないとかいった問題ではなく、Jリーグそのものへの関心の薄さだと以前から思っていた。ところが日本代表の試合となると事情が異なる。いきなりみんながそのことを語る。さて、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)である。予想外の盛り上がりであった。しかも、盛り上がりのきっかけを作ったのが、アメリカ人の審判による、対アメリカ戦での誤審だと一部の報道は伝える。日本人の心に火をつけた。ところが、年々、プロ野球への関心は薄れていたはずなのである。如実に示されわかりやすいのは、野球中継の視聴率の低下だろう。だが、WBCはちがった。40パーセントが見ていた。FIFAワールドカップの日本戦なみである。
■となると、ここであきらかなのは、「競技」それ自体への興味ではなく、「日本代表」への興味であり、それが勝てば日本中がわくという現象だ。だから人の関心は、「競技」に対してではあきらかにない。「日本の代表」である。どんないいプレーをしようと関係ないのかもしれない。キューバとの決勝の日、浦和レッズの試合はほぼ満員のスタンド。浦和のファンはすごい。だが、Jリーグより、「日本代表」だ。WBCに注目が集まったからといって、野球は安心してはいられない。なにしろこの盛り上がりは「競技」ではないのだ。「日本代表の優勝」だ。それでいま、優勝に興奮している人たちは、六月になって、FIFAワールドカップがはじまったら、もう「野球」のことは忘れているだろう。ただひとり、イチローのことだけをのぞいて。イチローはあらゆる意味で注目された。発言が物議をかもした。イチローがいろいろな意味で面白かった。そして、キューバの内野選手の守備がめちゃくちゃすごいことに感心した。一塁まで、三塁からダイレクトの送球のスピードはすごい。上原の準決勝のピッチングもすごかった。あと個人的には、ヤンキースのデレック・ジータをもっと見たかった。ほんとにいい選手だと思う。
■だからまあ、野球の人気がどうのこうのとかどうでもいいわけで、私は野球が好きだから見るのである。野球というゲームが面白いのだ。冬季オリンピックのスノーボードクロスが面白かったように、面白いから見る。で、神宮球場のヤクルト戦がすべて見られるというので、入会金もアンテナもチューナーもすべて無料だとスカパーに入ってしまったわけだが、よくよく考えてみたら神宮球場までは自転車で行けるんだよ、うちから。スカパーに契約した意味がわからないのだ。
(11:05 Mar.24 2006)
■WBCでなにより気になったのは、優勝のあとの「胴上げ」である。いったい外国人はあれをなんだと思って見ているかだ。なにかの儀式だと思ったのではないか、奇妙なよろこびの表現だと感じたのではないかなど、いろいろ気になる。それというのも私は、「胴上げ」については少々うるさいからである。「胴上げ」を目撃するたびにその美しさが気になり、見事に上げているかどうか、バランスはどうか、高さはどうかなど、つねに厳しい目で見ている。だが、外国人には理解ができないだろうし、「胴上げ」が外国できちんと解説されているかどうか、日本の文化として紹介されているかは気になっていたのだ。あちらの新聞によると、
Sadaharu Oh, Japan's manager, was thrown into the air by his players after their victory in the first World Baseball Classic.
とあり、さらに本文中には、
The players formed a circle, lifted the legendary Sadaharu Oh, their 65-year old manager, off the ground and tossed him in the air ― a tradition the Japanese follow after winning a title.
