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Jan.31 tue. 「シアタートラムの舞台で」 |
■朝、わりと早く目が覚め、睡眠不足。仕事をしようと思いつつ、本を読む、このノートを書き終えアップしたのが午前10時半。けれど少し眠い。早く起きすぎた。三時間ほど眠ってから稽古に行こうと思ったが、ふと、11時から用事があるのを思い出した。やぼ用。あわてて外に出る。ことなきをえる。よく思い出したなあと自分に感心したが、感心するようなことではなくそもそも覚えていなかったのがいけないのだ。なにしろ私は勘を頼りに生きているのである。家に戻ったがもう眠っている時間はない。音楽を聴いたりしているうち稽古に行く時間になった。あらためて外に出たのは午後三時半。
■世田谷パブリックシアター・トラム(小さい方の劇場)できょうから稽古ができる。音響も、簡単ながら照明も入る。流しながら、動きを中心に見、チェックすべきところで止めつつ稽古する。うまくいかないところを何度かやってみる。稽古場は小さかったから、舞台になると出のきっかけがきわめてちがう。稽古場に比べて舞台は広い。つまり出はけの場所から演技空間までが遠いということ。少し早く出てこないと遠い。そうした稽古を終えて一段落ついたところで、まだ中途半端な部分を抜きで稽古。だいぶまとまってきた。「リーディング公演」はつくづく稽古の量とか質がよくわからない。どこまでやればいいかがよくわからず、あんまり稽古しちゃってもねえ、ふつうの舞台とどこがちがうかになってしまうけれど、かといって、なにも伝わらないのも困るから伝えたい部分は細かく稽古する。で、その後、少し休憩してから通し稽古。上演時間1時間40分。一年前の公演『トーキョー/不在/ハムレット』が休憩なしで2時間50分だったからこれはきわめて短い(比較として)。まあ、小品という感じの劇である。
■夜10時過ぎに劇場を出た。疲れた。
■そういえば、ナムジュン・パイクが死んだ。八〇年代に原宿にあった「ピテカントロプス・エレクトス」では、ヨーゼフ・ヴォイス、ナムジュク・パイク、坂本龍一らによってコラボレーションパフォーマンスがあったとどこかで読んだ。僕は見ていない。すごいな、ピテカン。ものすごいことになっていたのだな。ハイカルチャーとサブカルチャーが一つの空間で邂逅する。それも八〇年代か。ピテカンの特殊性だ。クラブといったって大衆化された現在のそれとはまったく性格の異なる空間だった。現代美術、現代音楽、現代文学、現代演劇に嫌悪を持つ人がいるのは知っているが、その一面を理解できないわけではないし、当然、現代美術らにも「ひどいしろもの」があるのは当然だ。現代美術だからってなんでも許されるわけじゃない。嫌悪する者らが依ってたつサブカルだって同じだ。ただヒエラルキーがくだらない権威主義によって構成されるのはおかしいのであって、ハイカルチャーばかりが無条件にえらいわけではないものの、安易な相対主義も有効ではない。八〇年代の「負」のひとつに「ハイカルチャー」の安易な消費があった。するといかにも上品な態度でわかった顔をする連中を見て、嫌悪する者はそれを否定したと想像する。作品そのものではなく、それを取り巻く環境への嫌悪(=否定)ではなかったか。八〇年代はそれを生み出した。九〇年代になって「否定」は肥大する。それはハイカルチャーのありかた(=表現)にも反映する。では、その先は?
■忙しいけれど、そんなことを考えていた。
■矢内原美邦からメール。台湾にいて、このあとオーストラリアにゆくそうだが、台湾にはオーストラリア領事館などビザを発行してくれるところがないという。いったん成田空港に寄り、ニブロールの映像を作っている高橋君に日本で発光してもらったビザを届けてもらうそうだ。だから日本にもどるが成田の空港内で二時間だけいる。へえ。そうなんだ。『鵺/NUE』はそのような芝居である。空港内で足止めをくう人たちのお話。メールの直接の用件は、矢内原さんのブログに、僕のこのサイトへのリンクをはっていいかどうかだが、もちろんいい。いいにきまっている。むしろ、どんどんリンクしてほしい。というか、ビザを発行できない台湾は「チャイニーズタイペイ」として、中国に気を遣った国々は領事館などおかないってことか。複雑な国際問題に矢内原は巻き込まれているのだな。でも、タフだね。しかし。世界を駆け回る矢内原美邦である。
(8:55 Feb.1 2006)
■戯曲を書き終えたが最後はなんとなくあっけなかった。というのも引用ばかりだったからで、ラストはすでに少し前に書いてあり、そこまでどうやってつなげるかを考えていたのだ。つながってしまったらあとはするすると書ける。で、稽古でやってみたらなんだか物足りない。なにか足りない。で、こういった場合、人は「足す」のである。どんどん足したくなる。ここで「引く」ということができるかどうか。それを僕は太田省吾さんに学んだ気がする。だけどできないんだよ、俺には引くことが。太田さんの近著は、『なにもかもなくしてみる』( 五柳叢書)である。「なにもかもなくして」しまう人にはかなはない。
