富士日記2PAPERS

Jan. 2007 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Feb. 14 wed. 「雨の長い一日」

西新宿の元風呂屋

■写真は、西新宿大久保よりの解体中の銭湯。銭湯内部の壁画と、煙突だけが残っている。さらにその向こうに、高層ビル。奇妙な土地である。
■午後から夜まで長い一日。一日中ずっと打ちあわせであった。セゾン文化財団にいって、いくつかの打ち合わせと、海外留学についての説明を聞く。あるいは、向こうにいって「リーディング公演」をすることについて。ともあれ勉強である。勉強しなくてはと、貪欲に学ぼうと思う。
■そんなとき読んだのが、新藤兼人監督の『作劇術』だった。インタビュー形式で、シナリオライターとしての新藤監督に聞き書きする内容。演劇とはもちろん異なる世界だが、とてもためになる。新藤さんは九十五歳。まだ現役で書いている。そして書くことでしか、「自分を知る」ことができないとあった。その自分をどこまで発見するか、それがドラマになるなど、ありがたい言葉にあふれている。
■ところで、YouTubeで森達也監督の『ドキュメンタリーは嘘をつく』を見て思ったのは、「芝居」ってむつかしいってことだった。すごく自然な、ドキュメンタリーなことをしているのだが、自然にやろうとする芝居がとても不自然。森さんはうまいが、若い映画監督の芝居がへただから、あーあって気になったのだった。芝居はむつかしい。というか、これを観た限りで考えるのは、芝居とはうまく嘘をつくことなのだなという思いだ。
■夜、岩崎書店のHさんと絵本の打ち合わせ。そのあと、筑摩書房のIさんとさらに打ち合わせ、絵本は、ものすごく待ってもらっているので恐縮するしかない。で、同席してくれた制作の永井から今後のスケジュールを伝えてもらったが、ぜんぜん書く時間がなくて、さらに三年後ぐらいになりそうだ。筑摩はweb連載の打ち合わせだ。少し前進。今月の末が締め切り。今月中に「新潮」のM君に渡す小説を書く予定。来月は戯曲。そのまえに、『東京人』から頼まれた新しく始まる連載の締め切りも同時期にある。できるのか。
■家に戻って、「前期・中期旧石器発掘捏造事件」に関する新しく仕入れた本をまた読む。そういえば、今回のオーディションに向けて映像で関わりたい人が数人いて、そのうち、あきらかにプロの人の『繭の記録』という作品と、京都の大学で僕も教えたことのあるK君のドキュメンタリーが面白かった。K君のドキュメンタリーは長尺だが、もっと先を観たいと単純にそう思った。
■ところで、「前期・中期旧石器発掘捏造事件」について調べていたら、発掘って作業は、いわゆる土木作業の側面もあることを考えると、学術的なこととはべつに、またべつの問題があるんじゃないかと思った。作業自体に金が動くんだよな。静岡市の遺跡発掘で、贈収賄の事件があった報道を読んで、あ、これは文化事業だというだけではなく、土建の仕事の一部だとも感じ、なにか複雑な様相を呈していると思えてならないのだった。

■数日、とてもいい日が続いたが、きょうの東京は雨。さすがにこういう日は寒い。でも仕事はしよう。新藤兼人の教えを守って、ただただ、書こうと思う。

(9:12 Feb. 15 2007)

Feb. 13 tue. 「梅を見る。その他」

羽根木公園の梅

■連休が終わったらやらなくちゃいけないことがあると思っていたのに、それを忘れ、天気がよかったものだから思いつきで、小田急線梅ヶ丘に梅を見に行ってしまった。今年は暖冬だというがまだ五分咲きから、七分咲きであった。かつてその隣の豪徳寺に住んでいたのでしばしば自転車で来たことがあったのだ。最盛期は、羽根木公園にある梅が、ぱーっと開花し、桜ほどの派手さはなくてもこころなごむ光景になる。で、この時期、週末ともなると「梅祭り」ってわけでいろいろな催しものが開かれるのが恒例だ。焼きそばを売る店も出る。甘酒を売る店も。にぎやかになるけれど、平日のきょうは、そんな催しもなく、のんびりとした午後だった。梅はよいですな。それでも平日だというのに人出はけっこうな数だ。お年寄りが多かった。
■で、梅ヶ丘の町をしばらくぶらぶらする。そこに、「TAKE FIVE」というカフェがありジャズの店なんだろうと思って入ると、壁に、この店を使ってジャズのライブがあるのを告知するポスターが貼ってあった。たしか梅ヶ丘の商店街のどこかにジャズの中古レコードを売っている店があったはずだが、どこだったかすっかり忘れてしまった。ビルの二階だった気がする。たいていのレコードが二万円ぐらいだった。いつだったか、「ブルーノート」のジャケットを集めた写真集(これかな)を本屋で見つけた。ものすごくかっこよかった。CDでも復刻されているけれど、やっぱりあれは、LPレコードを基本にデザインしたものだろうから、あの大きさじゃなければあのよさは出てこないだろうと思われる。買っておくべきだった。さっきリンクしたジャケット集がそれだとしたら、アマゾンで注文できるが。
■公園で思いだしたが、「井の頭公園」では、音楽、身体表現、大道芸に限らず、なんらかのパフォーマンスをするのが登録制になったと聞いて驚かされた。それは、「公園」ではないですよ。「公園」はその名が示すとおり、「パブリックスペース」なわけであり、誰もが自由に使えるからこその「公園」ではないか。騒音が付近住民にとって迷惑だという説があるが、「迷惑な騒音」はほかにも少なからずあるし、井の頭公園ひとつとっても、「花見」はどうなんだ。あんなににぎやかで迷惑なものもない。まあ、そうやって、「だったらあれはどうなんだ」となにか対置したところで意味がないのはわかっているつもりだが、「公園」という性格を考えたとき、この登録制は、ただの「規制」でしかなく、「公共圏」はこうやって次々と管理の対象になってゆくのだな。「迷惑」はごく主観的なものだ。行政がそういった規制に動くっていうのは、よほどの「近隣住民」がいると想像する。行政をも動かす「住民」とはいったいどんな者たちなのだろう。

(5:30 Feb. 14 2007)


