Jan. 17 wed. 「足立さんと小林さん」
■駒場の最後の授業だった。資料をプリントし準備を整えて最後の授業で「ノイズ論」のまとめにする予定だったが、その資料を家に忘れたのだ。まあ、かろうじて本などは持っていたからいいものの、しかたがないので記憶だけで話をする。失敗した。まあ話ができないわけではないものの、しっかりした数字のデータがなかったり、人名などうろ覚えでだめである。それでもなんとか90分話をした。いったいこの講義で俺はなにを話していたのだろう。去年の10月から「ノイズ」をテーマに、思いつくまま、そのキーワードにひっかかるであろう現象や事柄について考えていたが、たとえば「足立正生」さんのことを話した日など、えんえんピンク映画を見せられて学生も困惑したと思う。で、後日、映画『幽閉者(テロリスト)』が上映されるにあたって刊行される書籍のために、足立さんと対談したが、それをそのまま、この講義が本になるときは入れる予定だ。それがかなり補足になると思われる。なにしろ対談の最後で足立さんは、「俺自身がノイズだからな」といった意味の発言をしている。
■ところで、その公式サイトで告知されているように『幽閉者(テロリスト)』は2月3日から公開される。よくぞ田口トモロヲ君がこの役を引き受けたと拍手をしたくなったし、頭脳警察のPANTAさんがいい味を出しているのだが、なにより私が注目したのは文学座の小林勝也さんがすごくよかったことだ。映画のなかでは主人公に反省の声明を出すよう促す大学教授という、いわば悪役だが、ほかの俳優がほとんど音楽畑とかの方たちで、まるで異なる演技体系というか、身体性があり、しかし、この役は小林さんだ。新劇的なうまさがなかったら表現できない役だ。見事な配役としか言いようがない。音楽は大友良英。ほかにも様々な方が出演されているようだがよくわからなかった。
■南波さんからメールがあり、iMacのOSが、「8.5」だとのこと。ああ、それだとそもそも、Flashの新しいヴァージョンがインストールできない。うーん、こうして古い機種では新しい技術を活用できないことが起こって、新しいものを購入しないとだめといった結果になるのだな。資本というのはそういった運動だ。それにしても不二屋のことが気になる。JR西日本での事故もそうだし、雪印もそうだが、もっと大きなシステムが出来事を生み出したと考えれば、そのシステムの維持のためにこそ、人の力は最大限に注がれるべきなのだろう。だが、一方でそうした資本の全体のシステムを支えるのに、非正規雇用者の率を高め、残業代カットへと法の整備は進み、いよいよたいへんなことになってゆく。システムを維持するのに、システムを脆弱にしなければ、うまく支えられないというよくわからない迷宮だ。これが新自由主義。自由だなあ。そしてその精神的な支柱は「〈愛国〉というファンタジー」である。おめでとう。
■駒場の授業が終わったあと、内野儀さんがいらしたので外で少し舞台の話などをする。ある舞台を観るようすすめられた。チケットが取れるかどうか。いろいろ観るべきものはある。演劇だけではなく、音楽も映画もそうなんだけど、足を運ぶべき土地がある。今週末には多摩ニュータウンに行こうと思っているが、唐突に「多摩ニュータウンNo.57遺跡」に行こうと思った。唐突だなあ。さらに、いまはもう発掘のあとさえ消えてしまっただろう、「多摩ニュータウンNo.471B遺跡」の「跡地」を探そうと思う。そんな資料を集めているうちに『ニュータウン入口』の構想が少しずつできてきた。
■ところで、次の事件に驚かされた。(二〇〇六年十一月の報道)
<著作権法違反>ハーモニカ演奏のスナック経営者逮捕 東京
日本音楽著作権協会が著作権を管理する曲を無許可で演奏したとして、警視庁石神井署は9日、東京都練馬区石神井町、スナック経営、豊田昌生容疑者(73)を著作権法違反容疑で逮捕した。
調べでは、豊田容疑者は今年8月から9月にかけ、自分が経営するスナックで、女性のピアノ奏者とともに、ビートルズの「ヒア ゼア アンド エヴリホエア」や「イエスタディ」など同協会が著作権を管理する33曲をハーモニカで演奏した疑い。容疑を認めている。
