|
|
|
■ぎりぎり「ユリイカ」の原稿は間に合った。16日からきょうの昼まで眠らなかった。しかも途中で鍼灸の治療も受けて大忙しだ。原稿を書いているあいだもメールチェックはしており、「タンブリン・ノート」のKさんからは眼科の医療機器についていろいろ教えてもらった。Kさんのお母さんは眼科に勤める看護士だったとのこと。で、メールに、「以下『ナースのための眼科学』という本から抜粋です」と僕が疑問に思った機器について詳しく書かれていた。
■気球に焦点をあわせる機器
機器の名前・・・オートレフラクトメータ(AR)
検査の名前・・・他覚的屈折検査
・屈折検査とは?
簡単にいえば、網膜面から焦点(像)がどこの位置で結ばれているのかを調べる検査である。つまり患者さんが近視なのか遠視であるのか、もしくは乱視があるのか、その度数を調べること。
【本の解説+母説明の私なりのまとめ】
従来(自覚的屈折検査)は、たくさんの検査レンズを使い、患者の視力を測りながらしらべていた。患者さんの協力が必要で、時間もかかっていた。このオートレフラクトメータなら、でた数値の前後のレンズだけを試して細かい調整をすればよいので合理的である。
【母談】
なんかすごい機械。患者さんにどういう数値のレンズをあわせればいいか、
ピッとでてくる。原理はようわからん。
原理はわからないよなあ。しかも、なぜ「気球」かがわからない。というか、あまりに突飛な絵でも困るだろう。でも看護士をやっていたお母さんにも「すごい機械」といわせるくらいだから、よほど画期的な検査機器だったのだと思われる。それにしても、昼間に行く眼科は、おそらくコンタクトレンズを作る人が来ているのだと思われるが(場所が新宿だったせいもあるが)、若い者がたいへんに多かった。僕はこれまで、眼鏡類にまったく縁がなかったし、幸いにも目の病気にかかることもなかったのでこうした機器はひどく珍しく、いきなり空気を発射して人を驚かす機械に出会ったときの衝撃といったらなかった。
■あるいは、白夜書房のE君は、桑原茂一さんと知り合ったころのことを書こうとした僕の記述を読んで、次のようにメールに書いてくれたのはたいへん示唆的だった。
80年代から現在に至る変化の総括は、大塚英志さんが「おたく」について書かれたものがありますが、「おたく」と「『ピテカン』に象徴される事象」とは表裏一体のものだったように思います。宮沢さんが「『ピテカン』に象徴される事象」の中で、「作り手」の側として80年代→90年代→現在と過ごしてこられた間に「なにを覚え、なにを学んだか(学ばなかったか)」は、宮沢さんにしか書き得ない話だと思います。学生さんたちや、若い「ものづくり」志望の人々に向けて書いてください。
E君といえば、八〇年代の半ば、ある日、稽古場にあらわれて僕の舞台の手伝いをしてくれたが、当時彼は学生で、まさにその世代といっていいだろう。もちろんどんな時代も様々な姿をしており、一口で語ることはできないが、「おたく」とは異なる、「『ピテカン』に象徴される事象」はたしかにあった。当時の、たとえば渡邊佑が編集をしていたころの『宝島』(なかでも「VOW」ですな)も時代を象徴していたし、糸井重里さんの「ヘンタイよいこ新聞」もあった。しかし、それらは雑誌や本として記録はすでになされているが、「クラブ」というある意味ではインスタレーション的なというか、仮構された空間に発生した文化は形として残りづらい。あまり語られることのない、「『ピテカン』に象徴される事象」は以前から誰かが記録しておくべきだろうと思っていた。引用した言葉の最初でE君は、「手伝います」と書いているが、それはもしかして本にしようという魂胆ではなかろうか。
本にすべきだと思う。だけど、僕がそれにふさわしいと思えない。一面は書ける。いや、E君がいうのはもっとべつのことだろうか。
先日、茂一さんに会ったとき、「クラブの文化はもうだめだよ」と話していたのは印象的だった(じつは同じ言葉を、10数年前にも茂一さんから聞いたことがある)。というか、「ピテカン」は特別だったという言い方もできるだろうし、「クラブ文化」というものがあったとしたら、「ピテカン」以外には存在していなかったとも言える。「ピテカン」がなくなってから、誘われてクラブに行くこともたびたびあったが、どこにもあの空気は感じられなかった。だからこそ、E君が言う、<「おたく」と「『ピテカン』に象徴される事象」とは表裏一体のものだったように思います>という言葉に意味を感じる。なぜなら、「ピテカン」が持っていた「閉鎖性」はただごとならなかったし、もちろん、「おたく」とはまったく異なる性格の文化だが、存在の仕方として構造的な共通項はたしかにあったと、E君のその言葉で教えられる。たしかに、そこに存在したのは(「おたく」にはまったくない)、「ただごとならないかっこよさ」だった。だが、「ただごとならないかっこよさ」の脆弱性と、虚妄性を感じながら僕は、「ピテカン」に出入りし、仕事をしていた。「脆弱性」と「虚妄性」は、茂一さんの意図とはちがうところで発生していたのだろう。ただ、「ただごとならないかっこよさ」には、「脆弱性」と「虚妄性」は、どうしたってつきまとう。「閉鎖的」でなければ、「ただごとならないかっこよさ」は維持できなかったし、「脆弱性」と「虚妄性」を必然としてはらむ、そうしたあやういところに「ピテカン」はあった。
そして、「ピテカン」が作り出そうとしていた「クラブ文化」は、単に表層として現在にまでつづく「クラブ」の状況として、形だけの「クラブ」として消費され、茂一さんが考えていた文化とは無縁の、単なる遊び場として反復されているだけだ。だからいまも続く「クラブという現象」は、皮肉にも「脆弱性」と「虚妄性」とは無縁だ。なぜならそれは、「文化」ではなく、ゲームセンターやテーマパークとたいして変わりのない「合理性に裏打ちされた浅薄で消費されるだけの空間」だからだ。そのぶん、経済的には強靱かもしれないが、べつになにも生み出すものはない。
