富士日記2PAPERS

Jun. 2006 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Jun.30 fri. 「だめだった月末」

■朝の11時に眠った。目が覚めたのは2時間後。大学に行く準備をはじめた。資料のコピーも取ったし、参照にする必要な本もいくつか準備した。あとは大学でコピーした原本の印刷をすればいい。
■ところが、事情があって大学の授業を休講してしまったのだ。これまで、休講をするのはいたしかたがないことがあったときだけだ。芝居があってどうしても抜けられなかったり、外国に招聘されたりなど。そうした場合、ずいぶん前から休講する旨を大学に伝えていたし、その日の状態で休むということは、大学で教えはじめてからまずなかった。ところがきょうはどうしてもだめだったのだ。補講しよう。それでなんとか穴埋めをしたい。いま早稲田大学はなにかと話題になっているからな。俺の休講とは関係のないことだけど。でもかなり落ち込む。それで、また、ゲラの直しをしていた。「直し」というより、これはもう叩き台があってそこ新たに書くような作業だ。時間がかかる。
■夜、家を出る。ガソリンがなくなしそうなので、はらはらしながら京橋へ。京橋にある映画美学校で、森達也さんの授業にゲスト講師として呼ばれたのである。受講者はあらかじめ、『be foud dead』を観てから、森さんと僕の対談を聞く。ほとんど森さんがしゃべっていたので、僕はあまり話さなかった。ああ、この時間をゲラの直しに回したかったが、この仕事の依頼が来たのが一年前である。断るわけにはいかない。森さんと会いたかったのもある。で、私の頭のなかは、いま、八〇年代のことしかないので、映画とどう関係するかわからないが、その話をした。終わって、森さんに誘われ近くの立ち飲み屋へ。立ったまま話をするのは新鮮だが、腰が、ちょっとどうも。

■飲み屋では、天皇の話、北朝鮮拉致問題とその政治的利用など、いろいろな話題になってとてもいい時間だったが、いかんせん、ゲラチェックの仕事のことがひっかっているので、どうももうひとつ、ぱっと明るくなれない。
■家に戻ってまた、仕事の続き。深夜の三時くらいまで書いたところで、さすがに力つき、これ以上、頭が回らないだろうと思って、眠ることにした。あしたから7月だ。一年で僕がもっとも好きな季節だ。汗をだらだら流したい。休みはほとんど取れないが、でも、七月だというだけで気分がいい。あと、高円寺「円盤」のイヴェントは楽しみである。『東京大学「80年代地下文化論」講義』も刊行される。あと、そろそろ車検に出さないといけないんだなクルマ。でも、七月だからな。ただそれだけで、気分がいい。

(12:05 Jul.1 2006)

Jun.29 thurs. 「せっぱつまっている」

■気がついたら六月も終わろうとしている。しかも今月って30日しかないのかよ。もう月末じゃないか。ゲラの直しはなおも続いているのだ。で、七月に刊行。『演劇は道具だ』もものすごいスケジュールで作ったが、これもまた、なんという事態だ。朝の10時過ぎに「第10回」の直しをメールでE君に送る。あと三本。少し眠って午後三時半過ぎに家を出た。大学である。授業である。「演劇ワークショップ」の授業は活発になってきた。七月の後半に前期の最終的な発表をすることになっているので、それぞれが動く。そして「戯曲を読む」の授業はブレヒトの『三文オペラ』の続きだ。これ、夏休みまでに読み終えることができるかどうか。この時期になると学生からレポートに関する質問がひんぱんに出てくる。ちゃんと掲示板を見たらいかがなものか。
■授業が終わるともう夜だ。E君が来たので軽い打ち合わせ。早稲田のなかの36号館の外にあるテラスのような場所でタバコを吸いながら話しをした。さらに、学生が作っている雑誌「グラミネ」の編集長をやっている人がやってきて、ゲラの最終チェック。少し話しをする。で、またいつもの学生たちとだらだらと話しができて、楽しい授業後の時間だ。夏になった。夜でもTシャツ一枚。その生あたたかな湿った空気を心地よく感じる。
■家に戻ると、用事があって永井が訪ねてきた。まあ、必要なものを取りに来ただけだが、それで少し仕事のことなど、あれこれ話をした。永井はずっと、バイクに乗っていたが、このあいだ、また白バイに捕まり免停になったという。これを機会にバイクはやめると言い、これからは自転車移動だそうだ。夏の自転車はとてもいいと思う。汗をかくしね。京都にいたころ、烏丸御池から、上終町(かみはてちょう)の京都造形芸術大学まで自転車で、夏に通っていたのを思い出す。汗が噴き出す。だらだらに汗をかいた。気持ちがいいくらいだった。たいへんだったな、あのころも。

■といったわけで、ゲラをチェックするため、毎日、八〇年代のことばかり考えている。ここに書くこともあまりないのだ。メモのような記述ばかりですが、これももう少しで解放される。永井が帰ってメールをチェックなどしてから眠る。あまり眠っていなかったのでベッドに入った瞬間にはもう意識がなかった。深夜の二時半に目が覚めた。また仕事の続き。MUTE BEATを聴きながら。

(6:47 Jun.30 2006)

Jun.28 wed. 「暑い一日」

■暑い。知人から、「暑くていやになりますね」というメールが届くほど、日中は蒸し暑く、とうとうエアコンをつけてしまった。エアコンをつけたら人間、もう、夏である。それで、『東京大学「80年代地下文化論」講義』のゲラの直しはさらに続いているが、第9回の直しを終えてメールで送ったのは、もう朝の10時ぐらいだっただろうか。それから眠って、目が覚めたら、驚いたことに夕方の5時である。よく眠った。しばらくぼんやりしていた。
■それから用事があったので出かけなくてはならず、また家に戻ったのは、夜の9時近くだったが、それから、「第10回」のゲラの直しに取りかかる。むつかしい。時間がかかる。ちょっとずつ先へ。さらに、光村図書出版の「飛ぶ教室」に書いたゲラがメールで届けられ、それを直して、返送。さらに仕事は続く。そうしているうちに、また朝を迎えたのだった。
■ようやく「第10回」も直し終えた。これからもう一度、読み直して推敲しよう。推敲の繰り返し。あと一息のところまで来た。