■なにもかもなくしてしまった結果、『水の駅』という傑作を太田さんは生んだ。せりふがまったくない。無言劇だ。しかもゆっくり歩いている。水の音が聞こえる。あの舞台にどれだけ感動したことか。もう二十年近く前の話。今回の戯曲を書くにあたって、大笹吉雄さんの『同時代演劇と劇作家たち』(劇書院)を再読していた。刊行されたのが一九八〇年なので、ここでいう「同時代」は自ずとそれ以前の時代になる。六〇年代から七〇年代。逆に考えてゆくと、ここで書かれたことは、八〇年代に入りまったく様相を変えてゆくことになったのではないか(もちろん、七〇年代の残り火はあったにしても)。だから、『同時代演劇と劇作家たち』が一九八〇年に刊行されたのはなにかを象徴しているかもしれない。本書には登場しない演劇人が八〇年以降に活動をはじめる。
■でも、これはあくまでこの国での話。外国の劇の状況についてもっと知りたい。外国だったらなんでもいいわけじゃないけれど、今度、中東の劇団の公演でやはり僕はアフタートークに参加する。もっとひろい視野が必要だとその仕事を引き受けて思った。もっといろんなものが世界中にあるのだろうな。東京ばかりではない。パリやロンドンばかりではない。で、関係ないけど、『トーキョー/不在/ハムレット』の戯曲を書いたのは、二〇〇四年の四月ぐらいだったのだが、するとですね、僕はもう、二年近く戯曲を書いていなかった。今回、書きはじめようとしてなかなか筆が進まなかったのは、書き方を忘れていたのだ。戯曲ってどうやって書くんだっけという感じになっていた。いかがなものか。そしてまた、三軒茶屋にある世田谷パブリックシアターで稽古だった。台本ができあがる。読み合わせ。ラストまで読んだとたん、岩崎の芝居が変わったのが、岩崎らしいなあと思った。こう、組み立てるわけですね、ラストに向かって着々と。そこへゆくと鈴木の芝居の変化のなさが驚く。ラストがどうあろうと、その先がどうあろうとまったく変わらない。その場を生きている。考えていないのかもしれないが。それぞれの演技体系だな。演技体系のちがいだ。
■それにしても驚かされるのが、制作の永井である(正確に書くと、この舞台はパブリックシアターの企画で正式な制作はパブリックのOさんだが)。台本を書いて、たとえば早朝の四時ぐらいにメールで永井に送ると、すぐに「台本拝受しました」という返信が来るのだ。それが、何時でもそうなんだ。夕方でもそうだし、朝七時過ぎでも同じだ。いつ寝てるんだ、永井は。というわけで、本番までもうまもなくだ。
(10:27 jan.31 2006)
■日曜日とは関係がなくわれわれは、リーディング公演の稽古である。昼間はきのうから引き続き戯曲を書いていた。夜、稽古。戯曲はあと少し(と、これを書いている時点ではもう終わったのですが。第一稿を書き終わりました。あくまで第一稿)。稽古は少しずつできてきた。数人の俳優とスタッフと、こじんまり稽古をしています。稽古場は三軒茶屋にある世田谷パブリックシアターのなかにあって、ほかにもいくつかの稽古場があるので、べつの舞台の稽古をしているらしい。で、いまやっている稽古場は地下三階だが、なぜかこの階にはトイレがないのだった。それで仕方がなく、地下四階にゆくと、そこは大きな稽古場があり阿佐ヶ谷スパイダースが稽古しているのを、どうやらその舞台監督をしているらしい知人に会って知った。稽古場と、廊下も、なにやらにぎやかである。活気にみちている。私たちは、こじんまりだ。ひっそり、淡々と稽古を続ける。
■で、戯曲が書き終わったからといってまだ仕事は終わらない。大学関係の仕事がいくつかある。「卒論口述試験」の準備が必要だ。成績をつけなくちゃいけない。レポートを読まないとな。仕事で思い出したけど、パブリックシアターのチラシを見て驚いたのは、三月一日にパブリックシアターが主催するレクチャーというものを僕がやることになっていることだ。俺、その仕事、聞いたかなあ。チラシを見てはじめて知った気がする。詳しくはこちらへ。僕の次の週にレクチャーをする太田省吾さんの話を久しぶりに聞きたい気持ちになった。それで、リーディング公演が終わるとすぐに、ホテルにいわゆるカンヅメになって「よりみちパンセ」(理論社)の原稿を書くが、編集をしてくれる打越さんがとってくれたのは横浜のとてもいいホテルだ。ネットで調べて少し驚いた。横浜ってのが遠いけど、でも原稿を書くにはいい環境だなきっと。打越さんに感謝。ほんとうに申し訳ないことになっている。でも、戯曲を書いてなにか書くことの調子があがっているのだ。こんどは大丈夫だろう。
■それがすんだら、「カルデニーロ」のプロット作り。さらにその戯曲。批評家でもある、東大の内野儀さんから「カルデニーロ」の仕事を依頼され、その期待に応えねば。それも時間がないんだよなあ。五月の公演って、すぐだぞ。四月から稽古だ。大学もはじまるのに。そして小説。「新潮」のM君の期待を裏切り続けている。書きますよ。あと、あれです、「群像」にも書くと約束してしまった。鰻をごちそうになって「書きます」と言い、しかもそれ、三月いっぱいってことになっているけど、それはいかがでしょうか。でもなあ、鰻、ほんと美味かったからなあ。鰻の恩てやつにこたえたいのだ。
■仕事のことばかり書いているのもなんだからべつの話題を。京都大学のアメフト部の部員による不祥事は起こるべくして起こったというか、きっとまだ、探ればいろいろ出てくると思うのは、五年前の出来事をわたしが記憶しているからだ。というのも、ある人が京都にいたのである。女性である。京都のホテルのロビーにいたところ、突然、男が声をかけてきたという。男は言った。
「僕、京大のアメフト部です。一緒に食事しませんか」
