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Published: Feb. 4, 2005
Updated: Nov. 1 2005
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仕事の御用命は永井まで 松倉ライブ告知
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Oct.31 mon.  「さらに途方にくれながら」

おみくじ・大吉 ■人間、忙しいときには、やらなくてもいいことをうっかりしてしまうものだとすでに書いたが、日曜日(30日)の午後、食事をしようと外にでるとつい浅草に行ってしまったのだ。浅草に行くだけならまだいいが、浅草寺でおみくじさえ引いていた。そして、案の定、と言いますか、やっぱり「大吉」だった。わたしは「凶」というものを見たことがない。以前、知人たちとおみくじを引いたら、やはり「大吉」を引き、それは正月のことだったので「大吉」を大盤振る舞いしているのだろうと思って、同行した知人たちに話を聞くと、みんな「凶」だったときは笑った。で、確率として、私の「大吉率」は80パーセントを超えると思う。「願い事はかなう」のである。「病気は治る」のだ。そして、「失せものは見つかる」はずだが、あまりいいことはない。「大吉」を引いたからって宝くじに当たるような幸運はないのだ。だいたい、なくしたものがあまりない。しいていうなら、連絡がまったくとれなくなってしまった人とか、そういうことか。ばったりどこかで会うかもしれない。
■まあ、おみくじですからね。遊びみたいなものだと思いつつ、「大吉」が出るとなんだか気分がいい。気分はいいが、仕事は進まず。日曜日からずっと、『資本論も読む』のゲラチェックを進める。『資本論』からの引用部分が多くて、それがまちがって引用されていないか、チェックするのはただごとならない作業だ。それはあとまわし。直そうと思う箇所、まったく書き直そうと思う部分はあまりないものの、少し読みづらいところを書きあらためる。あるいは、あきらかなまちがいを訂正する。あと、雑誌で連載していた文章と、連載を続けていたころの、このノート、「京都その観光と生活」などからの引用を収録するが、前後の文がなければわからない言葉などに注釈を入れる。もっと直せばよくなるような気もするが、なんだか直しようもない気もして、考えこんでいた。さらに、「あとがき」がまだ書けない。
■駒場の授業で聞かそうと、レコード棚から、八〇年代に買った12インチレコードを大量に出す。レコードって重いなあ。ぜんぶ持って行きたいが選んで運ぶことにしよう。あと参考資料にしようと思っている『電子音楽イン・ジャパン』という本がまたぶあつくて重いんだよ。それにしても関係ないが、ニュースを見ると毎日、一件ぐらいは殺人事件があるのに少し驚く。人は人を殺すのだな。あと、「ニート」とか、「フリーター」といった現象を政治的に考えるべきだと考える。それを駒場の授業で話そうと思ったのは、いつだったか読んだカルチュラル・スタディーズの本に参考になる文章があった記憶があったからで、それはつまり、「フリーター」を単純に社会的な排除の対象として考えるのではなく、そこにクリエータたちの基盤があると肯定的に捉え直したとき見えてくる可能性について、「音楽」「美術」「演劇」に渡っておおまかな論考があったからだ。そこが駒場の授業では鍵になるのではないか。もちろん、アルバイトという就業形態が生まれた六〇年代の経済構造が、おどろくべきことに小劇場運動という演劇を生んだとはよくいわれ、そして、八〇年代にもまだ、その可能性はあった(その可能性の精密な分析はまだ必要だ)。ただ、その後、「アルバイト」は「フリーター」に、「フリーター」は「ニート」になったし、「契約社員」は企業にとっては便利な就業形態でしかない。ボーナス出さなくてもいいし、いつでも契約を打ち切ることができる。こっち側からの積極性は欠けてゆく。単にそれは「ニート」だから「ニート」だったり、企業にとって有利な「契約社員制度」だからそうした構造が明確に整えられてゆく。で、そうした層はなぜか、保守化してゆく。単なる時代の気分ではなく経済の構造がそれをうながす。と考えたほうが『資本論』的だ。そんな状況を背景に、「森ビル」はなにをしていたのか。六本木ヒルズを建てただけだろうか。まあ、駒場の授業では「六本木ヒルズ」の出現によって「八〇年代的なるもの」は消えたという話になってゆくだろうが、もう少しゆっくり考えよう。まだ考えることはいくつもある。

(9:57 nov.1 2005)


Oct.29 sat.  「途方にくれる」

■途方にくれるほどやることがあるのだった。
■べつの言い方でいうと、せっぱ詰まっているのだ。11月に入ってから「よりみちパンセ」(理論社)の執筆のために(100枚ぐらい)ホテルにこもれとお達しがあったのだ。もうあともどりできない。だから数日、ホテルにこもるであろう。『資本論を読む』の単行本のまとめのゲラチェックがまったく進んでいない。ところで、以前、WAVE出版のTさんのメールに『資本論も読む』とあって、「を」ではなく、「も」でつないでいることを笑ったと書いた。単純にTさんのまちがいだと思ったが、その後のメールにも『資本論も読む』とあり、これはことによると、「も」にするほうがばかばかしいと僕のほうが逆に提案したのではなかったか。考えそうなことだ。そして小説『ボブ・ディラン・グレーテストヒッツ第三集』の書き直し。さらに岩崎書店の絵本がある。あっちをやったり、こっちをやったりして、しかし、少しも前進しない。試験時間のおわりが迫っているのに、できるところからやろうとしているうち、ぜんぜんできなかったような、ああいったせっぱの詰まり方だ。
■途方にくれている。そんなわけで、本、資料類を読む時間が極端にない。