(9:07 Jun.29 2006)

Jun.27 tue. 「まことに失礼きわまりない」

■ほとんど眠らずに、NHKへ。BSでやっている演劇の番組の収録であった。司会は、自転車キンクリートの鈴木裕美さんと、歌人の林あまりさんだったのだが、私はその番組を何度か見ているはずなのに、鈴木さんのことをずっと、内田春菊さんだと思いこんでいたのである。失礼きわまりない。それで打ち合わせのために通された部屋で、まず開口一番、「内田さん、ウェブに載っていたあのエッセイは面白かったですね」と言ってしまったのだ。なぜそうなのかよくわからない。そう思いこんでいたんだからしょうがない。申し訳ないことをした。
■それが終わって、渋谷の公園通りにある東武ホテルの一階にあるカフェで、エディターの川勝さんや下井草さんら、こんど七月にある高円寺「円盤」であるイヴェントの関係者の方々と打ち合わせをする。いろいろむかしの話をする。八〇年代のこと。楽しい時間だった。楽しくて時間が過ぎるのを忘れて話し、迷惑をかけたような気がする。そして、NHKの収録のときからずっとしゃべりっぱなしだったが、ほとんど眠っていないことに気がついたら、あと、ぜんぜん、だめになってしまった。次に、もうひとつ打ち合わせの仕事があった。申し訳ないと思いつつ日を変えてもらった。ほんとうにめんもくない。
■家に戻って三時間ぐらいの睡眠。そのあと、笠木から、腰のことや、仕事のこと、あといろいろ気を遣ってくれるメールをもらい、では食事をしようということになったので、もう夜の九時過ぎだったが西新宿の「もーやんカレー」を食べに行く。辛かった。話しはとても面白かった。で、笠木を新宿までクルマで送り、そのあと家に戻って少し茫然としていたら、白夜書房のE君から電話があって、原稿の催促。そのまま、眠らずにゲラの直しの仕事の続きをする。

■またあらためて告知しますが、高円寺「円盤」で七月十四日(金)に催される、「文化デリックのPOP寄席」はとても面白くなりそうです。ラジカル時代のビデオも流す予定。あと、きっとだらだらと話しをするでしょう。なにより僕が楽しみなのである。でも、ゲラの直しだ。第9回まで終わった。あと4回分。第9回も原稿用紙にして50枚くらいあるよ。長いよ。きっちり引用もして丁寧に仕事をする。ひとつひとつ愚鈍ながら丁寧な仕事をするしか僕にはない、っていうか、そういうふうにしか、仕事ができないのだ。

(8:43 Jun.28 2006)

Jun.26 mon. 「なおも仕事をする」

■死にものぐるいのさなか、光村出版の「飛ぶ教室」という雑誌から原稿を依頼されていたのをわすれており、締め切りはたしか、六月の初頭、それも、二日とか、三日だったはずだが、電話を何度もいただき、それも書かねばならない。って、当然なのは、もう三週間ぐらい過ぎているからだ。だが、ゲラの直しだ。なおも書く。全13回あるうちの、8回まででき、それをE君にメールで送ってから、「飛ぶ教室」の原稿に手をつける。書いている途中で、ひどく眠くなった。睡眠。目が覚めたら夜の八時過ぎだった。「飛ぶ教室」の原稿を推敲しようとしたら、さすがに眠る直前に書いただけに、漢字とかがでたらめである。面白い。面白いけど、このままでは申し訳ないので、手直しし、さらに続きを書いてメールで送る。これで一段落。と思ったのはまちがいだ。ゲラの直しはさらに続く。あと5回分あるのかよ。途方に暮れる。
■E君がきのう届けてくれた資料を読んでいたら、かつて読んだことがあったにもかかわらず、面白いのでつい、読みこんでしまった。まずいよ。それより手を動かさなければ。時間がないなあ。せっぱつまっているのだ。で、うっかりテレビをつけたら、ワールドカップのイタリア対オーストラリア戦をやっており、ちょうど、トッティがペナルティキックをする直前だった。オーストラリアが勝てばと思っていたが、見事にトッティってやつがよお、ペナルティキックを決めやがった。素晴らしいキックだった。その直後、試合終了の笛。だめだったか、オーストラリア。やっぱりヨーロッパは強いよ。
■あしたはNHKの衛星放送に出演する(まあ、収録するわけですが)のだったな。そのあと、エディターの川勝さんと、七月にあるイヴェントのことで打ち合わせだ。関係ないけど、相馬のブログを読んだら、僕がこのあいだ書いた本をすべてネットの古書店で手に入れたとのこと。『青春の墓標』まで買ったのか。あれは、いかがなものかと思いつつ、手頃な値段だったというから、まあいいか。でもじつは、ここのサイトを読むと、たとえば、「フォー・ビギナーズ・シリーズ」の『全学連』にあるような基本的知識はかなり学ぶことができるのだった。ああ、最初に、これを教えればよかったのかもしれない。まあ、それはそれとして。

(2:47 Jun.27 2006)