と紹介されているが、たとえば、「off the ground and tossed him in the air」という部分を、映像で見たことのある外国人はいい。たしかにあちらの新聞にも静止画でその姿が紹介されているが、この文章だけの表現では「胴上げ」の醍醐味は伝わらない。そればかりか、「胴上げ」そのものがうまく伝わっていないのじゃないか。空中に放り投げてそれっきりという印象を与えないだろうか。つまり王監督が、放り投げられたまま、地面に落とされている印象を外国人が持たないかと心配になったのである。それでもって、それが、「 a tradition the Japanese follow after winning a title.」ということになると、日本で優勝すると指導者はたまらねえなあと、外国人が思わなければいいがと想像したのである。
■それにしても、このノートが、この二日ばかりやたらに長いよ。短くしようと思っているがつい長くなった。そして私は、「胴上げ」のことを考えていたのだ。「胴上げ」のことばかり考えていたと言ってもいい。「胴上げ」があたまから離れない。そんな場合じゃないのである。やることは山積しているのだ。チェルフィッチュを見逃した。「吾妻橋ダンスクロッシング」もいけるかどうか微妙だ。仕事関連で見なくてはいけない舞台がいくつかあって、それと原稿とのやりくりでたいへんだとあせっているうちに、もう桜が開花してしまったということは、花見のシーズンである。花見はやらなくちゃいけないよなあ。ほんとは梅ヶ丘にある羽根木公園に梅を見に行きたかったが、今年も行けなかった。
(7:36 Mar.22 2006)
■むかし、「わざわざ書く」という話をエッセイに書いたことがある。たとえば、小学校の廊下に「走るな」という張り紙があるのを考えると、それはつまり、「走ってしまう者」が小学校ではあとをたたないことを意味している。これがたとえば、会社などで「走るな」ともし廊下に張り紙があったら、かなり問題である。その会社では走ってしまう社員がいるということだ。小学生は走りがちだからしょうがないとして、注意しなくちゃならないほど会社員が走るのはことである。
■で、ある人から聞いた話だ。その人は高層のオフィスビルで働いている。すぐ下の階に、ベンチャー系というか、なにをしているのかよくわからない会社があるそうだ。社員の大半は若く、一見すると、まるでホストのようだ。で、ほかの階にはいっさいそんな張り紙はないが、その会社のオフィスのある階だけ、「落書き禁止」という張り紙が壁にあるという。子どもの会社ではない。れっきとした大人が勤めている会社だ。そこに、「落書き禁止」という張り紙があるということは、つまり、「落書きをしてしまう大人」がいることを示している。それはちょっと笑った。ほっとくと落書きしてしまうのである。いかがなものか。
■ところで、「サイゾー」という雑誌で、チェルフィッチュの岡田君と、ポツドールの三浦君が対談しているのを読んだ。岡田君は、自分の作品とそれをとりまく状況についてロジカルに語るタイプだが、三浦君はわりと、直感的にものを作っている印象を受けた。というか、なにか人を食ったような話し方でそれが面白い。この二人に対談させるとは、「サイゾー」はとても立派な雑誌だ。「演劇」というジャンルにおさまりきらない、なにかふつふつわきたつものが、二人の作品から出てくるように思う。もちろん、二人の表現の方向は(共通する側面はあるものの)、あきらかにちがう。けれど、「表現」とは異なるなにか「通底するもの(=うまく言葉が浮かばない。なんだろう、核になるものというか、それを特徴づけているなにものか)」が存在し、それこそ現在だと思えて、僕は興味を持つ。その「現在」をぼんやり考えることが多くなった。それはなにか。フランスで演劇を研究しているY君に教えてもらった、Tandemの、「93 Hardcore」を見ていると、その背景を想像し、その詩をなんとなく読んで(部分的に翻訳してもらったのである)切なくなりつつ、やはり「現在」を感じるのだし、だから去年のフランスの暴動、そしていままさに起こっている抗議行動が生まれ、なにかが共時的に動いているように思う。岡田君も三浦君も、あるいは、もっと多くの表現者たちが、無自覚のうちに「現在」を肌で感じ、それを表出している。もちろん、どんな時代にもそうしたことに敏感だからこそ、表現者は、表現者たるものになっているし、時代を牽引するんだろうが、いま、なにか、また異なる変化を感じる。「現在」を感じるとはつまり、その変化の相を知りたいという興味だ。あるいは好奇心。この好奇心をなくしたらきっと保守的になってゆくだろうとつくづく。