同協会によると、豊田容疑者は以前から無許可演奏を繰り返していたため01年に東京地裁に演奏禁止の仮処分を申し立て、仮処分決定が出た。その後も演奏をやめなかったため、今年9月に協会が刑事告訴していた。【曽田拓】(毎日新聞)
なによりも、「ハーモニカで演奏した疑い」という部分がすごいよ。こうなるともうバンドがコピーすることも許されなくなって、ま、趣味でするならいいって話になるのだろうけれど、だがなあ、けっこうコピーしてるでしょ、あらゆる音楽を。でもって、なぜ石神井のスナック経営者だったかだが、これはつまり、あれか、見せしめか。しかし細部の事情がわからないからなんともいえない。ものすごくハーモニカがうまくて、「コピーするにもほどがある」といった話なのかもしれない。わからない。芝居なんかもなあ、けっこう、あたりまえにありものの音楽が使われている。どうなるんだよ、著作権は。たしかに僕も著作権者としての立場はあり、著作権を守る論理もわからないではない。そしてそれを守る仕事の人たちの立場もわかる。だけどなあ、「石神井のスナック経営者」である。なんだかよくわからないのだ。
(12:33 Jan, 16 2007)
Jan. 15 mon. 「月曜日」
■はじめなにを調べようと思っていたか、たしか、コンピュータにおける動画圧縮技術についてもっと原理的に理解しようと思っていたはずで、「H.264」とはなんのことか調べて、ネットを彷徨ううち、「教えて!goo」というサイトに入り、なぜか、「お酒を大量に飲んだ次の日の朝起きると憂鬱な気持ちになってしまうのはなぜでしょうか??」という質問を見つけたのだった。私はごぞんじのように酒が飲めないので、そういうことで憂鬱になったことはないし、酒を飲んでいるときあんなに楽しそうな人たちが、翌朝、憂鬱になることが信じられない気持ちで質問を興味深く読んだ。
金曜日等に大量にビールを飲んで又は飲みに行って次の朝(昼)起きるとなぜか憂鬱な気持ちになってしまいます。
これはなぜなんでしょうか?
これは当たり前のことなんでしょうか?
まずこの質問に興味をもったのは、「金曜日」と曜日の指定があることだ。「曜日限定」の質問である。つまり「土曜日の朝(昼)」の問題だとわかる。しかしよく読めば「等」となっており、だったらいつだっていいのかと思うものの、「金曜日」と最初に記しているところをみると、「土曜日」の朝か昼はことさらたいへんなのである。お酒を飲む人はこんなことに苦労していたのか。だけど、それがいやなら飲まなきゃいいと思うが、しかし、飲まずにはいられないのだろうな。しかし人は、なにか楽しいことがあると、それが終わったあと、しばしば憂鬱になるものだ。酒だけではなく、ほかにもいろいろ憂鬱になるのを質問者は知らないわけではないだろう。だがことはどうやら深刻らしい。なにしろ、質問までしたくらいだ。そして何人もの人が回答している。その回答に私はまた、いろいろなことを学んだのだ。
原因
1・大量のアルコールが体内に入ったことにより、アセトアルデヒドが肝臓で充分に処理されないために起る。
2・その為に体調が悪くなるだけでなく、飲み過ぎにたいする後悔なども加わり、気持ちも落ち込んでしまいます。
やはりたいへんなことになっているのだ。「飲み過ぎにたいする後悔」が加わってしまうのである。しかも、「気持ちも落ち込んでしまいます」だ。「アセトアルデヒド問題」も深刻だろうが、しかし、「後悔」はいかんともしがたいところである。だからって「飲むな」とは言えない。人に迷惑をかけなければ大いに飲むべきである。さらに次のような回答もあった。
自分に対する普段からの嫌悪感。
普通の生活をしている人には、こんなとき憂鬱な気持ちになるのは当たり前です。だからこの時点ではまだあなたは普通です。しかしこんな風に思わなくなったら怖いのです。注意しましょう。
たいへんなんだな、飲酒も。「憂鬱になる」のがあたりまえらしい。そして憂鬱にならなくなったらいよいよ恐ろしいことらしい。しかも金曜日の夜にほぼ限定された質問なので、金曜日の夜も酒を飲んで陽気だが、土曜日もまた、朝からご陽気だ。どこが怖いのだ。いいことじゃないか。いつでもご陽気でいていただきたいものだ。けれど「注意しましょう」と最後にある。「いつでもご陽気」はいけないのか。いいじゃないか、いつでもご陽気。その人のまわりも陽気になるだろう。だめなのか?