Jun.25 sun. 「日曜日だというのに」

『東京大学「80年代地下文化論」講義』

■さらに、ゲラの直しをしていた。朝まで書いていてさすがに眠くなり、その午後、白夜書房のE君が、頼んでおいた資料を届けてくれたので眼を覚ます。ぼろぼろな状態で玄関へ。資料を受け取る。申し訳ない。それから、また思いだしたようにゲラの直しをするが、もうひとつ頭が冴えないので、また眠ることにした。
■さて、左は、いま直しを死にものぐるいでやっている『東京大学「80年代地下文化論」講義』の表紙デザインである。講義のなかで取りあげられたキーワードが散りばめられ印刷されている。この言葉たちを見ていたり、さらに、E君が届けてくれた資料に目を通していると、ひどく懐かしい気分になると同時に、奇妙な感触があって、あれはいったいなんだったかと、いまさらだがその時代を振り返ることになるのだ。いい時代だったようにも思うし、いやな時代だったとも思える。ただ、僕が「書く仕事」をはじめたのが、ちょうど一九八〇年なので、どうしたって、八〇年代には思い入れがある。ただ、自分をもっとも形成したのは、やはり七〇年代ということになって、そのぶん大人からの視線で八〇年代を見ていただろう。それは異なる視線になるな。「思い入れ」は、「懐かしさ」ではない。もっと批評する目だ。だが、批評しつつ、そこから可能性を発見することの面白さが、この本を作ることだ。
■夕方、また起き出して、さらに直し。ときどきメールチェック。そこで以前から感じていたのは、なぜ、土日は、極端にメールが届かなくなるかだ。みんな休みなんだろうけどさ、べつに仕事のメールだけではなくて、私信のようなものもほとんど来ない。人は誰もが、土曜日、日曜日は、メールを書かないと決めているのだろうか。それが不可解だ。いいんだけど。

■そういったわけで、きょうは食事をするのを忘れていた。ずっと書いている。だんだん夏が近づいているのだろう。「PowerBook」がすごい熱を発している。それだけで、暑い。さらに直しの続きへ。あ、そいでもって、この本文の文字の大きさをスタイルシートで変更した。少し大きくした。それは自分がよく読めないからである。老眼である。
■夕方笠木に電話したんだけど、眠る直前だったので、なにを話したかよく記憶にない。そのとき、メールも書いたんだけど、それも記憶がはっきりしておらず、なんだかでたらめなことを書いてしまった。読まされるほうも困ったと思う。申し訳ない。原稿の直しで疲れていたんだ。許していただきたい。

(4:55 Jun.26 2006)

Jun.24 sat. 「時間がない」

■引き続き、『東京大学「80年代地下文化論」講義』のゲラの直しをしていた。とても手間のかかる作業だ。なんどか読み返しては、直してゆく。だけど、いいかげんなままにするのがどうしてもできない。夜、E君から催促の電話があり、もう諦めて新しいことを書くのをやめたらどうかと提案されたものの、ただなあ、べつに新しいことを書いているつもりではなく、おかしな部分を書き直しているだけなのだが、それに時間がかかるのだ。時間がないのはじゅうぶん承知しているが、だけど、やはりもっと時間がほしい。
■サッカーを観るひまなど、まったくない。もう少し時間があればなあ。もっとしっかり直すのだが。うーん、困った。あちらこちら、命がけである。このノートを書く時間もないのだ。だから、少しずつ、このノートを書いてゆこう。とりあえず、いまは、ここまで。
■そうだ、いろいろな人からメールをもらって感謝しているがその返事も書けない。それで、みんながみんな、腰を心配してくれる。ありがたい。

(5:58 Jun.25 2006)

Jun.23 fri. 「からだの切り替え」

■少し早く目が覚めた朝(というか、サッカー見てたんだ、テレビで)、小説から、こんどは白夜書房から出る(正式な書名が)、『東京大学「80年代地下文化論」講義』のゲラの直しに、からだを切り替えなくてはいけない。これもまたけっこう時間がかかる。というか、講義のテープを起こしたものは叩き台のようになっており、かなり書き下ろしている感じだからだ。あるいは話し言葉で、脈絡がはっきりしない部分を整理するなどそうしたことに手間がかかる。とはいえ、では一から書き下ろしていたらこれが書けたかというと、ぜったいに不可能だったと思う。講義があったからこその本である。こうした種類の本を出せることになるとは思ってもみなかった。白夜書房のE君のおかげである。E君の熱意というか、積極さがなかったら、いつまでも僕はぐずぐずして、なにもできなかっただろう。誰かあと押ししてくれる人がいてこそ、ようやく仕事ができる。自分ではだめだなあ、すぐに、先延ばしにしているうちに、ここまで来てしまった。
■あと、テープ起こしを手伝ってくれたのは早稲田の学生たちである。ほんとに彼らには助けられているのだ。で、そのうち、第一回のテープが、最初、録れていないと思ったものの、ある日、発見されたのである。その「第一回」はうまく録音されていない部分が多く、テープ起こしされた文章のうち、聞き取れなかった部分が次のように表記されていた。

 で、その人がフランスへ留学してた時に、パリの街で(     )。ジャズミュージシャン。当時、それこそ一番活気のあった音楽がジャズだったんだけど、( )の度に会って、食事をしていた。(    )、そういったことを、ある意味、私小説的に書かれたなという気がするんですけども。その黒人から言われた、(     )、ジャズミュージシャンから譲られるのは(     )っていう言葉なんですけど。

 それを埋めてゆくのが、まるで、クイズみたいだったのだ。クイズっていうか、テストね。大変だったここが。自分でももうわからないし。で、『東京大学「80年代地下文化論」講義』の表紙のデザインの見本をE君がきのう早稲田に来たとき、持ってきてくれた。とてもいい。いい本になりそうだ。ほんとうにありがたい。