まあ、ナンパするのはいいさ。だが、第一声が、「京大のアメフト部です」はいかがなものか。まず「あのう、一緒に食事でもしませんか?」と声をかけるのがふつうだろう。それで、もしうまくいき、食事をすることができてだな、食事中の会話で「京大のアメフト部」だとわかるなら問題はなにもないのだ。どうやら京都では「京大のアメフト部」はすごいことになっているのだ。いわば地方都市だな。京都ってそういうところだよ。「京大のアメフト部です」と宣言したやつは田舎者ってことだろ。でも、これがですね、「僕、劇作家です。一緒に食事しませんか」と言ったところで、なんの効果もないだろうと想像するといよいよ腹立たしい。最近、逮捕された六本木ヒルズの人たちが、「世の中は金である」という言葉を口にし、ひどく腹立たしい気分にさせられるのは、それがまったく正しいからだ。たしかに、「世の中は金」なんだよな、きっと。金があればなんでもできる。だからむかつく。ばかやろう。だから俺は不合理を擁護する。
戯曲を書き上げひとときのくつろぎ。
■そして、また稽古。本番は、二月三日(金)、四日(土)。詳しくは(くどいようですが)こちらへ。三日には僕もポストトークで話をします。あと、二月一九日の「LIVE! no media 2006 草原編」にも来ていただきたい。会場になっている横浜の、「BankART studio NYK」もほんといいからね。
(8:39 jan.30 2006)
■午前八時に目を覚まして戯曲を書く。もちろん『鵺/NUE』である。公演の情報はこちらへ。それから資料にしているある作家の戯曲を読み返す。いくつかの作品から引用する部分を抜き出してコンピュータに入力。といった作業をせっせとしていた。外はなにやら、天気がいいみたいだ。少し前、急に暖かくなったと思ったら、また雪が降ってやけにこの数日寒かったが、きまぐれな天気で、まったくいやになる。
■森達也さんのラジオ番組にゲストで呼んでもらったので、午後、半蔵門にある「TOKYO FM」に行った(と書いているいま、気がつくとその番組が終わったところじゃないか。聞くのを忘れた。日曜日の午前六時過ぎにはじまるという。戯曲を夢中になって書いていたら忘れてしまった。で、いま一段落ついてこれを書いている。まあ、自分が出たものは恥ずかしいから聞きたくないのだが)。森さんとお会いするのはこれが三度目である。僕と同じ年齢である。森さんのほうがずいぶん大人のような気がしてならない。それにしても、日曜日の朝に、森さんの番組があり、それで私が呼ばれるというのもいかがなものか。でも、なんだかいいですね、森さんの番組があるということが。まだ世の中捨てたもんじゃない気にさせられる。このあいだNHKの「ケータイ短歌」の番組に出たときは生放送だったのでさすがに気を遣ったが、今回は録音なのでわりと自由に話しができた。楽しかったな。
■収録には、WAVE出版のTさんが来てくれ、いろいろ気を遣っていただき申し訳ないことになっていた。というわけで、番組では「『資本論』も読む」の宣伝もかねていたわけである。さらに『鵺/NUE』の宣伝までしてもらった。これは制作の永井からきっちりやるように言われていたのだ。まあ、戯曲のことが頭から離れず、公演をする者というより、いまは作家の状態ではあったのだが。で、Tさんの話によるとWAVE出版に読者カードを送っていただいた70歳の方がおられ、若き日の情熱を思い出しマルクスをあらためて読もうという意味のことが書かれていたとの話だ。すごくうれしかった。あるいは、こちらのサイトでも取りあげていただきました。ほんと申し訳ないです。ま、それはそれとして、私はさらに戯曲を書くのである。
(7:26 jan.29 2006)
■リーディング公演は戯曲を試すためにある。戯曲を観客に提示するためにあって、俳優はプリントされた台本を手にしそれを読む。稽古はあまりしない。演出もそれほどこったことはしない。戯曲の言葉が伝わればいい、というのが、「リーディング」の本来ある姿だろう。稽古をしていて疑問に思うのは、ときとして俳優はせりふを覚えてしまうことだ。するとそのとき、台本を手にしている行為は、単なる形式になる。リーディングでは、台本を手にしているか、あるいは譜面台のようなものにおいて「読む」が、このスタイルがあたりまえになったとき、これはどこか奇妙だ。リーディング公演だから台本を手にしていなくては(譜面代に置くなど、どんな姿にしろとにかく読む)、リーディングではないかのようだ。俳優がせりふを覚えてしまうのなら、それはそれで仕方がないし、覚えるなというほうが無理だ。稽古をすればするほど、せりふは記憶されてゆく。
■ある演出家のリーディング公演の戯曲は、その本番の当日、はじめて俳優たちに手渡されたそうだ。一回だけ読み合わせをして、「この漢字、なんて読むんですか」といった質問が出たという。ことによったらそれでもいいのかもしれない。戯曲の言葉を提示するのだとしたらそれが本来の姿かもしれないのだ。仮に、稽古を重ねるうち、せりふを完全に俳優が覚えてしまったら、そのとき、台本はなんになるだろう。おそらくそれは、「リーディング公演」における小道具だ。これはおかしな話だ。「リーディング公演」を「形式」にしないためにはどうしたらいいか考える。あくまでそれは、「戯曲の提示」であるはずだ。ただ、僕もなんどかリーディングをやっているうちその効用について気がついたことがあり、もっとも大きいのは、本公演の稽古に入る前に、戯曲が完成していることはかなり意味があるのだった。書くのが早い人はべつにいいだろうが、僕はその恩恵をかなり受けている。