■で、不意にずいぶん前、「一日百間(ほんとは門構えに月。以下、"間"という表記で統一)」という言葉を思いついて、それが気に入り、一日にひとつ百間を読んではここになにか書こうとしていたのを思い出した。思いつきは恐ろしい。
■それをこのノートに書いたらすぐ、白水社のW君からメールがあり、「やりましょう」と話があったが僕が怠けてできなかった。百間についてはW君といつか本を出そうと、話が出てからもう10年くらいになると記憶する。ただ、作業がむつかしいと思ったのは、百間はどこか難解な作家だからだ。随筆と小説では、ずいぶん趣が異なる。文芸専修の授業でも取り上げたいがどの切り口でなにを話せばいいかといったことがある。研究者はたくさんいて、研究者とはちがった角度から話をしないと意味がない。そういえば、いまたしか、世田谷パブリックシアターで「円」の公演があって、中上健次を原作にした作品だ。『千年の愉楽』の短編のいくつかから舞台化したものだという。それはつまり、中上健次をどう舞台作品にするかというより、どう読んでいるかになるのだろうと思った。内田百間の短編『豹』を笑うという態度はまちがっているのかもしれないが、面白いんだからしょうがないものの、それは僕がそうだと読んでいるのだろう。横光利一は、どうしたって笑えるものではないが、僕には短編のひとつひとつ、その書き出しからして面白くて困る。
■早稲田で授業。木曜日(27日)の演劇ワークショップは出席者が少なくてやりやすいっていえばやりやすい。久しぶりに演出のようなことができた。ただ僕のプラン通りには進まない授業だとよくわかった。「演劇論で読む演劇」はまとめてくれた学生の発表から、僕自身が学ぶところがあった。鈴木忠志演出の舞台の映像も用意してくれて、時間があっというまに過ぎる。勉強になるなあ、この授業。学生のおかげで僕が勉強になっているのだった。金曜日の文芸専修の授業はフィリップ・K・ディックの『高い城の男』をとりあげる。この作品がディックにとってあるポイントになっていると思ったからだ。で、しばらく話していたら、どうしてもドラッグ文化に関して話さずにはいられない気持ちになってですね(晩年のディックは神経症を患い、アンフェタミンを使って病から抜け出そうとした)、個人的な体験談などディックと関係なく話す。で、きのうから腰が少し痛くて立って授業をするのがきつかった。

■「一冊の本」を読む。連載のなかで、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた佐藤優さんが、インタビュー形式で現在の政治状況を、マルクスを引きつつ、小泉の「ファシズム性」、この政権の「新保守主義」を語っているのを読んでいちいち納得する。面白い。どこかで「一冊の本」を見つけて読んでほしい。あと金井さんの連載はあいかわらず絶好調なのだが、そこに書かれている一連の話には僕も関心をもっていたものの、あまりの金井さんの筆のきつさに、少し引く。詳しく書くと長くなるし、説明しないとよくわからないと思うが、とにかく「A新聞の土曜版にて連載されている作家SのBというコラムの八月二七日付けの回」がことの発端で、その「A新聞の土曜版にて連載されている作家SのBというコラムの八月二七日付けの回」の文章はかなりだめだ。ことによると冗談として書かれたのかもしれないが冗談を語る身体を持たない人の書いた冗談は読めたものではない。っていうか、なんにせよひどい。
■憲法が変えられる。ある憲法学者はこれで日本が普通の国になるという。「普通」じゃなくていいよ。一九四五年の時点で日本は「普通ではない国」になることで、過去を清算しようとしたんじゃないか。憲法学者が言う「普通の国」は「いつでも戦争をしようと身構える国」だ。そんなのはまっぴらごめんだね。
■忙しいが気ばかりあせる。あせっているうち、やらなくてもいいことをしてしまう。深夜、クルマにガソリンを入れに行ったりする。そのまま、都心を走る。道はすいていて走りやすい。六本木ヒルズのあたりに出て、かつて六本木WAVEはどのあたりだったかたしかめる。その町は深夜だというのに人がやけに多い。

(14:27 oct.30 2005)


Oct.25 tue.  「チェーホフの戦争」

■どうやら、
u-ench.comのサーバが調子悪いようだ。サイトにつながらないだけではなく、メールのチェックもできなかった。夜になってようやく復旧したが、朝、またメールチェックしようとするとつながらない(というのはただいま、26日の朝の話)。ハリケーンの影響らしい。サーバがアメリカにあるのです。
■さて駒場の授業だった。さらに八〇年代を検証。「六本木WAVE」や、「西武セゾン文化(的なるもの)」の話などし、このあいだ書いた「おたく」についても触れたが、授業の終わる直前、聴講に来ていた三坂から質問が出てそれに応えるところがいちばんよかったのは、元筑摩書房の打越さんから補足の言葉が出たりなどして、なんだか教室の場の熱が高まった気がしたからだ。で、八〇年代、「おたく」はある意味、社会から排除されていたという感じや、やっぱり「かっこいい」がうまく伝わらないような気がする。そこをとことん言葉にすることしか理解してもらう手だてはないと思える。で、教室の機材を使うのにだいぶ慣れてきて、コンピュータから音楽を流したり、OHPを使って図版をプロジェクターで出したりなど、そういうのはやっていて面白い。
■ユリイカで連載していた「チェーホフを読む」は、『チェーホフの戦争』という書名で青土社からうまくいけば年内中に発売だが、先週末はそのゲラチェックで忙しかった。チェーホフの戯曲の手つきを読みながら、なるほどなあと思ったのは、三人の女が水着姿でホテルの一階ラウンジに登場するのを、オールツーステップスクールの『ラブストリームス・ノートブック』の舞台に見たからだ。それは想像だが、三人は、まず自分たちが宿泊している部屋で水着に着替えただろう。そのときなにか話していただろう。それからはしゃいで部屋を出るとエレベーターに乗り、エレベーターのなかでもなにか話しをしていただろう、楽しそうにしていただろう、それを降りると廊下を通ってラウンジに現れたとしたら、そのあいだはどんなふうに振る舞っていたか。水着に着替えてからかなり時間があったと思うが、三人はなんの疑問も持たず、わざわざ人のいるラウンジで「陰毛チェック」をする。チェーホフの戯曲を読んで気がつくのは、出来事の大半は舞台の外側で起こることだ。そのときチェーホフのうまさは際だつ。いかに舞台の外で起こったことを表現するか、その手続きが何重にも仕組まれている。あるいは、なにか舞台上で発生するなら、そこにいたるまでの手順はきわめてていねいだ。では、なぜ、出来事は舞台の外側で発生するか。おそらく舞台上ではリアリティが薄れるのを危惧したからだ。『かもめ』のトレープレフの自殺という行為がもし舞台上で発生したら、それほどうそくさいものはないとチェーホフは考えたのだろう。ま、うそは、結局、うそなんだろうけど。

■月曜日(24日)の夕方、ようやく、直したゲラを青土社のMさんに渡す。映画のことなどいろいろ話した。そういえば、駒場の授業が終わったあと、「いま、オタクはどにゆけば見られますか?」とそこにいた方に質問され、すぐそばに三坂がいたので、「ここにいます」と応えたのだった。(なぜかこんな時間にサーバが復旧。きのうもらったはずのメールがいま届いた)。

(16:29 oct.26 2005)