■それにしても、「一冊の本」に連載している横光利一の『機械』を読む連載だが、いったいいつになったら終わるのか自分でも見当がつかない。連載がもう120回ぐらいになっており、ということはですね、もう10年も書いているのだ。こんな長期連載というのを自分でも経験したことがないし、それを連載させてくれている「一冊の本」のOさんや編集部の方々に頭が下がる。今月も締め切りだ。岸田戯曲賞の候補作を読む。いまはまだ、感想を書けない。
(13:05 Jan, 16 2007)
Jan. 14 sun. 「腹立たしいほどだめな一日」
■おかしな睡眠の日。二時間ぐらい眠るとすぐに目が覚める。目が覚めてもすっきりしないでぼんやりしている。NHK教育テレビの「芸術劇場」を見ようと思っていたらその時間うっかり眠ってしまったのだ。内野儀さんが出ると話を聞いていたので見ようと思っていたのに失敗した。目が覚めているあいだは、「岸田戯曲賞」の候補作など、いろいろ読む。去年の「かながわ戯曲賞」の選考のとき、あまりに早く読み過ぎて選考会まで時間があき、選考の時期にはもう読んだ作品の記憶が薄れていたのだ。こんどはできるだけ選考会にあわせようと思ったのである。
■『40年前の東京』という写真集があってぱらぱら見ていたら、映画館の看板に『ベケット』というタイトルがあった。これはいったいなにかと思って、別の件でいただいた早稲田の岡室さんのメールへの返信にそのことを書いたら、すぐにメールをいただき「ベケット大司教の映画だと思います」とあった。なんでそんなことにまで詳しいのか、研究者ってすごいなと思ったら、ベケットの映画かと思ってそのビデオを買ったことがあるという話。買っちゃったのだなあ。ただ、「サミュエル・ベケット」と、この「ベケット大司教」の「ベケット」では名前のつづりがちがうそうだ。
■その後、すぐに何人かの方から、MacOS 9でもYOU TUBEは見られるとメールをもらった。呼びかけるとすぐに応えてもらえる。ほんとにいつも感謝する。つまり、Flashのバージョンを上げるということで解決するらしい。それともうひとつは、ファイルを保存してから再生する方法として、まずこのサイトに行ってYOU TUBEの見たいページのURLを入れ、ダウンロード。それでもって、このOS9用のプレイヤーで見ればよいとのこと。メールをいただいた、Hさん、Nさん、さらにもうひとりのNさん、ありがとうございました。その後、桜井圭介君からは、YOU TUBEで使われているFLVファイルは保存できたが、それをMac上でどうやって見るかとの問い合わせがあった。簡単なのは、まあ、OS Xの話ですが、FLVLauncherがよいのではないかと思うのだ。それはここでダウンロードできる。Windowsにも同じようなソフトがあった。というか、MacだとどうしてもMPEGに変換できないFLVファイルがあって、それでWindowsマシンでやってみたら無事に変換できたのだった。原理的なことはさっぱりわからない。できたから、まあ、いいとする。
■さらに、Nさんのメールには、「宮沢さんは『Web2.0』をどう発音されていますか? 私は『ウェブにーてんれい』と読んでいたのですが、人に『ツーポイントゼロ』が正しいと言われました。確かに『にーてんれい』では視力みたいでWebっぽくないですが・・。」とあった。これは調べたらどちらでもいいみたいだった、っていうか、IT用語辞典を引くと「ニーテンゼロ」になっている。ただ、「ツーポイントゼロ」はさあ、なんていうか、腹立たしい気持ちに人をさせやしないだろうか。
■そんなわけで、このところ、YOU TUBEの映像をDVDに焼いて授業に持ってゆくのが私のなかで流行っているのだが、そのとき、ダウンロードしたファイルがデスクトップにたまって、デスクトップがやたらでたらめになっているのだ。まあ、設定を変えて保存場所をべつにすればいいのだが、どうなんでしょうか、皆さん、作業するときってデスクトップ上にファイルがあったほうが楽でしょう。そんなことでいうと、渋谷にあるレコードショップのCISCOのサイトにゆくと新しいレコードや推薦盤の試聴ができるでしょう。それで何枚も試聴していると、デスクトップ上に異常な数の、リアルプレイヤーのアイコンが出現していて腹立たしい気分になるでしょう。ふと気がつくと、ものすごい数のアイコンがあるっていう、あれです。まあ、どうでもいい話なんだけどさ。