■そして午後、また早稲田へ。文芸専修の授業できょうは「地図」について話す。地図の話はわりと学生の関心をひいたのだろうか、反応がよかった。最初に、地図を何枚かコピーして渡し、それがわかりやすさにつながっていたとも考えられる。「狂にして聖なる心の地図」の話。ほんとは箱庭療法まで話ができればよかったが時間がなくなってしまった。授業が終わるころ、ほかの教室から学生たちがわらわらと出てきて、それがにぎやかだ。すると、こちらはあせるわけですね、話していて。もう時間なのかと思ってみると、まだ時間は来ていないので、落ち着いて話せばいいと思うものの、廊下を歩く学生たちのにぎやかさにあせらされる。
■ところで、『演劇は道具だ』という本のなかで、「何周も自己紹介をする」というのを書いた。人から教えられたのは、その「何周も自己紹介をする」を実践し、盛り上がったということをブログに書いている方たちが何人かいるという話だ。やっぱりあれは盛り上がるのか。大学のゼミで、もうひとつ学生たちに活気がなかったが、「何周も自己紹介をする」をやって、活気が生まれたという。単純なことだがあれはぜったいにいい。みんなに推薦したい。あるときワークショップで発見したんだけど、何周もやっているうち、その面白さに僕が驚いたわけである。人の役にたったんならなによりだ。
■制作の永井が早稲田まで来てくれた。これからの授業や補講の日程など、大学のスケジュールのことを事務センターまで行って僕の代わりにチェックしてくれる。そのとき永井が事務の人と名刺交換しており、こういうこともまれではないかと思うのだ。教員のかわりに、制作の者が名刺交換するって、あんまり大学ではないと思われる。なんだか恥ずかしい。また永井からスケジュールのことなど話を聞く。スケジュールの話を聞くだけでぐったりしてきた。さらに来年の話。さ来年の話もある。考えなくちゃならないことがいろいろだ。来年の舞台に関して、ふと、イメージが浮かんできた。

■ひとつひとつ丁寧に仕事をしてゆこうとスケジュールを見ながら考える。ただ、なんだかよくわからないやる気がいろいろ出てきた。小説のことをもっと勉強しようという気持ちにもなっているし、そもそも小説をもっと読もう。まずはそこから。

(9:07 Jun.24 2006)

Jun.22 thurs. 「いろいろあって」

■午後、「新潮クラブ」をあとにした。少し小説は進展。なにか手がかりのようなものができてきた。ただ、近くで工事があってまたあまり眠れなかったので、睡眠不足だ。「新潮」のM君が手伝って荷物をクルマまで運んでくれた。腰はだいぶ快復。助けられた。小説を書いてこそのお礼である。もっと「新潮クラブ」を活用して小説に集中してほしいとのありがたいお言葉であった。やっぱりあれだ、「そうだ温泉に行こう」ではなく、「うん、新潮クラブ」に行こうだ。仕事ばかりしてやがる。そのまま、直接、大学へ。「新潮社」がある矢来町から早稲田はものすごく近い。で、授業。
■ちょっと気になることがあった。しょうがない。それで、まず、「演劇ワークショップ」の授業だが、いくつかグループにわけたところすごく進展の早いグループがひとつあり、きちんと表現を試すために画材や小道具などいろいろ用意していた。彼らは成績つけるときも、きっといい点数になるが、ほかはなあ、ちっとも進まないグループなどは単位をやらなくてもいいのじゃないかというほど、その差が大きい。まあ、おだやかに、それぞれの作業の進展を見ているが、だめなところはぜんぜんだめだ。これは成績をつけるときどうしたって反映するだろう。
■それから、「戯曲を読む」の授業は、今週からブレヒトの『三文オペラ』を読む。ブレヒトと作品についてなど学生に調べてもらいレジュメを作って配布。はじめのその発表に時間がかかって、実際に戯曲を読む時間があまりなかった。ブレヒトも、もちろんベケットとはぜんぜんちがうが面白い。次週も引き続きブレヒト。終わってから、学内誌「グラミネ」の学生と会って、このあいだ受けたインタビューのゲラをチェック。そして、白夜書房のE君が学校まで来てくれたので、本の打ち合わせなど。その仕事もしっかりやらなくてはいけない。忙しいな。そのあと、学生たちといつものようにのんびり話をする。

■日本のワールドカップは終わった。あとはサッカーという競技を楽しもう。すごい試合がきっと見られる。それでいい。でもそれも見ていられないほど仕事はある。

(6:20 Jun.23 2006)

Jun.21 wed. 「仕事だけが救い」 ver.2

■かつて寝屋川のYさんだった、現・桜上水のYさんのブログを読んで、そこから、高田渡さんについて書いた、鈴木慶一さんの解説(高田渡/高田漣『27/03/03』)を読んだとき、私は、ギャビン・ブライヤーズの『Jesus' Blood Never Failed Me Yet(神の血はけっしてわたしを見捨てない)』を聴いていたのだけど、迂闊にも、(青山真治さんの表現を借りれば)嗚咽しそうになった。これ、ブライヤーズを聴いていなかったらそうはならなかったかもしれないものの、でも、慶一さんの解説がたいへんにいいのだ。
■『Jesus' Blood Never Failed Me Yet』を聴いていたのは眠ろうとしていたからである。というのも、今朝、朝六時過ぎに眠ったものの、新潮クラブの近くでいまやっている工事がですね、ものすごい音で三時間後の、九時過ぎに起こされた。それから、昼の二時過ぎにもう一度、眠ったのですね。そして、夕方五時に起きるという、まったくだめな生活をしていた。
■しかも、その日の朝、「PowerBook」からもメールが送れることができるようになったと喜んだせいか(設定のしかたを発見)、二時過ぎに眠る直前、メールを送っていた。記憶になく、夜になって、送ったことに気がついた。あいたたたた。読むとわりとちゃんとした文章だった。内容に一部、問題があるが、ほっとした。そしていま、これを書いているあいだも、『Jesus' Blood Never Failed Me Yet』を聴いている。精神の安定のためにはこの音楽がとてもいい。