Oct.20 thurs.  「授業だった」

■授業二コマ。「演劇ワークショップ」と「演劇論で読む演劇」。どちらも少しずつ軌道に乗ってきた。「演劇論で読む演劇」は、寺山修司の演劇論を取り上げ、そのまとめを学生に発表してもらったがとてもよくできていた。そもそも、寺山修司が書いたものが面白いということはある。はじめ、寺山修司が死んだあとにパルコで上演された、『青森県のせむし男』をビデオで少し観た。なにか大変なことになっているのだった。説教節を語る女性が出てくるが、その人の衣装がセーラー服っていうのがまずわからない。丁寧に通学カバンも横に置いてある。笑い出しそうになった。どうしてそれが笑いの対象になってしまうかと言えば、そうした表現にいま有効性がないからだ。パルコで上演されたのが一九八三年。おそらくそのときもすでに有効性を失っていたはずである。
■もちろん、寺山修司の演劇論を仔細に読むと、さすがに時間の変容に耐えていない部分はあるが、それでもなお魅力的な言葉はいくつもあり、それはつまり寺山修司の才気と読むべきだ。継承すべきはそこにある精神だろう。だが、寺山劇はその形だけが再現されるきらいはあって、いわば、表現のうわずみだけすくったように思える。だから、セーラー服を着てしまうのだろうな。無反省にセーラー服だ。わけがわからない。だから考え方としては、たとえば、「書簡演劇」を、いかにいまの演劇に対する提起として継承すればいいか、その方法を探ることだと思える。単なる置き換えじゃしょうがない。「書簡演劇」を「メール演劇」にすればいいかっていうと、それ、単なる「迷惑メール」だ。その本質を取り出し寺山修司の精神を、いまに再現することは可能かどうか。
■その演劇論のうち、「戯曲論」で寺山修司は、戯曲が面白ければ読んだ時点でそれは完結しているし、べつに上演する必要はないという意味のことを書いている。それは寺山修司の「演劇論」にもあてはまらないか。「演劇論」が面白いので、それをやってみる必要がないかのようだ。「街頭劇」は話としてはきわめて面白い。それを語っている寺山修司が面白い。いつまでも東北弁が抜けなかったその人が面白い。それ以上にならないと僕には見える。

■次回の「演劇論で読む演劇」は、「鈴木忠志」だ。これはちょっと手強いかな。それというのも、寺山修司ほど挑発的ではないからだ。きわめて原理主義的に「反近代」を語る人はいま、鈴木メソッドとして、ひとつの秩序を形成する。比べて読むと、いかに寺山修司が、いわば「でったらめ」なことを書いてそれが魅力的かがよくわかるのではないか。何週か先になるが、アルトーを読む。楽しみだ。それというのも、やっぱりアルトーもでたらめだからだ。あと、唐さんもね。

(13:59 oct.21 2005)


Oct.19 wed.  「潮流と停滞」

■雨の降るいやな天気が続いていたが、台風も通り過ぎ、天気がよくなって気持ちがいい。台風がそれてほんとによかった。といった日々だが、鍼治療をし、そして駒場で授業のあった今週のはじまりである。
■そしてひとつのことを発見した。わかったぞお。私はわかった。なにかがわかった。駒場の授業をしているうち、なにをこの授業で獲得しようとしているのか、だんだんわかってきた。それは大塚英志さんが「おたく」という視点から八〇年代を切り取ったとき、それを批評的に読むことで明かになってくる現在への異和である。なぜ、「楽天」や「ライブドア」らは、あれだけ話題になるほど金を持っていながら(まあ表面的にはそう見える。だがぎりぎりなのか)、企業メセナにまったく関心がないかだ。気になっていたわけですね、そのあたり。一面としては、かの企業が、金を生み出しつづけないとだめになる仕組みを、宿命のように持っているのだろうと思うものの、それだけではない。象徴的なのは、六本木WAVEの閉店と、その跡地付近にできた六本木ヒルズだ。村上ファンドの村上さんは、自分たちをヒルズの仲間のように語っていた。「波(=潮流)」から「丘(=停滞)」への変容だ。その人たちがいますぐ実感できる価値(=貨幣)を生み出すものには興味を示し、そうではない文化に無関心だとしたら、いわば、例の「お里が知れる」ってやつじゃないか。その「お里」が、先に書いた「おたく」になるにちがいない。「おたく一般」がすべてそうだと書くつもりはないが、それは、かつて活況を見せた「西武セゾン文化(的なるもの)」を憎悪する「おたく」たちだ(ちなみに六本木WAVEはやはり西武セゾン系列)。たしかに、八〇年代における「西武セゾン文化(的なるもの)」の脆弱さもこれからの講義で話すつもりだが、そうした脆弱さを、僕の視点とは異なる位置で批評し、憎悪しているのが、その人たち、「ヒルズの仲間」なのではないか。「青山ブックセンター」が一度、閉店に追い込まれた状況も、そのような文脈で考えなければな。ちょっとずつ、その授業でなにをしようとしているか見えてきた。
■だけど、授業は低調だった。ビデオを見せたり、YMOなど音楽を聴かせたりしていると、すぐに時間が来る。と、なにを話そうと思っていたか忘れてしまい、どこか低調だ。そうなんだ、YMOにからめて電子音楽の歴史について少し話そうと思っていたのだし、そこから音楽がどう変容していったかという八〇年代について、あるいは、テルミンの話もしようと思っていた。いろいろあったはずだが、ぜんぶすっ飛んだのは寝不足だったからだ。やけに早く眼が覚めてしまった今週の火曜日である。メモはとってあったのに、意識のほうの準備が万端ではなかったな。

■夜、永井が来る。いろいろスケジュールの確認。永井に言われて初めて知る予定が多いのはいかがなものか。で、話しているうち、「吾妻橋ダンスクロッシング」でやろうとしていることの細かい部分を思いついた。一度、試してみなければならない。人、場所、時間など、必要なものは様々に。

(1:58 oct.20 2005)