■そんなことにうつつをぬかしている場合ではなかった。きょうの新聞に目をやったら雑誌の広告に、「食育2.0」という言葉があった。やっぱり、「2.0」の時代だ。とうとう来たか。よくわからないけど。
(10:58 Jan, 15 2007)
Jan. 13 sat. 「おでんを食べながら」
■そうだ、こんど1月27日ごろ大阪に行くのだった。その日、大阪在住のM君が主催してトークイヴェントのようなことがある。『と飲む会』というタイトルの、その「だらだら感」がたいへんいい。以下、「ここではありません」のYさんのページに引用されていた『と飲む会』の告知を、さらに引用して告知にしよう。といっても、あれだなあ、「と飲む会」と書くと、まあ酒を飲んでだらだらしゃべる気がするが、私は酒がだめなので、その感じはどうもぴんとこない。でもだらだらと話を聞いてもらえたらさいわいである。ただ、聞き手がM君らしいのが気になる。大丈夫だろうか。まあ、それでも大勢の人に来てもらえたら大変ありがたい。
『宮沢章夫と飲む会』
というイベントをさせて頂きます。詳細は以下です。
『と飲む会』 第6回ゲスト:宮沢章夫 さん
大阪アメ村のカフェ【URACIO】の名物トークイベント『と飲む会』。今回のゲストは、80年代「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」90年以降「遊園地再生事業団」を組織され、数々の実験的な演劇を公演。更にエッセイスト(『牛への道』など)や小説家(『サーチエンジン・システムクラッシュ』芥川賞・三島由紀夫賞候補など)としても活躍されている、宮沢章夫さんをお招きして、観客とお酒やお茶を交えながらのトークイベントです。 内容は、昨年出版された『ユリイカ 総特集 宮沢章夫』に掲載された「自筆年譜」をベースにお話をうかがう予定です。
日時:1月27日(土)
開場 18:30 講演 19:00〜21:00
料金:1ドリンク付¥1500
場所:【カフェURACIO】
大阪市中央区西心斎橋2-18-6 アベニュー心斎橋ビル2F
(アメリカ村三角公園西隣 ampmの2F) HP:http://uracio.com
久しぶりに関西へ行くのは楽しみだ。で、帰りに、ある事情があって京都に少し寄ってゆこうかとも思っている。この時期の京都は寒いだろうな。かちんとするようなかたい空気を思い出す。その冷気のなか、あのころ、よく寺を回った。バスに乗ってひとりで寺めぐり。誰とも話をせずそうしながらいろいろなことを考えた。とてもいい時間だった。
■夕方、なん人かの友人たちが家を訪ねてくれたので、おでんパーティをやったのだった。ここで書く「おでん」は「静岡おでん」と呼ばれるもので、私にとって「おでん」はこれしか存在しないのである。ふつう人が見ると、ただの「煮もの」のようだが、これが正しい「おでん」である。誰がなんといおうと、これが「おでん」だ。そのとき、『エンジョイ』にも出演していた南波さんが、使っているコンピュータが、旧式のiMacで、OS9しか動かないと言う。それでYouTubeが見られないというのだが、それはきわめて残念だ。これが、Windowsだったらなんとかなるのだがなあ。
■そんな日、見られない南波さんはじめ、OS9の方々には申し訳ないが、以前から見たかった森達也監督のテレビで放送されたドキュメンタリー『放送禁止歌』をYouTubeで見ることができた。最後に流れる「放送禁止歌(このドキュメンタリーでも語られているとおり、本来、「放送禁止歌」などじつは存在しないのだが)」とされている有名な歌は、森さんによればほんとうはまっくろな画面にただ流すつもりだったそうだ。テレビ局の都合で黒い画面にタイムコードが挿入されている。テーマだけではなく作り方にも森さんの野心が感じられとても面白く見た。ほんとに助かるぞ、YouTube。繰り返すようだが、見られない人にはほんとに申し訳ない話なのだが。うーん、なんとかできないかな。っていうか、あれか、MPEG4に変換して俺がこのサイトとかにアップすればいいのか(DVDに焼くときは必ず変換しているのだが)。いや、もっといい方法があるのじゃないかと思ってネットを検索したが、MacOS 9の人がYouTubeを見る手だてがどこにも書かれていない(探し方が悪いのか?)。誰か知っている人がいたら教えてほしい。
■で、きのう書いた、「WEB 2.0」についてある方からメールをもらった。京都のYさんという方からだ。
今日の「web2.0」に関する文章を読んでふと思ったのは友人のY君のことでした。