■原稿を送り、ゲラを直してFAXを送った夕方、「ユリイカ」のYさんから電話があった。原稿の話を少し。それから早稲田の講義に、やはり編集者で、京都の大学の舞台芸術センターにかつていたHさんと一緒に来るという。学生にまじって話を聞くという。金曜日の授業はそういうことが可能だとはいえ、どう見たって、学生ではない二人である。このあいだ一番前の席に着流しの学生がいたし、それから先週は学生服を着た女がいて、話をしながら気になって仕方がなかったが、編集者の二人がいるかと思うと、いよいよ気になる。とはいえ、いろいろな人が来てくれるのはうれしいのだが。
■さて、小説を書くかな。
(3:05 may.18 2005)
■トップページ「PAPERS」を半年ぶりに更新した。まだ、『トーキョー/不在/ハムレット』の宣伝をしていたんだからお話にならなかったのだ。デザインをがらっと刷新したい気持ちもあったが、そこまでは無理だ。というか情熱というものがないのだな。
■いまさらなんだと言われるかもしれないが、「ユリイカ」に書く原稿のためにあらためてチェーホフの『三人姉妹』を読んで気がついたのは、これ、めちゃくちゃ面白い戯曲じゃないか、ということだ。それに関して詳しくは次の号の「ユリイカ」を読んでいただきたいが、ちょっとしたせりふを見逃していたのに気がついたことがきっかけで、面白さを再発見した。というのも、戯曲では、時間の経過がはっきりしないのだが、このせりふと、これを組み合わせると、では、「第一幕」はいつになるか、その発見だ。驚くべきことに(ほぼ)一八四八年である。それがなにを意味するかは「ユリイカ」を読んでください(あるいは自分で調べていただきたい)。そして、創刊されたばかりの「at」(太田出版)という雑誌に掲載された、「革命と反復 序説」で柄谷行人さんはきっぱり、「『一八四八年』は全面的に敗北した」と書いている。チェーホフはそれを先取りしている。驚いた。しかもそれを三人の姉妹を軸とした愛憎劇のように書いてしまう鮮やかな技法に感服する。お見事、というしかないじゃないか。
■本日(19日)は大学で授業が二コマ。「演劇ワークショップ」の授業が一コマ(90分)はさすがに短い。課題を与えて少し考える時間を作るとそれぞれの発表が一回で終わってしまう。で、また一週間あいてしまうのはもどかしい。一人一人に対してコメントするのも薄くなってしまう。30人近くいるしな。まあ、一年あるし、ゆっくりやってゆこうと思うのだ。で、二コマ目がはじまるのは夕方の6時。「演習44」という授業である。前期は戯曲を読む。きょうは、チェーホフの『かもめ』の二幕と三幕を読んだ。第三幕の白眉は、トレープレフが頭に包帯を巻いて出てくるところだろう。ここ面白いなあ。そのあと母親が、頭に包帯をぐるぐる巻きにしている姿を見て、「どこの国の人だかわかりゃしない」という意味のことを言う。笑うんだよなあ、これは、どうしたって。授業が終わったあと学内で出している雑誌の取材ということで学生からインタビューを受けた。その一人の学生が、私と同郷である。で、驚いたのは、かつて、『月の教室』という舞台を静岡県袋井市で市民と一緒に作ったとき、手伝いに来てくれたO先生の教え子だということだ。O先生は『月の教室』を上演したころ袋井高校で教えていたが、同郷の学生が掛川西高に通っていた時期は、そちらに赴任していたとのことだ。『月の教室』からもう四年だ。懐かしかった。
■昨夜(18日)、ちょっとした用事があって家を出ようとした直前、白夜書房のE君から電話があった。きのう書いたことの続きだが、すぐに出ないとまずかったので、いったん電話は切り、そのあとメールをもらった。「ピテカン」の話である。一度、相談しようということになった。そういう仕事はあまりしたことがないので魅力を感じたのは、「ピテカン」に関連する様々な人に話を聞いてそれをまとめるような作業だ。まずは、桜井君だろうな。で、さらに考えてゆくと、サブカルチャーの歴史を、時代ごとに「空間」で追いけかる話はできないかという構想も浮かぶ。
■といったわけで、まだ書くべき原稿はあるものの、少しのあいだ余裕ができ一息つく。あ、いろいろな編集者と会おうという約束をしていながら、なかなか果たせないのだ。まずは、WAVE出版のTさんと会って『資本論を読む』の単行本の話をしなくてはならない。
(2:28 may.20 2005)
■大学で講義。ひどく疲れた。というのも寝不足だったからで、四時間ほどの睡眠時間で授業にのぞんだわけである。わりとメモをとっていったので、話すことは決まっていたのだが、たいてい、一時間二〇分あたりでその日、話そうと思っていたことは終わるということがわかった。そうするとあと10分をどうするかということになって、どうでもいいことを話そうと思うが、なによりわからないのは、「講義の終わり方」である。「じゃあ、きょうはこんなところで」と終わるが、これまで小学校のときから大学まで授業を受けた経験はあったが、かつて受けた授業がどんなふうに終わっていたかもうかなり過去のことなので記憶がない。
■で、時間を稼ぐために、質問を受けるという手があるのではなかろうか。しかし質問というやつはたいてい出てこないのだ。教室とか、講演会場では質問が出ないが、あとから個別に話を聞きに来る人はいる。授業が終わったあと、早稲田の学生ではない人が質問をしにやってきた(なぜいるのかわからないが、それはそれでうれしかった)。質問は大歓迎である。まあ、質問の質にもよるが、きょうの質問の内容はいまあまり興味のないことだったので答えるのに苦労した。でも、まあ、がんばってもらうしかない。
■僕の授業にすべて出席しているSさんは、すべて出席していながらひとつも受講しているわけではないのだった。単位ももらえないのに出席してくれる。なにかと手伝いをしてくれる。で、そのSさんのお姉さんはNHKに勤めており、何年か前、お姉さんが作るラジオ番組に出たことがある。この姉妹が似ていないのだ。失礼なことを書くようだが、ほんとうに似ていない。で、いま学生のほうのSさんの声を聞いているうち、これは、どこかで聞いた声だと思えてならなかったのだが、似ていないだけにお姉さんの声ではない。だから、しばらくのあいだ、Sさんがなにを話しても、話の内容より声が気になって仕方がなかった。で、ようやくわかった。女優の深浦加奈子だ。話し方も似ている。それですっきりした。授業が終わって家に戻る金曜日の夕方は気持ちがいい。あ、そうだ、学生の一人からこの授業の飲み会をやりましょうと提案があった。それも楽しみだ。僕は酒が飲めないがそういう席は嫌いではない。いま、授業は一方通行なので、そういった場で、文芸専修の学生がなにを考えているか、逆にこちらが知りたいのだ。