■午後、信濃町で、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』に出ていただく、文学座の高橋さんにお会いした。いろいろ話しをする。高橋さんが気持ちよく舞台がやれたらいいと思う。俳優にはいつも、気持ちよくやってもらいたいのだ。そこはきっぱり、三浦君とはちがうよ、俺は(でも、あの俳優たちも、気持ちがいいのかもしれない。単なる興味本位ですが、ポツドールの打ち上げってどんな状態なのだろうか)。高橋さんが文学座に入るまでとか、これまでやってきたお仕事の話など、ごくふつうの、おしゃべりだ。そういう時間が必要だ。なにしろはじめて舞台を一緒にする方とはこういうことが必要になる。
■そのあと、この秋にある、『鵺/NUE』の打ち合わせのため、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターへ。スタッフ関連の打ち合わせなど。
リーディング公演のあと、「現代能楽集シリーズ」の企画者である野村萬斎さんから、いくつか意見をいただき、なるほどと思うこと、あるいは、僕もそれは感じていたことが、言葉になって示されたメモを渡されていた。もちろん、スタッフ関連、技術関連などの打ち合わせは大事だし、舞台を作るのにここをおろそかにしたらいけないが、舞台そのものについて、しっかりリーディングを踏まえて考える時間が僕にないのがまずい。戯曲はどうなのだろうと、まだ自分のなかでも揺れている部分がある。足すのではなく、引くこと。引いたところから、生まれてくるものを大事にしたい。ところで、『鵺/NUE』は清水邦夫さんの戯曲を大量に引用しているが、その清水さんが、初期の作品、たとえば『署名人』などを再演する企画があるのを、朝日の記事で読んだ。このところ、清水戯曲の再演熱ともいうべきものがあることに、私はリーディングのあとで教えられた。
■これもまた、なにかの共時性というものか。これも「現在」か。おそらく、岡田君、三浦君、「93 Hardcore」が反映する現在とは異なるものだろう。あと、僕は、「演劇内、演劇」という作品を二作書いてしまう。「演劇」がひとつのキーとなって語られる劇が、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』と『鵺/NUE』だ。そこにもちろん作家的な興味をもつ時代性が盛り込まれつつも、こんなに「演劇」について考えているのはどうなんだ。それをそのまま、作品にしてしまうのもおかしい気がするが、書きたかったんだ、そういう芝居が。書きたかったんだからしょうがないじゃないか。
■このあいだ、初期の演劇評などをまとめた『考える水、その他の石』について書いたが、そのなかの「荒くれステージレポ」がなぜ、荒くれていたかについて、思いだしたことがある。担当の編集者がまだ若い者だった。それで、その人に演劇を教えようと思って書いていたふしがある。あるいは、編集者がもっていた「演劇観」を変えさせようと思い、その編集者にむかって書いていたのではないか。それをするうち、僕も演劇を覚えていった。そのころは、一ヶ月に15本ぐらいは芝居を見ていたと思う。時間があったし、観ることでしか、演劇について考える手がかりがなかった。そんなとき、太田さんの『水の駅』を観た。その劇場で売っていた、太田さんの『劇の希望』という演劇論集を買ったが、それでどれだけ影響されたかわからない。あの担当編集者がばかでなかったら、あれほど、熱心に舞台を観ていなかったかもしれないと考えれば、彼女に感謝しなくてはいけない。もう名前は忘れてしまった。ある雑誌社の女性だった。ばかのくせに、ばかじゃないように演劇について語り出す。ときどき、僕に演劇について教えてくれたりする。それがことごとく僕の考えではまちがっている。でも、まあ、黙って聞いていた。原稿で教えるということをしていたような気がする。だからあれはあれで、大事な仕事だった。その後の自分の仕事につながってゆく大事な作業だった。