Oct.16 sun.  「プロット」

■いちいちそんなことを書いてもしょうがないと思いつつ、「ソフトバンク逆王手」という言葉はどうもおかしい。えーと、なんのことかわからない人に解説しますと、いまプロ野球のパ・リーグでプレーオフというものが実施されており、五戦中、三勝したチームが、パ・リーグ優勝、日本シリーズに進出できるのですね。で、いまロッテとソフトバンクでプレーオフをしている。はじめにロッテが二勝し優勝に王手をかけたにもかかわらず、その後、ソフトバンクが連勝。二勝二敗になった状態で、この「逆王手」という言葉が使われたのです。だが、将棋の用語によれば、「王手を防いだ手で、逆に相手玉に王手がかかることです。飛・角・香の大きく動ける駒で、合い駒をしたとき、ときどき出てきます」ということになっており、つまり、相手の王手を交わし、その交わした手がたまたま王手になっていたとき、「逆王手」とはじめていえる。いくら連敗しようとロッテが王手をかけている状態は変化しないわけじゃないか。この状態じゃどう考えても「逆王手」ではないだろう。むしろ、「ソフトバンクやっと追いつく」とか、「両チーム並ぶ」、あるいは「両チーム、あと一勝」と書くのが正しいと思われる。
■しかし、これもまた、プレーオフや、日本シリーズにおける、「慣用句」とか「常套句」と考えるしかないな。慣用句、常套句はよくわからない。そういうふうに使うものだから、そうなのだと、文字通り慣れで使う以外にないわけで、それはきわめて内部的な言葉だ。閉ざされた世界の中でしか通用しない。だいたい、野球知らない人に、「ダイエー、逆王手だよ」と言ったところで、まったく通じない。というか、「へえ」というしかないとは思うが。
■原稿を二本書く。「一冊の本」の連載と、来年公演のある、「現代能楽集」の『鵺』のプロットだ。僕はプロットを書くのがすごく苦手だ。あ、そうだ、駒場の授業にもぐりたいという方からメールをいただいたが、以前、授業の予定を書いて、それは、
1・「ピテカントロプス・エレクトス」という場所があった
2・「YMO文化圏」と「ピテカン属性」
3・セゾングループの文化史ーー皿はなぜ買われ、
  なぜ「こんな皿!」と割られる羽目になったのか
4・森ビルの時代と六本木WAVEの閉店(と音楽の話)
5・モンティ・パイソンとラジカル・ガジベリビンバ・システム
           ──表象文化論から見た「笑い」
6・80年代は勉強の時代=近代のやり直し(リプレイ)だった
7・その頃、「オタク」はどこで何を見ていたのか
8・「ピテカン」と「オタク」の距離:岡崎京子の位置
9・プロトコルとマニュアルを読み間違えること:明治の鹿鳴館
10・「ピテカン」はバブル時代の鹿鳴館
11・フィールドワーク:80年代の地図を持って現在の原宿を歩く
12・森ビルの都市計画と「趣都アキハバラ」
13・「80年代」は何を現在にもたらしたか
 といったものだったわけだが、この通り進行するだろうか。私は思うに、ぜったいそんなことはない。それでメールを送ってくれた方は、テーマに合わせて来る日を決めようと予定をたてていらっしゃるようだったが、それは無理です。私ができないのです。そんなに予定をきちっと順番通りにこなせるほど器用な人間ではありません。どうなるかはわからない。途中で飽きるかもしれない。
■プロットを書くのが苦手なのもそれと同じで、いくらプロットを書いてもその通りにはならないのだ。戯曲を書いていると途中でべつの方向に動き出す。最後が決まっていて、そこに向かって書いていると、やっぱり途中で面倒になってくる。プロットはきわめて生産主義的だ。合理の世界だ。「大人」のふるまいだ。だから、そういうことをしないってわけではなく、とにかく、できないのだ。

(16:28 oct.17 2005)


Oct.15 sat.  「セクシー」

■あれはなんだろうと、以前から考えていたのは、女性のエロティシズムを表現する仕草や動きといったものだ。『トーキョー/不在/ハムレット』の稽古のなかで、三坂がストリッパーのようなものを模した芝居をやったことがあり、その仕草のひとつひとつが、考えてみると不思議だった。まず、そうしたからだの動き、なまめかしさとか、セクシーな姿態、ちょっとしたエロティックな動きなど、普通に考えると日常的には存在しないし、あまり見たことがない。もし、そんな動きをする人が電車にでも乗っていようものならことである。だとしたら、あれもまた「演技」なのだろうと推測はできるが、どこから生まれてきたか詳しくはわからない。
■で、たまたま、歌舞伎を観たのだった。学生のひとりがチケットが余ったというので歌舞伎座に行った。『心中天網島』の「河庄」をやっているのを観ながら、ふと気がつくのは女形の動きである。男が女を演じるにあたって、「女性性」は、ことさら強調されなくてはいけない。必然的に、ある特別な「動き」や「仕草」が生まれ、洗練され、高度な技法になり、そして女形という、文字通りの「カタ」になる。これだな。おそらくこれだ。その動きを、今度は女がまねる。そして、あの「なまめかしさとか、セクシーな姿態、ちょっとしたエロティックな動き」が生まれたにちがいない。つまりここで奇妙な逆転が生まれる。「芸」としてそれは存在し、そもそも日常には存在しなかった。歌舞伎の歴史のなかで形成されたと推測されるが、ま、日常的な女の仕草をデフォルメしたのだろう。それが魅力的だったから、女が真似るのだ。おかしな話だなあ。女はなにもしなくても、女としての魅力を持っているはずである。だが、「あの人は色っぽい」とか「セクシーだ」といったとき(もちろん男の視線が生み出す部分はかなりあるにしても)、「動き」や「仕草」に関しては、こうして「ある種類のカタ」によって生み出され、それが認識として一般化される。
■では、また異なる演技表現を作るとしたら、その「カタ」から逃れ、どう考えていったらいいか。ここにちょっとした手がかりが存在するかもしれない。つまり、「新しいセクシーを発明する」ということだ。というのも、単純に面白そうだし、硬直しがちな演技の研究という場が、そのことを考えるとなにやら盛り上がるのではないかといったことがある。でもわたしの場合、こうしたとき、笑えるものを優先しがちで(それはそれでいいと思うものの)、それ、ほんとにセクシーか。「笑えるセクシー」、あるいは、「笑えるエロティシズム」って、どこか照れがあるのも否めない。照れない演技って、見ているとばかに思える側面は強いが、照れない勇気も必要だな。

■といったわけで、仕事の合間を縫って歌舞伎を観たり、井の頭公園で松倉の歌を聴いたりの週末だった。資料を探しに大宅文庫にも行った。時間がなくてさーっと検索し、大雑把にコピーしてもらったら、コピー代が五千円以上になってしまった。もっと考えるべきだ。土曜日の大宅文庫はにぎわっていた。といってもみんな調べ物をしているのだが。木曜日、金曜日は大学で授業。仕事をいろいろ進める。ひとつひとつ片づけてゆく。

(13:29 oct.16 2005)