Feb. 11 sun. 「三連休だと人は言う」

■この数日、いろいろ本を読んでいるか、資料にあたっているか、あるいは、レンタルのDVDを観ているかだった。で、10日(土)は、五月にある「かながわ戯曲賞」のリーディング公演のため、チェルフィッチュに俳優としても出演している下西君の書いた受賞作、『廻罠(わたみ)』を実験的に、何人かで読んでみたのだ。これ、「わたみ」って読めるか。ま、誰も読めないと思うが作者がそう読むのだと主張しているのだから、そう読むしかないのだった。外国語に翻訳するときどうすればいいんだ。参加してくれたのは、南波さんと上村、と、いつも僕の舞台に出てくれている二人のほか、あとはみんな早稲田の学生たち、あるいは、もう卒業してしまったが、かつてなんらかの形で僕の授業などに関わってくれた人たちである。初めて会う学生もいたのだが。
■で、場所の下見もかねていたので、横浜の桜木町駅からすこし歩いた場所にある青少年センターだ。学生たちのほとんどが、東京だし、遠いところでは、埼玉の川越だったり、千葉の松戸だったり、遠路を来てもらったわけである。申し訳ないことになったのだ。で、配役して読み合わせのようなかっこうでテキストを読む。目で読んだだけではわからないことがいろいろあって、ためになったのと同時に、戯曲を単独で読む力をもっと鍛えなければと思うわけだ。けっこう読み落としている部分がある。人が読んではじめてわかるところがある。それがなあ、単独で読んだときにわかるようにならねばと思う。だめだな。これも訓練だな。もっと読む力をつけなければ。
■で、この試みは、リーディングにあたってキャスティングの目安を探す目的がひとつあった。あるいは上演時間を知りたいこともあった。だが、それとはべつに、俳優たちと共同作業をすることで、考えるヒントを、このリーディングとはべつに探っていたのである。いろいろわかる。なかにもう卒業してしまった菊池君という人がいて、以前から彼が面白いと思っていたのだ。菊池君は練肉工房の岡本さんの元で勉強し、さらに自分たちで定期的に訓練を積んでいるという。そうした作業そのものが僕には興味深い。そして、今回も読んでいるだけで、菊池君にはなにか特別なものがあるのを感じた。今度、その、定期的にやっているというトレーニングを見学したいと思ったのだ。
■それにしても、学生たちにはとても助けられる。こういった勉強会みたいなことを、学生たちとやはり定期的にやりたいと思うが、なかなかに時間がとれない。悩むところだ。っていうか、大学の授業でやればいいんだけど、大学の授業にはいろいろ制約があるからな。うーん、大学をうまく活用する方法がきっとあるはずなのだがなあ。それを七年間、大学で教えて、ようやくつかむことができたような気がする。

■あと、野田秀樹さんの『ロープ』について論をまとめていた。もっと考えることがあるのじゃないかと、まだ書きあげられないのである。でも、しっかり書こう。もう一度、戯曲を読んで考えてみたい部分がある。演劇の勉強である。そんなわけで、いろいろ本を参照しつつ考える。書きあげたらここに発表しよう。
■その前日っていうのは、つまり9日(金)の夕方、用事があって青山に行ったら、やけに道が混んでいるし、どこも人でいっぱいだ。なんだこのにぎわいは。ま、いいけど。
■さらに、このあいだも書いた奥野正男さんの『神々の汚れた手』をはじめ、「前期・中期旧石器時代発掘捏造事件」に関連する本を読んでいて、その面白さに取り憑かれているが、いろいろなことがわかるものです。多摩ニューセンターではものすごい数の遺跡が発掘されている。単純な理由だ。そもそも、どこかの土中を掘れば、時代はばらばらでも、ともかく「遺跡」は出てくるらしいという前提があるものとして考えれば、多摩ニューセンターの建設という大事業は、とにかく、森林を伐採し、山を開発し土地を掘り起こしたということでしかない。その規模がほかの地域とは比べものにならないほど巨大だったのだ。だとすれば当然のように出てくる。こうなるともう、文化的事業なのか、経済的な事業による必然かよくわからないのだ。地方に行くと、すでに捏造だとして完全に否定されてしまった「上高森遺跡」など、遺跡として観光化され保存されるようなことはあったし、その土地でも「原人がいた」として名物を作っていたりするので、もちろん、「原人饅頭」はあったにちがない。だが、多摩ニューセンターの遺跡では、「観光地」より「住宅地」である。「ロマン」や「物語」より、「経済」である。遺跡はたちまち開発され、たとえば、捏造が発覚して史跡の指定が取り消される以前に、すでに「多摩ニュータウン471B遺跡」は宅地やゴルフ場になってしまったのだ。
■ニュータウンはすごいよ。しかも首都圏のニュータウンはもう、「ロマン」も「物語」もないのである。青森県の「三内丸山遺跡」は野球場建設のために土地が造成されるまえに発見され「縄文期」の遺跡だとして、野球場の建設は取りやめになっているのだ。だいたいねえ、先ほど書きました「上高森遺跡」とか、「三内丸山遺跡」や、九州の「吉野ヶ里遺跡」、まあ捏造だったとしてまったく価値がなくなった「座散乱木(ざざらぎ)遺跡」にしても、まあ、地名なんだけど、それ風じゃないですか。遺跡っぽいでしょう。それに比べて、「多摩ニュータウン471B遺跡」って、このやけくそな名前はいったいなんだよ。数字かよ。まったくありがたみがない。地名が発見当時「坂浜」って土地だったんだから、「坂浜遺跡」でもよかったじゃないか。それを、「多摩ニュータウン471B遺跡」って、まったく、どうなんだそれは。まあ、一定の地域にものすごく数が多くて整理するのに数字のほうがよかったのかもしれないけれども、それにしたってなあ。

■それと、「前期・中期旧石器時代発掘捏造事件」の本質を考えてゆくと、「ゴッド・ハンド」と呼ばれ捏造を単独でしたとされる藤村氏がスターにまつりあげられてしまったことの背景には、こうした学問的な研究が、世界的な考古学の研究のなかで議論されず、ただ、国内だけで、わーっと盛り上がってしまったことがある。少し考えれば、北京原人と同時期の原人が、さらに北にいたということを(しかもこの日本で)、世界レベルでの学問的な調査とか、外国の研究者と議論を深めることもなく、すごく狭いこの国の考古学界で「あたりまえになった」ということは、素人の私にも奇異なことと感じる。で、そのことと、日本の演劇も同じようなことになっていないか、疑問に思うところもあるのだ。もちろんいま演劇は外国との交流もとても盛んになっているし、研究者や学問のレベルでは海外と研究成果を議論しているのは知っている。ただなあ、日本の、というか、むしろ、東京というかなり限られた狭いところで「人気者」が登場し、それで盛り上がるという小劇場界の構造は否定できない。大きく見ればこの国だけで閉じているように感じる。俺も、ちょっとねえ、あれだからさ、自戒をこめてそう考えるのである。
■だからといって、作品レベルで、「世界に通用するもの」といって、変なオリエンタリズムはばかげているし、「世界」に媚びることもない。ローカルなところから発し、それが世界に開かれていればいい。だって、フォークナーだって、アメリカ南部の片田舎の、ひどくローカルな物語しか書いてなかったじゃないか。「ニュータウン」のことを考えようと思って、なぜか、「石器発掘捏造問題」に夢中になっていたが、その本質を知れば知るほど、べつのことを考える契機になる。ただ、そのなかで、『ニュータウン入口』を書く手がかりが少しずつ見えてきた。
■来週はまた、多摩に行く。このノートを読んでくれている、ある高校の教師の方からメールをもらい、ニュータウン育ちの高校生と話をしてみませんかと提案してもらったのだ。ほかにも、ニュータウン育ちという、ダンスをやっている方からもメールをもらった。ほんとにありがたい。そのような数日だったわけですけれど、本日(11日)は、DVDを借りにTSUTAYAに行った以外は、外に出なかった。DVDを見て、ただ本を読む。これじゃあひきこもりじゃないか。でも、そうやって、資料にあたったり、地図を見たり、本を読んだりしつつ、戯曲に向かって妄想していることの、なんという愉楽であることか。まったく、ゆかいゆかい。