■そういえば、京都造形芸術大学にある京都芸術劇場・春秋座で、太田省吾さんの作品が上演されるというお知らせを舞台芸術センターからいただいた。もちろん太田さんの作品にも興味があるが、かつて教えていた学生で、一年生のときから、こいつは面白いなあと思っていた、ウシオが出ると知って見たくなった。最初は、役者をやれよといってもなかなかやらなかったが、少しずつ舞台を経験しているうちに本人にも自覚が出てきたようだし、太田さんの舞台を経験することでまたよくなる気がする。時間があれば京都に行きたい。
(5:58 may.21 2005)
■小田急線参宮橋駅のちかくを散歩していると、奇妙な土地があって気になった。いまはなにもない更地だ。かつて都営住宅のあった場所だという。マンションでも建つのかと思ったら都は土地を売りにだすのではなく公園にするという。駅のすぐ近く、よくまあ、こんなところに公園を作ると、赤字財政の東京都に感心したが、よくよく考えてみるとおかしい。公園を作るのは付近の住民にとってはいいことだが、きわめて不自然だ。うーん、都営住宅のある土地の下って(つまり地下ね)どうなっているのか。あれこれ想像したくもなるのは、小田急線を挟んで向こう側は代々木公園、かつて、旧陸軍があったという地理的なこともあって興味はつのる。
■以前、短い小説も書かせてもらったことのある雑誌、「en-taxi」のTさんからメールをもらった。そのTさんとも会おうと話していながら約束を果たさず、連絡もしないまま、もうかなり時間が経ってしまった。メールは原稿依頼。六月末に発売される号で、「高田渡追悼特集」をやるとのこと。そのなかの短い原稿。声をかけてもらったことに感謝したが、しかし、高田さんについてうまく書けるか自信がない。
■MacOS 10.4をインストールしてみた。つまりヴァーションアップしたのだった。少し重くなった印象があるが、重くなったアプリケーションと、以前と変わらないもの、あるいは、少し速くなったものなど、一概に、いいのかどうかわからない。ただ、ネットの接続が遅くなった気がする。今回の目玉のひとつ「spotlight」という検索機能はすごく速い。コンピュータのなかのあらゆるファイルからキーワード一発で瞬時に検索。まあ、索引というやつを作る作業がまず先にあってこの検索機能が有効になるが、かつての索引作製には平気で「24時間」とか、「2日と3時間」などと、とんでもない「終了予定時間」が出た。10.4ではかなり速くなっているがどういった仕組みかそれはわからない。いつのまにかできていた。
■まあ、MacOS 10.4のことはどうでもいいのだが、私はご存じのように勘を頼りに生きているので、予定表というものがない。角川書店から青山真治さんの『月の砂漠』文庫版の解説を頼まれていたが、もう締め切りだということに驚く。頼まれたときはずいぶん先だと思っていたのだ。で、青山さんはまだカンヌにいるのだろうか。しかし勘をたよりに生きていると、日々がごちゃごちゃし、誰にいつ会ったらいいだろう、どの時間があいているだろうともたもたしているうちに、誰にも会えぬまま、連絡すらしていないのだ。ひとつひとつ、整理してゆくしかないのだな。白夜書房のE君にも会わなければならないが、以前約束していた人たちとの時間を優先すべきだろうと振り返れば、WAVE出版のTさんともまだ会っていないし、朝日新聞のOさん、打越さん、「群像」のYさん、それから……。連絡もしていない始末だ。いちばん確実なのは制作の永井に連絡していただくことです。永井に直接、連絡すると日程が決まります。申し訳ない次第です。順次、連絡はしてゆこうと思いますが、この場を使ってご連絡です。すいません。
(3:39 may.23 2005)
■別役実さんの『「ベケット」といじめ』(岩波書店)をはじめて読んだのはもうずいぶん過去のことになる。しばしば、そのなかで取り上げられているベケットの「行ったり来たり」というごく短い戯曲をとりあげワークショップや授業で使ったし(早稲田でも、チェーホフの次は、「行ったり来たり」を読むことにした)、同時に、「行ったり来たり」に関する別役さんの解釈も、僕なりにまとめてこれまで何度か話をしてきた。『「ベケット」といじめ』を読みたいという人は多かったものの、絶版になって久しい。それがこんど、白水社の「uブックス」のシリーズに入ることになり、これで多くの人が読むことが可能になるだろう。たいへんよろこばしいできごとだ。で、その解説を書かせていただくことになった。うれしいが、むつかしい仕事だ。いったい、あの別役さんの戯曲分析のあとでなにを書けばいいのだろう。
■むつかしいと言えば、「en-taxi」の、「高田渡追悼特集」への原稿だが、さらに編集をするTさんに教えていただいたのは、ぼく以外に執筆が予定されている方の顔ぶれである。そうそうたるメンバーだ。申し訳ないような気持ちになった。
■古書店に頼んでおいた本が届いたのでそれを読む。
■やっぱり、人の「日々」は、「きょうはこれをした」というスペシャルじゃなく、「きょうもこれをした」という反復が大半なので、「きょうもごはんを食べてしまった」という「単純さ」はきわめて幸福だ。しかし人は「劇の目」で日々を見つめたがるのでスペシャルじゃないと納得がいかず、スペシャルだけを表現しようとする。ぼくの日々のノートは反復です。ほぼ代わり映えのしない毎日をせっせと書いている記録だ。それをいかにして、ブレヒトっぽく表現すれば「異化」するか、あるいはロシアフォルマリズっぽく書けば「文節化」するかってやつだなあ。けれど、印象派の画家たちは同じような素材を、しかも同じような手法であんなに何枚も描いて、なぜ飽きなかったかといったことは気になるのです。モネは睡蓮を何年にも渡って描き続けた。音楽にも同じようなことがある。演劇も。小説も。反復によって生み出されるものと意味はなんだろう。