Oct.12 wed.  「小説も直さなくてはいけない」

■フランスにいる演劇を研究しているY君や、内野さんから、きのうのノートに書いた駒場の授業は、「表徴文化」ではなく、「表象文化」だと指摘を受ける。正しくは「表象文化論」だった。なんで、「表徴」だと思いこんでしまったかだが、音にすると、「ヒョウチョウ」は、「ヒョウショウ」を言い間違え、幼児語になったようで恥ずかしい。ただ、漢字で表記すると「表徴」は、それだけで魅力的にも見える。辞書で引いたら、坪内逍遙が、「当世書生気質」で、「風俗は人情の表徴なり」と使っていると用例が記されていた。さらに、辞書によれば、「表象」はドイツ語の哲学用語の翻訳だと知った。「感覚の複合体として心に思い浮かべられる外的対象の像。知覚内容・記憶像など心に生起するもの。直観的な点で概念や理念の非直観作用と異なる。心像。観念。」だという。
■夜、矢来町にある新潮社へ。「新潮」の編集者のM君から小説のアドヴァイスを受ける。いくつかの問題点を整理していてくれた。基本的なところはともかく、いくつかの部分(時間軸や、視線の位置など)をかなり書き直すことになる。いい作品にするためにはもう一踏ん張りだ。205枚ほどになった小説を、150枚くらいに刈りこみ、もっとシャープにすべきだとの話。納得する。50枚以上削るということだ。刈るなあ。で、話を聞いているうち、これはある意味、小説の基本的な技法なのだろうなと思い、考えてみるとですね、若いときは当然、そうしたアドヴァイスやサゼッションを通じて学んでいた。舞台でも、小説でも、技法的に意見してもらえる機会が少なくなり、こういう話はありがたかった。
■関係ないけど、早稲田の学生から、早稲田でやっている授業より、駒場でやっている授業のほうがモチベーションが高いのじゃないかと言われたが、そんなことあるわけないじゃないか。大学が問題ではなく、なにをテーマにしているかに対するモチベーションはあるわけだが、いま、早稲田でやっている「演劇論で読む演劇」の授業のモチベーションはかなり高い。「演劇ワークショップ」は授業の進行でかなり疲弊するのだった。いまは共同作業という点に重きを置いているが、それがうまく機能していないので、いろいろアドヴァイスをする。人が集まらないとか、うまく作業が進まない、話がまとまらないなど、ここらあたりをどうやって円滑に進めるかその指導に苦労するのだ。うまくゆくかどうか、さぐりさぐりの授業だ。

■といったわけで、なにはともあれ小説だなあ。とはいえ、もちろんほかの単行本のこともいろいろあってですね、WAVE出版のTさんからメールがあって、その標題が「資本論も読む」とあった。それはほかの仕事がいろいろあり、でも、「資本論」も読んでくださいねといった意味があるのだろうと推測して本文を読んだら、本文中でも、「資本論も読む」になっていて笑ったなあ。むかし、「幸福の科学」のようなものを舞台だったかなにかに登場させようとして、もちろんそのままの名前では使えない。少し手を加えたネーミングを考えたとき、「幸福と科学」とか、「幸福は科学」と、「幸福」や「科学」という言葉に手を加えるのは誰でもやりそうだが、それを接続する文字を変えるのがいいと気がつき、いろいろ人と言い合い笑った。で、いちばん面白かったのが、「幸福も科学も」だ。で、「資本論を読む」はゲラが届いて、それは連載時の原稿と、それを書いていたころのこのノートで構成されている。そのチェックも今月中。「チェーホフの戦争」のゲラチェックは今週中。幸いなことに、たいへん忙しい。

(10:50 oct.13 2005)


Oct.11 tue.  「幸いなことに忙しい」

■九日の日曜日は一日、家にいて駒場の授業の準備などをしていたが、十日は吉祥寺へ友部正人さんのライブを聴きにいった。その直前にメールを書いたところ、すぐに返事をいただいた。友部さんがプロデュースする、『
nomedia』は、ミュージシャンの人たちによる詩の朗読のCDだが、来年の二月、横浜の「BankArt NYK」で、そのライブをするという。つまり詩の朗読会ということになるだろうか。それに出演しませんかという内容がメールにあって、とてもうれしかったが、私でいいのでしょうかと少しとまどう。なにを読んだらいいかだ。小説『不在』の一部を読もうかと思ったけれど、たとえば、舞台の『トーキョー/不在/ハムレット』で詩人が踊ってする独白は、『不在』の一部を一人称にしたものだが、読点がないままの六分四十秒だ。俺、それ読めるかなあ。そのとき演出助手をしていた相馬の結婚式で、司会をした笠木と上村に読んでもらおうと、やはり、読点のない、しかも途中で早口言葉があるという、あきらかにそれを読む司会の二人を困らせようと思って書いたんじゃないかという、そこにお祝いの気持ちがあったのだろうかと疑わしいような、まあ、結婚式が盛り上がればいいのではないかという意図で書かれた文章は、やはり二人ともつっかえながら読んだらしい。俺、きっとだめだな。あれは読めない。いまから稽古しようと思ったりもするのだ。
■友部さんのライブは六月以来になる。ずっと四国などをライブで回っていたせいか、はじめ少し疲れているのかなと思ったけれど、フルマラソンを平気で走ってしまう人だけにそんなこともないだろう。後半になるにつれ、どんどん熱がこもってゆくのを感じた。とてもよかった。あ、そうそう、友部さんが文章を書き、スズキコージさんが絵を描いている絵本『絵の中のどろぼう』をいただいたのです。先日、岩崎書店のHさんに会って絵本の相談をしたけれど、やっぱり、まず絵本を好きにならなければと思っていた矢先だ。『絵の中のどろぼう』はほんとうに面白い。
■ライブが終わってから友部さんたちと吉祥寺の居酒屋へ。以前、お会いしたときより、ずっと友部さんはいろいろ話してくれて楽しかった。友部さんが自転車に乗って走っているとき、前を走る奥さんのユミさんに激突し、鼻を折ったことがあるという。そのとき、たしか一緒にいたと友部さんが口にしていた(はっきり確かめなかったが)、「しゅうちゃん」というのは、絵本作家の長谷川集平さんのことではなかったか。なんとなく、絵本つながりだなあと思ったのだ。ちょうど長谷川さんの絵本に関する本を読んでもいたので、こういった偶然は面白い。それから店も閉まってしまうので深夜の12時ごろ店を出て、家に戻る。家に戻ってから、福音館書店の方に頼まれていた原稿を書いたが、それは以前も書いたことがある「哲学問題」だ。子どもの質問にこたえるという原稿。で、書き終えてから読み返しているうちに、これを来年2月の『
nomedia』のライブのとき読もうと考える。その原稿が書けたのは、友部さんのライブを聴いたあとだったからのような気がする。とてもいい夜だったのです。