■まだ、新潮クラブにいる。
■夜、新潮社の、N君とM君と、食事に出る。いろいろ話ができてとてもいい時間であった。それで、話しているうち、今回、僕がうまく書けないのは、からだが、「小説を書く身体」になっていないとつくづく思ったのだ。ここんとこ、小説から離れていたからな。舞台があったし、戯曲を読んでいたし、『演劇は道具だ』を書いていた。大学でもそうした授業をやっている。すっかり、演劇のほうに、からだが傾いていた。それはそれで、悪くないし、むしろそれが自分の本来だろうと思うものの、小説は、なにか書く楽しみが戯曲とはべつにあった。あるいは、あたらしいことに挑むようなところがあった。小説について考えることのよろこび。それをもう一度、とりもどそう。
■食事を終え、新潮クラブにもどると、わかれぎわN君が、また、いつでも新潮クラブに来てくださいと言ってくれた。ほんとにありがたい。あした帰るまでに、小説のめどがつけばとさらに、小説の続きを書く。

■制作の永井からメールが来て、今後のスケジュール表が、エクセルのファイルになって送られてきた。たまたま、マイクロソフトのワードとか、エクセルなんかがセットになっているパックをいつだったか買って持っていたからいいものの、いきなりエクセルのファイルを渡されたら困惑していただろう。買ったのにはわけがあって、学生からのレポートにしろ、「Windows」を使っている人から届く添付ファイルがことごとくワードだったからだ。つい先日、七月に発売予定の「東大講義録」のまえがきを、東大の内野儀さんに書いてもらった。やはりワードのファイルだった。先に読むんじゃなかった。またプレッシャーを受けたのだ。ちゃんと仕事しなくちゃ内野さんにも迷惑がかかる。でも、内野さんの言葉に勇気も与えられた。
■で、スケジュール表を見たら六月の後半からやっぱり忙しいときてやがる。大学はもちろんだが、「映画美学校」でゲストの講師として呼ばれたり、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』も観に来てくれたエディターの川勝さんのトークイヴェントが高円寺の「円盤」で開かれその打ち合わせがある。そのイヴェントの本番は七月。それからNHKに行って『モーターサイクル・ドン・キホーテ』を放送してくれるにあたり、トークみたいな収録があるのだ。さらに早稲田の授業はもちろんだが、九月にある「演劇ワークショップ」の公演のため、各先生がたとの打ち合わせ。そして、7月はさらに、17日から二泊、『鵺/NUE』の第二稿を書くためホテルをパブリックの人がとってくれたが、驚くべきことに、白金にある「都ホテル」だ。ここすごくいいホテルだと思うんだよ。まあ、それはいいとしても、スケジュール表を見ながらめまいがした。
■仕事をしよう。いろいろ考えていると、くらい気分になるので、夢中になって仕事をしようと思う。いやな世の中だ。いろいろ。ワールドカップはだめだし。ヤクルトは交流戦で優勝できなかったし。仕事だけが救いだ。

(3:18 Jun.22 2006)

Jun.20 tue. 「ひとつの発見と、苦しみ」

■なおも腰が痛くて、タバコを買いに行くのも必死である。頻繁に行けそうもないのでカートンで買った。それで小説を書いているのだが、まず、かなり前に書いたその小説に対し、書きはじめたころ持っていたモチベーションってやつですか、それを掘り起こすのに苦労している。いま、書き直しをしているのは、なんどもここで予告している『ボブ・ディラン・グレイテストヒット第三集』だが、この作品を面白いと思って書きはじめたときの、その感覚がよみがえらないのだ。
■つまり「書くこと」にはなにか勢いというものがあり、だーっと書いているときの、書く新鮮なよろこびが必要なのだろう。それが薄れているのを感じる。たいへんにまずい。出てこないんだな、そのよろこびが。そこで、ひとつの発見があったのだ。小説を書くことの、またべつの方法だ。よろこびの再発見だ。何度か読み返しているうちに、気がついたのは、一度、書いたものをばらばらにしてしまう作業だ。ばらばらにしたそのパーツを並び替える。まるでパズルとか、レゴを組み立てるように構成してゆくのが面白いと気がついた。並び替えたとき、それが、元の小説とあまり変化がなくてもいいのではないか。並び替えているその作業が面白い。結果ではなく、経過としての作業のよろこび。そうすることを発見しただけでも、きょうは意味のある一日だった。
■そしてそこから、いらないパーツを削除し、全体をもっとシャープにする。だが、この「削る」がまたむつかしいのだな。人は「足す」ことをついしてしまうもので、削除してゆくこと、できるだけシンプルにものを作ってゆくことができない(で、きのうのこのノートは少しシンプルにした。「ver.3」にしてみた)。太田省吾さんのいう、「なにもかもなくしてみる」の道は遠い。さらに「新潮」のM君のアドヴァイスをもとに書き直す作業がさらにあり、細部の書きかえがまたむつかしい。早く書かなくてはというあせりもあってうまく書けない。なにより、モチベーションだな。それに苦しむ。

■きのうのノートのHTMLソースがなにかおかしいと思って、しばらくわからなかったのだが、それは、AirH"と書いたときの、「"」を特殊文字としてあつかわず、直接、書いていたからだと、ついさっき気がついた。そう書いても、たいていの人はなんだかわからないと思うけれど、「"」とか、「&」とか、「<」や「>」は、HTMLでは特殊な表記法があることを忘れていたのだ。ま、それはいいか。
■そうして私は小説を書いている。むつかしいなあ。何作か小説を書いてきた。はじめは勢いで書けたものが、そうではなくなっている。もちろん戯曲を書くのもむつかしいが、それとは異なるむつかしさ。それに気がついてしまった者のむつかしさ。苦しんでいる。