■で、いま、すごく長い文章を書いたんだけど、読み直しているうちにいやけがさしてばっさり削除だ。その時間があったら原稿を書かねばならんのだな。いつも原稿を書いている気がするが、しょうがないじゃないか、それが仕事なんだし。「考える人」の連載、なにを書けばいいか思いつかない。
(15:05 may.24 2005)
■まあ、していることといえば、原稿を書いているのが日常である。仕事だ。「考える人」の原稿が書けない。苦しみつつ、そのあいまに本を読む。国書刊行会の「文学の冒険」シリーズをすべて読んでやろうと思うが、なかなか進まない。あるいはいま、ものすごくゆっくりしたペースで読んでいるある本がある。これを読み切るのが今年の目標。人間、速く読めばいいというものではない。ゆっくりでべつに構わないのだ。学生のころ(七〇年代)、なにかの本だったか、誰かの話だったか、岩波新書を三日で一冊ずつ読むといいいとアドヴァイスを受けたことがあった(その正否はともかく、読まないよりはいいだろう)。あのころ、「新書版」といえば、岩波か、あるいは三一新書ではなかったか(三一書房は倒産したということになっているが、いまだに労働組合の活動は続いており、かつての勢いはないが、新刊も出ている)。あ、いや、中公新書もよく読んだ気がする。
■いまは、あれだなあ、新書というとどこの出版社でも、力を入れている分野だが、ここには「教養への呪縛」があると思われる。たしかに、基礎的な教養を、たとえば、「構造主義入門」といった本で身につけることはできるが、それだけでは、意味がないだろう。ただ、新書をはじめとする入門書をガイドに哲学書、思想書を読むときわめて理解できやすいという利点がある。サブテキストには最適だ。
■あ、そうだ。「ピテカン」のことをネットで調べていたら、「STUDIO VOICE」の二〇〇四年八月号で、「クラブカルチャー伝説80'S」というのをやっていたのだな。ぼくがわざわざ書くようなことではない気分になった。バックナンバーを取り寄せ読んでから考えようと思うのは、白夜書房のE君と今週、その件で会うことになったからだ。このノートに「連絡は永井へ」と書いたら、次々と連絡が入ったとのこと。というわけで、私はバナーまで作ってしまった。バナーをクリックすると永井にメールが出せます。このアドレスでの永井へのメールは仕事のことに限らせていただきたい。本人に了承はとっていないが勝手にアドレスを設定したのだった。
■ほとんど家を出ないで二日が過ぎた。「考える人」の連載になにを書こうか考えていた。もうひとつ出てこない。
(14:49 may.25 2005)
■夜、ある打ち合わせがあった。その後、同席していた制作の永井からスケジュールのことなど伝えられる。いろいろあって、そのとき思ったのは、これはことによると勘だけで日程をこなし仕事をするのはむつかしいのではないかという、あたりまえの問題だ。たて続けに打ち合わせや、ちょっとした仕事が入っている。来年のことなどもかなり決まってきた。
■すでにお知らせしたように、来年、遊園地再生事業団は、世田谷パブリックシアターの企画で、「現代能楽集」を上演する。内容は未定だが日程と期間は早くも決まっている。「リーディング公演」が、二〇〇六年二月二日〜五日のうち、三日ぐらい。そして「本公演」が、同じく二〇〇六年十月三十一日〜十一月十九日ぐらい。仕込み日(つまり舞台の準備ですね)もきっとこの中に含まれると思われ、正式な日程はまたお知らせします。さらに、ちょうど一年後の二〇〇六年五月、少し異なる種類の舞台を上演します。それはまだ詳しく書けません。遊園地再生事業団としてのオリジナル新作は(「現代能楽集」もオリジナルといえばオリジナルではありますが)、さらに先、二〇〇七年の秋になります。先の話だなあ。でも、それくらいゆっくり考えて、また異なる舞台の表現を作りたいと思うのだった。
■で、近いところでは、この夏、八月二〇日に、「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in EZO(公式サイトはこちら)」で、桑原茂一さんがプロデュースするテントに出演するのだけれど、持ち時間が二時間ぐらいらしい。いったい二時間なにをするかだ。基本は「笑い」ということで、ビデオを見せたり話をしたりの二時間、いつもの大学の講義のつもりでやればなんとかなるが、しかし、北海道だからなあ。しかもテントだし、ロックフェスティバルだし、なにかないかと思案する。誰か出たい人はいないだろうか。もちろん交通費はないよ。ギャラもないが、もちろん宿の保証もない。めしはおごる。北海道だから野生の食べ物が豊富だと思われる。好きに狩猟をしてほしい。木の実や、土に生えた草も採り放題だ。あと、いろいろなバンドを見ることができるのではなかろうか。夏の北海道はきっといいにきまっている。
■で、もう書いたことだが、この六月と七月の二ヶ月、毎週火曜日に横浜の「BankArt 1929(公式サイトはこちら)」でワークショップをやる。意外と忙しい。きっと小説も書くだろう。いろいろな人に会うだろう。
■あ、そういえば、新潮社のN君から原稿の催促と同時に、『牛への道』(新潮文庫)が増刷されたとの連絡があった。なぜか、『牛への道』ばかりが売れる。で、『牛への道』に入っている主なエッセイは、いまはなき、「ID Japan」という雑誌の連載だが、そのころといえば、なにもしていない時期で、僕がいちばん仕事のなかっただめなころだ。連載を書かせてくれた村松さんという編集者がえらい。八〇年代にはじめた仕事をすべてやめ、これからどうしようかと茫然としていたところへ村松さんから連絡があった。で、人ってのは、そういうなにもしていない者にはきわめて冷淡である。周囲から人がどんどん離れてゆくのがわかった。「あいつは死んだ」とか、「もうだめになった」など、いろいろ言われた。ま、そういうものだよね、人間は(ぼくもきっと似たようなことをしていると思う)。しょうがない。