■今回の『鵺/NUE』に関して言えば、本公演は十一月だ。とすると、リーディング公演から八ヶ月以上時間がある。もう戯曲ができているなんて、なんという幸福だろう。しかも、そのあいだに書き直すことができるし、「戯曲の提示」によって様々な意見がもらえ、それを参考にすることもできる。そして、本公演とちがって、わりとリスクが少なく公演することの意味も大きく、「これリーディングなので」と、小規模な公演で許されるのだ。そう書くと、楽にやれるからいいと考えているかのように受け取られるかもしれないが、まあ、一面そうかもしれないが、そうではない。芝居を打つのはほんと大変だ。公演には経済的な様々な制約があって、次々と戯曲を書いてどんどん芝居を試し、あるいは俳優を鍛えたり育てたり、僕自身も学びたいと思ったところで、そうはいかない。リーディング公演の意味はそんなところにもあるにちがいない。できることなら、次々と作品を発表したいのだ。たとえばこんなことはできないだろうか。五本ぐらいの戯曲を、五週にわたって、リーディング公演する。そのなかからもっとも評価の高かった作品を本公演にする。できたらすごいな。問題は、五本の戯曲をまとめて書けるかだが。
■さて、稽古である。26日からはじまった。パブリックシアターのなかにあるいちばん小さな稽古場でこじんまり稽古をしています。僕はこの数日、ずっと戯曲を書き、できたところまで制作の永井にメールで送る。永井が製本し、コピーもしてくれる。約五分の四まで書き上げた。あと少しだがそこがむつかしい。稽古はたんたんと進んでいる。あまり芝居には注文をつけず言葉がきちんと伝わればいいという演出。ただ、煩雑な動線がやっかいだ。時間を短縮するためにできるだけト書きを読まない。自ずと俳優はかなり動いてト書き部分を示すことになる。そうすると、やはりどこまでがリーディングなのかわからなくなる。稽古が終わると家に戻って戯曲を書く。あと少しだ。
(14:19 jan.28 2006)
■少し筆が進んだ。いつも僕の舞台は長いので、できるだけ短い作品にしようと努力したっていうか、そんなに長くならない劇なのだが(そう決めたのである)、それでも、まだ半分しか書けていない。もう稽古がはじまってしまう。稽古と平行して戯曲を書くことになるが、リーディングだから稽古は短いのであって、そんなに悠長なことはいっていられない。なにしろ、初日は二月三日である。そのあいだに、早稲田の「卒論口述試験」があるのだ。学生の成績もつけなくちゃならいのだな。レポートの締め切りはもうとうに過ぎているが、俺も原稿が遅れていて人のことを言えないから、成績をつけるまで待ちましょう。ただ、早く出した人より、確実に成績は悪いだろう。でも出せば単位はあげるだろう。
■ライブドアのニュースに隠れて、いろいろ小さな事件が起こっている。テレビの報道をほとんど見ていないので、やっぱり堀江のことをやってんじゃないかと思いつつ、小さな事件、というか、その報道が面白くて注目する。故松田優作さんの家に窃盗が入ったニュースでは、松田さんには、すべて敬称がつけられ、「松田さん」となっているのに、妻、子どもは、みんな呼び捨てってのが気になった。朝日新聞のサイトより転載。
故松田優作さん(享年39)の家族が住む東京都杉並区の一軒家が空き巣被害に遭い、優作さんの形見の指輪など約200万円相当が盗まれていたことが23日、分かった。荻窪署は窃盗事件として捜査している。犯行当時、優作さんの妻で女優の松田美由紀(44)は仕事で留守だった。この日、取材に応じた美由紀は「形見の品は返してほしい」と憔悴(しょうすい)しきった声で訴えた。
この日、インターホン越しに取材に応じた美由紀の聞き取れないほどの細い声が、ショックの大きさを表していた。「形見とか思い出のある物ばかり盗まれて。まぁ、しょうがないからあきらめますけど…」。それでも、あきらめきれず犯人に呼び掛けた。「こんな被害に遭うとは思っていなかったので、びっくりしています。指輪など形見の物は、犯人に返してほしいといいたい」。
調べによると、19日午後8時ごろ、優作さんの二男で俳優の松田翔太(20)が帰宅したところ、2階の美由紀の寝室が荒らされているのを発見した。洋服が散乱し、金庫がバールでこじ開けられていたという。1階の裏にある仕事場脇のドアが無施錠で、犯人はそこから侵入したものとみられる。翔太が前日の18日午前9時ごろに出掛けた際は異常がなく、荻窪署はその後の犯行とみている。
被害に遭ったのは、優作さんが美由紀にプレゼントした指輪、ロレックスなどの高級時計3点、液晶テレビ、バッグ、毛皮など十数点。被害総額は150〜200万円に及ぶという。荻窪署は(1)足跡(2)金庫をバールで強引にこじ開けたこと(3)現金だけでなく、テレビや毛皮、バッグなど何でも持ち去るなどの手口の荒さから、3人の中国人系の犯行とみている。また、同署の所轄管内で最近5件の空き巣被害があったが、同様の手口によるものもあり、同一犯の可能性もあるとして、関連を調べている。
美由紀は89年に優作さんを亡くした。深い悲しみを乗り越え、2人の息子を育て、父を継ぐ俳優として世に送り出した。母として女優として心の支えだった思い出の品が、無情にも持ち去られた。