(5:02 Jun.21 2006)

Jun.19 mon. 「新潮クラブで腰が痛い」 ver.3

■困ったのは、なぜかPowerBookから、メールを受信できても、送信ができないことだ。
■それというのも、いま、家の外にいるからである。「新潮クラブ」にいる。小説を書き直す仕事だ。以前は、この環境、MacOSで、モデムに、AirH"の、AH-F401Uをつけ、メールの受信はもちろん、送信もできたが、なぜか今回は送れない。どうしたんだこれは。なにか設定がまちがっているかもしれないが、修正のために時間を取られるのがいやなのだ。すぐ隣の敷地で解体工事のようなことをしており、がたがた、ものすごくうるさい。でも、まあ、僕は夜に仕事をすることが多いのでそんなには気にならない。書いた小説をあらためて読み直す。久しぶりに小説の仕事だ。
■それにしても、腰が痛いよ。杖をついての生活。移動のときはクルマなので気にならないが、そこからの短い距離が大変である。新潮社の駐車場にクルマを入れてから、新潮クラブまでそんなに遠くないのにそれがきつい。

■それで、「新潮クラブ」に入って少しのんびりしていたら、「考える人」で僕の担当をしてくれるN君と、「新潮」のM君が来てくれたので少し話しをする。とにかく僕が忙しいという話になった。仕事ばかりしているでしょうと、二人が言う。なにせ、去年の暮れから本が四冊出て、なかに一冊、書き下ろしがある。さらに戯曲を二本書いた。まれにみる勤勉ぶりだ。まだ仕事はいくつもあるが、「新潮クラブ」では小説に集中しよう。ゆっくりほかのことにわずらわされずに書こうと思うのだ。だいたい、メールも送れないしさあ。
■よく人は、時間ができてのんびりしたいと思うと、「よし、温泉に行こう」と考えるものだが、私はいま時間ができたら、「よし、新潮クラブに行こう」という気分になっている。ほんとうにお世話になっています。このところ小説から遠ざかっているがもっとばりばり書きたい。
■ここで、小説がぜったいに書けるという保証はないが、ただ、家に引きこもっているといろいろ不健康だ。落ち着いて仕事をするのにはとてもいい場所である。大学の研究室ももっと活用しよう。いまは授業後に学生たちと話をするサロンのようになっている。午前中から研究室に行って仕事をし、夕方になったら帰ってくるようなそんな生活をしてみたいものだ。仕事がはかどるかもしれない。ただなあ、研究室は禁煙だからなあ。タバコが吸えたら一日いるね。ともあれ、外に出よう。

■それで、相馬の日記を読むと、次のような記述があって、このところ「スタイルシート」でずいぶんお世話になっているからアドヴァイスをしたいと思ったのである。だが、メールで送れないのだ。

日本の左翼運動に関して、当事者の側から経緯を平易にまとめたというような、資料的な文献はないかと探したが、もうひとつ、どれを読んだらいいかがわからない。閉店の一時間ほど前に行ったせいであまりゆっくり探している時間がなかったのはそうだが、ざっと見た印象では、そもそもろくな本が出ていないように見受けられもした。それこそ、『革命的な、あまりに革命的な』がいちばん「入門」に適しているんじゃないかと思えるほどである。とりあえず、第一次『情況』に掲載された論文を集成した『全共闘を読む』と、もう一冊「手記」的な本を買う。

 すが秀実さんの『革命的な、あまりに革命的な』、略して、「革あ革」ももちろんいいが、さらに「日本の左翼運動」の平易な解説本として推薦したいのは、たとえば、現代書館から出ている「フォー・ビギナーズ・シリーズ」の一冊、『全学連』(文・菅孝行/絵・貝原浩)があげられる。むかしの三一書房もこういった入門書を数多くだしていたが、その三一書房もいまはない。小島亮の『ハンガリー事件と日本――1956年・思想史的考察』もあげられるものの、この本には問題がいくつかある。批判的に読もう。参考程度にどうぞ。あるいは、と、書こうとして、たいていの文献はもう絶版になっているだろうと思われる。古本屋をネットで検索する手がある。だけど、いま手元にその手の本がないので適切なアドヴァイスができない。あと、『ハンガリー事件と日本――1956年・思想史的考察』はむかし、中公新書で出ていたものの新版である。中公新書版のほうを古書店で探したほうがいいと思う。さらに、「そもそもろくな本が出ていないように見受けられもした」という相馬の言葉に応接するならば、紀伊國屋書店新宿本店ではなく、そこからほど近い、「模索舎」にゆくことをおすすめする。
 僕が高校時代に読んだ本のひとつに、たとえば、奥浩平の『青春の墓標』というまさに手記的な著作がある。自殺した学生運動活動家の奥浩平による日記の集成だった。あれ、どうしたっけなあ、誰かに貸したはずだ。でも、まあ、あげるつもりで貸したからな。

■それにしても、メールが送れないのが困った。あと、腰ね。痛いのである。でも、小説を書くよ俺は。

(15:08 Jun.20 2006)