(10:03 Feb. 12 2007)

Feb. 8 thurs. 「愉楽の時間」

平安期の壺

■このあいだ、「東京都埋蔵文化財センター」に行ったとき手に入れたのは様々な資料だけではなく、ポストカードもあって、その大半が「土器」などの写真があしらわれたものだった。いったいこの写真のハガキを送られた人はどういう気持ちでそれを受け取ったものか疑問だが、まあ、それはいい。写真は、ポストカードの一枚、「多摩ニュータウン NO254遺跡」より発掘された、平安時代の「須恵器短頸壺」だ。で、そこに文字が彫られている。よく見ると、「栗」である。下の写真が拡大したもの。あきらかに「栗」である。この意味がよくわからない。これは栗を入れておく壺だったのだろうか。この文字はその印なのか? そう考えるとちゃんと「栗」と書いておかないと、中になにが入っているか忘れてしまうからそうしたようにも思える。そんなにばかだったのか、当時の人は。

壺の文字「栗」

■しかし、よく見るとすでに壺を焼いた段階で、この文字は入れられているのだから、よほどの事情があったと想像できる。ことによったら、これを焼いた人の「印」だったとも読めるが、だったらそういうのは壺の底に入れるべきだろう。こんなに堂々と書かれても困るって話だ。だからやはり、これは、「栗専用の壺」だったと考えるほうが妥当である。すると、次に疑問になるのは、この「雑な字」である。かなりいいかげんに書いている。「栗」はそれほどいいかげんにあつかわれていたのだろうか。だが、いいかげんにあつかわれていたのなら、わざわざ専用の壺を作ることはないではないか。
■で、その字をじっと見ていて思ったのは、これは「栗」ではなく、「西木」じゃないかとも読めることだ。つまり、「すごく字の下手な西木さん」がいたのである、平安時代に。で、所有権を主張するため、焼きをはじめる直前、ささっと、文字を入れた。まあ、「栗」か、「西木」かの判断はここではむつかしいが、いずれにしても、「ささっと、文字を入れた」といういいかげんさがこの文字にはある。なんらかの事情があって、あせっていたのかもしれない。あせっていたので落ち着いて字が書けなかったのかもしれない。あと、壺を作るのを依頼した者が、これを壺に入れてくれと当時の陶工に言ったが、陶工は字を知らなかった。壺は作るが文字は苦手だ。で、言われるがまま、それらしく書いたのかもしれない。というのも、上の、「西」の文字にあたる部分の、たての二本の線のいいかげんさがひどいことになっているからだ。少しでも文字が書けたら、こんなふうには書かないだろう。あるいはこうも考えられる。つまり、「よほどくせ字の人」だ、平安時代の。で、そんなことをいろいろ考えていたら、あるところに次のようなことが書かれていたのを見つけた。

中国古代には、「倉頡(そうけつ)が文字を作ったとき、天は栗を降らせ、鬼は夜に泣いた」という伝説がある。

 まあ、このことと写真の「栗」の文字は関係がないと思われるが、それにしたって、「鬼は夜に泣いた」がよくわからない。あ、でも、「栗」はなにか象徴的なものだと思われる。なにしろ「天は栗を降らせ」である。栗にはそうとう高い価値があったのじゃないか。するとこの壺の意味も変わってくる。もっと宗教的ななにかって気がしないでもない。と、ここまで書いて思うんだけど、じつに、だからなんだって話である。それを写真入りで、こんなに長く書いてしまった。いまそのことをひどく悔やんでいるのだ。書かなきゃいけないことはまだ数多くあるのだが。

■それにしてもこのノートだが、一年前のこの時期になにをしていたかとか、ある仕事や作業は、去年のどれくらいの時期にしたかといった確認をするとき、すぐれた効果を発揮するので、なかなかにあなどれないのである。いわゆる忘備録というやつになる。だからノートのタイトルも「富士日記」ではなく、「忘備録」だけでもいいし、少しタイトル風にするなら「東京忘備録」でもいいのだった。そんな日、ある雑誌に三坂の写真が大きく出ていた。コメントはない。で、きのうは、いろいろしていたが久しぶりに落ち着いて考えごとをしていたものの、その大半が、「考古学」のことであった。『神々の汚れた手』(奥野正男・梓書院)を読んでいた。そこに、「新潮」のM君からメールがあって小説のことで問い合わせてくれたが(M君はこのノートを毎日読んでくれている)、いま、夢中になっていることもいいですが、小説をぜひともという意味の言葉があった。ほんとに申し訳ない次第になっているわけである。
■で、きょうは、よし、小説を書こうと意気込みはあったものの、ついまたべつの本を読んでしまった。それから、「ニュータウン関連」の参考資料にしようと、千葉県佐倉市にある「ユーカリが丘ニュータウン」を舞台にしたという映画のDVDを借りてきた。どうなんだ、その「ユーカリが丘ニュータウン」ってネーミングは。しかも、そこに走っている鉄道は「ユーカリが丘線」である。ま、いいんだけどね。住民たちはどんな思いでいるのかと疑問もわいてこようってもんじゃないか。
■様々な調べものをしたり、文献にあたったり、そこから妄想したりすることは、なんという愉楽であろうことか。あと、You Tubeね。古いテレビドラマなどもある。で、僕が学生のころ、周囲の友だちが好きだった女優に坪田直子という人がいて、当時のドラマに出ていたのをYou Tubeの映像を見ていて思いだした。彼女はキッドブラザーズに所属しており、友人たちはキッドブラザーズの舞台を観に行ったようだが、僕はぜんぜん興味がわかず、一度も観たことがない。でも、たしかに坪田直子さんは(テレビでちらっと見る限り)たいへん魅力的であった。いま、どうしているのか知らない。調べると、オーディションで選ばれて坪田直子さんはキッドブラザーズに入団したとのこと。こんど『ニュータウン入口』のオーディションをやるが、そのなかで、誰か魅力的な俳優に出会えたらと思えてならない。どこかにきっといるはずだ。『ニュータウン入口』に向けてまた気分を高める。