■その「ステージ荒くれレポ」を読んでいたのが、いまは講談師として活躍している、当時、「シティーロード」(情報誌)にいたYさんだ。連載をはじめた。短い文字数で、その月に観た芝居のことを評価するというそもそも無理のある企画だ。ところがそれが意外に人の注目を集める。同じ連載で何人かが書いていた。あるライターの方が、毎回、その月に観た芝居について、「今月は一勝四敗」とか書いていたのが、正直、なんだそりゃと思っていたので、あるとき、「というわけで、今月は、一勝〇敗十六引き分け」と書いた。ま、ふざけて書いたわけです。茶化そうと思ってそうした。怒ったろうなあ、それ以後、その人はあまり「今月は一勝四敗」というようなことを書かなくなった。
■そして、シティーロードの連載を読んでいたのが、当時、白水社から出ていた「しんげき」誌の編集長をしていたO氏だ。「しんげき」に毎月、劇評を書くことになった。当時、私の仕事は、この「しんげき」の劇評だけというものすごい時期だった。「宮沢はなにをしているんだ」とか、「宮沢は死んだらしい」という噂が流れていた。まあ、八〇年代のある時期、僕はそれなりに活動していたからだが。ところが、なにを勘違いされたのか、いろいろな雑誌から演劇について原稿を求められるようになった。あるとき、女の子向けのとてもかわいい雑誌から、おすすめの小劇場演劇を読者に推薦してくださいという仕事が来た。まあ、女の子向けの雑誌ですから、それなりに考えようもあるが、なんの疑問ももたずに、「新宿梁山泊」「燐光群」「第三エロチカ」などをあげた。編集者はなにも言わずに掲載してくれた。そして、演劇について、批評家ではないわりと軽めの書き手を雑誌は探していたのか、なにかっていうと、ぼくのところにそうした仕事が来たのだ。かなり驚いた事態になっていた。それがまだ、岸田戯曲賞を取る前ですから、演劇の世界のことなんかよく知らない。だけど、その時期に書いた、「しんげき」の原稿をはじめ、いくつもの仕事が、その後のためにどれだけ勉強になったかしれない。わからないから、原稿のために勉強するしかなかった。先日、新潮社のN君からメールをもらった。『チェーホフの戦争』(青土社)について、次のようなことをメールに書いてくれた。
それにしても、たとえば80年代の半ばごろを思い出してみると、それから20年後に宮沢さんが「チェーホフ論」を書くなどということは、考えてもみなかったのはもちろんですが、「ユリイカ」に連載を始められた時には、「ああ、やっぱり」というような、とても納得がいくような気持ちになったのは不思議なことでもあり、それは広くとらえて「われわれの世代」のなすべき仕事を宮沢さんも、宮沢さんとしてされているのだ、という納得の仕方であったのだと思います。
まあ、なにより驚いているのは私である。先のことはほんとにわからない。なるようになるとしか考えられない。まったく、10年前の自分は、いまの自分をまったく想像できなかった。ただ、そのとき興味をもったことに熱心になっていた。あるいは、「偶然」でしょうか。「ユリイカ」の連載も、たまたま、野田秀樹さんの特集があってそこに寄稿を依頼され、それがけっこう評判がよかったようで、連載をすることになったが、まさかチェーホフについて書くことになろうとは思ってもいなかった。『チェーホフの戦争』の見本を手にしたとき、ひとついい仕事をしたと、とても充実感があったけれど、それより、それを連載しているときの死にそうになっていた日々、あるいはゲラチェックの苦しさのなかでどれだけ学んだかのほうが、ずっと価値がある。
■まあ、ひとことでいうなら、「一球入魂」である。で、なぜその球に魂が入るかというと、「面白いから」としか言いようがなく、野球の「一球入魂」における「入魂」は勝負に勝つという精神的な強さの強調だろうが、僕の場合、「入魂」は、夢中になれるほど面白いかどうかだ。いわば、「夢中になる力」である。