そのY君なんですが、一緒にラーメンを食べれば「こんな美味いラーメンを食べたことがない!」と言い、カレーを食べれば「こんな辛いカレーを食べたことがない!」などと言い、町でちょっときれいな女の人とすれ違えば「あんなきれいな人見たことない!」とかなんとか言うやつで、書いてたらちょっと腹が立ってきたのですが、今日わかりました。
Y君は「2.0な人」だったのです。
マイクロソフトが「Windows98再発売!」だとかマッキントッシュが「OS8.6いよいよ復活!」などと決して言わないように、Y君は「うん、まあ、ふつう」だとか「辛いけど、まあでも、そうでもない」などとは決していいません。
「2.0な人」は今日もどこぞで辛いカレーを食べているはずです。
なるほど、そうか。「2.0な人」というか、「2.0的なるもの」はどこにも存在するという話だが、要するにこれ、「パラダイムシフト」ってことになるのだろう。恐ろしいぞ、「2.0」。だけど、こうして数字でそれを表現した人の言葉の使い方のうまさを感じる。だから言葉が出現してはじめて、「WEB 2.0」は「2.0」になったのだろう。ネットに関する「言語」が一般化されることは多いけれど、まあ、過去にもそうした新しい「メディア」や「テクノロジー」が出現すると似たようなことはいくつもあった。そのうち使い古されどうでもいい言葉になる。「2.0」はけっこう使えるんじゃないだろうか。いまはきっとそうだ。
■おでんをたらふく食べ、食った食ったと言っている場合ではなく、YouTubeにうつつをぬかしている場合でもないのは、仕事ももちろんだが、いろいろ世界が、あれなことになっているからだ。それを強く意識しつつ、それをどのように表現すれば現在的かについて、またいろいろ思う。それは数年前の京都の冬、あのかちんとした空気のなかを歩いているときのような、そんな皮膚の感覚。寺の板張りの床から足に伝わるのはとて冷たい温度だったが、それでからだが、しゃんとし、神経がぴりぴりしていた。考える。もっと考える。
(11:14 Jan, 14 2007)
Jan. 12 fri. 「演劇 2.0」
■写真は居間のデスク。最近、しっかり仕事部屋兼書斎で仕事をしくなってしまった。ほんとノートブック型コンピュータは人をだめにすると思う。仕事部屋で集中しなくては。
■わかっているような気になっていながら、冷静に考えてみたら、まったく理解していないことは数多くあるので、少しの手間をかけて調べればいいものを、それを怠っているいるうちに、間違った認識をしていることは多い。いったい、「WEB2.0」とはなんのことだ。僕もわかっているような気分になっていた。ただ、わかっているような気持ちになっていただけだ。で、調べてみたら、「IT辞典」のような場所に次のように解説されていた。(以下、「IT用語辞典バイナリ」から引用)
Web 2.0とは、従来のWWWにおけるサービスやユーザ体験を超えて次第に台頭しつつある新しいウェブのあり方に関する総称である。
Web 2.0という言葉は、あくまでもコンテンツの提供の仕方や、技術の提供の仕方、あるいは要素技術の組み合わせの仕方、サービスの使い方などを漠然と指しているため、明確な定義づけがなされている訳ではない。また、IEEEやISOなどのように、特定の規格や標準のことを指している訳でもない。しかし、Web 2.0という概念で特徴付けられるものは、いくつかの共通要素を共有しており、これらの要素を持っているかどうかによってWeb 2.0は特徴付けられている。
Web 2.0の大家として知られるTim O'reilly氏の論文「What is Web 2.0」によれば、Web 2.0を特徴付けているのは、次のような事柄だ。
(1)ユーザーの手による情報の自由な整理
従来のWebでは、Yahoo!ディレクトリなどのように情報をディレクトリ型に整理して配置して来た。これに対してWeb 2.0では、ユーザーの手によってこれらの枠組みに捉われることなく、自由に情報を配置する。代表的なサービスとしては、画像を共有するサービスであるFlickrや、ソーシャルブックマークのはてなブックマークなどが挙げられる。(2)リッチなユーザー体験
従来のWebでは、HTMLやCGIなどを利用してサービスが提供されることが多かった。これに対してWeb 2.0では、Ajax、DHTML、Greasmonkeyなどといった技術やテクニックを応用してサービスを構築し、豊かなユーザ体験を提供する。代表的なサービスとしては、GoogleMapやGoogle Suggest、Gmailなどが挙げられる。