(7:29 Feb. 9 2007)

Feb. 6 tue. 「格差・郊外・ナショナリズム」

■そういうわけで、興味のあることを調べているうちに、すっかり原稿を書くのを忘れていたのだった。しまった。慌てて書く。うんうん、苦しむ。興味のあることにすっかりうつつを抜かしていたのだ。深夜になってようやく書きあげた。で、こういうとき慌ててメールで送るときっと失敗しているので、一度、眠ってから送ろうと思うのだ。時間をおいて読むとだめなところがよくわかる。そういうものだな。
■で、うれしいことに、「ニュータウン」に関して何人もの方からメールをいただき、様々な情報をいただいた。ありがとうございます。ひとつずつ返事を書きたいのですが、ひとまず、この場でお礼と返信にかえさせてください。いやあ、とてもためになるんだ、みんなの示唆が。白水社のW君や、「演劇情報サイト・ステージウェブ」のMさんのメールは、「コストコ」に触れている。W君はやはり、あの「コストコ商法」の、ある意味での恐ろしさを書いていたが、それにしてもW君は、スーパーマーケット、ショッピングモール関連についてやたら詳しいので驚かされる。

 スーパーへの「期待」といったとき、ぼくは、マーケット的な“にぎわい”というか、旧市街の市場的な、雑多な(=ノイジーな)楽しみを、まずは、求めてるんだと思います。
 巨大スーパーということでは、幕張や町田で展開した、カルフール(フランス発)が「失敗」したのが残念でなりません。発泡スチロールのトレー&ラップを廃すべく、個別売りや、生鮮食品の量り売り、よいと思ったんですけどねえ。
 そこで、宮沢さんに、おすすめしたいのは――「定着」したコストコ(アメリカ発)も面白いですが、「成功」してほしいイケア(スウェーデン発)には、ぜひ行っていただきたいです。(ららぽーとのある)船橋の、スキードーム・ザウスの跡地に初上陸しましたが、(チェルフィッチュの岡田君が描く)港北ニュータウンにも去年オープンしました。もしも、またコストコに行く機会があるならば、町田街道&国道16号で南下して246に出て、カルフールとイケアをまわっていただければと。

 詳しいなあ。驚いた。そして、ほかの方のメールでも薦められた、東浩紀さんと北田暁大さんの『東京から考える――格差・郊外・ナショナリズム』についてW君も触れている。ここでのキーワード「格差・郊外・ナショナリズム」は、三浦展さんの『ファスト風土化する日本―郊外化とその病理』における概念の展開ともあいまって、きわめて現在的なのだろう。というか、いままさに、そこにある「危機」なのかもしれない。
■様々な示唆を与えてくれる方たちに、あらためて感謝だ。
■でもって僕は、社会学者でも、歴史学者でも、考古学者でもないので、それぞれの示唆をもとに作家的な想像力を働かせたいと思っている。あるいは、また演劇のことを考える。少し勉強。それからほんと器用じゃないので、いろいろなことに頭がまわらず、いま、夢中なことについ意識が集まってしまうから、やっぱり、「旧石器時代」のことなどまた、調べていたり。小説をね、完成させないとな。あと大学の残った仕事がまだあるのだ。

(6:08 Feb. 7 2007)

Feb. 5 mon. 「興味はつきない」

神々の汚れた手

■そういうわけで、私はいま、「多摩ニュータウン NO. 471B遺跡」に夢中なわけだが、調べるといろいろなことがわかり、(「多摩ニュータウン NO. 471B遺跡」の発掘にも携わった)藤村新一氏について資料にあたればあたるほど興味深いことがわかる。「捏造事件」が発覚してから三年ほどして毎日新聞社の取材を受けるまで、氏は、精神的疾患と診断され病院に入っており、ほとんどの公的な取材を受けていなかった。参考資料を調べるとそれから約三年後に受けたインタビューはとてつもなくすごいことになっていいる。驚かされた。なにしろ、藤村氏は自分が「多重人格」という病だと口にしている。「捏造」は自分でも把握できない「人格」がやったという意味の回答をしている。どうなんでしょうか。よしんばそうだったとしてもだ、釈然としない思いはより増すのだし、当初、考古学というアカデミズムの外部にいた、民間の藤村氏ら「東北石器研究会」にはその出自から来る同情も少なからずあったし、あるいはアカデミズムそのものへの疑いも存在したはずだが、ほとんどの業績が捏造だったこと、そして「多重人格」と言い張って自分のやったほとんどの仕事を記憶していないとなると、逆に疑惑はますっていうか、疑問がふくらみ、同情する気になれなくなってくる。
 以下、記者との一問一答。

 ――取材に応じた心境は?
 いつか私の口から本当のことを話す義務があるし、主治医から「マスコミが取材を申し込んだら本当のことを話しなさい」と言われていたので、いい機会だと思った。
 ――石器を埋めた理由は
 「みんなで楽しいことできればなあ」と。名声欲ではない。しんどかったですね、だんだん周囲の期待はエスカレートしたから。何回かやめたいと思ってました。
 ――やめたいと言えなかったのか
 言えなかった。周囲の人やマスコミから注文が多くなった。ナイフ形石器がほしいとか、そんな注文が次第にエスカレートして20万、30万年前となる。今度は遺構がほしいと。それに応じていたんじゃないか。
 ――どうやって埋めたのか
 分からない。病気のために当時の記憶がない。
 ――いつまで記憶が残っているのか
 宮城県古川市で開かれた旧石器考古展(72年11月)を見てから1年ぐらいはうっすらと覚えている。その後(ねつ造の)告白までの26年間ぐらいの記憶がすっ飛んでしまって。家族のことも今は分からない。
 ――ねつ造を始めたのはいつからか
 20代後半、74、75年ごろから、同じ風景のところから石器が出てくる夢を5、6回見た。そこは実在し、掘ると石器が出る。今から思えば幻聴、幻覚なんです。私は以前「原人と話ができる感じがする」と言ってたのはそのことだったんです。
 ――01年に日本考古学協会の調査特別委員長と面談しましたね
 全く覚えていません。心と体がばらばらで、私の分身が多い時は数十人いました。分身がお話ししたということです。
 ――協会はあなたが関与した162遺跡の価値を否定したが
 権威ある協会が駄目だって言うのだから、認めます。
 ――ここは大丈夫という遺跡はないのか
 分からない。自分がねつ造したんだってことは頭に残っていますけれども、遺跡の名前は全部忘れてしまった。
 ――関係者や考古学ファンに言うことは
 中学、高校生の考古学ボーイの夢を奪ってしまったようで残念です。考古学ボーイたちに本物の3万年以上前の石器を見つけてほしいなと思っています。私の責任は一生かかっても償い切れない。私はキリスト教ではないが、重い十字架を背負っていると思います。
 ――今後、どうするのか
 いろんな人に迷惑をかけたので、ボランティアをやって社会のためになるようにしたい。