■と、まあ、そんなことはどうでもよくてですね、「一球入魂」の精神で、いま目の前にある仕事をしようと思う。メールの返事もかなり滞っている。やらなくちゃいけないことがいろいろある。読みたい本がたまる。勉強ももっとしたい。うまいものも喰いたい。あ、日曜日(19日)はなにをしていたのだろう。ぼんやりしてしまった気がする。夜、買い物に出かけたのだな。ぱらぱらいくつかの本を読んでいた。とてつもなく風が強かった。
(6:19 Mar.21 2006)
Mar.18 sat. 「フランスのこと、バイクのこと」 |
■たびたびメールをくれ、様々なことを教えてくれるパリ在住で演劇を研究しているY君から、きのう書いた、フランスでの、新たな雇用制度(CPE)に対する抗議運動についてやはりメールをもらった(その後、フランス全土で150万人が抗議デモに参加したという)。やはり、「六八年」のパリでの「五月革命」とはあきらかにちがうという指摘がY君からもあったが、その文面のたとえば次の点に注目した。
違っている要素はいろいろあるのですが、何よりも違うのは大学進学率でしょう。たまたま今日出たル・モンドの記事を読んでいたのですが、ある社会学者が、現在70%程度のバカロレア(高校卒業=大学進学資格)取得率が、1965年にはわずか15%だった、という話をしていました。つまり、非常に大まかにいえば、68年の「革命」というのは、この15%によるものだったわけです。
大学進学率が15パーセントってことはつまり、きわめて選ばれた者たちが大学に来ていたわけだし、その人たちが行動した背景には強い思想性があったと読める(べつに優秀だったからとかではなく)。ここでの「ちがい」は、現在の学生による抗議行動が、思想性の薄い「権利獲得」のための運動だということだ。Y君のメールにも、「ぼくも博論を書いているところなので積極的に情報収集しているわけではないのですが、少なくとも耳に入ってくる話を総合した限りで印象に残るのは、全くといっていいほどイデオロギー的背景がない、ということです。もちろんある人もいるんでしょうけど、大学を封鎖している人の多くは、その煽動者も含めて、そうだと思います」とあった。「権利獲得のための運動」がけっして悪いとは思わないし、その切実さには、現在のフランスにおける失業率の高さがあるだろう。だけど、運動は、きっぱりしたイデオロギー的な支えがなければひどく脆弱に思える。
あれはたしか、大島渚さんの発言だったと思う。大島渚さんの時代の学生運動を支えていた大学の状況は、やはり、大学進学率のきわめて低い時代で、そこでの学生たちが持っていたのは、いい意味で、「選ばれて大学に入った者」の意識だ。「選ばれた者は社会に還元しなければならない使命感」があったという話だ。一九四〇年代から五〇年代の話。ところが、六〇年代の全共闘運動の背景にあるのは、「大学の大衆化」だ。その運動は、「社会に還元」といった意識がまったくないことによってきわめて脆弱で、単なるお祭り騒ぎだったといった意味(これはちゃんと引用しなくちゃ大島発言を正しく書いたとは言えないが)だと、とにかく、かなり否定的に大島渚は全共闘運動を語っていた。フランスの大学受験資格率の高さは、現在のフランスの大学が、大島渚がいう「大学の大衆化」と同じようになっているのを意味するだろう。
日本での政治的事件に対する無関心さを、現在の、「大学の大衆化」「学力の低下」「少子化」「大学全入時代」といった新聞の見出しみたいな言葉に簡単に結びつけることはできないにしても、少なくとも、四〇年代、五〇年代の学生のもっていた「社会への還元の思想」の欠如、「運動を支えるイデオロギーの欠如」はあきらかにある。では、現在のフランスはどうか。Y君の解説はさらに続く。
ではなぜ動いているかといえば、これも68年とは全く違って、68年には行きたければ大学に行ける15%はほぼ仕事に就きたければ仕事に就ける階層だったのに対して、今の70%は20数%の失業率に直面しているという非常に具体的な動機があるわけです。同じ社会学者によれば、現在では大学卒業者の半数は大学で受けた教育とは全く関係のない(つまり学位が正当に評価されない)職種に就いている、とのことです。要するに、学位取得者は増えたものの、それに見合う雇用ができたわけではないのです。実際、ぼくのまわりでも、大学を出てからもバイトしか見つからない人がたくさんいます。まあ日本でも同じでしょうけど。