■そんなときに連絡してくれたのが村松さんと、いまは「新潮45」の編集長をしている中瀬さんだった。あるいは、白水社が「しんげき」をリニューアルして出した演劇雑誌の対談に呼んでくれたのはその編集長だったW君だ。この人たちのおかげで私はどうにか生きている。で、こちらが少し調子が上がってくると、離れていった連中(主に八〇年代の仕事関係の人)がまたやってくるのだが、手のひらを返したようなその態度が見事である。そういう人とはもう仕事をしません。でも、まあ、私は眠るといやなことはたいてい忘れるたちなので、そういうのもほとんど忘れたな。誰がどんなことを言ったか、言葉は覚えていても「いやだった」という感情はもう忘れた。それより、村松さんたちへの感謝は忘れていない。中瀬さんとW君には連絡しようと思えばすぐにできるが、村松さんはどうしているだろう。メール、一度、もらったんだよな。返事をしそびれたんだ、なんかそのとき忙しくて。悪いことをした。誰か、むかし、「ID Japan」という雑誌の編集をしていた村松さんをご存じの方がいらしたら、所在を教えていただきたい。あるいはご存じの方はここにこうして書いていると村松さんにお伝え願いたい。
■そんなことをぼんやり考え、そうやって、たかだか、三十分か、一時間。
(7:54 may.26 2005)
■「ユリイカ」(青土社)の最新号が届いた。見れば「ムーンライダーズ」の特集で、冒頭に鈴木慶一さんの長いインタビューが掲載されている。そもそも、この号はほとんどムーンライダーズの記事になっており、どうなっているのかと思うほどの特集ぶりである。様々な角度から取り上げている。読み応えがある。インタビューを読んで鈴木さんの考えもいろいろわかり、ようやく理解できたことも多かった。その特集号に僕の連載も無事に掲載されている。そして「チェーホフを読む」の連載もいよいよあと一回だ。苦しかったが、終わるとなるとさみしいもので、もっと書きたいような気持ちになるから困りものだ。
■さて、大学の授業。「演劇ワークショップ」と名付けられた一文の学生に向けた授業は、ほんとに時間がない。課題を出し、それぞれが一回発表するともう時間がぎりぎりだ。これが五時限目なわけですが、次が同じ教室で二文の「演習44」になる。前が終わるのがぎりぎりだから、すぐに次の授業に移らなくてはならないし、しかも時間は夕方の六時。空腹を感じつつの六時限目だ。「演習44」は戯曲を読む。チェーホフの『かもめ』の第四幕と、ベケットの『行ったり来たり』をきょうは読んだ。で、毎回、学生が分担してレジュメを作ってくれるが、ちゃんと別役さんの『「ベケット」といじめ』を読んでまとめてくれた。しかも今回のレジュメはかなり詳しく書かれ充実している。そうそう、この授業にも「もぐり」の学生はいるわけだが、その一人、Fさんからメールをもらった。このあいだ授業でも話題になったのは、「最近の劇はなぜ性的なものを露骨に描写するか」について。メールにあったFさんの解釈がとても興味深かった。で、あらためてこの問題を仔細に検討してゆく必要があると思ったものの、ことがことだけに、仔細に検討するのがどうにも照れくさい。どういった態度で検討し、分析すればいいというのだ。
■五月の連休が明けると学生の数が減ると言われていた早稲田だが、それでもやっぱり多い。そもそもの人数が多いからしょうがないのだろうな。きょう教室に使った部屋はまだ新しい建物にあるが、その二階の外はテラスになっている。一画が喫煙所になっているが、先週はそのテーブルで麻雀をやっている学生がいた。珍しいなあ、いまどき、麻雀をやる学生も。しかも学校の中で手積みだ。見ているうち、むしろ、私はなんだかうれしい気分になったのだった。ただデジカメを持っていなかったのが失敗で、麻雀をしている学生をカメラにおさめたかった。大学といえば、以前、教えていた京都の大学に、ある有名な芸能関係の人が教授として就任したという話をどこかで聞いた。なにを考えているのだと学校のことを憂いたのは、太田さんをはじめ、舞台関係の教員が、この数年で積み上げてきたもの、あるいは、舞台芸術センターがやろうとしている志のようなものを、ぜんぶ無駄にしてしまうような人事だからだ。有名人が教員になったからって志望者が増えるわけがないじゃないか。そんなに受験生はばかではない。そんなことより中味だろ。いい教員がそろい、教室や劇場をはじめいい環境が整い、映像・舞台芸術学科はかなり充実していた。そういったことがこれからようやく実を結ぶだろうと思うときに来て、この有様だ。京都の大学とはもう僕は関係がなくなったが、なんだか腹立たしい気分になった。
(4:11 may.27 2005)
■午後、授業。金曜日は文芸専修の学生を対象にした講義。よく見ると、どこから見ても学生ではない二人がいて、途中で発見して笑い出しそうになった。「ユリイカ」(青土社)のYさんと、以前まで、京都芸術センターにいて京都の同じ大学で一緒に働いていたHさんだ(確認しなかったのでまちがっているかもしれないが、Hさんはいま、青土社にいるらしい)。これまでこの授業は、「からだ」を基本にして、「書くこと」「言葉を発話すること」「声」「読むこと」など講義をしてきたが、きょうのテーマはいきなり、「サウナ」である。やっぱり一時間二〇分ほどのところでもう話すことがない。質問を受け付けたが、けっこう手をあげる学生がいて、答えるのはそれはそれで面白い。一番前の席に、いつもいる「もぐり」の学生。その学生の提案で、話の途中でも質問を受け付けたらどうかとのことで、というのも、一時間二〇分話し続けるのを見ていると、途中で、しんどそうだからだという。