 これはちょっと大変なことになっている。
 さらに、雑誌「AERA」2001年12月24日号の記事によりますと、問題の「多摩ニュータウン NO. 471B遺跡」は、「日本考古学協会」が藤村氏の「発見」がすべて「捏造である」と報告されるまで、「東京都埋蔵文化財センター」(3日のノート参照)が「捏造」ではなく「シロ」と判定していたのである。その後、2002年5月26日に「日本考古学協会」が「すべてクロ」と発表したのを受けて、「都教育委員会は27日、藤村氏が発掘にかかわった稲城市の『多摩ニュータウンNo・471−B遺跡』を捏造と断定し、都内の遺跡を登録している台帳『埋蔵文化財包蔵地』から削除した」と2002年5月28日の朝日新聞の記事にある。発掘には、莫大な予算がかかっていたことを考えれば、教育委員会も、簡単に「クロでした」とか、「ぜんぶ捏造です」と言いにくかったことも理解できる。っていうか、理解できないが、おずおず認めざるをえなかった事情は容易に想像できるのだった。
 調べながら、事態の様々な側面が面白くてしょうがない。藤村氏が所属していた「東北旧石器研究会」もその後、解散してしまい、事件は誰に責任の所在があるのか、単に藤村氏ひとりの問題だったのか、はっきりしたことはわからないが、写真で掲載した、『神々の汚れた手―旧石器捏造・誰も書かなかった真相 文化庁・歴博関係学者の責任を告発する 』(奥野正男・梓書院)は事件を単独犯ではないと断じ追求している。その後、『神々の汚れた手』は、「毎日出版文化賞」を受賞している。

■調べれば調べるほど、この事件は興味がつきないし、前期・中期旧石器時代に、日本列島に文明があったという「新発見」がこの国になにをもたらしてきたかを考えればいろいろなことが想像できる、っていうか、明白なことはいくつもある。あと、こういった歴史における「偽史」のことも調べると、いわゆる「トンデモ的」なるものが様々にあってさ、それもまた、爆笑するような説におめにかかることがあるのだ。日本人は「北倭人」であるという説があって、その故郷は旧満州の地だと唱える歴史学者もおり、それで、「満州国建設」とは、いわば聖地に帰ろうとしたユダヤ人のイスラエル建設と同じ意味があると語る話はさあ、爆笑ものだろう。
■面白いなあ、古代歴史ロマン。誰も見てないしね、冗談じゃなく真顔でそんなことを話されてもねえ、どう対処していいかわからないってんだよ。いま、私は、「多摩ニュータウン NO. 471B遺跡」と、「藤村新一」に夢中だ。藤村氏はその後、故郷を遠く離れ、入院中に再婚。名前を変えてどこかでひっそり生きているという。
■あと、「多摩ニュータウン」については、早稲田のイガラシからメールで情報があり、「日経ビジネス」という雑誌で特集が組まれていると教えられたのですぐに買って読んだ。いろいろためになるルポである。いろいろ材料を集め戯曲のために、いま、それらをどうドラマとして構成しようか検討中だ。いや、ドラマにはならないかもしれないが、それら、喚起されたものからなにかが生まれそうな気がする。でも、いまはねえ、藤村さんに夢中だよ、俺は。先に引用したインタビューなんか読むと、いよいよ興味がわく。面白くてしょうがない。まあ、基本的に私は歴史好きだったわけで、これはもう、趣味の一部なわけだし、また地図を見ていろいろ考えようと思うのだ。また、多くの人から理解されない舞台を作ってしまうかもしれないけれど、自分にとっていま、一番、ビビッドな問題がそこにある。だってさあ、「前期・中期旧石器時代」の日本における原人の存在ってロマンは、いわば、「<愛国>というファンタジー」のきわめて歪んだ姿じゃないか。そこに藤村新一に期待するこの国の一傾向によってなされた、ある意味での残酷な「夢」があったにちがいない。やっぱり藤村氏は犠牲者なのか? そしてそこに「ニュータウン」がある。「<愛国>というファンタジー」をはさんで出来事や事象はどこか深いところでつながっている。考えれば考えるほど、興味はつきないのだ。

■日曜日(4日)はなにをしていただろう。西麻布の例の和菓子とお茶をだしてくれる店に行き、のんびりしたことだけは覚えている。そこでいただいた、「柿の葉茶」はことのほか美味しかった。

(7:42 Feb. 6 2007)

Feb. 3 sat. 「ニュータウンへ」

ニュータウン

■朝の九時過ぎに家を出てクルマで多摩ニュータウンへ向かったのである。同行してくれたのは制作の永井と、『ニュータウン入口』のドキュメンタリーを作りたいと永井に連絡があったというS君である。まあ、べつにドキュメンタリーを作るために出かけるわけではなくまずは現場に足を向けようという取材だ。S君は以前、松倉が東京に出てきて路上ライブをしたときその映像を撮影しドキュメンタリー風にまとめてくれた人だ。早稲田を出たあとテレビ番組かなにかの制作会社に入りそこをやめて今回、手伝いをしたいと連絡してきた。なかなかに人柄のよさそうな人である。
■甲州街道を西へ。調布まで走ったところで中央高速に乗り、府中の手前で「稲城大橋有料道路」に入って多摩川を渡る。そこから先はほとんどニュータウンである。多摩ニュータウンの歴史を調べると、京王線、小田急線の永山駅を中心に六〇年代ごろから計画がはじまったとわかる。そのニュータウン造成に際して、当然ながら山を切り崩し、その建設途中で遺跡が発見されたことは容易に想像できる。そのなかでもいまでもきちんと復元保存されているのが、多摩センター駅の近くにある「東京都埋蔵文化財センター」の、「多摩ニュータウン NO. 57遺跡」だ。だが、僕がもっとも行きたかったのは、「多摩ニュータウン NO. 471B遺跡」で、それはなにかっていえば、そこでかつて藤村新一氏が、前期中期旧石器時代の遺跡を発見したとされた場所だからだ。その後、藤村氏の「発見」のほとんどが捏造だと発覚した。では、その土地がいまどんなことになっているのか、足を運んでみなければいられなかったのである。
■地図を用意しその場所を目ざした。いまはゴルフ場にはさまれた奇妙ななにもない土地になっていた。なんの痕跡もない。その「遺跡」を避けてゴルフ場の開発が進み、そこだけ三角形の奇妙ななんでもない土地になってしまったと想像する。