Y君が最後に書いているように、状況はフランスに近似していながら、「せっぱつまった切実な実感」はそれほど感じていない印象を日本には受けるが、この楽観的な将来への展望はどこからやってくるのか。そしてもまた、そうなったらそうなったで、なんとかなるという諦念はどこからくるか。単純に「日本のよくわからない豊かさ」だと書いてしまっていいのだろうか。いよいよ不況が進み、「階級差が開いた」ところで自分の問題だと感じない。そして、それが迫ってくるかもしれないということを先延ばしにすることで、「いま」があると思える。「先延ばし」は、どこまで「先延ばし」できるのだろうか。ことによったら、「先延ばし」が続いているうちに、いつのまにか、いまの現状が(客観的に見ればどんなに悲惨でも)、あたりまえだと錯覚するのではないか。
■そして、フランスは移民の問題を抱えている。今回の抗議運動の前に発生した昨年の、移民の一部で起こった「暴動」のうらで、こんなことがフランス政府によってなされていたとY君のメールは続く。
この暴動の時にはブログと携帯メールがけっこう大きな役割を果たしたのですが、一方でこれが当局の介入を容易にするのに役立ったともいえます。ブログの方はプロバイダが警察の指導ですぐに自己検閲をはじめて、危ないサイトを次々に閉鎖してしまいましたし(出版社と違って、プロバイダがサイトの著作者の権利を守ったりはしないわけです)、携帯で「○月○日にエッフェル塔で集まろう!」などと書かれたメールが出回ると、その日に集会禁止令が出て、パリ中のおまわりさんがエッフェル塔に集まってしまうという次第です。どちらとも、ある程度までは何でも言えるものの、一方で極度に検閲が容易なメディアでもあるということでしょう。
インターネットはいつでも監視されている。最近、新しいウイルスが発生してそれが「山田オルタナティブ」と名付けられたと知って、ネーミングがいかしていると思ったが、これだけ新種のウイルスが発生すると、あれはマイクロソフトとアンチウイルス系のソフト会社の企みじゃないかと私は邪推しているのだ。ま、それはいい。
「現代思想」2月臨時増刊号(青土社)に、陣野俊史さんの、「ラップと暴動」という文章があって興味深かった。全文を引用したいが無理なので、そのごくさわりを。「10〜11月にフランス各地で起きた暴動をめぐり、若者に人気のラップ音楽が暴動をあおったかどうかという論争が国内で起きている」という。議会でこれがまじめに取りあげられた話は、いまこの国にいる限り、なにかの冗談なのかと思いもするが、問題はもっと複雑だし、ラップをする者たの姿勢がまったくちがっているとも読める。このニュース、日本のマスコミではほとんど報道されなかったらしい。
そして、Y君もまた、今回の学生の事件をまのあたりにしつつ、パリの土地の構造、移民問題を背景にして出現した次のようなラップミュージックの存在を忘れてはいけないことを教えてくれた。「TandemというRAPグループの『愛してくれるまでフランスをファックしてやる』という言葉が合い言葉になっていました」と、やはりY君の補足。ビデオクリップがこちらで見られる。ただ、クリップの映像はこのシテ地区――Y君によれば、「60・70年代に大量の移民を受け入れたものの十分に住宅の供給ができず、あちこちにスラムが出来かけていたために、80年代になってあわてて立てた低家賃の公共住宅のことです。その後の不景気で失業率が上がると、このシテに住む移民やその子供の世代が真っ先にそのあおりを受けて、以後そこから出られなくなってしまった、というわけです」だが――の現状を「ハードコア」の視点で描いているのを了解してから見た方がいいとのこと。つまりかなり虚構化された「シテ地区」の映像だということだろう。観るには、Fire Foxというブラウザでないと読めないようだ。MacのSafariでは読めなかった。と、一度は書いたものの、さらにY君からメールがあって、Safariでも大丈夫なようだ。映像からにじみ出るのは、すさんだ現状から出てくるうめきのようだ。で、そう書くと凡庸な印象になってしまうが、なんていうのかな、ある世代の、たとえば日本の演劇だったらポツドールなどの表現にも通じて感じる過剰さをたたえたグロテスクな姿だ。なにかが共通して反映している。