■たしかに、話し続けるこの授業はひどく疲れる。もっとうまくやる方法があるような気がする。あるいは、話の構成など、授業の進め方を考えるのも面白い。なにかあるな、まだ。ところできょうの「サウナの話」は、だいたいのところは考えてあったし、メモもとってあったが、ほとんど思いつきでしゃべった。サウナとは、社会性を持った人間がその入り口をくぐり、なにかべつの場所へと変容する装置だ。いわば、「近代的なる人物」が、「反近代」へと向かう空間だというでたらめな論を展開した。つまり、ロビーではまだ近代的人間が、裸になり、風呂に入るという過程で、「反近代」への意志を持ってさらに先へと向かう。その「先」にあるのが、およそ、「近代的」とは思えぬ、「サウナ室」だ。なにしろ、そこでは大の大人たちがほぼ全裸で汗だくになっているのである。こんなにも近代以前によく似た異世界があるだろうか。だとしたら、サウナのあの、「休憩室」とはなにか。そこを私は、「どこにも属さぬ曖昧な空間」と位置づけた。と、もっともらしいが、話をしながら思いつきで考えたことだ。そこから、サウナの休憩室で私が出会った中上健次へ、あるいは一九九九年に発生した池袋通り魔殺人事件へと、話を展開。それを、演劇や文学における「表現すること」へと結びつける。いってみれば、でたらめな話である。思いつきではなく、もっと構成をしっかりしておけば、面白い話になったと思われる。次回は「記号的なるもの」について話そうと思っているが、きちんとメモをまとめておこう。というか、もう少し落ち着いて話そうと反省する。
■終わってから、Yさん、Hさんと明治通り沿いの「ビック・ボーイ」というファミレスで話をする。「ユリイカ」の次号の特集は「演劇」だという。いまの小劇場の新しい潮流に焦点をあてたもの。それも楽しみだ。
■学生がクラスコンパというものを企画してくれた。それが六月三日なのだが、よくよく考えてみると、その日は、サッカー日本代表の「バーレーン戦」ではないか。失敗した。少人数ならうちに呼ぼうかと考える。そうすれば話もできるしサッカーも見られる。でも、サッカーより学生と話しをするほうが、いまは面白いな。
■ところで、あまりテレビを見ない私ですが、スポーツ中継のほかに楽しみにしているのが毎週金曜深夜の「タモリ倶楽部」だ。なにが面白いかというと、新聞のテレビ欄でその週、なにをテーマにするかを見、それで出演者を予想することだ。わりとエロなテーマだとするなら、進行は、浅草キッドかガダルカナル鷹だろう、ゲストに漫画家の江川なんとかいう人だろうとか、まず、あの登場のところで気分が高まるのだ。そうするとあとは、展開によっては面白いが、興味はあまりなくなる。惰性で見る。なんという「反復」と「惰性」の番組なのだろう。まあ、それも面白い部分ではあるのだ。
■いまは大学を中心に週がまわっている。授業のことを考える。読書はさぼりがちだ。それも仕事のうち。あるいは書くこと。小説だ。やっぱり勘だけで生きるのにも限界がある。
(7:09 may.28 2005)
■やけに早く目が覚めてしまった。時計をみると、まだ朝の六時だ。それからこのノートを書き、さらに、「en-taxi」の原稿を直す。Tさんにはもう送ったのだが、ここをこうしてほしいと返信があって僕も納得したので書き足した。途中だったが、いったん筆を置く。まだ朝の早い時間だ。思いきって、「MacPower」の連載にも手を付ける。書き上げてしまった。驚くべき労働である。さらに本を読む。自分の勤勉さにあきれた。こんなに働いていいのだろうか。なにか恐ろしい罠が仕掛けられているのではないか。こんなに勤勉だったことはこれまで一度もなかったのだ。
■それで私は、もう一度、眠りました。
■午後、まだ早い時間に眼が覚め、東京オペラシティのなかにあるカフェで白夜書房のE君と打ち合わせをした。以前から書いていた「ピテカン」のことなどである。いろいろ話しているうちに、E君の考えていることもわかったが、どういったスケジュールでできるか、書き下ろしができるかなど悩んでいたところ、E君の意見で大学の「講義録」という手があるのを発見したのだった。後期(10月)から東大の教養学部で非常勤の講師をやる。そこで、演劇とからめつつ、都市のこと、八〇年代文化、おたくなどをキーワードに話ができるのではないかという考えだ。東大といえばE君の母校である。これはちょうどいい。というか、なにかの縁であろう。そのためには、結構、勉強しなくてはいけない。大塚英志さんの「おたく」という切り口によって解読された八〇年代の話や、一種の都市論も必要になると思われる。講義するという課題が毎週あるから、これは必然的に勉強することになるだろう。
■で、E君と別れたあと、またべつの原稿を書こうとしたらやはり眠くなった。また眠る。なぜか眠い。眼が覚める直前、夢うつつのなかで、「笑い」について考えたのは昼間、E君と会ってモンティ・パイソンの話などもしたからだろうか。いつだったか、「笑い」は「手段」ではなく、「目的」だと書いたが、そのことの確信に近いひらめきというか、考えが不意に浮かんだのである。「武器としての笑い」という思想はだめだという問題だ。これはかつて「批評空間」という雑誌で柄谷行人さんが、「アナーキズム」について語っていたことに通じると思った。最近、読んだ本に、北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)がある。社会学の本として整合性に欠けるのじゃないかと思うところはたしかにあるが、しかし、刺激的で興味深い論考が随所にある。それはネット社会(主に2ちゃんねるのことだが)、そこにあるのが、「シニカルな嗤うという態度」で、そうした心性がどこからやってきたかを八〇年代の、たとえば糸井重里などの表現から追跡する。
■で、私の考えをそこにつなげてゆくと、「シニカルな批評の笑い」という手法があり、それはひどく杜撰に一般化した。かつて「風刺」と呼ばれた種類の「笑いの方法」がいま無効なのは、オーソドックスで凡庸な笑いだったからだが、さらに「批評の笑い」でさえ、誰もが使える安易な道具になってしまった。「武器としての笑い」とある人が書いたとき、「武器」の対象は、「権力」や「制度」だったろう(きわめて戦後民主主義的に)。だが、「方法」を手に入れた者らに、対象がまったく異なる者がいることは「武器としての笑い」と書いた時点で、書いた者の視野にはなかった。ナショナリズムやファッショが、逆に、そうした「笑いの方法」を手に入れ事態は劇的に変化する。簡単になんでも笑えると思う凡庸でつまらない態度が、ネット社会を覆っている。いわば手段として「笑い」が消費され、そこにナショナリズムを形成する力として作用した。「笑い」は本来の姿ではなくなる。陰湿なシニシズムとしての「手段」になる。