八坂神社

■ただ、さらに奥へ入ってゆこうとしても道の先に門があって入ることができない。裏から回れないかと思って周囲を走っていたら、小高い丘の上に神社を発見した。かつてここらは山であり、森があったのだろう。この神社も森の中にひっそりとあっただろうと思うが、いまでは周辺はすっかり開発が進み、ほこらの周りに申し訳ていどの木々があるだけだ。そして住宅が並ぶ、さっきの場所からは真裏にあたる位置から細い道に入ったがその先も行き止まりであった。あきらめて、次は「NO. 57遺跡」のある「東京都埋蔵文化財センター」に向かったが、その途中で休憩。休憩が早い。
■入ったのは、駐車場が広いという理由だけでファミレスの「COCOS」である。「COCOS」といえば、『トーキョー/不在/ハムレット』の元になっている小説『不在』の舞台になった埼玉県の北川辺町に行った際、もう、やたらと入ったファミレスで、やはり郊外といえば、「COCOS」なのだなあとしか言いようがない。郊外のファミレスはやたら駐車場が広い。その後、「東京都埋蔵文化財センター」へ。ここで、私は「縄文」に触れたのである。そしてセンターのなかでいろいろな資料をもらう。そこには多摩ニュータウン全体を紹介するパンフレットのようなものもあって、それがとても役に立つ資料だった。さらに縄文時代の住居を復元し、庭園になっている場所を散策。センターの職員の方が復元住居のなかでたき火をしていた。なぜ、たき火をするのか質問すると、「雰囲気が出る」というきわめて単純な理由だった。復元された住居に入るとたき火の煙で目が痛い。
■この「東京都埋蔵文化財センター」が「多摩センター駅」の近くにあることはすでに書いたが、近くにはサンリオ・ピューロランドがあるのだ。おりしも土曜日である。ピューロランドは大人気だと想像するが、「東京都埋蔵文化財センター」はまったく人気がない。ほとんど人がいない。こんなに面白い場所なのになぜ人が来ないのだ。もう、ほんとに、びっくりするくらい、しょんぼりした施設だ。しかも無料だ。資料もいろいろ手にはいるし、縄文土器は見放題だ。面白くてしょうがない。

COSTCO

■その後、ニュータウンをクルマでえんえんと走った。永山駅の付近が初期のニュータウンだとしたら、南大沢あたりはさらに整備され、美しく造成された街区になっている。どこかでこれとよく似た町を見たことがあると思って考えたが、あれだ、神戸だ、神戸の須磨区にあるニュータウンだ。ほとんど同じような作りである。住居群の建物のデザインもやはり初期のそれとは異なって、ずいぶん、いまふうに洗練されている。そして同じような集合住宅が何棟も並ぶ姿は、その反復によってある種の美しさを感じさせる。ああ、きれいな町だなあ。道路も整備され美しい。
■そして私たちはその後、これがいまの多摩だなあという大型量販店に入ったのだった。それが、写真にある「COSTCO」である。これで、「コストコ」と読む。まあ、それ以外に読みようがないけどさ(と思ったがさらに調べると、米国では「コスコ」、または「カスコ」と発音するらしい)。いったいどういう意味だ。アメリカ資本の、要するに量販店なのだが、さすがにアメリカである。いつでも戦争をしている国はさすがである。棚に並んでいる商品がどれもでかいのだ。びっくりするくらいでかい。巨大な駐車場があって基本的にクルマで買い物をすることが前提になっているから、カートで(そのカートがまたでかい)買い物をしてクルマまで運ぶことになっている。スーパーとかコンビニなんかで買い物したあとにもらえる袋などないのだ。売り場に店員がいないので、どこに欲しい商品があるかは自分で探さなければならない。で、天井が高く、棚も高い位置まであって、その棚にびっしり商品がならんでいるし店内がばか広い。商品がでかいと書いたが、一例をあげると、メープルシロップなど、バケツほどの大きさの瓶に入っている。いったいアメリカ人はどれだけメープルシロップを使うんだよ。洗剤なんか、樽ほどの容器に入って売られている。かと思えば、冷凍ピザがまたでかい。とにかくでかいんだよ。なにからなにまででかい。しかもなんでも安い。すごいことになっている。
■これもまた、ニュータウンの一面か。これがあたりまえだと思って育った子どもはいったいどんな「ものの大きさの基準の感覚」を持ってしまうか知れたもんじゃない。多摩はすごいことになる。ニュータウンの取材で多摩に足を運んだが、なにより面白かったのは、「COSTCO」ということになってしまった。そういうつもりじゃなかったが、この「なんでもでかい」の前に立たされると、そのことが笑えてしかたがない。「COSTCO」のサイトに行くと、「コストコホールセールは、高品質な優良ブランド商品をできる限りの低価格にてご提供する会員制倉庫型店舗です」とある。まさに「倉庫」だ。倉庫で買い物をするような感覚だ。あと会員制とあるように、会員になるために「入会金5000円」はいかがなものかと思うものの、まあ、中に入らなくちゃならないというか、入りたかったので会員になったわけだが、これも取材である。ここで私は様々なことを学んだ。一枚のカードで三人まで一緒に入れるから、こんど、誰かを連れて行きたいと思う。とにかくねえ、いちいち笑わせてくれる。気分がおちこんだら、「COSTCO」に行こう。やたらでかい商品たちがあなたを迎えてくれる。大量の商品に圧倒される。資本主義のすごさを目の当たりにできる。グローバリズムの恐ろしさを実感できる。面白くてしょうがない。中に売店があって、コーラのビッグサイズが87円。で、飲み放題。なにかと驚かせてくれる。