■そして本日は、駒場の授業。それにしても駒場の東大キャンパスはものすごく広い。はじめてきたわけではないが、ずーっと奥まで歩き、つくづく広いと思ったのだ。正門玄関で白夜書房のE君らに合流。内野儀さんに案内されて、表象文化論の研究室に行くと、佐藤良明さんや、河合祥一郎さん、松浦寿輝さんらがいて、ここにもし三坂がいたら、大変なことになったなあと思った。以前、僕の小説を新聞で取り上げていただいた松浦さんにお礼。さて、授業だ。「八〇年代論」をやろうとしたのは、ある日の単なる思いつきだが、その後、大塚英志さんの本などを読んでいるうちに、いろいろ面白くなる。表象文化論という学科があってこういう授業がなければ、八〇年代について、僕の体験を含めてあの時代を考えるようなことはなかったと思う。というのも、八〇年代を考えるのには、どこか徒労感があるからだ。
■九〇年代に入って、いくつか八〇年代についてまとめたものを読むと、その論調は、たとえば「八〇年代はスカだった」という言葉に代表されるもので、たしかにそうだった部分はかなり否めない。それからずいぶん時間が過ぎて、その「スカ」がことによったらなにか現在にもたらすものがあったのではないかと考えるのも面白いと思えてきたのは、いろいろ読んだり、調べているうちに出現した。で、授業では、「ピテカントロプス・エレクトス」というクラブや、「桑原茂一」といった固有名詞の、その存在のありようを説明するのがむつかしい。日本で初めてできた「クラブ」ってことで、そのころ生まれた学生といまイメージを共有できるかどうか。まあ、基本的に無理なのだが、そこで「かっこよかった」と語った場合に、ではその、「かっこいい」とはなんであるか、そうやってつっこんで考えるのが僕には興味があったのだ。何度も書いているが、たとえば、スガ秀実さんが「文化的ヘゲモニー」と書いたときに、それはことによると「かっこいい」と同じ意味ではないかとか、あるいは、カントが書いた「趣味」についての論考は、さすがに「かっこいい」という言葉にはならないが、同様の、うまく言葉にできない「かっこいい」に近いなにかを言葉にしようとしたのではないか。
■といったわけで、一時間半ばかり。いろいろ話したが、「バブル経済」の時代について話すのを忘れていたことを、あとで
Power Bookに入れてあるノートを読み返して思い出した。早稲田では、「コンピュータは重い」という理由だけで、途中から手書きのノートにしたが、駒場は近いからいいだろうと思ったものの、キャンパスがすごく広くてやっぱりコンピュータは重いのだ。しかも、この日はアナログレコードを10枚くらい、それを再生するプレイヤー、本を何冊か、さらにビデオカメラと三脚まで運び(というのも本にするための記録用)、家を出るときは死にそうになった。授業を終えてからいろいろ考える。もう少しやり方があったかもしれない。

■早稲田の授業も準備が忙しいし、日々、読まなくちゃいけないものが多くてたいへんなものの、ヤクルトの青木が200安打したことに感動する。青木は早稲田出身だしな、関係ないけど。イチローなんかメジャーに移籍してから五年連続で200安打だよ。ものすごいよ。大変なんていってたらばちがあたる。

(17:10 oct.12 2005)


Oct.8 sat.  「ポスター展」

■神楽坂にある黒テントの劇場(なのかな)へ、黒テントポスター展を見に行った。もともと平野甲賀さんというデザイナーが学生のころから好きで、その宣伝美術にひかれ黒テントを観に行ったという経緯があるので、ポスターだけでもとても興味があったのだ。初期のころ、「演劇センター」の時代のポスターから最近作まで、どれもこれもかっこいい。それと一緒に「演劇センター」の機関誌ともいうべき「季刊・同時代演劇」や、当時の舞台写真などもある。「季刊・同時代演劇」を読みこんでしまった。面白いなあ。このころ書かれたことはいまの黒テントにどのようにつながっているのだろう。もう40年近く過去のことになってしまうのだな。
■最近の黒テントのフライヤーには松本大洋さんのイラストが多く採用されているが、もう20年以上前に観た、『与太浜パラダイス』のフライヤーやポスターでは、まだデビューしたばかりの大友克洋さんのイラストが採用され、このあたりの勘のよさとでも言いましょうか、センスのよさは黒テントならではのものだった。『与太浜パラダイス』で新人として登場したのが、亡くなられた金久美子さんだ。と、いろいろポスターなどを見ながら回想。
■帰り道、時間が過ぎて行くことや、すべてが過去になってゆくこと、そして忘れ去られたものたちは、記録に残されたもの現代演劇史として語られるもの以上に、まだ数多くあったと思うが、みんなどこにいってしまったのかと考えていた。それを「死者」という言葉で書くのは語弊があるかもしれないが、しかし、歴史に埋もれてしまった「死者」たちの声を蘇らせるようなことはできないだろうか。そんな舞台をやってみたい。すでに書いたが、「現代能楽集」の『鵺』はそのような作品になる。それも楽しみだ。

■やること山積。なにもする気がしない。
■ところで、『モンティ・パイソン正伝』という本が白夜書房から発売される。僕も少しだけ原稿を書いた。せっかくイギリス演劇についていろいろ教えてもらったのに、まにあわず、「一九五六年の革命」といわれた時代のイギリス演劇とモンティ・パイソンをつなげて書くのは次の機会にすることにした。でも、『モンティ・パイソン正伝』は面白いです。とてもためになる。これは一種のマニュアルだと思う。

(3:01 oct.10 2005)