■だからいま、「笑い」はつまらない。誰もが使える安定した道具として存在するからだ。そして、柄谷さんが指摘していたのは、戦前の多くのアナーキストが、その後、右翼に転向したことだが、いま、「笑い」によって引き起こされる「ナショナリズム」の構造は、アナーキストの思想的な帰結とどこかで通じ合う、というか、「なぜネットの嗤いがナショナリズムになってゆくか」という本質的な問題を考えるヒントがそこにあると思える。構造は同じだ。「ある種類の笑いを道具として使う者」と、「アナーキスト」の思想的な存在のありかた。そして、なお考えるに値するのは、なぜ、アナーキストたちがそこに帰結していったかを掘り下げてゆくことで、「いまの笑い」のつまらなさの構造を検証することだ。と、ここまで書いていまさら、あれだが、正直、あまり掘り下げることには興味がわいてこない。なにしろ、「笑い」に関して言うと、ネットで書かれるものの大半は、要するに素人がプロをへたに真似しているだけという印象を受けるからだ(いや、もちろん、面白いことを書く人はいます。私はしばしば、城田あひる君と寝屋川のYさんの、日記やブログで大笑いしている)。繰り返すが、だからいま、一般に流通する「笑い」はつまらない。
■深夜、都内をクルマで走る。六本木ヒルズの書店は深夜までオープンしているが、建築やデザイン、美術書は見ていて面白いが、なんというか、あまり興味のひかれる本はなかった。なんなんだ、この本屋は。
(5:40 may.29 2005)
■よく知られているように、「勤勉」のあとにやってくるのは、「怠惰」である。なにもしない日曜日だ。一日ぐらい休みにしたっていいじゃないかと思うが、こういう仕事をしていると、一日でもなにもしていないと焦るのである。本の一冊も読まなければいけない。もっと小説を読もうとか、書くべきことはまだ残されているし、いつ死ぬかわからないから、それまでにどれだけ書けるか、時間がない、まったく時間がないと焦って「休み」を取れば取ったで健康に悪いのだ。(写真は、あまり意味がないが、「怠惰」をテーマにしてみました。去年の夏のある日の午後。北関東で)
■このフレーズ以外になにかないかと思うけれど、テレビドラマ版『14歳の国』を演出してくれたドラマディレクターのO君から、ついこのあいだ書いた八月二〇日の、「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in EZO(公式サイトはこちら)」について、僕の演し物のことである提案があった。うまく実現したらとても面白くなりそうなアイデアだ。いよいよ北海道が楽しみになってきた。提案してくれたO君に感謝した。
■「探す」で思い出したが、ものはどんどん増えてゆくのである。部屋は狭くなってゆく。所有することにこだわらない人がうらやましい。私は所有欲が異常に激しいのだと思うが、図書館で借りてもいいような本でも、所有せずにはいられない(というか、もちろん、それが仕事の一部ってのもあって、いつでも参照できるように手元に置いておきたいのもある)。大学から受け取る書類類が大量にあり、それも堆積してゆく。郵便物も日々届く。そういったものを見ているとだんだん憂鬱な気分になり、片づけるのも億劫な、片づけることを考えると、何もする気にならなくなってきて、ひどく気持ちが低調になる。いやだいやだと、生産性ががたっと減少するし、なんとかしなくてはと考えはじめるといよいよ気分が落ちこむ。家にいることが多いので、なおさらそうだ。なにもする気になれなくなる。助けてほしいよ。
■それにしても、『トーキョー/不在/ハムレット』で詩人役をやった南波さんの日記で、早くチェルフィッチュのワークショップのことが書かれないかと待ち望む毎日である。あと、一緒に参加したという「ボクデス」の小浜も書いたらどうなんだ。小浜の日記にはなんとなくの印象が書いてある。具体的なことがもっと知りたい。まあ、会って話しを聞けばいいんだけど、みんな忙しいのじゃないだろうか。私はわりとひまである。というか時間が自由にできる。ま、いろいろ制約はあるが。
■沖縄に住むMさんという方からときどき、「SO505i通信」というメールをいただく。つまり携帯電話の「SO505i」からいろいろなことを報告してくれたり、話してくれるのだが、唐突に、きょうは「ふられました」というメールだった。もちろんMさんとは会ったことがないし、ぼくのほうから返事を書いたこともないが(申し訳ない)、届くととてもうれしいのだ。ただ、「ふられました」というメールに対してはどう対応していいものか困る。でも、沖縄はいいよな。「京都」「沖縄」ってやつは、人のなにかをくすぐる。「夏の北海道」もいい。だから今年の夏はとても楽しみだ。
(7:43 may.30 2005)
■せかしているかのようにここで頼んだわけだが、南波さんが、チェルフィッチュの岡田君のワークショップのことを書いてくれた。ほかの演出家のワークショップや、演出そのものについて知らないし、あまり公開されることもないので、これは貴重な記録だ。ありがたい。ためになるなあ。もちろん、平田オリザ君をはじめ、出版されているワークショップや演出の記録もないことはない。しかし、それは整理されすぎているきらいがある。「演出家が書く」という行為は、自身の演劇観によって、ある体系を形作り、ワークショップの臨場感が薄れ、あまり面白い読みものでなくなる感があるのだ。整理される直前の、しかも受講者による感想は、それもまた、「書かれたもの」ではあっても、演劇観の体系にはなっていない。「記録」であり、より生々しい。だから貴重だ。
■単純にいうと、あ、こういうやり方があったかということの発見が読む者としてはあり、さらに、そのワークショップの方法を分析することで、なにを演出家が問題にしているかがわかって興味深い。演出家が語るより、受け手が読み解くことに意味がある。スタニスラフスキーの『俳優修業』は、ある種の小説の体裁をとり、演出家によって指導される俳優志望の若者が書いていることになっているが、やっぱりなにかちがう。翻訳の問題もあるとは思うが、どこか違和を持った。なぜなら、答えが先にはっきりしているからだ。