■夜、多摩川を越えて、すぐそこが川崎という場所にあるバイク屋さんに制作の永井と行く。まずは、作業場などを見学。あまりバイクのことは詳しくないが、形としてやっぱりバイクはきれいだ。2、30台のバイクが並んでいる姿も壮観である。さらに細かく見ると、エンジン部分などほれぼれするほどきれいだ。工業製品の美しさ。案内してくれたのは、このあいだ赤レンガ倉庫でフライヤー用の撮影をしたとき、レンタルしたバイクを運んできてくれたM君である。いろいろな工具がある。いままで仕事をしていた気配がある。オイルの臭いがずっと漂っていた。
■作業場の見学を終え、ゆっくりM君から仕事の話などを聞く。取材というより、ふつうに話しをする感じで質問し、それをメモしてゆく。とても面白い時間だったが、わかったことのひとつは、ヤフーオークションはすごいってことだ。M君の口からも、何度か、ヤフーオークションの話が出た。買い取ったバイクをこの会社で整備し、それをオークションに出しているのが普通だし、あるいは、バイク好きの先輩は、「きのうまた、パーツをヤフーで買っちゃったよ」と話すという。だから、バイクもまた、クルマやコンピュータ、あるいはギターをはじめとする楽器と共通することがすごく多い。パーツを買ってそれでカスタマイズするところなんかは、ほとんど同じ傾向にある。ジャンルは異なるが、みんな、好きなんだな、そうした遊びが。だけど、バイクも大きな排気量になるとクルマ並のものもざらにある。200キロ以上出るという。で、白バイに追いかけられたときは200キロ以上走れば逃げられるそうだ。さすがに危険だから、それ以上の速度になると白バイもあきらめる。でも、それだけスピードが出る白バイもすごいな。しかも乗っている白バイ隊の警察官もすごく運転がうまいらしい。あと、M君の仕事はすごく忙しい。朝10時から仕事をはじめ、終わるのが、夜の11時から12時になるときもあるという。彼女ができないと話していたが、もし、つきあっても、そのあとすぐ別れちゃうんじゃないかと悲観的なことをM君は話す。いいやつそうなんだよ。好青年である。まだ24歳のM君だ。誰かいないかと、知り合いのことを考えた。
■そうして話しているうちにずいぶん遅い時間になった。来るときは渋滞していた246号線も、さすがに帰るころになるとすいていた。とても貴重な時間だった。バイクに乗りたい気分にもなったが、さすがに、バイクは怖い。そんなことを考えつつも、先に書いたフランスの政治の状況と、こうしてM君と話したことが、「いま」という時間と、「世界」という大きな空間のなかで、どこかつながっているのを感じてもいたのだ。
(15:31 Mar.19 2006)
■フランスではまたたいへんなことになっている。ぼんやりしていたらニュースをちゃんと確認していなかった。日本の新聞の報道はこうだ。ニューヨーク・タイムズの報道ではビデオも見られる。リベラシオンはフランス語がぜんぜんわからないから、まったく読む手がかりがない。ル・モンドも同様であった。先日、といっても少し前になるが、『鵺/NUE』のリーディングのとき、観に来てくれた青土社のHさんから、『現代思想』の2月臨時増刊号「フランス暴動 階級社会の行方」を渡されていた。もっとちゃんと読むべきだった。そのときは、平井玄さんによる、「北関東ノクターン」という文章を薦められた(というのも、僕の小説『不在』、舞台『トーキョー/不在/ハムレット』が北関東を舞台にしていたからだ)ので読み、とても興味深かったが、それに触れる時間があまりなかった。というか、余裕がなかったのだが、北関東についてまたべつの側面からの視座を教えられた。