Oct.7 fri.  「一段落ついて」

■金曜日の、文芸専修の授業を終えてようやく一段落ついた。舞台を観たり、小説の推敲をしたり、打ち合わせがあったり、原稿を書き、また授業があったりでこの二週間なんだか落ちつかなかったが、一息つく。小説に関しては担当のM君からメールがあり、時間、視点などの部分で手直しをしたほうがいいとの話で、やっぱりと思いつつ、また書き直しになるだろう。一文の「演劇ワークショップ」の後期はグループワークがテーマだが、五つにわけたひとつのグループに、正式な履修者が一人しかいなくて、ほかは皆、モグリの学生だとあとになってわかった。しかも、そのモグリの学生の何人かは、まったくやる気がないいいかげんな学生らしい。ここにわけのわからない学生が出現したのである。
「ぜんぜんやる気のないモグリの学生」
 わけがわからない。単位をもらうのが目的で授業に出席する正式な履修者があまりやる気がないというならわかるが、わざわざ、もぐっていて、やる気がないっていうのはいったいどういう料簡だ。わからない。
■文芸専修の学生から、このあいだ書いた環七沿いにある大型量販店「ドン・キホーテ」の話が面白かったので授業で話してほしいと言われたが、そのとき聞いて笑ったのは、最近早稲田界隈にも「ドン・キホーテ」ができた話だ。早稲田と言えば、住んでいるのは老人か学生だが、ところが、どこからやってくるのかわからないが、やっぱり早稲田の「ドン・キホーテ」にもヤンキーが来るという。どんな場所にあってもヤンキーは「ドン・キホーテ」にかけつけてしまうのだな。それもまたよくわからない現象だ。っていうか、「ドン・キホーテ」、ほんとヤンキーが好みそうな品揃えだったりするからね。豹柄のクッションとかね。誰が買うんだこんなものと思うものの、買うんだな、彼らは。
■というわけで、この三日ほど、このノートを書く余裕がなかった。これは、いわゆるウェブ日記という意味では他人をかなり意識しているが、意外と自分でも役に立つことがありあとで調べるとそのころ自分がなにをしていたかなど、いろいろわかって便利である。あれはいつだったか、どういう状況でなにをしたかなど、調べることがしばしばある。メモだけでもとっておくのはここを見に来てくれる人へのある種の表現というだけではなく、自分にとっても有効なのだった。で、三日ほど時間があいただけで過去を忘れる。なにしてたっけと、人の記憶なんていいかげんだ。水曜(5日)は「新潮」の松村君に会って小説を渡した。木曜(6日)は授業が二コマ。「演劇ワークショップ」と「演劇論で読む演劇」。一文の「演劇ワークショップ」は「新宿」というテーマでこれからしばらく作品制作をするが、まず手はじめに大きな模造紙に「新宿」の地図を描く課題。記憶だけで描くのが狙いだが、もうみんなでたらめな地図である。ただ興味深かったのは、僕など、新宿といったら「東口」だが、「南口」を中心に描いたグループがいたことだ。かつての「新宿南口」といったらなんにもないところで、新宿ではないとすら思っていたがいまは新宿の地図もどうやら変わっている。ただ、「西口」については誰も触れなかった。「西口」のあの中古レコード街のことを誰も知らないのだろうか。

■後期のはじめということもあったのか、どの授業もやけに人が多かった。もっと学生と話す時間があればと思う。忙しくてせわしないのがいけないな。で、きょうの夜は「吾妻橋ダンスクロッシング」のことで、桜井君と打ち合わせ。だいたいの方向は決まった。「言葉で踊るシリーズ」だが、これまでやったのとはまたちがう、なにかべつのやり方があるように思える。

(7:42 oct.8 2005)


Oct.4 tue.  「推敲とダンス」

■一日中、小説の推敲をしていた。まだ直せること、もっとここの表現はうまくゆくのじゃないか、出来事の不条理さを書けるのではないかと思いつつ、とりあえず担当のM君に渡して意見をあおごう。最初からなんどか読み直しては全体の整合性をまとめる。そのたびに読まなくちゃいけない。矛盾しているところとか、たとえば、さっきは雨が降っていたのに、数分後に雨が上がって道が乾いているなど、おかしな箇所を直す。三人称で一視点で書いていると、だったらこれ、一人称で書いてもべつに関係ないじゃないかと思うところもしばしばある。プリントアウトして編集者に渡すことになっている。ある程度、まとまったところで、データを送ったほうが効率的だ。
■「吾妻橋ダンスクロッシング」についてその後、桜井君からメールをもらい、「準備公演」でやったのはどうもちがうという内容だった。となるとお手上げだ。ただ、べつのことを考えもした。でもダンスの蓄積がないので、では新しいこととなると、どう考えていいかむつかしい。「言葉で踊るシリーズ」を作ってゆくにあたって、いま蓄積されているのは、「言葉」とそれを発する、南波さんのからだだけだ。この条件から出発するとしていったいなにができるだろうか。このあいだの、「吾妻橋ダンスクロッシング」の、「男子はだまってなさいよ」みたいにはしたくないしなあ。あれ、「笑い」として新しい刺激がなにもなかった。モンティ・パイソンはやっぱりすごかったんだな。
■小説の推敲で疲れた。というわけで、ここまで。

(9:38 oct.5 2005)


Oct.3 mon.  「恵比寿へ」

■東京都写真美術館へ。「恋よりどきどき」というタイトルのダンスカンパニーらによるインスタレーション展がはじまり、期間中、様々な催しものがあるようで、たとえばチェルフィッチュの岡田君とほうほう堂のコラボもあるらしい(詳しくはこちらへ)。そのオープニングパーティに呼ばれ、ニブロールの矢内原さんたちのインスタレーションなどを観た。それからまた、岡田君にも会って少し話をする。
■ところで、ほうほう堂という女の子二人のダンスグループのFさんはかつて僕のワークショップなどにも参加していたが、高校時代、いまはテレビドラマのプロデューサーをしているカシカワとたしか同級生だった。そのカシカワはいま、この10月からはじまるドラマの仕事でげっそり痩せたと聞いて、心配するというより、よかったじゃないかと思った。で、Fさんが電話してくれたのでカシカワと少し話す。仕事は大変そうだ。でも、考えてみるとすごいな。大学を出たのはついこのあいだだったような気がするが、若くしてもうプロデューサーなのか。カシカワは、もう何度も書いているように関西で開催したワークショップに参加していたが、同じワークショップに参加していた「あわわアワー」のM君はおそらくきょうも飲んだくれているのではないだろうか。それぞれの生き方だ。で、いろいろな人に会う。京都造形芸術大学の舞台芸術センターが出している「舞台芸術」という雑誌で、以前、インタビューを受けたとき写真を撮ってくれたカメラマンの方にもお会いしたが、こんど、青山真治さんの『死の谷95』が単行本化されるにあたって、その表紙の写真を撮るそうだ。
■「吾妻橋ダンスクロッシング」のプロデュースをした桜井君や、それに出演していた小浜夫婦にも会った。そこで桜井君から「吾妻橋ダンスクロッシング」でなにかやらないかという打診。面白そうだ。芝居ではないことをなにかやってみたかったので、つい引き受けてしまった。次の「吾妻橋ダンスクロッシング」は12月。時間がないよ。とても忙しい時期だ。大学もあるんだ。でも、ダンスってやつをやってみたいと思ったんだからしょうがないじゃないか。で、まあ、家に戻って早速、南波さんに打診のメールを書く。『トーキョー/不在/ハムレット』の、「準備公演」でやった詩人のダンスを少し手直ししてやってみたいと思った。あのとき、まわりに男が4人いたはずだが、どういう組み合わせだっただろう。