Jun.18 sun. 「腰が痛い」 ver.2

■つい先日、ある方からのメールの最後に、「おからだお大事に、とくに腰」とあったのだが、言ってるそばから、腰がかなりまずいことになった。ひどいときは歩けないほどだが、今回の症状はそれほどでもない。急遽、鍼の先生に家まで来てもらい治療を受けたのだった。鍼治療は痛かった。だが、背に腹はかえられない。なんとかこれで腰をもたせ、仕事をしなければならない。あしたからは、「新潮社クラブ」にこもって小説を書く。そして「東大講義」の本のゲラ直し。直しが進まない。ものすごく時間がかかる。
■ところで、きのう書いた、「MacOS 9.2.2という環境で、Internet Explorer 5.1.7を使いこのページを閲覧すると、驚くべき表示がされる」という問題は解決された。また相馬に助けられた。
■そんなわけで、一日中、ゲラを直しをしている日曜日だ。あとは、鍼治療で一日が終わった。サッカーを横目で見ながらコンピュータに向かいゲラを直すが、椅子に座っていると腰が少し痛い。サッカーも気になるが、そんなことより、いまは腰だ。というか、仕事が忙しくて今回のワールドカップはパスだ。全試合見るという予定だったがそれどころではない。なにしろ、腰が痛いのだ。でも、iPodと新しく買ったヘッドフォンがいいので、それが救いか。意外にいいじゃないか。だが必死だ。「必死」って書くと、死んじゃいそうだが、私は死なない。うちの父親がかつて、「俺は死なない」と言い出したときは、なにを言い出したんだこの人はと、驚いたが、それを聞いた母親が、「死なない人の面倒は誰が見ればいいの」と、また驚くべきことを言った。でも、そんなこともいまはどうでもいいのである。腰である。たいへんなんだよ。

■それにしても、いま、「東大講義」のゲラチェックをしていて気がついたが、一回の講義が、長いときになると原稿用紙にして50枚くらいある。それで13回。「あとがき」もある。注釈もついている。図版も豊富である。この本、どんなぶあつい本になるんだいったい。

(1:48 Jun.19 2006)

Jun.17 sat. 「仕事をする週末」

■ジーコのことばかり話題になっているうちに、みんな、村上ファンドの村上のことを忘れてやしないだろうか。

■それで、「Windows上の、Internet Explorerで閲覧するとものすごくスクロールが遅い」という問題は解決したが、何人かの人からメールをいただいた。みんなスタイルシートの同じ箇所をこう書きかえたらという指摘だった。ほんとうにありがとうございます。
■そんなとき、またべつの方からのメールがあって、これがもう、解決の方法がまったくわからないというか、うちのコンピュータの環境ではそれを再現するのが困難だから、いよいよわからないのだ。Tさんという方は、MacOS 9.2.2を使っていらっしゃるとのこと。その環境で、Internet Explorer 5.1.7を使いこのページを閲覧すると、驚くべき表示がされるというのだ。つまりこんな感じで、タテナガの日記になっているという。

Mさんと い う方か
ら の指 摘で、 この
ペー ジ を Windows
における、Internet
Explorerで 閲 覧する
と もの すごく スク
ロール が遅い とい う
指摘を 受 けた。理由
がわか
ら な い、Windowsで
も、

 なんだこれは。もうこうなるとお手上げである。

■金曜日(16日)の昼間は文芸専修の授業である。去年と比べて、このクラスの活気のなさに驚かされる。俺の授業のやり方がまずいのだろうか。去年とあまり変わっていないと思うが、反応がきわめて薄い。それでも熱心に聞いている学生もいて、終わってから質問をしてくれる。きょうは、すが秀実さんの『革命的な、あまりに革命的な』から話をはじめ、一九六八年、一九八四年、そして現在にいたる、いわば、「文化的ヘゲモニー」についての話をした。ぜんぜん、興味を抱いてもらえない様子である。ただ、質問した学生は、八〇年代の「おたく」が中森明夫によって命名され、ある文化的傾向にいかに悪意を抱いたかという話に反応していた。ほかはまるで反応がなく、僕の話の仕方が悪かったのか、悩む。話のもってゆきかたが失敗した気もする。もっと興味を抱いてもらえる方法があったのかと反省。でもなあ、べつに人気をとろうと思って授業をするわけではないし、熱心に話を聞いてくれる何人かの学生に向けて語ればいいと考える。
■授業のあと、学生と話しをしたのは、久しぶりに僕の授業にもぐってくれた4年生のNと、文芸専修の学生でこのところ授業後によく話しかけてくれる人だ。Nは就職するか俳優になるかで悩んでいたらしいが、このあいだもらったメールによると、俳優になることを決心したようだった。僕もなにか安堵した。
■最近、学生から進路のことで相談されることが多い。べつに企業に入ることについては、僕に相談してもしょうがないので、そういった傾向の話ではない。話の中心になるのは、たいてい、芝居を続けてゆくかどうかについてだ。就職など考えたこともない私の場合、大学を中退し、その後、自由業になったといういきさつがあるから、まあ、そうした経験の話はできる。とはいえ、人の人生を左右すると考えると迂闊な話もできないのだった。僕の場合、運よく芝居をつづけられたが、こうすればこうなるという、うまい手だてはわからない。そもそも、「うまい手だて」なんてものはないので、たとえば戯曲の書き方の本や、演出の方法が書かれた本はあっても、『こうして演劇をやり続けよう』とか、『芝居で生きてゆくための10のヒント』とか、『俳優だもの』という本はないだろう。あったら、俺が読みたいよ。
■で、そんなとき、またしても、学生が編集している「グラミネ」という学内誌の取材を受ける約束をしていることを忘れていた。偶然、その学生と廊下で会ったからよかったものの、会わなかったら、あやうく帰ってしまうところだった。「グラミネ」には迷惑ばかりかけており、早稲田で教えはじめたころロングインタビューを受けたが、そのゲラ戻しができないまま一年以上が過ぎてしまったのだった。ほかの特集にも寄稿を依頼されていながらなにもしなかった。それで今回は、「グラミネ」が主催する「文学賞」の選考を依頼され、それに先だってインタビューを受けたのだった。インタビューしてくれる学生は、静岡県掛川市の出身だ。つまり私と同郷である。掛川の話をまじえつつ長話。楽しい時間だった。