■で、パリで学生が暴動と聞けば、一九六八年の「五月革命」を思いだしてしまうわけだが、また同様の事態が起こってフランスの政情に変化が起こるかと期待したり、たとえば日本の学生の動きになにか期待してしまうのは、単に感傷のようになってしまうのが悲しいところで、「六八年革命」のその後の時代への反映は、もっとべつの姿になり、異常なかたちで支配的にあらわれているのが、いまのこの国だ。べつに幻滅はしないし、悲観もしない。ある世代の一部の人たちが、いまの若い者になにも期待していないと発言するようなことはまったくない。むしろ、もっと形の異なるべつの方法があるはずだと、前向きに考えたいからだ。
■で、いきなり関係ないが、なにか面白いことがあるのではないかと、「Hot Wired Japan」のサイトへゆく。いつも期待はさせてくれるが、ゆっくり目を通せば、あまり興味をひかれる内容がない。なぜかなあ。IT業界の話が主な内容だからだろうか。専門的ということなのだろうか。僕には関係ないからだろうか。では、メールマガジンの、「日刊デジタルクリエイターズ」は、なぜ、つい読みふけってしまうかだ。これが以前から疑問だったわけである。ただ、「Hot Wired Japan」のこういった記事はとても興味深い。こういうものだけでいいんじゃないのか。なにかやろうとして企画されたものがなあ。なんていうかなあ。
■僕の舞台によく出ている笠木と、久しぶりに会って話しをしたら、ある仕事の話を聞かされ、その共演者が僕にとっては驚くべき人だった。そういう話でめったに驚かないが、なんだよ、そうなのかよ、うらやましいじゃないか。もうすぐその実体があきらかになるらしい。
(6:38 Mar.18 2006)
Mar.16 thurs. 「もう春になってしまうとあせる日々だ」 |
■やはり、「偶然」は存在する。むかし刊行した『考える水、その他の石』を読んでいたことをきのう書いたが、白水社のW君もちょうど同じころそれを読んでいたとメールをくれたのだ。白水社のuーブックスで再刊しようかと考えていたという。それはとてもうれしいが、「1980年代論序説としての『虚ろなスタイル』をはじめ、宮沢さんの演劇論のベースになってゆく原石の輝きにあふれているエッセイ集だと思います」とあって、なによりうれしかった。しかし、こんな「偶然」もあるから世界は面白い。
■私のメインコンピュータとも呼ぶべきものを少しいじったら動かなくなってしまった(まあ、詳しく書くと長くなるので省略)。そこにはデータも大量に入っているからきょうは一日、その復旧などで汗だくになっていた。自作機である。なにが悪いのかわからないので、ひとつひとつパーツを調べてゆく。まあ、これはほっといてべつのコンピュータで、いま目の前に迫っている仕事をしようと思うが、気になるわけだ。仕事に集中できない。こんなときにやらなくてもいいことをしてしまった。気がつけば三月ももう、半ばを過ぎている。焦る。まず、「新潮」のM君に渡したい小説の直しをしようと、数日、少しずつ直している。構成を大幅に変更して、複雑になっている話を簡略化しようと考える。それがすんだら、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』の戯曲。「群像」の小説。大学と稽古がもう、はじまる時期になってきてしまった。ということはつまり、春である。
■こんど、川崎のバイク屋さんに取材に行く手配を制作の永井がしてくれた。バイク屋さんではどんな仕事をしているか、細かく見て、それから話を聞こうと思う。僕はバイクのことはなにも知らない。ただ、バイク屋さんのイメージだけはつかみたいと思うし、ちょっとしたエピソードは戯曲に盛り込むことができるかもしれない。平行しつつ、仕事は進行。こんなときにコンピュータなんかいじってる場合ではなかったんだ。あと、最近、書いているこのノートが長い。でも、書かずにいられなかったのだなあ。いろいろ見て、様々な種類の刺激を受けたからだ。それにしても、「汚さのリアリズム」はまだ考えるにあたいすると思った。チェルフィッチュの『三月の5日間』も観たいのだが、時間がなあ。岡田君の演出は端正である。三浦君とは異なるが、しかし、どこか共通するものを感じないではない。刺激を受けつつ、自分の舞台についてもっと考ることにする。
(3:56 Mar.17 2006)
「富士日記2」二〇〇六年三月前半はこちら →
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