まあ、なんだか大変ことになっているらしい。で、わかったのは、過去のネットのありかたを、「1.0」とするなら、新しい構造をもったネットのありかたが「2.0」なわけで、つまりネットの総体が変化していることを数字で表しているのだが、こういうのもITな業界における「ヴァージョンの表記」というものだろう。アプリケーションのヴァージョンどころか、構造の総体が進化しているということらしい。だけど、なんだなあ、「進化」と書くと語弊がある。それは「進化」なのだろうか。誰がどう、そのことで「進化」し恩恵を受けているのか。だいたい「進化」を問題にすること自体が、ネットとは異なる世界ではいまやどうでもよくなっていたのに、いまだに「進化」「進歩」「発展」に理想を見いだすことが奇妙だ。というか、あれはそういった近代的な未来志向とは無縁に、ただ、「便利になる」ということではないか。「合理」ということではないか。それがいいことかどうかは受け取る側が判断すればいいような気がするし、べつに、「WEB2.0」だろうが、なんだろうが、どうでもいい。というか、そうやって「次の段階へ」と「資本主義」は前に進まないと立ちゆかなくなる「運動」そのものだ。
■だから、それを言葉にするのははばかられもするが「演劇2.0」という言葉を思いついてなんだかいい感じはするものの、少し躊躇しつつ、たとえば『ユリイカ』で少し前に刊行された「小劇場特集」は、「演劇2.0」についての特集だといまになって気がついた。あの特集は「演劇2.0」と宣言すればよかったんだ。その代表が、「チェルフィッチュ」であり、「ポツドール」であり、「三浦基」であり、「ニブロール」(演劇ではないが)と代表的なところをあげると、そうした潮流を想起することができる。時代は変わる。時代は変わっている。「演劇1.0」はもう乗り越えられた。「反近代劇」も、「アンダーグランド演劇」「八〇年代演劇」「九〇年代演劇」も過去。パラダイムのシフトがすでにはじまっているのだ。だってもう、二〇〇七年である。
■そんななかで、私はどういった立場にいればいいかよくわからないが、自分のやりたいこと、いま語るにふさわしい表現によって現在を、現在的なテーマにふさわしい表現方法を探ることしかないよ。だからまた、気持ちは高ぶっているし、まだできることがあると思えてならないのだ。なんだからわからない気力は充実。もうこうなったら、「演劇5.0」ぐらいまで行かなければな。
■それにしても、うちの近く(私が居住する渋谷区近辺、富ヶ谷、幡ヶ谷)で相次いでばらばら死体事件(および殺人)が連続して発生。いま「バラバラブーム」である。全国各地で人は人を殺し、しかもばらばらにする。これは何かの兆候なのだろうか。不謹慎を承知で報道機関の発表だけを頼りに書けば、残念なことに被害者に同情する気持ちがもうひとつわいてこない。ま、いろいろ事情はあったし、殺すことはけっして許されない。なにか解決法がないかと思いつつ、なんとなく家族だから生じる憎悪の感情がわからないでもないから複雑な背景があるのだろう。殺された女子短大生の「夢」は、「グラビアアイドル」になって、クイズ番組の回答者になることだって、それ、「夢」なのか。あまりの夢の安さにがっかりな気分になった。とはいえ、そのささやかな夢もかなえられず。
■そして、これから先の時代についてのいやな予兆。2チャンネルのドメインが差し押さえられるというニュース。いろいろだ。ま、いまはとにかく、「演劇2.0」について私の専門領域について考えること。さあ、またいろいろ考え、そして仕事を一生懸命にしよう。
(8:44 Jan, 13 2007)
Jan. 11 thurs. 「そして早稲田もはじまる」
■早稲田の授業が二コマ。ワークショップの授業は来週が発表なので今週は中間発表なしでただ準備と練習にあてたが、まだ、練習どころか内容を考えているグループもある。なかにはもう、やることが決まっていて細かい点まで確認しているところもあるというのに、この進捗の差はなにごとだ。作り込んでいるところはかなりしっかりしているようなので、来週の発表が楽しみだ。まあ、だめなグループがいかにだめかも楽しみだが。しかし黙って作業をはたから見ている時間は長いが、ワークショップが一コマというのはさすがに短い。なにかしようと思うなら少なくとも連続で二コマ(三時間)はあったほうがいいと思う。