■家に戻ってから、「google earth」で、「NO. 471B遺跡」を探したが、写真で見る限りほんとになにもない土地だ。それから「多摩ニュータウン」の全域をながめてみる。また時間ができたら取材に行こう。夜の多摩ニュータウンも見ておかなければな。きょうは暖かな一日だったので取材も楽だった。ただ、いろいろなものを見て、それから運転もし早起きだったしで、少し疲れた。でも、楽しかったな。永井とS君に助けられた。いろいろなものを見たよ、俺は。縄文土器はやっぱりよかった。「COSTCO」はすごかった。様々に刺激されつつ、きょうの取材を終えた。
■追記・その後、いろいろ資料を調べていたら、「多摩ニュータウン NO. 471B遺跡」の場所がどうもちがうようである。「google earth」を使うと、経度と緯度がわかる。で、資料にある住所ではなく、記載された緯度と経度で調べるとべつの場所になる。うーん、わからないな、これは。でもまあ、どっちにしても発掘時とは周辺の様相はすっかり変わっているのにはまちがいないだろうが。

(8:42 Feb. 4 2007)

Feb. 2 fri. 「オーディションに向けて」

■このページの上に、「u-ench.com」内をサーチできるボックスを作った。というのも、いろいろな人が僕のことを書くのに、このノートを引用してくれるのでだったら便宜を図るためにそうした機能を設けたわけである。このあいだも、河合祥一郎さんが、岩波書店から出されている『文学』という雑誌で、小説の『不在』について書いてくれたのだが、そこでも、かつて「不在ノート」に書いた文章を引用してくれており、探すのが大変だったろうと思って、サーチを設けたわけである。以前からそれを設置したかったがやり方がわからなかったので、調べたのだった。まあ、なんとなくうまくいったみたいだ。
■和菓子を買って帰ったときのうノートに書いた店は、HIGASHIYAで、もともとは中目黒に本店があり、僕が行ったのは西麻布の支店らしい。まあ、なんかの折りにでも行ってみるとよかろうと思われます。べつに絶対に行けとは言わないまでも、ものは試しに。菓子はほんとにうまいよ。

■午後、永井が大量のオーディションに募集してくれた方たちの履歴書を持ってやってきた。まずは書類選考。でも、会ってみないとわからない人が大半だ。経験からいって書類じゃわからない。書類に目を通し、課題になっている作文を読んでいたら目が痛くなった。早稲田の学生が多い。さらに以前まで教えていた京都造形芸術大学の卒業生たちもいる。書類を読んでいるだけでかなり疲れたがこれからオーディションがあるのだ。全部をぱーっと分類してゆき、まず、遊園地再生事業団の正式な募集書類に記入していない、オーディション雑誌かなにかに添えられている履歴書で送ってきた人をとりあえずよける。そのなかから気になる人だけは書類選考は通過。その他、いくつかの基準でふるいにかける。とはいっても、やっぱりできるだけ会ってみたいので残した。スタッフ募集もかなりいて、たとえば演出助手を希望する人たちが大勢いたが、そんなにたくさん演出助手がいても仕方がないからこれも絞る。
■うーん、むつかしい。さらに実技でのオーディションがさらに悩むことになるだろう。このあと、二次があって、さらに三次。さらに絞って少人数による四次になる予定。もうそのへんになるとワークショップとあまり変わらない作業をすることになってそのなかで選ぶことになるだろう。
■少しずつ九月の舞台、『ニュータウン入口』に向けた作業が進んでゆく。まだずっと先だと思っていたが、もうすでに四月には「リーディング公演」がある。まずは戯曲だ。岩崎書店のHさんから永井にメールがあったそうで、打ち合わせしましょうという連絡。絵本を作ると約束してからもう五年くらいになるのじゃないだろうか。でもなあ、平行して仕事をしてゆくほど器用ではないから、迷惑のかけっぱなしだ。戯曲と小説で、手一杯の状況。なんでだろう。絵本を作ろうという気分がもうひとつもりあがってこない。野田秀樹さんの『ロープ』についても落ち着いてから書くと予告していながらまだやっていなかった。書いておかなければ。それはひとえに、自分のためだ。

(3:07 Feb. 3 2007)

Feb. 1 thurs. 「美味しい和菓子を食べる」

■「MAC POWER」の仕事で、六本木に新しく建った「国立新美術館」に行ったのは、きのう(1月31日)のことだ。桑原茂一さんとの対談である。最初に、「国立新美術館」の前や、一階のロビーで写真撮影し、その後、西麻布に移動してさらに撮影。対談のテーマは「六本木の変遷」という話でまさに「国立新美術館」はその象徴ともいうべき姿をしてそこにあった。もともと、茂一さんは、西麻布で育ったそうなのでこのあたりのことはとても詳しい。その茂一さんですら、いったいこの「国立新美術館」がなんの跡地にできたのかわからないという。すぐそばを通るのが「星条旗通り」と呼ばれているように、ここらはかつて米軍の基地だったはずだし、それが返還され「防衛庁」が使っていたと思っていたが、タクシーの運転手さんに教えられたのは「東京大学生産技術研究所」の跡地だという話。そうだったのか。そこではどんな研究をしているのか気になって調べたところ、「東京大学生産技術研究所」の、ある研究者の論文は次のようなものだった。

「非線形誤り訂正符号」「2次元擬似雑音ランダム配列」「計算機のための誤り訂正符号」「誤り検出・訂正符号の最近の動向 −− 計算機への応用を中心として」「誤り訂正符号化技術の応用」「誤り検出・訂正符号の最近の動向」

 なんのことかさっぱりわからない。けれど、とにかく「誤り」ばかり見つけているらしい。しかも、それをいちいち訂正しているのである。すごいな。
■写真撮影をして西麻布に移動したが、最近ではここらを「霞町」と呼ぶ人も少なくなった。八〇年代にはその交差点のすぐそばに、いとうせいこう君たちの事務所があって、そこには中野裕之君もタイレルコーポレーションという名前で事務所を構えており、打ち合わせのためによく足を運んだ。渋谷でタクシーに乗ると「霞町の交差点まで」と行き先を告げる。何年か前から、その地名が通じなくなって「西麻布の交差点」と言ってようやく運転手さんにわかってもらえる。交差点の付近で写真撮影。さらに交差点を青山墓地とは反対側の方向に少し歩く。茂一さんにとっては地元なので、細かく周辺のことを教えてくれた。交差点を広尾の方向に少し歩いて、左手の坂道をのぼる。地図で調べると「大横丁坂」という名前らしい。ルーマニア大使館の前を横切りその先にある和食屋へ。奥の座敷で対談だが、二人とも、相手に向かってというより取材に来たライターさんに話しかけるようなかっこうになって、なんだか変な対談だ。食事をいただく。いろいろなことを話す。取材が終わってから、雑誌のスタッフとは別れ、茂一さんが、「時間ある?」というので、そこから少し歩いた場所にある、とてもしゃれた、お茶と和菓子のお店に移動した。和菓子を売る部分が表通りに面しており、その奥がカウンターだけの、お茶の、いわば喫茶室になっている。
■それで僕は、二十年以上も前のことを思い出していた。こんなふうに茂一さんに連れられて、この付近にある、美味しいものを出してくれるお店に、クルマで連れて行ってもらったのだ。あれがいわば、桑原茂一学校であった。クルマのカーステレオからはいつも音楽が流れていた。そのころ茂一さんから聞いた言葉でいまでもよく覚えているのは、「ポピュラーミュージックの歴史は浅いから、聞こうと思えば、全部、聞ける」だ。いろんなことを教えられたが、こうして美味しいものもたくさん学んだ気がする。あるいは、「いい店」をたくさん教えられた。っていうか、「店」というものの空間が発する空気を学んだのではないか。どこもいいお店ばかりだった。