■でもって、本日(18日)は、主に、「東大講義録」のゲラの直しをやる。直しというより、「書き下ろし」に近い有様になっていて、とても時間がかかる。困った。月曜日からは「新潮クラブ」にこもることになっているのだ。小説を書くのだ。なにがなんでも書く。となると、日曜日までにはこのゲラを戻さなくてはいけない。せっぱつまってきた。いつでもせっぱつまっている。そういうふうにしか仕事ができない。
■夕方、食事をしに高円寺へ行く。遠いよ。意味がわからない。それで久しぶりに、「Planet 3rd」というカフェに入る。入るとき、店の前に、「いまプラネット・サードの前。べつに来る気がなかったら、来なくていいよ」と携帯で電話している女がいた。いったい、それはどういう意味なんだ。いろいろに想像する。どんな事情があると、そんな言葉が生まれるのだろう。電話の相手は、男なのか、女なのか。男だとしたら、いろいろ問題があるのだろうし、しかし、女が女に向かって携帯でそう口にするとしら、それはそれで、わけありな気がするのだ。その後、店でコーヒーを飲んでいたら、さっき電話していた女が、電話の相手らしい「女」と席に着いた。わけありである。
■むかし僕の演出助手をしていて、いまはラジオとかの仕事をしているOからメールが来た。音楽についていろいろなことを教えてくれた。たとえば次のような話は、なんとなく感じていたことだが、そのメールでよりいっそうわかった気がする。

 ステッペンウルフというと、ある時代までの人たちはイージーライダーを思い出して、当時の時代の風を思ったりするものだと思いますが、ある時代からの人たちは音楽に対してなんの時代性もないんです。それはリミックスとかトリビュートとかサンプリングといったDJによって好きな音楽を構築されてしまったせいで、時代がめちゃくちゃなんです。それはある意味悲劇というか喜劇というか、不思議な現象です。時代性を無化させたヒップホップの功罪というか、すごい量の音楽を知っているわりに引き出しは時制じゃなくて、いいとこどりで、それはそれで素晴らしい音楽をたくさん知るのでいいことですが、その音楽の裏にある魂というか熱さはまったく知らないんです。おそろしく冷めてる。だからフォークのように、背景にあるものが比較的大きい音楽は興味ないんですよ。
 宮沢さんの音楽論みたいなものに興味があります。ラジカル(引用者註・「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」のことで、八〇年代に宮沢が「作・演出」していた集団)の時、僕はラフォーレで観ていましたが、音楽に衝撃を受けました。なんかすごい今の音だ…というか。それは「箱庭とピクニック計画」の時も思いました。宮沢さんが好きな音楽の背景にあるものをもっと知りたいなと。「この音いいじゃん」っていうノリじゃなくて、「この音しかないんだ」という「念」に従った選曲。
 アメリカのヒップホップのアーティストたちは、比較的「念」に忠実で、サンプリングするにしても、結構自分の原風景にあった曲だったり、親が聴いていて身体にしみついた昔の曲を使ったりと、まだ時制とその裏にある熱さを耳で聴こうとしています。

 ここで、Oが書いている「念」というのは、「信念」のことなのだろうか。それとも、「理念」か。だが、あまりそういうものはないのである。舞台に関しては、「舞台にあったいい音楽をかける」という考えがあり、そうして選曲することはあった。「いい音楽」にジャンルはない。ふだん聴いているのはそのときによってちがうから、いまは、これが聴きたいと思えば、それを聴く。舞台はなあ、たとえば、できるだけ歌のないものを選ぶのだが、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』では、まあ、映画『イージーライダー』との関係で、ステッペンウルフを流したり、ザ・バンドを流したのだな。

iPodとヘッドフォン

■だからというわけでもないが、iPodとヘッドフォンを買ったのだった。まあ、ほんとうに関係のない話で申し訳ないが、ちょっと、へこむことがあったので気晴らしに衝動買いした。iPodを持っていても、聴くだろうか悩んでいたが、このあいだ東京新聞に書いた書評の原稿料をつぎこめばいいと思い切って買ったのだ。
■で、それはともかく、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』を観に来たときOが話していたのは、「アメリカ」というバンドの『名前のない馬』という曲のイントロを、いま、日本の誰かがぱくっているという話だった。それでなにも知らない若い者が、逆に、「アメリカ」というバンドがぱくっていると口にしていたという。少し調べればわかる事実だが、調べないのだな。『名前のない馬』が入っている「アメリカ」のファーストアルバムを僕が買ったのは、たしか高校生のころである。30年ぐらい前か。あ、なんだよ、CSN&Yのコピーバンドじゃないか、とすぐに思ったのを記憶している。いまでもそのレコードはある。ときどき聴く。
■そうそう、そこなんだ。文芸専修の授業で、「六八年革命」の話などをしようと思ったのは、その前日、学生の一人が卒論について相談しに来たが、あまりに歴史にうとくて、それじゃ卒論にならないだろうと思ったからだ。歴史的な視点がぜんぜん欠落し、現象しか目に入らないという印象を受けた。いまの演劇が、どこからやってきて、どう変化したかなんかにまったく興味がないのかもしれない。だから、歴史的な視点について話そうと、文芸専修の授業で話をした。だけど、反応が薄いところをみると、やっぱり、興味がないのだろう。僕は子どものときから、お年寄りの話を聞くのが好きだった。昔の話を聞くのはすごく面白い。というか、なぜ、これはいま、こういうことになっているかは、やはり時間の流れのなかで生まれているはずなのである。その歴史を考えずに、どうして、表現ができるというのだ。
■少し調べればすぐわかることだ。その調べる手間をかけないのはきわめて不可解だ。「歴史」はほんとに面白いのに。

(1:41 Jun.18 2006)

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