これをさらっと読んでいると、「美由紀」が犯人なのかと思ってしまうではないか。「美由紀」と「翔太」はなにか悪いことでもしたのか。よくわからない。
というわけで、仕事はさらにつづく。
(9:58 jan.26 2006)
■そういうわけで、「かながわ戯曲賞」「岸田戯曲賞」と、他人の戯曲を読むことをしていたが、それも大事だが自分の戯曲を書かなくてはいけないのだった。これだけ人の戯曲について語ってしまったわけだし、そこでおろそかになっては申し訳がない。と戯曲を書いているがちっとも進まない。そんな午後、WAVE出版のTさんから電話があって、「『資本論』も読む」が増刷されることになったと聞いて驚いた。だって、『資本論』だぞ。こんなに反時代的な読書があるでしょうか。とはいうものの、正直、うれしかったが、これも、Tさんのおかげである。細かいところまで丹念に仕事をしてくれた。装丁の祖父江さんにも感謝、イラストを提供してくれたしりあがりさんにも感謝だ。『資本論』についてというか、これで少しでもマルクスに触れる人がいたらなにより幸いである。
■さて、2月19日、私は、ポエトリーリーディングに参加するのであった。リーディング公演も終え少しは落ち着いている時期ではないだろうか。主催する友部正人さんからメールをいただいた。こちもまた、大勢の方に足を運んでいただきたい。いろいろな方が登場してたいへん興味深い催しになることはまちがいない。以下、友部さんのメールにあった告知をそのまま掲載します。
●友部正人プロデュース ポエトリー・リーディング
「 LIVE! no media 2006 草原編」
2月19日 14:00open/14:30start
横浜「BankART studio NYK」045-663-2812 (BankART1929)
出演:谷川俊太郎、遠藤ミチロウ、知久寿焼、尾上文、オグラ、
田口犬男、平井正也、宮沢章夫、峯田和伸、ぱく・きょんみ、友部正人。
チケット販売はありません。電話予約、メール予約もありません。
当日受付で2800円払って入場していただきます。(整理券もありません)。
入場時に手にスタンプを押しますので再入場も可です。
会場にはバーカウンターがありますので、ドリンクは各自ご自由に。
全体で5時間くらい(途中休憩あり)の長時間イベントですので、
食べ物についてはただいま考慮中です。
出演者の中にはミュージシャンが何人もいますが、
あくまでも詩の朗読会ですので、歌を歌ったりするかどうかは未定です。
ここでなにを読むか、僕もいくつか考えてはいるものの、まだ未定。エッセイと、あと戯曲の冒頭にしばしば書く、長いト書きを読もうかと考える。詩が書けたらと思うけれど、このメンバーのなかで詩を読むのは勇気がいるじゃないか。とにかくたくさんの方に来ていただきたい。
■戯曲が書けない。で、きのう話題になったのは、二月四日に初日のある舞台は、まだ台本が半分もできていないという噂で、その舞台は九千円だから、こちらは五百円だし、それを考えたらこれだけ書けなくてもたいしたことじゃないような気もしてくるから不思議だ。というか、なんか、気が楽になってくる。だから、リーディングをやっている途中で、「はい、ここまでが五百円でした」といって、唐突に終わるのはどうか。どうかってこともないが。でも、やっぱり、いろいろな人の戯曲を読んで奮起させられた。しっかり書こうと思いました。
(2:25 jan.25 2006)
■岸田戯曲賞の選考の日であった。13年前のことを思い出すと、選考の結果を待つ人の心はいかばかりか。あのとき、受賞しなかったら僕は舞台を続けていなかっただろう。賞に励まされて舞台をつづけることになった。受賞していなかったら、いまごろなにをしていたかわからない。小説をもっと書いていたかもしれないが、演劇によって得たものは数多い。だから選ぶ側になってしまったいま、もっと書けよとエールを送りたい人に注目してしまう。
■ところで、驚いたのは、かなり選考はばらばらの評価だったにもかかわらず、僕の各作品の選考と、きわめて似ている人がいたことだ。それが野田秀樹さんである。どうして、ここまで似ているのか不思議なほどだった。いちばんに推した作品も同じで、しかし、他の人は誰も推していない。ここで決定打を放てば逆転もあったが、そのためには、あと五時間は説得にかかるし、そもそも決定打がなかった。井上ひさしさんの、その作品への評価がきわめてもっともだったので、「ああ、だから、冒頭、こうすればよかったんですね」と提案をしている時点で、もう負けていた。井上さんの話はとても興味深かった。勉強になった。いろいろなことを教えられる。