■それから、久しぶりに長話をした。圧倒的に、「資本」によって支配されたこの国のイデオロギーのなかで、文化もまた、ご多分にもれずそうした動きの渦中にあるが、茂一さんが深く関わっている音楽やファッションにしろ、そしてまた、演劇もそうだが、要するに「金になるらしい」ということで回転し、なにより「経済」がもっとも先端的な事象であるらしいのだ。茂一さんたちは、七〇年代から音楽に関わってきたが、そこには「ロックの精神」があり、それはいわば、制度に対するあらゆる意味において、カウンターだった。だが、その「ロック」ですら「資本」の一部となっている。むしろ、そうじゃない音楽は意味がないかのような状況がある。茂一さんはその状況にいろいろな方法で抗おうとする。
■それはいわば、ある人たちから見たら、サブカルチャーと簡単にくくられるものだろうし、逆に、そちらの方向から見れば「演劇」は、なにか泥臭い「演劇」という一表現分野である。その細部の、様々な層の重なりを仔細に見ることもしないで、単純な言葉でひとくくりにすることには、なんの意味もない。かつて僕は「演劇」でないことをしようとしていた時期があったが、そのとき僕が観ていたのは、あるいは感じていた「演劇」とは、たかが20年ほどの時間の、「アングラ演劇」や「七〇年代演劇」「八〇年代演劇」であって、演劇のおそろしいほど長い歴史から考えれば、それはもう、ほんとに、ごく短い時間の現象でしかない。長い歴史のなかで育った演劇の、その本質的な魅力がなにか存在するから、演劇や、舞台表現、身体表現は、いまも、人をひきつけてやまないのだろう。
■その長い歴史のなかで生まれた「演劇知」ともいうべき演劇のすぐれたものを、あらためて見つめ直す必要があると考えたのは、ごく最近のことだ。いろいろな人の意見を謙虚に聞こう。「資本」によって周囲を取り込まれたとき、それに抗おうとする者ら、もっと徹底してそのことに抗う者らがいることも忘れないで、ただ、一時的な感情だけでものを判断するのではなく、もっとゆっくりと考える必要がある。なにしろ演劇には2600年の時間がある。ただごとならない歴史が生み出したなにものか、演劇が本質的に持っているものを、いまの現象にまどわされることなく考えようと思う。そのほうが豊かな気がする。日々のささいなリアリティに振り回されているのはつまらない。楽しみはもっと深いところにあるのではないか。

■そしてきょうは、早稲田へ。卒論の口頭試験だ。内容は本人たちにかわいそうだから詳しくは書かない。口頭試験をしているとき、そこへ中国語の先生がやってきて、僕たちのやりとりを聞いていたが、社会に出てからの厳しさを教えなければならないとおっしゃっていた。もしその年に卒論が不合格だったら卒業できず、そのときもう八年生なので、ここで卒業できなかったら除籍になるという者を不合格にしたことがあるという。たしかにそれは正しい。そうでなくて、いったいなんのための高等教育だ。甘やかしちゃいけないな。社会は厳しいのであり、大学は「ディシプリン」のためのもっとも上位にある教育機関だということを忘れたら、それこそ、「大学のテーマパーク化」とか「大学のアミューズメントパーク化」はより進行してゆくことになる。学生がよろこぶことをするというとき、では、「なにを、どう」よろこぶかと言えば、本来的にあるのは学問の中味であって、学生を甘やかすことではけっしてないだろう。
■これはもう、「高等教育」の意味を問い直すことだ。むつかしい。というか、俺なんかが大学で教えているのもいかがなものかと思うのは、そういったディシプリンとぜんぜん無縁にやってきてしまったからだ。とはいうものの、なにか大学教育という枠組みを利用し思索することもできるように思っている。卒論の口頭試験をしながらヒントを与えられることもある。もっといい授業ができないか考えてもいる。で、あとは成績表を出したら早稲田での仕事もぜんぶ終わりだ。
■いつのまにか二月になっていた。『ニュータウン入口』のオーディションはもう締め切られた。最終的に200人以上の応募があったという。大学の仕事も一段落し、いよいよ創作のほうへスイッチを切り替えよう。まず、そのオーディションからして創作の第一歩だ。どんな「からだ」がやってくるだろう。オーディションのやり方をまず考える。最初、「トーナメント方式」が面白いんじゃないかと思ったのだった。対決戦をするのである。それでトーナメント。だんだん勝ち上がって最後に優勝者が決まるのだが、優勝したからって、舞台に出てもらうかどうかはわからない。その総体を見て出演者を決めるっていうのはどうだ。優勝者には賞品を贈呈するものの、舞台に出られるかどうかは別問題だ。そういうのもいいのじゃないか。というのは、まあ、冗談で考えたわけですが、オーディションそれ自体が、なんらかの表現になるようにと考えている。僕の手元にはまだ、全員の履歴書はないけれど、まだ40人分ぐらいの履歴書が届いた時点で確認すると、上は五十歳の方から、下は十五歳の高校生まで、幅は広い。高校生、学校はどうするつもりだよ。

■昼間はああたたかだったが、夜になったらひどく冷えた。それにしても国立新美術館だが、もう一度、ゆっくり見に行ってみよう。写真撮影のためだけに寄って、さーっと見ただけだから印象が薄い。ただなあ、駐車場がないんだよな。なぜなのかな。地下にいくらでも駐車場を作れただろうと思うのに、なぜかないんだ。うーん。あ、そうだ、茂一さんと一緒に話しをしたお茶を出してくれる店で和菓子を買い、家で食べたが、すごく美味しかった。その味を口の中に感じながら、また「表現というもの」について考えていたのだ。

(13:07 Feb, 2 2007)

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