■その後、「演劇論で読む演劇」の授業だが、今週はブレヒトの『今日の世界は演劇によって再現できるか』を読む。この授業は担当する学生がその演劇論を読んでまとめ発表をして進行するが、やっぱり授業の時間が伸びるのだ。最後に僕がいちおうまとめのような話をするのだが、そのとき話したいことがけっこうあるのだった。学生たちの発表を聞き、彼らの読み方から、またべつのことを発見することもあって、とてもためになる。考えるヒントを与えられる。だけど時間がかかるのだ。そのあとの授業が押すことになってたいへん迷惑をかけている。ほんとに申し訳ない。授業後、外で煙草を吸いながら学生たちと雑談。毎週、授業をのぞきに来てくれる岡室さんも一緒になってあれこれ話すのだが、この時間がほんとに楽しいのだ。ただ、外はさすがに寒くなってきた。
■冬休みがあけて大学に行ったら、駒場もそうだったけど、やけに学生の数が多い。ちょうどレポートの提出とか、ここで授業に出ないと単位がもらえないとか、学生があせる時期なのかもしれない。で、僕の早稲田での授業も来週で終わるのだ。一年目は舞台がほとんどなかったので、むしろ学生と話す時間も豊富に取れたが、去年は二本、舞台をやったからな。授業を終えるとすぐに稽古場に向かうなど、あまり余裕がなかった。教えるのならもっと余裕を持ってゆっくり学生と対話しつつ、できたらよかった。まあ、やり方がきっとあって、それに慣れなかったのもかなりあったし、やっているうちに方法を発見できたと思うのだが。あと、あれですね、それも含めてもっと勉強することがあったな。大学をうまく使いもっとなにか考えればよかったと反省するのだ。なにより問題だったのは、大学で作ってくれたメールアドレスをまったく利用していなかったことで、そのアドレスに大学からのお知らせが何通も来ているのを知ったのは、つい最近のことだったのだ。なにをしていたんだ俺は。
■そんな年明けである。きのうも書いたけど、このところノートが滞っているので、更新の頻度を元に戻そうと思うのだ。『ニュータウン入口』の戯曲もそろそろ準備をはじめなくてはならないが、小説がなあ、去年の暮れに新潮クラブに入ってから書けなかったのだ。それをなんとかしなくてはいけない。あ、それからたくさんの年賀状をありがとうございました。
(8:29 Jan, 12 2007)
Jan. 10 wed. 「もう仕事はしていたのだ」
■今年になってはじめての駒場の授業であった。ひとつ厄介な原稿があって年末から苦しんでいたがそれもふくめ三本書き終え、それから授業のための準備でいくつかの本を読んでいた。というか、もっと読みたいものがあったが、ほんとは「ノイズ論」を語るのにまだ足りない。きょう発見したのは、「愛国はファンタジーである」ということ。書きはじめると長くなるのでまたにしよう。
■年が明けてからノートが滞ってしまった。原稿を書いていたんだ俺は。YOU TUBEからダウンロードした映像を授業で流したが、それにしても、これ見たいなと思うとたいていのものはある。先日紹介した、「高円寺ニート組合」の人たちが新宿南口で「クリスマス粉砕」というふざけたことをやったというのは新聞で知ったわけだが、その映像がないか探したら、やっぱりここにありました。これをDVDに焼いたのだった。もう少し音声がクリアに録れていればと思うものの、いまや、映像はなんでも手軽に記録でき、そしてこうしてYOU TUBEで外に流せるのはなんて面白い事態なのだろう。
■授業には、去年、早稲田を卒業したオウギが来ており彼女から桐山襲さんの『未葬の時』の、作品社から出ていた単行本を借りた。僕は文庫でしか持っていない。彼女は古本屋で見つけたとのこと。黒地に白の活字。十五年前の亡くなられた年の夏に刊行されている。そうか、桐山さんが亡くなられてもう十五年になるのだなあと、少し感慨深い気持ちになる。それから白夜書房のE君からは能町みね子さんの本を借りた。その後、駒場をあとにし、筑摩書房のIさんに会って筑摩のWEB上での連載に関する打ち合わせ。Iさんから提案されたアイデアで連載をすることになったのだった。だがIさんはものすごいことを考えており隔週で十枚ずつ書けないかという。書けません。