■それぞれの選考委員(井上ひさし氏、岩松了氏、鴻上尚史氏、坂手洋二氏、永井愛氏、野田秀樹氏)と話すのはきわめて興味深いできごとだった。この数年でもっとも有意義な時間を過ごしたのではなかろうか。まず、このメンバーで話をすることもないしね。「面白かった」と書いたら、受賞を逃した人に申し訳ない気分になるが、面白かったんだからしょうがない。結局、受賞は、佃典彦『ぬけがら』、三浦大輔『愛の渦』の二作に決まった。議論は五時間以上。私と野田さんがいちばんに推した作品は残念ながら、受賞を逃した。とはいうものの、二番目に推した『愛の渦』が受賞したので僕個人としては、ほっとした。べつに三浦君とは面識がないし(まあ、面識があるのは候補者のなかでは、本谷だけだったが)、ただ作品とだけ、向き合った結論がそうなったのだ。「乱交パーティ」が露骨に描かれているというスキャンダラスな作品だが、その丁寧な筆致がきわめてすぐれていると思ったからだ。たしかに、べつの選考委員の方から指摘があったように、扱われている素材が「乱交パーティ」でなかったら単なるオーソドックスな劇であるのも一面そうであるが、では、それをするか、しないか、それを素材に持ってくるかそうでないかは、演劇の場合、なにかを越えることであり、妄想で幼女に暴行する者と、それをやってしまった者にはとんでもない壁があるように(例として適切ではないかな)、「やってしまった」ことには、評価すべき作家としての「ある決断における行為」があると僕は考えた。決断ではなく、そういう人だったといわれれば、なんとも応えに窮するが。そしてディテールの緻密な筆致が、素材のスキャンダラスさと乖離しているのも面白い。きわめてきまじめに書く。繊細だ。緻密だ。ディテールを曖昧にしたり、いいかげんにしない。その相反するところが戯曲として、作家として面白い。あるいは、実験的なことをしようという企みも感じる。佃典彦氏の『ぬけがら』も面白いアイデアだった。
■面白かったんだ。ほんとうに面白かった。繰り返すが、この数年のなかでも、きわめて興味深い体験をさせてもらった。選考にもれた方には、僕もかつてある文学賞で落とされたことがあるので、気持ちはよく分かるが、けっしてレベルが低いわけではなく、僅差だったことを伝えておく。次にはもっと面白い戯曲を期待している。選ぶ者としてまた気を引き締めなければと思うのだ。
(3:10 jan.24 2006)
■土曜日(21日)の東京は雪だったと、いまさら書くほどのことではないが、夜から、夏に公演した早稲田の「演劇ワークショップ」の僕のクラスの新年会のようなものがあった。直前まで、この雪だし、中止になるのではないかと、正直、仕事のことを考えて願う気持ちがないといったら嘘になるが、学生たちはやる気まんまんだった。極寒のなか高田馬場へ。雪だというのに週末の町は人でいっぱいである。それでも、学生たちの顔を見るとうれしい。話をするのもまた気晴らしになる。
■いろいろ落ち着いて話をしたかったが、二次会はダーツバーというところだったので戸惑う。私はダーツなどやったことがないのだ。だが、やってみたらそれはそれで面白いからいやになるよ。こっそり練習してやろうかと思ったほどだ。仕事がなく、もっと落ち着いた気分でこういった打ち上げはあるべきだが、どうしても仕事のこと、原稿が書けないことなどひっかかっている。ぱーっと楽しみたいのだが。あ、そういえば、学生のひとりが、「美人局(ツツモタセ)」のことを、「ツツモタセ局」と口にしていた。そのまちがいを指摘したら、べつの学生が「え、俺、ビジンキョクと読んでいた」というので、いよいよ事態は深刻である。
■で、きょうはあらためて岸田戯曲賞の候補作のなかから、ひっかかっていた戯曲(僕の選んだ有力作何本か)を再度読み直してみた。読み直しつつノートを作る。読み直してわかったことがいくつか。何度か読んでわかることがあるのだった。それから戯曲を書く。読んだり書いたりで、戯曲三昧。リーディングの稽古はもうまもなくはじまるが、戯曲が進まない。稽古初日には戯曲を完成させておきたいが、だめかもしれない。きっとだめだな。稽古と平行して戯曲を書くのはもう何年かぶりになるが、そういう事態になりかねない。ある時期を境に、稽古と平行して戯曲を書くのが体力的に無理になっていったのだった。しかも、2月の上旬に、大学の大事な仕事(卒業論文口述試験)があるとわかった。いまごろわかるなよという話だが、しかも学生に言われて知ったのだ。なんで重なるんだ。しかも、その「口述試験」というやつのやり方が俺にはわからないのだ。「誰でもわかる口述試験マニュアル」とか、「一晩でできる試験官のための口述試験」とかそういった本はないのか。ないだろうな。それより戯曲が進まないことが深刻だ。
■その後も、いろいろな方からメールをもらったが、ライブドア関係の話で教えてもらったのは、ライブドアに買収された会社では、買収が株取引だったので、株価が下がることによってその価値が、たとえば数百億円だったのがたったの数億円になってしまったという話だ。東京地検も無体なことをする。しかしこうなるともう、株取引ってやつは、ばくちだね。大博打だ。で、テレビのニュースを見たら、なにやらライブドアに関するその報道の仕方がまるでオウムの時を思わせるような大袈裟な表現で気味が悪くなる。だって、このあいだまで堀江のいいところばかり映像で流していたくせに、ここにきて、唐突に「怒っている堀江」の映像を流すってのはどういう料簡だ。このままゆくとライブドアは潰れるだろうが、中心にいる連中はともかく、周辺の関連会社だの、それに関わっていた者らがどうなってしまうかはいよいよ大変なことになるのではなかろうか。それでもって、さっと身を引く、フジテレビ。死者が出てしまったことで事態は昏迷。株価が下がって狼狽する株主たち。背後でなにかが動いている。いったい地検にちくったのはどこのどいつだ。誰かが笑っている。
■センター試験の国語の問題が新聞に掲載されていた。第一問が別役実さんの文章だった。この部分は何を意味しているかを次の「例文」から選べという問題があって、その例文が面白い。笑ったなあ。いや、笑っている場合じゃないんだ。戯曲を書くんだ。俳優たちを不安にさせないように、死にものぐるいで書く。