■小説の直しはほぼ終わった。さらに推敲。水曜日に渡すことにした。なんだかんだと忙しく、すっかり時間が経ってしまった。

(11:36 oct.4 2005)


Oct.2 sun.  「フランス語ばかり聞いていた」

■9月30日は久しぶりに大学で授業だった。すでに書いたように急に授業があると知ったのでもっと準備をしておくべきだったにもかかわらず、不備になってしまった。残念な授業だった。というのも、ある作家を取り上げるにあたって語るべきことはかなりあったはずだが、中途半端な話しかできなかったからだ。好きな作家だったわけですね。それで、ある意味、熱く語ってしまうおそれもあったわけだが、熱くならぬうちに舌足らずの話しかできなかったと反省した。だめだなあ。しっかりノートを作っておかなければと思うのだが、後期は、二文の授業で「演劇論で読む演劇」をやり、文芸専修で作家を取り上げ、駒場では、「八〇年代文化」についての講義をやりと、やたらとですね、準備の忙しい授業ばかりが続くことになったのだった。まあ、僕の興味の範囲の勉強なのでさして苦ではないものの、忙しさには変わりがなく、とんでもないことを考えてしまった。
■来週からはまじめにやろう。で、学校をあとにして、「現代能楽集」の打ち合わせのために三軒茶屋に急ぐ。道が意外と空いていたのでほぼ時間通りに間に合った。野村萬斎さん、パブリックシアターのMさんらと、なにを題材としてとりあげるかという話になった。そこで僕があげたのは、「鵺」である。まず、この字面がいい。そして、物語の切なさと同時に、鵺の悲劇には、歴史に埋もれてしまった死者たちの姿が見えてくるように思えたのだ。それででゆこうと話がまとまり、家に帰ってつらつら考えながらあることを思いつき、実現したら面白い舞台になると思ったのだった。楽しみになってきた。来年の2月にリーディングである。そして11月に本公演。意外に忙しい。今月の15日までにプロットを書くことになっている。
■そして小説は最後のつめになってきた。月曜日には渡そうと思う。これから編集者と詰めをし、直しなど、いろいろ出てくるだろうと思われる。いい作品にしたい。さらに岩崎書店の絵本の仕事も10月中に形にするし、『資本論を読む』のまとめ。青土社の『チェーホフの戦争』のゲラチェックもある。忙しいということにいま我ながら唖然としている。ま、なんとかなるだろう。

■そして土曜日、フランスの演劇人を招いて早稲田でシンポジュウムがあった。外国の演劇人と話をするととても刺激を受けるし、この国の状況との格差にいろいろ驚かされることはあるとはいうものの、そのままお手本にならないのは、基礎的なところで明確に異なることがあるからだ。たとえば、サブカルチャーとか芸能が、いかに演劇に浸食しているかについては、多くの日本の演劇人がたとえばテレビの影響を様々な角度から語る。状況があきらかに異なるのだろうな。テレビに対するスタンスがちがうとでもいうか。テレビの位置がフランスと日本じゃあきらかに異なるのでそこで議論がかみ合うことはあまりなかった。で、この国のいまの演劇を様々な人たちが語るとき、そうしてテレビがしばしば例として提出されるのは、「テレビ」から流れる情報という側面より、たとえば俳優が「テレビ」で仕事をしてはじめて、「俳優」として認められたり、生活が保障される面にある。するとおのずと俳優は「テレビ」をとりあえずの目的地として演劇に関わることになれば、表現もまたそれに準ずるだろう。だがそうしたことも含め、「テレビ」は結局、現象でしかないように見える。それが象徴するのは資本の運動の必然だ。その動きの激しさをどう受け止めるか。「資本の運動」のなかでいかに演劇(作品だけではなく、それに関わる、俳優、劇作家、演出家も含め)は存在できるのか。
■サブカルチャー、芸能、ポップミュージックやコミック、アニメなど、演劇以外のメディアが演劇になにかをもたらしたとしても、考えてみればそんなことはいまにはじまったことではない。現象だけではなく本質になにがあるかその意味を分析しないとだめなんだろう。もっと議論する必要があるのか、それとも議論しても仕方がないのか。そこで思い出すのは、唐突だが、花田清輝と吉本隆明の論争だ。花田清輝はマルクス主義者だったのでその文脈で吉本と論争したが、マルクスをまったく問題にしていなかった吉本には、花田がいくらマルクスを引用して論を展開したところでまるで意味をなさなかった。いわば、のれんに腕押しのようだったことで論争は吉本の圧勝だったという経緯がある(だがほんとうに吉本隆明は勝ったかどうかはここではおいといて)。たとえ、ある種類の演劇人が「芸術」という言葉で演劇を語り出そうとしても、その文脈とは異なるところで舞台を作っている者らにはまったく論理が通らないにちがいない。
■で、フランスを例にすると俳優の一部は国から身分を保障されいわば公務員として存在しているが、すると、「テレビ」や「映画」の俳優とは、まったく異なる「職域」になると想像する。「職域」の考え方がうまく浸透しないのは、もちろんフランスのような制度がこの国にないのはもちろんだが、どんな分野の「俳優」もやっていることがよく似ているからじゃないか。だからといって、舞台の俳優は、他の分野の俳優とまったく表現の質が異なるということで「職域」が分けられないのが現状だし、同時に、他の分野の俳優との差異を生み出そうとして表現を作り上げたとしたら、その意味がよくわからない。っていうか、それ、順番が逆のような気がする。だって、「テレビとか映画とは、ちがうことやるぞお」って意気込むとしたら、それあきらかに、そっちがメインだと認めたことになるじゃないか。
■シンポジュウムが終わってから神楽坂の日本料理の店で親睦会があったのだが、朝11時過ぎから、12時間近く、もうやたらとフランス語を聞いている一日だった。へとへとになる。それにしても通訳の方は大変な仕事だなあ。シンポジュウムはもちろんだが、親睦会のような食事のときもやはり通訳していなくてはならないのだ。すごいと思った。

■日曜日は小説の直しをしてしまおうと勢いこんでいたが、そういうわけで休む。疲れたのだな。なぜかやたらと眠い。先週はなんだかんだで忙しかった。で、そのぶん考える契機もいろいろあった。

(6:18 oct.3 2005)


「富士日記2」二〇〇五年九月後半はこちら →