■またなにか、ワークショップについて考えようと思う。それはつまり、「演出」について考えることであり、「演劇」そのものへつながる。南波さんによる岡田君のワークショップのレポートを読むと、「演劇」がどのようにして発生するかという、きわめてプリミティブなところから「演劇」そのものを岡田君が考えている印象を受けた。興味深かった。南波さんにつくづく感謝だ。あと南波さんは太田省吾さんの演出も受けたことがあるのだから、その話も記録しておくべきだ。というか、僕が知りたいだけなのだが。
■雨だった。で、ご存じの方がどれほどいるかわからないが、この「富士日記2」からバックナンバーの日付の順序を入れ替えたのだった。と書いてもうまい説明になっていないが、たとえば、いま書いているこれは、最新の日付が上に来るように書いてある。だが、バックナンバーは、そのままだとひどく読みづらい。だから5月なら、上から順番に、5月1日からはじまり、下へ向かうにしたがって日が進むようにした。それをこつこつ数日かけてやり、いまはもう完成している。なんというまめな作業だろう。なんて男らしい仕事だ。俺は山男か。意味がわからないが。
■それにしても、南波さんのレポートにあった岡田君の方法に刺激されたな。べつに同じようなことをしようというわけではなく、稽古するということに含まれる、「探求」そのものが面白い。これからは「探求」だな。表層で演劇を考えたり、風俗として演劇をおいたり、あと、わけのわからないことに惑わされることなく、ただ「探求」だ。なぜ「探求」かといえば、面白そうだからだ。だって面白いだろ。考えることは。
(2:54 may.31 2005)
May.31 tue. 「ことばを探して、あるいは新不自然主義」 |
■昼間、WAVE出版の竹村さんに会って、いよいよ『資本論を読む』の単行本の話を具体化しようと打ち合わせ。いい本にしたい。連載の原稿ももちろん入っているが、これまで書いてきたこのウェブ日記の、雑誌連載時に書いた記述を盛り込む予定だ。今年はこれから、この単行本のほかに、理論社から「よりみちパン!セ」というシリーズの一冊で「演劇」に関する本を出し、さらに、青土社より『チェーホフを読む』が単行本化される。「よりみちパン!セ」は書き下ろしだ。やったことがない。
■夜、早稲田に行って九月に発表公演のある授業の打ち合わせをする。公演場所の候補にあげられている教室や、新しい小野講堂を見学。新しくなった小野講堂はすごくいい。わたしのほかに、ダンスの山田うんさんも一緒に舞台を作るが、山田さんの声を聞いていて、どう考えても、それは僕の舞台によく出ていた宋ひさこである。話し方も同じだ。もう、顔を見なかったら区別がつかないほど同じである。で、たまたま六大学野球で早稲田が優勝したとかでこの日の早稲田周辺はたいへんな騒ぎだった。噂には聞いたことがあったが、これが、あれなのか。そういうことで楽しめるのは幸福なことなのだろうと思った。
■五月も終わるにあたっていまこそ「探求である」ということはすでに書いたわけだが、演劇における、「俳優の身体論」とか「俳優術」といったものとはべつに、「言葉」のこと、あるいは「劇言語」といったものへの「探求」を深めたい。そう思って、以前も書いたが「現代詩」を手がかりにしようと、詩の世界ではいまなにを問題にしているか、『詩と思想』(土曜美術出版社)や『現代詩手帳』(思潮社)、そのほか詩集など詩に関する雑誌や本を新宿の紀伊國屋書店で買った。『現代詩手帳』で、友部正人さんが、「ジュークボックスに住む詩人」という連載を書いている。今回は「高田渡の歌」と「詩」についての話だ。「en-taxi」の高田渡追悼特集に僕が寄稿したのは、高田渡はなぜ、反復するように若いころから同じ歌を歌ったかだが、友部さんは、「反芻」という言葉を使って高田さんの歌と言葉について書き、僕なんかが書いた文章よりずっと、高田渡の「からだ」と「言葉」の関係、あるいは「言葉」そのものを的確にとらえていると思った。すごくいい文章だった。
■で、それも興味の引かれる話だったが、いまは「探求」だ。まだ詩の世界がうまく把握できない。面白い詩、いい詩はわかるが、そこからなにを学ぶか。もっと読むべきなのだろう。「絶対的な口語」とも呼ぶべき、チェルフィッチュの岡田君をはじめとする劇のことばはあり、とても面白い。それとも異なることばはなにかないか。これまで使われ続けてきた手あかのついた凡庸な劇言語からどうやって逃れるか。たとえば、「詩的劇言語」と呼ばれるときの「詩」は、いま現代詩を考えているような人からみたら、凡庸ではないか。私も凡庸に感じるし、むしろ恥ずかしくさえある。ちょっとどうかと思うような「劇言語」は数多くある。ちょっとおまえ、それ、恥ずかしくないかとばかりのせりふだ。九〇年代、ある種類の人たちは、そうした劇言語を、「なんでもない言葉」を対置することによって批評した。なにもない、劇の言葉とは思えぬ、どこにでもあるような言葉が、逆に劇の制度を変容させる。だが、旧態依然とした演劇にこだわる者らには、その意味がまったく理解できなかっただろう。ただのなんでもない言葉でしかない。演劇とはこうしたものだと言葉は安易に流通した。そして、旧態依然とした劇言語への批評は「絶対的な口語」になったが、そうした言葉が「自然主義」であるわけではなく、むしろ、きわめて不自然だ。もちろん肯定的にその「不自然さ」をとらえれば、いってみればそれは「新不自然主義」である。
■また考え直す時期に来ている。だからといって、過去の反復ではいけない。「反動」ではない。その先だ。
■以前、おおはた雄一というブルースマンを紹介してくれたMさんからまたメールをいただいた。つい先日、そのおおはたさんと、高田渡さんの息子さんの高田漣さんとのライブがあったとの話。とてもよかったそうだ。見たかったな。演劇もいいが、音楽ももっと聴きたい。このジャンルってわけではなく、僕は様々な音楽が好きだからもっといろいろ聴きにゆきたい。岡田君のワークショップについて教えてくれた南波さんはこんど、その高田漣さんと芝居を一緒にやると教えてくれた。へえと思ったのだが、どんな舞台になるのだろう。スティールギターを弾くのだろうか。芝居をするのだろうか。たいへん興味深い。
(8:17 jun.1 2005)
「富士日記2」二〇〇五年五月前半はこちら →
|
|