(10:01 jan.23 2006)
Jan.20 fri. 「世界は動くが、腰は痛い」 |
■クラブキングに頼まれていた選曲を終え、iTunesのプレイリストにするとそれをCD-Rに焼いて一つ仕事を片付けたのは、午後だった。午前中、なにか危険な兆候があったので鍼治療に行ったのだった。打たれたなあ、また、ひどく痛い鍼を打たれた。からだのメンテナンスだ。なにごとも早めが大事だな。きのう(19日木曜日)の授業のとき、ぴきっと腰が軽くうめいたのである。その後、今年度の授業がすべて終わるというので学生たちと打ち上げ(新年会)をしたが、そのときはまあ、ふつうでいられたものの、やはり、少し腰が痛かった。すぐに治療をしてことなきをえる。打ち上げは楽しかった。一文の「演劇ワークショップ」と、二文の「演劇論で読む演劇」の授業の合同だったが、あまりふだん話しのできない学生と話すことができたのがよかった。
■きょうは早起きをしたので、午後少し眠る。夕方、選曲した音楽が入っているCD-Rを永井に渡して、クラブキングに届けてもらう。そのとき少し打ち合わせ。スケジュールを永井から説明してもらったら二月の半ばまでびっちり仕事だ。なんだこれは。リーディング公演が、二月三日(金)、四日(土)にあり、それが終わったら、「よりみちパンセ」のためにホテルにこもるのである。なんとしても、書き上げなければならない。
■そうこうするうち、岸田戯曲賞の候補作をぜんぶ読み終えた。戯曲はやっぱり面白いなあ。様々なアプローチで戯曲を書く人がいることに、よくも悪くも感心しているのだった。毎日一本というノルマで読んでいたが、この二日ばかりで、するすると五本読んだ。戯曲の評価とはまたべつに、様々な意味で面白かったからだ。うまいなあと思うもの、とても丁寧に書かれているもの、わけのわからない熱が帯びているもの、よく読めばこれラブコメかと思うものなど、それぞれを楽しませてもらい、一日一本のノルマを終えるつもりが、つい読み出したら、次々と読みたくなった。で、結論としては、「戯曲は面白い」だ。ただ、コンピュータで書くのが一般化したせいだろうか、中にはこんなことまで漢字に変換する必要があるのか疑問を感じる作品もあった。阿部和重君が『シンセミア』などの小説作品で、変換したとき簡単に出てこない漢字を多用したのは、コンピュータだとなんでも漢字で書けるという風潮に異を唱え、だったら、簡単には漢字変換しない「漢字」をあえて使うという戦略があった。でも、これひらがなでいいだろうという文字まで漢字にするのはその戦略とはまったく異なり、ただ変換機能におもねているのを感じて、なんだこりゃと思ったりもしたのだ。あるいは、コピーアンドペーストは楽だよなということとかね。「コンピュータで書くということ」について、あらためて考えたのだ。
■で、話はさかのぼるが、木曜日の「演劇ワークショップ」の授業は、後期になってから進めていた短い劇の発表会である。なかなか学生が集まらず、共同作業にならないと嘆いた時期もあったが、この何回かは、みんな揃って、だいぶ共同作業がうまくできるようになった印象を受けた。それで「劇」という表現スタイルをとってなにか表現するとき、その属性となる様々な手法でいかに遊ぶか、少しできていた気がする。たとえば、あるチームは、劇の設定を夏にした。このくそ寒い日に、そのチームはみんな夏服である。しかも、自分とは異なる者になろうと扮装するのだが、それはそれで、見ていて楽しい。もちろん、クオリティとか表現力のことを言い出したらきりがないものの、各チーム、それぞれの工夫があってよかった。というか、週に一時間半しかない授業で、なにか劇を作ろうというのもよくよく考えれば無謀だが、そのきわめて困難な条件のなかでよく作ったなあということだ。たしかに「遊び」という域を出ないかもしれないが、そこから、なにか発見があればと願うのは、うまくいかなかったことで後悔すればそれはそれで意味があるのじゃないかと考えるからだ。人はいろいろ、後悔するよな。後悔ばっかりだ。
■「演劇論で読む演劇」の授業で最後に話したのは(これ、駒場の授業でも話したが)、いまは、「反復と変奏」の時代という、最近、僕が感じている、様々な表現の領域がそうなのだろう、現在の潮流だ。「新しいもの」という言葉を使うのに躊躇するような時代だな。あるのだろうか。なにか驚くような劇は生まれるのだろうか。だから、去年の段階で岡田利規君の作品を選べなかったのがきわめて残念だ。
■仕事は続き、世界は動くが、私は腰が痛い。ライブドアのことが気になりながら。
(0:15 jan.21 2006)
■渋谷のHMVで買い物をしたことをここに書いたら、早速、渋谷店のマネージャーをしているK君からメールをもらった。いつもHMVで買い物をするとメールをくれるので、なにか返事を書かなければと思いつつ、不義理をしているのだ。でも、K君からメールをもらうと励まされる気がする。いろいろ示唆してくれるものがそこにあるのだ。きょうのメールで印象に残ったのは次の言葉だった。