■ところで、あらためてYOU TUBEの話。二〇〇〇年の八月ぐらいの記憶だが、その秋から京都造形芸術大学で教えることになったので、京都に部屋を探しにいったときのことだ。ホテルに宿泊していた深夜、なにげなくテレビをつけると、この番組をやっていたのだった。東京では見たことがなかったその芸人さんのことをそのときはじめて知ったのだが、面白くてその夜はずっと見てしまった。これってあれだよね、日テレがやっていた「電波少年」と同じような作り方だと思うのだが、正直なところ、私はあの「電波少年」をほとんど見たことがないし、たまに見ても、あまり面白いと思ったことがなかったのだ。だけど、関西でしか放送されていないその番組をなぜ面白いと思ったかにはいろいろ理由があって、関西でしかやっていないというのも大きな理由だったのだろう。もの珍しさが大きかった。だってここに出てくる芸人さんを誰一人知らなかったのだ。
■その後、十月から授業が開始され京都での生活もはじまる。授業は水曜日の朝九時から。この授業に私はほんとに苦しめられた。で、唯一の救いともいうべきなのは、その前日の深夜に放送される、その「クワンガクッ」というテレビ番組だった。京都ではほとんどテレビを見なかったが、これだけ毎週見ていたのはいま考えると奇妙で、作り方は先に書いたように「電波少年的」なんだけど、ただちがったのは、出演していたのが、まだ無名だったチュートリアルであり、サバンナであり、ロザンであり、そして陣内だったことだし、「電波少年」に出ていた芸人がその後、まったく話題にならなくなったのとは逆に、彼らはメジャーになってゆく(「電波少年」においてはむしろほとんど素人に近い「面白くない芸人」を使うのが戦略だったのだろうが、それは、さかのぼれば萩本欽一さんが発見したきわめてテレビ的なシステムであり、萩本欽一がその後のテレビの作り方を変革した)。だってチュートリアルだよ。M1グランプリだよ。あと、「電波少年」は海外に出て行ったが、「クワンガクッ」は基本的には、難波と梅田のあいだでなにかするという、この低予算ぶり。このマイナーなというか、関西でしか成立しないような貧乏な条件がすこぶるよかった。
■しかし、YOU TUBEだ。よくこれをアップするやつがいたものだ。それで懐かしい気分になった。京都のことを思い出す。陣内はこのときがいちばん面白かった。ま、どうでもいいけど。そして、先に書いた、「クリスマス粉砕」の映像だが、新宿南口でこたつで鍋をやっているだけで警察が来て排除されたとき、そこには、なにか奇妙な人たちがおかしなことをしている「出来事」でしかないわけだ。だけどそれを映像化してYOU TUBEにアップしたことで、その行為が強いメッセージ性を帯びることになる。ここがたいへん興味深い。
■ニュースではどこも、Appleが発表した、iPhoneのことが報道されている。MAC POWERのT編集長がMacworld Expoに行く直前に送ってくれたメールに、「この10年でもっともすごいものが発表されるらしい」とあったので、ある程度、予想はしていたが、その内容はやっぱりスティーブ・ジョブスらしいと思ったのだ。日本での発売はまだ未定だという。だけど、どうなんだろうね、携帯って、電話にしか使わないからなあ。ま、持ってたらそれはそれで面白そうだけれど。
(12:49 Jan, 11 2007)
Jan. 1 sun. 「元旦」
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
それにしても、正月の新鮮味が薄れている。かつて大晦日から年明けといえば一大イヴェントだったにもかかわらず50年も同じことを経験していると大晦日の夜も自分のなかで「マンネリ感」がただよっているのだった。新年を迎える気持ちになにやら晴れ晴れとした気持ちがわいてこないというか、正月に飽きてきた。大晦日、ああ、今年も終わるのだなという気分は多少あっても、新しい年を迎えるのに、いかにもおめでたく、「Happy New Year !」ってものがぜんぜんない。31日の夜は、ごく日常的に迎え、そしてやはり型通りの「年があけた。おめでとう」という気分。新鮮な気持ちがなにもないのだ。こういうことも飽きるのだな。だってもう、この正月ってやつを50回くらいやってるんだからさあ、飽きないほうがおかしいじゃないか。
だけど、どうか今年もよろしくお願いします。去年も様々な方からの支援や助けがあって一年を過ごしました。ありがとうございます。これもひとつの区切り。これからも精進し、様々な仕事に精を出す覚悟でいるのです。今後も、「遊園地再生事業団」とそして、このノートをご愛顧ねがえればと願ってやみません。『ニュータウン入口』の本公演はもちろん、四月からはじまるプレビュー公演にもみなさまのご来場をお待ちしております。
(11:48 Jan, 1 2007)