私は池袋の WAVEでCD屋業界に入りました。まだバブルの余韻がある頃でした。明治通りをはさんだ向かいには、セゾン美術館とArtVivantがありました。丁度一九九〇年くらいでしたけれど、あのムダな空間こそが、私にとって八〇年代というかバブルのイメージです。ムダをいかに楽しむかということを、大商店が積極的に売り場に取り入れておりました。それが素晴らしかったと主張するつもりもないのですが、でもどこかに必ず必要だと思います。ムダ。
この短い言葉に八〇年代の(ここでは九〇年代初頭になっているが)ある状況が書かれていると思い興味をひかれたのと同時に、K君の書く「ムダ」は、「不合理」のことだと思い、やはり「不合理」は擁護されなければならないと、あらためて思うのだ。
■で、今学期最後の駒場の授業である。少しまとめの方向に入るものの、うまくまとまったとは言い難い。まだ語られていないこと、きちんと、いまに八〇年代が現在にもたらした、可能性を語ることはできなかった。これはけっこうむつかしい。たしかに「八〇年代の負」は数多くあり(バブルもそのひとつか)、八〇年代をすべて肯定しているわけではけっしてない。K君の言葉にもあった、「ムダをいかに楽しむかということを、大商店が積極的に売り場に取り入れておりました」というのは、好景気を背景にしているとはいえ、「不合理の擁護」の観点からは大いに注目すべきことだ。そこらあたりに八〇年代が現在にもたらす可能性がかすかにあるのだと思う。で、駒場の授業でこれまで話してきたこととリンクするように、よりにもよって、ライブドアに東京地検の強制捜査が入ったり、宮崎勤事件の最終判決が出たりと、この日にあわせるかのように事件が立て続けにあった。なにかの縁だな。
■それから、いつも授業を聴講に来る三坂からメールがあった。その授業で語っていた「八〇年代のおたく」と、現在の「オタク」は異なるという話はしていたが、そこで三坂が言うのは、僕が話している「八〇年代のおたく」は、現在でいうなら、「キモオタ」のことではないかという指摘だ。なるほど、それだと、かなり合点がいく。ただ、僕はこの「キモオタ」って言葉がどうも好きではない。意味内容はたしかに、「八〇年代のおたく」として僕などが感じていたものと近いが、「キモオタ」って音の響きがいけない。「キモオタ」は「キモオタ」なんだろうけどさ、うーん、なんかなあ、いま僕にはそれをずばっと口にすることができない思いがし、それは僕の側に、かつて「おたく」を嘲笑していたのとは異なり、そう言葉にすることを躊躇させるなにかがあるからだろう。
■あと、「よりみちパンセ」の僕の担当をしてくれる打越さんが駒場に来てくれて、今後のスケジュールを指示してくれた。たいへん申し訳ないのである。ただただ、申し訳なくてなんとかしなくてはと、焦っているのである。それから、学生の何人かが、授業が終わってから質問をしに来てくれた。そのうちの一人の女子学生が、いきなりカツラを脱いだときは驚かされた。なにしろ坊主頭である。そして手にしていたかわいいバックから、ピンクのカツラを出してそれをかぶる。気がつかなかったなあ、こいつ、カツラだったのか。授業によって、カツラの色を変えるという。意味がわからない。さらに、早稲田は専任なのでそんな仕事はないが、駒場は非常勤だから、毎回、授業のあとに出勤簿に印鑑を押さなければならないというやっかいな仕事があるわけです。今週はその印鑑を忘れてしまった。仕方がないので、学内にある購買で印鑑を買ってことなきをえる。
■ところで、私は断固、「カクマル」が嫌いなわけですし、「カクマル」のことを「面白グループ」と呼んでいるわけだけど、ある人からメールが来て、早稲田においてビラを配布していた人間が警察に逮捕された出来事に関連して、その異議申し立ての運動の背後に「カクマル」がいるのではないかと心配してくれた。うまく利用されるのではないかと。そうなのかどうか、私は知らない。知ろうとも思わない。たしかに「カクマル」は大嫌いだが、そんなことはどうでもいいし、その背景にある「旧学生会館の事件」について詳しいことも知らない。「旧学生会館の事件」にコミットできないのは部外者だからだが、大学に警察を呼び込んだということ、そこで「ビラを配る者を排斥する」という行為について異議を申し立てているのである。それは小さな問題はひとまずおいといて、「表現の自由」についてそれを局部的な事件ととらえず、もっと社会的に語られるべき大きな問題だと考えるからだ。そして、たまたま、そのとき私は、同じ場所で授業を持っているという立場にあったのだし、あるいは、表現者として、自分の表現をも脅かすおそれのある出来事としてこれをとらえ、その異議申し立てにコミットしようと決めたのである。「面白グループ」は相変わらず面白いことになっているかもしれないが、いまは、そんなことはどうでもよいです。かつてファシストは、まず最初に、コミュニストを弾圧した。それを外部で見ていたクリスチャンは、自分の問題ではないと考えて傍観していた。そして、弾圧は徐々に自分の近くにやってきた。気がついたときにはファシストはあらゆる自由を弾圧していた。という、よく知られたファシズムの図式がいまも有効性や説得力があるとは思えぬものの、もっと狡猾に、強大な力やシステムは、なにげない顔をしながら社会を圧迫している。それが気持ち悪いんだ。だからいやなんだ。いやなものはいやだ。
■ま、とにかく、原稿を書く。
(15:59 jan.18 2006)
「富士日記2」二〇〇六年一月前半はこちら →
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